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たったひとつの冴えたやりかた(全年齢版)

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1・かの日の怪物


 久方ぶりの自宅への帰り道のことだった。
 出久は膝に抱えていたリュックを担ぐと、電車を降りた。
 黄昏の空に烏の鳴き声が遠く響く。家々のシルエットを、夕焼けが橙色に縁取っている。落陽は出久のすぐ前を歩く、幼馴染の小麦色の髪も、紅に染めあげてゆく。
「家なんざ、かったりいぜ、クソが」
 勝己が出久に聞かせるともなく呟いた。
 独り言なのか、自分に話しかけてるのか、どっちだろう。返事をしていいものかどうか迷い「う、ん」と生返事をする。
 隣を歩けばいいのだろうけど、つい前後に並んでしまうのは、長年の癖のようなものだ。
 三連休に寮に一斉清掃が入ることになり、その間生徒達は一時帰宅することになった。長期休暇ですらあまり家に帰りたがらない勝己も、今回は帰宅を余儀なくされ、不貞腐れていた。
 五時半を告げるメロディが通りに流れる。公園から跳ねるように出てきた数人の子供達が、側を走り過ぎてゆく。それぞれの家に帰るのだろう。子供達は分かれ道で、バイバイと手を振って別れていった。僕らもあのメロディに急かされたなと懐かしくなる。
 勝己や仲間達と毎日遊んだ公園。ブランコも砂場も滑り台も、少し色褪せてるけどほとんど変わっていない。勝己との距離が離れていくにつれ、次第に足が遠のいてしまったけれど。
「あ?てめえは週末にしょっ中帰ってるだろうが」
 思いがけず返事が返ってきた。ちょっと焦って答える。
「う、うん、そうだね。お母さん待ってるし」
「こっちじゃ個性も使えねえし、家ですることなんて何もねえわ。親はあれしろこれしろってうるせえしよ」
 学校なら堂々と個性を使用できるだけに、勝己はもどかしさを感じているのだろう。
「かっちゃんはこっちで昔の友達に会ったりしないの?」
「あ?一度も会ってねえよ」
「え、そうなんだ」
「今更会いたくもねえ。過ぎたもん振り返ってる暇なんざねえわ」
 よく勝己は仲間とつるんでいたけど、そんなものだろうか。自分には会いたいような旧友はいないから、わからない。無個性と揶揄されていたのだ。思い出したくない。雄英で出会った、側にいてくれる本当の友達を大切にしたい。
 しかし、苦い思い出もあるけれど、それも君と友達のように歩いている今に繋がっているのだ。友達のように、としか形容できないのがもどかしいけれども。
 子どもの頃だって、勝己に憧れてひっついてたけれど、友達といえただろうか。彼がどう思って自分のような鈍臭い子供を、仲間に入れてくれたのかは知らない。来るもの拒まずという、親分肌だったのだろうか。今更聞いても教えてはくれないだろう。
 今も勝己が自分をどう思っているのかは分からない。でも、漸く嫌われてはいないと、思えるようになった。少しずつでも打ち解けていって、いつか本当に友達になれればと、願わずにはいられない。
 勝己は立ち止り、くるりと振り向いた。
「な、何?かっちゃん?」
 心の声を聞かれていたように錯覚してしまい、ドキッとする。面と向かうと緊張感してしまう癖は、そうそう抜けはしない。
「おいデク、先行くわ」
 とそれだけ言うと、勝己はずんずんと早足で去ってしまった。
「あ、またね。かっちゃん」慌てて後姿に呼びかける。
 別れ際に声をかけてくれるなんて、前なら考えられなかった。ちょっと嬉しくなり、ふわふわと心が浮ついた。
 橙色の空が朱色を帯びてきた。雲が紫色の夜の衣を纏い始めている。
 団地の入り口に入った時だ。「久しぶりだな、デク」と背後から声をかけられた。振り向くと見覚えのある顔。
「俺だよ、俺」
「あ、ああ、うん」
 思い出した。幼稚園からの幼馴染の1人だ。小学校3年生のクラス換えで別々になるまで、勝己達とつるんでいた。
「カツキと同じ雄英に入ったんだってな。テレビで雄英の体育祭見たぜ」
 なんと答えていいものか。「あ、うん」と戸惑いながら返す。
「お前、個性あったのかよ。すげえな。で、やっぱりいまだにカツキにいじられてんだな。障害物競走でも騎馬戦でも、お前に突っかかってたよな。あいつ昔からひどかったよな」
 君も一緒になっていじめてきたろ。と思ったが言わない。覚えてないのだろうか。「今のかっちゃんはそんなことないよ」と答えておく。
「あいつが?マジかよ」
 それにしても、と思う。いじめた方はどうして何もなかったかのように、平気で話しかけてこれるのだろう。フレンドリーに来られると、どうしていいのか困ってしまう。
 小学生の頃なんて、いじめも遊びも曖昧なんだろうか。何をしたか忘れているのだろうか。こっちは今も苦手だというのに。傷つけた方にとっては取るに足りないことでも、傷つけられた方は覚えてるんだ。
 それとも、今だに昔を引きずっている勝己だけが例外なのだろうか。
 切れ目なく続いた腐れ縁。拗れに拗れた関係は、やっと望んでいたような形に落ち着いた。昔のことを知る人には意外かもしれないけれど。
「今だから言うけどよ。カツキがお前を気に入ってたってこと、知ってたか」
 何気ない軽い調子で幼馴染は言った。いつ話を切り上げようかと、迷っていたところに意表を突かれる。
「へあ?」
「変な声が出してんなよ。あいつお前を意識してただろーが」
「え?なに、いきなりなんで?そんなことないだろ」
「あいつ、いつもお前を揶揄ってたろ。それに何かうまくいくと、いつも嬉しそうにお前だけに振ってただろ。カツキが上なのは当たり前なのによ」
「まあ、そうだったけど。馬鹿にされてたんじゃない」
 自分との差を見せつけて悦にいる。勝己はいつもそうだった。
「あれはよ、お前の反応が欲しかったんだろ。オールマイトカードだって、いいの出ると真っ先にお前と見せ合ってたし。他の奴にはそういうの、振らねえの気づいてたか?お前だけデクって徒名決めて呼んでたしよ」
「徒名は皆につけてたじゃないか」
 雄英でも轟くんや麗日さんや切島くん、上鳴くん達を、おかしな名前で呼んでた。最近は呼ばないけど。
「いや、俺らを徒名で呼ぶ時は、ただの悪態だろ。全然違うわ。あいつお前だけ特別だったんだよ」
 全然そうは思えないけど、勝己のそんな行動が、傍目には好きだからだと思われたのだろうか。
「そんな風に見えてたんだ。意外だよ」
 幼馴染はじっと出久を見つめ、徐ろに口を開いた。
「今だから言うけどよ、俺らはカツキがお前に恋してんだと思ってたんだぜ」
 突飛な言葉に、頭が真っ白になった。
「え、え、恋?かっちゃんが?なんでそうなるの?今の話のどこに、そんな要素があるんだよ」
「恋してるとしか思えねえだろ」
「あり得ないよ!あのかっちゃんだよ」
 勝己に好意を持たれてたってだけでも想像し難いのに。好意だけならまだしも、恋慕なんて飛躍し過ぎだろう。
「お前もいつもあいつにくっついてたし、俺らはお前もあいつを好きなんだって思ってたぜ」
「僕が?そんなわけないだろ」
 ぶんぶんと頭を振って否定する。
「ああ、お前は段々離れたてったしな」
「それは」離れたくて離れたわけじゃないけれど、彼に個性が発現してから、徐々に歯車が狂っていったのだ。
「根拠はあるぜ。お前がつるまなくなってから、俺らはカツキは落ち着くかと思ったんだぜ。でもお前は知らねえかもしんねえけど、あいつ苛々しながらも、いつもお前を目で追ってたんだ。去る奴追わねえあいつが、わざわざ追いかけて、結局はお前に構うしよ。あいつはなんも変わらなかったんだよな」
「あれは構ってたんじゃないだろ」
 少しイラッとして口調に出てしまった。いじめられてたんだ。いくらなんでも過去改変が過ぎるだろう。
 勝己の存在は、時に怪物のように自分を威圧した。憧れと恐れと形容できない様々な感情が渦巻いて、マーブリングの模様のように心の中で混濁していた。話していると当時の黒い心が蘇ってきそうだ。今の彼は違うのに。
 早く話を終わらせたい。手を上げて「じゃあこれで」と言おうとしたところで幼馴染が口を開いた。
「あのよお、カツキが荒れたのは、お前がこっちをヴィランに仕立てたからじゃねえか」「え?どういうこと?」出久は驚いて問い返す。
「俺らがヒーローごっこしたりして、ちょっとヴィラン役の奴小突いたりすっと、いつもお前はそいつを庇いやがったろ。それがあいつは気に食わなかったんだ。お前も一緒にこっち側に加われば、カツキは怒んなかったと思うぜ」
 びっくりした。そんな風に思っていたのか。かといっていじめる側に加われるわけがなかったけれど。
「カツキは強えけど、どんな強え奴でも弁慶の泣き所っつうのがあんだよな。それがお前なんだよ。お前と揉めるまでは、あいつはやんちゃなガキ大将だったろ」
 彼が変わったのは、個性発現してからじゃないのか。いやそれだと4歳からということになる。あの後だって一緒に遊んでた。ではいつからだったんだろう。覚えてない。
「あの頃、あいつはお前に恋してんじゃねえのかって、皆思ってたんだぜ。本人は無自覚だったかも知れねえけどな。でも流石に今はあいつも自覚してんじゃねえの」
「だから恋なんて、何でそんなこと」
「お、そろそろ帰んなきゃな。じゃ、またな」
 腕時計を確認すると、幼馴染は風のように去っていった。伸びた影が遠ざかってゆく。
 後には動揺して立ち尽くす出久が残された。
 恋ってなんだよ。意味がわからないよ。

 パソコンで過去のオールマイトの動画をザッピングする。元気を貰う、日課のようなものだ。だが今夜はマウスを動かしながらも、出久は上の空だった。
 頭の中に幼馴染の言葉が離れない。彼の言ったことは本当なのだろうか。
 勝己が自分を好きだなんて突飛な話だ。大体好いている相手をいじめたりするだろうか。ないない。とてもあり得ないと思う。
 けれど、周りには違って見えていたらしいのだ。
 窓を開けるとすうっと夜風が吹き抜けた。カーテンが空気を含んでたなびく。眠る夜の町。灯りが蛍のように疎らに散らばっている。
 勝己は起きているだろうか。黒に沈んで彼の家は見えないけれども、青白い三日月の下に勝己の家があるはずだ。
 恋なんて勘ぐり過ぎた話はともかく、好かれていたのなら。それをあの頃知っていたなら、もっといい関係でいられたのではないだろうか。
 勝己は自分をどう思っていたのだろう。昔の話だし、今なら聞いてみてもいいだろうか。確かめないではいられない。
 僕は軽く考えていた。だがあまりにも浅薄だった。聞くべきではなかったのだ。


2・凍える羽搏き


 連休が終わり、久しぶりに出久は家から直接学校に向かった。休みの間の宿題を入れたリュックは、いつもよりちょっと重い。
 駅への道すがら、勝己にばったり会った。
「お、おはよ。かっちゃん」
 勝己のことを考えていたところだっただけに、挨拶する声が裏返る。同じ電車に乗るのだから十分あり得ることなのに。
「ああ」と勝己に軽く返される。
 昔はこんな挨拶をするだけでも罵倒されたけど、もうそんなことはない。ぶっきらぼうな物言いは変わらずとも、ちゃんと会話だってできる。今みたいなそっけない返事でも、声をかけたら返してくれるのが嬉しい。
「おいデク、ちんたら歩いてんじゃねえよ」
「あ、待ってよ、かっちゃん」
 隣に並ぶのはちょっと遠慮して、一歩下がって歩きながら考える。
 昨日幼馴染から聞いた話。子供の頃の勝己の真意がやっぱり気になる。今日の彼は比較的穏やかだし、機嫌がいいようだ。さりげなく聞いてみようか。
「あの、かっちゃん」
「んだよ」
「昨日ね、幼稚園の時からの幼馴染に会ったんだ」
「ああ?それがどうした」
「その時変な事言ってたんだ。かっちゃんは昔、僕を好きだったって」
「はああ?」くるっと勝己が振り向いた。「あるわけねえだろが!馬鹿言ってんじゃねえよボケカス。殺すぞクソが」
 久方ぶりに淀みない罵倒が降ってきた。しまった、怒らせてしまったと、出久は慌てて言い繕った。
「そうだよね、ゴメン。君が僕を好きなんて。あるわけないよね」
 好きだというなら、やはり長い間あんな酷い態度を取るはずがないのだ。無責任な言葉に踊らされて、全く何を馬鹿なこと言ってしまったんだろう。
「彼らが邪推してたんだね。おまけに恋してたんだろうなんて、言ってたよ。おかしいよね」
「黙れよ、デク」
 勝己の呟きが耳に入ったけれど、バツが悪くて早口で言い訳を続ける。
「僕らは男同士なのにね。ほんとおかしいよね。恋だなんて。よりによって君がなんてさ、だって…」
 勝己の顔が見られず、視線を逸らして否定の言葉を並べ立てた。
 だが全部言い終える前に乱暴に口を塞がれる。
「そんなにおかしいかよ?ああデク!」
「んん、かっちゃん?」
「なあデク、てめえはどう思ってんだ」
 口を塞ぐ手が少し緩められる。
「どうって?何を」
「俺のことをだ。てめえはどう思ってんだ?」
 宣告を待つように俯いて、絞り出すような低い声で、勝己は繰り返した。
「君はすごい人で……」答えながらじわじわと間違いに気づく。違う、彼の聞いていることは違うんだ。
「んなこと聞いてんじゃねえ、デク。てめえは俺をどう思ってんだ」
「僕は……」でも、何を言えばいいんだ。喉に言葉が詰まったようで、次の言葉を継ぐことができない。
「はっ!」勝己は吐き捨てる。「てめえは違うんだろ!わかってんだよ。昔からわかってんだ。てめえは俺を嫌な奴だと思ってんだろ。なのにてめえは俺に聞くのかよ。ああ?デク!ざけんな!」
 怒鳴り声とともに床に引き倒された。がつんと後頭部がアスファルトにぶつかる。くわんくわんと視界が揺れる。脳震盪を起こしそうだ。リュックを背負ってなければまともに打撲して、失神していたかもしれない。
「ちが……、かっちゃん」
「黙れよ、デク。それ以上喋んな」
 勝己の怒りを押し殺した声。くらくらした頭がざあっと冷える。
「ふざけんなよなあ!てめえにはその気はねえくせに!なんで俺に聞いた!馬鹿にしてんのかよ、クソが。もうなんも喋んな。殺すぞ!ボケカス!クソが!」
 激昂した勝己は周りのざわめきをよそに怒鳴る。
「クソが!クソが!そんな目で俺を見んな!俺を見下すな!侮るな!デク!」
 出久の襟元を掴んで勝己は咆哮する。苦しい。息ができない。
「クソが!クソが」と罵倒され、漸く手荒に振りほどかれた。
 出久は空気を吸い込んで、咳き込む。勝己は舌打ちして、何見てんだと周囲を威嚇して歩き去った。
 久しぶりに感じる彼への恐怖。震えが止まらない。と同時に、彼の怒りに燃えた瞳と言葉に気づかされた。
 僕はなんてことをしてしまったんだ。かの幼馴染の言っていたことは本当だったのだ。恋してたのだ。かっちゃんが僕を。信じられないことに。
 でも、それを指摘することで、彼が激昂するなんて思わなかった。ただ、子供の頃の勝己に、好意を持たれてたのならいいなと思って、確認してみたかっただけなのだ。どちらにせよ過去の話なのだから。昔のことは振り返らないと勝己は言っていたから。
 昔のことではなかったのか。君は今も恋を。
 時間が戻るなら馬鹿なことを言ってしまう前に戻したい。遠ざかる勝己の背中。追いつきたいのに、謝りたいのに、足が竦んで動かない。

「緑谷、どうしたんだ?」
 予鈴ギリギリに教室に駆け込んだ出久に、轟が話しかけてきた。
 慌てて「何が?なんか変?」と服をぱたぱたと叩く。服についた砂は掃ってきたつもりだけど、不自然なところがあるのだろうか。
あいつだ、どうしたんだ?」と轟は視線で窓際に佇む勝己を示す。
 目を向けてぞくっと背筋に冷気が走る。勝己の全身から吹き出す怒りのオーラが、目に見えるようだ。
「朝から爆豪の奴、酷え荒れようだぜ」
「だよなあ?近寄るだけですぐ爆破させてきやがる。生きた地雷みてえだ。またお前ら喧嘩したのかよ」
 切島に尋ねられ、「僕が?なんで」とどきりとする。
「爆豪があんだけ荒れるなんて、お前関連以外にねえだろ。あいつにとってお前は特別なんだからよ」
「そんなわけないよ!」
「ど、どうしたんだ、お前までムキになってよ」
「ご、ごめん」みんなにも勝己が幼馴染の言ってたように見えているのかと、焦ってしまった。切島は何か納得したような表情で尋ねる。
「やっぱり、お前らなんか揉めてんだろ。何があったよ」
「何があったんだ?緑谷くん」
 通りかかった飯田にも聞かれる。原因が自分なのは決定事項とさられたらしい。弱ったな。でも当たってるし。少し考えて、答える。
「言えないんだ。心配かけてごめんね。大丈夫、なんとかするから」
 無理に笑顔を作る。言えるわけがない。考えにくいが、もし逆の立場だったのなら、最悪なのは他の誰かに知られることだ。誰にも相談できない。一人でなんとかするしかない。
 僕はかっちゃんを恋愛対象に思えるだろうか。と考えてみる。
 無理だ。想像するのも難しい。男同士だ。とても考えられない。ましてやあのかっちゃんだ。
 真意を知らなかったとはいえ、長年いがみ合ってきたのだ。以前よりもマシになったけど、今もさほど会話できるわけでもない。到底気持ちに応えることなんて出来ない。近すぎて遠い。それがかっちゃんと僕との距離なんだ。
 君も僕となんて、考えられないと思ってたんじゃないだろうか。
 きっとそうだ。だからずっと黙っていたんだ。ひょっとして、雄英ではない別の高校に行けと、勝己が自分に強いたのは、それが理由だったのではないだろうか。
 僕にしても君にしても、いつか恋人を作るとすれば異性だろう。それに相性のいい相手にすべきだろう。君は君を怖がらない相手、僕は僕で緊張しない相手。君もそう思ってたんだろう。
 それなのに、僕は君の心を暴いてしまった。
 君の気持ちなんて知るべきじゃなかった。知らなければ、いつかはなかったことになったんだ。僕に知られるなんて、君にとって屈辱以外の何者でもないんだろう。
 好かれてる可能性を知った時は嬉しかった。本当だったのに、今の僕の気持ちは沈んでる。こんなことになるなんて。どうすればいいんだろう。
 出久は顔を上げて、正面にある勝己の背中を見つめる。彼の側に寄れるのは、前後に座る授業中だけだ。
 僕が仕出かしたことなんだ。何もしなければ、今度こそ君との関係は、修復不可能になるかも知れない。謝るしかない。
 どう言っていいのかわからないけど。ほかに思いつかない。君が許してくれるまで何度でも謝ろう。
 皆の目があるから、教室では話すことはできない。休み時間に教室を出た勝己の後を追う。渡り廊下に一人でいるのを見計らって、出久は恐る恐る話しかけた。
「かっちゃん、その、話が」
「クソデクが!寄んじゃねえよ」
 勝己は掌をこちらに向けて構えてる。
「かっちゃん、ごめん。僕はずっと君に嫌われてると思ってたんだ。だから、確認したかっただけなんだよ。怒らせるつもりじゃなかったんだ」
「喋んじゃねえっつったろうが!」
「聞かなかったことにするよ。忘れるから、かっちゃん、だから」
 瞬間、眼前で火花が散った。危険を察知して横に飛び退く。顔のすぐ側で爆発が起こった。
 キーンと耳鳴りがする。直撃コースだ。
「あ、危ないだろ。かっちゃん」
「はっ!次は容赦しねえ。退け!」
 肩を捕まれ、ぐっと乱暴に押しのけられた。足がもつれて倒れそうになり、円柱にもたれかかる。
 簡単に許してくれるなんて思ってない。でも、許してくれるまで諦めない。出久はじんじんと痛む肩を摩った。
 それから何日も、出久は勝己を追いかけては、幾度も謝ろうとした。そのたびに勝己は視線で殺せるほどの敵意を向けて、出久を罵倒した。
 出久が寄ろうとしただけでも、掌から火花を散らして威嚇する。諍いを止めようとしたクラスメイトも、とばっちりを受ける。取りつく島もない。出久の神経は次第に磨耗していった。

 ふと教室の窓の外に目をやる。
 窓枠に区切られた、重苦しく空を覆う鉛色の雲。まるで僕の心のようだ。出久はふうっと溜息を吐く。
 子供の頃のことじゃないか。いや、今もだとしても。なんでいつまでもへそ曲げるんだよ、と恨めしく思ってしまう。でも悪いのは自分なのだ。
 傷つけるつもりはなくても、相手が傷ついたなら、怒りを覚えたのなら、傷つけた者は悪なのだ。僕は昔のいじめっ子をそう断罪していた。身を持って知っている罪だ。なのに僕も彼らと同じことをしてしまったのだ。
 薄曇りの空に、ぱらぱらと木々の葉を打つ音。雨だ。
 教室の硝子を叩く雨粒を見ているうちに、出久の心は過去に引き込まれた。
 子供の頃の勝己は純粋に、憧れそのものだった。勝ち気な赤い瞳、上級生にも怯まないタフさ。彼のようになりたかった。
 オールマイトを知ってからは、目標は彼に変わってしまったけれど。それでも勝己の不屈の闘志や勝利を諦めない辛抱強さには、未だ変わらず憧れてやまない。
 気性が激しさは君の個性に相応しく、生命力そのもののような君が眩しい。
 でも、憧れと恋慕は全く違うものだ。
 雨が強くなってきた。窓硝子に水滴が幾筋も跡を付けてゆく。
 「放課後、待ってろよ」と中学生の時に勝己に何度も言われた。
 中学生の頃の勝己の取巻き連中は、小学生以前の仲間と違い、出久を虐めたりはしなかった。というより自分には目もくれなかった。それが普通だ。無個性な奴にわざわざ絡みにくるほど、彼らも暇じゃない。
 だが帰りのHRの前に度々、勝己は彼らから離れて出久の方に来ては、一方的に告げるのだ。放課後に待ってろと。
 何の用なのか、聞いても言ってくれない。だから、きっとろくなことがないに違いないと思い、待つことはなかった。逆になるべく早くに帰ろうとした。
 その度に勝己に見つかって詰られた。捕まって校舎裏や廊下の隅に連れて行かれて、小突かれたり、頭を抑えこまれたりした。
 やはりろくなことがないんだと、何度言われても一度も待ったりしなかった。でも逃げようとしても逃げ切ることは出来ず、いつも捕まった。
 今みたいな雨の日だ。
 早く帰るのではなく、裏をついて遅く帰ろうとしたのに、勝己に見つかってしまった。
 廊下の窓硝子を雫が伝って流れていた。勝己は自分を床に組み敷いて、下腹の上に馬乗りになっていた。両腕は拘束された。万力のように締められた手首が痛かった。
「逃げんな」
 吐息がかかるほど、勝己は顔を近づけた。
「逃げんなクソが。待ってろっつったろーが!いつもいつも逆らいやがって」
 じわりと勝己の掌が汗ばんできたのを、掴まれた手首に感じた。
「クソナードのくせに。虫ケラのくせに。クソが!クソが!この俺がてめえなんかに!」
 勝己は出久の手首を束ねて片手で拘束し直し、自由になった手で頬を撫でた。ひたりと湿った感触。ニトロを含有する汗。硬い掌が発火し、頬を爆破するんじゃないかと怯えた。
 個性の使用は禁止だから、勝己は相手に酷い火傷を負わせたりしない。手加減するのに長けてる。わかってても、かたかたと震えて、歯の根が合わなった。いつ殴られるのか、爆破されるのかと恐れた。
 ギリッと歯ぎしりをし、「待ってろと言っただろうが!」と言って見下ろす勝己が、ただ怖くて時が過ぎるのを、解放してくれるのを待った。
 あの時、勝己は出久を抑えこんで、顔に触れただけで何もしなかった。
 廊下の床の硬さと冷たさ。
 下腹を圧迫する勝己の重み。
「逃げんな、逃げんな」と譫言のように繰り返された言葉。
 頬に触れる体温の高い掌。
 雨だれがコンクリートを打つ音。
 群青色の雲が垂れ込めた空。
 今、恐怖の記憶が違った意味を持って思い出される。あの時勝己は、自分を傷つけるつもりではなかったのだろうか。
 何度も呼び出す理由を、難癖つけるつもりなのだと決めつけていた。いつも怖がってばかりだった。
 声が震えて体が震えた。条件反射になっていたくらいに。それは逆に彼を傷つけていたのだろうか。もう聞けるわけがない。
 小学生の時の仲間だけじゃなく、ひょっとして中学生の頃の勝己の取巻きの連中も、彼の心に気付いていたのだろうか。自分に構う勝己を、呆れたように見ているだけだった彼らも。
 ただ怖がって、勝己を避けるので精いっぱいで、何故絡んでくるのかなんて、一度も考えたことはなかった。
 思い至るわけがないよ。僕は君が何を考えてるかわからなかったんだから。
 君のことを嫌な奴だと思っていたよ。君のせいで僕の小中学時代の学校生活は灰色だったんだ。
 でも1番楽しかった思い出も、君とのものなんだ。
 君はいつも逃げるなと言っていた。ずっと僕は逃げていた。でももう、君と対話することから逃げたくない。逃げてはいけないんだ。
 授業が終わると、出久は教室を出て行く勝己を追いかけた。
「かっちゃん!」と呼ぶが止まってはくれない。呼びながら廊下を追いかける。
 勝己は階段の踊り場で「ああ?」と振り向いて、やっと立ち止まってくれた。
「しつこく付いて回りやがって。何が言いてえんだ」
「君の気持ちは嬉しかったんだよ、本当だよ」
「は!嬉しい、かよ」と勝己は吐き捨てるように言う。「随分余裕の口振りだよな。てめえ、優越感かよ」
「違うよ、君とは意味が違うけど、僕はずっと君とわかりあいたかったんだ。やっと君と和解したのに、こんなことでまた仲違いしたくないんだ」
「は!てめえにとってはこんなことかよ。ムカつくことしか言わねえな。クソが」
「ちが、ごめん、君を怒らせるつもりはなかったんだ。馬鹿にするつもりなんて、絶対なかった。そのことはわかって欲しいんだ」
「はあん、そうか」勝己は歪んだ笑みを浮かべる。「俺に悪く思われたくねえってか。大した偽善者だぜ」
「そんな。僕はそんなつもりじゃないよ」
「じゃあなんだ。てめえは俺にどうして欲しいんだ。俺に許して欲しいのかよ。は!随分図々しい言い草じゃねえか。おいデク、悪気がなければ、なんでも許されるなんて思うなよ」
 何を言えば君に届くのだろう。どう言えば君は聞いてくれるのだろう。
「どうすれば、償えるの?かっちゃん。償えるならなんでもするよ」
 思い余って紡いだ言葉は、正しかったのだろうか。
 言ってすぐに後悔した。何を口走ってるんだ。僕は。償うなんておかしいだろ。
 項垂れた出久を勝己は冷たく見据える。重たい沈黙が流れた。
「なんでもすんのかよ」
 いたたまれなくなった頃、勝己はやっと言葉を発した。冷たい声。しかし、出久は返事してくれたことにほっとした。
「うん。僕にできることならだけど。あ、もちろん法律に触れるようなことは駄目だよ。何をすればいい?」
「じゃあてめえ、俺に抱かれるか」勝己は顔を近づけた。鼻が触れそうなくらいの距離で繰り返す。「抱かせろや。デク」
 抱く、という言葉が頭の中でくわんくわんとエコーする。
「それは……無理だよ」震える声でやっと答える。
「ああ?なんでもっつったよな!てめえ」
「君に、こ、恋してないのにできないよ」
「はっ!できねえってか。できねえなら、なんでもするなんて言うんじゃねえ!クソが」
 勝己の形相が変わる。爆破される?直当てから逃げられない距離だ。
「おいおい、なんだなんだ!喧嘩かよ」
「なんだか知んねえけど、まだ怒ってんのかよ、爆豪」
 上鳴と切島が通りかかった。助かったと安堵する。
「うるせえ!てめえらには関係ねえ」
 勝己はドンっと出久の胸を突くと、去って行った。弾みで出久はよろけ、壁に背をぶつけて尻餅をつく。
「大丈夫か、緑谷。あいつのことは熱り冷めるまでほっとくしかねえんじゃねえか。時間が立てばあいつの怒りも収まるだろうし」
「ああ、どうにもならねえことはあるからな。時間が全部解決してくれるとは言えねえけど。待つしかねえこともあるぜ」
 切島と上鳴は自分を案じてくれてる。荒ぶる勝己に近寄る危険は、彼らもよくわかっているのだ。
「うん、でも時間を置いたりしたら、修復がきかなくなるかも知れない」
「うーん、そんなことねえと思うけど、いや、言い切れねえか。お前ら何年も揉めてたんだもんな」と上鳴は困り顔で腕を組む。
「もう嫌なんだ。何もしないで悪化するのを眺めてるだけなんて」
「そうか、ある意味奴と戦うってことだな。拳を交えて解決する方法を選ぶのも一理あるぜ。漢だもんな」
「ちょ、ちょっと違うよ。切島くん。でも、煙たがられても、やめるわけにはいかない」
「そっか」上鳴が肩を叩く。「理由、やっぱり言えねえのか?力になれるかも知んねえぜ」
「ううん、ごめん。言えなくて」
「そうか、でも困ったら言えよな。いつでも聞くぜ」
「ありがとう」胸がきゅうっと暖かくなる。
 級友達は優しい。相談すればきっと助けてくれるだろう。でも、そのためには勝己のことを、言わなきゃならなくなる。彼がずっと隠していたことを。それだけは駄目だ。
 もしかして幼馴染達のように、彼らも勝己の心に気づいているのだろうか。いや、推測するのはよそう。自分で解決すべきことなんだ。
 だがその日も、勝己は頑なに出久に怒りを向けた。謝ろうとするほどに、勝己はさらに態度を硬化させていった。関係を修復する糸口すら見つからない。かえって仲はどんどん悪化していく。焦るほどに歯車が狂っていく。
 徒労に終わる日々は出久を消耗させた。それでも、捨ておけないのだ。放っておいてはヒーローになれない。彼の怒りは自分の所為なのだから。

 出久は寮の自室に戻ると、鞄を下ろして溜息を吐いた。今日も勝己は剣呑として、一言も出久と話そうとしなかった。
 好意を持たれていた。本来なら嬉しいことのはずだ。なのに辛いだけだなんて。
 何故、好意だけじゃなく恋なんだろう。
 何故好意だけを抱いてくれなかったんだろう。
 恋ってなんなんだろう。
 子供の頃の勝己に好かれていたと聞いて、信じられないと思ったけど嬉しかった。でも恋と聞いて戸惑った。頭ではそんなに違いがあると思えなかったのに。でも心のどこかで、明確な違いを感じ取っていたんだろう。
 勝己は抱かせろと言ったのだ。そんな風に自分を、見ていたのだ。
 恋の正体はどんなにオブラートに包んでも、情欲なのかも知れない。恋は好意とは似て非なるものなんだ。
 好意は感情で、情欲は本能だ。
 ならば。性欲さえ解消できれば、落ち着いてくれるのか。
 そうだ、一度抱かせればいいんだ。勝己が言ったように。
 することすればスッキリするし、怒りも静まるんじゃないだろうか。自分も男だから、本能に抗えないことはわかる。男ってそういうとこがあるもんだし。
 出久は立ち上がり、パソコンを起動した。小窓に検索したことのない言葉を打ち込む。
 このまま険悪になるだけなんて僕は嫌だ。折角縮まった距離を諦めるなんて嫌だ。どうなるのかはわからない。でも、何もしないよりマシだ。とりあえずかっちゃんに提案してみよう。罵倒されたならそれまでだ。
 それに、抱かせろなんて、言ってるだけで、いざとなれば冷静になるかも知れない。
 僕は切羽詰まっていた。自分の傲慢さに気づいていなかったのだ。


3・戸惑う牙


「かっちゃん、起きてる?」
 皆が寝静まった頃に、出久は勝己の部屋を訪れ、ドアをノックした。
「入っていいかな」と問うてみる。
 返事はないけれど、起きてるようだ。衣擦れの音がする。ノブを掴むとくるりと回った。鍵はかかってない。
「お邪魔するよ、かっちゃん」
 そろそろと部屋に足を踏み入れる。暗い室内に廊下の光が差し込んだ。
「寄んな」
 ベッドの方から、低い唸るような声がした。夜の猛禽類のような、赤々と光る瞳が威嚇してくる。視線が合って怯んだが、勇気を奮って出久は後ろ手に扉を閉める。ドアの隙間から漏れる光が、闇に細く筋をつけて消えた。
「こんな夜にわざわざ来てよお、なんだデク、犯されてえのかよ」
 勝己は起き上がってデスクライトを点けると、ベッドに戻って座った。
「お、か、」
 直接的な言葉にぞくりとする。慄いて後退りしたのを勝己は見逃さない。ニヤリと笑って立ち上がり歩み寄ると、いきなり足を払って出久を絨毯の上に引き倒した。
 馬乗りになって、見下ろしてくる勝己は悪鬼のようだ。怖くてたまらない。ひくっと喉が鳴る。
 でも逃げちゃいけない。覚悟してきたのだ。出久はすうっと息を吸った。
「それで君の怒りが収まるのなら、いいよ」
「はあ?てめえ、わかってんのかよ。セックスするっつってんだぞ」
 ごくりと唾を飲む。「いいよ、何をするのかはわかってるから」
 とりあえず調べてはみたのだ。男同士のやり方を。正直、余計に怖くなってしまったのだけど。
「いいよ」と勝己をまっすぐに見上げる。
 一回やってみたら、彼の鬱憤が解消されるかも知れないと、その可能性に賭けたのだ。グラウンドベータでの対決の時みたいに。
 勝己は驚いて硬直している。意表を突けたようだ。
「わかってるだと?おい、デク」
 すうっと部屋の温度が冷えたような気がした。
「かっちゃん?」
「てめえ、まさか、やったことあんのかよ。言え!誰にやられやがった!」
 知ってると言ったから、経験したと解釈されてしまったのか?しかもやられたって、男にってこと?
「ないない!ないよ!なんでそうなるんだ」
「クソが!紛らわしいわ!」
「君もしたことないよね?」
「ああ?うるせえわ、クソナード!」
「ないよね?だったらさ、一回やってみようよ?ね?」
「てめえは……」
 そう言いかけて勝己は黙ってしまった。冷静になると恥ずかしさが押し寄せてくる。何言ってるんだろう、僕は。まるで僕から積極的に誘ってるみたいじゃないか。かっちゃん呆気に取られてないか?
 ひょっとして、抱くって言ってたのも、言葉だけで本気じゃなかったかも。
「ご、ごめん、君にその気がなければ、今のなしで」
 出久は狼狽えた。顔が羞恥で熱くなる
「身体だけなら、てことかよ。てめえはまた!また!」勝己は拳を床に叩きつける。「俺を虚仮にしやがって!クソが、クソが!」
「違うよ。虚仮にしてなんかない、かっちゃん」
 怒らせてしまった。また間違ってしまったのか。
 だが罵倒しながらも、勝己は出久の顎を掴んで口を開けさせ、口付けた。隙間なく唇で塞いで食らうようなキス。歯がぶつかった。吐息を奪われる。
 本気だ。かっちゃん。口内を這う舌の音が内側から鼓膜を震わせる。
 キスを交わしながら、勝己は出久を抱き起こし、、縺れるようにベッドに倒れ込んだ。
 食むようなキスが続き、音を立てて唇が離される。勝己は出久のTシャツの中に手を入れて肌を弄り、邪魔だとばかり破りそうなほど荒々しくシャツを剥いだ。体を起こして勝己もTシャツを脱ぐ。性急さに戸惑って、出久はハーフパンツにかけられた手を押さえた。
「ま、待って、かっちゃん」
「ああ?んだよ!」
 出久を見下ろすギラついた瞳は、獰猛な獣のようだ。
「やっぱり難しいんじゃないかな。男同士なんて」
「ああ!今更てめえ、ざけんじゃねえ!舐めんな。できるわ!」
「もう一度確認するけど、かっちゃんも経験ないよね」
「あ?それがどうした」
「べ、勉強してからの方がよくない?」
「デクてめえ、逃げんのか。ここまできて怖気づいたのかよ」
「そ、そんなことないよ」
 覚悟してきたくせに、いざとなると怖い。それを看破されている。
「もう遅えわ。クソが」
 あっという間に一糸纏わぬ姿にされた。勝己も裸になり、出久の上にのしかかり身体を重ねてくる。
 ひたりと直に触れる人の皮膚。引き締まった筋肉の重み。胸と腹に感じる自分より少し高い体温。下腹部に体毛と硬いものが当たってる。これは、勝己のあれだ。勃起してる。かあっと顔から火が出そうになる。
 勝己の唇が首に触れて押し当てられ、ちゅうっと吸い付く。出久は目を瞑った。もう、止められないんだ。
 キスは跡を付けながら、胸、腹、脇腹に降りてゆく。

 脱力した身体がずしりと重ねられる。ふうっと首元で勝己が息をつく。
 この生々しさが恋なんだ。
 好きということと恋じゃ全然違うんだ。
 疲労で手足が重い。頭に霞がかかったようだ。
 ポツリと勝己が呟く。「自己犠牲かよ。反吐が出るぜ」
 ぎゅうっと抱きしめられた。抱き潰されそうだ。
「かっちゃん」出久は呼んでみた。喘ぎ過ぎて、声が枯れている。
「デク、デク」と勝己は呼ぶ。どちらのものとも知れない汗で濡れた肌。
 背にまわされた皮の分厚い勝己の掌が、じわりと熱を帯びてゆく。
「殺す。てめえを殺してやる。クソが」
 かっちゃんの怒りは収まらなかったのか。情欲を解消しても。そう簡単にはいくはずなかったんだ。全然簡単じゃなかったけれど。
 うっすらとニトロの香りが漂う。かっちゃんの掌が汗ばんでるんだ。このまま爆破されるんだろうか。くっついてたら、かっちゃんも火の粉を浴びるけれど。疲れて動けないから避けられないな。
 でも怖いと思わない。何故だろう。不思議だ。
 出久はすうっと意識を手放した。


4・ぬかるみの足跡


 翌朝。目覚めると間近に勝己の顔があった。吃驚してひゅうっと息を呑み、硬直する。
「やっと起きたんかよ、デク」
「う、ん、おはよう」
 昨晩は勝己の部屋で寝てしまったのか。ふたりとも裸のままだ。いつから寝顔を見られてたのだろうか。
 背中は、痛くない。爆破されなかったんだ、とほっとする。
「てめえ、寝落ちしやがって。クソが」
 勝己の口調は落ち着いている。文句を言ってるけれども、言葉に棘はない。機嫌が治ってるようだ。
 勝己は出久の背中に腕を回し、ぎゅうっと抱きしめてきた。身体が密着する。目の前に綺麗な鎖骨。分厚い胸。身動ぎすると、力強い腕が逃がさないとでも言うように、封じ込めてくる。
 微かに甘い、勝己の匂いだ。
「朝飯食いにいくか?」
 と話しかけられ、コクコクと首肯する。やっぱり機嫌がいい。
 嵐のようだった昨夜の行為。最初の噛みつくようなキスに、きっと酷く扱われるだろうと覚悟していた。手荒いセックスを覚悟していた。だが、入れられた時はすごく痛かったものの、前戯は念入り行われたし、挿入した時も痛くないかと聞かれた。思いの外優しい抱き方だった。
「折角の機会なんだから、楽しまなきゃ損だろうが。童貞」
 出久の思考を読んだように、勝己は揶揄ってくる。勝己は出久の額にキスをして腕を解くと、ベッドから抜け出して、立ち上がった。
「君もだろ」と言って見上げると、勝己のペニスが目に入った。どきりとして目を逸らす。
 昨日の勃起した状態と違い、通常の形に戻っている。あれが昨夜僕の中に入って、暴れ回ってたんだ。君と身体を繋げたなんて信じられない。今更ながら頬が熱くなる。
「今更なに照れてんだ、てめえ」
 勝己はニヤッと笑い、腰を揺らして振って見せる。子供みたいだ。
「腹減ったな」と言いながら、勝己は脱ぎ散らかした服を拾って、身に付けている。
 自分も服を着なきゃ、と出久は腰を上げようとしたが、股の間に違和感を感じ、「うわあ」と呻いて突っ伏した。まだ挟まっているかのような感触が、昨晩の出来事を現実なのだと突きつけてくる。
 勝己は呆れたように笑うと、散らばった出久の服を「さっさと着ろよ」と投げて寄越した。礼を言って受け取り、そそくさと身に付ける。
「まだ時間あるし、さくっとシャワーでも浴びに行くか、デク」
「そうだね。汗かいちゃったし」
 立ち上がろうとして、痛みに足元がふらついた。ざまあねえな、とにやつく勝己に腕を支えられる。
 風呂場を出て、上機嫌の勝己と廊下を連れだって歩く。尻の痛みはシャワーを浴びたおかげで、幾分か和らいだ。
 出久は自分に言い聞かせる。僕は間違ってなかったよね。
 食堂の入り口で、丁度出てきた上鳴とすれ違い、声をかけられた。
「うっす、お揃いで珍しいじゃねえか、爆豪、緑谷」
「おはよう。上鳴くん」
「でもおせえじゃん。俺もだけどよ。ちょっと寝坊しちまってよ。皆先に食って、学校行っちまったぜ」
「ね、寝汗かいたから、シャワー浴びてたんだ。朝浴びると気持ちいいよね」ちょっと狼狽えて早口になる。
「そっか。爆豪、なんか機嫌いいじゃねえか。お前ら仲直りしたのかよ」
「うっせえ、クソが」
「う、うん。おかげさまで」
「何が原因だったのか、やっぱり言えねえか、緑谷」
「うんまあ、大したことじゃないんだ。心配かけてごめん」
「おい、遅えんだろうが、無駄口たたいてんじゃねえ。行くぞ、デク」
 勝己に腕を肘で突かれる。
「うん、じゃ、上鳴くん、学校でね」。
「緑谷、あのよ」と上鳴は言いかけて口籠り、再び口を開く。「俺が言えることでもねえな。よかったな、爆豪。もう喧嘩すんなよ」
「うるせえわ。飯食ったんだろ、さっさと行けや」
 朝食を乗せたトレーを持って勝己は席に着き、腕を引っ張ると隣に出久を座らせた。勝己と隣あって食べるなんて久しぶりだ。合宿以来だろうか。
 パンを齧りながらふと思い至る。ひょっとして、さっき上鳴くんは僕じゃなく、かっちゃんによかったなって言ったのだろうか。
 気づいているのかも知れない。いつも勝己の側にいる彼らだ。でも聞かないでいてくれるのも、きっと優しさなのだ。どこまで知ってるのかなんて聞けないけれど。
 でも、ほんとにこれで良かったのだろうか。セックスはしたけれど、勝己の意に沿えるわけじゃない。機嫌はいいのは一時的なもので、また怒り出すのかも知れない。その場しのぎに過ぎないのだ。でも他に方法を思いつかなかった。
 その日の勝己は出久だけでなく、周りに対しても穏やかだった。久々に訪れた平和な日だった。
 性欲を解消したからだろうか。即物的な方法だったけれども。これで良かったんだ、と出久は安堵した。
 しかし、その安堵はほんの短い間だった。

 放課後になり、寮に戻ると勝己が玄関先で待っていた。
「かっちゃん?どうしたの?」
 勝己はこっち来いとばかりに指を曲げる。出久が側に歩み寄ると、肩を抱き、耳元で囁いた。
「おいデク、後で部屋に来いや」
「え?なんで」
「わかんだろーが」
 出久は驚いて離れようとしたが、肩を強く掴まれ、逃れられない。
「あれは、一回だけのはずだよね?」
「ああ?何言ってんだてめえ」
 勝己に腕を取られ、引きずられるように部屋に連れ込まれる。
「誰が一回で終いだっつったよ。俺の気の済むまで、てめえは俺の相手をすんだよ」
「でも、僕は君をそんな風には思えないんだよ」
「てめえの気持ちなんか知るかよ!」
「かっちゃん、でも」
「俺は一生言わねえつもりだったんだ。暴いたのはてめえだ。面白半分によ」
「そんな、面白半分になんて、違うよ」
「償いてえんだろ。許して欲しいんだろ。おら脱げ!今からセックスすんだよ」
 勝己は出久をベッドに突き飛ばし、ズボンのベルトを外した。戸惑う出久に覆い被さると、口付ける。確かに一度だけなんて約束はしてない。ならばもう一度と言われても呑むしかないのか。
 うつ伏せにされ、丹念に慣らされ、背後から貫かれる。
 揺さぶられるほどに、身体を穿ち、埋めてゆく。
 最奥まで抜いては挿れられる質量。
 汗ばんだ身体に被さる重みと、名を呼ぶ熱を含んだ声。
 熱い楔は緩やかに身体を穿ち、奥深くで動きを止める。
 背後から抱きしめる腕は、離してはくれず、出久が身じろぎすると、さらに力が籠められた。

 勝己は落ち着いた。これまでの荒れようが嘘のように。
 無闇に人に噛み付かなくなったので、クラスメイトもほっとしている。
 だが、元に戻ったわけではない。疲労が激しい時以外は、出久は毎夜のように性交を求められた。二度目の時に宣告されたのだ。勝己の気の済むまで続けるのだと。出久に断る道理はなかった。
 とはいえ、勝己は口調は荒いが抱き方は優しく、事後はとても機嫌がよい。断る理由はもはやなかった。

 背中に感じる鍛えられた筋肉。汗ばんだ皮膚がひたりと吸い付く。再びデク、と呼ぶ声と共に、首筋に熱い息が吹きかけられる。
 勝己とのセックスは、優しかったり激しかったり、日によって気まぐれだ。
 ベッドですることが多いけど、今みたいに違う場所ですることもある。明かりをつけたままでされたり、姿見の前で挿入されたり、恥ずかしくなるようなこともする。
 でも、なるべく勝己がしたいようにさせた。セックスした後の彼は機嫌がいいからだ。出すもの出せばすっきりする。即物的だが男の生理とはそういうものだ。
 けれども、これでいいのだろうか?
 一度だけだと思ってたのに、もう何回彼としたのかわからない。
 気持ちが伴わないのに、身体だけが慣れてくるのだ。身体を重ねることに、受け入れることに。ペニスを咥えるなんてこと、ちょっと前ならとても考えられなかった。
 本当にこれで良かったのだろうか。
 泥濘に足を取られて這い上がれなくなるのではないだろうか。
 迷いは膨らみ、煩悶は澱のように沈殿していった。


5・甘噛みと囁き


 ある日から、ぱたりと勝己は出久を誘わなくなった。
 寮に帰っても挨拶程度の話しかせず、ましてや色事を匂わせるようなことは、全く言わなくなった。
 始めはその気がない日もあるのだろう、と思った出久だったが、毎日のように部屋に連れ込んで抱いていたのだ。何もない日が何日も続くと、何か気に触ることをしたのだろうか、と不安になってきた。思い出せる限り身に覚えはない。
 勝己は怒ってる様子もなく、出久を無視するわけでもない。気まぐれに過ぎないのだろうか。
 出久は戸惑った。勝己の真意がわからない。セックスのことなんて聞きにくいのだけど、気になってしまう。
「あの、かっちゃんいる?」
 ドアをノックすると、「入れよ、デク」と中から返事が返ってきた。ぶっきらぼうだけれど、不機嫌ではないようだ。
「あんだ?デク」
 勝己はベッドに座っており、出久を見据えて促す。どう切りだそう。意を決して勝己の部屋に来たけれど。
「かっちゃん、その、もうしないの?」逡巡したすえについ直球で問うてみる。
「あ?何をだ?」
「その、あれのことだけど」出久は言葉を探すが思いつかない。
「あー?セックスしてえのかよ」
「そ、そういう意味じゃないよ。その、もういいのかなって」
「へえ」勝己は目を細める。「セックスじゃねえならなんだ」
「ごめん、好きでも、毎日したいわけじゃないよね、じゃ」
 恥ずかしくなって、部屋を出ようとする出久の背中に「待てや、デク」と勝己は呼びかける。
「てめえ、勘違いしてんだろ」
「なんのこと?」出久は振り返った。
「てめえ、俺がてめえを好きでやってたと、思ってんのかよ」
「かっちゃん?」
 勝己は悪辣な笑みを浮かべた。勝己が勝利を確信して、相手に勝ち誇る時の表情だ。嫌な予感がした。
「はっは、俺がいつてめえを好きだと言ったよ」
「え?だって君が」
 いや、確かに勝己ははっきりとは言ったことはない。でも、そんなこと。一体彼は何を言ってるんだ。
「俺は一度もてめえを好きだなんて、言ったことねえよなあ、デク。てめえが勘違いしただけだろーがよ」
「でも、かっちゃん」
 指先が冷たくなってゆく。
 勝己は嘲笑った。「はっは!俺に抱かれてよがって、気持ちよかったんだよなあ。デク!雌みてえに俺のちんこ咥えこんで、悦んでたもんなあ」
 何も言葉を発せられない。頭が熱くなってくる。喉に石が詰まったようだ。
「だって君は。君がそうだと思ったから、だから僕は君に抱かれたんだ」
 なんとか言葉を絞り出す。そうじゃなければ、何故抱かせろなんて言ったんだ。何のために自分は抱かれたんだ。勝己は膝を叩いて笑う。
「はっ!いい気になってたんだろう。俺に抱かせてやってるつもりだったんだろーが。好かれてると思い込んでよ。馬鹿はてめえだ。まんまとてめえで童貞捨てさせてもらったわ!」
 勝己の言葉が突き刺さる。勝己は自分嘲笑うために抱いたというのか。
 指先を凍らせた冷気が腕を登って胸に届く。すうっと心臓が冷えてゆく。足元が崩れて沈み込んでしまうような錯覚を覚える。
 勝己の笑い声が頭に反響する。
 立ってられない。もうこれ以上ここにいられない。
「そっか。君がもういいなら、もう終わりなんだね」
「ああ?」
「でも、男相手で童貞を捨てたことには、ならないと思うよ。かっちゃん」
 平静を保とうとしても声が震える。勝己の顔を見られない。踵を返して部屋を出ると
出久は廊下を駆けた。
 後ろから勝己の怒鳴り声が聞こえる。でも振り返ってられない。
 足早に階段を駆け下りて自室に駆け込み、ベッドに突っ伏した。
 好きではなかったと勝己は言った。恋じゃなかったのか。自分が勘違いしてただけだったのか。
 でも最初に恋という言葉をうっかり口にしてしまい、否定してしまった時の勝己の怒りは、本物だったのだ。無駄な偽りを言う彼ではない。なら、答えは一つだ。
 抱いて想いを遂げたから醒めたのだ。もう恋はなくなったのだ。
 もとより恋というのも、ただの子供の頃からの、思い込みだったのかも知れない。彼にとっても不本意な思いだったんだ。
 これで良かったんだ。
 溜まっていた諸々を解消されて、かっちゃんの怒りは収まったのだ。僕はもう自由になったのだ。
 なのに。解放されたはずなのに。思いのほか傷ついている心に気づかされる。ほろほろと涙が溢れて止まらない。刀で裂かれたように、胸が痛む。
 ああ、今の僕は君に恋をしているのだ。君をそんな風に思ってなどなかったのに。
 悲しくて苦しくて堪らない。終わってしまってから気づくなんて。
 望むと望まざるに関わらず、恋は予期せぬ時に嵐のように心を蹂躙するものなんだ。まるで災難のようだ。
「身体で堕ちるなんてあんまりだ」
 声に出してみる。言葉にするとなんて月並みなんだろう。
 ああ、そうか。肌の触れ合いも人の交流方法のひとつなのだ。
 君の体温が、睦言が、身を貫く熱が。言葉じゃ伝え合うことのできない、君との唯一の対話の方法だったのだ。
「馬鹿なのは僕だ」
 僕の愚かさを君はわかっていたんだろう。君のことを慮るのなら、たとえ長くかかるとしても、僕は君の心が整理されるまで、待つべきだったのだ。二度と心を開いてくれなくても、甘んじて受けるべきだったのだ。
 でも僕は待てなかった。君との関係をもう二度と悪化させたくなかった。取り返しようがなく距離ができてしまうことを恐れた。
 でもそれ以上に、僕は君を傷つけた悪者になりたくなかった。罪悪感に苛まれたくなかった。きっと君のためなどではなかったのだ。
 自分のために人の心を操ろうとするなんて傲慢だ。だからこうなるのは当然のことなんだ。偽善者の報いなんだ。
 涙の雫で枕が濡れてしまった。
 かっちゃんとのことはもう忘れよう。過ちは償ったのだ。かっちゃんは僕を貶めて、気は晴れただろう。
 今夜は無理だけれども、涙が止まらないけれど、明日になればきっと立ち直れる。
「大丈夫。僕なら大丈夫だ」声に出してみる。暗示をかけるように繰り返す。「大丈夫。何もなかったように、元に戻れるはずだ」
 僕らの間には、何もなかったんだと思えるようになれる。
「デク!てめえ!」
 バタンと勢いよくドアが開けられた。目を釣り上げて、勝己が立っている。
「かっちゃん?な、何だよ」
「はっ!なんだてめえ、べそかいてんじゃねえかよ。泣き虫がよ」
 出久の顔を見て、勝己の形相が和らぎ、得意げに嘲笑う。
「こ、これは別に、なんでもない。何しに来たんだ」
 急いで身体を起こして涙を拭った。勝己はズカズカと部屋に入ると、出久の肩を掴み、どすんと押し倒す。
「な、何?なんのつもりだよ、かっちゃん。君とはもう関係ないだろ」
「ああ?なんだてめえ、その言い草はよ。謝るときはしつこく食らいついてきたくせによ。今回はあっさり引き下がりやがって。クソが!」
「だって、もう僕らは終わったんだろ。かっちゃんの気は済んだろ。これ以上何だよ」
「はあ?ボケカス!勝手に終わらせてんじゃねえわ。誰がやめるっつったよ。クソが」
「かっちゃん?」
「てめえはほんとにカスだな。んなこったろうと思ったわ。自分から手の中に転がり落ちて来た馬鹿を、この俺が逃すわけねえわ!」
 勘違いだと言ったくせに、訳がわからない。
「君に恋心がないのならもう付き合う理由がないよね?」
「あるわ。おいデク!てめえ、俺に抱かれたいんだよなあ。認めろや」
「かか、かっちゃん?意味がわからないよ」
「抱かれてえんだろが!デク、てめえさっき身体で堕ちたっつったよな」
「き、聞いてたの?」
 勝己はいつからドアの外にいたのだろう。まるで気づかなかった。こっそり来て聞き耳を立てていたのか。どこから独り言を聞かれていたのだろうか。
「違うよ、あれは」
 顔がかあっと熱くなる。どう言い繕えばいいんだろう。
「てめえ、自分で恋に堕ちたと思ってんのか?」
「え?どういう意味」
「はっは!てめえは勝手に堕ちたんじゃねえよ。俺がてめえを堕としたんだ。てめえは堕とされたんだ、この俺によ」
「かっちゃん?何言ってるの」
「てめえがいきなり部屋に来て、俺にやっていいって言いやがった時、マジで殺意が湧いたぜ。ンなことあっさり言えるってことがよ。てめえにはその程度のことなのかよってな。これ以上ねえってくらいムカついて、てめえをめちゃくちゃにしてやろうかと思ったわ」
「ごめん、かっちゃん」
 今ならどれだけ心無いことを言ったのか、理解できる。
「だけどな」と勝己は続けた。「思い直したんだ。てめえは贖罪にきたんだ。てめえ勝手な贖罪だがよ。乱暴にしたら、てめえの思い通りになっちまう。一度抱いただけで済ませてたまるかってんだ。だから、てめえを堕とすことにしたんだ。計算通り、てめえはまんまと堕ちた。認めろよ、デク。俺に抱かれてえんだろうがよお。なあ、そうだろ、クソナード」
「かっちゃん」
「俺はてめえが好きじゃねえ!全然好きじゃねえわ!でも、てめえは俺を好きなんだろ。欲しいんだろうが。そう言えや。肯定しろやデク!」
 好きじゃないと言いながら、堕としたという。認めろと迫り、僕に好きだと言わせようとする。矛盾してる。むちゃくちゃだ。
 でも。僕はほっとしている。かっちゃんの恋が醒めたんじゃないということに。
 君が僕を欲しいと思うように、今は僕も君を欲しいと思っているんだ。君がここに来てくれたことを、理不尽な言葉を、嬉しいと思ってるんだ。
 君の思惑にまんまと乗せられたのかも知れないけれど。もう墜ちる前に戻れはしないんだ。
 出久は肯定の返事として、こくりと頷いた。勝己は満足そうに口角を上げる。
「はっは!デク、デク!もう今までみてえに手加減してやらねえ。コンドームなんざつけるかよ。一晩に一回で足りるかよ。これからだ。全部これからだ。俺が飽きるまでずっとてめえは俺のもんだ。飽きなきゃあ一生、死ぬまでずうっと俺のもんだからな。覚悟しろや」
 勝己は勝ち誇ったように笑う。
 あれ?条件が酷くなったようだぞ。かっちゃんにしては優しいやり方だと思っていたけど、やはり手加減してたんだ。
 勝己は出久の唇を食むように甘噛みし、がぶりと噛み付くように深いキスをする。
 口腔を荒々しく暴れる舌。最初の交わりの時のような濃厚な口付け。息を奪われる。窒息しそうだ。
 漸く唇が離れ、開放されてやっと空気を吸い込む。
 赤い瞳が返事を促すように見下ろす。
 彼は相当押さえていたのだ。それは今のキスでよくわかった。今後は容赦しないと、そう目で告げている。
 本気のかっちゃん相手に、どうなっちゃうんだろう。でも怖くはない。
「うん、わ、かったよ」
 呼吸がまだ戻らない。途切れ途切れに言葉を紡ぐ。勝己はすうっと目を細める。
 再び唇の触れそうなほどかがみ込み、吐息混じりの声で囁く。
「でも、ちったあてめえの言うことも聞いてやるわ。言えよ、デク。俺にどうして欲しいんだ」
 ああ、彼は僕の何倍も我儘で傲慢で、一枚も二枚も上手だったのだ。


6・橙色の思い出


「疲れたよ、かっちゃん」
 ふうふうと息を弾ませて、僕は前を歩くかっちゃんに呼びかける。
 裏山を流れる川の上流に遡って、随分と歩いてきた気がする。
 鶺鴒だろうか。川面をついっと滑るように飛んでいる。
 セキレイイザナミイザナギが、尾を振るの見て何かを知ったんだっけ。前にかっちゃんが得意げに教えてくれたけど、思い出せない。
 川べりの岩が下流に比べて、かなり大きくなってきた。ゴツゴツした岩で足が滑りそうになる。
 ふいっと前を赤蜻蛉が横切った。
「だらしねえな、デク」
 かっちゃんが手を伸ばした。僕はその手に縋るように捕まる。肉厚な掌はしっかりしてて頼もしくて、安心する。
 そのまま手を繋いで歩を進めた。川の流れが次第に細くなり、岩を穿った小ぶりな滝に繋がってゆく。
 ようやくかっちゃんは立ち止まった。着いたぜ。と顎をしゃくる。
 見上げると、空を覆うように2つの大きな岩が聳えていた。大きな岩と岩は寄り添うようにくっついている。岩の間に挟まれて、人がやっと通れるくらいの隙間があり、隙間の向こうには遠く山の端が見える。
「もうちょっと待てや。そろそろだ」
「何?何か起こるの?かっちゃん」
「黙って見てろや」
 かっちゃんはウキウキしてるみたいだ。
 ふと、岩の隙間の上部がキラリと光った。
「何なに?」
 隙間を覗いてみると、紅色の夕陽が見えた。陽が降りるに連れ、眩しく光が射し込んで広がり、両方の岩肌を橙色に塗りつぶしてゆく。美しさに疲れも吹っ飛んだ。
「すごく綺麗だね。かっちゃん」
「こないだ山登ってて、ここを見つけたんだぜ。俺の特別な場所だ」と言い、くるっと僕を見る。「てめえだから見せてやんだからな」
 かっちゃんは得意げだ。特別と聞いて嬉しくなった。手を繋いだまま、しばらく見惚れているとかっちゃんが口を開いた。
「デク、見せてやったんだから、てめえの特別を寄越せよ」
「え?見返りがいるの?」びっくりして聞き返した。
「たりめーだ、クソが!」
 頼んだわけでもないのに、お礼を要求されるんだ。やっぱりかっちゃんだった。
 とはいえ、夕陽はとても綺麗だし、かっちゃんの言葉が嬉しかった。
 僕にも彼に見せられるような、いい景色はないだろうかと考えてみたが、思いつかない。
「ごめん、かっちゃん。僕は素敵な場所なんて知らないんだ」
「クソが。場所じゃねえ」
「じゃあ、もの?」まさかと思って、恐る恐る聞いた。「僕のオールマイトのフィギュアとか?」
「クソが!てめえのお宝なんぞいんねえ。俺はてめえみてえなコレクターじゃねえよ」
「でも、僕は何も持ってないんだよ」
 君と違って、という言葉は飲み込む。ここで言う言葉じゃない。
「あんだろ。てめえの特別を寄越せって言ってんだ」
「だから、持ってないよ」
 かっちゃんはふくっと膨れてしまった。
「わかんないよ。かっちゃん」
「クソナードが」
 それっきりかっちゃんは黙ってしまった。視線を僕から外して、岩に向けてしまう。怒ったのだろうか。そっと顔を伺う。
 眉間に皺は寄ってないし、そんなに機嫌を損ねたわけじゃないようだ。
 かっちゃんは僕の手をきゅっと握り直し、そのまま一緒にポケットに入れた。ジャンパーの中で、かっちゃんの手がすりすりと僕の手を摩る。
 川からの風で思ったより冷えていたみたいだ。かっちゃんの体温に手が温められる。
「特別を寄越せや」
 かっちゃんはぽつりと繰り返す。
 岩の隙間から覗く橙色の空が朱い色に染まってゆく。
 夕陽は色の白い幼馴染の頬も赤く染めていく。

END