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白い庭白い猫

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 縁側に出て、白い玉砂利が敷き詰められた庭を見渡した。
 大きくて旧い日本家屋だ。元は寺社奉行の屋敷だったという。今は鬼灯や椿などの庭木が植えられているが、元はこの庭は白州だったのだろう。
 玉砂利に罪人が縛られて座し、広い縁側には奉行が座り、裁きを下していた場所。
 太宰はふっと笑う。元ポートマフィアの私にとって、随分皮肉な場所じゃないか。
 胡座をかいて座り、板敷の溝を指で辿る。着物の裾が脹脛を擽ぐる。洋服は衣紋掛けに掛けて鴨居に吊るし、引き出しに入ってた浴衣を着用することにしたけれど。和服は慣れないな。
 ここは特務課の種田長官から充てがわれた潜伏場所。横浜から遠く離れた、古都の外れの、古びた街中にある屋敷だ。 平屋で部屋は多く、広い居間に書庫に書斎、箪笥部屋に檜の浴室などを備えている。
 屋敷の外には2つの門がある。
 玄関から石畳を伸ばした先にある大門と、庭の生垣に隠れた狭い裏門。
 訪れる者はほぼいない。使用人の老婆だけが早朝に来て、朝昼晩の食事の用意をまとめて用意して帰る。梅干しのような顔をした、足腰の矍鑠とした老婆。朝寝坊が癖になってきたので、姿を見たのは一度きりだ。
 猫の鳴き声が聞こえて振り向いた。襖の隙間から、影がさらりと横切るのが見えた。丁度通り過ぎたところか。
 和服を着て猫と二人暮らしなんて、まるで小説家だ。日がな一日文机に向かい猫と戯れる。織田作の求めた生き方のようだなと思う。
 だが、その猫の姿を、未だに見たことがない。
 気配と鳴き声、二階から聞こえる足音。確かに家の中にいるようなのだが、いつも目を向けると姿はない。白い猫か黒い猫か、はたまた三毛猫なのか。
 経歴洗浄に2年か。ふうっと溜息をつく。途方もなく長く感じてしまう。今までしてきたことを考えれば仕様がないが。 種田長官からすれば、森さんへのしっぺ返しにもなるし、損はないだろうと計算して取引した。しかし、人に身を預けるのは頼りない。
 退屈すぎて何度も自殺を試みた。首を吊り、頚動脈を切り、手首を切って水に浸した。だが毎度、こと切れる前に息を吹き返してしまい、果たせない。包帯を巻く箇所が増えるばかりだ。
 苦しいのも痛いのも嫌だ。失敗するとそれしか残らないから、やる気が失せてしまった。
 縁側の縁から足を出して、ゆらゆらと揺らす。暇だ。書庫にある本でも読もうか。
 立ち上がろうとした瞬間、バイクのエンジン音の止まる音が、大門の方角から聞こえた。
 種田長官だろうか。だが、彼はいつも訪問するときは車ではなかったか、いきなりバイクで来たりするだろうか?
 いぶかしく思っていると、大門の方角から怒鳴り声が響いた。
「おい糞太宰!いるんだろうが!出て来やがれ。出てこねえと、この家ぶっ潰す」
 嘘だろう。中也じゃないか。追ってくる可能性は多少考慮していたが、何故今ここに、このタイミングで。最悪だ。
「隠れても無駄だぜ。裏は取れてんだよ。3つ数えたらこの屋敷潰すぞ。いーち、にー」
 みしり、と家屋が軋んだ。本当に潰すつもりのようだ。
「わかった、今出るよ」
 仕方なく重い腰を上げて、玄関に向かう。門を開けられた音がした。老婆が出入りするので閂はかかっていないのだ。引き戸を開けると、見慣れた黒スーツの黒帽子が立っていた。
 中也は勝ち誇るように笑った。 「よお、太宰」
「なんで中也なんかに、ここがわかったんだ」
「ああ?なんかとはなんだ。手前の作った情報網舐めてんじゃねえよ。他の組織や特務課の隠れ家の情報も、きちんと調べて揃えてんじゃねえか」
「…そうだったね。自分の優秀さが残念だよ」
 出奔する前に整理しておくべきだった。とはいえ、織田作を看取った後、そのまま戻らなかったのだから、無理な話か。
「抜かせ。家上がるぞ」
「断る」
 太宰の言葉を無視して、中也は、でけえ家だな手前には勿体ねえ、とぶつくさ言いながら居間に入った。中也はどかりと座卓に向かって片膝をついて座り、はす向かいに太宰は座った。
 「ちなみに聞くけど、ここに辿り着くまでに、何件家を潰したんだい」
「ああ?大したことねえよ」と言いながら、中也はこんくれえか、と両手の指を広げて示す。「空き家ばっかだったしな」
 どうだろう。もし隠れ家に人間がいたとしても、逃亡者ならば、マフィアに呼ばれて応えるわけがないと思うのだが。
「太宰、手前がいなくなって、マジで清々したぜ。だが居処の手掛かりがあるんじゃ、探さないわけにはいかねえよなあ」
「清々したのにかい?呆れるね。中也は随分と暇なんだな」
「手前を1人で野放しにしておけるかよ。自由に自殺しろと、言ってるようなもんじゃねえか」
「それが?何の問題もないだろう」
「あんだよ。自殺されちゃあ、手前を殺せねえだろ」
「おや、中也は組織を抜けた私を、殺しに来たのかい」にっこりと微笑んでみせる。「それなら話は別だ。歓迎しなきゃならないね」
「阿呆が。喜んでんじゃねえよ。殺せと命令されなきゃ殺さねえよ」
「それで、森さんはなんて命令を?」
「何も指示は出てねえよ」
「なんだ。では中也は命令もなしに来たのか。莫迦じゃないの」やれやれと溜息をついて、追い払う仕草で手を振る。「では、殺せないね。実に残念だ」
「森さんは手前を、追跡しようとしねえ」中也は声を低めた。「だが、探すなとも言われてねえ。俺の独断だ」
「独断ね。勝手な行動は組織人としてはどうかと思うよ。芥川くんの真似のつもりかい、中也」
「ああ、その芥川のことだがな」中也は神妙な口調になった。「手前が出てった後、芥川は手前を、血眼になって探してる。狂ったみてえに。奴は手前に捨てられたと思ってんだ。今や誰の言うこともきかねえ狂犬だ」
「そうか」彼のことだけは懸念していたが、やはり暴走してしまったか。
「手前が奴の手綱をとってやらねえで、どうすんだ」
「芥川くんに、ここを教えるつもりかい」
「は!狂乱状態の奴に言えるかよ。言うにしても、手前の返事をきいてからだ」
「心外だな。捨てられたのは私の方さ」
「あ?何言ってんだ?」
「本当さ。信じないのかい」
「太宰、首領は五代幹部会の、手前の席を埋めようとしねえ。ずっと空けたままにすると言ってんだ。手前を連れ戻してえんだ。戻るのを待ってんだ。何で手前を追わねえのか、首領は聞いても教えてくれねえが。俺にはわかる」中也は俯く。「失くして、初めてわかるもんがあるんだ」
 太宰は縁側に目を向ける。庭の樹木がさらさらと音を立て始めた。朝から空を重たい色の雲が覆っていたけれど、とうとう雨が降り始めたようだ。
「単独で敵のアジトに突入した、あのサンピンのせいか」
 太宰はゆっくりと視線を戻した。顔をあげた中也と視線が合う。
「ボスと刺し違えたんだろう。惜しい奴を亡くしたな」
「生は死を内包している。生きている限り死には抗えないよ」
あいつだけじゃねえ。あの事件では、大勢構成員がやられたと聞いた。俺がいればあれほどの犠牲を、出さずに済んだかも知れねえ」中也は悔しそうに歯噛みする。
「中也は彼を知ってたのかい」
「部署が違っても、あいつの顔くらいは知ってる」
「そう」太宰は再び庭に目を向ける。
「手前でも仲間の死を悼むんだな。太宰。手前にそんな情があるなんて、思わなかったぜ」
 そうだろうか。痛む、傷む、悼む。どれが私の心なのだろう。 霧雨に霞む庭の木々は、水煙の中に幻のように沈んでゆく。
「そういう人間らしい面が、手前にあると知ってたら、だったら、俺は」
 紡がれた中也の言葉がふいに途切れる。太宰は振り向いた。中也は視線を避けるように目を伏せる。
「いや、何でもねえ。だがそれがマフィアだ」
 情に厚い中也は、彼を悼んでるのか。中也にとっては、さほど親しくはない下級構成員だろう。羊の王であった頃には、容赦なく重力で潰していたマフィアの一員だ。だが今は、仲間であると混じりけない心で中也は悼む。
「だからこそ、無駄に死ぬ構成員を増やさねえためにも、手前が必要なんだ。組織に戻れよ。太宰」
「中也に私を連れ戻す権利があるのかい」
「ある。俺は相棒だからな」
「命令違反だろう」
「言ったろうが。追うなとは言われてねえよ」
 だが真相は、知らされていないだろう。森さんは敢えて中也の不在を狙って、ミミックを呼び寄せたのだ。計画にはその条件が必要だったから。
 だが知ったところで今更変わらないか。内務省と取引した証拠は何一つない。間諜だった安吾内務省に戻った今、証人もいない。異能許可証の取得が結果としてあるだけなのだから。中也は森さんの組織論に傾倒している。疑いもしないだろう。
 雨音に交じって、猫の鳴く声がした。
「猫の鳴き声だね」
「猫?んなもんどこにいんだ」
「私も姿を見たことはないけれどね、この家にはいるんだよ」
 微かな足音、通り過ぎた影、鳴き声が聞こえるだけだけれど。この屋敷には猫がいる。姿は見えないが気配はある。餌を皿に盛ってやれば、いつのまにか消えている。
「私は猫の世話で忙しいのさ。ああ、そろそろ餌をあげる時間だ」
「手前は言ったな。俺は一生手前の犬だとよ」
「おや、殊勝なことだ。自分で犬だと認めるのかい。中也」
 中也は苦々しい顔で睨んでくる。
「また来るからな」と言い捨てて中也は嵐のように去った。
 太宰はため息をついた。疲れた。相棒なら何をしてもいいのか。おそらく中也の行動も、森さんは折り込み済みなのだろう。
 首領に忠誠を誓いつつも、盲目に従うだけでなく、時にスタンドプレーに走る中也。
 太宰は畳の上に、仰向けになって寝転んだ。
 雨の音。水溜り。血溜まり。
 腕を交差して顔を覆う。
 自分の腕の中で冷たい骸となった友。
 結果が見えていたのに、何故織田作を止められなかったのだろう。そのために、安吾は密かに内務省の計画を、自分に漏らしたというのに。
 安吾も、何としても彼を救いたかったのだ。けれども。
首領の企みの結果であれど、犠牲は街中に広がるに至った。もはや事態の収束のためには、織田作の異能に頼る他になかった。ミミックの殲滅は最優先事項。組織に属すならば組織の利が優先する。幹部である以上、そう判断するしかなかった。
 そして、彼も復讐という死を望んでいた。
 もっと早くに森さんの企みに気づけたなら。かのミミックの首領が織田作を見つける前ならば防げたろうか。彼と私がただの友であるだけなら、彼を止められただろうか。
 ちらりと長い身体の何かが、目の端を横切った。
 姿が消えた縁側のほうを見やる。蛇だろうか。脚があったようにも思えるが。蜥蜴にしてはやけに長いようだった。
 やれやれ、何かが中也に連いて入って来たのかもしれない。

 

 

 次の日の朝、中也は再び屋敷にやって来た。
 朝食を済ませて縁側で涼んでいると、大門の方から、怒鳴り声が聞こえた。
 中也は玄関の引き戸を荒々しく開けて、ズカズカと上がり込み、居間に入って来た。図々しくも、茶くらい出ねえのかと言う。
「招かれざる客に、振る舞うものはないよ。冷蔵庫に麦茶があるから、勝手にやってくれ」
「茶だあ?酒はねえのか」
「ないよ。あっても出すわけないだろう」
「しけてんなあ」
 2つのコップと麦茶の入ったポットを持って、「昨日は雨で気づかなかったけどよ、風流な庭じゃねえか」と言いつつ中也は縁側に胡座をかいた。
 麦茶を注ぎながら、昨日と同様、組織に戻れと中也は迫る。
「首領は手前が腹括って、戻って来るのを望んでるんだ」
 そうだろうね。私に寝首を掻かれることを恐れながらも、私の能力を惜しんでる。だから殺すことはできないんだ。
「根拠はあるのかい」わかってて問いかける。
「手前はマフィアになるために生まれた男だ」中也は言いきかせようとするかのように、神妙な口調になる。「頭も性格も、根っからの闇の者だ。手前が手前らしく生きられるのは、マフィアしかねえだろ」
「15歳からマフィア業しか、してこなかっただけだよ」
「一般人みたいに、普通に仕事してる手前なんざ想像できねえ」
「いやいや、私は何でも出来るよ。中也と違ってね」
「うぜえ、例えできるとしてもな、手前ほどの野郎が、組織から足抜けできるわけねえだろう」
「できないと言われると、益々試してみたくなるよ」
「口の減らねえ野郎だ」
 また来るからな、と言い捨てて中也は去った。
 太宰は麦茶を冷蔵庫に戻し、居間に戻った。そういえば、今朝から猫の気配を感じない。どこかに遊びに行ったのだろうか。
 中也に言われるまでもなく、マフィアの仕事は向いているよ。 私が私らしく生きられる。 生きる意味が見つけられると思ったよ。はじめはね。
 だが抗争の日々の中で、生と死の意味はやがて褪せていった。心は再び麻痺していた。薄い皮膜越しに見える、錆びていく世界から、いつ旅立ってもよくなっていた。だが、任務は次々と押し寄せた。
 状況を読んで操作するのは造作無い。表の事象も裏の思惑も見抜き、最善の対処をする。何もかも予想通りに進む。ゲームのようにパズルのように。
 駒を思い通りに動かすのは面白かった。幾分かは退屈を紛らわせられた。相棒も部下もいたし友もいた。
 友。立場を越えたふたりの友。部署の違う織田作と安吾は、組織に属しながらも、任務を離れて会える友だった。揺れる自分を繋ぎ止めていた。
 森さんは私がマフィアに倦んできたのを、知っていたのだろう。だから友の命を測りにかけた。いつでもその機会を伺っていたのだろう。故に安吾を嵌めて、織田作を屠って、選択を迫ったのだ。
 組織への忠誠心と友のどちらをとるのかと。
 私に忠誠心など微塵もなかった。それを初めから承知であったのに。今更己と志を同じくせよと望んだのだ。
 私がどちらを選ぶかは、予想済みだっただろう。それでも組織を選択させようと、織田作の元に行かせる前に止めたのだ。
「私が私らしく生きられる、か」太宰は口に出して、皮肉に笑う。
 芥川君を導くこともできなかったのが私だ。彼は私に依存して暴走してしまった。生き残る術を教えるはずだったのに。
 情に飢えた子供は理解者を求める。誰かに好意を抱きたいと渇望する。口当たりのいい言葉を言う者に傾く。
 理解は容易い。求めるものも与える。だからと言って懐かせれば、踏み越えてこようとする。だから敢えて牽制する。
 他の方法を私は知らない。孤児に本当に必要なものは、違うのだろう。
 織田作の示した道は、私には到底向かないだろう。
 腰に暖かい気配。猫が私にもたれかかって蹲っているようだ。
「何処にいってたんだい」
 猫に問うてみる。温かい体温。振り向くと逃げてしまいそうな気がするので、そのままにしておく。
 生きる理由は見つからない。予測を越えるものは現れない。孤独を埋めるものは何処にもない。永遠に闇の中を彷徨う。
 まるで呪いの言葉のようじゃないか。

 

 

 その日は黄昏を過ぎてから、中也は現れた。
 陽の沈んだ小山の向こうから、夜の闇がひたひたと近づいていた。鈴を擦るような虫の声が、庭の叢から聞こえてくる。
「何度来ても無駄だよ。森さんに仕えるのは、私にはもう無理だ」
「手前もわかってんだろうが。首領も、首領の宿命に準じているに過ぎないんだ」
「どこの首領であってもそうだろうね。しかし須らく王とは、嫉妬深いものだよ、中也。組織の長である以上、家臣に唯一の忠誠を望むんだ」
 時に忠誠心を測るために、家臣の大切なものを弑するのだ。No.2が優秀なほど離反を疑う。己が地位を脅かすのではないかと恐れる。
「首領に私心はねえよ。何より組織を優先してる。手前も知ってるだろう」
「ああ、わかってるよ。一般論さ。でももし、森さんが首領として相応しくなくなるなら。どうする」
「潰す」即座に中也は答えた。「それが契約だ。構成員も首領も例外なく組織に殉じる。首領はそう言った。首領がこの言葉を守る限りは、俺は従う」
「殊勝な心掛けだね」
「手前は首領が、前首領を始末するのを、見たんだよな」
「私は目撃者で、いわば共犯だよ」
「なら首領も組織を私物化した末路は、知っているはずだ」
 だからこそ森さんは、疑い怖れるのだ。自分も同じ目に遭うのではないか、私が森さんに成り代わるのではないかと。愉快な妄想だ。
 だが王の不信も組織の毒となりえる。森さんは己の感情すらも、機械的に論理的解の構成要件としたに過ぎない。
「己が保身のためか、組織の維持のためか、中也に見分けられるとは思えないな」
 組織の理と個人の理の違いが拮抗しているならば、誰に見分けられるだろう。
「手前!」
 押し倒され、手足を押さえつけられた。喉に中也の手が回された。喉ぼとけを親指で押さえられる。
「組織のためには、手前を生かすわけにはいかねえ。森さんが手前を惜しんでも、手前が敵対組織に渡るほうが、何百倍も危険だ。他のマフィアでも、政府の機関でも、手前を欲しがるとこは数多数えきれねえ。手前の頭脳と異能を奪われれば、この俺の汚濁すら、切り札じゃなくなるんだ」
「私をこの世から排除するかい。嬉しいね。仲間思いの中也。仲間以外になら残酷になれる中也。 今の私はマフィアじゃない。 中也の仲間じゃない。死ねるのなら本望だ。中也の馬鹿力なら簡単だよ。ほら、ちょっと力を入れれば済む」
「手前、わざと俺を挑発しやがったな!」
 太宰は微笑む。
「もっと言おうか。芥川くんに僕を慕わせるのは簡単だった。彼の望むものを与えなければいい。中也を操るのも簡単だよ」
「どうやったってんだ」
「教えないよ」太宰は笑う。「中也は僕が気になるだろう。気にくわないのに追いかけてくるくらいにさ。私がそうさせたんだ」
「違えよ莫迦が。俺の意思だ!」
「意思なんて、あやふやなもの…」
 気づいたときには、唇が重ねられていた。温もりと感触。接吻とわかるまでに、些か時を要した。
「…欲情したのかい?中也」唇が離れて、ようやく思考が戻った。「そこまでは読めなかったな」
「ちげえよ。嫌がらせだ!」
「ああ、意表をつかれたよ。満足かい。でもこれでは嫌がらせにならな…」
 中也は言葉をみなまで言わせず、再び太宰の口を塞いだ。そのまま太宰を抱きしめる。
「誤算だったな。ざまあみろ」
「やれやれ」太宰は離された唇を摩る。「好意と情欲を勘違いするとはね。いまだ思春期の子供のようだな、君は。ああ、そうだった、精神年齢はまだ10代だったね」
「手前、減らず口もそこまでだ」
 中也は己の黒手袋を咥えて引き抜いた。いつも戒めのために隠されている手が現れる。中也の親指が太宰の唇をゆっくりなぞった。久しぶりの人肌か。触れる指は温かいな、と太宰は思う。
 首元に顔を伏せて、中也が囁いた
「生は命だ。命ってのは、この熱だ。体温だ。手前に教えてやる」
 顎を掴まれ、唇が重ねられた。深いキスは前戯に他ならなかった。
 唇から離れると中也の唇は首筋を辿った。時折吸い付かれるとちくりとした。舌の感触がした。喉ぼとけに歯を立てられた。一瞬噛みつかれるかと思った。中也の長い前髪が肌に落ちて肌を擽る。触れあった肌が熱を持つ。動くたびにしっとりと汗ばんでくる。互いの息遣いが重なり荒くなってくる。
 猫がいる、と太宰は言った。
 なら呼べよと中也は答える。
 猫は呼んでも、来やしないよと答えた。
 いや、呼べないはずだ。手前は猫を見ていない。
 奴はもういないと分かれよ。
 中也に組み敷かれ、身体を貫かれ、深く繋がれた。四肢が絡みつき、脈打つ質量が押し入り洞を埋める。
 体内で抜き挿しされる熱。盗まれる吐息。混じり合う呼吸。融解してゆく境界。
 天井から大蛇が這いずるような、重く床を擦る音がする。音は階段を重たげに擦りながら降りてくる。
 障子の向こうを、大蛇の影のようなものが悠然と横切るのが見えた。
 蛇は別名、長虫と呼ぶのだと思い出す。
 庭から聞こえる虫の声。鈴のように。せせらぎのように。虫は羽を震わせて音を鳴らす。羽の音を何故声と呼ぶのだろう。
 虫が何の為に鳴いているのかに思い至って、苦笑が漏れる。
「なに、笑ってんだ、余裕かよ。糞太宰」
 苛立った声と同時に、突き上げられた。衝撃に、ふっと吐息が漏れる。
「なんでもないよ。ちょっと可笑しくなっただけさ」
 そうか、呼んでいるのか。ならば声に相違ない。

 


 浴衣の帯を締め直し、腰を上げようとして太宰は呻いた。
 痛いと呟くと、中也は「は!ざまあみろ」と、してやったりといった表情で笑う。機嫌がいいのが癪に触る。
「疲れた。一歩も動けないよ」
「そうか、なら、風呂場に連れてってやろうか」
「冗談だろ。帰れ」
「はっ!手前のその面見ただけで、来た甲斐があったってもんだ」
 バイクのエンジン音が屋敷から離れていった。
 身体の奥に残る鈍痛が疼く。
 どこまでが森さんの計画であるのだろう。中也に何をさせるつもりなのだろう。
 煽ったのは藪蛇だったようだ。怒りで箍が外れたのか。それとも、身体を重ねれば、情が湧くとでも思ったのだろうか。私の読みが甘かった。 感情で動く中也は本来なら扱いやすいはずなのに。
 ふうっと深呼吸をして、気を落ち着かせる。私が出奔してからの中也の状況は、読み切れなかったのだ。 計算を誤ったのだと認めざるを得ない。
 出会った頃から、直情で単純で後先考えない男だった。 頭が冷えれば、とんだ黒歴史だったと気付くだろう。もう中也はここに顔を出せやしないだろう。
 結果的には予定通りだ。多少は暇つぶしになったけれども。
 理解は人を動かすための手段で武器だ。情報収集し観察し、呼吸をするように計算する。相手に最も適した演技をする。 他人の考えは読めるし、感情を操るのも容易いのだから。
 けれど、織田作と安吾の思考だけは読まなかった。あえて読まなかった。操る必要はないと思っていたからだ。
 3人で過ごしたあの酒場は、計算せずにいられる唯一の空間だった。あの場所でだけは孤独を忘れられた。織田作と安吾は居心地のいい距離を保ってくれた。 互いに踏み込まない友の距離。
 けれども、その距離は正しかっただろうか。
 安吾と織田作。かたや内務省の間諜と、かたや殺しを辞めた元殺し屋。私が彼らと友であるのは、森さんにとってリスクであり懸念であったろう。
 組織に価値を見いだせず、忠誠心もない。私は彼にとって、ただでさえ玉座の天頂に吊るされた、剣のようなものだったのだから。
 ミミックを誘引する森さんの計画は、不確定要素も含んでいた。事が成る前に私が真相に気づく可能性。故にまず最初に、彼らを巻き込んだのだ。
 もし私が真相に気づかず、すべてを内務省の陰謀と思いこんだなら。安吾内務省を敵視し、私はマフィアに身を沈めたろう。それでよかったはずだ。だが森さんは敢えて真相を示した。
 私に心許す存在を作るなと告げるために。
 首領は組織の存続という目的のために他を捨てる。目的があれば耐えられる。孤独が唯一の友となる。
 彼らを巻き込まずとも、私だけを殺す方が容易かったはずだ。私ならいつでも喜んでこの世を手放したのだから。
 だが森さんの望みは、私の排除ではなかった。 彼はいつだったか、私が自分に似ていると言った。私に望んだのだ。同じ枷の共有を。
 中也にも他の五代幹部の誰にも、そんな要求はしない。彼らには必要ないからだ。私が彼の片腕であったからだ。
 私と友となったから、織田作は贄となった。知り合わなければ今も生きていたのかも知れない。
 側にいて失われるのと、生きていても互いに知ることもなく、遠い存在でいるのと、私はどちらが良かったのだろう。

 

 

 翌日、予想に反して、中也は屋敷を訪れた。
 朝から雨が蕭蕭と降っていた。おかげで中也の黒帽子には細かな水玉が散り、黒い外套は濡れそぼっている。
「よくまあ顔を出せたものだね。ああ、私は気にしないよ。狂犬に手を噛まれたようなものだからね」
 予測が外れたことに、ほんの少しだけ苛立った。また計算に入れ損ねた数字があったのだろう。
 中也は答えない。 いつもと様子が違う。玄関に佇んだまま、廊下に上がろうとしない。
「タオルでも貸そうか。中也が風邪引こうが別に構わないけど。床が濡れるのは迷惑だからね」
 中也は顔を上げた。攻撃的な射るような瞳。だが言葉はない。
 怪訝に思って聞く。「中也、何しにきたんだ」
 ようやく中也は答えた。
「これからすぐに抗争に行く。ちと、てこずりそうだ」
「そうかい」入れ損ねた数字はそれだったか。「ごくろうさん。行ってらっしゃい」
「終わったら、俺はここに来るからな。最後の通告だ、糞太宰。俺と来い。手前は組織に戻んだよ」
「返事は何度もしたはずだよ。ねえ、聞いてた?」
「手前の道はマフィア以外ねえだろ。闇の世界が俺たちの住処だ。光の下なんぞありえねえ」
「中也が決めることじゃない」
「宙ぶらりんにしたままで、逃げんじゃねえよ」中也は苛ついた声で言った。「ここに残るってんならなあ、俺と戦え、太宰」
「は?私と本気でやるつもり?中也の攻撃は見切ってるけどなあ」
莫迦言え!手前の持久力も瞬発力も、俺と比べもんにならねえだろうが。手前の身体中の骨を折ってでも連れ帰る。手前を黙って行かせるほど、俺は甘かねえ」中也は声を低める。「他んとこに手前を渡せるかよ」
「それじゃ、私は出血多量で死ぬかもね。ああ、やっと私を殺してくれるのかい。なるほど、それはいい。いつも私の自殺の邪魔をしてくれた中也が、やっと願いを叶えてくれるわけだ」太宰は笑顔で答える。「とはいえ、私が死ねば汚濁を使えなくなるね」
 荒覇吐となった中也の姿は、具現化された死そのものだ。顕現する荒ぶる神。身体に絡みつく蛇のような痣も、禍々しく美しい。見られないのは惜しいなと、思う。
「手前がいなくても、使う他にねえ場面がきたなら使う。組織のためならな。それで死ぬなら天命だ」
「天命じゃない。それは自殺だよ。中也」思ったよりも冷たい声が出た。勿体無いじゃないか。
「手前が止めなきゃそうなるな、太宰」
「私が君の命を惜しむとでも?中也」
「どうだかな」中也は戸を開けて、振り向いた。「次に俺が来た時は、どっちかを選べよ、太宰」
 中也は言い捨てて、霧雨の中に去った。
 太宰は溜息をついた。全く、種田長官には呆れる。中也なんかにバレてしまうような場所では、潜伏にならないじゃないか。
 なんらかの手を打つべきだろうか。だが大門の屋根には、監視カメラが付いているはずだ。種田長官が中也の訪問を、知らないわけがない。いざとなれば手を打つつもりなのだろう。
 失くして初めてわかるものがある。中也は言った。
 その通りだね。 言われなくてもわかっている。彼はいない。もう戻らない。私が何をしようと、生き返ることはない。
 君はずっと前から知っていたのだろう。羊の王であった頃から、何人もの仲間を送って来たのだろう。
 私は初めて理解したのだよ。いつか失うとわかっていたとしても、失いたくない命だったのだ。安吾が事細かに記録していたように。駒のひとつひとつにも命があるのだ。
 失くすまで気づかなかったのだ。
 けれども、組織にいれば抗争と喧噪の日々の中で、私の世界は再び薄い皮膜に覆われるだろう。
 いつか大切な友の命もまた、私の中で風化してゆくだろう。記憶の中で塵となるだろう。
 夢のように、幻のように。
 私はそれが堪らなく厭わしいのだ

 

 

 庭に足音を聞いて、目が覚めた。
 玉砂利を踏みしめて近づいてくる、何者かの足音。布団から這い出て、縁側から辺りを見回した。庭には誰もいない。
 雨が上がり、陽射しが戻ってきた。白い眩い光が縁側に満ちている。
 足元で猫の鳴き声がした。脹脛に柔らかな毛が触れる。
 ようやく姿が見えるようだ。そう思って見下ろした。
 しかし猫の姿はない。側でまた猫が鳴いた。自分のすぐ隣で。見ると、影だけがちょこんと板敷きの上にある。
 影に手を伸ばしてみた。柔らかな毛に触れる。撫でると生き物の体温と感触がある。耳にひげに柔らかな和毛。見えないけれど、隣に猫はいる。
 門の向こう側から、三毛猫が生垣を飛び越えて入ってきた。太宰に向かって歩を進める。ルパンにいた猫に似ている。同じ猫だろうか。いや、間違いない。
「やあ、遠方からよく来てくれたね。久しぶりじゃないか」
 声をかけると、三毛猫は立ち止まった。視線が合った。
 猫は一声鳴くと、ぶるりと震えた。みるみるうちに猫の輪郭は崩れ、形が膨らんで伸び、人型を象り、壮年の紳士の形に変化した。紳士は軽く会釈をして挨拶を返し、太宰に微笑みかけた。
「そういうことでしたか。貴方が関わっていたんですね」太宰は微笑み返した。「なるほど、本当の潜伏はこれからなんですね」
 紳士は首肯して、するすると三毛猫の姿に戻った。猫はくるりと踵を返し、付いて来いと尾を立てた。
 太宰は鴨居から服を下ろした。浴衣を脱いで、久しぶりに洋装に袖を通す。
 見えない猫が縁側で鳴いた。目をやると、猫の影は縁側を越えて、畳の方に伸びていく。
 影の伸びが止まった。影は上背の高い、亡き友に似た影を形作った。
「もうここから出る時が来たようだよ」
 太宰は影に語りかけた。影は笑ったようだった。
「もう暫く、君の思い出に浸っていたかったよ。ねえ、どの門から出ればいいと思う?裏に狭い門があり、表に大きな門があるんだ」
 男の影は揺れて、裏門の方に顔を向け、腕を上げて指し示した。
 太宰は頷いた。「古の言葉にあるね。狭き門より入れ。 滅びにいたる門は大きく、その路は広く、これより入る者は多し。 生命にいたる門は狭く、その路は細く、これを見出すものは少なし」
 太宰は縁側から降りて、白州を横切り、裏門に向かった。
 抗争の日々の中で、生きる意味は次第に削れていった。けれど、3人で過ごした酒場でのひとときは、明日を生きようと思う僅かな理由だったよ。
 失われた生きる意味はもう戻らない。だが、友は私の中に踏み込んだ。彼の言葉は私の行く道を示した。予測を越えた確信を持って私に告げた。
 救う側になれ。弱者を救え、孤児を守れ。なんと困難な道だろう。
 善も悪もどうでもいい。どんな組織にも興味はない。けれども、君の救いたかった者は、私が救おう。それが君の生きた証となる。君のいた印となる。いつか君が忘れられたとしても、それは決して風化することはない。
 組織の理では身動きが取れなくても、外に出れば別の理があるのだ。
 気ままに怠惰に、猫のように戯れよう。悪夢ではない夢を見て、憂鬱ではない目覚めを迎えよう。
 君の示す道で、私がどう生きていくのか想像できないな。こんなことは初めてだ。予想がつかないのは、素敵なことだね。
 大門の方角から、バイクを乗り付けるエンジン音が響いた。抗争を終えた中也が駆けつけたのだろう。
 太宰は振り返った。中也、次に会うのはもう少し後になるよ。一生私の犬だという約束は勿論、反故にはならないよ。いつか君の命を、私は惜しむようになれるかな。それまでに汚濁を使ったりして、無駄に命を落としたりしてくれるなよ、相棒。
 太宰は生垣に向かって歩き出した。三毛猫に先導されて、狭い門を開け、大きく歩を踏み出す。
 山の端から薄っすらと虹が架かった。雲間から差す陽が広がり、空は眩い光に包まれた。
 縁側には、猫の影だけが残った。