碧天飛天の小説サイト

飛天の小説置き場です。本業絵描きですが萌えを吐き出したく作りました。二次創作からオリジナルまで色々予定してます。無断転載を禁じます。よろしくお願いいたします。母艦サイトはBLUE HUMAN http://d.hatena.ne.jp/hiten_alice/ です。

ダイバーダウン(全年齢バージョン)

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prologue


「すごいなあ、かっちゃん」
 そう無邪気に話しかけてくる柔らかく高い声。
 振り向くと俺の後ろを小柄な子供が後を付いて来ているのが見える。よたよたした転びそうな足取り。少しスピードを落して歩みを合わせてやる。
 ここはよく遊んだ裏山の森だ。薄っすらと黄色や赤に色づいた木々の下の小道を、さくさくと木の葉を踏んで歩く。 風が枝葉を震わせて木漏れ陽を散らす。チチチと木霊する名も知らない野鳥の鳴き声。
 後ろをついてきている誰か。顔は霞がかかったように朧気で思い出せない。名前もわからない。けれども、俺はそいつが気になってしょうがない。遅れずに付いて来ているかと振り向いては、いるのを確認して安心する。
 見失ってはいけない。あれは俺のものだ。大切なものなのだと心のどこかが知らせている。


1


 俺の頭から何かが抜け落ちている気がする。
「おはよう」
「爆豪、お前大丈夫か?」
「おっはー、爆豪、もう学校来ていいの?」
「マジでもう大丈夫なのかよ」
 教室に入るなり、クラスの奴らが俺に口々に喋りかけてきた。いつもそんなに話したりしねえ奴まで聞いてくるので、ちょっとイラっとする。
「何がだよ」
「何言ってんだ。ヴィランが出たんだろ」
「ああ?」
 そうだ。俺は夜に学校を抜け出そうとして、門外でヴィランに会った。それからどうなったのかは覚えてない。気づいたら保健室にいたのだ。こいつら俺を心配してんのかよ。うぜえ。俺を気遣うんじゃねえよ。
「うるせーぞ、お前ら。授業始めるからさっさと座れ」
 相澤先生が教室に入って来たので、慌てて皆は席に戻っていった。壇上に立つと、相澤先生は眠そうな目で教室を見回して口を開く。
「あー、皆知ってのことだと思うが、昨晩校門の前でヴィランが出没して、爆豪が襲われた。幸い先生達が駆けつけて撃退したがな。攫うつもりだったのかどうか、現在取り調べ中だ」
「またかよ。お前、よほどヴィランに好かれてんだな」
「うるせえ!」
 上鳴に揶揄されて俺は声を荒げる。嫌なこと思い出させやがって。
「爆豪の記憶に多少の混乱が起きてるようだが、学校生活に支障はない程度だ。皆もそのつもりで暖かく見守ってやってくれ」
 相澤先生の言葉でまた教室が騒がしくなる。
「混乱ってなんだ、爆豪。記憶喪失かなんかなのかよ」切島が問うてきた。
「何も忘れてねえよ」
「俺の名前覚えてるか?」
「俺の名前は?」切島に続いて上鳴も続いて聞いてくる。
「なめとんか!知っとるわ、クソ髪アホ面のデッドエンドコンビだろーが」
「ひでえ。グレードアップすんなよ。赤点コンビでいいだろ。うわ、自分で言っちまった」
「なんだよ、いつもの爆豪かよ」
 他の奴らも口々に「俺の名前はわかるか?」と聞いてくるので苛々してきた。
「うるっせえ!入学してからの記憶はまるっとしっかりあるってんだ」
 一人を除いて高校から知り合った奴らばかりだ。 でもクラスメイトの名前も個性も全部覚えてるようだし。記憶に混乱が起きてると言われても、 比較材料がないから断言できないが。確かにこれからの学校生活に問題はない。
 でも何だろう。何か足りない。俺はいつも苛立っていたような気がする。だがなぜ苛立っていたのかが思い出せないのだ。
「いつまではしゃいでるつもりだ。静かにしろ。さっさと教科書開け」
 先生の一言でざわついた空気が静まり返った。俺は教科書を開いて頬杖をつく。
 同じ中学から来た奴はクラスにひとりいる。小学校も一緒だったはずだ。はずだというのは、入学以前のこいつは記憶にないからだ。クラスが違ったんだろうか。俺はそっと後の席を振り向く。緑がかった髪のそいつは目が合うとビクッと反応し、そっと問うてきた。
「その、大丈夫?」
「は?別に」
 そいつの袖口からちらりと腕に巻かれた包帯が見えた。よく見ると鎖骨あたりにも包帯が巻かれているようだ。俺は前に向き直る。人のこと言えんのかよ。てめえも怪我してんじゃねえかよ。少しだけいらっとした。
 窓の外に目をやる。夢で見たような色づき始めた樹木。こいつ、デクはいつも俺の後ろをついてきた幼馴染とは別人だ。もしあいつだったら顔見てわからないはずがねえ。毎日裏山や公園で遊んだ。家にだってよく遊びに行った。そういう奴をいくらガキの頃だからって、見分けられねえわけがねえ。感情的に繋がらないはずはねえ。
 それに顔のわからねえあいつは無個性だったはずだ。それだけは確かだ。だからデクはあり得ねえ。
 デクはクラスでもトップクラスの個性を持ってやがる。童顔に似合わねえパワー増強型の個性。あんな派手な個性持ちの奴に覚えがないなんて変な話だ。だが小学校でも中学校でも原則的に個性の使用は禁止だったから、あまり周りに見せてなかっただけかも知れねえ。使えば身体が壊れるような自壊型の個性なんて、そうそう使用できるもんでもないだろう。
「次の単元は伊勢物語 芥川だ。予習してこいよ。今日はここまで」
 授業が終わり、相澤先生は気怠げに教室を出て行った。休み時間になると、クラスメイトが俺の机を取り囲んだ。
「緑谷のことも、覚えてるんだよな」と上鳴がちょっと躊躇ってから尋ねる。
「ああ、デクだろ」
「んん?お前、つっかかんねえんだな」
「は?」
「さっきもだけどよ。なんかフツーに緑谷と話してたし。いっつも名前出すだけでも怒ってたじゃんよ」
「はあ?別に腹立たねえのに、なんで怒んなきゃいけねえんだ」
 上鳴は「ほおー」と感心したんだか驚いたんだかわからない声を上げる。確かに最初の授業で俺は奴に負けた。結構前のことだが、それからずっと根に持っていると思われてんのか。いくら何でもそりゃねえだろ。
「なあ?」
 と言いながら後ろを向くと、デクは慌てて開いていた本で顔を隠した。
「おい、何顔隠してんだ」
 本を取り上げてなぜかびびってるデクに問うと、「な、なんでもないよ」とデクは顔を隠すように机に突っ伏してしまう。
「まあまあ、爆豪、腹立ってねえんだろ。ほら、他の奴も確認しなきゃよ。な?こいつは?」
 上鳴は焦った様子で言うと適当に周りを指差した。
「俺の名は覚えてるか」
 通りがかった半分野郎が興味なさげに口を開く。
「轟」
「正解だ。よかったな爆豪」
「舐めてんのか、てめえ!」
「まあまあ、次、次行こうぜ、爆豪、ほら、こいつは?」
 次々名前を答えながらも、後ろの席のデクが気になってしょうがない。デクは俺の顔を見るとおどおどしやがる。強えくせにわけわかんねえ。そりゃ負けた時は腹が立ったんだろうけど。もうどんな気持ちだったか覚えてねえよ。いまだにそれを引きずるわけねえだろ。俺をそんな偏狭だと思ってんのかよ。逆に腹立つぜ。
 ちょっと言ってやるかと後ろを振り返った。が、デクがいねえ。教室の中を見回すと窓の側で飯田や麗日とだべってやがるのが目に入った。
「デク、おい」と言い、席を立とうとすると「まあまあ」と慌てた口調の切島に宥められた。
「あっちはあっちでつるんでるわけだし。こっちはこっちでさ、な」
「別にお前らとつるんでるつもりはねえよ。てめえらが寄ってくるだけだろ」
「ひっでえな。つーか、爆豪の平常運転だな」
 同じ中学出身とはいえ、あいつはあいつの友達がいるし。俺にもいつの間にか取り巻く奴らがいる。普通のことだ。だが何かいらっとする。さっきも感じた。時々何故ふいに苛つくのだろう。


 夕食の前に親に「ちょっとだけだからよ」とことわって外に出た。
 俺は近所の幼馴染のいる団地に駆けていく。あいつも俺も一人っ子だから、家に帰ると親しかいねえ。だから暇してるだろうと時間を問わず気兼ねなくしょっちゅう遊びに行った。
 ドア横のチャイムを押して名を呼んだ。あいつはすぐにドアを開けて出てきて、いつも顔を輝かせて俺を見る。
 あいつはヒーローオタクだった。ヒーロー図鑑といっていいくらい名前も能力も色々知っていた。その知識にも分析・解析にも舌を巻いた。特にオールマイトのことは夢中になって喋った。オールマイトは俺にも憧れだから、あいつと話していると話が尽きなかった。
 あいつはオールマイトグッズのコレクターだった。多くはない小遣いをほぼグッズにつぎ込んでいた。部屋に行くたびにどんどん増えるグッズには驚くというより呆れた。
「こんなに必要かよ。棚も壁もごちゃごちゃして台無しじゃねえか」
「だって、また新しいのが出たんだもん。このフィギュアは新作で」
 と新作のフィギュアを手にしたあいつにひとくさり説明を聞かされる。
「いくらあっても足りないのかよ。欲張りな奴だな」
「うん」とあいつは頷き、フィギュアを胸に抱いて言う。
「いくらフィギュア集めたってなあ、てめえに個性が出るわけじゃねえぞ」
「そんなこと思ってない」とあいつは言って、きゅっとフィギュアを抱きしめる。
「でも……かわりなのかも。本当に欲しいものは目に見えないものなんだ。それが手に入るなら死んでもいい」
「あほか。死んだら終わりだろうが」
「違うよ、例えだよ。なんでも持ってる君にはわからないかも知れないけど」
「ああ、わかんねえな」
「いいなあ、かっちゃんは」
 あいつはよくそう言っていた。身体も小さくて無個性なこいつには、欲しいものが沢山あるんだろう。俺に真っ直ぐ向けていた瞳で、時折何処か遠くを見つめるようになった。
「そのうち俺がヒーローになったら、俺のフィギュアも飾るんだろうな」
 俺が言うと、あいつは一瞬きょとんとして「あはは」と笑った。いらっとして「飾るんだろうな」ともう一度聞く。
「俺がヒーローになれないとでも思ってんのかよ。ああ?」
 そう言って威嚇すると、あいつは慌てて言い訳した。
「そうじゃなくて、いつも近くにいる人の似姿のフィギュアを飾るのはないかなーと」
 そうじゃないだろう。わかってんだよ。てめえはオールマイト以外は飾る気がねえんだ。他のヒーローのフィギュアも持ってるくせに、飾ってるのはオールマイトだけじゃねえか。そこで冗談でも飾ると言わないのが酷く憎らしくなった。拳を握ってもう一度尋ねる。
「俺のフィギュアも飾るんだろうな」
 気に入らない返事をしたら殴ってやる。



 草を踏み分ける足音が微かになった。ついてきているかと不安になり振り向く。霞のかかったように顔がわからない誰かが、離れてしまっているのではないかと。裏山ではぐれてしまったのではないかと。
 
 つんつんと背を突付かれる。弾かれたように後ろを振り向く。
「寝てちゃダメだよ」
 デクが声を潜める。居眠りをして昔の夢を見ていたらしい。後ろの席に座っているのは幼馴染じゃなくデクだ。一瞬あいつかと思った。
「寝てねえよ」
 と言ったものの眠っていたのは歴然だ。ノートにはミミズがのたくったような文字が踊っている。めんどくせえ。
 さっき思い出した昔の出来事を反芻する。うきうきとしたりムカついたり、感情の付随する思い出だった。あいつの家にしょっちゅう遊びに行っていたこととか、いちいち何があったかなんて映像的な記憶でしか覚えちゃいねえ。けれども、その時の感情を覚えている思い出もあったのか。
 あの後あいつはなんと返事をして、俺はどうしたんだろう。それよりノートの酷い字を消さなくては。だが消しゴムが見当たらない。机の周囲を見回したがない。落としてどこかに転がっちまったか。俺はもう一度後ろを振り向く。
「なに?先生に見つかっちゃうよ」デクは驚いた顔をしてひそっと言う。
「おい、消しゴム貸せよ」
「え?」
 デクの返事を待たずに勝手に消しゴムをひったくり、ゲシゲシと使って返す。
「ほらよ。別にいいだろ」
「う、うん」
 普通に接して普通に話してるつもりなのに、デクはなぜかびっくりするような顔をする。どこか愉快だ。地味な奴なのに何故かどこにいても目につくので、近づいてちょっかいをかけたくなる。
 昼食の時間になった。
「何処行くんだよ、爆豪」と上鳴に声をかけられたが「気が乗らねえ」と売店に向かう。
 食堂で食う気がしない。パンを買って屋上に続く階段を登り、扉を開ける。屋上に踏み出すと濃い影が足元に落ちた。紺碧の空の下。ここで食うのは気持ちよさそうだ。眩しく白い貯水槽の向こうに先客が見えた。屋上を囲む金網を背にして座り込んでいる。
「よお、デク」と俺は声をかける。
「え、え、何で君が」
 デクは開いていたノートを閉じた。横にも数冊のノートが積まれている。デクはそれを隠そうとするように掌をノートの上に載せる。
「お前もパンかよ。食堂に行かねえのか」
「うん、今日は」
「俺もだ」
 俺はデクの方に歩み寄ると、隣にしゃがんでパンの袋を破る。デクが目を丸くして聞く。
「え、ここで?」
「別にいいだろ」
「ああ、うん、君がいいなら」
「俺が?いいから座ってんだろ。変な言い方すんなよ」
「そうだね、ごめん」
 焼きそばパンに齧りつきながらノートを見やる。
「それ、お前のか」
「え?うん、そうだけど。あ……、待って」
「隠してんじゃねえよ」
 ノートの上からデクの手をどけると、表紙にマジックで書かれた文字が目に入る。
「ヒーローノート?」
 ふっと記憶の中に似たものがあったような気がした。熱心にノートを書いていた誰かの姿。
「見てもいいか?」
「ええ?」
 やけに驚くデクの返事を待たずに、1冊手に取ってページを捲った。ノートの中にはクラスの奴らの個性か図解入りで載っている。注釈もついてどれもびっしりとページが埋めてある。
「すげえな」
「そ、そうかな。今日体育があるだろ。それまでに皆の個性を確認して書き加えておきたくて」
「俺のもあんのか?」
「君のは、ある、けど」
「けどってなんだよ。当然あんだよな。あんなら見せろよ」
「そんな、面白くないよ」
「はあ?俺の個性が面白くねえってのか」
「違うよ、君の個性は凄いから、面白くないなんて」
 デクは慌てて否定する。こいつが俺を評価してんのはわかってて言った。こう言えばことわれねえだろ。
「だったら見せろよ」
 それでも押し問答の末、デクはやっと一冊のノートをそっと差し出した。縁が焦げてページが水濡れした後みたいにうねっている。
「なんか、これだけボロっちいな」
「それは君が……」
 と言いかけて何故かデクは言葉を切る。
「何だよ」
 と促すとデクは小声で「古いノートだからね」と曖昧に言葉を濁す。ちょっと引っかかったがとりあえずノートを受け取る。
 俺が表紙を摘まむ指に、デクは何故か心配そうに視線を送ってくる。
「んだよ、汚したりしねえよ」
 焦げたページの縁を破らないようにそっと捲る。早速1ページ目に俺の図解が現れた。
「これ俺かよ。なんか他のやつより背が小せえな」
「あ、あれ?そんなのあった?子供の頃の君だから。あ、偶々君を見かけたことがあったんじゃないかな。その時に書いたんじゃないかな、きっと、君はほら凄い個性で近所で有名だったから」
 デクは言い訳するように早口に捲したてた。ごまかそうとしてるみてえだ。だが、子供の頃の思い出にデクみてえな奴はいない。幼馴染の奴を全部覚えてやしねえけど、一緒に遊んでたんなら、こいつがいたんなら覚えてる自信がある。
「お前、家近所なんだろ。学区が同じなんだからよ。見てねえで一緒に遊んだらよかったのによ」
「それはまあ。それより、その次のページに大きくなったかっ、……君の図解もあるよ」
 急かすのでページを捲ると、デクの言う通り次のページにはコスチューム姿の俺の図解があった。機能についての解説もついてる。
「俺がガキの頃もこういうことが好きな奴がいたぜ」
 あいつもよくノートにヒーローを書いていた。自由帳じゃなくこんな感じの大学ノートに何冊も。中身を見たことはないが覚えている。
「へ、へえ、そうなんだ。奇遇だね。僕は知らないけど」
「お前、同じ地区で同じ学校にいたのなら、ちったあ知ってんじゃねえの」
「昔ことだし、覚えてないよ」
「そうかよ。そうかも知れねえな」
 子供の頃の記憶なんてぼんやりしたものだ。遊び友達だって毎回決まったもんじゃないし、クラスが変われば話もしねえ。ガキの頃俺の周りにいた奴らは、名前だってテキトーに呼んでたし、ちゃんと覚えてやしない。
 でもあいつの名前だけは忘れるわけがねえ。俺が渾名を付けたんだから。素直で揶揄うと面白いから、思い付きで付けた渾名でずっと呼んでた。なんて名前を付けたんだろう。なんで忘れてるんだろう。
 あいつは俺を「かっちゃん」と呼んでた。ころころした鈴みたいな声で呼ばれると胸が温かくなった。それは覚えてるのに。胸にポッカリと開いた穴。このまま忘れちまうんじゃないかという焦燥感と喪失感。
 でも何故だろう。デクと話していると宙ぶらりんな不安が紛れるような気がする。
 パンを食い終わって、デクはジュースを飲み切らないまま下に置くと、胸ポケットからシャーペンを取り出してノートに書きこみ始めた。はじめはちらちらと俺を気にしていたが、次第に書くのに没頭してきたようだ。
 カリカリと紙をシャーペンが滑る音。さわさわと吹き抜ける心地いい風。眠くなってきた。ちと睡眠取るか。丁度いい枕もあるし。こいつは嫌と言わねえだろ。そんな気がする。
 俺はデクの膝に頭を乗せた。ちと筋肉質で硬めの膝枕だな。男の膝だしな。
「ちょ……え?かっ、君、どうしたの」
「10分経ったら起こせよ」
「教室に戻った方がよくない?」
「うっせえ、今眠いんだ、今寝てえんだ。黙って膝貸せよ」
 蒼い空に淡く白い三日月がふうわりと浮かんでいる。幻のような昼中の月。
 眠りに落ちる前にデクの呟く声が聞こえた。
「君はそんな人じゃないはずだろ……」
 少し寂し気な声音に聞こえたのは微睡の中だったからだろうか。


 午後の体育の授業はリレーだ、高低差のある建物の間を縫って進むコース。上を行っても下を行ってもいい。
 建物の上を爆破で跳んで俺がバトンを渡すと、デクはポンポンジャンプして障害を飛び越える。あいつのパワーはどこから来るんだろう。反動つけてるとはいえ軽く蹴るだけで高く跳んじまう。パンチだってそうだ。俺みたいに爆風じゃねえし。筋力にしては、あれじゃまだまだ筋肉量足んねえだろ。そういう個性だっつったらそれまでだけどよ。それにしても。
「お前の動き、俺の真似だろ」
 待機場所に戻って来たデクに話しかける。
「う、うん。わかっちゃった?」
 デクの語尾が小さくなる。まるで俺に怒られると思ってるかのように。
「責めてねえ。別にジャンプ自体が俺のオリジナルっつーわけじゃねえし。お前、やっぱり俺をよく見てやがるな」
「君はすごい人から」
「まあな」
 素直に褒められて悪い気はしない。だが奴が不思議そうな顔をして俺を見る。
「怒らないんだね」
「だからよ、なんで俺が怒るんだ。俺がすげえんだろ。てめえが真似ても俺ほどじゃねえしな」
「それはそうだよ。まだ君には全然追いつけない」
 ふっとデクの唇から笑みが溢れる。初めて俺の前で笑ったんじゃないだろうか。胸がじんわりと温かくなる。他の奴らにはいつも見せてる笑みだ。いつも俺の前では何故か強張った表情しか見せなかった。気にしないようにしても引っかかって、多分少しムカついていたのだということに、今気がついた。
 向こうでデクを飯田が呼んでいる。
「じゃあ……」
 と言うとデクは走ってゆく。思わず俺は手を伸ばした。が、届かない。俺は引き止めようとしたのか。なんで。空を掴んで腕を下ろす。
「絡まれてたんじゃないのか、緑谷くん」
「飯田くん、違うよ」
 飯田の声はでかい。あの野郎、会話聞こえてんだよ。俺がデクに何かするとでも思ってんのかよ、クソが。ムカついて怒鳴ろうとしたところを、背後から唐突に肩を小突かれる。
「んだよ!殺すぞてめえ!」
 威嚇しながら振り向いた。切島と上鳴がニヤニヤと笑っている。
「俺らもお前呼んでたんだけどな、気づかなかったのかよ」切島が言う。
「はあ?てめえ声ちっせえんじゃねえのか。聞こえねえよ」
「最近よく緑谷と話してるよな。爆豪。怒りもせず」上鳴が言う。
「だからなんで俺が怒るんだ」
「常識じゃあそうだけどよ。お前、緑谷には何かっつーとすぐ怒ってたしよ」
 切島の言い方だと俺が常識ねえみてえだぞ。あるわ。
「ちょっと前だって夜中にあいつと大喧嘩して謹慎食らってたじゃねえか」
 上鳴が言うその喧嘩をした覚えはある。とても頭にきていたとも思う。なんでそんなに怒ったのだろう。その時の感情は覚えてない。処罰されて寮内をあいつと清掃したことも覚えているのに。
「うるせえ。なんか文句でもあんのか。俺はしたいようにしてんだ」
「いやいや、勿論いいに決まってんじゃん。捻くれてねえ揉めたりしねえお前はすごくいい!元気なガキ大将みたいでよ」
「なあ、轟もそう思うだろ?」
 上鳴は振り返り、たまたま背後にいた轟に呼び掛ける。いきなり話を振られたものの、轟は即答する。
「いや、気味がわりいな」
「ああ?喧嘩売ってんのか!」
 俺は頭にきて掌から火花を散らし威嚇する。轟の野郎はいつも言葉の端々に天然の優越感みてえなものが垣間見えて苛々する。
「ちょっ、轟。お前……、なんでそういう」上鳴は慌てて言う。
「俺はそう思うってだけだ。気を悪くしたんならすまねえ。じゃあな」
 口では謝りつつ、轟は全く悪びれた様子もなく去った。あいつなんなんだ。
「まあ、喧嘩すんのも仲がいいとかいうけどよ。緑谷とお前はどう見ても違ったしな」
「グラウンドベータで殴り合って、分かりあったのかも知んねえな。熱いぜ男らしいぜ!ベタだけどいいぜ!」切島が言う。
「だからもうお前らのことは安心していいのかなーと思ってよ」上鳴が言う。
「余計なお世話だ」
 神野での敵との戦いでオールマイトがボロボロになって再起不能になった。それが俺が敵に攫われたせいだと思うとものすごく辛くかった。
 グラウンドベータでの喧嘩。俺はデクに。デクに八つ当たりしたのか?なんであいつに?胸がざわりと冷える。忘れちまったらいけないものを忘れてるんじゃないのか。
「お前らが仲よかった頃ってのはそういう感じだったのかな」
 切島の言葉に考え事から引き戻される。
「嘘だろって思ってたけどよ。昔は今のお前みたいだったんなら、緑谷の言うことも納得できるぜ」
「ガキの頃は気が合わなくても、近所の奴と遊ぶだろ。成長するにつれ段々気の合う奴と付き合うようになるってもんで。お前らもそんなもんだろって思ってたぜ。でもお前見てると違ったみてえだな」上鳴が言う。「お前は選んであいつといたんだな」
「すっげー、気を許してるもんな。いっつも気を張ってるお前が、見たことねえくらい自然体でよ」切島が言う。
 今なんて言いやがった?話の流の中に聞き流せない言葉があり、俺は問い返す。
「あいつと仲の良かった頃?」
 記憶ではガキの頃の遊び仲間の中に、あいつの顔はない。
「どういうことだ?」
「どうって、俺はお前らから聞いたことしか知んねえんだけどよ」上鳴が言う。
「お前ら幼馴染なんだろ。小学校以前からの。おい、爆豪、待てよ」
 切島の声を背に俺は走り出した。どういうことだ。俺はデクの姿を探した。デクは嘘をついていたのか。この俺に。俺を騙していたのか。ふつふつと怒りが湧きあがってくる。あいつがこの俺を。漸く建物の陰に飯田と連れ立って歩いているデクを見つけた。近くまで駆け寄る。デクが飯田から離れたのを見計らい、肩を掴む。
「おい、デク!」
 デクはビクッとして振り向いた。
「てめえは俺を……」
 と言いかけて止める。騙されていたのかと思った途端頭が沸騰したが、そもそも俺が覚えてないならデクも覚えてないだけかも知れねえ。こいつが俺を騙すわけがねえ。だがなんだろう。こいつに騙されてたと思った途端怒りに我を忘れた。
 デクはおどおどと俺を見つめる。初めから訝しく感じてたが、デクはなんでやたらと俺を怖がってるんだ。強えくせに俺だけにこの態度。釈然としない。穏やかそうなデクのこんな一面を見るたびに心にさざ波が立つ。
「えっと、何か用なのかな」
「何って……、お前」
 どう聞けばいいのか。出久はじっと見つめてくる。見透かすような視線。落ち着かなくなる。こんな眼差しを昔どこかで見たことがなかっただろうか。
「こっち来い。用があんだよ」
「緑谷くん」
 飯田はまた心配そうにこっちを見ている。いつもなんなんだ、あいつ。いらっとする。俺がデクに何かするとでも思ってんのか。
「聞きたいことがあんだよ」
 とデクに言い、手を掴んでクラスの奴らのいるところから引き離す。
「先行ってて」
 とデクは飯田に告げる。寮へ向かう道を歩きながら問う。
「おい、お前は知ってんだろう」
 まず覚えてねえのかどうか、かまをかけてみる。
「何を?」
「聞いたぜ。お前も幼馴染なんだろうが。悪いが俺は覚えてねえ。だけどそんなら、知らねえわけねえよな」
「何を僕が知ってるっていうんだ?」
「俺の幼馴染に無個性の奴がいただろ」
 デクの表情が固まった。目を見開き、ふるふると首を振る。嘘のつけねえ奴だな。これではっきりした。デクは知ってて隠してやがったんだ。
「お前も知ってんだな。そいつの名前わかるか。わかるんなら教えろよ」
「なんでそんなこと聞くんだよ」
「言っただろうが。幼馴染いたって。だけど思い出せねえんだ。顔も名前も。思い出してえんだよ」
「僕は知らないよ」
 デクは目を泳がせる。こいつ、しらばっくれてやがる。寮に到着したが、中には入らずに玄関の脇にある側道にデクを引っ張っていく。校舎と寮の壁に左右を挟まれたこの場所なら、誰にも邪魔されずに二人きりで話せるだろう。
「嘘つけ。顔に書いてあらあ。教えろよ」
 そう言ってデクを壁に押し付け、両肩を掴んで迫る。だがデクは「知らないよ」と言いながらまた目を逸らす。
 こいつ、ぜってえ知ってやがる。なんで隠すんだ。壁に手をついて囲い込み逃さないようにする。
「どうしても知りてえんだ。教えろよ」
「今更だろ。そんな子供の時のことなんか聞いてどうするんだよ」
「会わなきゃいけねえんだ」
「それこそ意味ないよ。今どうしてるかなんて。きっともう生活も違って新しい友達がいるよ」
「お互いそれぞれ友達ができたからもういいなんて、そんな簡単なもんじゃねえんだよ、あいつとは」
「そんな……、ことは」
 何かを言いかけてデクは俯いてしまう。前髪に隠れて表情が見えない。理由、言うしかねえか。仕方がねえ。
「俺はそいつが気に入ってたんだよ。兄弟なんていねえからわかんねえけど、そんくれえ近くに思ってた。いつも側にいたんだ。なのに顔を名前も忘れちまうなんて、どうしてだかわかんねえよ。だけど会いたくてたまらねえんだ」
 憶測だが間違いねえ。でなきゃこんなにそいつが俺の心を占めやしねえ。
「多分好きだったんだ、俺はそいつが」
 俺のだったんだ。という言葉は飲み込む。俺はそう思っていた。心に空いた空洞はそいつに会えば埋められるはずだ。
「そんなわけないよ」だがデクは即座に否定した。「君と彼は仲良くなかったよ」
「てめえ、やっぱり知ってんだな!」
 肩を掴んだ手に力が篭る。出久は「しまった」という顔をして黙りこむ。
「嘘つくんじゃねえよ。いつもつるんでいただろーが。俺は記憶はあんだよ」
「本当だよ。はじめは彼は君を慕って追いかけていたよ。でもだんだんおかしくなっていって……」
 言葉が途切れていったが、デクは溜め息をついて言いにくそうに続ける。
「君は彼を虐めてたんだ。皆みたいに放っておけばいいのに、君だけがずっと。だから彼はもう君に会いたくないと思う」
 頭の中を殴られたように衝撃をうけた。あいつと喧嘩している記憶が映像的に浮かんでくる。喧嘩したこともあるんだろうくらいに思ってた。喧嘩じゃなくて虐めていたっていうのかのか。
「俺はそいつを、嫌ってたのか」声が震える。「なんでだ。憎んでたのか?何かあったのか?」
「君の気持ちなんか知らないよ」
「ならそいつの考えもてめえが決めんなよ!」
 気持ちが抑えられなくなり、俺は怒鳴った。気圧されたようにデクは怯んで守るように鞄を胸に抱える。
「とにかく僕は知らないから」
 おどおどしながらも話をかわそうとするデクにイラつく。声を聞きつけたのか、クラスの奴らがやって来た。「おいどうした」と声をかけられる。その隙に出久は駆け出した。
「おい、待てよてめえ!話は終わってねえ」
「なんだなんだ、爆豪。折角いい感じだったのに、まだ前に逆戻りかよ」
 上鳴が揶揄うように言いながら、俺を引き止める。
「うるせえ!邪魔すんな!クソが!」
 俺達が仲が悪かったとか、デクのこととなると俺は頭に血が上るとか。クラスの奴らはいつも言う。そういうことがあったらしいという記憶はある。だけど、感情は忘れちまった。今そうじゃねえし。いつまでも同じ感情を1人の奴に持ち続けることなんてねえだろ。それともあんのかよ。
 感情を忘れてるっておかしいのか。親に聞くか?いや、それは最終手段だ。なんで忘れてんだって聞かれっと面倒だし、もう学校側の責任とか追求されるのは御免だ。手掛かりはすぐ側にある。逃げられると思うなよ、デク。


3


 昔の夢を見ている。あいつが他のやつを庇って立ちはだかる。また俺に抗うのかよ。俺は怒って殴りつける。
「ダメだよ。かっちゃん。殴られても僕は聞けないよ」
 あいつは頭を庇いながら弱々しく言い返してくる。
「てめえ!俺に逆らって他の奴の肩を持つのかよ」
 そんなのありえねえだろ。怒りのあまり、手を伸ばしてあいつの肩を掴んで地面に引き倒す。庇ってた奴は一目散に逃げた。
「あの野郎、てめえを放って逃げたぜ。ざまあみろ」
 笑ってやろうとあいつの顔を見下ろす。だがあいつはホッとした顔をしている。驚いて、次に腹が立った。服を掴んであいつの名を叫ぶ。
 けれども、名前を呼んで罵倒しているはずなのに、自分の声なのに、なんて呼んでるのか聞こえない。顔を近づけてるのに、靄のかかったように顔がわからない。
「無個性のくせに生意気なことすんじゃねえ!何にもできねえくせに」と俺は怒鳴る。
 怒りと憤りとで胸が潰れそうに苦しい。
 ふらふらと足が向いてあいつの住んでる団地の前に来る。静まり返った階段を登る。昨日も今日もあいつは公園に来なかった。
 今までどんだけ小突いても、べそかきながら俺の後をついてきやがったのに。ドアの前に立って呼ぶとあいつはすぐに出てきて、俺をヒーローを見るみたいにきらきらした目で見ていたのに。
 あいつが側にいるから俺は自分がヒーローだと思えたんだ。今までと何が違うっていうんだ。あいつが、無個性だからか。それを認めたくねえからか。自分が納得できねえからって。俺を巻き込むんじゃねえよ。大抵の奴は大した個性持ってねえんだ。たとえてめえに個性があったとしてもどうせ大したことねえに決まってんだ。逆らったりしないで俺の後ろをついてくりゃいいだろーが。弱い奴は強い奴に付いてくるもんだろ。虎の威を借るっていうじゃねえか。
 ドアの前に立つ。呼び鈴を押そうとして躊躇する。この扉の向こうにあいつがいるのに。 名を呼ぼうとしても声が出せない。なんで俺があいつを呼ばなきゃいけねえ。なんで俺が追わなきゃいけねえんだ。怒りなのか憤りなのか。なんなんだ胸に渦巻くこの嵐は。悲しいのか俺は。


 目を覚まして飛び起きた。今あった出来事であるかのようにリアルだ。あれは過去に確かにあった出来事だ。映像的な記憶でしかなかったのに。 家に来たのにドアを開けなかった。あの時俺は開けられなかったのか。
 くそっ、目を覚ます直前に名前を呼べばよかった。思い出せたかも知れねえのに、畜生。なんて呼んでたのかその名前がわからない。想い出そうとしても顔が思い出せない。現実に起きた出来事だという認識はあるのに。なんて苦しい記憶なんだ。苦しくて辛くて胸が締め付けられるみてえに痛え。
 なのに僅かに手掛かりを得たことに心が変に甘く騒めいている。俺の感情が手掛かりだ。
 デクと話すようになってから何故か、昔の記憶に付随していた感情が次々と甦ってくる。色のないモノクロの下書きに鮮やかな彩色がほどこされるように。
 夢の中のあいつは誰なんだ。なんでこんなにも胸が痛いんだ。顔も名前も知ってるはずなのに。なんでそいつのことをデクは隠すんだ。やっぱりデクから聞き出してやる。
 聞き出して探しだして会いに行く。今更だろうが何だろうが構うものか。会えばなんとかなんだろ。
 あいつの言うように俺はなんでも持っていた。あえて欲しいものなんて何もなかった。欲しいものは目に見えないとあいつは言った。名声や栄光や人望は目に見えないけれど儚いものだ。人の秤で測るものなんか欲しくねえ。
 欲しいものなんてなかったんだ。あいつは俺のものだったから。思う前に既に俺のものだったから。あいつを無くして初めて気づいたんだ。今の俺が欲しい唯一のものははっきりと目に見えるし触れられた。確かな体温と歪な心と危うい魂を持った一人の人間なんだ。


「白玉か何ぞと人の問ひしとき露と答へて消えなましものを。この和歌の現代語訳を答えろ。はい、八百万」
 一時間目は古文の授業だ。相澤先生に当てられた八百万は、起立してきびきびと答える。
「あの人があれは真珠ですかと尋ねた時に、露だと答えて自分も露の如く消えればよかった。そうすればこんな思いをせずにすんだのに、という訳です」
「はい、正解。伊勢物語の中では見分違いの想い人を連れて逃げたものの、目を離した隙に鬼に食われたという話だ。追手に想い人を連れ戻されたのが真相らしいな。平安期当時に実際にあったスキャンダル事件が元らしい。 この歌は「新古今和歌集」と「伊勢物語 芥川」に収録されている」
「先生、なんで歌集と物語なんて別々の本に同じ歌が入ってるんですか」手を上げて芦戸が質問する。
「和歌の作者は在原業平だ。彼は「伊勢物語」の主人公のモデルといわれてる。伊勢物語の成立は平安初期、新古今和歌集鎌倉時代初期だから伊勢物語が書かれた方が先だ。時代を越えて同じ歌を掲載したってことだな。在原業平は人気のある歌人だから多くの歌が残っているんだ」
百人一首のちはやぶる、も在原業平ですよね」挙手して八百万が口を挟む。
「そうだ。彼は色好みで有名だったりするが、学はないが才能があり政治の中枢にいたらしい。平安時代歌人界ではいわばヒーローだな」
「ヒーロー……」と後ろで呟くデクの声が聞こえる。てめえ、ヒーローなら何でもいいのかよ。
 授業が終わり、俺は後ろの席を振り向いた。デクがビクッと震えて椅子を引く。
「な、何?」
「おい、てめえに聞きたいことが……」
 と声をかけた途端に視界がぐらりと揺れた。脳裏に次々と記憶がランダムに浮かんでは重なりあう。フラッシュバックって奴か、これは。くそ!頭が混乱する。立ち上がった拍子にがたんと椅子が倒れた。足元が揺れ、立っていられなくなって四つん這いになり、床に手を付く。
 砂利が指に触れる。冷たい。水の中だ。頭が痛え。身体が痛え。布が肌に張り付いて気持ちわりい。頭上にある丸木橋から脚を滑らせたんだ。
 上から遊び仲間達の声が降ってくる。「大丈夫だよな」「かっちゃん強いもん」と言いながら奴ら笑ってやがる。ムカつきながら「大丈夫」と虚勢を張って不敵に笑みを浮かべて見せる。
 大丈夫なわきゃねえだろ馬鹿野郎。冷てえし痛えよ。誰も来やしねえ。俺は強いからって心配してねえんだ。それとも濡れんの嫌だからかよ。
 背後からばしゃばしゃと水をかく音。
「大丈夫?頭とか打ってたら大変だよ」と差し出される小さな手。
 ああ、あいつか。俺は嬉しくなった。だが嬉しいと思った自分に腹が立った。
 俺は期待してた。奴らは来てくれるんじゃないかと。けれども期待は裏切られた。だがそんな風に感じるのは甘さだ弱さだ。誰でも自分が大事なんだ。俺は大丈夫だ。ひとりで立てるんだ。薄情な奴らにだって余裕で笑ってやれんだ。
 なのにあいつだけは手を差し伸べた。その手を取ったりしたら俺は。俺はあいつを。
 視界が暗くなり薄闇が広がった。脳裏の記憶の場面が変わったのだ。
 地面を叩く土砂降りの雨の音がうるさい。薄暗い放課後の教室の中。着ているのは中学生の詰襟の制服。俺はあいつを床に押し倒して押さえつけている。
 俺を「爆豪くん」なんて呟くのが耳に入ったからだ。たどたどしい口調で聞きのがしそうな小さな声で。途端に頭が沸騰した。
 捕まえて誰もいない教室に引き戻し、床に組み敷いた。咳き込んだあいつがヒュウっと息を吸い込む。
「てめえが俺を苗字で呼ぼうなんてよ。生意気なんだよ」
「だって、かっちゃん、なんて皆もう呼んでない。おかしいよって」
「誰に云われたのか知んねえが、俺に指図すんな、クソが。だからてめえはいつまでも」

 今の俺は苗字か名前の呼び捨てで呼ばれてる。ガキの頃俺を「かっちゃん」と呼んでた奴らとはもう交流がない。たとえそいつらが呼び名を変えてたってなんとも思わない。だがてめえは駄目だ。
 てめえは呼び名を変えることで、俺との間に壁を築こうとしてんやがんだろ。てめえが自覚してなくたって、そうしようとしてやがるのはわかってんだ。
「てめえの思いどおりにはさせねえ。今度苗字で呼んでみろ。ただじゃおかねえ!」
「なんでそんなに怒るんだよ、かっちゃん」
「黙れよ。てめえは俺の言うとおりしてりゃいいんだ」
 次から次へとふざけやがって。これ以上俺をどれだけ虚仮にすりゃあ気が済むんだ。理想のヒーロー像を追うこいつの言うことは綺麗事だ。てめえ勝手な理想像を押し付けて、俺に指図しやがるから腹が立つんだ。腹の底ではこいつが正しいと思っちまいそうになるからこそ認められねえ。俺に逆らうなと苛立って苛んで。次第にこいつが俺を避け始めて。姿を見るだけで胸が抉られるくらい苦しくなって。俺にこんな思いをさせるこいつを許せるわけがねえ。
 こいつは怯えきった表情を浮かべているはずだ。なのにどんなに凝視してもやはり顔がわからない。見ているのに認識できない。
 腰をこいつの下腹に降ろして馬乗りになる。太腿の下に押さえ込んだ身体の感触。服越しに触れ合ったこいつの局部の体温を感じる。弾力のある膨らみ。勃起しそうになった。慌てて腰を浮かす。
「かっちゃん?」
 表情は読めないが怯えた声。まさか勘付いたのか。唾を飲み込んで見下ろす。今頃になって気づくなんて。
 てめえに見透かされて見下されてると思いこんだのは。いつも目が姿を探してしまうのは。他の奴らは近づこうが離れようが平気だったのに、てめえだけは離れるのが許せなくて追いかけちまうのは。他の奴にどう見られたって何を言われたって気にならねえのに、てめえにだけは腹が立つのは。捻じ伏せて従わせて意のままにしたいなんて欲求に支配されちまうのは。
 やっと理解した。俺はてめえが欲しいんだ。欲しくて欲しくて堪らないんだ。好意なんてもんじゃない。情欲そのものだったんだ。苛立って追いつめて、今頃自覚するなんて。気づかなければよかった。今更手に入れるなんて不可能だ。散々傷つけたんだ。こんなに拗れてしまってはもう手遅れだ。こいつが俺を受け入れるはずがない。もっと早くに自覚していたら違ったんだろうか。どちらにしろ叶うはずなんてねえ。こいつが知ればきっと俺を憐れんで蔑んで見下しただろう。そんなことには耐えられねえ。こんな感情をこいつに知られたら俺は。俺は。
 記憶の混濁。脳が揺れるような目眩。こみあげるものに耐え切れず俺は嘔吐した。昼前で胃はからっぽだったからか胃液しか出てねえか。周りが「うわっ」と驚いて引いているようだ。咳き込んで口を拭う。「雑巾取ってくる」と誰かの声がする。
「大丈夫?」
 とデクが駆け寄り手を差し出した。幼い頃の映像がフラッシュバックする。差し出された小さな手。この手じゃねえか。怒りが沸いた。立ち上がり、デクに掴みかかって机の上に引き倒した。デクは怖がりながらも案じるように俺を見上げる。
「そんな目で俺を見てんじゃねえ」俺は怒鳴った。
「おい、なに怒ってんだ。落ち着けよ」「どうしたんだ、爆豪くん」切島と飯田がユニゾンで話しかけてくる。
「うるせえ!こいつは……」
 答える前に足が縺れ、目が回ってデクの上にふらりと倒れ込んだ。身体を滑ってずるずると床に頽れる。
「だ、大丈夫?」
 薄れゆく意識の中で、俺を呼ぶデクの声が幼い声と重なる。デクの顔が認識できなかった幼馴染の顔と重なる。押し寄せる記憶の奔流と甦る感情に意識が呑まれる。
 てめえだったのか。やっぱりてめえだったんだな。俺をこんな風に苛立たせる奴が何人もいるわけがねえんだ。憎くて辛くて腹が立って、惹かれて焦がれて求めていた。凪のように落ち着いていた心が逆巻き渦を巻き嵐になる。ああ、これだ。俺はずっと昔からこの感情と共に生きてきたんだ。凪の日なんて一度としてなかったんだ。てめえに会ってから一度だって。
てめえが、出久だ。


 あの日。
 学校の門の前でヴィランに襲われて、保健室に担ぎ込まれたあの日。目が覚めたら俺はベッドに寝かされていた。手当は済んでいて、ヴィランは撃退されて、俺は救出されたのだと聞かされ、教室には戻らずそのまま寮に帰った。俺一人だと、そう思っていた。
 だが違ったのだ。あの場には出久も共にいた。あの時保健室で何があったのか。抜けていた記憶が蘇ってくる。
 保健室に運ばれていく道中に俺の意識は戻った。出久は担架に乗せられ並走して医療ロボットに運ばれてる。大きな身体の先生に背負われてる俺を心配そうに見上げる大きな瞳に腹が立った。
ヴィランはどうなった」
 隣を歩いている相澤先生に聞くと、先生はサングラスを上げて俺を見た。
「気づいたか、爆豪。奴は拘束して警察に引き渡したよ。全く、お前らは厄介だな。次から次へと」
「お前の生徒はどうなってんだ、相澤。飼い主に似ちまったんじゃねえか」
 俺を背負った先生が豪放に笑う。
「俺じゃない奴の方に似たんだろう」相澤はぼそっと答える。
 飼い主ってなんだよ、クソが。躾けられてたまるかよ。
「かっちゃん、背中大丈夫?」出久が口を開く。
「痛えわ、クソが」
 変色した出久の右腕が目に入り、苛ついた。結局またぶっ壊したのか。
「ごめん……、僕のせいで」
「それ以上喋んな。胸糞わりい」
 保健室に到着すると、俺は着ていたコスチュームの装備を外され、ベッドに俯せに寝かされた。背中の傷を治してもらったおかげで痛みは引いた。
 出久が何処にいるのか気になった。身体を起こしたものの、治療の副作用で脱力感に襲われる。カーテンで仕切られた隣のベッドにいるのか。確認しようにも足に力が入らないので立てない。仕方なくまた横になろうとすると、誰かがカーテンを開けた。
 背の高い痩せた男。まだ見慣れない、オールマイトの真実の姿。
「あんだ?オールマイト
「すまない。まだ教室に戻らないで少し待っててくれ」
「言われなくても、しんどくて動けねえよ」
「そうかね。では、すぐに来るから」
 と言い、オールマイトはカーテンを閉めた。背中は痛くなくなったので俺は仰向けに寝転ぶ。 一人になると思うのはいつもムカつく幼馴染のこと。あいつがオールマイトから力を貰ったのだということ。俺の知らないところで。
 カーテンの向こう側でひそひそと保健室のババアとオールマイトの声が聞こえる。
「これっきりならいいんだけどね」
「ああ、そう望みたいものだが……。さてどうしたものか」
 オールマイトの困ったような声音。カーテンの向こうから出久の声が聞こえてくる。
オールマイト、かっちゃんは大丈夫なんですか?あ、こんにちは……。ええ!?」
 やはり隣のベッドには出久がいるらしい。カーテンの隙間からベッドに腰掛けているあいつが見える。腕と片足に包帯を巻かれている。あいつ、全力でぶっ放すとか、馬鹿か。指くれえにしとけよ。オールマイトの側にもう一人いるようだな。セラピーヒーローの誰それとか出久が言ってるのが聞こえる。興奮して声が上ずってやがる。あのヒーローオタクめ。クソが。
「やれやれ、君も無傷ではないんだぞ」
「すいません、オールマイト。でも僕は大したことないです。足は治してもらったし。僕はかっちゃんに吹っ飛ばされて助かったようなものだから……。かっちゃんは?」
「爆豪少年の背中の打撲傷は治したよ。コスチュームのお陰で外傷はなかったしね。治療で体力は消耗してるだろうけど」
「コスチューム……。かっちゃんはちゃんと危険に備えて用心していたんだ。僕がついていったりしなければ」
「君がいなければ、爆豪少年はヴィランにひとりで対峙することになっただろう。彼を1人にしなかった君の判断は間違ってはいないよ」
「かっちゃんは僕を庇ったんです。こんなことになるなんて……。こんなの、彼らしくない」震える声で出久は続ける。「きっと秘密を知ったからなんだ」
 あの野郎、何言ってやがる。庇ったとか寝言ってんじゃねえよ。てめえのためじゃねえわ、自惚れんな。オールマイトに借りがあっからだ。
 オールマイト。希望の象徴。グラウンドベータでの対決でオールマイトが現れた時、出久が後継者だと知った時、もう出久を取り戻せないのだと理解した。どんなに足掻いても、もう二度と手に入れることはできないのだと。いつ死んでも不思議じゃない生き方をあいつは選んでしまったのだ。俺の目の前でオールマイトが辿った道をあいつも歩むのだ。「ワン・フォー・オール」という得体の知れない何かに、あいつを永遠に奪われてしまったのだ。ほんの一瞬目を離した隙に。
「僕が油断したせいだ……。こんな風にかっちゃんが傷つくなんて、耐えられない」
 出久が声をつまらせる。べそかいてんのかよ。ほんっとガキだな。以前出久の前で号泣した自分のことは棚上げにする。
「捕らえたヴィランは白状したよ。他の生徒を拉致したなら学校への脅迫、爆豪少年ならヴィラン連合に引き渡す所存だったらしい。彼は例の神野の事件以後も、いまだヴィラン連合に目をつけられているようだな」
「そうかも知れません……。ヴィラン連合のボスに僕との因縁を知られてるのかも」
「言いにくいことなんだが……」オールマイトは続ける。「こういうことが度重なると、彼から秘密が漏れる可能性を考慮しなければならない」
「そんなことない。かっちゃんは大丈夫だよ!オールマイト!」
「また敵に遭遇して、彼が捕まるようなことがあれば危険なんだ。大切な秘密なんだよ、緑谷少年。彼の身も君の身も危険に晒すことになる」
「そんな!そんな……、なんで。僕がかっちゃんに喋ったりしたから……」
 苦しげな出久の声。んだよあいつ、ずっと俺に隠しおおせるつもりだったのかよ。てか、秘密は俺が自力で暴いたんだろ。てめえが口を滑らしたりしなくても情報を総合すりゃ、俺はきっと気づいたはずだ。どんだけ長い付き合いだと思ってんだ。
「秘密を知る者達で相談したんだが」オールマイトが言う。「保安のために彼の記憶を少しだけ操作することにするよ」
「秘密を忘れさせるんですか」
 どきりとした。何を言ってやがる。
「いや、彼は勘がいい。今の私の状況とヴィラン連合との会話。君が無個性であったこと。君の個性がますます私に近づいてきたこと。そして、何よりも彼の君への執着。たとえ一時的に忘れさせても手がかりを総合すればまた気づくかも知れない」
「そう、ですね。かっちゃん頭いいから。だったらどうするんですか」
「まず今日のことと、君が彼に喋った真実と、君が無個性であること。その他に過去に付随した君に抱いていた感情も、対象にせざるをえないだろう。無個性だった以前の君と今の君との間に繋がりがなければ、彼も疑わないだろうからね。」
「そんな!僕らは幼馴染で付き合いは長いんですよ。そんな長い期間の記憶を弄るなんて。大丈夫なんですか」
「記憶を消すわけじゃない」
 聞き覚えのない男の声がきこえる。セラピーヒーローとやらだろう。
「頭の奥にしまわれたものに表からアクセスできなくなるだけだ。昔の出来事や名前や顔が部分的に思い出せなくなるようなものだよ。普通によくあることだろう。それだけだよ。記憶を完全削除することもできるが、現実との弊害が出る可能性があって危険だからな。余程のことがなければ使わないことにしている」
「というわけだ。最小限の記憶と過去の彼への感情だけを対象にお願いする。そんな顔をしなくていい。心配ないよ。彼はその世界の第一人者だからな。君への拘りがなくなったと知れば、ヴィラン連合も彼を狙わないだろう」
「そう……ですか」
 あいつら、何言ってんだ。俺のいねえところで何勝手に決めてやがんだよ。カーテンが開けられた。顔を出したのは見覚えのないヒーローとオールマイト
「一体何言ってるんだよ、あんた」
「聞いていたんだろう、爆豪少年 。君なら理解できるだろう。こうしないと危険なんだ」
「俺がかよ。デクがだろ。あいつのせいで俺までとばっちりかよ!」
「最低限の処置だ。秘密の記憶と無個性だった緑谷少年への感情。それだけだよ。今までの記憶自体はほぼそのままだが。おそらく今の緑谷少年と昔の緑谷少年を別の人間だと思うようになるだろう」
「嫌だ、ぜってえ嫌だ!」
 ふざけんなよ。今の出久だけじゃ足りずに、この上過去の出久まで奪うつもりなのかよ。あいつへの感情が俺の頭の中にどれだけの大きさを占めてんのか知らねえくせに。苛ついて苦しくて腹が立って。でも絶対になくしたくないものなんだ。脱力感で身体を起こせねえ。畜生!
 必死で腕を伸ばしカーテンを掴んで引っ張る。翻ったカーテンの向こうにベッドに腰掛けた出久がいた。辛そうな顔で俯いている。てめえは忘れてほしいのかよ。昔のこと何もかも。
「デク!俺はてめえを絶対許さねえ!」
 感情が昂ぶって涙が溢れる。泣きながら、出久を睨んで叫ぶ。
 セラピーヒーローの大きな手が頭を掴んだ。目の前が白い靄に覆われる。出久の顔が霞んでゆく。俺の方を向いて俺の名を呼ぶ声が、音が遠くなる。頭の中も雲に覆われたように白く塗り替えられていった。


4


 目が覚めた。周囲を仕切る白いカーテン。保健室だ。セラピーヒーローはもういないようだ。
 いや違う、あれは失われていた記憶だ。今日俺は授業中にフラッシュバックが起こって意識がなくなって、全て思い出したのだ。何があったのかを。何をなくしていたかを。
 ベッドの側の椅子に出久が座っていた。俯いていた顔を上げて俺を見る。
「かっちゃん、大丈夫?」
「この野郎!クソが!」
 俺は出久に掴みかかった。襟元を掴み引き寄せて怒鳴る。
「デク、俺はてめえを許さねえ!」
「記憶、戻ったんだね……」
 一瞬安堵の表情のようなものを浮かべた出久は、抵抗もせず俺の為すがままだ。
「あいにく戻ったぜ、デク。全部な。ふざけたことしやがって」
「ごめん、仕方なかったんだ」
 デクは目を伏せて言う。
「仕方ねえ?よくもてめえぬけぬけと!てめえ!」
 拳を握って振り上げた時、誰かがカーテンを開けた。
「やれやれ、騒ぐのはよしとくれ」
 呆れた顔でリカバリーガールが入ってくる。後ろに椅子に座ったひょろ長いオールマイトの姿が見える。
「彼のせいではない。悪いのは私達だ」
 オールマイトは立ち上がり、両腕を広げた。俺は出久から手を離して身構える。また記憶を弄るつもりかよ。そうはさせねえ。
「自力で記憶と感情を取り戻すとは驚いたタフネスだな、君は」
 とオールマイトは困りながらも感心しているような口調で言う。
「一時的な記憶混濁とクラスメイトには教えていた。操作した過去は忘れたまま、日常になっていくだろうと、そう目論んでいたんだが」
「生憎だったな。脳みそに手突っ込んでかき混ぜるようなことしやがって。それがヒーローのすることかよ」
「ああ、そうだな……」オールマイトは頭を垂れる。「本当にすまなかった。度重なるヴィランからの襲撃に、過敏になっていたかもしれない。君にはとても悪いことをしてしまった。君達の関係的にもその方がいいかもと思ってしまったんだ」
 わかってねえよ。あいつは俺にとってそんなんじゃねえんだ。頭が沸騰しそうだ。奪われるところだった。デクへの感情を。どんなに苛ついて苦痛であっても、それだけはどうしても失いたくないものだ。
「俺の記憶だ。俺だけのもんだ。誰にもいじらせねえ。こいつは無個性であんたから力を貰った。それがどうした。他の誰にも言わねえし、また捕まったりしてもぜってえ口を割ったりしねえ」俺は出久を睨みつけて続ける。「もう2度と捕まったりしねえけどよ。クソが」
 出久は口を開きかけた、だが何も言わないで目を伏せる。
 チャイムが鳴った。
「緑谷少年、もう授業に戻った方がいい。彼のことは心配ない」
「はい、あの、後で話したいです。オールマイト
 出久は振り返りながら、保健室を出て行った。オールマイトは出久の座っていた椅子を引き寄せて座る。
「君は自己分析が苦手なようだね。彼への感情がどこから来たのか在り処を探してみるといい」
「自分の感情くらいわかるってんだ。あいつに苛つくってことくらい」
「君は緑谷少年の記憶を無くしていたとき、彼に苛ついてはいなかっただろう。むしろ頻繁に彼に近づいていた。意外だったけれど、あれが君の素のままの感情なんだろうね。君は彼自身に苛ついているわけではないんだよ。むしろ……」
「ちげえよ!」俺は怒鳴る。「ムカつくもんはムカつくんだ。それに、積み重なったあいつへの感情を忘れて、初めは和やかな関係でもよ、結局は同じ轍を踏んだかも知れねえぜ」
「ああ、そうなったかもしれないね……」オールマイトは立ち上がりベッドに歩み寄る。「爆豪少年、緑谷少年は君らしくない行動だと言っていたけれど、君はいきなり緑谷少年を庇うようになったわけではないんだろう。USJヴィラン襲撃の時、君はワープヴィランに襲われかけた緑谷少年を救った。期末試験の時は、私が出口に向かう彼を狙った時に盾になっただろう。君がヴィランに攫われた時に、来るなと緑谷少年に言ったそうだね。それも負傷していた彼を案じたから言ったんじゃないのかな」
「はあ?何言ってんだよ、オールマイト
「私は、君は君らしい行動を取ったのだと思っているよ」
「俺は別にデクを助けようとしちゃいねえ。身体が勝手に動いちまっただけだ」
「身体が勝手に、か。君達は似てるところがあるね」
「冗談じゃねえ、デクなんかと俺のどこが似てるってんだ。あんなムカつく奴と」
 オールマイトの手が俺の頭を撫でる。力強く温かな大きな手。力を出し尽くし、トゥルーフォームではなくなっても人を安心させる存在。
「だが君の行動に緑谷少年は気づいてないようだ。君への思い込みが強いからだろう。君に嫌われていると思ってる。だから自分を助けた君の行動を、らしくないと思ってしまうんだよ。君たちは二人とも賢くて理性的なのに、お互いのこととなるといつも思い込みが激しくて感情的になってしまうね」
「へっ、俺はいつでも理性的だ」
 ぶんっと頭を振って大きな手を振り払う。
「君は彼に伝わらなくてもいいのかい」
「別にねえよ。あんたの勘違いだ。俺はあいつなんか」
 指が痛い。 シーツを強く握っていたのに気づく。
「仮にそうでもデクに伝えたいことなんざねえ。伝わらねえ?それがどうした。あいつがどう思ってようが、そんなことどうだっていい」
「本当にそう思っているのかい?」
「そうだっつってんだ!しつけえよ。あんたも戻れよ、オールマイト。一人になりてえんだ」
 溜め息を吐くとオールマイトは入り口の方に歩み去る。ドアを開ける音の後、「緑谷くん、まだ行ってなかったのか」と驚くオールマイトの声が聞こえた。「オールマイト、あの」と慌てる出久の声。
 んだとあいつ!急いでカーテンを引いてドアの方向を見る。おどおどした様子の出久が立っていて、俺にびくついた視線を向ける。聞いてたんじゃねえだろうな。
「クソが。デク、立ち聞きしてたのかよ」
「聞いてないよ。今来たんだ。大丈夫なのかと気になったから。どうしたの?」
「うぜえんだよ!さっさと教室に戻れよ!」
 俺を心配してんじゃねえよ。てめえはよ。怒鳴り散らして布団を頭から被る。
「では、私も行くことにするよ。気分がよくなったら教室に戻っておいで。行こう、緑谷少年」
 二人の足音が遠ざかる。あの時のことが思い出されてくる。夜中にヴィランが襲撃してきた時のこと。拳を握りこむ。頭の奥深くに封じられていた、開放された記憶。


 あの夜遅く、一人で買い出しに行こうと校外に出ることにした。気がくさくさして、学校の外の空気を吸いたくなったのだ。
 共有スペースの窓から覗くと、寮の庭で出久がトレーニングをしているのが見えた。オールマイトの後継になるために。舌打ちする。誰が言っていたのか、共有スペースで寛いでいた時のクラスの奴らの言葉を思い出す。どういう文脈で出久の話になったのか。
「爆豪が緑谷に拘る気持ちわかるぜ。ボロボロになってそれでも逃げねえで必死でかかっていく。しかも自分のためじゃなく人助けのためだけに。強えっていうよりかなわねえわ」切島が言った。
オールマイトへの憧れなんだろうけど。あとさ、俺らをよく見てるよな。個性も生かし方も俺ら以上に考えてるみてえだし。俺らを信頼するよな。ちょっと嬉しいつーかさ」上島が言った。
「お前さ、あいつにただ一人信頼されねえ気分はどうだ」切島がいきなり話を振ってきた。「神野の事件の時もさ、ああ、怒んなよ爆豪。あいつ作戦立てたくせに、自分だとお前が手を取るの躊躇すんじゃないかって、俺にまかせたんだぜ」
「うぜえ。どうでもいいわ」
「会ったのが高校からならよかったかもなあ、お前ら」切島がため息を吐いた。
「だな。すぐ理性が吹っ飛ぶような関係じゃなく、お前と轟くらいのほどよい距離感でいられたんじゃねえか」上鳴もうんうんと頷いて言った。
 なかなか出久の話題が終らないばかりか、俺に飛び火してきた。おまけに神野の失態まで蒸し返してくる。ムカついて「うるせえ!」と怒鳴り共有スペースのソファから立ち上がる。
 去り際にまだあいつらが出久の話をしているのが聞こえた。
「でもよ、あいつ危なっかしいよな。怪我も痛みも恐れねえから。強え相手に引くことをしねえから。死を恐れないって、時々怖えと思うよ」
「ああ、怖え。傷ついて、ある日登校したらあいつがいないとか思うと、たまんねえよな」
「あんな生き方してたらいつ死んでもおかしくねえよ。怖くて堪んねえよ」
「ヒーローってそういうことなのかも知れねえけど。あそこまでしなきゃいけねえのかな……。あいつに会うまで考えたこともなかったぜ」
 部屋に戻り、コスチュームを取り出す。念のために備えておいた方がいいだろう。コスチュームを着込んで寮の玄関を出ると、トレーニングあがりの出久と鉢合わせした。
「あれ?コスチューム着て、どうしたの」俺に気づいて出久が言う。
「なんでもねえよ。ちょっと外に出るだけだ」
「敷地外に出るってこと?1人で夜歩くなんて危ないよ。またヴィランが出たら」
「だからコスチューム着てんだろ!出やがったら返り討ちにしてやる」
「僕も行くよ」
「はあ?なんでてめえまでついて来んだよ」
 なんか察知しやがったのか。 いつも遠巻きにしてやがるくせに、こんな時ばかり寄ってくるんだよな、てめえはいつも。
「イラつくな。俺を庇ってるつもりかよ」
「そんなつもりじゃないよ」
 自然と早足になった。出久は遅れることなくついてくる。「待ってよ」と俺を懸命に追いかけてきた幼い姿は遠い昔だ。
「今、何か門の方向で光らなかった?ねえ、かっちゃん」
 出久がなんか言ってるが無視する。気になるのかまだぶつぶつと話し続けている。「車かな?でも一瞬だったし。学校は民家から離れてるし」
 岩場の演習場を過ぎて校庭を抜け、門の前に到着後した。当然だが鍵がかけられている。高く聳える門を見上げて爆破で飛び越える。出久も俺に続いてジャンプしてきた。門を越えたものの、出久は着地でバランスを崩しふらっとよろける。
「ばっか」
 俺はにやっと笑う。俺の真似しやがっても、てめえはまだまだだな。
 ふと、ざわっと周りの木々が動いたような気がした。
「なんか、おかしいよ。かっちゃん。街の灯りが点ってるはずなのに真っ暗だし。戻ろうよ」
 立ち上がり、辺りを見回して出久がそっと囁く。
「うっせえ、静かにしてろ」
 何かがいるのは確かだ。神経を研ぎ澄ます。目の端にうごめく気配。
「なにこれ、蔓?痛っ!」
 いつの間にか出久の足元にざわりと伸びてきた影が、足首に巻きついていた。 蔓はするすると出久のふくらはぎにまで伸びて締め上げ、更に膝に伸びる。出久は蔓を引き離そうとしながら苦悶の表情を浮かべている。
「クソが!おい、爆破すっからすぐ足引っ込めろよ」
「う、うん。ああ!」
「チイッ」
 俺は蔓を爆破して焼いた。だが蔓は少し焦げるもののなかなか千切れない。思い切って出力を上げて爆破する。反動で出久は吹っ飛んで門にぶつかった。
「踏ん張りが足んねえぞ、デク!クソが」
 蔓は焦げた部分を残して、闇の中にするすると引っ込んだ。ざわざわと闇が蠢く。いつの間にか何かに囲まれてしまったようだ。
「おい!このクソナードが」と出久を振り返り、駆け寄る。
 出久の息が荒い。足が変な方向にひしゃげている。さっきの蔓に締めあげられた時に折れでもしたのか。出久は立ち上がろうとしたものの果たせず、よろけて門を背にしてしゃがみ込む。
「クソが!立てねえのか」
「うん、かっちゃん、君が戻って誰かを呼んできて」
 ひゅん、と背後で風を切る音がした。咄嗟に座り込んでる出久に覆いかぶさるようにして門に手をつく。鞭のように伸びた蔓は俺の背中を殴りつけた。
「ぐはっ!クソが」
「かっちゃん?」
 さらに2本目の蔓が背中に叩きつけられる。くそ!これは悪手だ。門の向こうに出久を投げてやりゃあよかった。もうここからどくこともできねえ。この足手まといが。
「なんで?何してるんだ!かっちゃん、君らしくないよ!」
「てめえはオールマイトの後継者って奴だろうが」
「そんな、そんなこと関係な……」
 何本もの蔓が背中を殴る。コスチューム着てなけりゃ立ってられなかっただろう。立てない上に普段着のデクじゃ到底耐えられない。
「どいてよ、かっちゃん」
 いい気味だ。いつもてめえがズタボロになるたびに、俺がどんな気分になるのか、ちったあ思い知ったかよ。傷だらけになっても俺に手を伸ばすてめえに、そんな時ばかり近寄ってくるてめえに、俺がどれだけ。あいつら、時々怖えだと。昔から俺はいつも怖えんだよ。いつ死んでもおかしくねえ。怖くてしょうがねえなんて今更だ。そんな奴を俺はずっと。
「僕を置いて行ってよ、かっちゃん」
「はっは!てめえがついてきたんだろ。いつもは俺から絡んでいかねえと、お前からは絶対こねえのに」
「だって君はすぐ怒るから」
「てめえがムカつくからだ。最近俺が絡まねえからって安心してんだろ。てめえは」
「かっちゃん、そんなこと言ってる場合じゃ、かっちゃん!」
 言い合う間にも蔓は俺の背を打ち据える。出久が慌てて拳を構える。何やってんだ。出力はあっても腕は2本しかねえだろうが。やるなら指だろうがよ。
「無駄弾撃つんじゃねえよ、クソが。蔓は固えし攻撃的しても何本でも生えてくる。こう暗くちゃあ、敵が何処にいんのか見えねえだろうが」
「でも、このままってわけにはいかないじゃないか」
「俺が閃光弾を放つ。チャンスはそん時だ。一瞬だ。目凝らして敵の位置をよく見ろよ。目瞑ったりしたら承知しねえ」
「わかったよ」出久はこくりと頷く。
 背中が痛え。痛みを堪えて振り向き、手をパンっと合わせる。閃光弾の眩い光が辺りを包む。腹に蔓が叩きつけられた。息が詰まって咳き込む。姿勢を戻して倒れないよう壁に手をついて脚を踏ん張る。
「かっちゃん、君は……」
 出久の声が震えている。暗くて定かじゃないが青ざめているんだろう。
「やれ!クソバカ!」
 我に返った出久が拳を握りこんで構え、肘を引いて突き出す。背後で轟音が響いた。轟音に混じって耳に届く野太い悲鳴。
「やったか」
「うん。多分。かっちゃん、やったよ!」
 出久の声が弾む。
「よ、し」
 ほっとして力が抜け、足元から崩折れて出久に覆いかぶさる。闇に包まれていた道路を街灯の光が照らす。
「かっちゃん!」
 うるせえよ。耳元で叫んでんじゃねえよ。壁の向こうからバタバタと幾人かの足音がして門が開かれた。
「かっちゃん、かっちゃん!」
 身体の下に出久の声を聞きながら気が遠くなる。離れていったのはてめえだ。そのうち戻ると高をくくっていたのに、結局いつになっても戻ってきやしねえ。てめえは俺のなんだ。ころころと犬っころみたいについてきたくせに。物心つかねえずっと昔からそうだったくせに。俺を避けてるくせに目の前をちょろちょろしやがって。オレが弱ってぜってえ顔を見られたくない時ばかり、てめえから寄ってきやがって。側にいろよ。ずっと俺のもんだったのに離れんなよ。側にいたくねえなら俺の目の届くところから完全に消えろよ。目の届かねえとこなんかに行くなよ。どこにも消えんなよ。
 こんな混乱した気持ちを、伝えるべきなのか。伝わらねえからこうなんのか。あいつにだけは知られたくない。知られてたまるものか。



 橙色に染まった部屋の中で目が覚めた。
 もう夕暮れになったのか。オールマイトや出久が来た時は意識は戻ったはずだが、いつの間にかまた眠ってしまったらしい。窓の外を眺めると帰宅する生徒達の姿が見えた。とっくに放課後になっていたようだ。クラスの奴らも帰ってるかもな。出久も。
 轟の言う通りだ。自分で自分が気味がわりいぜ。出久と普通に接していたなんてよ。
 リカバリーガールに「帰る」と告げて寮に戻る。共有スペースを通り過ぎる時、クラスの奴らに何か話しかけられたが、無視した。自分の部屋に入り頭から布団を被る。
 オールマイトの継承者という秘密を守るために。出久は自分の保身のためじゃねえ。オールマイトを守るために。あいつはそういう奴だ。オールマイトも自身のためじゃなくきっと出久のために。それと俺の安全のためか。だが天秤にかけてそのために俺との記憶が、俺の心が、俺の想いが邪魔だと判断しやがったんだ。俺から出久を。現在だけじゃなく幼馴染の出久、までも奪うつもりだったのか。何もかも全部を。俺はぎりっと歯軋りをする。
 控えめなノックの音。
「あんだよ。寝てんだよ」
「かっちゃん、いいかな」
 出久。どの面下げて来やがった。鍵を開けてやると出久はドアをそっと開けた。俺はベッドに戻り布団を被る。
「記憶を操作するのは保留だって、かっちゃん」
 出久はドアのところに立ったままで近づいてこない。
「てめえが頼み込んだってことか。ムカつくな、恩に着せようってか」
「そんなんじゃないよ。元はといえば僕が……」
 出久は途中で言葉を切って、不自然に話題を変える。「君は凄いよね。セラピーヒーローはどんなトラウマでも消すって有名なんだよ。それを自力で解いてしまうなんて」
「はっ!なら、てめえもトラウマ消してもらったらどうだ」
 俺は揶揄する。いっぱいあんだろ。てめえにはよ。
「トラウマなんて、ないよ。辛いことも悲しいことも、僕の血肉だから」
 そう言い切ってから、「あ、そっか」と呟いて出久は口籠る。
 自分で言って気がついたかよ。そういうことなんだよ、クソが。
「ごめんね」小さな声で出久は囁く。
「何をだ」
「君に秘密を話したりしなきゃよかったんだ」
 俯いた出久の声が上擦っている。そこじゃねえだろう。いらつくぜ。てめえとはいつも噛みあわねえ。
「じゃあ行くね」
 出久はそろっとドアを閉めた。足音が遠ざかる。てめえはどこまでも。クソが。てめえは昔っからそうだ。昔から。全部一人で背負い込んで納得して。俺には何も言わねえ。何考えてんのかわかんねえ。そんな奴だから俺は。俺は。
 はたと思い出す。忘れていた時に、俺は出久に何を言っちまった?好きだとか口走っちまったぞ。ずっと押し潰そうとしてきた気持ちを。言葉にすることも消すこともできなかった気持ちを。出久に告げちまったじゃねえか。過去のあいつへの思いを知られちまった。あいつにだけは絶対に知られたくないことを。しかもあいつはなんて言った。それを聞いたくせに、いけしゃあしゃあと知らねえ振りをした。会いたくねえって言いやがった。俺を虚仮にしやがって。
 許せねえ。頭にきてベッドから跳ね起き、階段を2段飛ばしで駆け下りて追いかける。階段にはいねえ。出久はエレベーターに乗ったのか。2階に到着し、部屋に入ろうとする直前の出久に追いついた。
「え、どうしたの?」
 と出久は驚いた表情で硬直している。俺は出久の腕を掴んで部屋に押し入ると、叩きつけるようにベッドに押し倒した。壁にはポスターにタペストリー。棚には見覚えのあるフィギュアに グッズが所狭しと並んでいる。オールマイトだらけの部屋だ。1度でも出久の部屋に入ったならあいつだと気付いたかもしれない。てめえはオールマイトが近しい存在になった今でも、飾りまくってんじゃねえかよ。クソが。苛立ちのまま強く押さえつける。
「ずっと隠すつもりだったのよ。その方がムカつくぜ。知らねえ振りで嘘ばっかりつきやがって。馬鹿にしやがって。おかしかったかよ。なあ」
「そんなことない、だけど僕だって平気だったわけじゃない」出久は言い返してくる。「僕のせいだってわかってるよ。でも君は僕に酷いことばかりしてきたじゃないか。それなのにまるでいい思い出みたいに言うから。そりゃあいい思い出だってあったよ。でもずっと昔の話だ。君に合わせるのは苦痛だったよ」
 頭に血が上る。勘違いさせやがったのは誰だ。俺はてめえに。
「俺がてめえを好きだなんてねえからな!ぜってえねえ!」
「わかってるよ」
「勘違いすんなよ。オレはてめえなんかな」
「だったら君こそあんなこと言うなよ!」
 突然出久が激昂する。少しだけ気圧された。出久は俺を見上げる。
「あれが無個性だった僕への感情を忘れた、君の勘違いだってことくらいわかってるよ。わかってても。そうだったらいいなって思ってしまったんだ。もしも過去の君が本当にそう思ってくれてたらって、あり得ないのに」
 感情の昂りで出久の目が潤んでいる。魅入られたように見つめる。
「本当に君と会ったのが高校だったなら、会った時に無個性じゃなかったら。それっていいなって思ったよ。でも君が僕との過去をいい思い出みたいに言うと、そんなはずはなかったじゃないかと反論したくなった。あり得ないのに。そんなこと思わせるなよ。どいてよ。君の本心じゃないってことくらいわかってるんだ!」
 デクの目からぽろぽろと涙が溢れだした。
「君が勘違いしてるってわかってたんだ。本心だなんて、はじめから思ってないよ」
 俺は押さえつけたまま出久を見下ろす。
「はは、本当だったら、嬉しかったのかよ。馬鹿じゃねえの」
 羞恥で出久の顔が首まで赤くなった。そういうことかよ。てめえ、俺のことをどう思ってんだ。もっとちゃんと言えよ。もっと早くに言えよ。ほんと、馬鹿じゃねえの。
 思い出すまでずっと心は凪の日のように静かだった。晴れ晴れとしてすげえ楽だった。今はぐちゃぐちゃした感情が空っぽだった頭に詰まって溢れそうだ。てめえの反応ひとつで動揺してんのが不快だ。不快でたまんねえ。てめえの中身を芯まで暴いて抉って陽の下に曝してやる。そうしなきゃおさまんねえ。
「もういいだろ。部屋に帰ってよ」
「だめだ」
 てめえも楽だったんだろうな。だがそれも終わりだ。俺が好きだって言ったことが嬉しかったんだろ。てめえもそうだってことなんだろ。だったら手放せねえ。やっと靄のかかった向こう側を捕まえたんだ。その先に隠されていた感情まで見つけたのだ。
「もし、本心だったらどうなんだ、デク」俺は問うた。
「何言ってんの。あり得ないだろ」
「答えろよ」
「僕を何だと思ってるんだ。馬鹿にしてるのか」
 てめえ、信じねえのか。余計なこと言っちまった。出久の心がやっとわかったっていうのに。手に入らないと諦めたものを、今なら捕まえることができるっていうのに。手の中に身体の下にてめえがいるのに。捉えることができないなんて。何故だ。何でこいつは信じねえんだ。伝わらないってのはこういうことなのか。どう言えばいいのか、方法が思いつかない。てめえは俺を信じない。俺達の間に信頼なんてないからだ。
「本心だっつってんだ!答えろって言ってんだろ」
 暴れる出久を押さえ込んで勝己は怒鳴る。離すわけにはいかねえんだ。今を逃したらもうてめえを捕まえる機会は二度と来ねえ。
「君は僕の心なんて考えたことないだろ。僕だって傷つくんだよ。馬鹿にされたりすれば辛くなる」
「聞けってんだ。おい、デク!」
「君のことはわかるよ。長い付き合いなんだ。もういいだろ、これ以上……。殴って気が済むなら殴ればいいだろ!離せよ!」
「てめえに俺の何がわかる!」激昂して俺は叫んだ。「てめえこそ俺の心を考えたことがあんのかよ!」
 身体の下の抵抗が止んだ。
「かっちゃん?」出久は大きな目を見開いて俺を見上げている。「なんで、泣いてるんだ?」
 出久が俺の名を呼ぶ。記憶をなくしてから、初めてだ。憎しみとも愛しさとも名付けられない感情の奔流が流れ込んで来る。胸の空洞が埋められてゆく。てめえ、わざと呼ばねえようにしてたんだな。俺の記憶を喚起しねえようによ。思い出したりしねえように。
「答えろよ」
 そう言いながら俺は出久の鼻先に触れそうなほど至近距離に顔を近づけた。出久が身体を強張らせるのがわかる。緊張してんのか怯えているのか。威嚇するためじゃない。吐息を感じたいんだ。体温を感じたいんだ。はたはたと、雫がデクの顔に落ちる。水滴が頬に滴り落ち、唇に留まる。
「かっちゃん、どうして」
「答え……ろ」
「かっちゃん」
 慣れた声に呼ばれる自分の名前が耳に心地よく響く。記憶の中の声と重なってゆく。もう目を離したりしねえ。気の済むようにしていいんだな。てめえがそう言ったんだ。てめえが俺を暴いたんだ。奥に隠していた感情を掘り起こしてしまったんだ。ツケを払えよ。
 下唇に落ちた雫を舐めとり、そっと出久の唇を食む。驚いて目を見開いている出久に、そのまま唇を押し当てる。

 

END