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清書森の竜騎士と勇者の卵【十傑パロ】(全年齢用)

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序章


 光り射す林の中を少年は駆ける。
 胸を高鳴らせ、息を弾ませて。
 彼はもう来てるだろうか。
 少年は期待に胸を膨らませる。
 木陰を抜けた先に見えるのは高原。空の青と地の緑に二分割され、鮮やかに目映く開ける。広がる草原は一面に腰の高さほどの草に覆われ、草は風になぶられて波のように畝る。
 少年は草の波に足を踏み入れた。指先で穂先を撫でて歩く。さわさわと緑を渡る風が気持いい。
 林から30歩ほど離れたところで、少年は草の間にしゃがんだ。いつもこのくらいの時間に彼は来るんだ。高原の向こうにある森の中から。少年は目を凝らす。
 来た。彼だ。
 茂みの間から仔竜がひょこっと現れた。甲高い声で鳴いて羽搏き、空高く舞い上がって旋回する。
 続いて少年が現れた。蒲公英色の髪、竜の民独特の首飾りを首にかけ、肩に獣の毛皮を纏っている。自分と同じくらいの年だろうか。心が高揚する。
 竜の民の少年は「おい、降りて来いや!クソが」と悪態をつきながら仔竜を呼んだ。随分荒っぽい口調だ。でもそれすらかっこいい。
 仔竜は少年の元に舞い降り、籠手を装着した少年の腕に止まる。
「行け!」と少年は仔竜を飛ばしては「来い!」と呼び戻し、腕に止まらせる練習を繰り返す。
 あの仔竜は赤竜だ。まだ大鷲くらいの大きさだから腕にも止まれるけれど、そのうち人を乗せられるくらいに大きくなる。
「獲れ!」少年は仔竜を放った。
 仔竜は赤い矢のように飛んで草叢の中に潜り、小さな獣を鉤爪に掴んで舞い上がる。悠々と空中で獲物を放り投げ、一呑みにすると、少年の元に戻って行った。「よし!」と少年は満足そうに笑む。
 狩りの訓練をしているんだ。彼は竜騎士なんだ。
 竜と共に生きる竜の民。その中でも竜騎士となれる者は多くはなく、子供の頃から修行を積むのだと、本で読んだことがある。彼は少年の身でありながら、竜騎士として竜を躾けているのだろう。
 滑るように空を切り、青空を滑空する赤銅色の仔竜。太陽みたいな金髪を靡かせる幼い竜騎士。彼の腕に降り立つ仔竜。胸が高鳴る。
 ふと、くるり竜騎士の少年が振り向いた。
 視線が合ったような気がした。どくんと胸が鳴る。え?かなり離れてるし、草の影に隠れてるから僕の姿は見えないはず。
 彼は口角を上げて悪戯っぽく笑う。
 僕の他には誰もいない、よね。見つかった?
 腰を屈めたまま後退りし、そろそろとその場を離れ、林の中に駆け込んだ。
「おい、てめえ、出てこいや!」
 少年の怒鳴り声が聞こえる。荒っぽい呼び声。焦って足が縺れ、転びそうになる。
 やっぱり見つかってしまったんだ。彼は勝手に見てたことを怒ってるのだろうか。そうだよね。竜騎士の修行の邪魔になったんだ。
 それに、竜の森に来たなんて、母が知ったらなんと言われるか。竜が棲む危険な場所。本当は子供は来ちゃ行けないんだから。
 林道をつんのめりながら走り抜けて、村に続く道に戻ってきた。帰り道を2、3歩、歩いて振り返る。
 彼は追ってきてはいないようだ。今度は見つからないように、用心しよう。もっと彼を見ていたい
 ほうっと息を吐いて、少年は呟く。
 かっこよかったな。僕も彼のようになりたいな。


第一章


 大木の下で、仔竜と金の髪の少年が眠っている。
 木漏れ陽が風で揺らめき、少年の身体に斑らに影を作る。木の葉がひらりと少年の頬に落ちる。
 クゥンと仔竜が鳴いた。少年は「しっ、黙ってろ」と仔竜の頭を押さえる。
 こいつも気配を察知したのだろう。声を押さえて「寝たふりしてろよ」と言い聞かせる。言ってもわからないだろうけどな。
 木の葉を踏んで、子供の軽い足音が近づいてきた。クゥン、とまた仔竜が鳴いた。
「え?なんでここにいるの?」と狼狽える声に、薄目を開ける。少年が屈んで自分の顔を覗き込んでいた。
 緑がかった黒髪に大きな瞳。近くで顔を見るのははじめてだけど、間違いない。こいつだ。
 目を開けてにんまりと笑むと、緑色の髪の少年は驚いたようで、大きな目を丸くした。「わあ、起きてたの?」
 少年は慌てて一歩後退り、尻餅をついた。
 金髪の少年は身体を起こし、むんず、と少年の腕を掴んだ。びくつく少年ににじり寄って顔を近づける。
「てめえ、気持ちよく寝てんのに起こすんじゃねえよ」
「ごめん、そんなつもりじゃなかったんだけど」
「は!ばあか、寝てねえよ。お前時々原っぱにきてた奴だろ。いつも俺を見てるよな。やっと捕まえたぜ」
「う、うん、僕だけど。なんで僕だってわかったの?」
「ああ、匂いでわかるぜ」
「匂いで?そんなに匂う?」
 緑色の髪の少年は、袖をくんくんと嗅ぐ。
竜騎士は竜の感覚の一部を共有すっから、普通の人間より感覚が鋭くなんだよ。それより聞きたいことがあんだよ。てめえ、なんでいつも逃げんだ。呼んでんだろーがよ」
「だって、勝手に見てたから、怒ってるかと思って」
「あ?怒ってねえわ」
「だって、君の声が怒ってたから」
「この声は地声だってんだ。クソが。見たけりゃあいくらでも見せてやるわ」
「それに、訓練してるの、邪魔したくなかったんだ」
「てめえが見てるからって気にするかよ。それとも、陰から見てるだけがいいのかよ」
 金髪の少年は立ち上がって、少年に手を差し出した。
「なあおい、俺と遊ぼうぜ」
「え?いいの?」少年の顔がぱあっと明るくなった。「すごく嬉しい。でも、邪魔にならない?」
「ならねえっつったろーが。そうだ、うち来いよ。ええと、そういやてめえ、名前はなんてえんだ」
「デクだよ。苗字は緑谷。君は?」
「勝己。爆豪勝己だ」
「じゃあ、かっちゃんだ?」
「てめえデク!勝手に呼び名変えてんじゃねえ」
「ごめん、じゃあ、勝己くん?」
 デクは伺うように問うた。勝己は眉を寄せて首を傾げる。竜の谷では呼び捨て以外で呼ばれたことはない。こっちが呼び捨てでデクって言ってんだから、普通呼び捨てにしねえか?だが、くん付けよりはマシか。
「きめえ。やっぱかっちゃんで構わねえよ」
「じゃあ、かっちゃん、よろしくね」
 かっちゃん、か。ちょっとこそばゆい。でも悪くねえ。
「じゃあ来いよ、デク」
 勝己はデクの手を引いて、森の中に連れて行った。
「いいのかな、子供がひとりで森の中に入っちゃいけないって、言われてるんだ」と言いながらも裏腹に、デクの声は弾んでいる。
「ひとりじゃねえだろ。俺と一緒だろうが」
「森には竜がいるから、危ないからって言われてるんだ。」
「ばっかじゃねえのか。野生の竜はこのへんにはいねえ」
「そうなの?だって、皆そう言ってるよ。竜を見たら逃げろって」
「まあ、ガチで野生の竜なら危ねえな。でもいんのはもっと森の奥地だ。人里の近くにはめったに来ねえよ。竜の民の集落周りにはいるけどな。あいつらは人に慣れてっから」
「危険な野生の竜を見たことはある?」
「竜の渓谷にいるらしいけどよ。野生っつーかレベルが違うらしい。大きさが桁違いなんだとよ。大人の竜騎士じゃねえと危なくて行けねえよ」
「君みたいな子供の竜騎士は初めて見たよ。普通の竜の民や、大人の竜騎士は時々市場で見かけるけど」
竜騎士目指す奴は一人前にならないと、森の外に出られねえからな。竜が後をずっとついてくるからよ」
 おしゃべりしながら歩いて、いつの間にか勝己の小屋に到着した。大木の根本の間に挟まるように建てられている、茅葺建ての小屋だ。
「入れよ、デク」勝己はドアを開けた。
「お、お邪魔します。お父さんやお母さんは?」
「いねえよ。ひとり暮らしだ。竜騎士の修業はまず竜を慣らすために、四六時中竜と一緒に暮らすんだ」
「え?いつも君ひとりなの?」
「んなわけねえだろ。飯どうすんだよ。森の奥に竜の民の集落があるからよ。そっから親が来んだよ。俺は時々しか帰らねえけどな。どこまで進んだとか真面目にやってんのかとかうるせえし。集落の中じゃあ、竜を繋いで連れてかなきゃいけねえから、面倒なんだ。こいつ繋がれんの嫌がるからよ」
 と言って、勝己は傍の竜を小突く。竜は仕返しとばかりに勝己の手に噛み付いた。
「あ、くそ、てめえ!」
 はたこうとしてぶるんと腕を振ると、竜は飛んで逃げ、梁の上に止まった。
「クソが!まだ赤ん坊だから、全然言うこと聞きゃしねえ。」
「赤竜だよね。すっごく大きくなるんだよね」
「よく知ってんじゃねえか。そのうち家ん中に入れなくなるから、でけえ寝床作んなきゃいけねえ。そん時ついでに家も大きくすんだ。武器とか飾ってかっこよくしてやるんだ」
「すごいなあ。自分の家作っちゃうなんて」
 勝己はダイニングの椅子を引いて座り、デクにも椅子を勧めた。
「なあ、腹空かねえか?」
「え、うん、大丈夫だよ」
「俺が腹ペコなんだ。待ってろ」
 キッチンに何か食べ物はないかと探し、干し肉とチーズを持ってきて、テーブルに乗せる。
「菓子とか俺食わねえから、ねえんだ。今度親に持って来させる」
「そんな、いいよ、いいよ」
 デクは干し肉を裂いてちまちまと噛む。なかなか噛みきれないようで、頬をふくふくさせて咀嚼している。
 リスみてえだ。もしゃもしゃのくせっ毛もリスの尻尾みてえ。見ていて飽きねえ。
 デクは竜騎士に興味津々で、次から次へと質問し、聞かれるままに勝己は話続けた。
「森は竜の民のテリトリーだ。竜の民は竜と共に暮らしてんだ。でも、竜騎士になれるのは一握りなんだぜ。俺の他にも見習い竜騎士はいるし、山頂の演習場には、皇国の竜騎士を勤めている先生が来る。俺らは毎日集まって修行してんだ。俺が1番成績いいんだぜ」
「すごいね!かっちゃん。竜騎士ってかっこいいよね」
「おお、かっこいいだろうが」
 仔竜がデクの前に降りてきた。てくてくと側に寄っていく。デクはそろっと手を伸ばした。
「おい、気をつけろ、噛みつかれるぞ」
 竜はふんふんとデクの匂いを嗅ぐと、赤い舌でデクの手を舐める。
「ふふ、擽ったいね」
 デクは笑って仔竜の喉を摩った。竜は気持ち良さげに目を瞑り、出久の脚に身体を擦り付ける。
「おいてめえ!デクには態度違うじゃねえかよ、クソが」
 勝己は竜を罵り、追い払うように手を振る。でも竜はデクの足の側から離れない。
「こいつ、てめえが気に入ったみてえだな。契約したわけでもねえのに」
「この竜、なんて名前なの?」
「契約したら名付けちゃいけねえんだ。名を付けると自分と別の個体になるからな。こいつはペットとかじゃねえ。俺の武器で右腕なんだ」
「へえー、かっちゃんは竜と契約してるんだね。契約なんて、大人みたいだ。竜となんてどうやってしたの?呪文とか?」
竜騎士は竜と血を交換して契約を結ぶんだ。竜の血を舐めて、竜に俺の血を舐めさせて主従関係になる。でも、こいつ、てんで命令きかねえけどな」
「頭撫でても平気かな?」
 デクはそろっと仔竜の頭を撫でた。竜はグルグルと喉を鳴らす。
 こいつはデクを受け入れたようだ。俺もデクを気に入った。竜と竜騎士は感覚の一部を共有する。だからかもな。
 竜を怖がらず、素直にかっこいいという。穏やかなくせに、禁じられてる森に来たり、竜に触ったり、変に度胸がある。変わった奴だ。竜騎士仲間は単純で荒々しい奴が多いから新鮮だ。
「かっちゃん、ぼくんちにくる?」デクは言った。
「言ったろうが。竜騎士は一人前になるまで、村には行けねえってよ。竜は主と決めた竜騎士の後をどこまでもついてくんだ。躾のされてねえ竜を、森の外に出すわけにはいかねえからよ」
 それが竜の民と村の人々との取り決めだ。竜騎士の修行をする森の近くの村には、竜騎士自らが結界を張ってる。躾の済んだ印である、足環をつけてない竜とその主の竜騎士は、結界の中には入れない。
「こんなに大人しいのに」
「それはてめえの前だからだろ。いつもはこうじゃねえ。俺は一人前になるまで、村に入れねえんだ」
「不便じゃない?」
「いんや、竜の民の集落には、普通に店もあるし、なんでもあるぜ。村に行かなくても何も困らねえよ。それに、大きな街には行けるしな」
 人口の多い街は、不慮の事態には竜騎士や魔法使いが対処出来るので、結界は張られてない。もし結界を張れば、魔物が入れなくなるものの、亜人や半妖との交流などに支障が出る。
 今までは困らなかった。でも今デクの家に行ってみたいと思っている自分がいる。
「ねえ、試してみようよ。手を繋いで行けば越えられるかも」
 差し伸べられたデクの手。どきりと胸が跳ねる。
 さっきは自分から掴んだのに。なんでだ。デクから手を繋ごうとしている。だからなのか。
 照れ隠しに乱暴にむずっとその手を掴んで、先に立って歩く。デクの後ろをてくてくと仔竜がついてくる。
 森を抜けて、高原を過ぎて、林を歩いて、村への道が見えた。ここまで来たのは初めてだ。
 恐る恐る、道に足を踏み入れる。数歩歩いた。行けるのか?
 だが、気づくと林の入り口に引き戻されていた。
「あれえ?」
「な、行けねえだろ」
 わかってたことだけど、勝己は少し落胆した。
「ほんとだ。僕も帰れないの?」
「手を離せば帰れんだろ」
 するりと指が離れてしまった。小さな手の温もりを惜しみ、指が名残惜しく空をかく。
「じゃあまた来るね、かっちゃん」
「ああ、来いよ」
「友達に言ってもいい?皆も来たがるかも。連れてきていい?」
「てめえらは、親に竜の森に行くなって、言われてんだろ」
「怖くないって言ったら、きっと来るよ。ね、一緒に遊ぼうよ」
 デクは村の方に駆けてゆき、振り向いて手を振った。姿が見えなくなるまで見送ってから、帰途につく。
 デクと繋いだ手がホワホワと温かい。あいつは明日も来るんだな。今までみたいに逃げたりしないで。

 次の日、デクは数人の子供達を連れてやってきた。デクより小せえ子供達だ。「森に来ちゃいけないんだよ」と口々に言いながら。ビクビクしている。
 勝己は林の入り口まで迎えに出たが、竜は警戒して木々の中に隠れてしまった。枝の間から様子を伺っている。勝己が「おい、降りてこい」と呼んでも来ない。
「しょうがねえな、あいつ」
「あれ、怖がっちゃったのかな」
「いや、そんなわけねえ」
「何処にいるの?」「ほんとにいるの?」「竜なのに」と子供達が口々に囃し立てる。
 いきなり、竜は劈くような鳴き声を発した。耳がビリビリとするような吠え声。
 子供達は仰天して、村のほうに逃げて行った。「エリちゃん、洸太くん、みんな、怖いことないよ」とデクが呼びかけたが、子供達の影はもう遠い。
「は!怖くねえわけねえんだよ、これでも竜だぜ」
「ごめんね。かっちゃん」
「へ!あの反応が普通だわ。おかしいのはてめえなんだ」
「ごめんね、でも、わかってくれると思うんだ」
 デクは気にしてるようだが、別に他の奴らが来ようと来まいと構わねえ。来るのはデクだけでいい。
「そうだ。かっちゃん、これあげる」とデクは小さな巾着をポケットから取り出した。
「なんだそれ」
 袋を開けると、カラフルで半透明のトゲトゲの粒がいくつも入っている。
金平糖だよ」
「知っとるわ。クソが」
「お母さんが作ってくれたんだ。君の話をしたら、持って行ったらって」
 勝己は金平糖を口に含んで、がりっと噛んだ。ジュワッと広がる甘味。
「甘ったるいな」
「それはそうだよ。砂糖だもの」
「甘いもんは得意じゃねえ」
「そうなの?」
 しゅん、とデクの元気がなくなる。しょうがねえな。
「だが貰っとく」と勝己は袋をポケットにしまった。


第二章


 月日は巡った。
 あれから村の子供も、たまに林の中に入って来るようになった。だが、村への道が見えるところまでで、それ以上は踏み込んで来ない。仔竜が威嚇したし、親に森の中までは近付かないように言われてるのだろう。
 毎日高原を越えて、森にやって来るのはデクだけだ。デクが来た時は、仔竜は逃げずに姿を見せて、近寄っていく。
「かっちゃん!」と大きな声を出して、高原をデクが走ってきた。
 仔竜はデクの側に寄り、首を曲げてデクの顔に頭をすり寄せる。
「大きくなったね。僕よりずっと背が高くなったね。かっちゃんが腕に乗せてたのが嘘みたいだ」
「は!今乗せたら腕が潰れちまうわ」
 もう仔竜とはいえない。竜は成長して堂々たる体躯に育っていた。もう馬くらいの大きさはある。竜はクゥンと鳴き、首を曲げてまたデクに頬ずりする。
 初めて会った時から幾年たったことか。もう竜はすっかりデクに懐いていた。
 だがまだ、勝己の命令を聞かない。いつも竜は勝己の後をついてくる。待てができるようにならないと、足環は貰えない。村には行けないのだ。
 デクの方から来るから、別にいいんだけどよ。
 勝己は竜に跨り「乗れよ」とデクに向かって手を伸ばした。
「え、ええ、乗れないよ」
「馬ならあんだろ。変わんねえよ」
「いや、全然違うから。わ!かっちゃん」
 怖がるデクの腕を引っ張り、勝己の前に跨らせる。
「え、え、わ、高いよ、かっちゃん」
「乗せてやるよ。こいつが気に入ってっからよ。デクだけだからな」
 竜は甲高く吠えると、翼を打ち下ろし、空高く舞い上がった。
「うわあ、高いよ!かっちゃん」
「捕まってろよ」
 勝己はデクの脇腹をしっかりと抱いた。
 初めは怖がって竜の首にしがみついていたデクだが、次第に慣れてきたのか、顔を上げて眼下の景色を見渡し始めた。「わあっ」と声を上げて喜んでいる。
 竜は森の上を旋回した。デクは竜の首にしがみつく。風がデクのくせっ毛をなぶる。
「おい、やれや!」
 勝己は命じた。すると、竜はボンボンと火球を吐いた。赤い火の玉は破裂音を立てて弾ける。
「わあ!すごい」とデクが歓声を上げる。「赤竜は爆破の力を持ってるんだよね。すごいや」
「ああ、見せんの初めてだな。森の中じゃ危なくて、できねえからな」
 勝己は「見てろよ」と掌をデクの前に翳す。パリパリっと火花が散り、弾けた。
「え?かっちゃんもできるの?」とデクは目をキラキラさせる。
「いずれは俺も、爆破の力を使えるようになんだぜ。竜騎士は竜の力も共有するからよ」
「すごいね。かっちゃんは」
 デクは俯いて、あのね、と口籠る。
「んだよ、聞こえねえ」勝己は促した。
「僕ね、勇者になりたいんだ。オールマイトみたいな、生きた伝説の勇者に」
 オールマイト。大陸に並ぶべくもない勇者の名だ。皇国に属する勇者でありながらも、ひとところに留まらず、村や町を巡って悪漢を成敗したり、魔物退治したりしているという。勝己は吹き出した。
「あ?はっはっ!てめえが?似合わなすぎるだろうが。てめえは村人Aが似合いだろ。腕だって細っこいし、胴回りだってヘナチョコだ」
 デクの腰に腕を回す。細っこくて片腕で一回りできそうだ。腕力も腹筋もない。大きな差はなかった子供の頃に比べて、日々鍛えている自分との差は歴然としている。
「だって、僕だってかっちゃんみたいに、かっこよくなりたいんだ」
「ああ?なれるわけねーだろーが」
 かっちゃんにはわからないよ、とぽつんとデクは呟いた。
 竜騎士と違って、勇者には条件も定義もない。だから目指すってのか。誰がどう見ても無理だろうが。実の伴わねえ自称勇者が関の山だ。こいつが益体もないことを言うと苛々する。
 なんなくていいじゃねえか。てめえはずっと俺の側にいて俺を見てろよ
 山頂の近くまで飛んできて、竜は演習場に降り立った。拓けた場所に、樽や大岩や大木の柱が置かれている。
「かっちゃん達はここでいつも訓練してるんだね。わあ、訓練の跡があるね」
 さっきまでのやりとりを忘れたように、デクは生き生きとして岩の焦げ跡に近寄り、ぺたぺた触った。柱や樽も、いずれも欠けたり氷が張り付いていたり、いくつもの傷がついたりしてる。
「ああ、それは火竜や氷竜の訓練でついた跡だ。今日の訓練は休みなんだ。先生が皇国の都に召集されてっからよ」
 竜騎士見習いは演習場で毎日訓練を行う。竜の習性や能力の使い方などの座学もあるが、ほぼ実践だ。
竜騎士の先生って怖い?」
「みんな怖がってっけど、別に俺は怖かねえよ」
 怖いと言うより、厳しいのだ。今までに何人もの竜騎士見習いが、失格にさせられている。志願者をまとめて失格にしたこともある、漆黒の服を纏う黒竜竜騎士。魔法や呪いを無効化する、黒竜の能力の使い手だ。
 ポツポツと雨が降り始めた。もう少し見せてやったら戻るか、と思っているうちに、あっという間に大雨になった。
「うわー、どうしよう、かっちゃん。今戻ったらずぶ濡れになるよね」
「ああ、でも空は明るいし、通り雨だろ。止むまで一休みすっか」
 勝己は演習場内の丸太小屋に、デクを連れて行った。先に入ってろと言い、竜を専用の休憩所に引いていく。今の5倍の大きさになっても、何頭でも入れる天井の高いホールだ。小屋に戻り、暖炉に火を焼べて、濡れた服を脱いで広げた。半裸で火の前に2人で並んで胡座をかいて座る。
 パチパチと火が爆ぜる。
 暖炉に寄り過ぎると顔が火照ってきた。でも肌は冷えたままだ。デクに身体を寄せて、ぺたりと濡れた肌をくっ付ける。
「今日村にね、オールマイトが来たんだ。伝説の勇者オールマイトだよ」
 手足がぬくもってきた頃に、ぽつりとデクは言った。
「ふうん」
 生返事を返す。皇国の英雄オールマイト。だからデクは勇者になりたいなんて言い出したのか。オールマイトは同じ皇国の竜騎士である先生も面識があるらしい。名前が出ると「あの人はいつもふらふらして全然捕まらん」と苦々しくぼやいている。
「明日、オールマイトが泊まってる宿に、会いに行こうと思ってるんだ。それでね、僕、稽古をつけてくれるように、頼もうかと思ってるんだ」
「はあ?何言ってんだ、てめえ」
「強くなって、いつか冒険の旅に出たいんだ」
「言ったろうが、てめえには向いてねえ」
「そんなの、わかんないだろ」
「てめえはチビだし、腕だってこんな細っこいくせに」
 と勝己はデクの二の腕を掴んだ。すべすべした滑らかな肌。勇者なんて全然にあわねえ。
「それは……かっちゃんに比べたら貧弱だけど」と、デクはもごもご口籠る。
「肩も細えし」と肩に触れる。「胸も薄いじゃねえか」胸に手を当てて撫でる。まだ濡れた身体。雨の匂い。
「かっちゃん?」
 胸から離されない勝己の掌に戸惑って、デクは身を捩る。
 勝己は顔を寄せてデクの首元を嗅ぎ、首筋を流れる雨の雫を舐める。
「ひゃあ、くすぐったいよ」
 デクはころころと笑う。
 触れている肌は冷たいのに、何故か身体の奥が熱くなってきた。
 ゴクリと唾を飲み込むと「脱げよ」と勝己は言った。
「え?」とデクは戸惑う。
「風邪引いちまうだろ。下も脱げってんだ」と言い、勝己はすぐさま下着を脱いだ。
「ええ!かっちゃん、裸だよ、裸!」
「濡れた下着にズボン履くのかよ。何照れてんだ、男同士だろうが」
「そ、そうだね。でも恥ずかしいな」
 顔を赤くしつつも納得したようだ。デクは素直に下着を脱いだ。
 膝を抱えて座るデクににじり寄り、震える手で肌に触れる。デクの胸を辿り、指先で腹を辿る。
「かっちゃん?なに?」と不思議そうに問うデクに構わずに、抱き寄せて腰に掌を滑らせて撫でる。かっちゃん、とデクもおずおずと肩に触れてきた。
 触りあってじゃれているうちに、デクの肩を押して絨毯に組み伏せた。デクの頭の横に手をついて見下ろす。
「かっちゃん?」
 デクの瞳が暖炉の炎を映して揺らめく。冷たい肌をひたりと合わせた。重ねた身体の下で、出久の身体が震えている。
「か、かっちゃん」
「なあ、温かくなんだろ」
 衝動を誤魔化そうとして勝己は言った。触れたい。止めたくない、流されていろと祈る。
「あ、そうか、なるほど。うん。あったかいよ」
 容易くデクは納得したらしい。抱きしめて身体を摩る。身体を弄り摘んだり擽ったり悪戯する。デクの手が迷うように腕に肩に置かれ、遠慮がちに摩る。
 何気ない調子で性器を押し付けた。すりっと揺する。擽ったいとデクは笑った。肌をくっつけてると温かくなってきた。身体の奥にも火が灯る。
 頬を手で挟んで顔を見つめて、冷たい唇に触れる。むにっと何度も押し付ける。デクは雰囲気に呑まれたのか、抵抗することなく目を瞑る。
 もっと触れたい。口の中は唇よりも熱いはずだ。ちょっとだけ触れるくらい構わねえだろ。
 ふはっと開けられたデクの口をがぶりと塞ぐ。デクの舌を探り、舌先で突いて舐める。
 思ったとおり熱いな。それに柔くて気持ちいい。唇を離してデクの瞳を間近で見つめる。
「気持ちいいな。てめえは?デク」
「うん、でも、なんか変だ」
 デクの瞳は誘うように潤んでいる。
「もう一回やらせろ」
 今度は舌をもっと深く差し入れて、舌を絡ませて深いキスをする。美味いものを味わうように、もっと寄越せと口内を探る。
 身体をぴったりとくっつけて、くちゅりと口を吸い、肌を摩り合う。身体の奥から火が燃え広がるように、触れている肌が熱くなってきた。デクに足を絡ませて局部を押し付け、擦りつける。薄い茂みが擦れる。
 顔の火照りは、暖炉の炎のせいだけではないのだろう。
 漸く雨が上がった。
「行こうよ、かっちゃん」とデクが言った。
 勝己は無言で、そろっと重ねた身体を離した。ひやりと肌が寒くなる。
 乾かしていた服をほらよ、とデクに投げた。ちょっと生乾きだ。服を着てしまうと照れ臭さくなった。触れ合っているときは平気だったのに。
「おい、クソデク、帰んぞ」
 ぶっきら棒に言うと、デクが小さな声でうん、と返事をした。デクも照れたように俯いている。
 演習場を後にして森に戻り、デクと手を繋いで林を歩く。当然のように竜も付いてくる。濡れた葉が雫をほろほろと落とす樹々の下。もっと帰り道が長ければいいのに。そう思っているうちに、村の入り口が見えた。
「じゃ、かっちゃん」とデクは言う。ちょっと目を伏せてもじもじしながら。
 離したくない。だが、離さないわけにはいかない。名残惜しく思いながら手を解く。
「明日も来いよ。デク」勝己はぶっきら棒に告げる。
 デクはふわあっと顔を赤らめて、下を向いた。頭を引き寄せて「来いよな」と念を押す。覗き込むように顔を近づける。
 翡翠の色の瞳が揺れている。デクの迷いを映しているようだ。
「なあおい、デク、答えろや!」
 返事をしないのに焦れて、勝己は声を荒らげる。デクはもじもじと視線を上げ、上目遣いに勝己を見た。
「かっちゃん、あんなこと、駄目なんじゃないかな」
「はあ?今更何言ってんだ」
「でも、まるで、大人のすることみたいだった」
「おい!」と勝己はデクの頬を、ぱんっと音を立てて両手で挟む。
「いったあ!かっちゃん、なんだよ」
「てめえも気持ちよかったって言ったよな」
「う、うん」
「大人のすることってなあ、てめえ幾つだ。俺と同じ歳だろうが」
「うん、そうだけど。だけど大人とは言えないかなって」
「毛だって生えてっし、精通もしてんだろ。十分大人だろうが」
「ちょ、かっちゃん」デクはさらに顔を赤らめ、小さな声で答える。「一応、してるけど」
「じゃあいいじゃねえか。明日も来るよな」
 と、ドスをきかせると、こくこくとデクは首を縦に振る。
「よし、てめえ、来なかったら承知しねえぞ」
 デクは真っ赤な顔のまま、こくんと首肯する。約束は取り付けた。勝己は漸く手を離してやる。
 村に向かうデクの姿を見送り、姿が見えなくなってから小屋に戻った。
 ドアを開けるとふわっといい匂いがした。留守の間に母親が来ていたようだ。部屋に匂いが充満している。
 台所に入って鍋の蓋を開けると、美味そうなシチューが入ってる。量が多いな。今日と明日の分か。村に帰す前に家に寄れば良かったな。デクに食わせてやれたのに。
 まあいい、明日来たら食わせてやるか。
 デクがまた持ってきた金平糖を口に入れた。舌で転がすと、やわやわと溶けていく。甘ったるい。まるでデクとのキスみたいだ。
 デク、と名を心の中で呼ぶ。デクのことを考えるだけで動悸が早くなる。
 甘ったるくて、変な時間だった。あいつの身体に触れて、キスをして、肌を合わせて体温を分け合った。濃密な膜で覆われたように、外の雨音も風の音も消えた。世界に二人しかいないみたいだった。
 次はデクをどうしてやろう。またキスをして、身体に触って、その後はきっと、そうだ。
 やっと理解した。幼い時に出会ってから、デクに対してずっと疼いていた感覚。
 あれが正解なんだ。デクだってわかったはずだ。
 キスだけじゃなくて、肌にも唇で触れたい。手で触れるだけじゃ足りないんだ。
 明日が早く来ればいい。あの続きを早くしたい。


 翌日、デクは日が昇るより早く、目が覚めてしまった。
 外はまだ暗くて瞼は重い、でも眠れない。ベッドでうつらうつらと時を過ごしていたら、カーテンの隙間から顔に陽が差して、再び目が覚めた。
 いつのまにか二度寝してしまったらしい。
 階下に降りると、母親は朝食の支度中だった。母親より早く起きて、ひとっ走りするのを習慣にしているのだが、今日は寝坊したようだ。
「珍しく遅かったわね」
「ごめん、お母さん」
「いいのよ、疲れてたんでしょ」
 鶏の卵を取ってきてくれるかしら、と頼まれ、鶏小屋に向かった。鶏のお腹の下から卵を取り、割らないように丁寧に籠に入れる。今食べる分と市場に持っていく分。売る分の卵を数えなきゃいけないのに、心は別のことに乱された。
 市場から帰ったら、僕は今日も森に行くんだろうか。
 来なかったら承知しねえ。
 帰り際の勝己との約束を反芻する。真剣な声を思い出す。
 かっちゃんは明日も来いと言っていた。キスしちゃった。キスだけじゃなく、裸で身体に触り合ったりした。大人がするみたいに。
 かっちゃんの指が触れた場所。思い出すと顔が熱くなり、ゴシゴシと顔をさする。
 朝食を済ませて、余った卵を包んで袋に入れた。母親に卵売りに行ってくるねと声をかけて、市場に出かける。
 朝からずっと、昨夜のことが頭から離れない。今日森に行ったら、どうなっちゃうんだろう。
 かっちゃん何するんだろ。また触り合うんだろうか。かっちゃんにとっては大したことじゃないのかな。大人の真似事みたいな、新しい遊びに過ぎないのかな。でも、僕はきっとかっちゃんでいっぱいになっちゃう。今だって朝から頭の中が、かっちゃんでいっぱいだ。
 でも、気持ちいいからって、こんなことしていいんだろうか。恋愛したこともないのに。擬似恋愛みたいになったりしたら、どうしよう。戻れないかもしれないのに。かっちゃんは迷わないのかな。
 悶々としたまま、市場に到着した。中央広場に集まっている人々がざわついている。いつも市場は喧騒としているけれど、今日はちょっと様子が違うようだ。大道芸が終わった後のような、浮ついた賑やかさ。
「何かあったの?」
 いつも卵を買ってくれる、食料品店のおじさんに尋ねてみた。
「君!もっと早く来たら良かったね」
 とおじさんは興奮冷めやらぬ調子で言った。
「昨日村に来た勇者オールマイトが、広場で暴れてた悪漢どもをやっつけたんだよ。すごかったよ。店に因縁をつけた悪漢達が片手で一捻りだったよ」
 憧れのオールマイト。すっかり忘れてた。こんな大事なことを忘れてたなんて。今日は早く起きて、彼の宿泊している宿屋に行こうと思ってたのに。
オールマイト、今どこにいるの?宿にいる?」
「もう村を出るところだったみたいだよ。荷物を持ってたからね。村はずれにいるんじゃないかな」
「ありがとう!」
 デクは走った。急がなくっちゃ。今追わないと会えなくなる。かっちゃんには後で言おう。会いに行くのは明日でもいいよね。今は彼を追わなければ。
 同じ年くらいの子供は、家業を継いだり、技術を身につけるために奉公に出たり、町の学校に行ったりと、それぞれ動き出している。自分も夢のためには、足踏みしていてはいけないのだ。
 勇者になりたい。不可能だと言われても笑われても。
 かっちゃんは反対するかも知れないけれども。どうしても。夢を叶えたいんだ。


「クソが!あの野郎」
 その日の夕方になっても、デクは来なかった。次の日も来なかった。
 勝己は腹を立てて毒づいた。「クソデクが、ふざけんじゃねえぞ。約束違えやがって!」
 身体に触れたことを、触れ合うことを、デクは迷っていた。だから来ないのか。嫌だったのか。だが、あいつも気持ちいいと言ってた筈だ。身体の境界がなくなって溶け合うような感覚を。
 今更怖気付いたのかよ。離れようったって離さねえぞ。
 勝己は待った。待つしかないのだ。半人前の竜騎士である自分は村には入れない。デクを問い質したくても果たせないのだ。
 デクが姿を見せないままに1週間が過ぎた。
 俺をこんな待たせやがって、こんな思いをさせやがって。あいつ、今度会ったらぶっ殺してやる。
 とはいえ、待ってばかりもいられない。竜騎士の修行も本格化してきたのだ。
 演習場に黒竜の巨躯が舞い降り、竜の背から黒装束の男が降りた。相澤先生だ。
 黒竜の使い手である相澤先生は、皇国の竜騎士の中ではあまり知られていない。自分も先生と生徒として会うまで知らなかった。竜騎士でもないくせにデクは知っていたらしいが。
「全員揃ってるか。じゃあ、竜から降りて並べ。さっさとしろ」
 相澤先生は不機嫌そうに言うと、居並ぶ竜騎士の卵達を見渡し「全員いるな」と確認した。
 山頂の広場に集った生徒達は、先生の号令で竜に乗ると、一斉に空に舞い上がった。竜の群れの羽ばたきは、突風となり土埃を巻き上げる。
 竜騎士は子供の頃から竜に慣れさせ懐かせ、竜が主人の命令を聞くようにする。その後、成長に合わせてそれぞれの竜と同調し、竜の力を使いこなせるようにする。
 勝己は竜との同調をいち早くマスターし、赤竜の力である爆破の能力も使えるようになっていた。
 だが、竜はいまだに肝心の「待て」の命令を聞かない。
「普通は、待てが出来てからの竜との同調だろ。順番逆じゃねえか」
「お前の竜、頭悪いんじゃねえのか」
 他の竜騎士見習い達に揶揄され、勝己は頭にきて睨みつけた。
「あ?喧嘩売ってんのか」
「怒ったのかよ、本当のことじゃねえか」
 勝己の後ろに控えている竜が首をもたげた。見習い達の竜も近付いてきて、一触即発の緊張感が張り詰める。
「お前ら!揉めると落第にするからな。爆豪、苛々をおさめろ。竜が荒れるぞ」
 相澤先生は駆けつけて、竜達を宥め、見習い達を「遊んでる暇はないぞ。散れ!」と追い払った。だが勝己には「お前は残れ」と告げた。
「説教かよ。売られた喧嘩を買っただけだ。あいつら竜を制御できるからって、その一点だけでこの俺を見下しやがってよ。うんざりだ」勝己は憮然とする。
「面倒を増やすな。相手にすることはないだろう。竜との同調はお前の方が先を行ってるんだぞ」嘆息して相澤先生はぼやく。「焦る気持ちはわからんでもないがな」
「同調できても、こいつ命令をきかねえんだ」
「お前に似て勝気な竜だからな、上からの命令をなかなか聞かない性質のようだな」
「クソが。何とかならねえのかよ」
「同調は出来てるんだ。お前の竜も、もう間も無く従うようになるだろう」
 だが、その「間もなく」に勝己は何年待たされていることか。まだ竜の力を同調出来てない奴らの方が、もうとっくに竜を制して足環を手に入れ、村にも行けるようになっているというのに。最初に竜と同調した自分が、他の奴らにどんどん追い抜かれる。勝己は日々焦燥感に駆られ、苛ついた。
「もう竜がついてこないように出来ねえのかよ」勝己は先生に問うた。
「足環を得られなきゃ無理だな。今の状態のお前と竜ではまだ与えられん。未熟な竜が結界は越えられないのは、危険だからだ。結界は村を守るためにある。今すぐどうしても森から出たけりゃ、竜騎士になるのをやめるしかないぞ」
「今更辞めるなんてできんのかよ。契約した竜はどうなる。野性に戻んのかよ」
「一度竜騎士と契約した竜は野性には戻れんが、なに、別の者と新しく契約を結べば済むことだ。でないと竜騎士が死んだ時に困るだろう。竜は人間よりも遥かに長命だからな。主1人に縛られることはない」
「なんで子供に仔竜を契約させんだ。躾のされた大人の竜でいいじゃねえか」
「大人の竜は子供の命令など、なかなかきかんぞ。それに、仔竜の躾は、子供の竜騎士にさせると同調するのが早いんだ。仔竜は大人の竜騎士に慣れるのに時間がかかる。大人は本能だけで動かないからな。損得や理性は邪心となり、竜との交感の邪魔をする。子供は本能と感情の動物だ。感受性が高く純粋な子供の感情が、真っ直ぐに竜の感情を育てて感応する。竜騎士は竜の鋭敏な感覚の一部を共有する。竜の力の一部も使えるようになる。お前のように爆破の力とかな。共感することで互いに優れた竜と竜騎士となれる。もちろん相性もあるがな」
 勝己は側で蹲る竜を振り見る。こいつがデクにだけ懐いてたのは、竜が俺と共感してたからなんだろう。でも、だったらなんでなんだ。
「お前、竜騎士を辞めたいのか」相澤先生は問うた。
「ああ?聞いただけだ」勝己は顔を顰める。「辞めねえよ。自分で決めた道だ。それだけはねえ」
「ならば、お前、村に会いたい奴でもいるのか」
「いねえよ!」
「いるのか。なるほどな」
「あんたどこに耳ついてんだよ。いねえってんだ!」
 ムキになって言い返す勝己に、先生は溜息をつく。「まあいい、仮にいたとしての話だがな、思う相手に同調しか出来てない、今の半端な段階で会うのは、関心せんな。お前も竜も共に制御できてないってことだからな。逆にお前の方が、竜の本能に呑まれて流されかねんぞ」
 あんたにはわかんねえだろーが、関係ねえだろーが、という反論の言葉を飲み込む。竜がグルルと唸る。勝己の感情に同調しているのだろう。こいつは俺の鏡だ。上から押さえられるのを嫌う。そして、デクを気に入っている。
 修行中であっても、森から森へは渡れるし、国境の道や街や遠方の皇国の都にも行ける。街や都は魔物や半妖でも、関所を通過すれば問題はなく、誰にでも開かれているからだ。ゆえに防衛のため、それらを制する魔法使いや僧侶は、町や都に集中している。
 竜騎士のいる森に近い村にはかならず結界がある。自分達は結界の張ってある村にだけは入れないのだ。もちろん結界のない村になら入れるが。
 林の出口に立って、村への入り口を睨む。ここから先は自分は行けない。
 大きくなっても竜は、それでも自分の後をついてくる。気性が荒くて勝己の命令をあまり聞かない。てめえは俺にそっくりだ。
 竜がついてくる以上、村に行くことなどできない。
 すぐ近くにいるというのに手が届かないなんて。思いは募るばかりだ。憤りが膨れ上がるばかりだ。
 デクは来なくなった。姿を見ることなく、月日が流れ、季節が巡る。
 竜は隆々とした体躯に育った。自分ももう子供じゃない。身体も心も成長した。確かな衝動で、あいつに会いたいし、触れたい。
 デク、早く来い。他の奴らが来ねえのは構わねえ。てめえは来なきゃいけねえんだ。俺の方からは行けねえんだ。わかってんだろうが。
 てめえだけを何故こんな風に求めてしまうんだ。なんでこんなに苦しいんだ。クソが!なぜ来ないんだ。


第三章


 声が聞こえた。
 勝己は目を覚ますと飛び起きた。
 空耳だろうか。目を瞑り、感覚を研ぎ澄ます。まだ明け方の森の中に靄が残る時間。
 間違いない。あいつの匂いがする。村の方角じゃない。森の側からだ。
 だが血の臭いが混じっている。嫌な予感にぞわっと総毛立った。勝己は急いで着替えると、竜に飛び乗った。
 竜は森の上を風を巻いて飛翔する。村から村に渡る道には結界はない。薄闇に目を凝らす。
 また悲鳴が聞こえた。何処だ。
 眼下には切り立った崖の上に作られた道がある。一本道だ。悲鳴をたどって道を目で追った。
 見えた。馬車が盗賊に襲われているようだ。デクは馬車の中にいるのか。
 竜はバサリと翼を打ち下ろし、馬車の側に降り立った。いきなり現れた竜に盗賊達は固まった。勝己は竜の頭に立ち、盗賊達を見下ろして怒鳴った。
「何してやがる!てめえら」
「てめえには関係ねえ、クソ!竜なんざ屁でもねえよ、降りてこいクソが」
 盗賊は勝己を見上げて、後退りながら虚勢を張る。怖気づいてんのがバレバレだ、間抜けが。今や竜は象をも超える巨躯に育っていた。
「そうもいかねえな。てめえら邪魔だ!退けカスが!」
 掌を盗賊に向けると、勝己は火球を飛ばして盗賊達の武器を爆破した。武器を失い怯んだ盗賊達を竜が容赦なく蹴散らす。盗賊達は略奪した金品を捨てて、一目散に逃げ出した。
「は!だらしねえ奴らだ」
 盗賊達の逃げる先を一瞥し、勝己は馬車に視線を移した。馬車の車輪の後ろに怯えた初老の男が縮こまっている。服装からして御者のようだ。勝己と目が合うとさらに怯えた表情になった。
 男に構わず「おいデク!」と怒鳴り、馬車の中を覗いた。中には数人の客がいたが、デクはいない。
「おい、もう盗賊はいねえよ。聞きてえことがある。俺くらいの歳のもしゃもしゃ頭の馬鹿面した奴が乗ってなかったか?」
 客達を見渡して勝己は問うた。
「若い男の子がいたよ。その子のことかな」誰かが答えた。中年の男だ。
「なんで今、ここにいねえんだ。そいつに何かあったんかよ」
「私達は盗賊に順番に外に出るように言われたんだ。だが、泣きだした子供が竦みあがって動けなくなり、盗賊につまみ出されてしまった。その少年は抗議して馬車を出て、突っかかっていったんだ」
「そいつは何処にいる」
「すまない、外の様子はあまりわからなかったんだ」
「小さな子をかばって、一緒に崖から落ちてしまったよ」背後から声がした。車輪に隠れていた御者だ。「私は怖くて、見ていることしか出来なかった」
 勝己は崖の下を覗いた。木々に隠されて見えないが、崖の下からは確かにデクの匂いがする。
 竜に飛び乗って崖の下に降り、デクの姿を探した。
「何処だ!デク」
 返事のできない状態なのか。もしもあいつが。いや、考えるな。
 竜が首を左右に振って一点を指し、迷いのない足取りで歩き出した。森の中に入ってゆく。
「お前、わかんのか?」
 デクを探していることを、こいつは理解しているのか。ともかく、勝己は竜についていった。暫く歩くと竜は立ち止まり、勝己を振り向いて、クウっと鳴いた。
「見つけたんか」
 折れた木の枝と共に、倒れている小柄な身体。間違いないデクだ。
「まさかてめえ。デク!クソが!デク!」名を呼んで駆け寄った。
 頭部からドクドクと血が流れている。頭だけじゃなく身体も傷だらけだ。服は裂けてボロボロだ。
 身体をそっと起こしてみる。デクは腕に子供を包み込むようにしっかり抱いていた。子供は気を失っているがほぼ無傷だ。子供を腕から離して地面に寝かせ、デクの呼吸を調べてみる。か細いが、息はしている。腕や足も変な方向に曲がったりしてはない。気絶しているだけだ。
「自分の身体でこの子を庇ったのか。てめえが死んだらどうすんだ。は!英雄になりたいとかほざいてたくせによ。ざまあねえな」
 ほっとした。ぐったりした身体の下に腕を回し、そっと抱きしめる。
「大丈夫ですか?」と御者が崖の上から声をかけてきた。
「ああ、無事だ」
 デクを残して、子供だけを抱えて竜に乗る。心配そうに崖下を覗いていた御者に子供を渡した。両親らしき男女が駆け寄ってきて、頭を下げて子供を抱きしめた。
「もう1人いませんでしたか?その、その子を助けた少年が」
「知らねえ。そいつしか見つからなかったぜ。探しといてやるから、さっさと出発しろよ」
「彼が貴方の探してる人ではなかったんですか」
「いや、俺の勘違いだったわ、じゃあな」
 御者に問われ、そらっとぼけて答えると、勝己は竜に跨って崖下に戻った。傷だらけのデクを竜の背に乗せて抱きかかえる。デクは渡せない。森に連れて帰るのだ。

 デクをベッドに寝かせて衣服を脱がせた。ちょっと驚いた。自分ほどではないにせよ、そこそこ鍛えられた身体だ。全裸にして血や砂を清潔な布で拭き取り、傷の深さを確かめる。
 肌を綺麗にすると、傷の一つ一つは思ったより深くない。骨が折れたり肉が削げたりはしてないようだ。手足の皮膚の擦過傷は多くても外傷は浅い。樹木の枝がクッションになったのだろう。ただ、頭の傷だけは気になる。後遺症がなければいいが、意識が戻らないとわからない。
 傷を治すために薬草を口に含み、噛み潰して、デクの身体に跨り、屈みこんで傷口を舐める。
 やっとだ。やっと面を見せやがった。
 デクが来なくなって、何か月経ったことだろう。何年経ったことだろう。随分成長したけれど幼い面影は色濃く残る。
 デクの右手の掌を開いた。豆を潰した跡がある。剣の稽古でもしているのか。くっと喉の奥で笑う。掌を舐めて一本ずつ指を舐める。
 てめえに勇者様なんて似合わねえぜ。ちょっと稽古して多少筋肉をつけて、強くなったつもりでいるから、こんな目に遭うんだ。額のキズを舐めてキスをする。血の味。頭に包帯を巻いてから、首筋に舌を這わせる。胸の傷を舐め、太腿を持ち上げて舌を這わせる。
 傷を舐めてゆくうちに、下腹が熱くなってきた。陰茎が硬くなってきたのを自覚する。勃起したようだ。情欲。所有したいという証。
 こいつが欲しい。
 思いが膨らんで弾けそうだ。
 欲しくて目眩がする。
 脳が欲望に塗りつぶされる。
 本能に呑まれるとは、こういうことなのか。
 抑えきれない。
「あの時の続きをしてやろうか、なあデク」
 勝己は指先の皮膚を噛み切った。ぷつりと皮膚が切れ、血が玉になりとろりと吹き出す。指先をデクの唇に塗り、指を口に含ませる。唇が赤く染まった。深くキスをして、舌をデクの舌に絡める。
 契約の血だ。竜に行ったように。
 これでてめえは俺のだ。
 デクの傷はもう塞がってきている。薬草の効果が出て来ているようだ。朝には綺麗に治るだろう。
 下腹部に跨り、身体を重ねてデクに欲望を擦り付ける。衣服が邪魔だ。服を脱いで裸の素肌を重ねる。あの雨の夜に触れたように、隙間なく。ぴくりとデクの身体が反応する。
「おい」と声をかけてみる。「起きろや、なあ」
 デクは薄眼を開けたようだが、また瞑ってしまう。薬には麻酔効果もあるから、意識が朦朧としているようだ。
 今抱いてしまおうか。まだ目を覚ましそうにない。だがもう待てない。衝動が止められない。
 腹の底で獣の如き本能が渦を巻く。

 覆い被さり、はっはっと荒くなった息を整える。首元に息を吹きかけ、デク、と名を呼ぶ。抱かれながらも目を覚まさない。呑気な野郎だ。
 デクの額に額をくっつけて、デク、ともう一度呼びかけ、唇を這わせて深くキスをする。

 朝の光が窓から差し込んでいた。
 隣に眠るデクの頬にそっと触れる。瞼がピクリと動いたが、目を覚まさない。肌に治りかけた傷跡と、勝己の付けた赤い所有の証が、入り混じり散らばっている。
 勝己はにっと悪戯っぽく笑い、服を身につけると、デクを起こさないようにそっとドアを閉めた。
 早朝は竜の食事の時間だ。勝己は竜を寝床から連れ出すと、狩場に連れていった。
 デクと会った高原には小動物しかいない。大きくなってからは、森の奥にある別の草原に狩場を変えている。中型の獣だけではなく半妖も生息している場所だ。野生の本能を失わないためにも、竜騎士の竜は生きた獲物を必要とする。狩で足りない分を竜用の餌で補う。
 竜に声をかけて、自由に狩をさせながら、勝己はこれからのことを思案する。
 傷が治るまでデクは帰さない。治っても帰さない。契約をしたのだ。もう俺のものだ。あいつの意思など知ったことが。何年も俺を待たせやがったあいつが悪いんだ。
 適度に竜に獲物を食わせ、小屋に戻った。だがドアの前で勝己は異変に気付いた。
 おかしい。しっかり締めたはずのドアに隙間がある、まさか。
 嫌な予感は的中した。ベッドはもぬけの殻になっていた。
「おいデク!」と呼びかけるが、家の中は静まり返っている。何処にもデクはいない。
「何処に行きやがった!逃げやがったのか。許さねえ」
 小屋の周りに足跡を見つけて森の中を追った。だが、行けども行けども姿は見当たらない。いつ出て行ったんだ。ずっと前なのか。もう森から出ちまったのか。勝己は焦った。村の方向に向かって林を駆ける。後ろを竜もついてくる。
 あいつには子供の頃から見知った帰り道だ。もう林を抜けたのか。もう村に着いたのか。
 次はいつ会えるんだ。いや、次などあるのか。
 村への入り口が見えるところまで辿り着いた。林はここまでだ。着いてきた竜も立ち止まる。デクの姿はどこにもなかった。
 ここからは結界が立ちはだかるのだ。勝己には越えられない見えない壁。
「デク!デク!てめえこのクソが!クソが!」
 聞こえないと知りながらも何度も叫ぶ。村への道を数歩進めてみたが、いつかと同じように、見えない結界を踏んだ途端に、林の入り口に戻されてしまう。
「くそが!目を離したのは、ほんの少しの間だけだったろーが。それだけで失っちまうのかよ。どれだけ待ったと思ってんだ。ふざけんなよ。デク!」
 竜を睨みつけ、勝己は怒鳴った。「お前、ついてくんなよ!」
 竜は首をくいっと振る。
「ついてくんな!てめえがついてくるから、あいつを追えねえんだ」
 竜は吠える。
「クソが!」勝己は叫んで木を殴りつけた。「クソカスが!」殴り続けて手の皮がむけて血が幹にこびりつく。
「クソが……」頭を幹に付けて俯いて呟く。
 違う。八つ当たりだ。
 竜騎士になる夢のために、竜と契約したのは俺だ。デクを攫って本能に呑まれて抱いたのも、安心しちまって隙を作ったのも、俺だ。
 座り込んで頭を抱え、気を沈める。竜が隣に座して頭を垂れる。勝己の気持ちに感応して荒ぶり、静まれば落ち着くのだ。頭を撫でると、竜はすりすりとその頭を勝己の手に押し付ける。
「お前もデクに会いてえのか。だから俺に付いてくるんだな」
 クウ、と肯定するかのように竜は啼く。
 俺と同調しなかったなら、竜の本能のままに生きただろう。だがこいつは俺の竜となった。俺と同調していないこいつは知らない。知ることもない。
 制御しなきゃならないのは竜じゃない。俺の心だ。
 お前はペットや友達なんかじゃない。俺の武器であり右腕なんだ。
 猟師の猟犬のように、鷹匠の鷹のように。それが竜騎士の竜なんだ。
 街道には盗賊やならず者だけではなく、魔物も潜んでいる。竜の森の側だけではなく、魔物が多く出る地帯には、結界を張っている村が多い。危険を排除するために結界は強力に張られる。首輪のない竜を連れた竜騎士の卵が村には入れないのは、野生の竜は魔物と判別されるからだ。
 こいつはまだ魔物なんだ。俺が竜騎士の竜にしてやらなきゃいけないのだ。
「デクに会うんだ。そのために、1日でも早く一人前にならなくちゃあな」
 竜騎士となって森を出て、デクに会うのだ。勝己は竜の丸太のような首を撫でる。
「なあ、てめえも同じだろ」
 竜はクゥンと鳴いて首を傾ける。


「訓練に熱が入るようになったな」
 一番に課題を済ませて戻って来た勝己に、先生が目を細めて声をかける。
「あ?もともと俺ぁ真面目だ」
「そうだな。以前からお前は訓練自体には、真面目に取り組んでいた。何か吹っ切れたようだな。いい傾向だ」
 勝己は目的を得たことで、闇雲ではなく効率的に力をつけていった。先生も驚くほどに目覚ましく成長した。勝己の意思が伝わっているかのように、竜は忠実に従うようになった。竜の力の一部を勝己の掌に移すことで、安定して爆破する能力を得た。これで竜と変わらないくらいの火力を得られる。
「勉強熱心だな。目標がはっきりしたようだな。あの村、か」と先生は感心したように言う。
「ああ?なんか文句あんのかよ」
「いや、目的がなんであれ、一人前の竜騎士になれば文句はない。思うことで強くなれるなら、それもいいだろう」
 先生に褒められるとこそばゆい。「へっ」とそっぽを向く。
「先生、あれ、いつ貰えんだ?」勝己は問うた。
「足環だな。この分なら間もなく渡せるだろう」
 待ちに待った、とうとうその時が来た。
 数日後、演習の終わりに、先生が竜騎士の証である金の輪を、手にジャラリと下げてきた。権利を得た竜騎士見習い達に順番に渡してゆく。
「これが竜騎士の証だ」
 勝己の手に金の輪が手渡された。呪文が表面に刻字されている。普通の腕輪のサイズだが、竜の脚に触れると伸びて巻きつく仕様だ。
 呪文を呪物の表面に刻む魔法は、竜の民独特の呪術だ。結界を張る術と同様に、竜騎士を目指すのならマスターする必要がある。訓練の合間に練習をして、勝己も多少は使えるようになった。
「無造作じゃねえかよ」
「わざわざ箱に入れて、リボンでもつけて欲しかったのか。非効率だろう」
「へっ、いらねえよ」
「お前は熱心に修行を行ってたからな。今まで多くの竜騎士を教えてきたが、お前ほど早く竜と同調できるようになり、さらに竜の力を使いこなせるようになった奴はいないぞ」
「は!俺を誰だと思ってんだ。当然だってんだ」
「竜を制御するのは一番遅かったがな。お前ならすぐにも卒業できそうだな。そうすれば好きな場所に行けるし、住むことも出来る。試験を受ければ、皇国の竜騎士にもなれるぞ」
「あんたと同じ皇国の竜騎士か。まあ考えとくわ」
 早速、勝己は竜に足環を装着した。竜は違和感を感じたのか、ふるっと脚を振ったが、嫌がりはしない。
 鍛錬が終わり小屋に戻ると、「いいな、ここで待てよ」と竜に命じてみた。
 竜は大人しく蹲った。勝己が離れても身体を起こさない。
 よし、ちゃんと言うことをきくな。もうついてこないな。
 竜騎士の竜となったので、村に連れて行けるのだが、まずは自分だけでデクのところに行きたかった。森を出て高原を抜け、林のはずれについた。
 村が見える。デクのいる村が。
 すうっと息を吸い、道に足を踏み入れる。2歩3歩と足を進める。
 歩いていける。もう林の入り口に戻されることはない。村に入れる。勝己は走り出した。
 デク、デク、くそが!
 気分が高揚した。この日をどれだけ待っただろうか。駆けて、駆けて、村の入り口に到着した。
 デクの家はどこだろう。道行く人に尋ねて、ようやくデクの家を見つけた。キノコみたいな形のこじんまりした家だ。郵便受けの周りには、色とりどりの花が植えられた花壇がある。母親の趣味なんだろうか。
「デク!出て来い!」
 ドアをノックすると。母親が顔を出した。顔立ちにデクの面影がある。勢いを削がれた。
「あらまあ、お友達?」
「デクは何処にいんだ」
 挨拶も忘れて聞くと、母親はすまなそうに答えた
「ごめんなさいね。暫く前に旅に出たのよ」
 勝己を招き入れると、デクがこれまで何をしていたのかを母親は語った。
「勇者になるのが昔からあの子の夢だったの。だから、憧れていた勇者が村を訪れた時に、後を追って行ったのよ。」
 オールマイトが来たって言ってた、あの日か。
「弟子になるって手紙が届いて、びっくりしたわ。オールマイトにそのまま皇国の都に連れて行ってもらって、彼のところで修行して稽古をつけてもらったそうなの」
 母親は微笑んで言う。デクの掌にあった豆の跡。あいつは俺が知らねえ間に、オールマイトの下で勇者になる修行をしてたってことか。
「皇国の都は遠いから、そうそう帰れないけれど、手紙を毎日書いてくれたのよ。でも、数ヶ月前に怪我をして帰って来たの。盗賊に襲われたと聞いて、荷物だけが届いたから、とても心配してたんだけど。次の日に無事に帰って来てくれて、ほっとしたわ。服がボロボロになっていたけど、何故か傷は治ってたのよね」
 ちくりと胸が痛む。俺の家にいたんだ。親がいることは考えないようにしていた。帰したくなかった。やっと会えたんだ。
「でも、頭を打った後遺症かしら、子供の頃の記憶に、ほんの少し飛んでるところがあるみたいだったわ。少し前まで静養を兼ねて家にいたんだけれど。ごめんなさいね、せっかく来てくれたのに。そのうちあの子、旅先から手紙を出してくれると思うわ」
 そんなに待てない。デクの家を出ると、口笛を吹いて竜を呼んだ。竜は上空を滑空して勝己の側に舞い降りる。竜に跨って空に舞い上がると、勝己は吠えた。
「クソが!クソが!クソデクが!」
 都なら未熟な竜騎士や竜でも、簡単に入れんじゃねえか。あいつがいたと知ってれば、会いに行けたんだ。あいつ、それを知ってて黙ってたんじゃねえのか。勇者だと?似合わねえだろ、てめえには。俺との約束よりオールマイトを優先しやがって。
 旅に出ただと?一体何処にいったんだ。旅の目的とやらはなんだ。どの方向に行ったのかもわからねえ。
 もう安穏と森にいられるものか。クソが。あいつを追うわけじゃない。そろそろ森にも飽いただけだ。
 勝己は森に戻り、旅支度を始めた。赤いマントを羽織り、玄関の柱に呪文を刻んで術をかけ、小屋を縮めて、掌大になった小屋を袋に入れた。もしもデクが森にきた時のために、呪文を刻んだ使い魔を放っておく。
 竜に背中に飛び乗り「行くぞ」と声をかける。竜は返事をするように吠える。
「あいつを、デクを捕まえるんだ」


第四章


 焚き火の中でパチパチと火の粉が爆ぜる。
 揺らめく焔を見ていると、なにかを思い出せそうになるけれど、浮かんだはずの光景はすぐに泡のように消えてしまう。
「そろそろ交替するか」
 轟がむくりと身体を起こした。
「まだいいよ、轟君。僕、眠れないから」
「どうした。緑谷」
「うん、ちょっとね」
 デクは小枝を火に焚べる。旅に出てすぐに、デクは兵士の飯田と魔法使いの麗日に出会い、魔物を退治するために旅に出たという王子の轟に出会った。3人は意気投合し、轟と目的を一にして共に旅を続けている。
 近くに宿が見つからず、今夜は夜営となった。獣や魔物が寄って来ないように、交替で火の番をしている。
「轟くん、君は何故旅を始めたの。王子様なんだよね」デクは聞いた。
「様はつけんなよ。俺は父親である王に反抗して出奔したんだ。父は横暴だが、不思議なことに民に慕われてもいる。王として認めざるを得ない。だから奴より強くなりてえんだ」
「すごい目標だね。轟くんならいい王になれそうだよ」
「遠い道のりだ。皇国で村を襲い、人々を苦しめているという魔物を退治すれば、何かが変わるかも知れないと思った。人助けのためとは言い切れねえ。邪念かも知れねえが」
「ううん、そんなことない。すごいよ。皆すごい。飯田くんは騎士である憧れの兄を目指して武者修行、麗日さんは魔女になるために見聞を広げる勉強中だって。皆旅をする理由があるんだね」
「お前はどうなんだ?」
 デクは焚き火を見つめる。焔が小さく弾けて火の粉が散る。
「僕は記憶の欠片を探してるんだ」
「記憶?何があったんだ」
 轟に問われ、デクは逡巡した末に答えた。
「昔、僕の乗ってた馬車が盗賊に襲われてね、その時負傷したショックで、記憶がちょっと欠けてるんだ。子供の頃の思い出とか疎らに忘れてるんだよ」
 最近、段々と記憶の欠けていた部分を取り戻してきた。冒険が脳に刺激を与えるのかも知れない。旅に出てよかったと思う。
「街道の盗賊は質が悪い。皆殺しにして金品を奪うのが常だ。よく無事でいられたな」
「盗賊が子供を追いかけていて、僕はその子供を庇って、抱いて崖から落ちたって、後で同じ馬車に乗ってた村の人から聞いたよ」
「そりゃ大怪我をしたんじゃねえか。よく生きてたな。」
「それがね、崖から落ちたはずなんだけど、起きたら一人で知らない小屋の中にいたんだよ。小屋というか、お屋敷みたいな大きさだったけど。手当てされてて、身体に傷はほとんどなかったんだ」
「そうか、助けられたんだな」
「それが、多分違うんだよ。そこは盗賊の住処だったと思うんだ」
「は?お前を襲った盗賊のか?」
「多分そうだと思う。なんか物騒な武器がいっぱいあったし、普通の人の住居じゃなかったんだ」
 衣服を脱がされて、陵辱されていたらしいことは黙っておくことにした。
 見知らぬベッドで目覚めて立ち上がったら、あらぬところが痛み、後孔から精液が溢れて、脚を伝って流れた。よく見たら身体にも鬱血した赤い跡があった。男なのになんで僕が、と信じられなかったけど、犯されたのが気絶してる間でよかったとも思った。もし意識がある時に組み敷かれてたらと思うと、ぞっとする。
「盗賊に攫われたってことか。しかし、おかしな話だな。盗賊がわざわざ傷を負った緑谷を、住処に連れてきたのか?おまけに傷の手当てまでしてくれてよ」
「確かに不思議なんだけどね。僕が起きた時は誰もいなかったし、姿を見てはいないから、本当に盗賊の家だったのかはわかんないんだけどね」
「その後、お前はどうしたんだ」
「小屋の中を探索して、助けた子供とか、他に捕まってる人がいないことを確認してから、急いで脱出したよ。盗賊が戻る前に出て行かなきゃと焦ってたんだ。小屋を出ると森の中だったんだけど、僕の村の近くだったから自力で帰れたんだよ」
「森の中でよく迷わなかったな」
「そういえばそうだね。必死だったからかな。まるで知ってる道みたいに、帰り道がわかったよ」
 後で一緒の馬車に乗ってた人から話を聞いた。通りがかった竜騎士が、その子を助けてくれたそうだ。目つきの鋭い竜騎士で威圧感があって、一瞬魔物なのかと思ったという。その竜騎士には子供を助けてくれてありがとうって、いつか会えたならお礼を言いたい。
 それに竜騎士といえば、思い出す人がいる。犯されたと知っても、そこまでショックではなかったのは、子供の頃の経験のせいだろうか。男同士でも触れ合えるのだと。
 竜騎士の少年とは友達だった。よく一緒に遊んだ。
 あれは森に遊びに行った時のことだ。竜騎士の少年とふたりきりで小屋で雨宿りをした。どういうきっかけだったのか。抱き合って、身体を温めるように触りあった。ふたりともどうかしてたのかも知れない。
 でもその竜騎士の少年の顔は、朧げでよく思い出せない。いまだ欠けている記憶のひとつだ。
 会えば思い出せるだろうか。会っても分からなかったら、悲しい。
 雨宿りの後の翌日のことは覚えている。帰り際に彼は明日も来いと言っていた。
 また会ったら続きをしようと言われるんだろうか。何事もなかったように接してくるだろうか。どうすればいいのかわからなくて迷った。
 戯れの延長。男女の交わりの真似事。でも、進んでしまったら戻れない予感がした。  暖炉の炎を映して揺らめく彼の赤い瞳。唇が触れるたびに焼かれるような。身体の奥に火が灯るような。
 悶々と眠れない夜を過ごした翌日の朝。前日から訪れていた、オールマイトが村を出たと聞いて、慌てて後を追った。山を1つ越えて2つ越えて、やっと追いついた。憧れの勇者の顔を見た途端に、力が抜けてぶっ倒れてしまった。
「そんな遠くの村から追って来たのかい」とオールマイトは驚き、呆れたようだったけれど、でもその根性は勇者の素質があると見初められた。
「勇者は自分を捨てて人々のために戦うのだ。それが出来る者は多くはない。君にはできるかい?」と子供の自分に対して、真剣に言ってくれた。思いがけず夢が叶う可能性に舞い上がった。竜騎士の彼のようになれるかも知れない。
 このことを彼に話したい、と思ってはたと考えた。いつも勇者への憧れを口にするたびに、彼は自分には無理だと言った。時に癇癪を起こすくらいに。彼の言は正しくて、自分はいつも萎縮していた。
 彼はきっと反対する。勘のいい彼のことだ。言わなくても、会えば勘付かれてしまうだろう。でも、勇者として一人前になれば認めてくれるんじゃないだろうか。
 今は会えない。まだ会わない。迷う心に言い訳して理由にした。それに、オールマイトは皇国の都への帰途を急いでいて、引き返す暇はないという。勇者になるチャンスは今しかないのだ。
 宿で母宛に手紙を書いて投函してから、そのままオールマイトについて行って都にとどまり、弟子になって修行した。森に住む彼には、いつか勇者となった暁に、会って話そうと思った。
 憧れの勇者との鍛錬に夢中になり、日々は矢のように過ぎた。考えるのを先延ばしにしているうちに、彼との約束は遠くなってしまった。
 きっと彼は約束なんてとっくに忘れてるだろう。今頃はすごい竜騎士になっているだろう。皇国の竜騎士となった彼と、いつか都で会うこともあるかも知れない。まだまだ駆け出し勇者の自分などでは、到底比較にならないだろうな。いつか彼が認めてくれるくらいになったら、会いたい。
 それとも、まだあの森にいるのだろうか。冒険の旅の何処かで、会うこともあるだろうか。子供の頃からの付き合いではあるけれど、彼は覚えていてくれるだろうか。元気にしているだろうか。
 彼の顔を思い出したい。彼の顔は朧にしか思い出せないけれども。太陽のような少年だったことだけは覚えている。
「静かに!声を出すなよ」
 轟は焚き火を踏み潰した。
 どうしたの?と目で問うと、轟は音を聞くように、耳を示した。
 獣の臭い。大勢の人々の重い足音。何か近づいてきてる。
 そっとふたりを起こせ、と轟が促し、麗日と飯田を揺り起こすと、繁みの陰に隠れる。麗日が「長い時間は持たへんけど」と皆に気配を隠す術をかけた。
 獣の臭いが近づいてきた。暗がりにようやく目が慣れて見えてきた。
 狼の頭部に筋肉隆々とした人の身体の魔獣。ワーウルフの群れだ。唸り声を上げ、列をなして麓に向かってゆく。
「下の村が危ねえ」轟は刀の柄に手をかけた。
「だが、数が多いぞ。僕たちだけで戦えるだろうか」飯田が言った。
「でも、ほっとけないよ。魔物への結界を張ってる村は多くないんだ」
 デクは思い出す。魔物に蹂躙された村は酷い有様だった。無造作に転がる屍、負傷した人々、泣いている子供。家屋は壊され、血の臭いと静けさに包まれる。戦の後のような惨状。そんな地獄が一晩で起こるのだ。
 デクの言葉に轟は頷いた。
「麗日の魔法の効果で、暫く奴らは俺達の気配に気づかねえだろう。俺達の人数にも。魔法が効いているうちに、不意を打つしかねえな」
「うん、やろう」デクは首肯した。
「無理をしては駄目だぞ。今は脅かして奴らを追い払えればいい。その後で麓の村に警戒するよう伝えよう」飯田が言った。
 4人は目配せをすると、それぞれの武器を手にして、一斉にワーウルフの群れに突っ込んでいった。
 デクはワーウルフに対峙すると、剣を振るった。刃がワーウルフの身体にめり込む。相手の動きより自分の方が早い。剣の訓練の賜物だ。刃を抜いた傷口から血が吹き出しワーウルフは地面に転がって叫んだ。
 重たい肉を斬る感触。初めて生きた身体を斬った。
 だが狼狽える暇はない。皆も戦っているのだ。デクはしっかりしろ、僕、と気を取り直して剣を構え直す。
 ふわり、と黒い小さな人型が目の前を横切った。
 どこから来たのか、ひらひらと舞う。蝶なのか。
 黒い蝶のようなものは、何匹も揺蕩うように舞っている。剣に触れるとそれはボロリと崩れた。蝶じゃないのか。なんだろう。
 でも、構ってはいられない。デクは次のワーウルフに刃を向ける。
「群れはあの山から降りてきてるようだ」
 轟が言った。黒々と聳える山は、村で聞いた、火の山という名前の山だ。


 竜に乗って空を飛んで彷徨って、いくつも山を越え谷を越えた。
 幾日日々が過ぎたことだろう。
 勝己は村に降りては、デクらしき人相の旅人の情報を探し、尋ねて回った。だが人1人などそう簡単に探し出せるわけがない。しかもそばかす顔で童顔という以外に、デクに大して特徴がないのもある。別の方法を考えなきゃいけない。
「皇国から来た、オールマイトの弟子って言ってる奴のことを、聞いたことねえか」
 デクは皇国の都でオールマイトに師事していたのだ。吹聴しているかわからないが。ともかく特徴に加えて尋ねて回った。すると、確かではないが、ちらっとそう言っていた旅人を見たという者がいた。
 立ち寄った村々で冒険者達に声をかけてる若い一団がおり、その中に皇国から来た剣士がいたらしい。仲間にオールマイトの弟子と言われていたが、地味な人相の奴で、吹いているんじゃないかと思ったという。
 目立たない奴だから確実とはいえないが、数少ない手がかりだ。奴らが冒険者を勧誘しているのは、ここ数年、この辺り一帯を襲撃している魔物を退治するために、仲間を集めるためらしい。
 勝己は竜に乗って山に飛び、木々の開けた場所に降り立つと、竜から降りて辺りを見渡した。
 元は火の山とか呼ばれてる山だが、魔物が巣食ってからは、魔の山とも呼ばれているという。麓の村を荒らす魔物が出現するのはこの山だと聞いた。
 だが妙だな。と勝己は疑問に思う。
 魔物の気配が全くしない。目を閉じて気配を感じようと感覚を研ぎ澄ます。妖気はない。だが、微かな魔の淀みが山頂から感じられた。
 竜に飛び乗って、上空から火口を見下ろして理解した。空間に歪みがあるのだ。
 火口付近に降りて目を凝らした。手を伸ばして空間に触ってみると、火口が水面のように波打ち、波紋が浮かんで消えた。火口の上に一枚透明な皮膜が被さっているようだ。
 魔の気配が強まってきた。見ているうちに、皮膜が薄くピリピリと避けていく。
 中に闇が見えた。真黒な闇はゆるっと寝返りするように蠢めいた。勝己は身構えた。何かが出て来る。
 裂け目から這い出したのは、掌大の黒い人型だった。これが魔物なのか。拍子抜けした。小さな魔物はふらふらと形を成して崩れながら歩む。
 そういうことか。山に魔物は棲んでいないが、時折火口が魔物の住処と繋がるのだ。
 魔の山とも呼ばれているようだが、魔物はこの山に棲んでるわけではなく、来訪者なのだ。
 勝己は出てきたばかりの黒い魔物を摘んで「お家に帰れや」と皮膜の裂け目に押しこんだ。しかし、人型は後から後から這い出してきて、蝶のようにひらひらと舞った。
 暫くして裂け目が縫い合わせられたように消えた。黒い蝶共は全てボロリと崩れて霧散する。
 ほっと息をつく。空間が繋がる時は危険だが、空間が閉じれば消える。魔物がいない時はただの山だ。
 もっとも、真に凶悪な魔物が棲んでいるのなら、デク如き駆け出しの勇者なんかの手には負えない。ベテランの勇者や竜騎士や魔法使いの出番となるだろう。彼らが来ないのなら、今は脅威ではないということだ。まだ見つけられてないだけかも知れないが。
 空間のほころびは閉じられないが、大して大きくはない。力のある魔法使いならば、歪みに結界を張ることはできるだろう。
 だがそんなことは俺の仕事ではない。
 デクを待ち伏せるのだ。今どこをふらついてやがるのかはわからないが、そのうちあいつは必ずこの魔の山に来るはずだ。
 山の中腹に降り立つと、勝己は小箱を地面に置き、術をかける。小箱は膨らみ、元の小屋の大きさに戻った。
 森の中なら気にならなかったが、どうも小せえな。
 小屋を岸壁に沿って膨らまし、貴族の館のような装飾を加えてみる。中庭や門を付け加える。我ながらいい趣味だ。ここにアジトを構えておけば、デクが通り掛かればわかるはずだ。
 もっとも待つだけなんて焦れったくてできねえ。勝己は人形を取り出して息を吹きかける。人形はむくむくと大人の背丈ほどに大きくなった。
 呪文を刻んだ簡易魔道具の即席ゴーレムだ。見張りに置いておけばいいだろう。
 背後に聳える山頂に裂け目が出来ると、そこから這い出てきた魔物がこの山をうろつくだろう。だが、小物の魔物は結界を張ったこの屋敷の辺りには入れないはずだ。
 魔の山待ち伏せながら、デク達勇者一行の足取りを追う。両方から攻めていけば効率よく探せるはずだ。


「いよいよ魔物退治に行くときがきたな」
 鼻息を荒くして飯田が言った。
「ああ、皆が集まったら、魔の山に出発しよう」と轟も調子を合わせる。
「仲間を集めよう」と言ったのは飯田だった。
 ワーウルフの群れは辛くも追い払うことが出来たが、不意を打ったからなし得たに過ぎない。体力的にもギリギリだった。駆け出しの自分たち4人だけでは、とても魔物の群れに叶うはずがない。
 魔物は群れで村を襲うという。退治するには、数にはまず数。魔物を根絶やしにするためにはもっと大勢の仲間が必要だ。
 村々を周り、冒険者たちに呼びかけ、20人弱の仲間を集めることができた。
 今日は決行の日だ。あらかじめ決めていた時刻になり、全員が合流した。冒険者達は勇んで魔の山と呼ばれる山に足を踏み入れた。
 山の五合目辺りに近づくにつれ、空はどんよりと曇り、嵐の前のような暗さになってゆく。
 どこからか、魔物達の息遣いが聞こえる。
「油断するなよ。敵の巣窟に入ったんだ」
 轟は辺りを見渡し、声を潜める。
「うん、わかってる」
 デクは剣の柄に手をかけて歩く。何処からか、ひらひらといつか見た黒い蝶が飛んできてデクの周りを舞う。害はなさげだけど、鬱陶しい。はらりと木の葉が眼前に落ちてきた。歩みを進めると、また木の葉が落ちてくる。頭上を見上げてひゅっと声を呑んだ。赤い動物の目がいくつも枝葉の間から覗いている。
「上だ!」デクが叫ぶのと、ゴブリンたちが降ってくるのは同時だった。
 小物だが、数が多い。斬りつけると青味がかった血を吹き出す。ゴブリン達に追われつつ戦いながら、山道を駆け抜けた。
「山に住む魔物はワーウルフじゃなかったのか。同じ場所に違う魔物が群生することはあまりないんだが」轟は言う。
「確かにおかしいね。村によって襲ってきた魔物が違ってたみたいだし」デクは息を切らしながら答える。
「まだ他にも見知らぬ魔物が出てくるかも知れない。油断するなよ」
「ていうかよ、きりがねえぜ」「全滅させんのか、巣を探して叩くのか、どっちにすんだよ」冒険者達はデクに問うた。轟と飯田もデクに顔を向ける。
「巣を探すんだ」デクは答える。「多分だけど、これだけ統率された群れなんだ。巣ではないにしても、何か起点があると思う」
「了解!戦うより切り抜けるってこったな」
 追ってくるゴブリンと戦いながら、なんとか振り切り、山の中腹まで辿り着いた。森が途切れ、聳り立つ岸壁が剥き出しになった岩場になった。
「此処じゃねえか」轟が言った。
 山の中には似合わない館が崖に沿うように建っている。いかにも魔王の館らしい雰囲気で、豪奢で禍々しい。
 だが、何故だろう。デクは首を傾げた。見たことのない屋敷なのに、どこか、見覚えがある。本当に魔物の住処なのだろうか。あんなにいた魔物が、屋敷の周りにいないのも気になる。
「まず俺たちだけで入ってみよう、緑谷君、轟君」と飯田が言った。
「ああ。もし罠だったら、全員でいくのはまずいからな」轟が答える。
「うちも行くよ。皆は隠れててね。危険だったら、うちがこの子を飛ばして皆に知らせるよ」
 麗日は杖を振った。杖の先から小鳥が飛び出てきて、麗日の帽子に止まった。
 先遣隊のデク、飯田、麗日、轟4人は屋敷の門をくぐった。アプローチを進むと、中庭の隅からゴーレムが歩いてきた。4人は身構えたが、ゴーレムは攻撃はしてこない。4人の後をのそりとついてくるだけのようだ。
 待っていたと語りかけるように、ザワザワと森が騒めいた。


第五章


「は、は!やっと来やがったのかよ。デク」
 勝己は方々を巡って、アジトに戻ってきた。使役する使い魔から報告を受けたのは、その翌日の午後だった。
 ゴーレムの目を通した鏡で確認すると、遠目に4人の旅人が門を開けて入ってきたのが映った。中の1人は待ち望んだ来客だ。
 デク。やっと来やがったな。読み通りだ。
 旅人達が玄関に近づいてくると、勝己は使い魔に命じて、扉を開けさせた。自動で開く扉に彼らは戸惑ったようだが、4人とも屋敷に入ってきた。
 奴らがてめえの仲間かよ。クソデク。しれっと平気な顔でよく俺の前に来られたものだ。怒りで頭が熱くなる。
 4人が広間に入って来たところで、指をパチンと鳴らす。途端に館が消えた。館の中にいたはずが、いきなり館が消えて外に出ていることに、奴らは戸惑っているようだ。縮めた屋敷を拾い、箱の中に戻して蓋を閉める。
 館の中より外のほうが暴れやすいからな。
 勝己に気づいて、デクがこっちを向いた。
「君は……」
 デクの声に、他の奴らもこちらを向いた。デク、驚いたろうが。俺がここにいるなんて思いもしなかったよな。
「てめえ、なんか用かよ、ああ?」
 そう嘯いて、口笛を吹いて竜を呼んだ。
 竜は舞い降りて、デクを認めて吼える。気づいたかお前も。待ち望んだ瞬間だ。勝己は竜の頭上に飛び乗り、ニヤリと笑ってデクを見下ろす。
 デクは勝己を見上げて、口を開こうとした。
「この山に住んでるのはお前か」デクが答える前に、轟が言った。
「あ?それがどうした」
 うるせえ、なんでてめえが聞くんだと勝己は鼻を鳴らす。
「麓の村が迷惑をしている。魔物を放つのをやめてくれないか」と飯田がその後を続ける。
「なんの話かわからねえな」
 こいつら、俺が魔王で、ここが魔物の住処とやらだと勘違いしてんのか。失礼な奴らだ、クソが。魔物の根城なんざねえ。魔物の出てくる火口は山頂だ。だが、今は関係ねえ。こいつらが、デクが来るのをずっと待っていたんだ。
「口で言ってもわからないなら腕付くでということになるが」と轟が睨む。
「おもしれえ、やってみろよ」
「待って!ねえ、君はほんとに魔物なの?」
 思案顔をしていたデクがやっと口を開いた。「人間にしかみえないんだけど」
 何言ってんだこいつ。
「俺だ!デクてめえ……」
 この俺に、ほかに言うことはねえのかよ、と勝己が言う前に「騙されたらあかん!魔物は人間に化けるんよ」と麗日に遮られた。
「そうだ。人間に化けて騙すのが奴らの手口だ」
 とデクの隣にいた飯田が一歩踏み出す。
「でも彼は人間みたいだよ。ねえ、君が本当に麓の村を魔物に襲わせてたの?」
「ああ?だから何の話だっつってんだろ。俺は魔物じゃねえ!竜騎士だ」
 何か変だ。一拍置いて、勝己はおもむろに口を開いた。
「まさかとは思うが。てめえはこの俺を忘れたのか?」
「えっ?誰が?」と、デクは仲間を見回した。
 間抜け過ぎて腹が立つ。後遺症はほんの少しだと聞いたぜ。違うじゃねえか。よりによって俺のことを忘れたんかよ。ざけんなよ。はらわたが煮えくりかえる。
「てめえだクソが。おいデク!てめえは俺と何度も会ったことがあるはずだ。俺はすぐにわかったぜ」
「お前、やつの友達だったのか」
 驚いた顔で轟がデクに尋ねたが、デクは首を横に振った。
「君が僕の?嘘。覚えてないよ。竜騎士の友達なんて、いたら忘れないよ」
「子供の頃だ!くそが!」
 勝己は竜から飛び降りて、「ああ?てめえ、よく俺の面あ見ろや」とデクの胸倉を掴んで怒鳴る。
「おい、お前」と駆け寄ろうとする轟に、竜が立ちはだかり吠える。
「え、待って、竜騎士だよね。子供の頃、村の近くの森の中に竜がいるって聞いてたよ。でも竜騎士の竜だから安全だって、そう言ってた竜騎士の友達がいて、よく遊んだ記憶があるけど、竜は初めはちっちゃくて……」
 デクは記憶の底を辿るような表情になり、ハッとして、勝己に視線を合わせる。
 やっと気づいたのかよ
竜騎士の子供って君だったのか?ええ!すごくイメージが違うんだけど」
「ああ?んだとゴラア!誰のせいだと思ってやがる」
「太陽みたいだったのに。結びつかなかった」
「よく言うよな!てめえ。ああ、俺だ。てめえを竜に乗せてやったりしたのによ。いきなりてめえは来なくなったんだ」
「それは、勇者のところで修行を始めたから、ほとんど村にいなかったし。たまに村に帰った時も森に行かなくなったんだ。時間が経ってしまうと、会う理由が見つからなくて」
「てめえは大人になってから、一度だけ森に来たはずだ」
「ええ?行った覚えはないよ」
 ああ、くそ!覚えてないのだ。こいつは何も。眠ってやがったから、抱かれたことも知らないのだ。こっちはずっと囚われたままだと言うのに。
「何もかも忘れちまったのか。てめえはそういう奴だよな。クソが」
「でもでも、この災厄の原因は君なのか?何で悪い魔物みたいなことをするんだよ」
「魔物が本当のことを言うはずがねえぞ。お前の知り合いのふりをしてんじゃねえのか」轟が口を挟む。
「ごちゃごちゃ言ってんじゃねえ!」
 勝己はデクの胸を強く押して突きとばした。デクはよろめいて尻餅をつく。
「こんなとこでてめえと会うとはな!やんのか?やんねえのか?ああ?かかってこいやデク!」
 デクは勝己を見上げた。いや、視線は自分に向けられてはいない。デクは勝己の肩越しに背後を見ている。
 背後に巨大な何かの気配。ぞわりと総毛立った。何かがいる。
 勝己は振り向いた。
「魔物だ!」というデクの声。
 巨人が立っていた。森の樹木より高く聳え立つ巨漢。あんなでかいが出て来れるほど、結界は大きくなかったはずだ。地響きがした。まだ遠いが近づいてきている。
「火口の穴が広がったのか」
「え?なんか知ってるの?ええと」
 勝己の呟きが聞こえたのか、デクは問うた。「君は、あ、君の名前は?」
「俺の名前まで忘れてんのかよ。聞くな、クソが。思い出せやカス!クソカス!」
 腹が立って、勝己は罵倒した。
「ごめん、何か知ってるなら、教えて欲しいんだ」
 ムカついたが、今はデクの頭は魔物退治でいっぱいだ。他のことは考えられないだろう。仕方なく答えてやる。
「てめえらの言う魔物は、火口にある空間の歪みから来訪してんだ。森の中に魔物が潜んでるわけじゃねえ」
「それで、予想外の種類の魔物が湧いてきたんだね」
「なんでお前が知ってるんだ」
 轟が口を開いた。素直にデクは信じたようだが、轟は疑っているようだ。
「クソが!空から見たらわかんだよ」
「火口の入り口を閉じれば、魔物は出て来ないということなのか?」飯田が聞いた。「なら火口に行かなきゃならないが、閉じられるだろうか」
「お前の言うことが本当ならな」
 轟の言い草にムカついて、言い返そうとした瞬間、魔物の群れが巨人の後から沸いて来た。ワーウルフにゴブリン、リザードントロールガーゴイル、他にも名前も知らない魔物達の群れが大挙して突進してくる。
「もういいよな!いくぜ!」
 誰かの声が聞こえた。
 デク達が勧誘した勇者や魔法使い達か。奴らは一斉に飛び出して魔物の方に押し寄せた。
 勇者や魔物が入り乱れての乱闘が始まった。
「君との話は後でいい?今は僕戦わなきゃいけないんだ」
「ああくそ!知るかよ!邪魔が入ったぜ。片付けたらてめえ、話があるから俺と来いや」
「う、うん、わかった」
 デクは腰に下げた剣をすらりと抜いた。勇者気取りでムカつく。しかし、デクとまた約束をしたのだ。今度こそ守らせてやる。
 勝己はデクの傍に立ち、剣を構えて魔物と向き合う。
「君も戦ってくれるの?ありがとう」
「うぜえわ!クソが!黙ってろ!」
 勝己は苦々しく怒鳴る。
 デクの立ち回りは認めざるを得ないくらい見事なものだった。オールマイトに師事しただけはある。
 乱戦の中、デクと背中合わせになった時に、勝己は言った。
「俺は魔の山、いや、魔物の棲む異界と繋がった、この山に来たのは最近だ。住んでやしねえ」
 勝己は右手で魔物を切り裂き、左手からは火球を飛ばして敵を爆破した。デクは魔物の手足を狙って切り伏せているようだ。戦闘力さえ奪えばいいと考えているのか。甘えんだよ、クソが。
「魔物の山と知ってて?なんで君はわざわざこんな危険な場所に来たんだ」
「てめえらがいつか来ると踏んでたからだ」
「手伝ってくれるために?」
「クソが!ちげえよ!てめえは馬車に乗ってた時、崖から落ちたことがあったろうが」
「え?なんで知ってるの?」
 デクは勝己を目を丸くして、勝己を振り向く。
「もしかして、あの時、助けてくれた竜騎士って君だったんだね。子供を助けてくれたんだよね」
「子供を助けたのはてめえだ。俺じゃねえ。俺はてめえを…そうだ。てめえは俺に借りがあるんだ。借りを返せ!そのためにてめえを待ってたんだ」
 デクとの間に魔物が割って入った。「クソが!邪魔だ」と勝己は左手を向けて、容赦なく魔物を爆破すると、振り向いて問うた。
「どうなんだ、デク!」
「今のうちに君に話したいんだ」デクは言った。
「あんだ?」
「僕は君のことは覚えてるよ。でも今の君と繋がらないんだ。君とどんな時を過ごしたかも、あまり覚えてないんだ。怪我のせいでもあるけど。日々の鍛錬の中で、自分のことで手いっぱいだったし。子供の頃の記憶は薄れていくものだから」
「んだと、てめえ」
「でも覚えてることもあるよ。楽しかったこともあったけど、嫌なことも、あったよね」
「ああ?こんな時にまだ怒らせてえのか。てめえは!」
「でも、きっと。僕は君にもう一度出会うために、旅に出たんだ」
 勝己に向けるデクの視線に嘘はない。記憶の中の空白にいる、かつての己を探していたというのは真実だろう。
 まっすぐな迷いのない瞳で、俺を見つめるデク。
 だが、記憶の欠けた今のてめえが俺に抱く感情はなんだ。まっとうな幼馴染の情でしかないんじゃないのか。
 あの訓練所での雨宿りで、身体を重ねて触れ合った。あの瞬間をあの気持ちを、デクが覚えてないのなら。
 この気持ちは何処に行けばよいのだろう。
 求めて探して、やっと見つけたデク。勇者然として戦うデク。俺を知らないデク。
 てめえは俺との約束よりもオールマイトを追うことを選んだ。
 そんなに勇者になりたかったのか。俺の側にいるよりも。
 取り返しがつかないとわかっていたとしても、お前はそうしたのか?
 不安と焦燥に、すうっと心臓が冷えていく。
 デクが魔物に押されてバランスを崩した。勝己は魔物に手を当てて爆破で吹っ飛ばし「馬鹿かてめえは!」と苛立ち紛れに怒鳴りつける。
「ご、ごめん。竜騎士って凄いね。魔法も使えるんだ」
「うぜえわ!魔法じゃねえ。竜の力だ、ああもう!黙れ、クソカス!」
 こいつが覚えてんのかどうか、確認すんのは後だ。今は考えんな。
 背中を預けた方が、戦いやすい。デクと掛け合いをしながら、魔物達を倒してゆく。
 地響きが大きくなった。勝己の爆破で立ち込めた煙の向こうに、巨人の姿が聳え立つ。
 いつからいたのか、小山のような巨体がもう間近に迫っていた。あんなでかい魔物が出てこれるくらいに、裂け目が広がったのだ。甘く見ていたが、さっさと結界を張った方がよかったのか。背中を冷や汗が伝う。
「奴を倒さないとまずいぞ。余力のある奴はいるか!」飯田が声を張り上げた。
「わりい、こっちは魔物で手いっぱいだ」「すまねえ、こっちも無理だ」仲間たちが口々に答える。
「君は行ける?」デクが勝己を振り見て問うた。
「誰に向かって言ってんだ、てめえ。余裕だわ」
「じゃあ、行こう!」
「クソが。デクのくせに生意気なんだクソが」
「僕のくせにって」とデクは戸惑う。「僕は僕でその」
「ああくそ!行くぞ」調子が狂う。やりにくくて仕方がない。
 勝己とデクは巨人の足元に走り寄り、剣を構えた。デクの剣をよく見ると、駆け出しの勇者にしては身の丈に合わねえ立派な剣だ。薄っすらと発光している。ただの剣じゃねえんだろう。
「行くぜ。俺が足止めしたらてめえが斬れよ。一回じゃねえ、何度も斬れ!手足だけ切るとか、舐めてんなよ」
「わかってる」
「爆破して、肉を削いで骨を斬る、数打ちゃなんとかなんだろ」
 巨人が勇者達をなぎ払おうと両手を挙げた。その隙に勝己は巨人の足元の地面を爆破する。
 倒れはしないものの、巨人はぐらりと態勢を崩した。
「行けや!クソが」
「うん!」
 デクはジャンプして巨人に斬りかかった。剣が眩い閃光を放つ。デクは剣を振りかぶり、巨人の天頂から剣を打ち下ろした。一回振り下ろすだけで、巨人は頭から足までざっくりと裂けた。巨体は真っ二つに分かれて、ぐらりと左右に倒れていく。断面から青い血がどくどくと吹き出して、血溜まりを作ってゆく。
 デクはすっ転んで尻もちをついた。起き上がろうとしても腕が震え、立てないらしい。腕が痙攣しているようだ。
 まるで剣に振り回されているようだ。見た目通り、デクには見に余る武器なんだろう。
 痙攣が治ったのか、デクは立ちあがり、ぎこちなく勝己に笑いかけた。勝己は苦々しく睨みつける。
 魔物はほぼ退治した。生き残った僅かな魔物は逃げて行ったが、数匹程度だから脅威にはならないだろう。冒険者達は歓声をあげ、地面に座り込んで笑い合う。
「やった、やっつけたね。これで麓の村の人達に安心してもらえるね」
「麓の奴らなんざ知るかよ」
 素直に喜んでいるデクに、ふうっと勝己は息をつく。
「待って」とデクははっとして勝己に言う。「君は言ってたよね、魔物は火口の空間の歪みから出てきたって。じゃあ、それを塞がないといけないんだよね」
「はっは!でめえ、俺の言ったこと信じてんのかよ」勝己は皮肉な口調で返す。
「信じるっていうか、だって、ほんとでしょ?君が嘘を言う理由がないから」
「俺のなにがわかるってんだ?ああ?俺の名前も知らねえんだろーがよ!」
「ごめん。でも、あるんでしょ?その裂け目に行かなきゃ」
 勝己は舌打ちして、竜を呼んだ。舞い降りて来た竜の背に跨って「乗れよ」とデクに手を差し出す。デクはすかさず手を握って勝己の後ろに乗り、勝己の腰に腕を回した。
「ありがとう」
「てめえには話があるからな。火口の様子を見てえんだろ」
「うん」とデクは答えて「先に行ってるね」と仲間に言った。
「ああ、そいつを信じたわけじゃねえが、頼む」と轟はデクに向かって言った。
 あの半分野郎、いちいちムカつく言い方する奴だ。いけすかねえ。
「動ける奴だけでいいから、山頂に向かうぞ」
 飯田は疲労困憊して脱力している仲間たちに呼びかけた。のろのろとした動きながら、全員が立ち上がる。
 上空から勝己とデクは火口を見下ろした。空間の裂け目は火口よりも大きく広がっている。内部は噴火しているかのように真っ赤だ。地の底から響くような魔獣の声がする。
「何かが出てくるよ」デクは言った。
 見ているうちに、裂け目から黒い小さな人型が、ぞろぞろと這い出してきた。
「こいつら。前にも見たやつらだ」
「黒い蝶だ。僕も見たよ。裂け目から来たんだね。
「んだと?てめえも見たのか。こいつら、なんなんだ」
 人型はぬるぬると合体すると、長虫のように撓った。さらに別の場所でも合体して地面をずるずると這う。裂け目から延びた触手のようだ。いや、触手なんだ。でかいものが触手を伸ばして登って来ようとしてるんだ。
「来させちゃいけねえものがいるようだな。だが、ちょっと遅かったようだぜ」
 裂け目を広げて、巨大な黒い塊がせり上がってきた。火口に蓋をするドームのようだ。体表に文字のような赤い模様がうねって流動している。
 触手は集まってくねり、竜に向かって鞭のように飛んできた。すんでのところで避けたが、触手は勝己の頭のすぐ側を掠めた。鋭い風圧。まともに当たっていれば頭が吹っ飛んでたろう。肝が冷えた。
「うわ!大丈夫?」
「クソが。俺の心配すんじゃねえ!」
「どうしよう。出てきちゃうよ」
「奴の真上を飛ぶからよ。てめえはあれの上に飛び降りろ」
「え?本気で言ってる?裂け目に落ちちゃうよ」
「馬鹿かてめえは。落ちねえわ。奴の身体で裂け目はぱんぱんに塞がってんだろうが!奴にてめえの剣をぶっ刺せよ。クソが!その剣は相当強力なんだろうが。傷をひとつ作れればいい。てめえがやったら俺が傷口を大火力で爆破する。倒せねえだろうけど、怯んで引っこむかも知れねえ。その隙に結界を張ればいい。いいか、同時にやるぞ」
「うん、わかった!」
 触手を避けて裂け目に迫り、竜が真上を飛んだところでデクは魔物の上に飛び降りた。すぐさま剣を抜いて火口の魔物に切りかかる。デクの振り上げた剣は魔物にめり込み、体表面を切り開いた。
 火口を下に向かって這っていた触手が一斉に引き返し、デクに向かった。
「うわ!」とデクは触手を剣で弾き飛ばしたが、息つく間もなく次の触手が襲ってくる。デクは触手と鍔迫り合いを始めた。
「ああクソ!邪魔だ!さっさと火口からどけやデク!」
 苛々して勝己は怒鳴った。
「わかってる、けど、待って」
「じれってえな。てめえがそこにいると爆破できねえだろうが」
 触手がバラバラに散り人型に戻り、さらに矢尻のように変形してデクを襲撃する。剣で弾かれても飛び回り、デクを取り囲む。
 剣では避けきれねえ。
「クソが、おい、突っ込め」
 勝己に命じられ、竜は火口に向かって滑空した。勝己は火口に飛び降り、「どけ!」とデクを突き飛ばすと、火球を飛ばし、矢尻を次々と薙ぎ払った。矢尻は火球に呑み込まれ、連鎖的に爆破してゆく。
「ありがとう、すごいね、君は」
「てめえがぐずぐずしてっからだ!クソが!」
 勝己は魔物の傷口に手を押し当てた。ぶるぶると脈打つ、気味の悪い生温かい肉の手触り。
「はっ、くたばれや!クソがあ」と最大火力で爆破する。
 魔物の内部が赤々と燃える、体表で渦を巻いていた模様の流動が止まる。続いて表皮にひび割れが走り、内部から膨れ上がると柘榴のように裂けた。
「やったか」
 魔物はぶくりと跳ねると、ズルズルの裂け目の闇に吸い込まれてゆく。人型は中空で燃え尽きるように崩れ、触手とばたりと落下して霧散した。闇が縫われるように、空間の裂け目が綴じてゆくと、その下に本来の山の火口が現れた。
 熱気が上がってくる。
「え?噴火、する?」
「やべえ。離れっぞ、デク」
 2人は慌てて火口から駆け下りた。背後で大爆発が起こった。風圧で辺りに石が飛び散る。火口からもうもうと黒煙が立ち上る。
「うわあ!」と悲鳴が聞こえた。
 振り返って見ると、爆風で飛び散る岩に当たって、デクが飛ばされていた。
「おい、バカが!踏ん張れや。クソが!」
 幸い吹っ飛ばされたデクは竜が空中でキャッチした。ほっとする。勝己も竜の頭部にジャンプして飛び乗った。
 火口を振り返る。蒸気の煙はもくもくと出ているが、幸い溶岩は出てきてはいない。
 煙を避けて火口から距離をとる。勇者たちが山を登ってくるのが見えた。「その辺に降ろせ」と竜に命じた。竜はそっと脚に掴んでいたデクを地面に降ろした。
「おい、起きろや」と頬を叩くと、デクは目を開けて咳き込んだ。
「煙を吸い込んだんかよ」
「ちょっとだけ。空間の裂け目は閉じたのかな」
「んなこたあ、わかるかよ。クソが」
 暫くすると、暗黒の雲が晴れて、雲間から光が差してきた。魔物の気配も消えた。
「どうやら無事に裂け目は閉じたらしいな」
 真っ先に追いついてきた轟が言った。飯田、麗日もその後に追いついてきた。
「結界を張れるか?麗日くん」飯田が聞いた。
「魔物が出てこない間なら、いけるよ」
「またいつ口が開くかわからない。急いでやってくれ」
 他の冒険者達も山頂にぞろぞろと集まってきた。
「結界を張るよ、皆。他にもできる人いる?いたら火口に集まって」
 麗日が呼びかけ、数人の魔法使い達が火口周りに集まった。輪になると呪文を唱える。
「ここ火山だったのかよ。噴火したろ。下まで石が飛んで来たぜ」
「巨人の魔物の死体が消えたぜ。逃げた奴らも消えたんじゃねえか」
「やったな!ああ、俺らやるよな。もう立派な勇者だよな」
 彼らは口々に喜び合う。デクもぼろぼろになった剣を鞘に納めて笑っている。
「刃こぼれしたな。ゴミだろーが。捨ててけよ」
 勝己が言うと、デクは剣の紋章を隠すように柄を握る。
「ううん、捨てられないよ、この剣は。ええと、もったいないから」
オールマイトからもらったんだろ」
「ええ?なんで」
「は!図星かよ」
「君にはわかっちゃったか。そうだよ。オールマイトに貰ったんだ。また打ち直してもらうよ」
「ふん、どおりで、てめえには荷が勝ちすぎた代物だと思ったぜ」
 どういう経緯なのかはわからないが、オールマイトが自分の剣をやるくらいだ。デクに見込みがあると思ったんだろう。デクは大切そうに剣の柄を撫でている。
「秘密なんだ。誰にも言わないでね」
「あ?言わねえよ。興味もねえ。んじゃま、デク、もういいな」勝己はデクの腕を掴んだ。「てめえは連れてくぜ」
「今?え?今?待ってよ、まだ皆に」
 勝己はデクの腰を横抱きに抱えると、竜の背に飛び乗った。デクを前に座らせて腰を抱く。
「彼をどうする気だ」飯田が聞いた。
「こいつに話があんだよ」
 火口に向かった時に、勝己の腰に回された腕の温もり。このまま手放すことなんて出来やしない。デクが何を忘れていて何を覚えているのか、はっきりさせなくては気が済まない。
「どうせこいつの村は、俺の森の近くだしな。家に送ってやるわ。オラデク、ちゃんと竜の首に捕まれや」
「ちゃんと送るんだろうな」と轟が訝しげに言う。「いいのか、緑谷」
「う、うん。彼と約束したんだ。ずっと昔に。それに、久しぶりに母さんにも会いたいし」
「というわけだ。じゃあな」
 勝己とデクを乗せて、竜は空高く上昇する。
「すごいね。皆がもうあんなに小さくなっちゃった」
「てめえは乗ったとこあんだろーが。覚えてねえのか」
「うん、竜に乗ったなんて、素敵なことだね。思い出したいな。ところで、ねえ、君の名前…」
「デクてめえ、ずっと前の約束は覚えてんだな」
 デクの言葉を遮り、勝己は問うた。
「あ、うん、子供の時の約束」
「ふうん、そうかよ」
「ねえ、君の名前教えて」
「クソが!教えねえよ。てめえで思い出せや」
 勝己は不機嫌な声で返し、デクを抱く腕に力を籠める。


第六章


 竜はデクの家の前に舞い降りた。
「ここだろ」と勝己が言うと、デクは「僕の家知ってたの?うん、そうだよ」と頷いて窓を指さした。
「ここが僕の部屋だよ。二階の高さと同じなんて。屋根を渡って直接入れそうだね」と言いつつ、竜の背中を滑り降りる。
「本当に送ってくれたんだね。ありがとう」
「うぜえわ、クソが」
「話があるんだよね。うちに寄ってく?」
「いらねえよ」と言ってからボソリと「話の続きは夜だ」と付け加えて勝己は竜に命じて飛び立った。
 家に戻る前に、勝己は演習場を訪れた。相澤先生に魔の山の出来事を伝えるためだ。
 先生は皇国のどこかに結界の綻びがあることは、気づいていたらしい。
「現れては消える裂け目か。なかなか見つからないわけだ。お前よくやったな」
「俺だけじゃねえ。俺くらいの年齢の奴らも20人ばかり来てて、一緒にやった。名前も知らねえけどよ」
 自分だけの手柄じゃないのに褒められるのは癪に触る。本当に俺だけの手柄ならともかく。
「そうだな、きっとその冒険者達も英雄になるだろう。これからお前とも縁があるだろうな」
「そいつはごめんだな」
「都から結界師を送ることにしよう。完全なる封印を施したほうがいいだろう。異界の魔物か。オールマイトが気にしていたな。どんな奴だった」
「でけえ触手の化けもんだ。ばらけて黒い蝶みたいなもんにもなった。身体の表面に文字みてえな模様があって、グルグル流動してたぜ。デクはワーウルフの群を先導するように飛ぶ黒い蝶を見たらしい。奴らを操ってたのかも知んねえ」
「デク?オールマイトの弟子に、そういう名前の子供がいたな」
「今の話に関係ねえだろーが」
「おそらくその黒い蝶は魔物の使い魔だな。触手の魔物もそうだろう。魔物は体表に呪文を刻まれて、誰かに操られてたんだろう」
「呪文使いがいるのか。魔法使いとか竜騎士なのかよ」
「わからんが、闇落ちしたそういうやつらの可能性はあるな。操っていた親玉は隠れていて、姿を現していないんだろうな。今回は異界の入り口が閉じれば、顕現できなくなる魔物だったのが、不幸中の幸いか。またこちらに来る機会を狙ってるかも知れんな。面倒なことだ。皇国の竜騎士にお前みたいな経験者がいると、ありがたいんだが」
「興味ねえよ。じゃ、報告はしたぜ」
 踵を返した勝己を相澤先生は呼び止める。
「待て。お前の言うデクって奴がオールマイトの弟子なら、皇国の勇者に仮登録されてるぞ」
「ああ?あいつが?」
「間違いないな。どうだ、お前も皇国の竜騎士になるか?考えておけよ」
「クソが!考えるまでもねえ」
 相澤先生の思う壺かと思うと、ちょっと癪に触るが、デクに遅れを取れるかよ

 
 深夜。勝己はデクの家を訪れた。
 竜の頭からデクの家の屋根に飛び移ると、コンコンとデクの部屋の窓を叩く。
「どうしたの?こんな夜中に」と寝ぼけながら窓から出久が顔を出した。
 窓枠に足をかけて「来いよ」と呼ぶ。デクは「ええ?」と言って目を丸くした。
「てめえ、俺は話があるって言ったよな」
「うん、でもこんな、夜中だよ、」
「ごちゃごちゃうるせえ!さっさとうちに来い」
 着替えたデクの腕を引いて窓から連れ出し、座らせていた竜の背に飛び乗る。デクを前に乗せて腰を抱いた。竜は高く空に舞い上がる。
 夜の空を見下ろして、デクは感嘆の声をあげた。
「乗ったことあるね。僕!上空から見た村。夜じゃなかったけど、この景色覚えてるよ」
「ああ、もっと思い出させたるわ」
 竜の背に乗ったまま森の中に入り、勝己の住居に到着した。デクは「あれ?」と声を上げる。
「この小屋に見覚えあるよ。おっきな小屋。君の家だったんだね。僕が怪我をした時、ここで目が覚めたんだ。てっきり盗賊の家かと思ってたよ」
「んだとゴラア!」
「ごめん、ほんとにごめん。君の昔の家はもっと小さかったでしょ。内装も変わってたし、武器が沢山飾ってあったし。てっきり危ない人の家かなって思ったんだ。君が助けてくれたんだね」
「クソが!まあ、んなこたあいい」
 勝己は身体を寄せて、後ろからデクの顎を掴んだ。戸惑っているデクの耳元に囁く。
「てめえは目が覚めたとき、なんで小屋から逃げやがった」
「ご、ごめん、お礼もしないで」
「誰かに犯されたんだよな、だからか」
「え、え、なんで知って」
「は!知らねえわけねえだろーが」
「そっか。助けてくれたんだもんね」デクの声が小さくなってゆく。「うん。それでびっくりして逃げ出したんだ。助けてくれたのにごめん。盗賊が僕なんかになんでって感じだけど、詳しくはその」
 デクは口籠もった。そういうことかよ、と勝己は呟く。居たたまれなくなり、デクは竜から降りようとした。しかし、勝己は腰に回した腕を離さず「待てや」と引き止める。
「おい、まだ降りんじゃねえよ、クソが」
「え?君の家はここなんだよね」
「後でだ。まだてめえが見なきゃなんねえ場所があんだ。これからそこに行く」
 竜は再び飛び立ち、山頂の竜騎士の演習所に到着した。
 竜から降りると「来いよ」と、勝己はデクの手を繋いで小屋に向かった。「あ、ここは」とか言いながらキョロキョロしているデクを、勝己は引っ張るようにして小屋の中に招き入れる。
「ああ、覚えてるよ。暖炉があって、ふかふかの絨毯が敷いてあって。僕、ここに来たことあるよね」
「観察すんのは後にしろや」
 デクを促し、抱えるように寝室に連れて行くと、勝己はデクをベッドにうつ伏せにして押し倒した。
「何?なんだよ?」
「話があるっつったろ。てめえは約束覚えてんだよな。そう言ったな」
 デクは身体を捩って振り向き、目を合わせて戸惑い、ほうっと息をついて、答える。
「……覚えてる、けど」
「この小屋を覚えてんなら、ここで何したかも覚えてんだな」
 竜の上でデクの身体に腕を回した、掌で密かに弄った、服越しに伝わる温もり。デクの直に肌に触れたい。諦めるなんてできやしない。時間の経過と成長で、デクの気持ちが変質してしまったとしても。何もせずに手放せるものか。
 あの時間を覚えているのなら脈はある。
 デクの下着を膝まで下げて、尻を剥くと背後から覆いかぶさり、体重をかける。
「ちょ、何すんだよ!」デクは足をばたつかせる。
「は!今更なんだってんだ。暴れんな。クソが。こういうことしたの覚えてるよな。俺と何してたか、てめえは覚えてんだろ」
 デクの抵抗が止んだ。勝己はにっと笑い、さらに問いかける。
「あの時俺らは何をしてた?なあデク、言ってみろや」
「その、うん、覚えてるよ。僕は君と、さ、触りっこしたね。でも、あれは。うわ!なんかお尻にあたってるよ」
「当ててんだ、ばあか」
 服越しに勃起したものをと押し当て、慌てるデクの双丘の間にするっと滑らせる。
「あ、これまさか、いや、違うよね」
「そう思うか?続きをするって約束覚えてんだよなあ、デク。続きが何かわからねえとは言わせねぇ。てめえを助けたのも俺だけどな、てめえを抱いたのも俺だ」
「ええ!嘘だよね。君がそんなことするわけな……」
「はっは!俺の何がわかるってんだ?これでもそう言えんのかよ。あ?」
 笑うと、勝己はズボンの前を寛げ、窄まりに雁首を押し付ける。先走りを擦り付け、ぬるっとノックして受け入れろと迫る。びくっとデクの身体が震えた。
「や、やめようよ」
「本能ってやつが勝っちまう時もあんだよ。どうしようもなくな、あの時もそうだった」
 雨宿りの時も、気を失ったデクを抱いた時も。
「流されて、雰囲気に呑まれてしまったんじゃないか。本当の気持ちなのかどうかわからないよ」
「ごちゃごちゃうるせえ!今のてめえなら、本気出せば、俺を押しのけることくらいできんだろ。簡単にはさせねえけどな。てめえが続きはしねえってんなら、もう二度とてめえに会わねえ」
「そんな、やっと君に会えたのに」
「どっちかしかねえんだ。なあ、どっちにすんだ。デク」
 シャツをたくし上げて、背中のラインを撫でる。
「あの時の続きするってよお、約束したろうが」とぐっと腰を前に振り、押し付ける。
 眠ってる間じゃあ意味がねえんだ。ちゃんとてめえがてめえの意思で、俺を受け入れなきゃ意味がねえんだ。デク。
 「……どっちかしかないなら」漸くデクは答えた。「わかったよ。君の名前教えてくれるなら」
 勝己はにんまりと笑う。
「覚悟しろや、デク」

 てめえには言いたいことが山ほどあんだよ。


終章


 勝己に手を引かれ、デクは森の奥に向かって歩いていた。今の竜の狩場に連れていってくれるという。
 聳え立つ巨木が光を遮り、一抱えもある太い根は地面を迷路のように這って穿つ。普通の人が足を踏み入れない奥地だ。勝己の手を離してしまうと迷ってしまいそうだ。森のさらに奥深くには竜だけが棲む渓谷があり、聳える如く雄大な竜が群れをなしているのだろう。勝己の竜は巨体を揺らし、後ろを着いてくる。
 やっと木が途切れ、光の溢れる草原に到着した。一面の黄金色が風に揺れる。
「俺を見てろよ、デク」
 そう言うと、勝己は竜の背に跨った。竜はクウっと鳴き、大きな翼を打ち下ろして飛翔する。草原の草が波打つ。竜は上空を旋回し、叢に触れるすれすれに滑空し、急上昇し、再び草原に戻ってきた。
 青い空を縫って飛ぶ赤い竜の巨躯は、昼間の流星のようだ。
 凄いや、と言うと、勝己は褒めてんじゃねえと言いつつ、誇らしげに胸を張る。
 金色の草原に大きな竜に乗って降り立つ姿。小さな時から、草原で竜といる君に見惚れていた。
 君の腕に鷹のように乗っていた竜は、今は僕の家よりも大きくて逞しい。
 竜騎士の卵だった君を、禁忌の森に毎日のように見に行った。
 君は草原の葉陰に隠れて見ていた僕を見つけた。
 再会した君は、僕自身が見失った僕を見つけた。
「どうした、デク」
「かっこいいなと思って」
「褒めんじゃねえ。クソカスが」
 そっぽを向いてしまった。照れているんだろうか。
「都に戻んのか」
「うん。オールマイトに報告しなきゃ」
「俺も行くぞ。皇国の竜騎士の試験を受けなきゃいけねえからな」
「え?」吃驚した。「かっちゃんはとっくに登録してるかと思ってたよ」
「まだ皇国の竜騎士に、登録する必要性を感じなかっただけだ。クソが!」
「ごめん、でも嬉しいな。僕も登録してるんだよ。仮だけど」
「知っとるわ」勝己は不貞腐れたように鼻を鳴らす。「俺はてめえより先に進むぜ」
「僕も早く仮が取れるように頑張るよ」
 勝己は竜に、自由に狩をしてろと命じると、こっちを振り向いた。真剣な目でデクを見つめる。
 なんだろう。どきりと胸が跳ねる。
「デク、てめえに聞きたいことがある」
「なに?かっちゃん」
「てめえは俺よりもオールマイトに、いや……てめえが勇者を目指したのは、あの日オールマイトに会ったからなのかよ」
 空を滑空する竜の雄叫びが聞こえる。甲高い声が黄金色の草原に響き渡る。
「多分、違うよ」少し思案して、デクは答えた。
 君は僕が勇者を目指すのを反対していた。だから伝えなかった。いくらでも伝える方法はあったのに。きっと心が揺らいでしまうと思ったから。でも、勇者になったら君に会いたいと思った。
 誰よりも君に。
オールマイトのおかげで夢が叶ったよ。でも勇者になりたいと思ったのは、彼のせいじゃない。君に会ったからだよ」
「ああ?」
「一番身近な君が僕の英雄だったからなんだ。初めはね、僕は君をこっそり見てるだけで、満足だったんだ。でも君が僕を見つけて、僕に来いと言ってくれた。遊ぼうって言ってくれた。君と一緒に遊ぶうちに、足りなくなったんだ。僕は君みたいになりたいと思った。いや、並び立ちたいと願ったんだ。勇者なんて憧れるだけの遠い夢だった。君が竜騎士を目指してたから、君に会ったから、君と過ごしたから、勇者になりたくなったんだ」
「は!俺のおかげってか、ったくよお」
「うん、かっちゃんのおかげだ」
「クソが」
 勝己は眉を寄せて、はあっと息を吐いて頭を掻く。呆れたような、ほっとしたような複雑な表情で。
「僕は、君と並び立ててるのかな」
 デクはおずおずと尋ねる。勇者にはまだほど遠いとは思うけれど。
「ばあか。てめえ、ほんっとクソナードだな。俺と並ぼうなんて百年早いわ!だがな!てめえの居場所は、俺の側しかねえだろうが」
 風が巻き上がり、草原が円形に波打った。悠然と巨躯が降り立つ。竜は勝己の後ろに身体を横たえて控えると、翼を畳んでクゥンと鳴いた。


END

清書森の竜騎士と勇者の卵【十傑パロ】(R18版)

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序章


 光り射す林の中を少年は駆ける。
 胸を高鳴らせ、息を弾ませて。
 彼はもう来てるだろうか。
 少年は期待に胸を膨らませる。
 木陰を抜けた先に見えるのは高原。空の青と地の緑に二分割され、鮮やかに目映く開ける。広がる草原は一面に腰の高さほどの草に覆われ、草は風になぶられて波のように畝る。
 少年は草の波に足を踏み入れた。指先で穂先を撫でて歩く。さわさわと緑を渡る風が気持いい。
 林から30歩ほど離れたところで、少年は草の間にしゃがんだ。いつもこのくらいの時間に彼は来るんだ。高原の向こうにある森の中から。少年は目を凝らす。
 来た。彼だ。
 茂みの間から仔竜がひょこっと現れた。甲高い声で鳴いて羽搏き、空高く舞い上がって旋回する。
 続いて少年が現れた。蒲公英色の髪、竜の民独特の首飾りを首にかけ、肩に獣の毛皮を纏っている。自分と同じくらいの年だろうか。心が高揚する。
 竜の民の少年は「おい、降りて来いや!クソが」と悪態をつきながら仔竜を呼んだ。随分荒っぽい口調だ。でもそれすらかっこいい。
 仔竜は少年の元に舞い降り、籠手を装着した少年の腕に止まる。
「行け!」と少年は仔竜を飛ばしては「来い!」と呼び戻し、腕に止まらせる練習を繰り返す。
 あの仔竜は赤竜だ。まだ大鷲くらいの大きさだから腕にも止まれるけれど、そのうち人を乗せられるくらいに大きくなる。
「獲れ!」少年は仔竜を放った。
 仔竜は赤い矢のように飛んで草叢の中に潜り、小さな獣を鉤爪に掴んで舞い上がる。悠々と空中で獲物を放り投げ、一呑みにすると、少年の元に戻って行った。「よし!」と少年は満足そうに笑む。
 狩りの訓練をしているんだ。彼は竜騎士なんだ。
 竜と共に生きる竜の民。その中でも竜騎士となれる者は多くはなく、子供の頃から修行を積むのだと、本で読んだことがある。彼は少年の身でありながら、竜騎士として竜を躾けているのだろう。
 滑るように空を切り、青空を滑空する赤銅色の仔竜。太陽みたいな金髪を靡かせる幼い竜騎士。彼の腕に降り立つ仔竜。胸が高鳴る。
 ふと、くるり竜騎士の少年が振り向いた。
 視線が合ったような気がした。どくんと胸が鳴る。え?かなり離れてるし、草の影に隠れてるから僕の姿は見えないはず。
 彼は口角を上げて悪戯っぽく笑う。
 僕の他には誰もいない、よね。見つかった?
 腰を屈めたまま後退りし、そろそろとその場を離れ、林の中に駆け込んだ。
「おい、てめえ、出てこいや!」
 少年の怒鳴り声が聞こえる。荒っぽい呼び声。焦って足が縺れ、転びそうになる。
 やっぱり見つかってしまったんだ。彼は勝手に見てたことを怒ってるのだろうか。そうだよね。竜騎士の修行の邪魔になったんだ。
 それに、竜の森に来たなんて、母が知ったらなんと言われるか。竜が棲む危険な場所。本当は子供は来ちゃ行けないんだから。
 林道をつんのめりながら走り抜けて、村に続く道に戻ってきた。帰り道を2、3歩、歩いて振り返る。
 彼は追ってきてはいないようだ。今度は見つからないように、用心しよう。もっと彼を見ていたい
 ほうっと息を吐いて、少年は呟く。
 かっこよかったな。僕も彼のようになりたいな。


第一章


 大木の下で、仔竜と金の髪の少年が眠っている。
 木漏れ陽が風で揺らめき、少年の身体に斑らに影を作る。木の葉がひらりと少年の頬に落ちる。
 クゥンと仔竜が鳴いた。少年は「しっ、黙ってろ」と仔竜の頭を押さえる。
 こいつも気配を察知したのだろう。声を押さえて「寝たふりしてろよ」と言い聞かせる。言ってもわからないだろうけどな。
 木の葉を踏んで、子供の軽い足音が近づいてきた。クゥン、とまた仔竜が鳴いた。
「え?なんでここにいるの?」と狼狽える声に、薄目を開ける。少年が屈んで自分の顔を覗き込んでいた。
 緑がかった黒髪に大きな瞳。近くで顔を見るのははじめてだけど、間違いない。こいつだ。
 目を開けてにんまりと笑むと、緑色の髪の少年は驚いたようで、大きな目を丸くした。「わあ、起きてたの?」
 少年は慌てて一歩後退り、尻餅をついた。
 金髪の少年は身体を起こし、むんず、と少年の腕を掴んだ。びくつく少年ににじり寄って顔を近づける。
「てめえ、気持ちよく寝てんのに起こすんじゃねえよ」
「ごめん、そんなつもりじゃなかったんだけど」
「は!ばあか、寝てねえよ。お前時々原っぱにきてた奴だろ。いつも俺を見てるよな。やっと捕まえたぜ」
「う、うん、僕だけど。なんで僕だってわかったの?」
「ああ、匂いでわかるぜ」
「匂いで?そんなに匂う?」
 緑色の髪の少年は、袖をくんくんと嗅ぐ。
竜騎士は竜の感覚の一部を共有すっから、普通の人間より感覚が鋭くなんだよ。それより聞きたいことがあんだよ。てめえ、なんでいつも逃げんだ。呼んでんだろーがよ」
「だって、勝手に見てたから、怒ってるかと思って」
「あ?怒ってねえわ」
「だって、君の声が怒ってたから」
「この声は地声だってんだ。クソが。見たけりゃあいくらでも見せてやるわ」
「それに、訓練してるの、邪魔したくなかったんだ」
「てめえが見てるからって気にするかよ。それとも、陰から見てるだけがいいのかよ」
 金髪の少年は立ち上がって、少年に手を差し出した。
「なあおい、俺と遊ぼうぜ」
「え?いいの?」少年の顔がぱあっと明るくなった。「すごく嬉しい。でも、邪魔にならない?」
「ならねえっつったろーが。そうだ、うち来いよ。ええと、そういやてめえ、名前はなんてえんだ」
「デクだよ。苗字は緑谷。君は?」
「勝己。爆豪勝己だ」
「じゃあ、かっちゃんだ?」
「てめえデク!勝手に呼び名変えてんじゃねえ」
「ごめん、じゃあ、勝己くん?」
 デクは伺うように問うた。勝己は眉を寄せて首を傾げる。竜の谷では呼び捨て以外で呼ばれたことはない。こっちが呼び捨てでデクって言ってんだから、普通呼び捨てにしねえか?だが、くん付けよりはマシか。
「きめえ。やっぱかっちゃんで構わねえよ」
「じゃあ、かっちゃん、よろしくね」
 かっちゃん、か。ちょっとこそばゆい。でも悪くねえ。
「じゃあ来いよ、デク」
 勝己はデクの手を引いて、森の中に連れて行った。
「いいのかな、子供がひとりで森の中に入っちゃいけないって、言われてるんだ」と言いながらも裏腹に、デクの声は弾んでいる。
「ひとりじゃねえだろ。俺と一緒だろうが」
「森には竜がいるから、危ないからって言われてるんだ。」
「ばっかじゃねえのか。野生の竜はこのへんにはいねえ」
「そうなの?だって、皆そう言ってるよ。竜を見たら逃げろって」
「まあ、ガチで野生の竜なら危ねえな。でもいんのはもっと森の奥地だ。人里の近くにはめったに来ねえよ。竜の民の集落周りにはいるけどな。あいつらは人に慣れてっから」
「危険な野生の竜を見たことはある?」
「竜の渓谷にいるらしいけどよ。野生っつーかレベルが違うらしい。大きさが桁違いなんだとよ。大人の竜騎士じゃねえと危なくて行けねえよ」
「君みたいな子供の竜騎士は初めて見たよ。普通の竜の民や、大人の竜騎士は時々市場で見かけるけど」
竜騎士目指す奴は一人前にならないと、森の外に出られねえからな。竜が後をずっとついてくるからよ」
 おしゃべりしながら歩いて、いつの間にか勝己の小屋に到着した。大木の根本の間に挟まるように建てられている、茅葺建ての小屋だ。
「入れよ、デク」勝己はドアを開けた。
「お、お邪魔します。お父さんやお母さんは?」
「いねえよ。ひとり暮らしだ。竜騎士の修業はまず竜を慣らすために、四六時中竜と一緒に暮らすんだ」
「え?いつも君ひとりなの?」
「んなわけねえだろ。飯どうすんだよ。森の奥に竜の民の集落があるからよ。そっから親が来んだよ。俺は時々しか帰らねえけどな。どこまで進んだとか真面目にやってんのかとかうるせえし。集落の中じゃあ、竜を繋いで連れてかなきゃいけねえから、面倒なんだ。こいつ繋がれんの嫌がるからよ」
 と言って、勝己は傍の竜を小突く。竜は仕返しとばかりに勝己の手に噛み付いた。
「あ、くそ、てめえ!」
 はたこうとしてぶるんと腕を振ると、竜は飛んで逃げ、梁の上に止まった。
「クソが!まだ赤ん坊だから、全然言うこと聞きゃしねえ。」
「赤竜だよね。すっごく大きくなるんだよね」
「よく知ってんじゃねえか。そのうち家ん中に入れなくなるから、でけえ寝床作んなきゃいけねえ。そん時ついでに家も大きくすんだ。武器とか飾ってかっこよくしてやるんだ」
「すごいなあ。自分の家作っちゃうなんて」
 勝己はダイニングの椅子を引いて座り、デクにも椅子を勧めた。
「なあ、腹空かねえか?」
「え、うん、大丈夫だよ」
「俺が腹ペコなんだ。待ってろ」
 キッチンに何か食べ物はないかと探し、干し肉とチーズを持ってきて、テーブルに乗せる。
「菓子とか俺食わねえから、ねえんだ。今度親に持って来させる」
「そんな、いいよ、いいよ」
 デクは干し肉を裂いてちまちまと噛む。なかなか噛みきれないようで、頬をふくふくさせて咀嚼している。
 リスみてえだ。もしゃもしゃのくせっ毛もリスの尻尾みてえ。見ていて飽きねえ。
 デクは竜騎士に興味津々で、次から次へと質問し、聞かれるままに勝己は話続けた。
「森は竜の民のテリトリーだ。竜の民は竜と共に暮らしてんだ。でも、竜騎士になれるのは一握りなんだぜ。俺の他にも見習い竜騎士はいるし、山頂の演習場には、皇国の竜騎士を勤めている先生が来る。俺らは毎日集まって修行してんだ。俺が1番成績いいんだぜ」
「すごいね!かっちゃん。竜騎士ってかっこいいよね」
「おお、かっこいいだろうが」
 仔竜がデクの前に降りてきた。てくてくと側に寄っていく。デクはそろっと手を伸ばした。
「おい、気をつけろ、噛みつかれるぞ」
 竜はふんふんとデクの匂いを嗅ぐと、赤い舌でデクの手を舐める。
「ふふ、擽ったいね」
 デクは笑って仔竜の喉を摩った。竜は気持ち良さげに目を瞑り、出久の脚に身体を擦り付ける。
「おいてめえ!デクには態度違うじゃねえかよ、クソが」
 勝己は竜を罵り、追い払うように手を振る。でも竜はデクの足の側から離れない。
「こいつ、てめえが気に入ったみてえだな。契約したわけでもねえのに」
「この竜、なんて名前なの?」
「契約したら名付けちゃいけねえんだ。名を付けると自分と別の個体になるからな。こいつはペットとかじゃねえ。俺の武器で右腕なんだ」
「へえー、かっちゃんは竜と契約してるんだね。契約なんて、大人みたいだ。竜となんてどうやってしたの?呪文とか?」
竜騎士は竜と血を交換して契約を結ぶんだ。竜の血を舐めて、竜に俺の血を舐めさせて主従関係になる。でも、こいつ、てんで命令きかねえけどな」
「頭撫でても平気かな?」
 デクはそろっと仔竜の頭を撫でた。竜はグルグルと喉を鳴らす。
 こいつはデクを受け入れたようだ。俺もデクを気に入った。竜と竜騎士は感覚の一部を共有する。だからかもな。
 竜を怖がらず、素直にかっこいいという。穏やかなくせに、禁じられてる森に来たり、竜に触ったり、変に度胸がある。変わった奴だ。竜騎士仲間は単純で荒々しい奴が多いから新鮮だ。
「かっちゃん、ぼくんちにくる?」デクは言った。
「言ったろうが。竜騎士は一人前になるまで、村には行けねえってよ。竜は主と決めた竜騎士の後をどこまでもついてくんだ。躾のされてねえ竜を、森の外に出すわけにはいかねえからよ」
 それが竜の民と村の人々との取り決めだ。竜騎士の修行をする森の近くの村には、竜騎士自らが結界を張ってる。躾の済んだ印である、足環をつけてない竜とその主の竜騎士は、結界の中には入れない。
「こんなに大人しいのに」
「それはてめえの前だからだろ。いつもはこうじゃねえ。俺は一人前になるまで、村に入れねえんだ」
「不便じゃない?」
「いんや、竜の民の集落には、普通に店もあるし、なんでもあるぜ。村に行かなくても何も困らねえよ。それに、大きな街には行けるしな」
 人口の多い街は、不慮の事態には竜騎士や魔法使いが対処出来るので、結界は張られてない。もし結界を張れば、魔物が入れなくなるものの、亜人や半妖との交流などに支障が出る。
 今までは困らなかった。でも今デクの家に行ってみたいと思っている自分がいる。
「ねえ、試してみようよ。手を繋いで行けば越えられるかも」
 差し伸べられたデクの手。どきりと胸が跳ねる。
 さっきは自分から掴んだのに。なんでだ。デクから手を繋ごうとしている。だからなのか。
 照れ隠しに乱暴にむずっとその手を掴んで、先に立って歩く。デクの後ろをてくてくと仔竜がついてくる。
 森を抜けて、高原を過ぎて、林を歩いて、村への道が見えた。ここまで来たのは初めてだ。
 恐る恐る、道に足を踏み入れる。数歩歩いた。行けるのか?
 だが、気づくと林の入り口に引き戻されていた。
「あれえ?」
「な、行けねえだろ」
 わかってたことだけど、勝己は少し落胆した。
「ほんとだ。僕も帰れないの?」
「手を離せば帰れんだろ」
 するりと指が離れてしまった。小さな手の温もりを惜しみ、指が名残惜しく空をかく。
「じゃあまた来るね、かっちゃん」
「ああ、来いよ」
「友達に言ってもいい?皆も来たがるかも。連れてきていい?」
「てめえらは、親に竜の森に行くなって、言われてんだろ」
「怖くないって言ったら、きっと来るよ。ね、一緒に遊ぼうよ」
 デクは村の方に駆けてゆき、振り向いて手を振った。姿が見えなくなるまで見送ってから、帰途につく。
 デクと繋いだ手がホワホワと温かい。あいつは明日も来るんだな。今までみたいに逃げたりしないで。

 次の日、デクは数人の子供達を連れてやってきた。デクより小せえ子供達だ。「森に来ちゃいけないんだよ」と口々に言いながら。ビクビクしている。
 勝己は林の入り口まで迎えに出たが、竜は警戒して木々の中に隠れてしまった。枝の間から様子を伺っている。勝己が「おい、降りてこい」と呼んでも来ない。
「しょうがねえな、あいつ」
「あれ、怖がっちゃったのかな」
「いや、そんなわけねえ」
「何処にいるの?」「ほんとにいるの?」「竜なのに」と子供達が口々に囃し立てる。
 いきなり、竜は劈くような鳴き声を発した。耳がビリビリとするような吠え声。
 子供達は仰天して、村のほうに逃げて行った。「エリちゃん、洸太くん、みんな、怖いことないよ」とデクが呼びかけたが、子供達の影はもう遠い。
「は!怖くねえわけねえんだよ、これでも竜だぜ」
「ごめんね。かっちゃん」
「へ!あの反応が普通だわ。おかしいのはてめえなんだ」
「ごめんね、でも、わかってくれると思うんだ」
 デクは気にしてるようだが、別に他の奴らが来ようと来まいと構わねえ。来るのはデクだけでいい。
「そうだ。かっちゃん、これあげる」とデクは小さな巾着をポケットから取り出した。
「なんだそれ」
 袋を開けると、カラフルで半透明のトゲトゲの粒がいくつも入っている。
金平糖だよ」
「知っとるわ。クソが」
「お母さんが作ってくれたんだ。君の話をしたら、持って行ったらって」
 勝己は金平糖を口に含んで、がりっと噛んだ。ジュワッと広がる甘味。
「甘ったるいな」
「それはそうだよ。砂糖だもの」
「甘いもんは得意じゃねえ」
「そうなの?」
 しゅん、とデクの元気がなくなる。しょうがねえな。
「だが貰っとく」と勝己は袋をポケットにしまった。


第二章


 月日は巡った。
 あれから村の子供も、たまに林の中に入って来るようになった。だが、村への道が見えるところまでで、それ以上は踏み込んで来ない。仔竜が威嚇したし、親に森の中までは近付かないように言われてるのだろう。
 毎日高原を越えて、森にやって来るのはデクだけだ。デクが来た時は、仔竜は逃げずに姿を見せて、近寄っていく。
「かっちゃん!」と大きな声を出して、高原をデクが走ってきた。
 仔竜はデクの側に寄り、首を曲げてデクの顔に頭をすり寄せる。
「大きくなったね。僕よりずっと背が高くなったね。かっちゃんが腕に乗せてたのが嘘みたいだ」
「は!今乗せたら腕が潰れちまうわ」
 もう仔竜とはいえない。竜は成長して堂々たる体躯に育っていた。もう馬くらいの大きさはある。竜はクゥンと鳴き、首を曲げてまたデクに頬ずりする。
 初めて会った時から幾年たったことか。もう竜はすっかりデクに懐いていた。
 だがまだ、勝己の命令を聞かない。いつも竜は勝己の後をついてくる。待てができるようにならないと、足環は貰えない。村には行けないのだ。
 デクの方から来るから、別にいいんだけどよ。
 勝己は竜に跨り「乗れよ」とデクに向かって手を伸ばした。
「え、ええ、乗れないよ」
「馬ならあんだろ。変わんねえよ」
「いや、全然違うから。わ!かっちゃん」
 怖がるデクの腕を引っ張り、勝己の前に跨らせる。
「え、え、わ、高いよ、かっちゃん」
「乗せてやるよ。こいつが気に入ってっからよ。デクだけだからな」
 竜は甲高く吠えると、翼を打ち下ろし、空高く舞い上がった。
「うわあ、高いよ!かっちゃん」
「捕まってろよ」
 勝己はデクの脇腹をしっかりと抱いた。
 初めは怖がって竜の首にしがみついていたデクだが、次第に慣れてきたのか、顔を上げて眼下の景色を見渡し始めた。「わあっ」と声を上げて喜んでいる。
 竜は森の上を旋回した。デクは竜の首にしがみつく。風がデクのくせっ毛をなぶる。
「おい、やれや!」
 勝己は命じた。すると、竜はボンボンと火球を吐いた。赤い火の玉は破裂音を立てて弾ける。
「わあ!すごい」とデクが歓声を上げる。「赤竜は爆破の力を持ってるんだよね。すごいや」
「ああ、見せんの初めてだな。森の中じゃ危なくて、できねえからな」
 勝己は「見てろよ」と掌をデクの前に翳す。パリパリっと火花が散り、弾けた。
「え?かっちゃんもできるの?」とデクは目をキラキラさせる。
「いずれは俺も、爆破の力を使えるようになんだぜ。竜騎士は竜の力も共有するからよ」
「すごいね。かっちゃんは」
 デクは俯いて、あのね、と口籠る。
「んだよ、聞こえねえ」勝己は促した。
「僕ね、勇者になりたいんだ。オールマイトみたいな、生きた伝説の勇者に」
 オールマイト。大陸に並ぶべくもない勇者の名だ。皇国に属する勇者でありながらも、ひとところに留まらず、村や町を巡って悪漢を成敗したり、魔物退治したりしているという。勝己は吹き出した。
「あ?はっはっ!てめえが?似合わなすぎるだろうが。てめえは村人Aが似合いだろ。腕だって細っこいし、胴回りだってヘナチョコだ」
 デクの腰に腕を回す。細っこくて片腕で一回りできそうだ。腕力も腹筋もない。大きな差はなかった子供の頃に比べて、日々鍛えている自分との差は歴然としている。
「だって、僕だってかっちゃんみたいに、かっこよくなりたいんだ」
「ああ?なれるわけねーだろーが」
 かっちゃんにはわからないよ、とぽつんとデクは呟いた。
 竜騎士と違って、勇者には条件も定義もない。だから目指すってのか。誰がどう見ても無理だろうが。実の伴わねえ自称勇者が関の山だ。こいつが益体もないことを言うと苛々する。
 なんなくていいじゃねえか。てめえはずっと俺の側にいて俺を見てろよ
 山頂の近くまで飛んできて、竜は演習場に降り立った。拓けた場所に、樽や大岩や大木の柱が置かれている。
「かっちゃん達はここでいつも訓練してるんだね。わあ、訓練の跡があるね」
 さっきまでのやりとりを忘れたように、デクは生き生きとして岩の焦げ跡に近寄り、ぺたぺた触った。柱や樽も、いずれも欠けたり氷が張り付いていたり、いくつもの傷がついたりしてる。
「ああ、それは火竜や氷竜の訓練でついた跡だ。今日の訓練は休みなんだ。先生が皇国の都に召集されてっからよ」
 竜騎士見習いは演習場で毎日訓練を行う。竜の習性や能力の使い方などの座学もあるが、ほぼ実践だ。
竜騎士の先生って怖い?」
「みんな怖がってっけど、別に俺は怖かねえよ」
 怖いと言うより、厳しいのだ。今までに何人もの竜騎士見習いが、失格にさせられている。志願者をまとめて失格にしたこともある、漆黒の服を纏う黒竜竜騎士。魔法や呪いを無効化する、黒竜の能力の使い手だ。
 ポツポツと雨が降り始めた。もう少し見せてやったら戻るか、と思っているうちに、あっという間に大雨になった。
「うわー、どうしよう、かっちゃん。今戻ったらずぶ濡れになるよね」
「ああ、でも空は明るいし、通り雨だろ。止むまで一休みすっか」
 勝己は演習場内の丸太小屋に、デクを連れて行った。先に入ってろと言い、竜を専用の休憩所に引いていく。今の5倍の大きさになっても、何頭でも入れる天井の高いホールだ。小屋に戻り、暖炉に火を焼べて、濡れた服を脱いで広げた。半裸で火の前に2人で並んで胡座をかいて座る。
 パチパチと火が爆ぜる。
 暖炉に寄り過ぎると顔が火照ってきた。でも肌は冷えたままだ。デクに身体を寄せて、ぺたりと濡れた肌をくっ付ける。
「今日村にね、オールマイトが来たんだ。伝説の勇者オールマイトだよ」
 手足がぬくもってきた頃に、ぽつりとデクは言った。
「ふうん」
 生返事を返す。皇国の英雄オールマイト。だからデクは勇者になりたいなんて言い出したのか。オールマイトは同じ皇国の竜騎士である先生も面識があるらしい。名前が出ると「あの人はいつもふらふらして全然捕まらん」と苦々しくぼやいている。
「明日、オールマイトが泊まってる宿に、会いに行こうと思ってるんだ。それでね、僕、稽古をつけてくれるように、頼もうかと思ってるんだ」
「はあ?何言ってんだ、てめえ」
「強くなって、いつか冒険の旅に出たいんだ」
「言ったろうが、てめえには向いてねえ」
「そんなの、わかんないだろ」
「てめえはチビだし、腕だってこんな細っこいくせに」
 と勝己はデクの二の腕を掴んだ。すべすべした滑らかな肌。勇者なんて全然にあわねえ。
「それは……かっちゃんに比べたら貧弱だけど」と、デクはもごもご口籠る。
「肩も細えし」と肩に触れる。「胸も薄いじゃねえか」胸に手を当てて撫でる。まだ濡れた身体。雨の匂い。
「かっちゃん?」
 胸から離されない勝己の掌に戸惑って、デクは身を捩る。
 勝己は顔を寄せてデクの首元を嗅ぎ、首筋を流れる雨の雫を舐める。
「ひゃあ、くすぐったいよ」
 デクはころころと笑う。
 触れている肌は冷たいのに、何故か身体の奥が熱くなってきた。
 ゴクリと唾を飲み込むと「脱げよ」と勝己は言った。
「え?」とデクは戸惑う。
「風邪引いちまうだろ。下も脱げってんだ」と言い、勝己はすぐさま下着を脱いだ。
「ええ!かっちゃん、裸だよ、裸!」
「濡れた下着にズボン履くのかよ。何照れてんだ、男同士だろうが」
「そ、そうだね。でも恥ずかしいな」
 顔を赤くしつつも納得したようだ。デクは素直に下着を脱いだ。
 膝を抱えて座るデクににじり寄り、震える手で肌に触れる。デクの胸を辿り、指先で腹を辿る。
「かっちゃん?なに?」と不思議そうに問うデクに構わずに、抱き寄せて腰に掌を滑らせて撫でる。かっちゃん、とデクもおずおずと肩に触れてきた。
 触りあってじゃれているうちに、デクの肩を押して絨毯に組み伏せた。デクの頭の横に手をついて見下ろす。
「かっちゃん?」
 デクの瞳が暖炉の炎を映して揺らめく。冷たい肌をひたりと合わせた。重ねた身体の下で、出久の身体が震えている。
「か、かっちゃん」
「なあ、温かくなんだろ」
 衝動を誤魔化そうとして勝己は言った。触れたい。止めたくない、流されていろと祈る。
「あ、そうか、なるほど。うん。あったかいよ」
 容易くデクは納得したらしい。抱きしめて身体を摩る。身体を弄り摘んだり擽ったり悪戯する。デクの手が迷うように腕に肩に置かれ、遠慮がちに摩る。
 何気ない調子で性器を押し付けた。すりっと揺する。擽ったいとデクは笑った。肌をくっつけてると温かくなってきた。身体の奥にも火が灯る。
 頬を手で挟んで顔を見つめて、冷たい唇に触れる。むにっと何度も押し付ける。デクは雰囲気に呑まれたのか、抵抗することなく目を瞑る。
 もっと触れたい。口の中は唇よりも熱いはずだ。ちょっとだけ触れるくらい構わねえだろ。
 ふはっと開けられたデクの口をがぶりと塞ぐ。デクの舌を探り、舌先で突いて舐める。
 思ったとおり熱いな。それに柔くて気持ちいい。唇を離してデクの瞳を間近で見つめる。
「気持ちいいな。てめえは?デク」
「うん、でも、なんか変だ」
 デクの瞳は誘うように潤んでいる。
「もう一回やらせろ」
 今度は舌をもっと深く差し入れて、舌を絡ませて深いキスをする。美味いものを味わうように、もっと寄越せと口内を探る。
 身体をぴったりとくっつけて、くちゅりと口を吸い、肌を摩り合う。身体の奥から火が燃え広がるように、触れている肌が熱くなってきた。デクに足を絡ませて局部を押し付け、擦りつける。薄い茂みが擦れる。
 顔の火照りは、暖炉の炎のせいだけではないのだろう。
 漸く雨が上がった。
「行こうよ、かっちゃん」とデクが言った。
 勝己は無言で、そろっと重ねた身体を離した。ひやりと肌が寒くなる。
 乾かしていた服をほらよ、とデクに投げた。ちょっと生乾きだ。服を着てしまうと照れ臭さくなった。触れ合っているときは平気だったのに。
「おい、クソデク、帰んぞ」
 ぶっきら棒に言うと、デクが小さな声でうん、と返事をした。デクも照れたように俯いている。
 演習場を後にして森に戻り、デクと手を繋いで林を歩く。当然のように竜も付いてくる。濡れた葉が雫をほろほろと落とす樹々の下。もっと帰り道が長ければいいのに。そう思っているうちに、村の入り口が見えた。
「じゃ、かっちゃん」とデクは言う。ちょっと目を伏せてもじもじしながら。
 離したくない。だが、離さないわけにはいかない。名残惜しく思いながら手を解く。
「明日も来いよ。デク」勝己はぶっきら棒に告げる。
 デクはふわあっと顔を赤らめて、下を向いた。頭を引き寄せて「来いよな」と念を押す。覗き込むように顔を近づける。
 翡翠の色の瞳が揺れている。デクの迷いを映しているようだ。
「なあおい、デク、答えろや!」
 返事をしないのに焦れて、勝己は声を荒らげる。デクはもじもじと視線を上げ、上目遣いに勝己を見た。
「かっちゃん、あんなこと、駄目なんじゃないかな」
「はあ?今更何言ってんだ」
「でも、まるで、大人のすることみたいだった」
「おい!」と勝己はデクの頬を、ぱんっと音を立てて両手で挟む。
「いったあ!かっちゃん、なんだよ」
「てめえも気持ちよかったって言ったよな」
「う、うん」
「大人のすることってなあ、てめえ幾つだ。俺と同じ歳だろうが」
「うん、そうだけど。だけど大人とは言えないかなって」
「毛だって生えてっし、精通もしてんだろ。十分大人だろうが」
「ちょ、かっちゃん」デクはさらに顔を赤らめ、小さな声で答える。「一応、してるけど」
「じゃあいいじゃねえか。明日も来るよな」
 と、ドスをきかせると、こくこくとデクは首を縦に振る。
「よし、てめえ、来なかったら承知しねえぞ」
 デクは真っ赤な顔のまま、こくんと首肯する。約束は取り付けた。勝己は漸く手を離してやる。
 村に向かうデクの姿を見送り、姿が見えなくなってから小屋に戻った。
 ドアを開けるとふわっといい匂いがした。留守の間に母親が来ていたようだ。部屋に匂いが充満している。
 台所に入って鍋の蓋を開けると、美味そうなシチューが入ってる。量が多いな。今日と明日の分か。村に帰す前に家に寄れば良かったな。デクに食わせてやれたのに。
 まあいい、明日来たら食わせてやるか。
 デクがまた持ってきた金平糖を口に入れた。舌で転がすと、やわやわと溶けていく。甘ったるい。まるでデクとのキスみたいだ。
 デク、と名を心の中で呼ぶ。デクのことを考えるだけで動悸が早くなる。
 甘ったるくて、変な時間だった。あいつの身体に触れて、キスをして、肌を合わせて体温を分け合った。濃密な膜で覆われたように、外の雨音も風の音も消えた。世界に二人しかいないみたいだった。
 次はデクをどうしてやろう。またキスをして、身体に触って、その後はきっと、そうだ。
 やっと理解した。幼い時に出会ってから、デクに対してずっと疼いていた感覚。
 あれが正解なんだ。デクだってわかったはずだ。
 キスだけじゃなくて、肌にも唇で触れたい。手で触れるだけじゃ足りないんだ。
 明日が早く来ればいい。あの続きを早くしたい。


 翌日、デクは日が昇るより早く、目が覚めてしまった。
 外はまだ暗くて瞼は重い、でも眠れない。ベッドでうつらうつらと時を過ごしていたら、カーテンの隙間から顔に陽が差して、再び目が覚めた。
 いつのまにか二度寝してしまったらしい。
 階下に降りると、母親は朝食の支度中だった。母親より早く起きて、ひとっ走りするのを習慣にしているのだが、今日は寝坊したようだ。
「珍しく遅かったわね」
「ごめん、お母さん」
「いいのよ、疲れてたんでしょ」
 鶏の卵を取ってきてくれるかしら、と頼まれ、鶏小屋に向かった。鶏のお腹の下から卵を取り、割らないように丁寧に籠に入れる。今食べる分と市場に持っていく分。売る分の卵を数えなきゃいけないのに、心は別のことに乱された。
 市場から帰ったら、僕は今日も森に行くんだろうか。
 来なかったら承知しねえ。
 帰り際の勝己との約束を反芻する。真剣な声を思い出す。
 かっちゃんは明日も来いと言っていた。キスしちゃった。キスだけじゃなく、裸で身体に触り合ったりした。大人がするみたいに。
 かっちゃんの指が触れた場所。思い出すと顔が熱くなり、ゴシゴシと顔をさする。
 朝食を済ませて、余った卵を包んで袋に入れた。母親に卵売りに行ってくるねと声をかけて、市場に出かける。
 朝からずっと、昨夜のことが頭から離れない。今日森に行ったら、どうなっちゃうんだろう。
 かっちゃん何するんだろ。また触り合うんだろうか。かっちゃんにとっては大したことじゃないのかな。大人の真似事みたいな、新しい遊びに過ぎないのかな。でも、僕はきっとかっちゃんでいっぱいになっちゃう。今だって朝から頭の中が、かっちゃんでいっぱいだ。
 でも、気持ちいいからって、こんなことしていいんだろうか。恋愛したこともないのに。擬似恋愛みたいになったりしたら、どうしよう。戻れないかもしれないのに。かっちゃんは迷わないのかな。
 悶々としたまま、市場に到着した。中央広場に集まっている人々がざわついている。いつも市場は喧騒としているけれど、今日はちょっと様子が違うようだ。大道芸が終わった後のような、浮ついた賑やかさ。
「何かあったの?」
 いつも卵を買ってくれる、食料品店のおじさんに尋ねてみた。
「君!もっと早く来たら良かったね」
 とおじさんは興奮冷めやらぬ調子で言った。
「昨日村に来た勇者オールマイトが、広場で暴れてた悪漢どもをやっつけたんだよ。すごかったよ。店に因縁をつけた悪漢達が片手で一捻りだったよ」
 憧れのオールマイト。すっかり忘れてた。こんな大事なことを忘れてたなんて。今日は早く起きて、彼の宿泊している宿屋に行こうと思ってたのに。
オールマイト、今どこにいるの?宿にいる?」
「もう村を出るところだったみたいだよ。荷物を持ってたからね。村はずれにいるんじゃないかな」
「ありがとう!」
 デクは走った。急がなくっちゃ。今追わないと会えなくなる。かっちゃんには後で言おう。会いに行くのは明日でもいいよね。今は彼を追わなければ。
 同じ年くらいの子供は、家業を継いだり、技術を身につけるために奉公に出たり、町の学校に行ったりと、それぞれ動き出している。自分も夢のためには、足踏みしていてはいけないのだ。
 勇者になりたい。不可能だと言われても笑われても。
 かっちゃんは反対するかも知れないけれども。どうしても。夢を叶えたいんだ。


「クソが!あの野郎」
 その日の夕方になっても、デクは来なかった。次の日も来なかった。
 勝己は腹を立てて毒づいた。「クソデクが、ふざけんじゃねえぞ。約束違えやがって!」
 身体に触れたことを、触れ合うことを、デクは迷っていた。だから来ないのか。嫌だったのか。だが、あいつも気持ちいいと言ってた筈だ。身体の境界がなくなって溶け合うような感覚を。
 今更怖気付いたのかよ。離れようったって離さねえぞ。
 勝己は待った。待つしかないのだ。半人前の竜騎士である自分は村には入れない。デクを問い質したくても果たせないのだ。
 デクが姿を見せないままに1週間が過ぎた。
 俺をこんな待たせやがって、こんな思いをさせやがって。あいつ、今度会ったらぶっ殺してやる。
 とはいえ、待ってばかりもいられない。竜騎士の修行も本格化してきたのだ。
 演習場に黒竜の巨躯が舞い降り、竜の背から黒装束の男が降りた。相澤先生だ。
 黒竜の使い手である相澤先生は、皇国の竜騎士の中ではあまり知られていない。自分も先生と生徒として会うまで知らなかった。竜騎士でもないくせにデクは知っていたらしいが。
「全員揃ってるか。じゃあ、竜から降りて並べ。さっさとしろ」
 相澤先生は不機嫌そうに言うと、居並ぶ竜騎士の卵達を見渡し「全員いるな」と確認した。
 山頂の広場に集った生徒達は、先生の号令で竜に乗ると、一斉に空に舞い上がった。竜の群れの羽ばたきは、突風となり土埃を巻き上げる。
 竜騎士は子供の頃から竜に慣れさせ懐かせ、竜が主人の命令を聞くようにする。その後、成長に合わせてそれぞれの竜と同調し、竜の力を使いこなせるようにする。
 勝己は竜との同調をいち早くマスターし、赤竜の力である爆破の能力も使えるようになっていた。
 だが、竜はいまだに肝心の「待て」の命令を聞かない。
「普通は、待てが出来てからの竜との同調だろ。順番逆じゃねえか」
「お前の竜、頭悪いんじゃねえのか」
 他の竜騎士見習い達に揶揄され、勝己は頭にきて睨みつけた。
「あ?喧嘩売ってんのか」
「怒ったのかよ、本当のことじゃねえか」
 勝己の後ろに控えている竜が首をもたげた。見習い達の竜も近付いてきて、一触即発の緊張感が張り詰める。
「お前ら!揉めると落第にするからな。爆豪、苛々をおさめろ。竜が荒れるぞ」
 相澤先生は駆けつけて、竜達を宥め、見習い達を「遊んでる暇はないぞ。散れ!」と追い払った。だが勝己には「お前は残れ」と告げた。
「説教かよ。売られた喧嘩を買っただけだ。あいつら竜を制御できるからって、その一点だけでこの俺を見下しやがってよ。うんざりだ」勝己は憮然とする。
「面倒を増やすな。相手にすることはないだろう。竜との同調はお前の方が先を行ってるんだぞ」嘆息して相澤先生はぼやく。「焦る気持ちはわからんでもないがな」
「同調できても、こいつ命令をきかねえんだ」
「お前に似て勝気な竜だからな、上からの命令をなかなか聞かない性質のようだな」
「クソが。何とかならねえのかよ」
「同調は出来てるんだ。お前の竜も、もう間も無く従うようになるだろう」
 だが、その「間もなく」に勝己は何年待たされていることか。まだ竜の力を同調出来てない奴らの方が、もうとっくに竜を制して足環を手に入れ、村にも行けるようになっているというのに。最初に竜と同調した自分が、他の奴らにどんどん追い抜かれる。勝己は日々焦燥感に駆られ、苛ついた。
「もう竜がついてこないように出来ねえのかよ」勝己は先生に問うた。
「足環を得られなきゃ無理だな。今の状態のお前と竜ではまだ与えられん。未熟な竜が結界は越えられないのは、危険だからだ。結界は村を守るためにある。今すぐどうしても森から出たけりゃ、竜騎士になるのをやめるしかないぞ」
「今更辞めるなんてできんのかよ。契約した竜はどうなる。野性に戻んのかよ」
「一度竜騎士と契約した竜は野性には戻れんが、なに、別の者と新しく契約を結べば済むことだ。でないと竜騎士が死んだ時に困るだろう。竜は人間よりも遥かに長命だからな。主1人に縛られることはない」
「なんで子供に仔竜を契約させんだ。躾のされた大人の竜でいいじゃねえか」
「大人の竜は子供の命令など、なかなかきかんぞ。それに、仔竜の躾は、子供の竜騎士にさせると同調するのが早いんだ。仔竜は大人の竜騎士に慣れるのに時間がかかる。大人は本能だけで動かないからな。損得や理性は邪心となり、竜との交感の邪魔をする。子供は本能と感情の動物だ。感受性が高く純粋な子供の感情が、真っ直ぐに竜の感情を育てて感応する。竜騎士は竜の鋭敏な感覚の一部を共有する。竜の力の一部も使えるようになる。お前のように爆破の力とかな。共感することで互いに優れた竜と竜騎士となれる。もちろん相性もあるがな」
 勝己は側で蹲る竜を振り見る。こいつがデクにだけ懐いてたのは、竜が俺と共感してたからなんだろう。でも、だったらなんでなんだ。
「お前、竜騎士を辞めたいのか」相澤先生は問うた。
「ああ?聞いただけだ」勝己は顔を顰める。「辞めねえよ。自分で決めた道だ。それだけはねえ」
「ならば、お前、村に会いたい奴でもいるのか」
「いねえよ!」
「いるのか。なるほどな」
「あんたどこに耳ついてんだよ。いねえってんだ!」
 ムキになって言い返す勝己に、先生は溜息をつく。「まあいい、仮にいたとしての話だがな、思う相手に同調しか出来てない、今の半端な段階で会うのは、関心せんな。お前も竜も共に制御できてないってことだからな。逆にお前の方が、竜の本能に呑まれて流されかねんぞ」
 あんたにはわかんねえだろーが、関係ねえだろーが、という反論の言葉を飲み込む。竜がグルルと唸る。勝己の感情に同調しているのだろう。こいつは俺の鏡だ。上から押さえられるのを嫌う。そして、デクを気に入っている。
 修行中であっても、森から森へは渡れるし、国境の道や街や遠方の皇国の都にも行ける。街や都は魔物や半妖でも、関所を通過すれば問題はなく、誰にでも開かれているからだ。ゆえに防衛のため、それらを制する魔法使いや僧侶は、町や都に集中している。
 竜騎士のいる森に近い村にはかならず結界がある。自分達は結界の張ってある村にだけは入れないのだ。もちろん結界のない村になら入れるが。
 林の出口に立って、村への入り口を睨む。ここから先は自分は行けない。
 大きくなっても竜は、それでも自分の後をついてくる。気性が荒くて勝己の命令をあまり聞かない。てめえは俺にそっくりだ。
 竜がついてくる以上、村に行くことなどできない。
 すぐ近くにいるというのに手が届かないなんて。思いは募るばかりだ。憤りが膨れ上がるばかりだ。
 デクは来なくなった。姿を見ることなく、月日が流れ、季節が巡る。
 竜は隆々とした体躯に育った。自分ももう子供じゃない。身体も心も成長した。確かな衝動で、あいつに会いたいし、触れたい。
 デク、早く来い。他の奴らが来ねえのは構わねえ。てめえは来なきゃいけねえんだ。俺の方からは行けねえんだ。わかってんだろうが。
 てめえだけを何故こんな風に求めてしまうんだ。なんでこんなに苦しいんだ。クソが!なぜ来ないんだ。


第三章


 声が聞こえた。
 勝己は目を覚ますと飛び起きた。
 空耳だろうか。目を瞑り、感覚を研ぎ澄ます。まだ明け方の森の中に靄が残る時間。
 間違いない。あいつの匂いがする。村の方角じゃない。森の側からだ。
 だが血の臭いが混じっている。嫌な予感にぞわっと総毛立った。勝己は急いで着替えると、竜に飛び乗った。
 竜は森の上を風を巻いて飛翔する。村から村に渡る道には結界はない。薄闇に目を凝らす。
 また悲鳴が聞こえた。何処だ。
 眼下には切り立った崖の上に作られた道がある。一本道だ。悲鳴をたどって道を目で追った。
 見えた。馬車が盗賊に襲われているようだ。デクは馬車の中にいるのか。
 竜はバサリと翼を打ち下ろし、馬車の側に降り立った。いきなり現れた竜に盗賊達は固まった。勝己は竜の頭に立ち、盗賊達を見下ろして怒鳴った。
「何してやがる!てめえら」
「てめえには関係ねえ、クソ!竜なんざ屁でもねえよ、降りてこいクソが」
 盗賊は勝己を見上げて、後退りながら虚勢を張る。怖気づいてんのがバレバレだ、間抜けが。今や竜は象をも超える巨躯に育っていた。
「そうもいかねえな。てめえら邪魔だ!退けカスが!」
 掌を盗賊に向けると、勝己は火球を飛ばして盗賊達の武器を爆破した。武器を失い怯んだ盗賊達を竜が容赦なく蹴散らす。盗賊達は略奪した金品を捨てて、一目散に逃げ出した。
「は!だらしねえ奴らだ」
 盗賊達の逃げる先を一瞥し、勝己は馬車に視線を移した。馬車の車輪の後ろに怯えた初老の男が縮こまっている。服装からして御者のようだ。勝己と目が合うとさらに怯えた表情になった。
 男に構わず「おいデク!」と怒鳴り、馬車の中を覗いた。中には数人の客がいたが、デクはいない。
「おい、もう盗賊はいねえよ。聞きてえことがある。俺くらいの歳のもしゃもしゃ頭の馬鹿面した奴が乗ってなかったか?」
 客達を見渡して勝己は問うた。
「若い男の子がいたよ。その子のことかな」誰かが答えた。中年の男だ。
「なんで今、ここにいねえんだ。そいつに何かあったんかよ」
「私達は盗賊に順番に外に出るように言われたんだ。だが、泣きだした子供が竦みあがって動けなくなり、盗賊につまみ出されてしまった。その少年は抗議して馬車を出て、突っかかっていったんだ」
「そいつは何処にいる」
「すまない、外の様子はあまりわからなかったんだ」
「小さな子をかばって、一緒に崖から落ちてしまったよ」背後から声がした。車輪に隠れていた御者だ。「私は怖くて、見ていることしか出来なかった」
 勝己は崖の下を覗いた。木々に隠されて見えないが、崖の下からは確かにデクの匂いがする。
 竜に飛び乗って崖の下に降り、デクの姿を探した。
「何処だ!デク」
 返事のできない状態なのか。もしもあいつが。いや、考えるな。
 竜が首を左右に振って一点を指し、迷いのない足取りで歩き出した。森の中に入ってゆく。
「お前、わかんのか?」
 デクを探していることを、こいつは理解しているのか。ともかく、勝己は竜についていった。暫く歩くと竜は立ち止まり、勝己を振り向いて、クウっと鳴いた。
「見つけたんか」
 折れた木の枝と共に、倒れている小柄な身体。間違いないデクだ。
「まさかてめえ。デク!クソが!デク!」名を呼んで駆け寄った。
 頭部からドクドクと血が流れている。頭だけじゃなく身体も傷だらけだ。服は裂けてボロボロだ。
 身体をそっと起こしてみる。デクは腕に子供を包み込むようにしっかり抱いていた。子供は気を失っているがほぼ無傷だ。子供を腕から離して地面に寝かせ、デクの呼吸を調べてみる。か細いが、息はしている。腕や足も変な方向に曲がったりしてはない。気絶しているだけだ。
「自分の身体でこの子を庇ったのか。てめえが死んだらどうすんだ。は!英雄になりたいとかほざいてたくせによ。ざまあねえな」
 ほっとした。ぐったりした身体の下に腕を回し、そっと抱きしめる。
「大丈夫ですか?」と御者が崖の上から声をかけてきた。
「ああ、無事だ」
 デクを残して、子供だけを抱えて竜に乗る。心配そうに崖下を覗いていた御者に子供を渡した。両親らしき男女が駆け寄ってきて、頭を下げて子供を抱きしめた。
「もう1人いませんでしたか?その、その子を助けた少年が」
「知らねえ。そいつしか見つからなかったぜ。探しといてやるから、さっさと出発しろよ」
「彼が貴方の探してる人ではなかったんですか」
「いや、俺の勘違いだったわ、じゃあな」
 御者に問われ、そらっとぼけて答えると、勝己は竜に跨って崖下に戻った。傷だらけのデクを竜の背に乗せて抱きかかえる。デクは渡せない。森に連れて帰るのだ。

 デクをベッドに寝かせて衣服を脱がせた。ちょっと驚いた。自分ほどではないにせよ、そこそこ鍛えられた身体だ。全裸にして血や砂を清潔な布で拭き取り、傷の深さを確かめる。
 肌を綺麗にすると、傷の一つ一つは思ったより深くない。骨が折れたり肉が削げたりはしてないようだ。手足の皮膚の擦過傷は多くても外傷は浅い。樹木の枝がクッションになったのだろう。ただ、頭の傷だけは気になる。後遺症がなければいいが、意識が戻らないとわからない。
 傷を治すために薬草を口に含み、噛み潰して、デクの身体に跨り、屈みこんで傷口を舐める。
 やっとだ。やっと面を見せやがった。
 デクが来なくなって、何か月経ったことだろう。何年経ったことだろう。随分成長したけれど幼い面影は色濃く残る。
 デクの右手の掌を開いた。豆を潰した跡がある。剣の稽古でもしているのか。くっと喉の奥で笑う。掌を舐めて一本ずつ指を舐める。
 てめえに勇者様なんて似合わねえぜ。ちょっと稽古して多少筋肉をつけて、強くなったつもりでいるから、こんな目に遭うんだ。額のキズを舐めてキスをする。血の味。頭に包帯を巻いてから、首筋に舌を這わせる。胸の傷を舐め、太腿を持ち上げて舌を這わせる。
 傷を舐めてゆくうちに、下腹が熱くなってきた。陰茎が硬くなってきたのを自覚する。勃起したようだ。情欲。所有したいという証。
 こいつが欲しい。
 思いが膨らんで弾けそうだ。
 欲しくて目眩がする。
 脳が欲望に塗りつぶされる。
 本能に呑まれるとは、こういうことなのか。
 抑えきれない。
「あの時の続きをしてやろうか、なあデク」
 勝己は指先の皮膚を噛み切った。ぷつりと皮膚が切れ、血が玉になりとろりと吹き出す。指先をデクの唇に塗り、指を口に含ませる。唇が赤く染まった。深くキスをして、舌をデクの舌に絡める。
 契約の血だ。竜に行ったように。
 これでてめえは俺のだ。
 デクの傷はもう塞がってきている。薬草の効果が出て来ているようだ。朝には綺麗に治るだろう。
 下腹部に跨り、身体を重ねてデクに欲望を擦り付ける。衣服が邪魔だ。服を脱いで裸の素肌を重ねる。あの雨の夜に触れたように、隙間なく。ぴくりとデクの身体が反応する。
「おい」と声をかけてみる。「起きろや、なあ」
 デクは薄眼を開けたようだが、また瞑ってしまう。薬には麻酔効果もあるから、意識が朦朧としているようだ。
 今抱いてしまおうか。まだ目を覚ましそうにない。だがもう待てない。衝動が止められない。
 腹の底で獣の如き本能が渦を巻く。
 膝裏を持って開脚させ、指に唾液をつけて、顕にした窄まりを探る。1本、2本、指を突き入れる。熱くて湿ったデクの中。意識がないせいか、抵抗なく入ってゆく。指の根本まで潜らせて引き抜き、探るように入れては慣らしほぐす。
 己自身の先端を窄まりに擦り付ける。ん、とデクが小さく声を発した。デク、と耳元で呼ぶ。だが目を覚ます気配はない。
 先走りを後孔に塗りつけるように、戯れるように、何度も突くうち、ぬぷりと雁首が潜った。ぐっと押すと括れまで呑み込んでゆく。弛緩したデクの身体は、容易く勝己の欲を受け入れる。
「あ、ん」とデクは呻き声を漏らす。異物の挿入に反応したのか、きゅうっと締まり、勝己を刺激する。
「目ぇ覚ませよ、デク」
 ふうっとため息とともに囁く。でも起きる気配はない。膝を抱え上げて腰を沈め、さらに深く挿入し、じわりと突き上げる。
「起きろよ、目え覚ませや」
 熱くうねるデクの内部。堪らない。前後に揺さぶって、さらに深く貫いてゆく。
「俺のが入ってんのわかるかよ?わかんだろ、デク」
 ゆるりと奥まで突いては引いて、抜き挿しする。内壁を抉るように擦る。
 すげえ気持ちいい。ひと突きするごとにデクが俺のものになっていくようだ。
 俺のだ。こいつの全部が俺のもんだ。
 腰を掴んで激しく律動する。ベッドが軋んで音を立てる。デクは薄く口を開け、眉根を少し寄せるが目を覚ます気配はない。なのに突くときゅうっと勝己を気持ちよく締め付ける。粘膜は温かくて蕩けそうだ。
 腰が痺れたようにじんとくる。デクの柔肉に埋まった、自分の一部が拍動する。
「てめえん中に出すぜ、いいな、デク」
 勝己は唸り声を上げて上りつめ、射精した。背骨をフワリと痺れが駆け上がる。ペニスの中を奔流がどくどくと流れる。何度か強く突いて、デクの体内に精液を絞り出す。俺の種を植え付けてやるんだ。
 覆い被さり、はっはっと荒くなった息を整える。首元に息を吹きかけ、デク、と名を呼ぶ。抱かれながらも目を覚まさない。呑気な野郎だ。
 デクの額に額をくっつけて、デク、ともう一度呼びかけ、唇を這わせて深くキスをする。

 朝の光が窓から差し込んでいた。
 隣に眠るデクの頬にそっと触れる。瞼がピクリと動いたが、目を覚まさない。肌に治りかけた傷跡と、勝己の付けた赤い所有の証が、入り混じり散らばっている。
 勝己はにっと悪戯っぽく笑い、服を身につけると、デクを起こさないようにそっとドアを閉めた。
 早朝は竜の食事の時間だ。勝己は竜を寝床から連れ出すと、狩場に連れていった。
 デクと会った高原には小動物しかいない。大きくなってからは、森の奥にある別の草原に狩場を変えている。中型の獣だけではなく半妖も生息している場所だ。野生の本能を失わないためにも、竜騎士の竜は生きた獲物を必要とする。狩で足りない分を竜用の餌で補う。
 竜に声をかけて、自由に狩をさせながら、勝己はこれからのことを思案する。
 傷が治るまでデクは帰さない。治っても帰さない。契約をしたのだ。もう俺のものだ。あいつの意思など知ったことが。何年も俺を待たせやがったあいつが悪いんだ。
 適度に竜に獲物を食わせ、小屋に戻った。だがドアの前で勝己は異変に気付いた。
 おかしい。しっかり締めたはずのドアに隙間がある、まさか。
 嫌な予感は的中した。ベッドはもぬけの殻になっていた。
「おいデク!」と呼びかけるが、家の中は静まり返っている。何処にもデクはいない。
「何処に行きやがった!逃げやがったのか。許さねえ」
 小屋の周りに足跡を見つけて森の中を追った。だが、行けども行けども姿は見当たらない。いつ出て行ったんだ。ずっと前なのか。もう森から出ちまったのか。勝己は焦った。村の方向に向かって林を駆ける。後ろを竜もついてくる。
 あいつには子供の頃から見知った帰り道だ。もう林を抜けたのか。もう村に着いたのか。
 次はいつ会えるんだ。いや、次などあるのか。
 村への入り口が見えるところまで辿り着いた。林はここまでだ。着いてきた竜も立ち止まる。デクの姿はどこにもなかった。
 ここからは結界が立ちはだかるのだ。勝己には越えられない見えない壁。
「デク!デク!てめえこのクソが!クソが!」
 聞こえないと知りながらも何度も叫ぶ。村への道を数歩進めてみたが、いつかと同じように、見えない結界を踏んだ途端に、林の入り口に戻されてしまう。
「くそが!目を離したのは、ほんの少しの間だけだったろーが。それだけで失っちまうのかよ。どれだけ待ったと思ってんだ。ふざけんなよ。デク!」
 竜を睨みつけ、勝己は怒鳴った。「お前、ついてくんなよ!」
 竜は首をくいっと振る。
「ついてくんな!てめえがついてくるから、あいつを追えねえんだ」
 竜は吠える。
「クソが!」勝己は叫んで木を殴りつけた。「クソカスが!」殴り続けて手の皮がむけて血が幹にこびりつく。
「クソが……」頭を幹に付けて俯いて呟く。
 違う。八つ当たりだ。
 竜騎士になる夢のために、竜と契約したのは俺だ。デクを攫って本能に呑まれて抱いたのも、安心しちまって隙を作ったのも、俺だ。
 座り込んで頭を抱え、気を沈める。竜が隣に座して頭を垂れる。勝己の気持ちに感応して荒ぶり、静まれば落ち着くのだ。頭を撫でると、竜はすりすりとその頭を勝己の手に押し付ける。
「お前もデクに会いてえのか。だから俺に付いてくるんだな」
 クウ、と肯定するかのように竜は啼く。
 俺と同調しなかったなら、竜の本能のままに生きただろう。だがこいつは俺の竜となった。俺と同調していないこいつは知らない。知ることもない。
 制御しなきゃならないのは竜じゃない。俺の心だ。
 お前はペットや友達なんかじゃない。俺の武器であり右腕なんだ。
 猟師の猟犬のように、鷹匠の鷹のように。それが竜騎士の竜なんだ。
 街道には盗賊やならず者だけではなく、魔物も潜んでいる。竜の森の側だけではなく、魔物が多く出る地帯には、結界を張っている村が多い。危険を排除するために結界は強力に張られる。首輪のない竜を連れた竜騎士の卵が村には入れないのは、野生の竜は魔物と判別されるからだ。
 こいつはまだ魔物なんだ。俺が竜騎士の竜にしてやらなきゃいけないのだ。
「デクに会うんだ。そのために、1日でも早く一人前にならなくちゃあな」
 竜騎士となって森を出て、デクに会うのだ。勝己は竜の丸太のような首を撫でる。
「なあ、てめえも同じだろ」
 竜はクゥンと鳴いて首を傾ける。


「訓練に熱が入るようになったな」
 一番に課題を済ませて戻って来た勝己に、先生が目を細めて声をかける。
「あ?もともと俺ぁ真面目だ」
「そうだな。以前からお前は訓練自体には、真面目に取り組んでいた。何か吹っ切れたようだな。いい傾向だ」
 勝己は目的を得たことで、闇雲ではなく効率的に力をつけていった。先生も驚くほどに目覚ましく成長した。勝己の意思が伝わっているかのように、竜は忠実に従うようになった。竜の力の一部を勝己の掌に移すことで、安定して爆破する能力を得た。これで竜と変わらないくらいの火力を得られる。
「勉強熱心だな。目標がはっきりしたようだな。あの村、か」と先生は感心したように言う。
「ああ?なんか文句あんのかよ」
「いや、目的がなんであれ、一人前の竜騎士になれば文句はない。思うことで強くなれるなら、それもいいだろう」
 先生に褒められるとこそばゆい。「へっ」とそっぽを向く。
「先生、あれ、いつ貰えんだ?」勝己は問うた。
「足環だな。この分なら間もなく渡せるだろう」
 待ちに待った、とうとうその時が来た。
 数日後、演習の終わりに、先生が竜騎士の証である金の輪を、手にジャラリと下げてきた。権利を得た竜騎士見習い達に順番に渡してゆく。
「これが竜騎士の証だ」
 勝己の手に金の輪が手渡された。呪文が表面に刻字されている。普通の腕輪のサイズだが、竜の脚に触れると伸びて巻きつく仕様だ。
 呪文を呪物の表面に刻む魔法は、竜の民独特の呪術だ。結界を張る術と同様に、竜騎士を目指すのならマスターする必要がある。訓練の合間に練習をして、勝己も多少は使えるようになった。
「無造作じゃねえかよ」
「わざわざ箱に入れて、リボンでもつけて欲しかったのか。非効率だろう」
「へっ、いらねえよ」
「お前は熱心に修行を行ってたからな。今まで多くの竜騎士を教えてきたが、お前ほど早く竜と同調できるようになり、さらに竜の力を使いこなせるようになった奴はいないぞ」
「は!俺を誰だと思ってんだ。当然だってんだ」
「竜を制御するのは一番遅かったがな。お前ならすぐにも卒業できそうだな。そうすれば好きな場所に行けるし、住むことも出来る。試験を受ければ、皇国の竜騎士にもなれるぞ」
「あんたと同じ皇国の竜騎士か。まあ考えとくわ」
 早速、勝己は竜に足環を装着した。竜は違和感を感じたのか、ふるっと脚を振ったが、嫌がりはしない。
 鍛錬が終わり小屋に戻ると、「いいな、ここで待てよ」と竜に命じてみた。
 竜は大人しく蹲った。勝己が離れても身体を起こさない。
 よし、ちゃんと言うことをきくな。もうついてこないな。
 竜騎士の竜となったので、村に連れて行けるのだが、まずは自分だけでデクのところに行きたかった。森を出て高原を抜け、林のはずれについた。
 村が見える。デクのいる村が。
 すうっと息を吸い、道に足を踏み入れる。2歩3歩と足を進める。
 歩いていける。もう林の入り口に戻されることはない。村に入れる。勝己は走り出した。
 デク、デク、くそが!
 気分が高揚した。この日をどれだけ待っただろうか。駆けて、駆けて、村の入り口に到着した。
 デクの家はどこだろう。道行く人に尋ねて、ようやくデクの家を見つけた。キノコみたいな形のこじんまりした家だ。郵便受けの周りには、色とりどりの花が植えられた花壇がある。母親の趣味なんだろうか。
「デク!出て来い!」
 ドアをノックすると。母親が顔を出した。顔立ちにデクの面影がある。勢いを削がれた。
「あらまあ、お友達?」
「デクは何処にいんだ」
 挨拶も忘れて聞くと、母親はすまなそうに答えた
「ごめんなさいね。暫く前に旅に出たのよ」
 勝己を招き入れると、デクがこれまで何をしていたのかを母親は語った。
「勇者になるのが昔からあの子の夢だったの。だから、憧れていた勇者が村を訪れた時に、後を追って行ったのよ。」
 オールマイトが来たって言ってた、あの日か。
「弟子になるって手紙が届いて、びっくりしたわ。オールマイトにそのまま皇国の都に連れて行ってもらって、彼のところで修行して稽古をつけてもらったそうなの」
 母親は微笑んで言う。デクの掌にあった豆の跡。あいつは俺が知らねえ間に、オールマイトの下で勇者になる修行をしてたってことか。
「皇国の都は遠いから、そうそう帰れないけれど、手紙を毎日書いてくれたのよ。でも、数ヶ月前に怪我をして帰って来たの。盗賊に襲われたと聞いて、荷物だけが届いたから、とても心配してたんだけど。次の日に無事に帰って来てくれて、ほっとしたわ。服がボロボロになっていたけど、何故か傷は治ってたのよね」
 ちくりと胸が痛む。俺の家にいたんだ。親がいることは考えないようにしていた。帰したくなかった。やっと会えたんだ。
「でも、頭を打った後遺症かしら、子供の頃の記憶に、ほんの少し飛んでるところがあるみたいだったわ。少し前まで静養を兼ねて家にいたんだけれど。ごめんなさいね、せっかく来てくれたのに。そのうちあの子、旅先から手紙を出してくれると思うわ」
 そんなに待てない。デクの家を出ると、口笛を吹いて竜を呼んだ。竜は上空を滑空して勝己の側に舞い降りる。竜に跨って空に舞い上がると、勝己は吠えた。
「クソが!クソが!クソデクが!」
 都なら未熟な竜騎士や竜でも、簡単に入れんじゃねえか。あいつがいたと知ってれば、会いに行けたんだ。あいつ、それを知ってて黙ってたんじゃねえのか。勇者だと?似合わねえだろ、てめえには。俺との約束よりオールマイトを優先しやがって。
 旅に出ただと?一体何処にいったんだ。旅の目的とやらはなんだ。どの方向に行ったのかもわからねえ。
 もう安穏と森にいられるものか。クソが。あいつを追うわけじゃない。そろそろ森にも飽いただけだ。
 勝己は森に戻り、旅支度を始めた。赤いマントを羽織り、玄関の柱に呪文を刻んで術をかけ、小屋を縮めて、掌大になった小屋を袋に入れた。もしもデクが森にきた時のために、呪文を刻んだ使い魔を放っておく。
 竜に背中に飛び乗り「行くぞ」と声をかける。竜は返事をするように吠える。
「あいつを、デクを捕まえるんだ」


第四章


 焚き火の中でパチパチと火の粉が爆ぜる。
 揺らめく焔を見ていると、なにかを思い出せそうになるけれど、浮かんだはずの光景はすぐに泡のように消えてしまう。
「そろそろ交替するか」
 轟がむくりと身体を起こした。
「まだいいよ、轟君。僕、眠れないから」
「どうした。緑谷」
「うん、ちょっとね」
 デクは小枝を火に焚べる。旅に出てすぐに、デクは兵士の飯田と魔法使いの麗日に出会い、魔物を退治するために旅に出たという王子の轟に出会った。3人は意気投合し、轟と目的を一にして共に旅を続けている。
 近くに宿が見つからず、今夜は夜営となった。獣や魔物が寄って来ないように、交替で火の番をしている。
「轟くん、君は何故旅を始めたの。王子様なんだよね」デクは聞いた。
「様はつけんなよ。俺は父親である王に反抗して出奔したんだ。父は横暴だが、不思議なことに民に慕われてもいる。王として認めざるを得ない。だから奴より強くなりてえんだ」
「すごい目標だね。轟くんならいい王になれそうだよ」
「遠い道のりだ。皇国で村を襲い、人々を苦しめているという魔物を退治すれば、何かが変わるかも知れないと思った。人助けのためとは言い切れねえ。邪念かも知れねえが」
「ううん、そんなことない。すごいよ。皆すごい。飯田くんは騎士である憧れの兄を目指して武者修行、麗日さんは魔女になるために見聞を広げる勉強中だって。皆旅をする理由があるんだね」
「お前はどうなんだ?」
 デクは焚き火を見つめる。焔が小さく弾けて火の粉が散る。
「僕は記憶の欠片を探してるんだ」
「記憶?何があったんだ」
 轟に問われ、デクは逡巡した末に答えた。
「昔、僕の乗ってた馬車が盗賊に襲われてね、その時負傷したショックで、記憶がちょっと欠けてるんだ。子供の頃の思い出とか疎らに忘れてるんだよ」
 最近、段々と記憶の欠けていた部分を取り戻してきた。冒険が脳に刺激を与えるのかも知れない。旅に出てよかったと思う。
「街道の盗賊は質が悪い。皆殺しにして金品を奪うのが常だ。よく無事でいられたな」
「盗賊が子供を追いかけていて、僕はその子供を庇って、抱いて崖から落ちたって、後で同じ馬車に乗ってた村の人から聞いたよ」
「そりゃ大怪我をしたんじゃねえか。よく生きてたな。」
「それがね、崖から落ちたはずなんだけど、起きたら一人で知らない小屋の中にいたんだよ。小屋というか、お屋敷みたいな大きさだったけど。手当てされてて、身体に傷はほとんどなかったんだ」
「そうか、助けられたんだな」
「それが、多分違うんだよ。そこは盗賊の住処だったと思うんだ」
「は?お前を襲った盗賊のか?」
「多分そうだと思う。なんか物騒な武器がいっぱいあったし、普通の人の住居じゃなかったんだ」
 衣服を脱がされて、陵辱されていたらしいことは黙っておくことにした。
 見知らぬベッドで目覚めて立ち上がったら、あらぬところが痛み、後孔から精液が溢れて、脚を伝って流れた。よく見たら身体にも鬱血した赤い跡があった。男なのになんで僕が、と信じられなかったけど、犯されたのが気絶してる間でよかったとも思った。もし意識がある時に組み敷かれてたらと思うと、ぞっとする。
「盗賊に攫われたってことか。しかし、おかしな話だな。盗賊がわざわざ傷を負った緑谷を、住処に連れてきたのか?おまけに傷の手当てまでしてくれてよ」
「確かに不思議なんだけどね。僕が起きた時は誰もいなかったし、姿を見てはいないから、本当に盗賊の家だったのかはわかんないんだけどね」
「その後、お前はどうしたんだ」
「小屋の中を探索して、助けた子供とか、他に捕まってる人がいないことを確認してから、急いで脱出したよ。盗賊が戻る前に出て行かなきゃと焦ってたんだ。小屋を出ると森の中だったんだけど、僕の村の近くだったから自力で帰れたんだよ」
「森の中でよく迷わなかったな」
「そういえばそうだね。必死だったからかな。まるで知ってる道みたいに、帰り道がわかったよ」
 後で一緒の馬車に乗ってた人から話を聞いた。通りがかった竜騎士が、その子を助けてくれたそうだ。目つきの鋭い竜騎士で威圧感があって、一瞬魔物なのかと思ったという。その竜騎士には子供を助けてくれてありがとうって、いつか会えたならお礼を言いたい。
 それに竜騎士といえば、思い出す人がいる。犯されたと知っても、そこまでショックではなかったのは、子供の頃の経験のせいだろうか。男同士でも触れ合えるのだと。
 竜騎士の少年とは友達だった。よく一緒に遊んだ。
 あれは森に遊びに行った時のことだ。竜騎士の少年とふたりきりで小屋で雨宿りをした。どういうきっかけだったのか。抱き合って、身体を温めるように触りあった。ふたりともどうかしてたのかも知れない。
 でもその竜騎士の少年の顔は、朧げでよく思い出せない。いまだ欠けている記憶のひとつだ。
 会えば思い出せるだろうか。会っても分からなかったら、悲しい。
 雨宿りの後の翌日のことは覚えている。帰り際に彼は明日も来いと言っていた。
 また会ったら続きをしようと言われるんだろうか。何事もなかったように接してくるだろうか。どうすればいいのかわからなくて迷った。
 戯れの延長。男女の交わりの真似事。でも、進んでしまったら戻れない予感がした。  暖炉の炎を映して揺らめく彼の赤い瞳。唇が触れるたびに焼かれるような。身体の奥に火が灯るような。
 悶々と眠れない夜を過ごした翌日の朝。前日から訪れていた、オールマイトが村を出たと聞いて、慌てて後を追った。山を1つ越えて2つ越えて、やっと追いついた。憧れの勇者の顔を見た途端に、力が抜けてぶっ倒れてしまった。
「そんな遠くの村から追って来たのかい」とオールマイトは驚き、呆れたようだったけれど、でもその根性は勇者の素質があると見初められた。
「勇者は自分を捨てて人々のために戦うのだ。それが出来る者は多くはない。君にはできるかい?」と子供の自分に対して、真剣に言ってくれた。思いがけず夢が叶う可能性に舞い上がった。竜騎士の彼のようになれるかも知れない。
 このことを彼に話したい、と思ってはたと考えた。いつも勇者への憧れを口にするたびに、彼は自分には無理だと言った。時に癇癪を起こすくらいに。彼の言は正しくて、自分はいつも萎縮していた。
 彼はきっと反対する。勘のいい彼のことだ。言わなくても、会えば勘付かれてしまうだろう。でも、勇者として一人前になれば認めてくれるんじゃないだろうか。
 今は会えない。まだ会わない。迷う心に言い訳して理由にした。それに、オールマイトは皇国の都への帰途を急いでいて、引き返す暇はないという。勇者になるチャンスは今しかないのだ。
 宿で母宛に手紙を書いて投函してから、そのままオールマイトについて行って都にとどまり、弟子になって修行した。森に住む彼には、いつか勇者となった暁に、会って話そうと思った。
 憧れの勇者との鍛錬に夢中になり、日々は矢のように過ぎた。考えるのを先延ばしにしているうちに、彼との約束は遠くなってしまった。
 きっと彼は約束なんてとっくに忘れてるだろう。今頃はすごい竜騎士になっているだろう。皇国の竜騎士となった彼と、いつか都で会うこともあるかも知れない。まだまだ駆け出し勇者の自分などでは、到底比較にならないだろうな。いつか彼が認めてくれるくらいになったら、会いたい。
 それとも、まだあの森にいるのだろうか。冒険の旅の何処かで、会うこともあるだろうか。子供の頃からの付き合いではあるけれど、彼は覚えていてくれるだろうか。元気にしているだろうか。
 彼の顔を思い出したい。彼の顔は朧にしか思い出せないけれども。太陽のような少年だったことだけは覚えている。
「静かに!声を出すなよ」
 轟は焚き火を踏み潰した。
 どうしたの?と目で問うと、轟は音を聞くように、耳を示した。
 獣の臭い。大勢の人々の重い足音。何か近づいてきてる。
 そっとふたりを起こせ、と轟が促し、麗日と飯田を揺り起こすと、繁みの陰に隠れる。麗日が「長い時間は持たへんけど」と皆に気配を隠す術をかけた。
 獣の臭いが近づいてきた。暗がりにようやく目が慣れて見えてきた。
 狼の頭部に筋肉隆々とした人の身体の魔獣。ワーウルフの群れだ。唸り声を上げ、列をなして麓に向かってゆく。
「下の村が危ねえ」轟は刀の柄に手をかけた。
「だが、数が多いぞ。僕たちだけで戦えるだろうか」飯田が言った。
「でも、ほっとけないよ。魔物への結界を張ってる村は多くないんだ」
 デクは思い出す。魔物に蹂躙された村は酷い有様だった。無造作に転がる屍、負傷した人々、泣いている子供。家屋は壊され、血の臭いと静けさに包まれる。戦の後のような惨状。そんな地獄が一晩で起こるのだ。
 デクの言葉に轟は頷いた。
「麗日の魔法の効果で、暫く奴らは俺達の気配に気づかねえだろう。俺達の人数にも。魔法が効いているうちに、不意を打つしかねえな」
「うん、やろう」デクは首肯した。
「無理をしては駄目だぞ。今は脅かして奴らを追い払えればいい。その後で麓の村に警戒するよう伝えよう」飯田が言った。
 4人は目配せをすると、それぞれの武器を手にして、一斉にワーウルフの群れに突っ込んでいった。
 デクはワーウルフに対峙すると、剣を振るった。刃がワーウルフの身体にめり込む。相手の動きより自分の方が早い。剣の訓練の賜物だ。刃を抜いた傷口から血が吹き出しワーウルフは地面に転がって叫んだ。
 重たい肉を斬る感触。初めて生きた身体を斬った。
 だが狼狽える暇はない。皆も戦っているのだ。デクはしっかりしろ、僕、と気を取り直して剣を構え直す。
 ふわり、と黒い小さな人型が目の前を横切った。
 どこから来たのか、ひらひらと舞う。蝶なのか。
 黒い蝶のようなものは、何匹も揺蕩うように舞っている。剣に触れるとそれはボロリと崩れた。蝶じゃないのか。なんだろう。
 でも、構ってはいられない。デクは次のワーウルフに刃を向ける。
「群れはあの山から降りてきてるようだ」
 轟が言った。黒々と聳える山は、村で聞いた、火の山という名前の山だ。


 竜に乗って空を飛んで彷徨って、いくつも山を越え谷を越えた。
 幾日日々が過ぎたことだろう。
 勝己は村に降りては、デクらしき人相の旅人の情報を探し、尋ねて回った。だが人1人などそう簡単に探し出せるわけがない。しかもそばかす顔で童顔という以外に、デクに大して特徴がないのもある。別の方法を考えなきゃいけない。
「皇国から来た、オールマイトの弟子って言ってる奴のことを、聞いたことねえか」
 デクは皇国の都でオールマイトに師事していたのだ。吹聴しているかわからないが。ともかく特徴に加えて尋ねて回った。すると、確かではないが、ちらっとそう言っていた旅人を見たという者がいた。
 立ち寄った村々で冒険者達に声をかけてる若い一団がおり、その中に皇国から来た剣士がいたらしい。仲間にオールマイトの弟子と言われていたが、地味な人相の奴で、吹いているんじゃないかと思ったという。
 目立たない奴だから確実とはいえないが、数少ない手がかりだ。奴らが冒険者を勧誘しているのは、ここ数年、この辺り一帯を襲撃している魔物を退治するために、仲間を集めるためらしい。
 勝己は竜に乗って山に飛び、木々の開けた場所に降り立つと、竜から降りて辺りを見渡した。
 元は火の山とか呼ばれてる山だが、魔物が巣食ってからは、魔の山とも呼ばれているという。麓の村を荒らす魔物が出現するのはこの山だと聞いた。
 だが妙だな。と勝己は疑問に思う。
 魔物の気配が全くしない。目を閉じて気配を感じようと感覚を研ぎ澄ます。妖気はない。だが、微かな魔の淀みが山頂から感じられた。
 竜に飛び乗って、上空から火口を見下ろして理解した。空間に歪みがあるのだ。
 火口付近に降りて目を凝らした。手を伸ばして空間に触ってみると、火口が水面のように波打ち、波紋が浮かんで消えた。火口の上に一枚透明な皮膜が被さっているようだ。
 魔の気配が強まってきた。見ているうちに、皮膜が薄くピリピリと避けていく。
 中に闇が見えた。真黒な闇はゆるっと寝返りするように蠢めいた。勝己は身構えた。何かが出て来る。
 裂け目から這い出したのは、掌大の黒い人型だった。これが魔物なのか。拍子抜けした。小さな魔物はふらふらと形を成して崩れながら歩む。
 そういうことか。山に魔物は棲んでいないが、時折火口が魔物の住処と繋がるのだ。
 魔の山とも呼ばれているようだが、魔物はこの山に棲んでるわけではなく、来訪者なのだ。
 勝己は出てきたばかりの黒い魔物を摘んで「お家に帰れや」と皮膜の裂け目に押しこんだ。しかし、人型は後から後から這い出してきて、蝶のようにひらひらと舞った。
 暫くして裂け目が縫い合わせられたように消えた。黒い蝶共は全てボロリと崩れて霧散する。
 ほっと息をつく。空間が繋がる時は危険だが、空間が閉じれば消える。魔物がいない時はただの山だ。
 もっとも、真に凶悪な魔物が棲んでいるのなら、デク如き駆け出しの勇者なんかの手には負えない。ベテランの勇者や竜騎士や魔法使いの出番となるだろう。彼らが来ないのなら、今は脅威ではないということだ。まだ見つけられてないだけかも知れないが。
 空間のほころびは閉じられないが、大して大きくはない。力のある魔法使いならば、歪みに結界を張ることはできるだろう。
 だがそんなことは俺の仕事ではない。
 デクを待ち伏せるのだ。今どこをふらついてやがるのかはわからないが、そのうちあいつは必ずこの魔の山に来るはずだ。
 山の中腹に降り立つと、勝己は小箱を地面に置き、術をかける。小箱は膨らみ、元の小屋の大きさに戻った。
 森の中なら気にならなかったが、どうも小せえな。
 小屋を岸壁に沿って膨らまし、貴族の館のような装飾を加えてみる。中庭や門を付け加える。我ながらいい趣味だ。ここにアジトを構えておけば、デクが通り掛かればわかるはずだ。
 もっとも待つだけなんて焦れったくてできねえ。勝己は人形を取り出して息を吹きかける。人形はむくむくと大人の背丈ほどに大きくなった。
 呪文を刻んだ簡易魔道具の即席ゴーレムだ。見張りに置いておけばいいだろう。
 背後に聳える山頂に裂け目が出来ると、そこから這い出てきた魔物がこの山をうろつくだろう。だが、小物の魔物は結界を張ったこの屋敷の辺りには入れないはずだ。
 魔の山待ち伏せながら、デク達勇者一行の足取りを追う。両方から攻めていけば効率よく探せるはずだ。


「いよいよ魔物退治に行くときがきたな」
 鼻息を荒くして飯田が言った。
「ああ、皆が集まったら、魔の山に出発しよう」と轟も調子を合わせる。
「仲間を集めよう」と言ったのは飯田だった。
 ワーウルフの群れは辛くも追い払うことが出来たが、不意を打ったからなし得たに過ぎない。体力的にもギリギリだった。駆け出しの自分たち4人だけでは、とても魔物の群れに叶うはずがない。
 魔物は群れで村を襲うという。退治するには、数にはまず数。魔物を根絶やしにするためにはもっと大勢の仲間が必要だ。
 村々を周り、冒険者たちに呼びかけ、20人弱の仲間を集めることができた。
 今日は決行の日だ。あらかじめ決めていた時刻になり、全員が合流した。冒険者達は勇んで魔の山と呼ばれる山に足を踏み入れた。
 山の五合目辺りに近づくにつれ、空はどんよりと曇り、嵐の前のような暗さになってゆく。
 どこからか、魔物達の息遣いが聞こえる。
「油断するなよ。敵の巣窟に入ったんだ」
 轟は辺りを見渡し、声を潜める。
「うん、わかってる」
 デクは剣の柄に手をかけて歩く。何処からか、ひらひらといつか見た黒い蝶が飛んできてデクの周りを舞う。害はなさげだけど、鬱陶しい。はらりと木の葉が眼前に落ちてきた。歩みを進めると、また木の葉が落ちてくる。頭上を見上げてひゅっと声を呑んだ。赤い動物の目がいくつも枝葉の間から覗いている。
「上だ!」デクが叫ぶのと、ゴブリンたちが降ってくるのは同時だった。
 小物だが、数が多い。斬りつけると青味がかった血を吹き出す。ゴブリン達に追われつつ戦いながら、山道を駆け抜けた。
「山に住む魔物はワーウルフじゃなかったのか。同じ場所に違う魔物が群生することはあまりないんだが」轟は言う。
「確かにおかしいね。村によって襲ってきた魔物が違ってたみたいだし」デクは息を切らしながら答える。
「まだ他にも見知らぬ魔物が出てくるかも知れない。油断するなよ」
「ていうかよ、きりがねえぜ」「全滅させんのか、巣を探して叩くのか、どっちにすんだよ」冒険者達はデクに問うた。轟と飯田もデクに顔を向ける。
「巣を探すんだ」デクは答える。「多分だけど、これだけ統率された群れなんだ。巣ではないにしても、何か起点があると思う」
「了解!戦うより切り抜けるってこったな」
 追ってくるゴブリンと戦いながら、なんとか振り切り、山の中腹まで辿り着いた。森が途切れ、聳り立つ岸壁が剥き出しになった岩場になった。
「此処じゃねえか」轟が言った。
 山の中には似合わない館が崖に沿うように建っている。いかにも魔王の館らしい雰囲気で、豪奢で禍々しい。
 だが、何故だろう。デクは首を傾げた。見たことのない屋敷なのに、どこか、見覚えがある。本当に魔物の住処なのだろうか。あんなにいた魔物が、屋敷の周りにいないのも気になる。
「まず俺たちだけで入ってみよう、緑谷君、轟君」と飯田が言った。
「ああ。もし罠だったら、全員でいくのはまずいからな」轟が答える。
「うちも行くよ。皆は隠れててね。危険だったら、うちがこの子を飛ばして皆に知らせるよ」
 麗日は杖を振った。杖の先から小鳥が飛び出てきて、麗日の帽子に止まった。
 先遣隊のデク、飯田、麗日、轟4人は屋敷の門をくぐった。アプローチを進むと、中庭の隅からゴーレムが歩いてきた。4人は身構えたが、ゴーレムは攻撃はしてこない。4人の後をのそりとついてくるだけのようだ。
 待っていたと語りかけるように、ザワザワと森が騒めいた。


第五章


「は、は!やっと来やがったのかよ。デク」
 勝己は方々を巡って、アジトに戻ってきた。使役する使い魔から報告を受けたのは、その翌日の午後だった。
 ゴーレムの目を通した鏡で確認すると、遠目に4人の旅人が門を開けて入ってきたのが映った。中の1人は待ち望んだ来客だ。
 デク。やっと来やがったな。読み通りだ。
 旅人達が玄関に近づいてくると、勝己は使い魔に命じて、扉を開けさせた。自動で開く扉に彼らは戸惑ったようだが、4人とも屋敷に入ってきた。
 奴らがてめえの仲間かよ。クソデク。しれっと平気な顔でよく俺の前に来られたものだ。怒りで頭が熱くなる。
 4人が広間に入って来たところで、指をパチンと鳴らす。途端に館が消えた。館の中にいたはずが、いきなり館が消えて外に出ていることに、奴らは戸惑っているようだ。縮めた屋敷を拾い、箱の中に戻して蓋を閉める。
 館の中より外のほうが暴れやすいからな。
 勝己に気づいて、デクがこっちを向いた。
「君は……」
 デクの声に、他の奴らもこちらを向いた。デク、驚いたろうが。俺がここにいるなんて思いもしなかったよな。
「てめえ、なんか用かよ、ああ?」
 そう嘯いて、口笛を吹いて竜を呼んだ。
 竜は舞い降りて、デクを認めて吼える。気づいたかお前も。待ち望んだ瞬間だ。勝己は竜の頭上に飛び乗り、ニヤリと笑ってデクを見下ろす。
 デクは勝己を見上げて、口を開こうとした。
「この山に住んでるのはお前か」デクが答える前に、轟が言った。
「あ?それがどうした」
 うるせえ、なんでてめえが聞くんだと勝己は鼻を鳴らす。
「麓の村が迷惑をしている。魔物を放つのをやめてくれないか」と飯田がその後を続ける。
「なんの話かわからねえな」
 こいつら、俺が魔王で、ここが魔物の住処とやらだと勘違いしてんのか。失礼な奴らだ、クソが。魔物の根城なんざねえ。魔物の出てくる火口は山頂だ。だが、今は関係ねえ。こいつらが、デクが来るのをずっと待っていたんだ。
「口で言ってもわからないなら腕付くでということになるが」と轟が睨む。
「おもしれえ、やってみろよ」
「待って!ねえ、君はほんとに魔物なの?」
 思案顔をしていたデクがやっと口を開いた。「人間にしかみえないんだけど」
 何言ってんだこいつ。
「俺だ!デクてめえ……」
 この俺に、ほかに言うことはねえのかよ、と勝己が言う前に「騙されたらあかん!魔物は人間に化けるんよ」と麗日に遮られた。
「そうだ。人間に化けて騙すのが奴らの手口だ」
 とデクの隣にいた飯田が一歩踏み出す。
「でも彼は人間みたいだよ。ねえ、君が本当に麓の村を魔物に襲わせてたの?」
「ああ?だから何の話だっつってんだろ。俺は魔物じゃねえ!竜騎士だ」
 何か変だ。一拍置いて、勝己はおもむろに口を開いた。
「まさかとは思うが。てめえはこの俺を忘れたのか?」
「えっ?誰が?」と、デクは仲間を見回した。
 間抜け過ぎて腹が立つ。後遺症はほんの少しだと聞いたぜ。違うじゃねえか。よりによって俺のことを忘れたんかよ。ざけんなよ。はらわたが煮えくりかえる。
「てめえだクソが。おいデク!てめえは俺と何度も会ったことがあるはずだ。俺はすぐにわかったぜ」
「お前、やつの友達だったのか」
 驚いた顔で轟がデクに尋ねたが、デクは首を横に振った。
「君が僕の?嘘。覚えてないよ。竜騎士の友達なんて、いたら忘れないよ」
「子供の頃だ!くそが!」
 勝己は竜から飛び降りて、「ああ?てめえ、よく俺の面あ見ろや」とデクの胸倉を掴んで怒鳴る。
「おい、お前」と駆け寄ろうとする轟に、竜が立ちはだかり吠える。
「え、待って、竜騎士だよね。子供の頃、村の近くの森の中に竜がいるって聞いてたよ。でも竜騎士の竜だから安全だって、そう言ってた竜騎士の友達がいて、よく遊んだ記憶があるけど、竜は初めはちっちゃくて……」
 デクは記憶の底を辿るような表情になり、ハッとして、勝己に視線を合わせる。
 やっと気づいたのかよ
竜騎士の子供って君だったのか?ええ!すごくイメージが違うんだけど」
「ああ?んだとゴラア!誰のせいだと思ってやがる」
「太陽みたいだったのに。結びつかなかった」
「よく言うよな!てめえ。ああ、俺だ。てめえを竜に乗せてやったりしたのによ。いきなりてめえは来なくなったんだ」
「それは、勇者のところで修行を始めたから、ほとんど村にいなかったし。たまに村に帰った時も森に行かなくなったんだ。時間が経ってしまうと、会う理由が見つからなくて」
「てめえは大人になってから、一度だけ森に来たはずだ」
「ええ?行った覚えはないよ」
 ああ、くそ!覚えてないのだ。こいつは何も。眠ってやがったから、抱かれたことも知らないのだ。こっちはずっと囚われたままだと言うのに。
「何もかも忘れちまったのか。てめえはそういう奴だよな。クソが」
「でもでも、この災厄の原因は君なのか?何で悪い魔物みたいなことをするんだよ」
「魔物が本当のことを言うはずがねえぞ。お前の知り合いのふりをしてんじゃねえのか」轟が口を挟む。
「ごちゃごちゃ言ってんじゃねえ!」
 勝己はデクの胸を強く押して突きとばした。デクはよろめいて尻餅をつく。
「こんなとこでてめえと会うとはな!やんのか?やんねえのか?ああ?かかってこいやデク!」
 デクは勝己を見上げた。いや、視線は自分に向けられてはいない。デクは勝己の肩越しに背後を見ている。
 背後に巨大な何かの気配。ぞわりと総毛立った。何かがいる。
 勝己は振り向いた。
「魔物だ!」というデクの声。
 巨人が立っていた。森の樹木より高く聳え立つ巨漢。あんなでかいが出て来れるほど、結界は大きくなかったはずだ。地響きがした。まだ遠いが近づいてきている。
「火口の穴が広がったのか」
「え?なんか知ってるの?ええと」
 勝己の呟きが聞こえたのか、デクは問うた。「君は、あ、君の名前は?」
「俺の名前まで忘れてんのかよ。聞くな、クソが。思い出せやカス!クソカス!」
 腹が立って、勝己は罵倒した。
「ごめん、何か知ってるなら、教えて欲しいんだ」
 ムカついたが、今はデクの頭は魔物退治でいっぱいだ。他のことは考えられないだろう。仕方なく答えてやる。
「てめえらの言う魔物は、火口にある空間の歪みから来訪してんだ。森の中に魔物が潜んでるわけじゃねえ」
「それで、予想外の種類の魔物が湧いてきたんだね」
「なんでお前が知ってるんだ」
 轟が口を開いた。素直にデクは信じたようだが、轟は疑っているようだ。
「クソが!空から見たらわかんだよ」
「火口の入り口を閉じれば、魔物は出て来ないということなのか?」飯田が聞いた。「なら火口に行かなきゃならないが、閉じられるだろうか」
「お前の言うことが本当ならな」
 轟の言い草にムカついて、言い返そうとした瞬間、魔物の群れが巨人の後から沸いて来た。ワーウルフにゴブリン、リザードントロールガーゴイル、他にも名前も知らない魔物達の群れが大挙して突進してくる。
「もういいよな!いくぜ!」
 誰かの声が聞こえた。
 デク達が勧誘した勇者や魔法使い達か。奴らは一斉に飛び出して魔物の方に押し寄せた。
 勇者や魔物が入り乱れての乱闘が始まった。
「君との話は後でいい?今は僕戦わなきゃいけないんだ」
「ああくそ!知るかよ!邪魔が入ったぜ。片付けたらてめえ、話があるから俺と来いや」
「う、うん、わかった」
 デクは腰に下げた剣をすらりと抜いた。勇者気取りでムカつく。しかし、デクとまた約束をしたのだ。今度こそ守らせてやる。
 勝己はデクの傍に立ち、剣を構えて魔物と向き合う。
「君も戦ってくれるの?ありがとう」
「うぜえわ!クソが!黙ってろ!」
 勝己は苦々しく怒鳴る。
 デクの立ち回りは認めざるを得ないくらい見事なものだった。オールマイトに師事しただけはある。
 乱戦の中、デクと背中合わせになった時に、勝己は言った。
「俺は魔の山、いや、魔物の棲む異界と繋がった、この山に来たのは最近だ。住んでやしねえ」
 勝己は右手で魔物を切り裂き、左手からは火球を飛ばして敵を爆破した。デクは魔物の手足を狙って切り伏せているようだ。戦闘力さえ奪えばいいと考えているのか。甘えんだよ、クソが。
「魔物の山と知ってて?なんで君はわざわざこんな危険な場所に来たんだ」
「てめえらがいつか来ると踏んでたからだ」
「手伝ってくれるために?」
「クソが!ちげえよ!てめえは馬車に乗ってた時、崖から落ちたことがあったろうが」
「え?なんで知ってるの?」
 デクは勝己を目を丸くして、勝己を振り向く。
「もしかして、あの時、助けてくれた竜騎士って君だったんだね。子供を助けてくれたんだよね」
「子供を助けたのはてめえだ。俺じゃねえ。俺はてめえを…そうだ。てめえは俺に借りがあるんだ。借りを返せ!そのためにてめえを待ってたんだ」
 デクとの間に魔物が割って入った。「クソが!邪魔だ」と勝己は左手を向けて、容赦なく魔物を爆破すると、振り向いて問うた。
「どうなんだ、デク!」
「今のうちに君に話したいんだ」デクは言った。
「あんだ?」
「僕は君のことは覚えてるよ。でも今の君と繋がらないんだ。君とどんな時を過ごしたかも、あまり覚えてないんだ。怪我のせいでもあるけど。日々の鍛錬の中で、自分のことで手いっぱいだったし。子供の頃の記憶は薄れていくものだから」
「んだと、てめえ」
「でも覚えてることもあるよ。楽しかったこともあったけど、嫌なことも、あったよね」
「ああ?こんな時にまだ怒らせてえのか。てめえは!」
「でも、きっと。僕は君にもう一度出会うために、旅に出たんだ」
 勝己に向けるデクの視線に嘘はない。記憶の中の空白にいる、かつての己を探していたというのは真実だろう。
 まっすぐな迷いのない瞳で、俺を見つめるデク。
 だが、記憶の欠けた今のてめえが俺に抱く感情はなんだ。まっとうな幼馴染の情でしかないんじゃないのか。
 あの訓練所での雨宿りで、身体を重ねて触れ合った。あの瞬間をあの気持ちを、デクが覚えてないのなら。
 この気持ちは何処に行けばよいのだろう。
 求めて探して、やっと見つけたデク。勇者然として戦うデク。俺を知らないデク。
 てめえは俺との約束よりもオールマイトを追うことを選んだ。
 そんなに勇者になりたかったのか。俺の側にいるよりも。
 取り返しがつかないとわかっていたとしても、お前はそうしたのか?
 不安と焦燥に、すうっと心臓が冷えていく。
 デクが魔物に押されてバランスを崩した。勝己は魔物に手を当てて爆破で吹っ飛ばし「馬鹿かてめえは!」と苛立ち紛れに怒鳴りつける。
「ご、ごめん。竜騎士って凄いね。魔法も使えるんだ」
「うぜえわ!魔法じゃねえ。竜の力だ、ああもう!黙れ、クソカス!」
 こいつが覚えてんのかどうか、確認すんのは後だ。今は考えんな。
 背中を預けた方が、戦いやすい。デクと掛け合いをしながら、魔物達を倒してゆく。
 地響きが大きくなった。勝己の爆破で立ち込めた煙の向こうに、巨人の姿が聳え立つ。
 いつからいたのか、小山のような巨体がもう間近に迫っていた。あんなでかい魔物が出てこれるくらいに、裂け目が広がったのだ。甘く見ていたが、さっさと結界を張った方がよかったのか。背中を冷や汗が伝う。
「奴を倒さないとまずいぞ。余力のある奴はいるか!」飯田が声を張り上げた。
「わりい、こっちは魔物で手いっぱいだ」「すまねえ、こっちも無理だ」仲間たちが口々に答える。
「君は行ける?」デクが勝己を振り見て問うた。
「誰に向かって言ってんだ、てめえ。余裕だわ」
「じゃあ、行こう!」
「クソが。デクのくせに生意気なんだクソが」
「僕のくせにって」とデクは戸惑う。「僕は僕でその」
「ああくそ!行くぞ」調子が狂う。やりにくくて仕方がない。
 勝己とデクは巨人の足元に走り寄り、剣を構えた。デクの剣をよく見ると、駆け出しの勇者にしては身の丈に合わねえ立派な剣だ。薄っすらと発光している。ただの剣じゃねえんだろう。
「行くぜ。俺が足止めしたらてめえが斬れよ。一回じゃねえ、何度も斬れ!手足だけ切るとか、舐めてんなよ」
「わかってる」
「爆破して、肉を削いで骨を斬る、数打ちゃなんとかなんだろ」
 巨人が勇者達をなぎ払おうと両手を挙げた。その隙に勝己は巨人の足元の地面を爆破する。
 倒れはしないものの、巨人はぐらりと態勢を崩した。
「行けや!クソが」
「うん!」
 デクはジャンプして巨人に斬りかかった。剣が眩い閃光を放つ。デクは剣を振りかぶり、巨人の天頂から剣を打ち下ろした。一回振り下ろすだけで、巨人は頭から足までざっくりと裂けた。巨体は真っ二つに分かれて、ぐらりと左右に倒れていく。断面から青い血がどくどくと吹き出して、血溜まりを作ってゆく。
 デクはすっ転んで尻もちをついた。起き上がろうとしても腕が震え、立てないらしい。腕が痙攣しているようだ。
 まるで剣に振り回されているようだ。見た目通り、デクには見に余る武器なんだろう。
 痙攣が治ったのか、デクは立ちあがり、ぎこちなく勝己に笑いかけた。勝己は苦々しく睨みつける。
 魔物はほぼ退治した。生き残った僅かな魔物は逃げて行ったが、数匹程度だから脅威にはならないだろう。冒険者達は歓声をあげ、地面に座り込んで笑い合う。
「やった、やっつけたね。これで麓の村の人達に安心してもらえるね」
「麓の奴らなんざ知るかよ」
 素直に喜んでいるデクに、ふうっと勝己は息をつく。
「待って」とデクははっとして勝己に言う。「君は言ってたよね、魔物は火口の空間の歪みから出てきたって。じゃあ、それを塞がないといけないんだよね」
「はっは!でめえ、俺の言ったこと信じてんのかよ」勝己は皮肉な口調で返す。
「信じるっていうか、だって、ほんとでしょ?君が嘘を言う理由がないから」
「俺のなにがわかるってんだ?ああ?俺の名前も知らねえんだろーがよ!」
「ごめん。でも、あるんでしょ?その裂け目に行かなきゃ」
 勝己は舌打ちして、竜を呼んだ。舞い降りて来た竜の背に跨って「乗れよ」とデクに手を差し出す。デクはすかさず手を握って勝己の後ろに乗り、勝己の腰に腕を回した。
「ありがとう」
「てめえには話があるからな。火口の様子を見てえんだろ」
「うん」とデクは答えて「先に行ってるね」と仲間に言った。
「ああ、そいつを信じたわけじゃねえが、頼む」と轟はデクに向かって言った。
 あの半分野郎、いちいちムカつく言い方する奴だ。いけすかねえ。
「動ける奴だけでいいから、山頂に向かうぞ」
 飯田は疲労困憊して脱力している仲間たちに呼びかけた。のろのろとした動きながら、全員が立ち上がる。
 上空から勝己とデクは火口を見下ろした。空間の裂け目は火口よりも大きく広がっている。内部は噴火しているかのように真っ赤だ。地の底から響くような魔獣の声がする。
「何かが出てくるよ」デクは言った。
 見ているうちに、裂け目から黒い小さな人型が、ぞろぞろと這い出してきた。
「こいつら。前にも見たやつらだ」
「黒い蝶だ。僕も見たよ。裂け目から来たんだね。
「んだと?てめえも見たのか。こいつら、なんなんだ」
 人型はぬるぬると合体すると、長虫のように撓った。さらに別の場所でも合体して地面をずるずると這う。裂け目から延びた触手のようだ。いや、触手なんだ。でかいものが触手を伸ばして登って来ようとしてるんだ。
「来させちゃいけねえものがいるようだな。だが、ちょっと遅かったようだぜ」
 裂け目を広げて、巨大な黒い塊がせり上がってきた。火口に蓋をするドームのようだ。体表に文字のような赤い模様がうねって流動している。
 触手は集まってくねり、竜に向かって鞭のように飛んできた。すんでのところで避けたが、触手は勝己の頭のすぐ側を掠めた。鋭い風圧。まともに当たっていれば頭が吹っ飛んでたろう。肝が冷えた。
「うわ!大丈夫?」
「クソが。俺の心配すんじゃねえ!」
「どうしよう。出てきちゃうよ」
「奴の真上を飛ぶからよ。てめえはあれの上に飛び降りろ」
「え?本気で言ってる?裂け目に落ちちゃうよ」
「馬鹿かてめえは。落ちねえわ。奴の身体で裂け目はぱんぱんに塞がってんだろうが!奴にてめえの剣をぶっ刺せよ。クソが!その剣は相当強力なんだろうが。傷をひとつ作れればいい。てめえがやったら俺が傷口を大火力で爆破する。倒せねえだろうけど、怯んで引っこむかも知れねえ。その隙に結界を張ればいい。いいか、同時にやるぞ」
「うん、わかった!」
 触手を避けて裂け目に迫り、竜が真上を飛んだところでデクは魔物の上に飛び降りた。すぐさま剣を抜いて火口の魔物に切りかかる。デクの振り上げた剣は魔物にめり込み、体表面を切り開いた。
 火口を下に向かって這っていた触手が一斉に引き返し、デクに向かった。
「うわ!」とデクは触手を剣で弾き飛ばしたが、息つく間もなく次の触手が襲ってくる。デクは触手と鍔迫り合いを始めた。
「ああクソ!邪魔だ!さっさと火口からどけやデク!」
 苛々して勝己は怒鳴った。
「わかってる、けど、待って」
「じれってえな。てめえがそこにいると爆破できねえだろうが」
 触手がバラバラに散り人型に戻り、さらに矢尻のように変形してデクを襲撃する。剣で弾かれても飛び回り、デクを取り囲む。
 剣では避けきれねえ。
「クソが、おい、突っ込め」
 勝己に命じられ、竜は火口に向かって滑空した。勝己は火口に飛び降り、「どけ!」とデクを突き飛ばすと、火球を飛ばし、矢尻を次々と薙ぎ払った。矢尻は火球に呑み込まれ、連鎖的に爆破してゆく。
「ありがとう、すごいね、君は」
「てめえがぐずぐずしてっからだ!クソが!」
 勝己は魔物の傷口に手を押し当てた。ぶるぶると脈打つ、気味の悪い生温かい肉の手触り。
「はっ、くたばれや!クソがあ」と最大火力で爆破する。
 魔物の内部が赤々と燃える、体表で渦を巻いていた模様の流動が止まる。続いて表皮にひび割れが走り、内部から膨れ上がると柘榴のように裂けた。
「やったか」
 魔物はぶくりと跳ねると、ズルズルの裂け目の闇に吸い込まれてゆく。人型は中空で燃え尽きるように崩れ、触手とばたりと落下して霧散した。闇が縫われるように、空間の裂け目が綴じてゆくと、その下に本来の山の火口が現れた。
 熱気が上がってくる。
「え?噴火、する?」
「やべえ。離れっぞ、デク」
 2人は慌てて火口から駆け下りた。背後で大爆発が起こった。風圧で辺りに石が飛び散る。火口からもうもうと黒煙が立ち上る。
「うわあ!」と悲鳴が聞こえた。
 振り返って見ると、爆風で飛び散る岩に当たって、デクが飛ばされていた。
「おい、バカが!踏ん張れや。クソが!」
 幸い吹っ飛ばされたデクは竜が空中でキャッチした。ほっとする。勝己も竜の頭部にジャンプして飛び乗った。
 火口を振り返る。蒸気の煙はもくもくと出ているが、幸い溶岩は出てきてはいない。
 煙を避けて火口から距離をとる。勇者たちが山を登ってくるのが見えた。「その辺に降ろせ」と竜に命じた。竜はそっと脚に掴んでいたデクを地面に降ろした。
「おい、起きろや」と頬を叩くと、デクは目を開けて咳き込んだ。
「煙を吸い込んだんかよ」
「ちょっとだけ。空間の裂け目は閉じたのかな」
「んなこたあ、わかるかよ。クソが」
 暫くすると、暗黒の雲が晴れて、雲間から光が差してきた。魔物の気配も消えた。
「どうやら無事に裂け目は閉じたらしいな」
 真っ先に追いついてきた轟が言った。飯田、麗日もその後に追いついてきた。
「結界を張れるか?麗日くん」飯田が聞いた。
「魔物が出てこない間なら、いけるよ」
「またいつ口が開くかわからない。急いでやってくれ」
 他の冒険者達も山頂にぞろぞろと集まってきた。
「結界を張るよ、皆。他にもできる人いる?いたら火口に集まって」
 麗日が呼びかけ、数人の魔法使い達が火口周りに集まった。輪になると呪文を唱える。
「ここ火山だったのかよ。噴火したろ。下まで石が飛んで来たぜ」
「巨人の魔物の死体が消えたぜ。逃げた奴らも消えたんじゃねえか」
「やったな!ああ、俺らやるよな。もう立派な勇者だよな」
 彼らは口々に喜び合う。デクもぼろぼろになった剣を鞘に納めて笑っている。
「刃こぼれしたな。ゴミだろーが。捨ててけよ」
 勝己が言うと、デクは剣の紋章を隠すように柄を握る。
「ううん、捨てられないよ、この剣は。ええと、もったいないから」
オールマイトからもらったんだろ」
「ええ?なんで」
「は!図星かよ」
「君にはわかっちゃったか。そうだよ。オールマイトに貰ったんだ。また打ち直してもらうよ」
「ふん、どおりで、てめえには荷が勝ちすぎた代物だと思ったぜ」
 どういう経緯なのかはわからないが、オールマイトが自分の剣をやるくらいだ。デクに見込みがあると思ったんだろう。デクは大切そうに剣の柄を撫でている。
「秘密なんだ。誰にも言わないでね」
「あ?言わねえよ。興味もねえ。んじゃま、デク、もういいな」勝己はデクの腕を掴んだ。「てめえは連れてくぜ」
「今?え?今?待ってよ、まだ皆に」
 勝己はデクの腰を横抱きに抱えると、竜の背に飛び乗った。デクを前に座らせて腰を抱く。
「彼をどうする気だ」飯田が聞いた。
「こいつに話があんだよ」
 火口に向かった時に、勝己の腰に回された腕の温もり。このまま手放すことなんて出来やしない。デクが何を忘れていて何を覚えているのか、はっきりさせなくては気が済まない。
「どうせこいつの村は、俺の森の近くだしな。家に送ってやるわ。オラデク、ちゃんと竜の首に捕まれや」
「ちゃんと送るんだろうな」と轟が訝しげに言う。「いいのか、緑谷」
「う、うん。彼と約束したんだ。ずっと昔に。それに、久しぶりに母さんにも会いたいし」
「というわけだ。じゃあな」
 勝己とデクを乗せて、竜は空高く上昇する。
「すごいね。皆がもうあんなに小さくなっちゃった」
「てめえは乗ったとこあんだろーが。覚えてねえのか」
「うん、竜に乗ったなんて、素敵なことだね。思い出したいな。ところで、ねえ、君の名前…」
「デクてめえ、ずっと前の約束は覚えてんだな」
 デクの言葉を遮り、勝己は問うた。
「あ、うん、子供の時の約束」
「ふうん、そうかよ」
「ねえ、君の名前教えて」
「クソが!教えねえよ。てめえで思い出せや」
 勝己は不機嫌な声で返し、デクを抱く腕に力を籠める。


第六章


 竜はデクの家の前に舞い降りた。
「ここだろ」と勝己が言うと、デクは「僕の家知ってたの?うん、そうだよ」と頷いて窓を指さした。
「ここが僕の部屋だよ。二階の高さと同じなんて。屋根を渡って直接入れそうだね」と言いつつ、竜の背中を滑り降りる。
「本当に送ってくれたんだね。ありがとう」
「うぜえわ、クソが」
「話があるんだよね。うちに寄ってく?」
「いらねえよ」と言ってからボソリと「話の続きは夜だ」と付け加えて勝己は竜に命じて飛び立った。
 家に戻る前に、勝己は演習場を訪れた。相澤先生に魔の山の出来事を伝えるためだ。
 先生は皇国のどこかに結界の綻びがあることは、気づいていたらしい。
「現れては消える裂け目か。なかなか見つからないわけだ。お前よくやったな」
「俺だけじゃねえ。俺くらいの年齢の奴らも20人ばかり来てて、一緒にやった。名前も知らねえけどよ」
 自分だけの手柄じゃないのに褒められるのは癪に触る。本当に俺だけの手柄ならともかく。
「そうだな、きっとその冒険者達も英雄になるだろう。これからお前とも縁があるだろうな」
「そいつはごめんだな」
「都から結界師を送ることにしよう。完全なる封印を施したほうがいいだろう。異界の魔物か。オールマイトが気にしていたな。どんな奴だった」
「でけえ触手の化けもんだ。ばらけて黒い蝶みたいなもんにもなった。身体の表面に文字みてえな模様があって、グルグル流動してたぜ。デクはワーウルフの群を先導するように飛ぶ黒い蝶を見たらしい。奴らを操ってたのかも知んねえ」
「デク?オールマイトの弟子に、そういう名前の子供がいたな」
「今の話に関係ねえだろーが」
「おそらくその黒い蝶は魔物の使い魔だな。触手の魔物もそうだろう。魔物は体表に呪文を刻まれて、誰かに操られてたんだろう」
「呪文使いがいるのか。魔法使いとか竜騎士なのかよ」
「わからんが、闇落ちしたそういうやつらの可能性はあるな。操っていた親玉は隠れていて、姿を現していないんだろうな。今回は異界の入り口が閉じれば、顕現できなくなる魔物だったのが、不幸中の幸いか。またこちらに来る機会を狙ってるかも知れんな。面倒なことだ。皇国の竜騎士にお前みたいな経験者がいると、ありがたいんだが」
「興味ねえよ。じゃ、報告はしたぜ」
 踵を返した勝己を相澤先生は呼び止める。
「待て。お前の言うデクって奴がオールマイトの弟子なら、皇国の勇者に仮登録されてるぞ」
「ああ?あいつが?」
「間違いないな。どうだ、お前も皇国の竜騎士になるか?考えておけよ」
「クソが!考えるまでもねえ」
 相澤先生の思う壺かと思うと、ちょっと癪に触るが、デクに遅れを取れるかよ

 
 深夜。勝己はデクの家を訪れた。
 竜の頭からデクの家の屋根に飛び移ると、コンコンとデクの部屋の窓を叩く。
「どうしたの?こんな夜中に」と寝ぼけながら窓から出久が顔を出した。
 窓枠に足をかけて「来いよ」と呼ぶ。デクは「ええ?」と言って目を丸くした。
「てめえ、俺は話があるって言ったよな」
「うん、でもこんな、夜中だよ、」
「ごちゃごちゃうるせえ!さっさとうちに来い」
 着替えたデクの腕を引いて窓から連れ出し、座らせていた竜の背に飛び乗る。デクを前に乗せて腰を抱いた。竜は高く空に舞い上がる。
 夜の空を見下ろして、デクは感嘆の声をあげた。
「乗ったことあるね。僕!上空から見た村。夜じゃなかったけど、この景色覚えてるよ」
「ああ、もっと思い出させたるわ」
 竜の背に乗ったまま森の中に入り、勝己の住居に到着した。デクは「あれ?」と声を上げる。
「この小屋に見覚えあるよ。おっきな小屋。君の家だったんだね。僕が怪我をした時、ここで目が覚めたんだ。てっきり盗賊の家かと思ってたよ」
「んだとゴラア!」
「ごめん、ほんとにごめん。君の昔の家はもっと小さかったでしょ。内装も変わってたし、武器が沢山飾ってあったし。てっきり危ない人の家かなって思ったんだ。君が助けてくれたんだね」
「クソが!まあ、んなこたあいい」
 勝己は身体を寄せて、後ろからデクの顎を掴んだ。戸惑っているデクの耳元に囁く。
「てめえは目が覚めたとき、なんで小屋から逃げやがった」
「ご、ごめん、お礼もしないで」
「誰かに犯されたんだよな、だからか」
「え、え、なんで知って」
「は!知らねえわけねえだろーが」
「そっか。助けてくれたんだもんね」デクの声が小さくなってゆく。「うん。それでびっくりして逃げ出したんだ。助けてくれたのにごめん。盗賊が僕なんかになんでって感じだけど、詳しくはその」
 デクは口籠もった。そういうことかよ、と勝己は呟く。居たたまれなくなり、デクは竜から降りようとした。しかし、勝己は腰に回した腕を離さず「待てや」と引き止める。
「おい、まだ降りんじゃねえよ、クソが」
「え?君の家はここなんだよね」
「後でだ。まだてめえが見なきゃなんねえ場所があんだ。これからそこに行く」
 竜は再び飛び立ち、山頂の竜騎士の演習所に到着した。
 竜から降りると「来いよ」と、勝己はデクの手を繋いで小屋に向かった。「あ、ここは」とか言いながらキョロキョロしているデクを、勝己は引っ張るようにして小屋の中に招き入れる。
「ああ、覚えてるよ。暖炉があって、ふかふかの絨毯が敷いてあって。僕、ここに来たことあるよね」
「観察すんのは後にしろや」
 デクを促し、抱えるように寝室に連れて行くと、勝己はデクをベッドにうつ伏せにして押し倒した。
「何?なんだよ?」
「話があるっつったろ。てめえは約束覚えてんだよな。そう言ったな」
 デクは身体を捩って振り向き、目を合わせて戸惑い、ほうっと息をついて、答える。
「……覚えてる、けど」
「この小屋を覚えてんなら、ここで何したかも覚えてんだな」
 竜の上でデクの身体に腕を回した、掌で密かに弄った、服越しに伝わる温もり。デクの直に肌に触れたい。諦めるなんてできやしない。時間の経過と成長で、デクの気持ちが変質してしまったとしても。何もせずに手放せるものか。
 あの時間を覚えているのなら脈はある。
 デクの下着を膝まで下げて、尻を剥くと背後から覆いかぶさり、体重をかける。
「ちょ、何すんだよ!」デクは足をばたつかせる。
「は!今更なんだってんだ。暴れんな。クソが。こういうことしたの覚えてるよな。俺と何してたか、てめえは覚えてんだろ」
 デクの抵抗が止んだ。勝己はにっと笑い、さらに問いかける。
「あの時俺らは何をしてた?なあデク、言ってみろや」
「その、うん、覚えてるよ。僕は君と、さ、触りっこしたね。でも、あれは。うわ!なんかお尻にあたってるよ」
「当ててんだ、ばあか」
 服越しに勃起したものをと押し当て、慌てるデクの双丘の間にするっと滑らせる。
「あ、これまさか、いや、違うよね」
「そう思うか?続きをするって約束覚えてんだよなあ、デク。続きが何かわからねえとは言わせねぇ。てめえを助けたのも俺だけどな、てめえを抱いたのも俺だ」
「ええ!嘘だよね。君がそんなことするわけな……」
「はっは!俺の何がわかるってんだ?これでもそう言えんのかよ。あ?」
 笑うと、勝己はズボンの前を寛げ、窄まりに雁首を押し付ける。先走りを擦り付け、ぬるっとノックして受け入れろと迫る。びくっとデクの身体が震えた。
「や、やめようよ」
「本能ってやつが勝っちまう時もあんだよ。どうしようもなくな、あの時もそうだった」
 雨宿りの時も、気を失ったデクを抱いた時も。
「流されて、雰囲気に呑まれてしまったんじゃないか。本当の気持ちなのかどうかわからないよ」
「ごちゃごちゃうるせえ!今のてめえなら、本気出せば、俺を押しのけることくらいできんだろ。簡単にはさせねえけどな。てめえが続きはしねえってんなら、もう二度とてめえに会わねえ」
「そんな、やっと君に会えたのに」
「どっちかしかねえんだ。なあ、どっちにすんだ。デク」
 シャツをたくし上げて、背中のラインを撫でる。
「あの時の続きするってよお、約束したろうが」とぐっと腰を前に振り、押し付ける。
 眠ってる間じゃあ意味がねえんだ。ちゃんとてめえがてめえの意思で、俺を受け入れなきゃ意味がねえんだ。デク。
 「……どっちかしかないなら」漸くデクは答えた。「わかったよ。君の名前教えてくれるなら」
 勝己はにんまりと笑う。
「覚悟しろや、デク」
 腰を引いて、性器を押し付けると、ずんっと押し入った。するりと雁が潜る。
「い、あっ」とデクはくぐもった声を上げる。太い部分を突っ込んで、肉壁を掻き分けて、揺さぶる。少しずつ埋め込んでゆく。温かくて狭い肉の隙間を埋めていく。揺さぶるたび「あ、はあ、ん、」と出久は耐えて、溜息を漏らす。
「思い出したかよ、俺のもん味わったことあんだよ。てめえは寝てたけどよ。わかんだろ」
 さらに腰を動かして力を入れると、デクの内壁が絞るように収縮した。無理に入れると傷つけてしまう。
「力抜けや、てめえ」と囁き、背後から服の中に手を滑らせ、愛撫する。乳首を潰すように優しく摩る。締める力がふっと抜けた。その隙に捻じ込んでゆく。肉棒はぬっと滑るように容易く潜ってゆく。
「あ!はあ、なんで、こんな奥に入って」
「まだ入りきってねえわ。思い出したか」
「む、無理、あ、や、君の、が僕の中で動いてるよ」
 腰を小刻みに前後に動かして、めりめりとさらに深く、窄まりを拡げて挿入する。ぺニスがデクの肉に食い込む。熱い肉がうねり、勝己を刺激する。襞に引っかかりつつ、中を擦りながら進み、デクの身体の深奥に届いた。
「ああ!かっちゃん!あ?かっちゃん?って」
「そうだ。俺の名前だ。クソが。やっと思い出しやがったんかよ!ふざけやがって」
 デクが名を呼んだ。これが返事だとばかりに、臀部の肉を掴み、半分引き抜いてから勢いよくパンっと打ち付ける。
「ああ!ご、ごめ、あ、はあ」とデクは喘ぎ、背骨を撓らせる。
 身体が繋がった。まるで一つの身体であるかのように、隙間なく。
「は、は」と勝己は息を荒くしながら、繰り返し腰を打ち付ける。ペタンペタンと肌をぶつける鈍い音。デクの身体を、熱を、感触を味わう。
「かっちゃあん、あ、んん、なんか変だよ、」
「気持ち良くなってきたんだろ。いい声出てんぞ」
 デクの吐息、喘ぎ声、耳に甘く、響く。
 早く達してしまいたい。まだ熱を感じていたい。
 相反する衝動が湧き上がる。
「デク、てめえも感じろや。てめえの中にいる俺をよ!」
 かっちゃん、と勝己を呼ぶ、デクの掠れた声が耳を擽る。声をもっと聞きたくて、深く強く突き上げる。
 熱い奔流が身体を突き抜けるように感じた。組み敷いた身体の奥に吐精する。断続的に奔流が出てくる。
 デクに注がれる己の欲。
「ふう」と息を付いて中をかき混ぜるように動かす。精液を出し切って、性器を引き抜いた。
 まだ硬さを失わない己の欲望。はは、まだデクが欲しいかよ、と笑みが溢れる。足んねえよな、全然足んねえわ。
「今度こそ忘れねえよなぁ、デク」
 背中に覆いかぶさり、項を舐め上げる。デクは吐息とともに呟く。
「もう、忘れるわけないよ、かっちゃん」
 勝己は腰を持ち上げて、デクの性器を掴んで芯を育てるように、上下に扱いて嬲る。
「ちょ、かっちゃん、やだ」デクは狼狽える。
「てめえもいかせて欲しいだろ、なあ」
 勝己の与える刺激に屈して「ん、ん、」とデクは声を押し殺して悶える。あっさりとデクは達して、勝己の掌に白濁を吐き出した。デクに出したものを示してからティッシュで拭き取り、頭を掴んで後ろを向かせ、キスをする。
「は!もう一回やるぞ」
 勝己は唇を離して、吐息を送り込むように囁いた。再びデクの身体を伏せて、陰茎を窄まりに押し当て、一気に突き上げる。精液の滑りでやすやすと根元まで入ってしまった。腰を振って、激しく抜き挿しする。
「ああ、や、ああ」とデクが喘いだ。「もう、無理、かっちゃん、許して」
「クソが!許すかってんだ。一度や二度で足りるわけねえだろーが」
 身体を繋げたまま、デクの身体を起こして膝に乗せた。自重で深く穿たれたのか、デクは、うう、と呻いた。さらにずん、と下から突き上げる。杭を打つように何度も突く。
 身体を穿つ揺さぶりに合わせ「は、あ、あ」とデクは喘ぐ。後ろから腰に腕を回して抱きしめる。竜の上に乗る姿勢のようだ。もっとも、乗ってるのは勝己の膝の上なのだが。項にキスをし、耳元に囁く。
 てめえには言いたいことが山ほどあんだよ。


終章


 勝己に手を引かれ、デクは森の奥に向かって歩いていた。今の竜の狩場に連れていってくれるという。
 聳え立つ巨木が光を遮り、一抱えもある太い根は地面を迷路のように這って穿つ。普通の人が足を踏み入れない奥地だ。勝己の手を離してしまうと迷ってしまいそうだ。森のさらに奥深くには竜だけが棲む渓谷があり、聳える如く雄大な竜が群れをなしているのだろう。勝己の竜は巨体を揺らし、後ろを着いてくる。
 やっと木が途切れ、光の溢れる草原に到着した。一面の黄金色が風に揺れる。
「俺を見てろよ、デク」
 そう言うと、勝己は竜の背に跨った。竜はクウっと鳴き、大きな翼を打ち下ろして飛翔する。草原の草が波打つ。竜は上空を旋回し、叢に触れるすれすれに滑空し、急上昇し、再び草原に戻ってきた。
 青い空を縫って飛ぶ赤い竜の巨躯は、昼間の流星のようだ。
 凄いや、と言うと、勝己は褒めてんじゃねえと言いつつ、誇らしげに胸を張る。
 金色の草原に大きな竜に乗って降り立つ姿。小さな時から、草原で竜といる君に見惚れていた。
 君の腕に鷹のように乗っていた竜は、今は僕の家よりも大きくて逞しい。
 竜騎士の卵だった君を、禁忌の森に毎日のように見に行った。
 君は草原の葉陰に隠れて見ていた僕を見つけた。
 再会した君は、僕自身が見失った僕を見つけた。
「どうした、デク」
「かっこいいなと思って」
「褒めんじゃねえ。クソカスが」
 そっぽを向いてしまった。照れているんだろうか。
「都に戻んのか」
「うん。オールマイトに報告しなきゃ」
「俺も行くぞ。皇国の竜騎士の試験を受けなきゃいけねえからな」
「え?」吃驚した。「かっちゃんはとっくに登録してるかと思ってたよ」
「まだ皇国の竜騎士に、登録する必要性を感じなかっただけだ。クソが!」
「ごめん、でも嬉しいな。僕も登録してるんだよ。仮だけど」
「知っとるわ」勝己は不貞腐れたように鼻を鳴らす。「俺はてめえより先に進むぜ」
「僕も早く仮が取れるように頑張るよ」
 勝己は竜に、自由に狩をしてろと命じると、こっちを振り向いた。真剣な目でデクを見つめる。
 なんだろう。どきりと胸が跳ねる。
「デク、てめえに聞きたいことがある」
「なに?かっちゃん」
「てめえは俺よりもオールマイトに、いや……てめえが勇者を目指したのは、あの日オールマイトに会ったからなのかよ」
 空を滑空する竜の雄叫びが聞こえる。甲高い声が黄金色の草原に響き渡る。
「多分、違うよ」少し思案して、デクは答えた。
 君は僕が勇者を目指すのを反対していた。だから伝えなかった。いくらでも伝える方法はあったのに。きっと心が揺らいでしまうと思ったから。でも、勇者になったら君に会いたいと思った。
 誰よりも君に。
オールマイトのおかげで夢が叶ったよ。でも勇者になりたいと思ったのは、彼のせいじゃない。君に会ったからだよ」
「ああ?」
「一番身近な君が僕の英雄だったからなんだ。初めはね、僕は君をこっそり見てるだけで、満足だったんだ。でも君が僕を見つけて、僕に来いと言ってくれた。遊ぼうって言ってくれた。君と一緒に遊ぶうちに、足りなくなったんだ。僕は君みたいになりたいと思った。いや、並び立ちたいと願ったんだ。勇者なんて憧れるだけの遠い夢だった。君が竜騎士を目指してたから、君に会ったから、君と過ごしたから、勇者になりたくなったんだ」
「は!俺のおかげってか、ったくよお」
「うん、かっちゃんのおかげだ」
「クソが」
 勝己は眉を寄せて、はあっと息を吐いて頭を掻く。呆れたような、ほっとしたような複雑な表情で。
「僕は、君と並び立ててるのかな」
 デクはおずおずと尋ねる。勇者にはまだほど遠いとは思うけれど。
「ばあか。てめえ、ほんっとクソナードだな。俺と並ぼうなんて百年早いわ!だがな!てめえの居場所は、俺の側しかねえだろうが」
 風が巻き上がり、草原が円形に波打った。悠然と巨躯が降り立つ。竜は勝己の後ろに身体を横たえて控えると、翼を畳んでクゥンと鳴いた。


END

橙色の思い出(「たったひとつの冴えたやりかた」から)

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「疲れたよ、かっちゃん」
 ふうふうと息を弾ませて、僕は前を歩くかっちゃんに呼びかける。
 裏山を流れる川の上流に遡って、随分と歩いてきた気がする。
 鶺鴒だろうか。川面をついっと滑るように飛んでいる。
 セキレイイザナミイザナギが、尾を振るの見て何かを知ったんだっけ。前にかっちゃんが得意げに教えてくれたけど、思い出せない。
 川べりの岩が下流に比べて、かなり大きくなってきた。ゴツゴツした岩で足が滑りそうになる。
 ふいっと前を赤蜻蛉が横切った。
「だらしねえな、デク」
 かっちゃんが手を伸ばした。僕はその手に縋るように捕まる。肉厚な掌はしっかりしてて頼もしくて、安心する。
 そのまま手を繋いで歩を進めた。川の流れが次第に細くなり、岩を穿った小ぶりな滝に繋がってゆく。
 ようやくかっちゃんは立ち止まった。着いたぜ。と顎をしゃくる。
 見上げると、空を覆うように2つの大きな岩が聳えていた。大きな岩と岩は寄り添うようにくっついている。岩の間に挟まれて、人がやっと通れるくらいの隙間があり、隙間の向こうには遠く山の端が見える。
「もうちょっと待てや。そろそろだ」
「何?何か起こるの?かっちゃん」
「黙って見てろや」
 かっちゃんはウキウキしてるみたいだ。
 ふと、岩の隙間の上部がキラリと光った。
「何なに?」
 隙間を覗いてみると、紅色の夕陽が見えた。陽が降りるに連れ、眩しく光が射し込んで広がり、両方の岩肌を橙色に塗りつぶしてゆく。美しさに疲れも吹っ飛んだ。
「すごく綺麗だね。かっちゃん」
「こないだ山登ってて、ここを見つけたんだぜ。俺の特別な場所だ」と言い、くるっと僕を見る。「てめえだから見せてやんだからな」
 かっちゃんは得意げだ。特別と聞いて嬉しくなった。手を繋いだまま、しばらく見惚れているとかっちゃんが口を開いた。
「デク、見せてやったんだから、てめえの特別を寄越せよ」
「え?見返りがいるの?」びっくりして聞き返した。
「たりめーだ、クソが!」
 頼んだわけでもないのに、お礼を要求されるんだ。やっぱりかっちゃんだった。
 とはいえ、夕陽はとても綺麗だし、かっちゃんの言葉が嬉しかった。
 僕にも彼に見せられるような、いい景色はないだろうかと考えてみたが、思いつかない。
「ごめん、かっちゃん。僕は素敵な場所なんて知らないんだ」
「クソが。場所じゃねえ」
「じゃあ、もの?」まさかと思って、恐る恐る聞いた。「僕のオールマイトのフィギュアとか?」
「クソが!てめえのお宝なんぞいんねえ。俺はてめえみてえなコレクターじゃねえよ」
「でも、僕は何も持ってないんだよ」
 君と違って、という言葉は飲み込む。ここで言う言葉じゃない。
「あんだろ。てめえの特別を寄越せって言ってんだ」
「だから、持ってないよ」
 かっちゃんはふくっと膨れてしまった。
「わかんないよ。かっちゃん」
「クソナードが」
 それっきりかっちゃんは黙ってしまった。視線を僕から外して、岩に向けてしまう。怒ったのだろうか。そっと顔を伺う。
 眉間に皺は寄ってないし、そんなに機嫌を損ねたわけじゃないようだ。
 かっちゃんは僕の手をきゅっと握り直し、そのまま一緒にポケットに入れた。ジャンパーの中で、かっちゃんの手がすりすりと僕の手を摩る。
 川からの風で思ったより冷えていたみたいだ。かっちゃんの体温に手が温められる。
「特別を寄越せや」
 かっちゃんはぽつりと繰り返す。
 岩の隙間から覗く橙色の空が朱い色に染まってゆく。
 夕陽は色の白い幼馴染の頬も赤く染めていく。

END

インデックス(オリジナル)

BLではないオリジナル小説です。題名から各作品にリンクしてます。各小説の簡単な内容紹介はこちらでどうぞ。

カテゴリーでは下から古い順に並んでいます。挿絵と冒頭文章が確認できます。そちらからでも各作品にリンクしています。どちらからでもどうぞ。

★ブラックメルヘン

 かたなしなるもの 少年と不思議な生き物と漁師の話

 物の怪の家  帰郷した男と異形に見える従兄たちの話

 銀の獣の森  森の中で道に迷い銀毛の獣と会う話

かたなしなるもの

 白砂が裸足の指の間から溢れる。
 ひと足踏むごとに、サクサクと鳴る砂が心地いい。
 振り返れば、浜辺の小屋が小さく見える。海岸線に沿って、随分遠くまで歩いてきたらしい。
 少年は砂を両手に掬った。粒がキラキラと光りながら、風に乗って散らばる。この辺りの砂は水晶が混じっているようだ。
 少年は砂を使って細工物を作ることを生業としている、砂採りだ。
 砂を小瓶に詰めて瓶にリボンをつけたり、貝を貼ったりして装飾品を作り、市場で売る。珊瑚や水晶の混じった砂の細工物はそれなりに売れ、少年1人の食を支えるくらいにはなった。
 暫く歩くと、白い岩に囲まれた入り江があった。初めてくる場所だ。純白の砂。ひたひたと静かに波が打ち寄せる。
 少年は浜辺に降りた。すると、波がざぶりと持ち上がり、少年の前に大きな生き物が現れた。
 彼の背丈より大きいが、見上げるほどでもない。初めて会う生き物だ。
 目も口もない丸い大きな頭部は半透明で、海月のように透けて、レースのようなひらひらした鰭を纏っている。
「こんにちは」と少年が挨拶すると、その生き物も「やあ、こんにちは」挨拶を返し「君はどこから来たんだい?」と問うた。
「向こうの浜辺から来たんだ」と少年は指差した。「僕は砂採りなんだ。綺麗な砂を集めてる。ここの浜辺は綺麗だね」
「そうだろ。ゆっくりしていけばいいよ」
 生き物は得意げに言った。
 少年は入り江を散策し、白い砂浜に腰を下ろした。
 生き物は先端の平たい触手で、砂つぶを拾っては浴びた。砂は粘液で肌にくっついてキラキラと光る。
 少年が「綺麗だね」と言うと、生き物は「そんなことないよ」と言いながら、見せびらかすようにくるりと回る。
「こんな貝だってあるんだよ」
 生き物は桜色の貝殻を触手で拾っては見せた。「あげるよ」と言って様々な貝殻を沢山くれる。
「ありがとう」
 少年は上着を脱いで貰った貝殻を包んだ。
「海の中では僕は人気者なんだ」と生き物は言う。「綺麗だとよく言われるし、鯨や鯱とも友達だ」
 海の中のことなど自分に関係ないし、なんとも思わない。けれど、機嫌よく話すので、「それは良いね」と曖昧に相槌を打つ。
 生き物は砂に詳しい。砂つぶに混じったものをあれは硝子、あれは瑪瑙、あれは琥珀と解説して器用に選り分ける。「綺麗な粒だけをつけたいんだ」と集めた砂を浴びる。
「そろそろ帰るよ」と少年は腰を上げた。
「明日またおいでよ」と生き物は言い、触手を差し出した。
 握手をする。
 寒天か葛切りのような、つるつるひんやりとした手触り。
 小屋に帰り、貰った色とりどりの貝殻を机に出して、山に盛った。少年は微笑んだ。1人浜辺に来て初めての友達だ。なんの生き物なのかわからないけれど。話をしてて楽しかった。
 そうだ。せっかく貰ったのだから。少年は貝殻に穴を開け、繋いでいくつも首飾りを作る。
 次の日入り江に行くと、待っていたように、生き物が海から上がってきた。
「昨日の貝、首飾りに加工したら、結構売れたんだ。ありがとう」と少年は礼を言う。
「へえ」と生き物からなにか含みのある返事が返ってくる。
 貝は売るための材料にくれたのではないのか?少年は砂採りなのだと言ったのに。少しだけ引っかかったがすぐに忘れた。
「泳がないか」と生き物が誘った。
 少年は生き物に続いて海に潜った。遠くに生き物と同じような、キラキラしたものが何頭も泳いでいる。周りを魚達が取り囲んで舞っている。綺麗な魚を引き連れてた、王様の行列のようだ。
「華やかだね」と少年は見惚れる。
「あんなの綺麗に見えても、ただ砂つけてるだけじゃないか。貝や珊瑚までくっつけて、節操がない。綺麗な砂をだけを選んでつけなきゃ意味がないよ」と生き物は不機嫌そうに言う。
 そんなに違うかなと少年は思う。
 生き物は同類の飾り方が自分に似ている時も、微妙な反応を示す。貝殻や珊瑚で飾ってたり、自分の飾り方と遠いときは褒める。まだまだと思うものは励ましている。だが、綺麗で独創的で優れてるとしか思えないのに、批判する時がある。
 褒める時はいいけど、批判する時は含みがある。僕に言わなくていいのに、まるで僕にもそう思えと思ってるみたいだとちらっと思う。
 だが、だんだんわかってきた。生き物がくさすのは意識している時らしい。ほめるのは意識しない時だ。ライバル視が羨望になり、それを口にせずにおれないのだ。批判は認めてる証なのだと思うと、逆に批判するものほど優れているのだなと見るようになった。
「ここの砂はどれも綺麗だと思うよ」と少年が言うと「そうだろ」と生き物は胸をはる。
 ここの生き物達は、綺麗な砂の在りかをよく知っている。水晶の白や翡翠の緑やサファイアの青やアメジストの紫やルビーの紅や琥珀の橙。身を飾るために砂を纏う。
 僕は砂採りなのだから纏ったりはしない。でも、砂を売りたいな。ここの砂で作った装飾品を好ましいと思う人は、きっと沢山いるだろう。
 少年は岩場の青や紅の砂を採集し、浜辺のさまざまな色の砂を掬って袋に収める。
 砂を加工するととても綺麗だろうな。入り江の生き物達が身体に纏っているように、紙や板にくっつけてもいい。水槽にいれても綺麗だろう。植木鉢に撒いても綺麗だろう。
 少年は集めた砂を色ごとに分け、持ってきた画用紙に糊を塗って砂を撒いた。紙の上で砂は絵の具となり、鮮やかに形を作る。少年は虹と海の絵を描いた。
 生き物が近寄って来た。
「見て。砂で描いてみたんだ」と少年は言った。
 だがそれを見てた生き物は、少年から紙を取り上げた。パラパラと砂が零れる。
 あまりのことにすぐには声が出なかった。
「せっかく描いたのに、何するんだよ」
 少年が抗議すると、生き物は怒鳴った。
「何を取った」
 びっくりしている少年の手から袋を奪い、生き物はその砂を頭から浴びた。
「この場所の砂は全て私のものだ。一粒たりとも取ることは許さない。君は他の場所で取ればいいじゃないか。ふん、こんなの描いても売れるもんか」
 生き物は紙をぺらっと地面に捨て、あからさまに不機嫌な様子で海に潜ってしまった。
 少年はあっけに取られた。貝は沢山くれたくせに、何を怒っているんだろう。砂は纏うもので、砂絵は違うとでも言うのだろうか。僕の砂絵が売れようが売れまいが、生き物には関係ないだろうに。
 ならば魚ならばいいだろうか。入り江の魚は赤や青や色とりどり。鮮やかに水槽に映えるだろう。
 少年は網を投げて入り江の小魚を捕り、魚籠に入れた。魚籠の中で魚はぴちぴちと跳ねる。
 すると「何をしている」と怒鳴り声がした。
 ザブリと大きな水音と共に、生き物が波の間から現れた。皮膚を赤黒く染めて烈火のごとく怒っている。生き物は素早く触手を伸ばして、彼から魚の入った魚籠を奪った。
「ちょっと、何するんだよ」
「盗っ人め」生き物は唸り声を上げ、少年を罵倒した。
 生き物の丸い顔に筋目が走った。丸い頭の下から細かい歯のついた大きな口が現れ、頭部が割れてヒトデのように大きく開いた。少年は戦慄し後退りする。生き物は魚籠の中を口にあけて、次々と魚を丸呑みにした。
「ここの魚は全て私のものだ。一匹たりとて奪うのは許さない。盗っ人、盗っ人、なんて悪いことをするんだ。自分でわからないのか」
「全て?何言ってんの」
「私の言うことをきかないと、友達をやめるからな」
 生き物は言い捨てて 海に潜ってしまった。
 少年は家に戻り、ベッドに座ると頭をクシャクシャとかいた。
 酷く心が疲労している。僕は落ち込んでいるのだ。生き物を怒らせた。何か僕が悪いことをしたんだろう。怒らせるのは辛いことだ。
 だが時間が経つにつれ、もやもやと違う感情が渦巻いてきた。
 生き物は僕の何を悪いと言ってるんだ。わからない。生き物は自分を盗っ人と呼んだ。だが同じ入り江の同種族のもの達には言わない。ぶつくさと文句を言うだけだ。
 同じ入り江に在るものでも、貝殻を取っても文句を言われたことはない。
 自分はいつも通り砂を取っただけだ。それが生業なのだから。僕は果たして悪いことしたんだろうか?
 苛立ちも生まれてきた。言うことをきかないと友達をやめるからなってなんだ。

 翌日、少年はいつものように浜辺に出たものの、はたと立ち止まった。裸足の足を見下ろす。
 何処に行こうか。右側に行けば船着場、左に行けば生き物のいる入り江。どっちに行くか迷った。毎日会ってた生き物だけど、今日はあまり会いたくない。
 迷ったすえ、船着場に向かって歩くことにした。
 船着場に到着し、桟橋に腰掛けた。並んだ船を眺める。桟橋に座って足をゆらゆらとさせる。水面に映る黒い影が足と一緒に揺れる。数匹の黒い魚の影が脚の影を追う。
 お昼過ぎになった。そろそろ食事時だし、帰ろうか。
 水面を眺めていると「やあ、水を一杯くれないか」と遠くから声をかけられた。
 桟橋の向こうから、1人の青年が手を振って歩いてくる。
「いいよ」と少年は水筒を渡した。
 青年は喉を鳴らして水飲むと少年に水筒を返し、「悪い。残り少なくなっちまった」と謝った。
「いいよ、僕はそんなに喉乾いてないから」
「すまない。俺は漁師だ。この辺りは俺の漁場だ。君を知ってるよ。よく向こうの入り江で化物と話してる子だね」
 青年は入り江の方向を指差した。
「化物じゃないよ。僕の友達だよ。ひどいな」
「ではあの生き物はなんだ。魚か海月か」
「僕もよくわからないんだけど。化物じゃないよ」
「ふうん、今日は入り江に行かないのか?」
「ちょっとね」
 漁師は少年の隣に座り、顔を覗き込んだ。
「どうしたんだ。元気がないようだな」
「怒らせてしまったんだ」
 少年は生き物との間にあった出来事を漁師に話した。誰かに話したかった。
 漁師は「ふん」と鼻を鳴らす。
「そいつは随分自慢が好きみたいだな。自分はこんなに綺麗だ、こんなに知り合いがいるってひけらかしてる。お前を羨ましがらせようとしてんじゃねえのか。俺なら自慢話うぜえって聞いてらんねえよ。そいつに知り合いを紹介してくれと言ったら、嫌な顔するんだろうな」
「知らないくせに。会ったことないのにわからないだろ」
「そいつの自慢話聞いて、面倒くさくねえか」
「別に、羨ましくないし。知らない人達の関係に興味ないし。そういう話したいんだなと思うだけ」
「お前に自分を凄い奴だと評価しろと言ってるように聞こえるけどな。お前はそいつを凄い奴だと思ってるのか?」
 少年はちょっと考えて答える。「そうは思ってないかな。尊敬する部分もあるよ。砂のことよく知ってるし、砂を自分を飾るのに使うなんて、面白いと思う。僕にとっては砂は装飾品を作る材料だから。僕は対等だと思ってるつもりなんだ。海と陸で住むとこは違うけど。似たところもあるし」
「そいつはお前をどう思ってるんだろうな」
 少年は考える。「向こうも対等だと思ってると、そう思ってたけど。でも、よくわからなくなったよ。砂や魚のことなんかであんなに怒るなんて。ほかの魚や海豚や鯨だっているし、他に砂で飾ってる生き物もいる。なんで僕にだけダメだと言うのかわからないんだ」
「理不尽だと思うんだな」
「怒らせたくないよ。でも、納得できないんだ」
「俺もそれは理不尽だと思うぜ」
「そう思う?」
「その化物は入り江の所有者じゃないだろう。他の魚と同様に棲んでるだけだ。入り江はそいつの領土ではあるまい。砂浜もそいつのものでもあるまい。魚もそいつのために周りにいるのではない。砂も海も誰のものでもない。そいつが作ったものではないのだから。砂は砂、魚は魚だ。自分のものなどと言える理はないだろう」
「僕もそう思ってたんだけど」
 入り江の者達は砂で、自分の思うように飾っているのだ。装飾品と身を飾るの違いはあるにしても、砂を使いたいと思ってはいけないのだろうか。
「たかが砂や魚で、なぜそんなことを言うのか、俺はそいつを知らないからわからねえけどな。そいつが自分が正しくて、お前が悪いと思わせたいってことはわかるぜ」
「でも、仲良くしたいんだ。友達だし。砂や魚は欲しいよ。でも怒らせたくはない」
「よし、待ってろよ」
 漁師は船の中に入り、魚籠を2つ持って戻ってきた。片方の魚籠から小魚を出し、もうひとつの魚籠に分けると、少年に渡す。
「俺が捕った魚を君にやるよ。持ち主は獲った俺だから、そいつは何も言えないはずだ」
 緑や青や色とりどり。確かに入り江の魚だ。
「いいの?」
「構わねえよ。勝手に網に入ってた魚だ。食えねえし、いらねえから、海に返そうと思ってた」
「ありがとう。嬉しい」
「俺はどんなに綺麗だろうと、砂なんかに興味はない。小さくて綺麗な魚よりも、大きくて旨い魚の方が何倍もいい。それが俺にとって価値あるものだ。その化物にとっての価値あるものもお前とは違うだろう」漁師は続ける。「お前にとって価値あるものはなんだ」
 夕刻になり、少年が小屋に戻ると、玄関の前で蠢く影がいた。目を凝らすと、彼の家の前にいるのはあの生き物だった。
「来るのが遅いから来たよ」と生き物は言った。
 怒っているかと思っていたのに上機嫌だ。どういうわけだろう。
「ところでさ。さっき誰と話してた」
 と生き物は聞く。何気ない調子で聞いているつもりだろうが、どこからか見てたのだろうか。ちょっと嫌だな、思う。
 生き物の透明だった表皮が、うっすらと灰色に濁って見える。
「漁師だって言ってたよ」答えると「あの盗人が」と生き物は憤り、さらに表皮を濁らせた。
「あいつの言うことなど聞いてはいけない」
 まるで指図するような口調に、嫌だな、と思う。生き物は魚の入った籠を見つけて触手で触れた。
「この籠の中身はなんだい?」
「あ、それはその漁師からもらった魚が入ってるんだ」
 少年は魚籠を取ろうとしたが、その手は遮られた。生き物は籠の中を見て怒鳴った。
「これは私のものじゃないか!」
「違うよ。漁師が捕って僕にくれたんだ」少年は魚籠を取り返して抱きしめた。「もとは漁師のものだったんだよ」
「盗っ人、盗っ人!」
 生き物は怒鳴ると、触手を伸ばして魚籠を取り上げた。
「痛!」と少年は手をひっこめて指を見る。ぷくりと針でついたような血が吹き出てきた。生き物の触手に棘が付いているのに、はじめて気がついた。
「その魚は私のものだ」
 生き物はみるみるどす黒く色を変えた。深海魚のようにぬらぬらした表皮。棘のついた触手。
 頭が天頂部から裂けてひとでのように開いた。細かい歯のある口が現れ、魚籠から魚を触手で取り出し、ぱくりと食らった
 目の前にいるのは、醜悪な化物だ。
「返して!」と叫び、少年は生き物から魚籠を奪い返した。弾みで魚は床にばら撒かれ、ぴちぴちと跳ねる。
 化物が魚を拾っている間に、少年は船着場にむかって駆け出した。漁師が船に乗り込もうとしているのが見えた。
「待ってよ」と桟橋を走りながら少年は声を上げた。
「なんだ?血相変えて。今船を出すところだぞ」
「お願い、一緒に乗せて」
「お前も漁師になるのか」漁師は問うた。
「入り江で釣りはしたことあるけど、船で漁はしたことがないよ。まだどうするか決められないけれど、一緒に船に乗りたいんだ」と答えた。
「よし、来い!」
 漁師は少年の手を引いて、甲板に引き上げた。
 船は出航した。

 漁師の船は魚を求めて航海を続ける。港に寄っては魚を売り、また航海に出る。
 少年は漁の手伝いをする。漁師の食事を作ったり、一緒に船の掃除もする。でも漁師にはなれそうもない。そう言うと、構わねえから乗ってろよと漁師は言う。漁場の浜辺に寄った時は、時々瓶に砂を詰めてみる。
 立ち寄る浜辺には、それぞれ彩り豊かな砂がある。それぞれの良さがある。珊瑚や貝殻を混ぜて、瓶に色とりどりの砂を詰めれば虹のように華やかだ。市場に漁師の魚と一緒に持っていくと、買っていく人もいる。
「綺麗なものだな。女子供が喜ぶ」と漁師は言う。
 穏やかに日々が過ぎたある日、少年は漁師に言った。
「あの入り江に行ってみたいんだ」
「あれと仲直りしたいのか。あいつは望んでないかも知れないぞ」
「頭にきたけれど、それは向こうも同じじゃないかと思うんだ。お互いの譲れないとこはあるけど、非を認めあえば解決できると思うんだ」
 漁師は眉根を寄せて言う。「正直、俺がお前にやった魚をちょろまかす奴なんざ、俺は評価しないぜ。俺を盗人と言いやがって。俺はどこでだって魚を獲ってやるぜ。それを盗人と言うならそいつも盗人だろう。詐欺師や盗人ほど自分が同じ被害に遭うと、烈火のごとく憤るもんだ。ふざけた話だが、詐欺師も盗人も自分だけが得をしたいもんだからな」
「でも、怒ってたから口が滑っただけで、本気じゃなかったかもしれない」
「思ってもねえことは言わねえよ。俺のことまで盗っ人と言いやがったのは本気だろう。腹が立つ話だぜ」
「でも、君には面と向かってそんなことは言わないと思うよ」
「言わなきゃいいってもんじゃねえよ。だが、お前にだけ言うなら、尚更怒っていいと思うぜ。やつはお前より砂や魚の方が大事なんだろう」
「そんなことないと思うけど」
「俺は砂なんかに興味ない。君やそいつに価値があるものであっても、俺には塵芥に等しいぜ。人より物が大事とは思えないしな。だが、そいつはその塵芥が上なんだろう 」
 そうなんだろうか。仲が良いと思っていたのは自分の方だけだったのだろうか。
「でなければ不条理なことを言っても平気なくらい、お前を舐めてたってことだろうな。盗人と言われたんだろ。盗人なんて仲の良い奴に普通は言わねえよ。家に来た時そいつが上機嫌だったのは、気が済んだからだ。でも俺のやった魚を見て逆上したんだろう。思い通りになってなかったからだろうさ」
「でも、思い通りにすることに、なんの意味があるんだろう」
「上に立ちたいんだろうよ。自分の思い通りにするために、わざと怒ったり泣いたりしてみせる奴もいるんだ。そいつの怒りは本物なのか。お前の行動の支配が目的だったのではないのか?そうじゃないと言い切れるのか?お前はそれでもその化物と付き合っていけるのか」
「それは、わからないよ」
「もしあいつが変わってなかったなら、お前はどうするんだ」
「わからないよ。会ってみないことには」少年は、はっと気づいて、漁師を見つめる。「心配してくれるんだね」
「そういうわけじゃないが」漁師は少年の頭を撫でて言う。「いい結果が出るといいな」
 船は入り江の隅の、自然の岩で出来た船着場に着いた。少年を下ろし、漁師は一回りしたら戻ると言って船を出した。
 漁師の船がいなくなると、生き物が岩の隅から顔を出した。何事もなかったように少年に近寄ると、話しかけてきた。
「久しぶりだね。どうしてたんだい」
「船に乗ってたんだよ」
「あの漁師の船かい。あ、そうだ。君が置いていった魚は干物にしたからあげるよ」
 生き物は魚籠を差し出した。中に小魚の干物が入っている。僕奪ったくせにとちょっと鼻白む。漁師から貰った魚だ。断る理由はないので受け取る。
「遊んで行かないか」と生き物は言う。
 生き物はいつものように、透明な皮膚にキラキラした砂を纏っていた。だが目を凝らすと表皮の下の黒い表皮が透けてみえる。
 目を逸らして、少年は化物と話をした。いつかのように砂の話、魚の話。でも、話題は同じなのに何故か楽しいと思えない。
 揉めた時のことも、どうしても切り出せない。その話をして仲直りに来たつもりなのに、言う気になれない。何故なんだろう。
 生き物の表皮の下で、ぐにょりと黒い真皮が蠢く。少年は気持ち悪くて、吐き気をもよおしそうになった。見ないふりをしながら話すのが辛くなってきた。
 少年の意を組んだかのように、岩場の船着場に船が到着し、漁師に呼ばれた。
「じゃあそろそろ行くよ」と少年は立ち上がった。
「そうかい、またおいでよ」
 生き物が握手をしようと触手を伸ばした。
 透明な触手の下に鋭い棘が動く。少し躊躇したが、握手をする。
 ぐちゃりと軟かくぬめっとした気持ち悪い感触。急いで手をもぎ離した。なんでもないよ、と無理に笑顔を作り、少年は急いで船に戻った。
 船は出港した。漁師が隣に来て、少年の肩を抱いた。温かさにほっとする。
「平気か」と漁師に尋ねられ、少年はほろほろと泣いた。
「貴方は結果を予想してたんだね」
「そいつは自分は何一つ悪くないと思っているのだろう。君の怒りに気付いていないのだろう。ならば話などできないと思っていたよ」
「友達だったんだ」少年は嗚咽をこらえた。「話すのは楽しかったし、物知りでいろんなこと教えてくれたし、親切な時もあった」
「そうか」
「一緒に過ごすのが、僕の好きな時間だったんだ」
「そうか」
 僕は自分がどうしたいのか、選ぶつもりだった。会って決めようと思っていた。でも選ぶ余地などなかった。生き物を見るのも触れるのも、気持ち悪かった。
 かの生き物は、僕の目には元のように映っていると思っているのだろう。黒い真皮が透けて見えていると知らずに。
 彼はあやすように少年の肩を撫でて言った。
「俺には大したことには思えないよ。たかが砂や小魚が原因で揉めるなんて、くだらないことだ。だが問題は表層ではなく、根にあるんだろう。それが君に選択させたんだ」
「前と違って、生き物の話すことがひとつも心に入って来ないんだ。楽しくないんだよ」
 生き物の頭部には牙があり、触手には棘があるのだと、今の僕は知っている。牙は僕の魚を喰らい、棘は僕を傷つけた。
「例え他人を害することでも、思うだけなら、知られなければ、行動に移さなければ、罪じゃない。だが、相手の標的が自分と知っては難しいだろう。しかも行動するなら、まず共にはいられないだろう」
「前はそうではなかったよ。いい生き物だったんだ」
「良いだけの者なんていないよ。君も相手にとって、良いだけの者ではなかったんだろう」
「お互い良い者ではいられないのかな」
「だから君を悪と罵り、良い者に戻そうとしたんだ。自分に都合の良い者にな。自分を被害者に据えたい者にとって、自分を加害者と思いやすい者は格好の獲物だ。強気な者には言わない。俺から見ると君に悪いところなどないよ。変える必要もないんだ」
「ずっと友達だと思っていたんだ。そうじゃなかったんだろうか」
 生き物にとって自分は間抜けに見え、御し易かったのだろうか。だから自分の価値観を押し付け、操ろうとしたのだろうか。
「友達だったんだろう。けれども、誰しも調子の悪い時には醜くなり、調子の良い時には美しくなるもんだ。どちらも本当の姿なのだろう。嫉妬、虚栄、恐れ、欲望、渇望、醜さの種は様々だ。悪い時にこそ本性は出る。誰も進んで醜くなりたくはないんだ」漁師は空仰ぐ。「だが避けられない」
「気持ち悪かったんだ」
 生き物は、海を住処とする他の者の前では、晒さぬであろう醜い姿を、少年には平気で晒した。
「あんなのは見たくなかった。気持ち悪かったんだ。会ったらもう終わりだなんて、思わなかったよ」
「だからこそ人は上辺を美しく装うんだ。エゴを正しいことのように嘯き、自分は被害者と吹聴する。自分の言動の影響力を知っていて口にするのだ。思い通りにしようとして貶めるんだ。だが、装うのにかまけて、その醜さに気づかないんだろう」
「なんで言うんだろう。なんで見せるんだろう。僕なら隠して飲み込んでしまうのに」
「少しでも相手への影響力を持つのなら、王が家臣に、上司が部下に、先輩が後輩に、先生が生徒に、親が子供に、その影響力を行使しない方が珍しいくらいだろう。意が通らない相手には決して言わない。言う相手は選んでるってことだ」
「僕らに上下関係なんかなかったのに」
 いや、対等だと思ってなかったならば、あれの言動も行動も納得できてしまう。理不尽に見えたのは前提が違ったのだと。相手が嫌うわけがないと、奢るからできるのだ。
「はじめは違ったかもな。関係は移ろいゆくものだ」漁師は言う。「醜さを現した者もいずれ、何事もなかったように、装いなおすだろう。美しさも以前のように戻るだろう。だがお前にはあれの表皮の下が見える。もう見ないふりはできない。いつかはその状態を受け入れたとしても、同じ状況になれば、またあれは君に醜さを露呈するのだと知っている」
 生き物は僕を抑えつけようとした。僕は自分が流されやすいと知ったけど、あれはきっと前から知っていた。ならば似た状況には陥れば、同じことはまた起きる。
 操ろうとする者に心を許してはならない。操られたりしない強い人には違うとしても。僕にとってこれほど醜いものはない。これほどの悪はないのだ。美しく見えていたものは失われた。
「もう2度と元には戻らないのかな」
「安心しろよ。今失ったものがあっても得るものもあるさ」
 彼は遠くなる入り江を振り返った。もう生き物はいない。
「あれはもう海の中に戻ったんだろう。そこがあれの居場所だ。君とは違う。君はあの島を出て俺の船に乗ったんだ。入り江を訪れない限り会うこともないよ」
「もう会わない方がいいのかな」
「気持ち悪いと思ったのだろう。それでも、毎日顔を会わせるなら、幻滅した心を慣らして、付き合い方を探せただろう。そうする手もある」
「もう無理だよ」
 入り江に行きたいと思えない。会っても辛いだけだ。
「ならば毎日顔を会わせる必要がないのを、今は幸いだと思うしかない」
「そんなことが幸いだなんて」だがそう思っている自分がいる。
「距離を置くのも必要だってことだ。だが、それは自分の見方を変えるためだ。相手が変わるなんて期待はしない方が無難だろう。君の怒りをあれは知ることはないからだ。変わらない前提での在り方を探る方がいい」
「もう心を許すことはできないんだね」
「相手との丁度いい距離がわかれば、いつか平常心で会えるかも知れない。それまでに、何が醜さの引鉄になるのか見極めるんだ。相容れない存在なのだと、心に留めて警戒するんだ。むき出しの心で会う相手ではないと。君の身を守るために。心を守るために」
「きっと生き物にとっては、僕が悪なんろうだね」
「そうだろうな。悪とするものも怒りを感じるものも、人によって違う。あれにあれの悪があるように。君に君の悪がある。絶対悪もあるけれど、大抵の悪は相対的なものだ。人の数だけ悪がある」それから、と漁師は付け加える。「何に喜ぶかより何に怒るかの方が、善とするものより悪とするものが、人を分けるものだ。きみが何を悪として何に怒りを感じるのか、考えるといい」海を見ていた漁師は少年に視線を移した。「それが君が君たる証だ」
「貴方にもあるの?」
「もちろんあるよ。つきあってればそのうちわかるさ」と彼は笑う。
 漁師にも僕のようなことがあったのだろうか。少年は漁師の瞳が青みがかった碧色であるのに気づいた。髪は日に焼けて小麦色になっているが、元は栗色であることにも気づいた。
「君があの日、船着場に向かって歩いたから、俺に会ったように。違う場所には違う世界があるんだ。見ろよ。海は広大なんだ」
 彼は立ち上がって船の帆を張った。帆は風を含んでスピードを増す。入り江はどんどん遠くなっていく。
「向こうは向こうで楽しくやってるさ。こっちはこっちで楽しくやらないとな」漁師はまた笑う。
 船はさわさわと海を切り裂いて進んでゆく。少年は海水に手を浸した。冴えざえと冷たい潮。握手をした時の生き物の感触が洗い流されてゆく。飛沫が飛んで袖を濡らす。
 波は海の皮膚のようだ。飛沫は海の血潮であるのだろうか。いつか傷口は塞がり、泡となり再び波となり打ち寄せるだろう。
 この僕もいつかそうなれる。

 

END

たったひとつの冴えたやりかた(全年齢版)

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1・かの日の怪物


 久方ぶりの自宅への帰り道のことだった。
 出久は膝に抱えていたリュックを担ぐと、電車を降りた。
 黄昏の空に烏の鳴き声が遠く響く。家々のシルエットを、夕焼けが橙色に縁取っている。落陽は出久のすぐ前を歩く、幼馴染の小麦色の髪も、紅に染めあげてゆく。
「家なんざ、かったりいぜ、クソが」
 勝己が出久に聞かせるともなく呟いた。
 独り言なのか、自分に話しかけてるのか、どっちだろう。返事をしていいものかどうか迷い「う、ん」と生返事をする。
 隣を歩けばいいのだろうけど、つい前後に並んでしまうのは、長年の癖のようなものだ。
 三連休に寮に一斉清掃が入ることになり、その間生徒達は一時帰宅することになった。長期休暇ですらあまり家に帰りたがらない勝己も、今回は帰宅を余儀なくされ、不貞腐れていた。
 五時半を告げるメロディが通りに流れる。公園から跳ねるように出てきた数人の子供達が、側を走り過ぎてゆく。それぞれの家に帰るのだろう。子供達は分かれ道で、バイバイと手を振って別れていった。僕らもあのメロディに急かされたなと懐かしくなる。
 勝己や仲間達と毎日遊んだ公園。ブランコも砂場も滑り台も、少し色褪せてるけどほとんど変わっていない。勝己との距離が離れていくにつれ、次第に足が遠のいてしまったけれど。
「あ?てめえは週末にしょっ中帰ってるだろうが」
 思いがけず返事が返ってきた。ちょっと焦って答える。
「う、うん、そうだね。お母さん待ってるし」
「こっちじゃ個性も使えねえし、家ですることなんて何もねえわ。親はあれしろこれしろってうるせえしよ」
 学校なら堂々と個性を使用できるだけに、勝己はもどかしさを感じているのだろう。
「かっちゃんはこっちで昔の友達に会ったりしないの?」
「あ?一度も会ってねえよ」
「え、そうなんだ」
「今更会いたくもねえ。過ぎたもん振り返ってる暇なんざねえわ」
 よく勝己は仲間とつるんでいたけど、そんなものだろうか。自分には会いたいような旧友はいないから、わからない。無個性と揶揄されていたのだ。思い出したくない。雄英で出会った、側にいてくれる本当の友達を大切にしたい。
 しかし、苦い思い出もあるけれど、それも君と友達のように歩いている今に繋がっているのだ。友達のように、としか形容できないのがもどかしいけれども。
 子どもの頃だって、勝己に憧れてひっついてたけれど、友達といえただろうか。彼がどう思って自分のような鈍臭い子供を、仲間に入れてくれたのかは知らない。来るもの拒まずという、親分肌だったのだろうか。今更聞いても教えてはくれないだろう。
 今も勝己が自分をどう思っているのかは分からない。でも、漸く嫌われてはいないと、思えるようになった。少しずつでも打ち解けていって、いつか本当に友達になれればと、願わずにはいられない。
 勝己は立ち止り、くるりと振り向いた。
「な、何?かっちゃん?」
 心の声を聞かれていたように錯覚してしまい、ドキッとする。面と向かうと緊張感してしまう癖は、そうそう抜けはしない。
「おいデク、先行くわ」
 とそれだけ言うと、勝己はずんずんと早足で去ってしまった。
「あ、またね。かっちゃん」慌てて後姿に呼びかける。
 別れ際に声をかけてくれるなんて、前なら考えられなかった。ちょっと嬉しくなり、ふわふわと心が浮ついた。
 橙色の空が朱色を帯びてきた。雲が紫色の夜の衣を纏い始めている。
 団地の入り口に入った時だ。「久しぶりだな、デク」と背後から声をかけられた。振り向くと見覚えのある顔。
「俺だよ、俺」
「あ、ああ、うん」
 思い出した。幼稚園からの幼馴染の1人だ。小学校3年生のクラス換えで別々になるまで、勝己達とつるんでいた。
「カツキと同じ雄英に入ったんだってな。テレビで雄英の体育祭見たぜ」
 なんと答えていいものか。「あ、うん」と戸惑いながら返す。
「お前、個性あったのかよ。すげえな。で、やっぱりいまだにカツキにいじられてんだな。障害物競走でも騎馬戦でも、お前に突っかかってたよな。あいつ昔からひどかったよな」
 君も一緒になっていじめてきたろ。と思ったが言わない。覚えてないのだろうか。「今のかっちゃんはそんなことないよ」と答えておく。
「あいつが?マジかよ」
 それにしても、と思う。いじめた方はどうして何もなかったかのように、平気で話しかけてこれるのだろう。フレンドリーに来られると、どうしていいのか困ってしまう。
 小学生の頃なんて、いじめも遊びも曖昧なんだろうか。何をしたか忘れているのだろうか。こっちは今も苦手だというのに。傷つけた方にとっては取るに足りないことでも、傷つけられた方は覚えてるんだ。
 それとも、今だに昔を引きずっている勝己だけが例外なのだろうか。
 切れ目なく続いた腐れ縁。拗れに拗れた関係は、やっと望んでいたような形に落ち着いた。昔のことを知る人には意外かもしれないけれど。
「今だから言うけどよ。カツキがお前を気に入ってたってこと、知ってたか」
 何気ない軽い調子で幼馴染は言った。いつ話を切り上げようかと、迷っていたところに意表を突かれる。
「へあ?」
「変な声が出してんなよ。あいつお前を意識してただろーが」
「え?なに、いきなりなんで?そんなことないだろ」
「あいつ、いつもお前を揶揄ってたろ。それに何かうまくいくと、いつも嬉しそうにお前だけに振ってただろ。カツキが上なのは当たり前なのによ」
「まあ、そうだったけど。馬鹿にされてたんじゃない」
 自分との差を見せつけて悦にいる。勝己はいつもそうだった。
「あれはよ、お前の反応が欲しかったんだろ。オールマイトカードだって、いいの出ると真っ先にお前と見せ合ってたし。他の奴にはそういうの、振らねえの気づいてたか?お前だけデクって徒名決めて呼んでたしよ」
「徒名は皆につけてたじゃないか」
 雄英でも轟くんや麗日さんや切島くん、上鳴くん達を、おかしな名前で呼んでた。最近は呼ばないけど。
「いや、俺らを徒名で呼ぶ時は、ただの悪態だろ。全然違うわ。あいつお前だけ特別だったんだよ」
 全然そうは思えないけど、勝己のそんな行動が、傍目には好きだからだと思われたのだろうか。
「そんな風に見えてたんだ。意外だよ」
 幼馴染はじっと出久を見つめ、徐ろに口を開いた。
「今だから言うけどよ、俺らはカツキがお前に恋してんだと思ってたんだぜ」
 突飛な言葉に、頭が真っ白になった。
「え、え、恋?かっちゃんが?なんでそうなるの?今の話のどこに、そんな要素があるんだよ」
「恋してるとしか思えねえだろ」
「あり得ないよ!あのかっちゃんだよ」
 勝己に好意を持たれてたってだけでも想像し難いのに。好意だけならまだしも、恋慕なんて飛躍し過ぎだろう。
「お前もいつもあいつにくっついてたし、俺らはお前もあいつを好きなんだって思ってたぜ」
「僕が?そんなわけないだろ」
 ぶんぶんと頭を振って否定する。
「ああ、お前は段々離れたてったしな」
「それは」離れたくて離れたわけじゃないけれど、彼に個性が発現してから、徐々に歯車が狂っていったのだ。
「根拠はあるぜ。お前がつるまなくなってから、俺らはカツキは落ち着くかと思ったんだぜ。でもお前は知らねえかもしんねえけど、あいつ苛々しながらも、いつもお前を目で追ってたんだ。去る奴追わねえあいつが、わざわざ追いかけて、結局はお前に構うしよ。あいつはなんも変わらなかったんだよな」
「あれは構ってたんじゃないだろ」
 少しイラッとして口調に出てしまった。いじめられてたんだ。いくらなんでも過去改変が過ぎるだろう。
 勝己の存在は、時に怪物のように自分を威圧した。憧れと恐れと形容できない様々な感情が渦巻いて、マーブリングの模様のように心の中で混濁していた。話していると当時の黒い心が蘇ってきそうだ。今の彼は違うのに。
 早く話を終わらせたい。手を上げて「じゃあこれで」と言おうとしたところで幼馴染が口を開いた。
「あのよお、カツキが荒れたのは、お前がこっちをヴィランに仕立てたからじゃねえか」「え?どういうこと?」出久は驚いて問い返す。
「俺らがヒーローごっこしたりして、ちょっとヴィラン役の奴小突いたりすっと、いつもお前はそいつを庇いやがったろ。それがあいつは気に食わなかったんだ。お前も一緒にこっち側に加われば、カツキは怒んなかったと思うぜ」
 びっくりした。そんな風に思っていたのか。かといっていじめる側に加われるわけがなかったけれど。
「カツキは強えけど、どんな強え奴でも弁慶の泣き所っつうのがあんだよな。それがお前なんだよ。お前と揉めるまでは、あいつはやんちゃなガキ大将だったろ」
 彼が変わったのは、個性発現してからじゃないのか。いやそれだと4歳からということになる。あの後だって一緒に遊んでた。ではいつからだったんだろう。覚えてない。
「あの頃、あいつはお前に恋してんじゃねえのかって、皆思ってたんだぜ。本人は無自覚だったかも知れねえけどな。でも流石に今はあいつも自覚してんじゃねえの」
「だから恋なんて、何でそんなこと」
「お、そろそろ帰んなきゃな。じゃ、またな」
 腕時計を確認すると、幼馴染は風のように去っていった。伸びた影が遠ざかってゆく。
 後には動揺して立ち尽くす出久が残された。
 恋ってなんだよ。意味がわからないよ。

 パソコンで過去のオールマイトの動画をザッピングする。元気を貰う、日課のようなものだ。だが今夜はマウスを動かしながらも、出久は上の空だった。
 頭の中に幼馴染の言葉が離れない。彼の言ったことは本当なのだろうか。
 勝己が自分を好きだなんて突飛な話だ。大体好いている相手をいじめたりするだろうか。ないない。とてもあり得ないと思う。
 けれど、周りには違って見えていたらしいのだ。
 窓を開けるとすうっと夜風が吹き抜けた。カーテンが空気を含んでたなびく。眠る夜の町。灯りが蛍のように疎らに散らばっている。
 勝己は起きているだろうか。黒に沈んで彼の家は見えないけれども、青白い三日月の下に勝己の家があるはずだ。
 恋なんて勘ぐり過ぎた話はともかく、好かれていたのなら。それをあの頃知っていたなら、もっといい関係でいられたのではないだろうか。
 勝己は自分をどう思っていたのだろう。昔の話だし、今なら聞いてみてもいいだろうか。確かめないではいられない。
 僕は軽く考えていた。だがあまりにも浅薄だった。聞くべきではなかったのだ。


2・凍える羽搏き


 連休が終わり、久しぶりに出久は家から直接学校に向かった。休みの間の宿題を入れたリュックは、いつもよりちょっと重い。
 駅への道すがら、勝己にばったり会った。
「お、おはよ。かっちゃん」
 勝己のことを考えていたところだっただけに、挨拶する声が裏返る。同じ電車に乗るのだから十分あり得ることなのに。
「ああ」と勝己に軽く返される。
 昔はこんな挨拶をするだけでも罵倒されたけど、もうそんなことはない。ぶっきらぼうな物言いは変わらずとも、ちゃんと会話だってできる。今みたいなそっけない返事でも、声をかけたら返してくれるのが嬉しい。
「おいデク、ちんたら歩いてんじゃねえよ」
「あ、待ってよ、かっちゃん」
 隣に並ぶのはちょっと遠慮して、一歩下がって歩きながら考える。
 昨日幼馴染から聞いた話。子供の頃の勝己の真意がやっぱり気になる。今日の彼は比較的穏やかだし、機嫌がいいようだ。さりげなく聞いてみようか。
「あの、かっちゃん」
「んだよ」
「昨日ね、幼稚園の時からの幼馴染に会ったんだ」
「ああ?それがどうした」
「その時変な事言ってたんだ。かっちゃんは昔、僕を好きだったって」
「はああ?」くるっと勝己が振り向いた。「あるわけねえだろが!馬鹿言ってんじゃねえよボケカス。殺すぞクソが」
 久方ぶりに淀みない罵倒が降ってきた。しまった、怒らせてしまったと、出久は慌てて言い繕った。
「そうだよね、ゴメン。君が僕を好きなんて。あるわけないよね」
 好きだというなら、やはり長い間あんな酷い態度を取るはずがないのだ。無責任な言葉に踊らされて、全く何を馬鹿なこと言ってしまったんだろう。
「彼らが邪推してたんだね。おまけに恋してたんだろうなんて、言ってたよ。おかしいよね」
「黙れよ、デク」
 勝己の呟きが耳に入ったけれど、バツが悪くて早口で言い訳を続ける。
「僕らは男同士なのにね。ほんとおかしいよね。恋だなんて。よりによって君がなんてさ、だって…」
 勝己の顔が見られず、視線を逸らして否定の言葉を並べ立てた。
 だが全部言い終える前に乱暴に口を塞がれる。
「そんなにおかしいかよ?ああデク!」
「んん、かっちゃん?」
「なあデク、てめえはどう思ってんだ」
 口を塞ぐ手が少し緩められる。
「どうって?何を」
「俺のことをだ。てめえはどう思ってんだ?」
 宣告を待つように俯いて、絞り出すような低い声で、勝己は繰り返した。
「君はすごい人で……」答えながらじわじわと間違いに気づく。違う、彼の聞いていることは違うんだ。
「んなこと聞いてんじゃねえ、デク。てめえは俺をどう思ってんだ」
「僕は……」でも、何を言えばいいんだ。喉に言葉が詰まったようで、次の言葉を継ぐことができない。
「はっ!」勝己は吐き捨てる。「てめえは違うんだろ!わかってんだよ。昔からわかってんだ。てめえは俺を嫌な奴だと思ってんだろ。なのにてめえは俺に聞くのかよ。ああ?デク!ざけんな!」
 怒鳴り声とともに床に引き倒された。がつんと後頭部がアスファルトにぶつかる。くわんくわんと視界が揺れる。脳震盪を起こしそうだ。リュックを背負ってなければまともに打撲して、失神していたかもしれない。
「ちが……、かっちゃん」
「黙れよ、デク。それ以上喋んな」
 勝己の怒りを押し殺した声。くらくらした頭がざあっと冷える。
「ふざけんなよなあ!てめえにはその気はねえくせに!なんで俺に聞いた!馬鹿にしてんのかよ、クソが。もうなんも喋んな。殺すぞ!ボケカス!クソが!」
 激昂した勝己は周りのざわめきをよそに怒鳴る。
「クソが!クソが!そんな目で俺を見んな!俺を見下すな!侮るな!デク!」
 出久の襟元を掴んで勝己は咆哮する。苦しい。息ができない。
「クソが!クソが」と罵倒され、漸く手荒に振りほどかれた。
 出久は空気を吸い込んで、咳き込む。勝己は舌打ちして、何見てんだと周囲を威嚇して歩き去った。
 久しぶりに感じる彼への恐怖。震えが止まらない。と同時に、彼の怒りに燃えた瞳と言葉に気づかされた。
 僕はなんてことをしてしまったんだ。かの幼馴染の言っていたことは本当だったのだ。恋してたのだ。かっちゃんが僕を。信じられないことに。
 でも、それを指摘することで、彼が激昂するなんて思わなかった。ただ、子供の頃の勝己に、好意を持たれてたのならいいなと思って、確認してみたかっただけなのだ。どちらにせよ過去の話なのだから。昔のことは振り返らないと勝己は言っていたから。
 昔のことではなかったのか。君は今も恋を。
 時間が戻るなら馬鹿なことを言ってしまう前に戻したい。遠ざかる勝己の背中。追いつきたいのに、謝りたいのに、足が竦んで動かない。

「緑谷、どうしたんだ?」
 予鈴ギリギリに教室に駆け込んだ出久に、轟が話しかけてきた。
 慌てて「何が?なんか変?」と服をぱたぱたと叩く。服についた砂は掃ってきたつもりだけど、不自然なところがあるのだろうか。
あいつだ、どうしたんだ?」と轟は視線で窓際に佇む勝己を示す。
 目を向けてぞくっと背筋に冷気が走る。勝己の全身から吹き出す怒りのオーラが、目に見えるようだ。
「朝から爆豪の奴、酷え荒れようだぜ」
「だよなあ?近寄るだけですぐ爆破させてきやがる。生きた地雷みてえだ。またお前ら喧嘩したのかよ」
 切島に尋ねられ、「僕が?なんで」とどきりとする。
「爆豪があんだけ荒れるなんて、お前関連以外にねえだろ。あいつにとってお前は特別なんだからよ」
「そんなわけないよ!」
「ど、どうしたんだ、お前までムキになってよ」
「ご、ごめん」みんなにも勝己が幼馴染の言ってたように見えているのかと、焦ってしまった。切島は何か納得したような表情で尋ねる。
「やっぱり、お前らなんか揉めてんだろ。何があったよ」
「何があったんだ?緑谷くん」
 通りかかった飯田にも聞かれる。原因が自分なのは決定事項とさられたらしい。弱ったな。でも当たってるし。少し考えて、答える。
「言えないんだ。心配かけてごめんね。大丈夫、なんとかするから」
 無理に笑顔を作る。言えるわけがない。考えにくいが、もし逆の立場だったのなら、最悪なのは他の誰かに知られることだ。誰にも相談できない。一人でなんとかするしかない。
 僕はかっちゃんを恋愛対象に思えるだろうか。と考えてみる。
 無理だ。想像するのも難しい。男同士だ。とても考えられない。ましてやあのかっちゃんだ。
 真意を知らなかったとはいえ、長年いがみ合ってきたのだ。以前よりもマシになったけど、今もさほど会話できるわけでもない。到底気持ちに応えることなんて出来ない。近すぎて遠い。それがかっちゃんと僕との距離なんだ。
 君も僕となんて、考えられないと思ってたんじゃないだろうか。
 きっとそうだ。だからずっと黙っていたんだ。ひょっとして、雄英ではない別の高校に行けと、勝己が自分に強いたのは、それが理由だったのではないだろうか。
 僕にしても君にしても、いつか恋人を作るとすれば異性だろう。それに相性のいい相手にすべきだろう。君は君を怖がらない相手、僕は僕で緊張しない相手。君もそう思ってたんだろう。
 それなのに、僕は君の心を暴いてしまった。
 君の気持ちなんて知るべきじゃなかった。知らなければ、いつかはなかったことになったんだ。僕に知られるなんて、君にとって屈辱以外の何者でもないんだろう。
 好かれてる可能性を知った時は嬉しかった。本当だったのに、今の僕の気持ちは沈んでる。こんなことになるなんて。どうすればいいんだろう。
 出久は顔を上げて、正面にある勝己の背中を見つめる。彼の側に寄れるのは、前後に座る授業中だけだ。
 僕が仕出かしたことなんだ。何もしなければ、今度こそ君との関係は、修復不可能になるかも知れない。謝るしかない。
 どう言っていいのかわからないけど。ほかに思いつかない。君が許してくれるまで何度でも謝ろう。
 皆の目があるから、教室では話すことはできない。休み時間に教室を出た勝己の後を追う。渡り廊下に一人でいるのを見計らって、出久は恐る恐る話しかけた。
「かっちゃん、その、話が」
「クソデクが!寄んじゃねえよ」
 勝己は掌をこちらに向けて構えてる。
「かっちゃん、ごめん。僕はずっと君に嫌われてると思ってたんだ。だから、確認したかっただけなんだよ。怒らせるつもりじゃなかったんだ」
「喋んじゃねえっつったろうが!」
「聞かなかったことにするよ。忘れるから、かっちゃん、だから」
 瞬間、眼前で火花が散った。危険を察知して横に飛び退く。顔のすぐ側で爆発が起こった。
 キーンと耳鳴りがする。直撃コースだ。
「あ、危ないだろ。かっちゃん」
「はっ!次は容赦しねえ。退け!」
 肩を捕まれ、ぐっと乱暴に押しのけられた。足がもつれて倒れそうになり、円柱にもたれかかる。
 簡単に許してくれるなんて思ってない。でも、許してくれるまで諦めない。出久はじんじんと痛む肩を摩った。
 それから何日も、出久は勝己を追いかけては、幾度も謝ろうとした。そのたびに勝己は視線で殺せるほどの敵意を向けて、出久を罵倒した。
 出久が寄ろうとしただけでも、掌から火花を散らして威嚇する。諍いを止めようとしたクラスメイトも、とばっちりを受ける。取りつく島もない。出久の神経は次第に磨耗していった。

 ふと教室の窓の外に目をやる。
 窓枠に区切られた、重苦しく空を覆う鉛色の雲。まるで僕の心のようだ。出久はふうっと溜息を吐く。
 子供の頃のことじゃないか。いや、今もだとしても。なんでいつまでもへそ曲げるんだよ、と恨めしく思ってしまう。でも悪いのは自分なのだ。
 傷つけるつもりはなくても、相手が傷ついたなら、怒りを覚えたのなら、傷つけた者は悪なのだ。僕は昔のいじめっ子をそう断罪していた。身を持って知っている罪だ。なのに僕も彼らと同じことをしてしまったのだ。
 薄曇りの空に、ぱらぱらと木々の葉を打つ音。雨だ。
 教室の硝子を叩く雨粒を見ているうちに、出久の心は過去に引き込まれた。
 子供の頃の勝己は純粋に、憧れそのものだった。勝ち気な赤い瞳、上級生にも怯まないタフさ。彼のようになりたかった。
 オールマイトを知ってからは、目標は彼に変わってしまったけれど。それでも勝己の不屈の闘志や勝利を諦めない辛抱強さには、未だ変わらず憧れてやまない。
 気性が激しさは君の個性に相応しく、生命力そのもののような君が眩しい。
 でも、憧れと恋慕は全く違うものだ。
 雨が強くなってきた。窓硝子に水滴が幾筋も跡を付けてゆく。
 「放課後、待ってろよ」と中学生の時に勝己に何度も言われた。
 中学生の頃の勝己の取巻き連中は、小学生以前の仲間と違い、出久を虐めたりはしなかった。というより自分には目もくれなかった。それが普通だ。無個性な奴にわざわざ絡みにくるほど、彼らも暇じゃない。
 だが帰りのHRの前に度々、勝己は彼らから離れて出久の方に来ては、一方的に告げるのだ。放課後に待ってろと。
 何の用なのか、聞いても言ってくれない。だから、きっとろくなことがないに違いないと思い、待つことはなかった。逆になるべく早くに帰ろうとした。
 その度に勝己に見つかって詰られた。捕まって校舎裏や廊下の隅に連れて行かれて、小突かれたり、頭を抑えこまれたりした。
 やはりろくなことがないんだと、何度言われても一度も待ったりしなかった。でも逃げようとしても逃げ切ることは出来ず、いつも捕まった。
 今みたいな雨の日だ。
 早く帰るのではなく、裏をついて遅く帰ろうとしたのに、勝己に見つかってしまった。
 廊下の窓硝子を雫が伝って流れていた。勝己は自分を床に組み敷いて、下腹の上に馬乗りになっていた。両腕は拘束された。万力のように締められた手首が痛かった。
「逃げんな」
 吐息がかかるほど、勝己は顔を近づけた。
「逃げんなクソが。待ってろっつったろーが!いつもいつも逆らいやがって」
 じわりと勝己の掌が汗ばんできたのを、掴まれた手首に感じた。
「クソナードのくせに。虫ケラのくせに。クソが!クソが!この俺がてめえなんかに!」
 勝己は出久の手首を束ねて片手で拘束し直し、自由になった手で頬を撫でた。ひたりと湿った感触。ニトロを含有する汗。硬い掌が発火し、頬を爆破するんじゃないかと怯えた。
 個性の使用は禁止だから、勝己は相手に酷い火傷を負わせたりしない。手加減するのに長けてる。わかってても、かたかたと震えて、歯の根が合わなった。いつ殴られるのか、爆破されるのかと恐れた。
 ギリッと歯ぎしりをし、「待ってろと言っただろうが!」と言って見下ろす勝己が、ただ怖くて時が過ぎるのを、解放してくれるのを待った。
 あの時、勝己は出久を抑えこんで、顔に触れただけで何もしなかった。
 廊下の床の硬さと冷たさ。
 下腹を圧迫する勝己の重み。
「逃げんな、逃げんな」と譫言のように繰り返された言葉。
 頬に触れる体温の高い掌。
 雨だれがコンクリートを打つ音。
 群青色の雲が垂れ込めた空。
 今、恐怖の記憶が違った意味を持って思い出される。あの時勝己は、自分を傷つけるつもりではなかったのだろうか。
 何度も呼び出す理由を、難癖つけるつもりなのだと決めつけていた。いつも怖がってばかりだった。
 声が震えて体が震えた。条件反射になっていたくらいに。それは逆に彼を傷つけていたのだろうか。もう聞けるわけがない。
 小学生の時の仲間だけじゃなく、ひょっとして中学生の頃の勝己の取巻きの連中も、彼の心に気付いていたのだろうか。自分に構う勝己を、呆れたように見ているだけだった彼らも。
 ただ怖がって、勝己を避けるので精いっぱいで、何故絡んでくるのかなんて、一度も考えたことはなかった。
 思い至るわけがないよ。僕は君が何を考えてるかわからなかったんだから。
 君のことを嫌な奴だと思っていたよ。君のせいで僕の小中学時代の学校生活は灰色だったんだ。
 でも1番楽しかった思い出も、君とのものなんだ。
 君はいつも逃げるなと言っていた。ずっと僕は逃げていた。でももう、君と対話することから逃げたくない。逃げてはいけないんだ。
 授業が終わると、出久は教室を出て行く勝己を追いかけた。
「かっちゃん!」と呼ぶが止まってはくれない。呼びながら廊下を追いかける。
 勝己は階段の踊り場で「ああ?」と振り向いて、やっと立ち止まってくれた。
「しつこく付いて回りやがって。何が言いてえんだ」
「君の気持ちは嬉しかったんだよ、本当だよ」
「は!嬉しい、かよ」と勝己は吐き捨てるように言う。「随分余裕の口振りだよな。てめえ、優越感かよ」
「違うよ、君とは意味が違うけど、僕はずっと君とわかりあいたかったんだ。やっと君と和解したのに、こんなことでまた仲違いしたくないんだ」
「は!てめえにとってはこんなことかよ。ムカつくことしか言わねえな。クソが」
「ちが、ごめん、君を怒らせるつもりはなかったんだ。馬鹿にするつもりなんて、絶対なかった。そのことはわかって欲しいんだ」
「はあん、そうか」勝己は歪んだ笑みを浮かべる。「俺に悪く思われたくねえってか。大した偽善者だぜ」
「そんな。僕はそんなつもりじゃないよ」
「じゃあなんだ。てめえは俺にどうして欲しいんだ。俺に許して欲しいのかよ。は!随分図々しい言い草じゃねえか。おいデク、悪気がなければ、なんでも許されるなんて思うなよ」
 何を言えば君に届くのだろう。どう言えば君は聞いてくれるのだろう。
「どうすれば、償えるの?かっちゃん。償えるならなんでもするよ」
 思い余って紡いだ言葉は、正しかったのだろうか。
 言ってすぐに後悔した。何を口走ってるんだ。僕は。償うなんておかしいだろ。
 項垂れた出久を勝己は冷たく見据える。重たい沈黙が流れた。
「なんでもすんのかよ」
 いたたまれなくなった頃、勝己はやっと言葉を発した。冷たい声。しかし、出久は返事してくれたことにほっとした。
「うん。僕にできることならだけど。あ、もちろん法律に触れるようなことは駄目だよ。何をすればいい?」
「じゃあてめえ、俺に抱かれるか」勝己は顔を近づけた。鼻が触れそうなくらいの距離で繰り返す。「抱かせろや。デク」
 抱く、という言葉が頭の中でくわんくわんとエコーする。
「それは……無理だよ」震える声でやっと答える。
「ああ?なんでもっつったよな!てめえ」
「君に、こ、恋してないのにできないよ」
「はっ!できねえってか。できねえなら、なんでもするなんて言うんじゃねえ!クソが」
 勝己の形相が変わる。爆破される?直当てから逃げられない距離だ。
「おいおい、なんだなんだ!喧嘩かよ」
「なんだか知んねえけど、まだ怒ってんのかよ、爆豪」
 上鳴と切島が通りかかった。助かったと安堵する。
「うるせえ!てめえらには関係ねえ」
 勝己はドンっと出久の胸を突くと、去って行った。弾みで出久はよろけ、壁に背をぶつけて尻餅をつく。
「大丈夫か、緑谷。あいつのことは熱り冷めるまでほっとくしかねえんじゃねえか。時間が立てばあいつの怒りも収まるだろうし」
「ああ、どうにもならねえことはあるからな。時間が全部解決してくれるとは言えねえけど。待つしかねえこともあるぜ」
 切島と上鳴は自分を案じてくれてる。荒ぶる勝己に近寄る危険は、彼らもよくわかっているのだ。
「うん、でも時間を置いたりしたら、修復がきかなくなるかも知れない」
「うーん、そんなことねえと思うけど、いや、言い切れねえか。お前ら何年も揉めてたんだもんな」と上鳴は困り顔で腕を組む。
「もう嫌なんだ。何もしないで悪化するのを眺めてるだけなんて」
「そうか、ある意味奴と戦うってことだな。拳を交えて解決する方法を選ぶのも一理あるぜ。漢だもんな」
「ちょ、ちょっと違うよ。切島くん。でも、煙たがられても、やめるわけにはいかない」
「そっか」上鳴が肩を叩く。「理由、やっぱり言えねえのか?力になれるかも知んねえぜ」
「ううん、ごめん。言えなくて」
「そうか、でも困ったら言えよな。いつでも聞くぜ」
「ありがとう」胸がきゅうっと暖かくなる。
 級友達は優しい。相談すればきっと助けてくれるだろう。でも、そのためには勝己のことを、言わなきゃならなくなる。彼がずっと隠していたことを。それだけは駄目だ。
 もしかして幼馴染達のように、彼らも勝己の心に気づいているのだろうか。いや、推測するのはよそう。自分で解決すべきことなんだ。
 だがその日も、勝己は頑なに出久に怒りを向けた。謝ろうとするほどに、勝己はさらに態度を硬化させていった。関係を修復する糸口すら見つからない。かえって仲はどんどん悪化していく。焦るほどに歯車が狂っていく。
 徒労に終わる日々は出久を消耗させた。それでも、捨ておけないのだ。放っておいてはヒーローになれない。彼の怒りは自分の所為なのだから。

 出久は寮の自室に戻ると、鞄を下ろして溜息を吐いた。今日も勝己は剣呑として、一言も出久と話そうとしなかった。
 好意を持たれていた。本来なら嬉しいことのはずだ。なのに辛いだけだなんて。
 何故、好意だけじゃなく恋なんだろう。
 何故好意だけを抱いてくれなかったんだろう。
 恋ってなんなんだろう。
 子供の頃の勝己に好かれていたと聞いて、信じられないと思ったけど嬉しかった。でも恋と聞いて戸惑った。頭ではそんなに違いがあると思えなかったのに。でも心のどこかで、明確な違いを感じ取っていたんだろう。
 勝己は抱かせろと言ったのだ。そんな風に自分を、見ていたのだ。
 恋の正体はどんなにオブラートに包んでも、情欲なのかも知れない。恋は好意とは似て非なるものなんだ。
 好意は感情で、情欲は本能だ。
 ならば。性欲さえ解消できれば、落ち着いてくれるのか。
 そうだ、一度抱かせればいいんだ。勝己が言ったように。
 することすればスッキリするし、怒りも静まるんじゃないだろうか。自分も男だから、本能に抗えないことはわかる。男ってそういうとこがあるもんだし。
 出久は立ち上がり、パソコンを起動した。小窓に検索したことのない言葉を打ち込む。
 このまま険悪になるだけなんて僕は嫌だ。折角縮まった距離を諦めるなんて嫌だ。どうなるのかはわからない。でも、何もしないよりマシだ。とりあえずかっちゃんに提案してみよう。罵倒されたならそれまでだ。
 それに、抱かせろなんて、言ってるだけで、いざとなれば冷静になるかも知れない。
 僕は切羽詰まっていた。自分の傲慢さに気づいていなかったのだ。


3・戸惑う牙


「かっちゃん、起きてる?」
 皆が寝静まった頃に、出久は勝己の部屋を訪れ、ドアをノックした。
「入っていいかな」と問うてみる。
 返事はないけれど、起きてるようだ。衣擦れの音がする。ノブを掴むとくるりと回った。鍵はかかってない。
「お邪魔するよ、かっちゃん」
 そろそろと部屋に足を踏み入れる。暗い室内に廊下の光が差し込んだ。
「寄んな」
 ベッドの方から、低い唸るような声がした。夜の猛禽類のような、赤々と光る瞳が威嚇してくる。視線が合って怯んだが、勇気を奮って出久は後ろ手に扉を閉める。ドアの隙間から漏れる光が、闇に細く筋をつけて消えた。
「こんな夜にわざわざ来てよお、なんだデク、犯されてえのかよ」
 勝己は起き上がってデスクライトを点けると、ベッドに戻って座った。
「お、か、」
 直接的な言葉にぞくりとする。慄いて後退りしたのを勝己は見逃さない。ニヤリと笑って立ち上がり歩み寄ると、いきなり足を払って出久を絨毯の上に引き倒した。
 馬乗りになって、見下ろしてくる勝己は悪鬼のようだ。怖くてたまらない。ひくっと喉が鳴る。
 でも逃げちゃいけない。覚悟してきたのだ。出久はすうっと息を吸った。
「それで君の怒りが収まるのなら、いいよ」
「はあ?てめえ、わかってんのかよ。セックスするっつってんだぞ」
 ごくりと唾を飲む。「いいよ、何をするのかはわかってるから」
 とりあえず調べてはみたのだ。男同士のやり方を。正直、余計に怖くなってしまったのだけど。
「いいよ」と勝己をまっすぐに見上げる。
 一回やってみたら、彼の鬱憤が解消されるかも知れないと、その可能性に賭けたのだ。グラウンドベータでの対決の時みたいに。
 勝己は驚いて硬直している。意表を突けたようだ。
「わかってるだと?おい、デク」
 すうっと部屋の温度が冷えたような気がした。
「かっちゃん?」
「てめえ、まさか、やったことあんのかよ。言え!誰にやられやがった!」
 知ってると言ったから、経験したと解釈されてしまったのか?しかもやられたって、男にってこと?
「ないない!ないよ!なんでそうなるんだ」
「クソが!紛らわしいわ!」
「君もしたことないよね?」
「ああ?うるせえわ、クソナード!」
「ないよね?だったらさ、一回やってみようよ?ね?」
「てめえは……」
 そう言いかけて勝己は黙ってしまった。冷静になると恥ずかしさが押し寄せてくる。何言ってるんだろう、僕は。まるで僕から積極的に誘ってるみたいじゃないか。かっちゃん呆気に取られてないか?
 ひょっとして、抱くって言ってたのも、言葉だけで本気じゃなかったかも。
「ご、ごめん、君にその気がなければ、今のなしで」
 出久は狼狽えた。顔が羞恥で熱くなる
「身体だけなら、てことかよ。てめえはまた!また!」勝己は拳を床に叩きつける。「俺を虚仮にしやがって!クソが、クソが!」
「違うよ。虚仮にしてなんかない、かっちゃん」
 怒らせてしまった。また間違ってしまったのか。
 だが罵倒しながらも、勝己は出久の顎を掴んで口を開けさせ、口付けた。隙間なく唇で塞いで食らうようなキス。歯がぶつかった。吐息を奪われる。
 本気だ。かっちゃん。口内を這う舌の音が内側から鼓膜を震わせる。
 キスを交わしながら、勝己は出久を抱き起こし、、縺れるようにベッドに倒れ込んだ。
 食むようなキスが続き、音を立てて唇が離される。勝己は出久のTシャツの中に手を入れて肌を弄り、邪魔だとばかり破りそうなほど荒々しくシャツを剥いだ。体を起こして勝己もTシャツを脱ぐ。性急さに戸惑って、出久はハーフパンツにかけられた手を押さえた。
「ま、待って、かっちゃん」
「ああ?んだよ!」
 出久を見下ろすギラついた瞳は、獰猛な獣のようだ。
「やっぱり難しいんじゃないかな。男同士なんて」
「ああ!今更てめえ、ざけんじゃねえ!舐めんな。できるわ!」
「もう一度確認するけど、かっちゃんも経験ないよね」
「あ?それがどうした」
「べ、勉強してからの方がよくない?」
「デクてめえ、逃げんのか。ここまできて怖気づいたのかよ」
「そ、そんなことないよ」
 覚悟してきたくせに、いざとなると怖い。それを看破されている。
「もう遅えわ。クソが」
 あっという間に一糸纏わぬ姿にされた。勝己も裸になり、出久の上にのしかかり身体を重ねてくる。
 ひたりと直に触れる人の皮膚。引き締まった筋肉の重み。胸と腹に感じる自分より少し高い体温。下腹部に体毛と硬いものが当たってる。これは、勝己のあれだ。勃起してる。かあっと顔から火が出そうになる。
 勝己の唇が首に触れて押し当てられ、ちゅうっと吸い付く。出久は目を瞑った。もう、止められないんだ。
 キスは跡を付けながら、胸、腹、脇腹に降りてゆく。

 脱力した身体がずしりと重ねられる。ふうっと首元で勝己が息をつく。
 この生々しさが恋なんだ。
 好きということと恋じゃ全然違うんだ。
 疲労で手足が重い。頭に霞がかかったようだ。
 ポツリと勝己が呟く。「自己犠牲かよ。反吐が出るぜ」
 ぎゅうっと抱きしめられた。抱き潰されそうだ。
「かっちゃん」出久は呼んでみた。喘ぎ過ぎて、声が枯れている。
「デク、デク」と勝己は呼ぶ。どちらのものとも知れない汗で濡れた肌。
 背にまわされた皮の分厚い勝己の掌が、じわりと熱を帯びてゆく。
「殺す。てめえを殺してやる。クソが」
 かっちゃんの怒りは収まらなかったのか。情欲を解消しても。そう簡単にはいくはずなかったんだ。全然簡単じゃなかったけれど。
 うっすらとニトロの香りが漂う。かっちゃんの掌が汗ばんでるんだ。このまま爆破されるんだろうか。くっついてたら、かっちゃんも火の粉を浴びるけれど。疲れて動けないから避けられないな。
 でも怖いと思わない。何故だろう。不思議だ。
 出久はすうっと意識を手放した。


4・ぬかるみの足跡


 翌朝。目覚めると間近に勝己の顔があった。吃驚してひゅうっと息を呑み、硬直する。
「やっと起きたんかよ、デク」
「う、ん、おはよう」
 昨晩は勝己の部屋で寝てしまったのか。ふたりとも裸のままだ。いつから寝顔を見られてたのだろうか。
 背中は、痛くない。爆破されなかったんだ、とほっとする。
「てめえ、寝落ちしやがって。クソが」
 勝己の口調は落ち着いている。文句を言ってるけれども、言葉に棘はない。機嫌が治ってるようだ。
 勝己は出久の背中に腕を回し、ぎゅうっと抱きしめてきた。身体が密着する。目の前に綺麗な鎖骨。分厚い胸。身動ぎすると、力強い腕が逃がさないとでも言うように、封じ込めてくる。
 微かに甘い、勝己の匂いだ。
「朝飯食いにいくか?」
 と話しかけられ、コクコクと首肯する。やっぱり機嫌がいい。
 嵐のようだった昨夜の行為。最初の噛みつくようなキスに、きっと酷く扱われるだろうと覚悟していた。手荒いセックスを覚悟していた。だが、入れられた時はすごく痛かったものの、前戯は念入り行われたし、挿入した時も痛くないかと聞かれた。思いの外優しい抱き方だった。
「折角の機会なんだから、楽しまなきゃ損だろうが。童貞」
 出久の思考を読んだように、勝己は揶揄ってくる。勝己は出久の額にキスをして腕を解くと、ベッドから抜け出して、立ち上がった。
「君もだろ」と言って見上げると、勝己のペニスが目に入った。どきりとして目を逸らす。
 昨日の勃起した状態と違い、通常の形に戻っている。あれが昨夜僕の中に入って、暴れ回ってたんだ。君と身体を繋げたなんて信じられない。今更ながら頬が熱くなる。
「今更なに照れてんだ、てめえ」
 勝己はニヤッと笑い、腰を揺らして振って見せる。子供みたいだ。
「腹減ったな」と言いながら、勝己は脱ぎ散らかした服を拾って、身に付けている。
 自分も服を着なきゃ、と出久は腰を上げようとしたが、股の間に違和感を感じ、「うわあ」と呻いて突っ伏した。まだ挟まっているかのような感触が、昨晩の出来事を現実なのだと突きつけてくる。
 勝己は呆れたように笑うと、散らばった出久の服を「さっさと着ろよ」と投げて寄越した。礼を言って受け取り、そそくさと身に付ける。
「まだ時間あるし、さくっとシャワーでも浴びに行くか、デク」
「そうだね。汗かいちゃったし」
 立ち上がろうとして、痛みに足元がふらついた。ざまあねえな、とにやつく勝己に腕を支えられる。
 風呂場を出て、上機嫌の勝己と廊下を連れだって歩く。尻の痛みはシャワーを浴びたおかげで、幾分か和らいだ。
 出久は自分に言い聞かせる。僕は間違ってなかったよね。
 食堂の入り口で、丁度出てきた上鳴とすれ違い、声をかけられた。
「うっす、お揃いで珍しいじゃねえか、爆豪、緑谷」
「おはよう。上鳴くん」
「でもおせえじゃん。俺もだけどよ。ちょっと寝坊しちまってよ。皆先に食って、学校行っちまったぜ」
「ね、寝汗かいたから、シャワー浴びてたんだ。朝浴びると気持ちいいよね」ちょっと狼狽えて早口になる。
「そっか。爆豪、なんか機嫌いいじゃねえか。お前ら仲直りしたのかよ」
「うっせえ、クソが」
「う、うん。おかげさまで」
「何が原因だったのか、やっぱり言えねえか、緑谷」
「うんまあ、大したことじゃないんだ。心配かけてごめん」
「おい、遅えんだろうが、無駄口たたいてんじゃねえ。行くぞ、デク」
 勝己に腕を肘で突かれる。
「うん、じゃ、上鳴くん、学校でね」。
「緑谷、あのよ」と上鳴は言いかけて口籠り、再び口を開く。「俺が言えることでもねえな。よかったな、爆豪。もう喧嘩すんなよ」
「うるせえわ。飯食ったんだろ、さっさと行けや」
 朝食を乗せたトレーを持って勝己は席に着き、腕を引っ張ると隣に出久を座らせた。勝己と隣あって食べるなんて久しぶりだ。合宿以来だろうか。
 パンを齧りながらふと思い至る。ひょっとして、さっき上鳴くんは僕じゃなく、かっちゃんによかったなって言ったのだろうか。
 気づいているのかも知れない。いつも勝己の側にいる彼らだ。でも聞かないでいてくれるのも、きっと優しさなのだ。どこまで知ってるのかなんて聞けないけれど。
 でも、ほんとにこれで良かったのだろうか。セックスはしたけれど、勝己の意に沿えるわけじゃない。機嫌はいいのは一時的なもので、また怒り出すのかも知れない。その場しのぎに過ぎないのだ。でも他に方法を思いつかなかった。
 その日の勝己は出久だけでなく、周りに対しても穏やかだった。久々に訪れた平和な日だった。
 性欲を解消したからだろうか。即物的な方法だったけれども。これで良かったんだ、と出久は安堵した。
 しかし、その安堵はほんの短い間だった。

 放課後になり、寮に戻ると勝己が玄関先で待っていた。
「かっちゃん?どうしたの?」
 勝己はこっち来いとばかりに指を曲げる。出久が側に歩み寄ると、肩を抱き、耳元で囁いた。
「おいデク、後で部屋に来いや」
「え?なんで」
「わかんだろーが」
 出久は驚いて離れようとしたが、肩を強く掴まれ、逃れられない。
「あれは、一回だけのはずだよね?」
「ああ?何言ってんだてめえ」
 勝己に腕を取られ、引きずられるように部屋に連れ込まれる。
「誰が一回で終いだっつったよ。俺の気の済むまで、てめえは俺の相手をすんだよ」
「でも、僕は君をそんな風には思えないんだよ」
「てめえの気持ちなんか知るかよ!」
「かっちゃん、でも」
「俺は一生言わねえつもりだったんだ。暴いたのはてめえだ。面白半分によ」
「そんな、面白半分になんて、違うよ」
「償いてえんだろ。許して欲しいんだろ。おら脱げ!今からセックスすんだよ」
 勝己は出久をベッドに突き飛ばし、ズボンのベルトを外した。戸惑う出久に覆い被さると、口付ける。確かに一度だけなんて約束はしてない。ならばもう一度と言われても呑むしかないのか。
 うつ伏せにされ、丹念に慣らされ、背後から貫かれる。
 揺さぶられるほどに、身体を穿ち、埋めてゆく。
 最奥まで抜いては挿れられる質量。
 汗ばんだ身体に被さる重みと、名を呼ぶ熱を含んだ声。
 熱い楔は緩やかに身体を穿ち、奥深くで動きを止める。
 背後から抱きしめる腕は、離してはくれず、出久が身じろぎすると、さらに力が籠められた。

 勝己は落ち着いた。これまでの荒れようが嘘のように。
 無闇に人に噛み付かなくなったので、クラスメイトもほっとしている。
 だが、元に戻ったわけではない。疲労が激しい時以外は、出久は毎夜のように性交を求められた。二度目の時に宣告されたのだ。勝己の気の済むまで続けるのだと。出久に断る道理はなかった。
 とはいえ、勝己は口調は荒いが抱き方は優しく、事後はとても機嫌がよい。断る理由はもはやなかった。

 背中に感じる鍛えられた筋肉。汗ばんだ皮膚がひたりと吸い付く。再びデク、と呼ぶ声と共に、首筋に熱い息が吹きかけられる。
 勝己とのセックスは、優しかったり激しかったり、日によって気まぐれだ。
 ベッドですることが多いけど、今みたいに違う場所ですることもある。明かりをつけたままでされたり、姿見の前で挿入されたり、恥ずかしくなるようなこともする。
 でも、なるべく勝己がしたいようにさせた。セックスした後の彼は機嫌がいいからだ。出すもの出せばすっきりする。即物的だが男の生理とはそういうものだ。
 けれども、これでいいのだろうか?
 一度だけだと思ってたのに、もう何回彼としたのかわからない。
 気持ちが伴わないのに、身体だけが慣れてくるのだ。身体を重ねることに、受け入れることに。ペニスを咥えるなんてこと、ちょっと前ならとても考えられなかった。
 本当にこれで良かったのだろうか。
 泥濘に足を取られて這い上がれなくなるのではないだろうか。
 迷いは膨らみ、煩悶は澱のように沈殿していった。


5・甘噛みと囁き


 ある日から、ぱたりと勝己は出久を誘わなくなった。
 寮に帰っても挨拶程度の話しかせず、ましてや色事を匂わせるようなことは、全く言わなくなった。
 始めはその気がない日もあるのだろう、と思った出久だったが、毎日のように部屋に連れ込んで抱いていたのだ。何もない日が何日も続くと、何か気に触ることをしたのだろうか、と不安になってきた。思い出せる限り身に覚えはない。
 勝己は怒ってる様子もなく、出久を無視するわけでもない。気まぐれに過ぎないのだろうか。
 出久は戸惑った。勝己の真意がわからない。セックスのことなんて聞きにくいのだけど、気になってしまう。
「あの、かっちゃんいる?」
 ドアをノックすると、「入れよ、デク」と中から返事が返ってきた。ぶっきらぼうだけれど、不機嫌ではないようだ。
「あんだ?デク」
 勝己はベッドに座っており、出久を見据えて促す。どう切りだそう。意を決して勝己の部屋に来たけれど。
「かっちゃん、その、もうしないの?」逡巡したすえについ直球で問うてみる。
「あ?何をだ?」
「その、あれのことだけど」出久は言葉を探すが思いつかない。
「あー?セックスしてえのかよ」
「そ、そういう意味じゃないよ。その、もういいのかなって」
「へえ」勝己は目を細める。「セックスじゃねえならなんだ」
「ごめん、好きでも、毎日したいわけじゃないよね、じゃ」
 恥ずかしくなって、部屋を出ようとする出久の背中に「待てや、デク」と勝己は呼びかける。
「てめえ、勘違いしてんだろ」
「なんのこと?」出久は振り返った。
「てめえ、俺がてめえを好きでやってたと、思ってんのかよ」
「かっちゃん?」
 勝己は悪辣な笑みを浮かべた。勝己が勝利を確信して、相手に勝ち誇る時の表情だ。嫌な予感がした。
「はっは、俺がいつてめえを好きだと言ったよ」
「え?だって君が」
 いや、確かに勝己ははっきりとは言ったことはない。でも、そんなこと。一体彼は何を言ってるんだ。
「俺は一度もてめえを好きだなんて、言ったことねえよなあ、デク。てめえが勘違いしただけだろーがよ」
「でも、かっちゃん」
 指先が冷たくなってゆく。
 勝己は嘲笑った。「はっは!俺に抱かれてよがって、気持ちよかったんだよなあ。デク!雌みてえに俺のちんこ咥えこんで、悦んでたもんなあ」
 何も言葉を発せられない。頭が熱くなってくる。喉に石が詰まったようだ。
「だって君は。君がそうだと思ったから、だから僕は君に抱かれたんだ」
 なんとか言葉を絞り出す。そうじゃなければ、何故抱かせろなんて言ったんだ。何のために自分は抱かれたんだ。勝己は膝を叩いて笑う。
「はっ!いい気になってたんだろう。俺に抱かせてやってるつもりだったんだろーが。好かれてると思い込んでよ。馬鹿はてめえだ。まんまとてめえで童貞捨てさせてもらったわ!」
 勝己の言葉が突き刺さる。勝己は自分嘲笑うために抱いたというのか。
 指先を凍らせた冷気が腕を登って胸に届く。すうっと心臓が冷えてゆく。足元が崩れて沈み込んでしまうような錯覚を覚える。
 勝己の笑い声が頭に反響する。
 立ってられない。もうこれ以上ここにいられない。
「そっか。君がもういいなら、もう終わりなんだね」
「ああ?」
「でも、男相手で童貞を捨てたことには、ならないと思うよ。かっちゃん」
 平静を保とうとしても声が震える。勝己の顔を見られない。踵を返して部屋を出ると
出久は廊下を駆けた。
 後ろから勝己の怒鳴り声が聞こえる。でも振り返ってられない。
 足早に階段を駆け下りて自室に駆け込み、ベッドに突っ伏した。
 好きではなかったと勝己は言った。恋じゃなかったのか。自分が勘違いしてただけだったのか。
 でも最初に恋という言葉をうっかり口にしてしまい、否定してしまった時の勝己の怒りは、本物だったのだ。無駄な偽りを言う彼ではない。なら、答えは一つだ。
 抱いて想いを遂げたから醒めたのだ。もう恋はなくなったのだ。
 もとより恋というのも、ただの子供の頃からの、思い込みだったのかも知れない。彼にとっても不本意な思いだったんだ。
 これで良かったんだ。
 溜まっていた諸々を解消されて、かっちゃんの怒りは収まったのだ。僕はもう自由になったのだ。
 なのに。解放されたはずなのに。思いのほか傷ついている心に気づかされる。ほろほろと涙が溢れて止まらない。刀で裂かれたように、胸が痛む。
 ああ、今の僕は君に恋をしているのだ。君をそんな風に思ってなどなかったのに。
 悲しくて苦しくて堪らない。終わってしまってから気づくなんて。
 望むと望まざるに関わらず、恋は予期せぬ時に嵐のように心を蹂躙するものなんだ。まるで災難のようだ。
「身体で堕ちるなんてあんまりだ」
 声に出してみる。言葉にするとなんて月並みなんだろう。
 ああ、そうか。肌の触れ合いも人の交流方法のひとつなのだ。
 君の体温が、睦言が、身を貫く熱が。言葉じゃ伝え合うことのできない、君との唯一の対話の方法だったのだ。
「馬鹿なのは僕だ」
 僕の愚かさを君はわかっていたんだろう。君のことを慮るのなら、たとえ長くかかるとしても、僕は君の心が整理されるまで、待つべきだったのだ。二度と心を開いてくれなくても、甘んじて受けるべきだったのだ。
 でも僕は待てなかった。君との関係をもう二度と悪化させたくなかった。取り返しようがなく距離ができてしまうことを恐れた。
 でもそれ以上に、僕は君を傷つけた悪者になりたくなかった。罪悪感に苛まれたくなかった。きっと君のためなどではなかったのだ。
 自分のために人の心を操ろうとするなんて傲慢だ。だからこうなるのは当然のことなんだ。偽善者の報いなんだ。
 涙の雫で枕が濡れてしまった。
 かっちゃんとのことはもう忘れよう。過ちは償ったのだ。かっちゃんは僕を貶めて、気は晴れただろう。
 今夜は無理だけれども、涙が止まらないけれど、明日になればきっと立ち直れる。
「大丈夫。僕なら大丈夫だ」声に出してみる。暗示をかけるように繰り返す。「大丈夫。何もなかったように、元に戻れるはずだ」
 僕らの間には、何もなかったんだと思えるようになれる。
「デク!てめえ!」
 バタンと勢いよくドアが開けられた。目を釣り上げて、勝己が立っている。
「かっちゃん?な、何だよ」
「はっ!なんだてめえ、べそかいてんじゃねえかよ。泣き虫がよ」
 出久の顔を見て、勝己の形相が和らぎ、得意げに嘲笑う。
「こ、これは別に、なんでもない。何しに来たんだ」
 急いで身体を起こして涙を拭った。勝己はズカズカと部屋に入ると、出久の肩を掴み、どすんと押し倒す。
「な、何?なんのつもりだよ、かっちゃん。君とはもう関係ないだろ」
「ああ?なんだてめえ、その言い草はよ。謝るときはしつこく食らいついてきたくせによ。今回はあっさり引き下がりやがって。クソが!」
「だって、もう僕らは終わったんだろ。かっちゃんの気は済んだろ。これ以上何だよ」
「はあ?ボケカス!勝手に終わらせてんじゃねえわ。誰がやめるっつったよ。クソが」
「かっちゃん?」
「てめえはほんとにカスだな。んなこったろうと思ったわ。自分から手の中に転がり落ちて来た馬鹿を、この俺が逃すわけねえわ!」
 勘違いだと言ったくせに、訳がわからない。
「君に恋心がないのならもう付き合う理由がないよね?」
「あるわ。おいデク!てめえ、俺に抱かれたいんだよなあ。認めろや」
「かか、かっちゃん?意味がわからないよ」
「抱かれてえんだろが!デク、てめえさっき身体で堕ちたっつったよな」
「き、聞いてたの?」
 勝己はいつからドアの外にいたのだろう。まるで気づかなかった。こっそり来て聞き耳を立てていたのか。どこから独り言を聞かれていたのだろうか。
「違うよ、あれは」
 顔がかあっと熱くなる。どう言い繕えばいいんだろう。
「てめえ、自分で恋に堕ちたと思ってんのか?」
「え?どういう意味」
「はっは!てめえは勝手に堕ちたんじゃねえよ。俺がてめえを堕としたんだ。てめえは堕とされたんだ、この俺によ」
「かっちゃん?何言ってるの」
「てめえがいきなり部屋に来て、俺にやっていいって言いやがった時、マジで殺意が湧いたぜ。ンなことあっさり言えるってことがよ。てめえにはその程度のことなのかよってな。これ以上ねえってくらいムカついて、てめえをめちゃくちゃにしてやろうかと思ったわ」
「ごめん、かっちゃん」
 今ならどれだけ心無いことを言ったのか、理解できる。
「だけどな」と勝己は続けた。「思い直したんだ。てめえは贖罪にきたんだ。てめえ勝手な贖罪だがよ。乱暴にしたら、てめえの思い通りになっちまう。一度抱いただけで済ませてたまるかってんだ。だから、てめえを堕とすことにしたんだ。計算通り、てめえはまんまと堕ちた。認めろよ、デク。俺に抱かれてえんだろうがよお。なあ、そうだろ、クソナード」
「かっちゃん」
「俺はてめえが好きじゃねえ!全然好きじゃねえわ!でも、てめえは俺を好きなんだろ。欲しいんだろうが。そう言えや。肯定しろやデク!」
 好きじゃないと言いながら、堕としたという。認めろと迫り、僕に好きだと言わせようとする。矛盾してる。むちゃくちゃだ。
 でも。僕はほっとしている。かっちゃんの恋が醒めたんじゃないということに。
 君が僕を欲しいと思うように、今は僕も君を欲しいと思っているんだ。君がここに来てくれたことを、理不尽な言葉を、嬉しいと思ってるんだ。
 君の思惑にまんまと乗せられたのかも知れないけれど。もう墜ちる前に戻れはしないんだ。
 出久は肯定の返事として、こくりと頷いた。勝己は満足そうに口角を上げる。
「はっは!デク、デク!もう今までみてえに手加減してやらねえ。コンドームなんざつけるかよ。一晩に一回で足りるかよ。これからだ。全部これからだ。俺が飽きるまでずっとてめえは俺のもんだ。飽きなきゃあ一生、死ぬまでずうっと俺のもんだからな。覚悟しろや」
 勝己は勝ち誇ったように笑う。
 あれ?条件が酷くなったようだぞ。かっちゃんにしては優しいやり方だと思っていたけど、やはり手加減してたんだ。
 勝己は出久の唇を食むように甘噛みし、がぶりと噛み付くように深いキスをする。
 口腔を荒々しく暴れる舌。最初の交わりの時のような濃厚な口付け。息を奪われる。窒息しそうだ。
 漸く唇が離れ、開放されてやっと空気を吸い込む。
 赤い瞳が返事を促すように見下ろす。
 彼は相当押さえていたのだ。それは今のキスでよくわかった。今後は容赦しないと、そう目で告げている。
 本気のかっちゃん相手に、どうなっちゃうんだろう。でも怖くはない。
「うん、わ、かったよ」
 呼吸がまだ戻らない。途切れ途切れに言葉を紡ぐ。勝己はすうっと目を細める。
 再び唇の触れそうなほどかがみ込み、吐息混じりの声で囁く。
「でも、ちったあてめえの言うことも聞いてやるわ。言えよ、デク。俺にどうして欲しいんだ」
 ああ、彼は僕の何倍も我儘で傲慢で、一枚も二枚も上手だったのだ。


6・橙色の思い出


「疲れたよ、かっちゃん」
 ふうふうと息を弾ませて、僕は前を歩くかっちゃんに呼びかける。
 裏山を流れる川の上流に遡って、随分と歩いてきた気がする。
 鶺鴒だろうか。川面をついっと滑るように飛んでいる。
 セキレイイザナミイザナギが、尾を振るの見て何かを知ったんだっけ。前にかっちゃんが得意げに教えてくれたけど、思い出せない。
 川べりの岩が下流に比べて、かなり大きくなってきた。ゴツゴツした岩で足が滑りそうになる。
 ふいっと前を赤蜻蛉が横切った。
「だらしねえな、デク」
 かっちゃんが手を伸ばした。僕はその手に縋るように捕まる。肉厚な掌はしっかりしてて頼もしくて、安心する。
 そのまま手を繋いで歩を進めた。川の流れが次第に細くなり、岩を穿った小ぶりな滝に繋がってゆく。
 ようやくかっちゃんは立ち止まった。着いたぜ。と顎をしゃくる。
 見上げると、空を覆うように2つの大きな岩が聳えていた。大きな岩と岩は寄り添うようにくっついている。岩の間に挟まれて、人がやっと通れるくらいの隙間があり、隙間の向こうには遠く山の端が見える。
「もうちょっと待てや。そろそろだ」
「何?何か起こるの?かっちゃん」
「黙って見てろや」
 かっちゃんはウキウキしてるみたいだ。
 ふと、岩の隙間の上部がキラリと光った。
「何なに?」
 隙間を覗いてみると、紅色の夕陽が見えた。陽が降りるに連れ、眩しく光が射し込んで広がり、両方の岩肌を橙色に塗りつぶしてゆく。美しさに疲れも吹っ飛んだ。
「すごく綺麗だね。かっちゃん」
「こないだ山登ってて、ここを見つけたんだぜ。俺の特別な場所だ」と言い、くるっと僕を見る。「てめえだから見せてやんだからな」
 かっちゃんは得意げだ。特別と聞いて嬉しくなった。手を繋いだまま、しばらく見惚れているとかっちゃんが口を開いた。
「デク、見せてやったんだから、てめえの特別を寄越せよ」
「え?見返りがいるの?」びっくりして聞き返した。
「たりめーだ、クソが!」
 頼んだわけでもないのに、お礼を要求されるんだ。やっぱりかっちゃんだった。
 とはいえ、夕陽はとても綺麗だし、かっちゃんの言葉が嬉しかった。
 僕にも彼に見せられるような、いい景色はないだろうかと考えてみたが、思いつかない。
「ごめん、かっちゃん。僕は素敵な場所なんて知らないんだ」
「クソが。場所じゃねえ」
「じゃあ、もの?」まさかと思って、恐る恐る聞いた。「僕のオールマイトのフィギュアとか?」
「クソが!てめえのお宝なんぞいんねえ。俺はてめえみてえなコレクターじゃねえよ」
「でも、僕は何も持ってないんだよ」
 君と違って、という言葉は飲み込む。ここで言う言葉じゃない。
「あんだろ。てめえの特別を寄越せって言ってんだ」
「だから、持ってないよ」
 かっちゃんはふくっと膨れてしまった。
「わかんないよ。かっちゃん」
「クソナードが」
 それっきりかっちゃんは黙ってしまった。視線を僕から外して、岩に向けてしまう。怒ったのだろうか。そっと顔を伺う。
 眉間に皺は寄ってないし、そんなに機嫌を損ねたわけじゃないようだ。
 かっちゃんは僕の手をきゅっと握り直し、そのまま一緒にポケットに入れた。ジャンパーの中で、かっちゃんの手がすりすりと僕の手を摩る。
 川からの風で思ったより冷えていたみたいだ。かっちゃんの体温に手が温められる。
「特別を寄越せや」
 かっちゃんはぽつりと繰り返す。
 岩の隙間から覗く橙色の空が朱い色に染まってゆく。
 夕陽は色の白い幼馴染の頬も赤く染めていく。

END

たったひとつの冴えたやりかた(R18版)

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1・かの日の怪物


 久方ぶりの自宅への帰り道のことだった。
 出久は膝に抱えていたリュックを担ぐと、電車を降りた。
 黄昏の空に烏の鳴き声が遠く響く。家々のシルエットを、夕焼けが橙色に縁取っている。落陽は出久のすぐ前を歩く、幼馴染の小麦色の髪も、紅に染めあげてゆく。
「家なんざ、かったりいぜ、クソが」
 勝己が出久に聞かせるともなく呟いた。
 独り言なのか、自分に話しかけてるのか、どっちだろう。返事をしていいものかどうか迷い「う、ん」と生返事をする。
 隣を歩けばいいのだろうけど、つい前後に並んでしまうのは、長年の癖のようなものだ。
 三連休に寮に一斉清掃が入ることになり、その間生徒達は一時帰宅することになった。長期休暇ですらあまり家に帰りたがらない勝己も、今回は帰宅を余儀なくされ、不貞腐れていた。
 五時半を告げるメロディが通りに流れる。公園から跳ねるように出てきた数人の子供達が、側を走り過ぎてゆく。それぞれの家に帰るのだろう。子供達は分かれ道で、バイバイと手を振って別れていった。僕らもあのメロディに急かされたなと懐かしくなる。
 勝己や仲間達と毎日遊んだ公園。ブランコも砂場も滑り台も、少し色褪せてるけどほとんど変わっていない。勝己との距離が離れていくにつれ、次第に足が遠のいてしまったけれど。
「あ?てめえは週末にしょっ中帰ってるだろうが」
 思いがけず返事が返ってきた。ちょっと焦って答える。
「う、うん、そうだね。お母さん待ってるし」
「こっちじゃ個性も使えねえし、家ですることなんて何もねえわ。親はあれしろこれしろってうるせえしよ」
 学校なら堂々と個性を使用できるだけに、勝己はもどかしさを感じているのだろう。
「かっちゃんはこっちで昔の友達に会ったりしないの?」
「あ?一度も会ってねえよ」
「え、そうなんだ」
「今更会いたくもねえ。過ぎたもん振り返ってる暇なんざねえわ」
 よく勝己は仲間とつるんでいたけど、そんなものだろうか。自分には会いたいような旧友はいないから、わからない。無個性と揶揄されていたのだ。思い出したくない。雄英で出会った、側にいてくれる本当の友達を大切にしたい。
 しかし、苦い思い出もあるけれど、それも君と友達のように歩いている今に繋がっているのだ。友達のように、としか形容できないのがもどかしいけれども。
 子どもの頃だって、勝己に憧れてひっついてたけれど、友達といえただろうか。彼がどう思って自分のような鈍臭い子供を、仲間に入れてくれたのかは知らない。来るもの拒まずという、親分肌だったのだろうか。今更聞いても教えてはくれないだろう。
 今も勝己が自分をどう思っているのかは分からない。でも、漸く嫌われてはいないと、思えるようになった。少しずつでも打ち解けていって、いつか本当に友達になれればと、願わずにはいられない。
 勝己は立ち止り、くるりと振り向いた。
「な、何?かっちゃん?」
 心の声を聞かれていたように錯覚してしまい、ドキッとする。面と向かうと緊張感してしまう癖は、そうそう抜けはしない。
「おいデク、先行くわ」
 とそれだけ言うと、勝己はずんずんと早足で去ってしまった。
「あ、またね。かっちゃん」慌てて後姿に呼びかける。
 別れ際に声をかけてくれるなんて、前なら考えられなかった。ちょっと嬉しくなり、ふわふわと心が浮ついた。
 橙色の空が朱色を帯びてきた。雲が紫色の夜の衣を纏い始めている。
 団地の入り口に入った時だ。「久しぶりだな、デク」と背後から声をかけられた。振り向くと見覚えのある顔。
「俺だよ、俺」
「あ、ああ、うん」
 思い出した。幼稚園からの幼馴染の1人だ。小学校3年生のクラス換えで別々になるまで、勝己達とつるんでいた。
「カツキと同じ雄英に入ったんだってな。テレビで雄英の体育祭見たぜ」
 なんと答えていいものか。「あ、うん」と戸惑いながら返す。
「お前、個性あったのかよ。すげえな。で、やっぱりいまだにカツキにいじられてんだな。障害物競走でも騎馬戦でも、お前に突っかかってたよな。あいつ昔からひどかったよな」
 君も一緒になっていじめてきたろ。と思ったが言わない。覚えてないのだろうか。「今のかっちゃんはそんなことないよ」と答えておく。
「あいつが?マジかよ」
 それにしても、と思う。いじめた方はどうして何もなかったかのように、平気で話しかけてこれるのだろう。フレンドリーに来られると、どうしていいのか困ってしまう。
 小学生の頃なんて、いじめも遊びも曖昧なんだろうか。何をしたか忘れているのだろうか。こっちは今も苦手だというのに。傷つけた方にとっては取るに足りないことでも、傷つけられた方は覚えてるんだ。
 それとも、今だに昔を引きずっている勝己だけが例外なのだろうか。
 切れ目なく続いた腐れ縁。拗れに拗れた関係は、やっと望んでいたような形に落ち着いた。昔のことを知る人には意外かもしれないけれど。
「今だから言うけどよ。カツキがお前を気に入ってたってこと、知ってたか」
 何気ない軽い調子で幼馴染は言った。いつ話を切り上げようかと、迷っていたところに意表を突かれる。
「へあ?」
「変な声が出してんなよ。あいつお前を意識してただろーが」
「え?なに、いきなりなんで?そんなことないだろ」
「あいつ、いつもお前を揶揄ってたろ。それに何かうまくいくと、いつも嬉しそうにお前だけに振ってただろ。カツキが上なのは当たり前なのによ」
「まあ、そうだったけど。馬鹿にされてたんじゃない」
 自分との差を見せつけて悦にいる。勝己はいつもそうだった。
「あれはよ、お前の反応が欲しかったんだろ。オールマイトカードだって、いいの出ると真っ先にお前と見せ合ってたし。他の奴にはそういうの、振らねえの気づいてたか?お前だけデクって徒名決めて呼んでたしよ」
「徒名は皆につけてたじゃないか」
 雄英でも轟くんや麗日さんや切島くん、上鳴くん達を、おかしな名前で呼んでた。最近は呼ばないけど。
「いや、俺らを徒名で呼ぶ時は、ただの悪態だろ。全然違うわ。あいつお前だけ特別だったんだよ」
 全然そうは思えないけど、勝己のそんな行動が、傍目には好きだからだと思われたのだろうか。
「そんな風に見えてたんだ。意外だよ」
 幼馴染はじっと出久を見つめ、徐ろに口を開いた。
「今だから言うけどよ、俺らはカツキがお前に恋してんだと思ってたんだぜ」
 突飛な言葉に、頭が真っ白になった。
「え、え、恋?かっちゃんが?なんでそうなるの?今の話のどこに、そんな要素があるんだよ」
「恋してるとしか思えねえだろ」
「あり得ないよ!あのかっちゃんだよ」
 勝己に好意を持たれてたってだけでも想像し難いのに。好意だけならまだしも、恋慕なんて飛躍し過ぎだろう。
「お前もいつもあいつにくっついてたし、俺らはお前もあいつを好きなんだって思ってたぜ」
「僕が?そんなわけないだろ」
 ぶんぶんと頭を振って否定する。
「ああ、お前は段々離れたてったしな」
「それは」離れたくて離れたわけじゃないけれど、彼に個性が発現してから、徐々に歯車が狂っていったのだ。
「根拠はあるぜ。お前がつるまなくなってから、俺らはカツキは落ち着くかと思ったんだぜ。でもお前は知らねえかもしんねえけど、あいつ苛々しながらも、いつもお前を目で追ってたんだ。去る奴追わねえあいつが、わざわざ追いかけて、結局はお前に構うしよ。あいつはなんも変わらなかったんだよな」
「あれは構ってたんじゃないだろ」
 少しイラッとして口調に出てしまった。いじめられてたんだ。いくらなんでも過去改変が過ぎるだろう。
 勝己の存在は、時に怪物のように自分を威圧した。憧れと恐れと形容できない様々な感情が渦巻いて、マーブリングの模様のように心の中で混濁していた。話していると当時の黒い心が蘇ってきそうだ。今の彼は違うのに。
 早く話を終わらせたい。手を上げて「じゃあこれで」と言おうとしたところで幼馴染が口を開いた。
「あのよお、カツキが荒れたのは、お前がこっちをヴィランに仕立てたからじゃねえか」「え?どういうこと?」出久は驚いて問い返す。
「俺らがヒーローごっこしたりして、ちょっとヴィラン役の奴小突いたりすっと、いつもお前はそいつを庇いやがったろ。それがあいつは気に食わなかったんだ。お前も一緒にこっち側に加われば、カツキは怒んなかったと思うぜ」
 びっくりした。そんな風に思っていたのか。かといっていじめる側に加われるわけがなかったけれど。
「カツキは強えけど、どんな強え奴でも弁慶の泣き所っつうのがあんだよな。それがお前なんだよ。お前と揉めるまでは、あいつはやんちゃなガキ大将だったろ」
 彼が変わったのは、個性発現してからじゃないのか。いやそれだと4歳からということになる。あの後だって一緒に遊んでた。ではいつからだったんだろう。覚えてない。
「あの頃、あいつはお前に恋してんじゃねえのかって、皆思ってたんだぜ。本人は無自覚だったかも知れねえけどな。でも流石に今はあいつも自覚してんじゃねえの」
「だから恋なんて、何でそんなこと」
「お、そろそろ帰んなきゃな。じゃ、またな」
 腕時計を確認すると、幼馴染は風のように去っていった。伸びた影が遠ざかってゆく。
 後には動揺して立ち尽くす出久が残された。
 恋ってなんだよ。意味がわからないよ。

 パソコンで過去のオールマイトの動画をザッピングする。元気を貰う、日課のようなものだ。だが今夜はマウスを動かしながらも、出久は上の空だった。
 頭の中に幼馴染の言葉が離れない。彼の言ったことは本当なのだろうか。
 勝己が自分を好きだなんて突飛な話だ。大体好いている相手をいじめたりするだろうか。ないない。とてもあり得ないと思う。
 けれど、周りには違って見えていたらしいのだ。
 窓を開けるとすうっと夜風が吹き抜けた。カーテンが空気を含んでたなびく。眠る夜の町。灯りが蛍のように疎らに散らばっている。
 勝己は起きているだろうか。黒に沈んで彼の家は見えないけれども、青白い三日月の下に勝己の家があるはずだ。
 恋なんて勘ぐり過ぎた話はともかく、好かれていたのなら。それをあの頃知っていたなら、もっといい関係でいられたのではないだろうか。
 勝己は自分をどう思っていたのだろう。昔の話だし、今なら聞いてみてもいいだろうか。確かめないではいられない。
 僕は軽く考えていた。だがあまりにも浅薄だった。聞くべきではなかったのだ。


2・凍える羽搏き


 連休が終わり、久しぶりに出久は家から直接学校に向かった。休みの間の宿題を入れたリュックは、いつもよりちょっと重い。
 駅への道すがら、勝己にばったり会った。
「お、おはよ。かっちゃん」
 勝己のことを考えていたところだっただけに、挨拶する声が裏返る。同じ電車に乗るのだから十分あり得ることなのに。
「ああ」と勝己に軽く返される。
 昔はこんな挨拶をするだけでも罵倒されたけど、もうそんなことはない。ぶっきらぼうな物言いは変わらずとも、ちゃんと会話だってできる。今みたいなそっけない返事でも、声をかけたら返してくれるのが嬉しい。
「おいデク、ちんたら歩いてんじゃねえよ」
「あ、待ってよ、かっちゃん」
 隣に並ぶのはちょっと遠慮して、一歩下がって歩きながら考える。
 昨日幼馴染から聞いた話。子供の頃の勝己の真意がやっぱり気になる。今日の彼は比較的穏やかだし、機嫌がいいようだ。さりげなく聞いてみようか。
「あの、かっちゃん」
「んだよ」
「昨日ね、幼稚園の時からの幼馴染に会ったんだ」
「ああ?それがどうした」
「その時変な事言ってたんだ。かっちゃんは昔、僕を好きだったって」
「はああ?」くるっと勝己が振り向いた。「あるわけねえだろが!馬鹿言ってんじゃねえよボケカス。殺すぞクソが」
 久方ぶりに淀みない罵倒が降ってきた。しまった、怒らせてしまったと、出久は慌てて言い繕った。
「そうだよね、ゴメン。君が僕を好きなんて。あるわけないよね」
 好きだというなら、やはり長い間あんな酷い態度を取るはずがないのだ。無責任な言葉に踊らされて、全く何を馬鹿なこと言ってしまったんだろう。
「彼らが邪推してたんだね。おまけに恋してたんだろうなんて、言ってたよ。おかしいよね」
「黙れよ、デク」
 勝己の呟きが耳に入ったけれど、バツが悪くて早口で言い訳を続ける。
「僕らは男同士なのにね。ほんとおかしいよね。恋だなんて。よりによって君がなんてさ、だって…」
 勝己の顔が見られず、視線を逸らして否定の言葉を並べ立てた。
 だが全部言い終える前に乱暴に口を塞がれる。
「そんなにおかしいかよ?ああデク!」
「んん、かっちゃん?」
「なあデク、てめえはどう思ってんだ」
 口を塞ぐ手が少し緩められる。
「どうって?何を」
「俺のことをだ。てめえはどう思ってんだ?」
 宣告を待つように俯いて、絞り出すような低い声で、勝己は繰り返した。
「君はすごい人で……」答えながらじわじわと間違いに気づく。違う、彼の聞いていることは違うんだ。
「んなこと聞いてんじゃねえ、デク。てめえは俺をどう思ってんだ」
「僕は……」でも、何を言えばいいんだ。喉に言葉が詰まったようで、次の言葉を継ぐことができない。
「はっ!」勝己は吐き捨てる。「てめえは違うんだろ!わかってんだよ。昔からわかってんだ。てめえは俺を嫌な奴だと思ってんだろ。なのにてめえは俺に聞くのかよ。ああ?デク!ざけんな!」
 怒鳴り声とともに床に引き倒された。がつんと後頭部がアスファルトにぶつかる。くわんくわんと視界が揺れる。脳震盪を起こしそうだ。リュックを背負ってなければまともに打撲して、失神していたかもしれない。
「ちが……、かっちゃん」
「黙れよ、デク。それ以上喋んな」
 勝己の怒りを押し殺した声。くらくらした頭がざあっと冷える。
「ふざけんなよなあ!てめえにはその気はねえくせに!なんで俺に聞いた!馬鹿にしてんのかよ、クソが。もうなんも喋んな。殺すぞ!ボケカス!クソが!」
 激昂した勝己は周りのざわめきをよそに怒鳴る。
「クソが!クソが!そんな目で俺を見んな!俺を見下すな!侮るな!デク!」
 出久の襟元を掴んで勝己は咆哮する。苦しい。息ができない。
「クソが!クソが」と罵倒され、漸く手荒に振りほどかれた。
 出久は空気を吸い込んで、咳き込む。勝己は舌打ちして、何見てんだと周囲を威嚇して歩き去った。
 久しぶりに感じる彼への恐怖。震えが止まらない。と同時に、彼の怒りに燃えた瞳と言葉に気づかされた。
 僕はなんてことをしてしまったんだ。かの幼馴染の言っていたことは本当だったのだ。恋してたのだ。かっちゃんが僕を。信じられないことに。
 でも、それを指摘することで、彼が激昂するなんて思わなかった。ただ、子供の頃の勝己に、好意を持たれてたのならいいなと思って、確認してみたかっただけなのだ。どちらにせよ過去の話なのだから。昔のことは振り返らないと勝己は言っていたから。
 昔のことではなかったのか。君は今も恋を。
 時間が戻るなら馬鹿なことを言ってしまう前に戻したい。遠ざかる勝己の背中。追いつきたいのに、謝りたいのに、足が竦んで動かない。

「緑谷、どうしたんだ?」
 予鈴ギリギリに教室に駆け込んだ出久に、轟が話しかけてきた。
 慌てて「何が?なんか変?」と服をぱたぱたと叩く。服についた砂は掃ってきたつもりだけど、不自然なところがあるのだろうか。
あいつだ、どうしたんだ?」と轟は視線で窓際に佇む勝己を示す。
 目を向けてぞくっと背筋に冷気が走る。勝己の全身から吹き出す怒りのオーラが、目に見えるようだ。
「朝から爆豪の奴、酷え荒れようだぜ」
「だよなあ?近寄るだけですぐ爆破させてきやがる。生きた地雷みてえだ。またお前ら喧嘩したのかよ」
 切島に尋ねられ、「僕が?なんで」とどきりとする。
「爆豪があんだけ荒れるなんて、お前関連以外にねえだろ。あいつにとってお前は特別なんだからよ」
「そんなわけないよ!」
「ど、どうしたんだ、お前までムキになってよ」
「ご、ごめん」みんなにも勝己が幼馴染の言ってたように見えているのかと、焦ってしまった。切島は何か納得したような表情で尋ねる。
「やっぱり、お前らなんか揉めてんだろ。何があったよ」
「何があったんだ?緑谷くん」
 通りかかった飯田にも聞かれる。原因が自分なのは決定事項とさられたらしい。弱ったな。でも当たってるし。少し考えて、答える。
「言えないんだ。心配かけてごめんね。大丈夫、なんとかするから」
 無理に笑顔を作る。言えるわけがない。考えにくいが、もし逆の立場だったのなら、最悪なのは他の誰かに知られることだ。誰にも相談できない。一人でなんとかするしかない。
 僕はかっちゃんを恋愛対象に思えるだろうか。と考えてみる。
 無理だ。想像するのも難しい。男同士だ。とても考えられない。ましてやあのかっちゃんだ。
 真意を知らなかったとはいえ、長年いがみ合ってきたのだ。以前よりもマシになったけど、今もさほど会話できるわけでもない。到底気持ちに応えることなんて出来ない。近すぎて遠い。それがかっちゃんと僕との距離なんだ。
 君も僕となんて、考えられないと思ってたんじゃないだろうか。
 きっとそうだ。だからずっと黙っていたんだ。ひょっとして、雄英ではない別の高校に行けと、勝己が自分に強いたのは、それが理由だったのではないだろうか。
 僕にしても君にしても、いつか恋人を作るとすれば異性だろう。それに相性のいい相手にすべきだろう。君は君を怖がらない相手、僕は僕で緊張しない相手。君もそう思ってたんだろう。
 それなのに、僕は君の心を暴いてしまった。
 君の気持ちなんて知るべきじゃなかった。知らなければ、いつかはなかったことになったんだ。僕に知られるなんて、君にとって屈辱以外の何者でもないんだろう。
 好かれてる可能性を知った時は嬉しかった。本当だったのに、今の僕の気持ちは沈んでる。こんなことになるなんて。どうすればいいんだろう。
 出久は顔を上げて、正面にある勝己の背中を見つめる。彼の側に寄れるのは、前後に座る授業中だけだ。
 僕が仕出かしたことなんだ。何もしなければ、今度こそ君との関係は、修復不可能になるかも知れない。謝るしかない。
 どう言っていいのかわからないけど。ほかに思いつかない。君が許してくれるまで何度でも謝ろう。
 皆の目があるから、教室では話すことはできない。休み時間に教室を出た勝己の後を追う。渡り廊下に一人でいるのを見計らって、出久は恐る恐る話しかけた。
「かっちゃん、その、話が」
「クソデクが!寄んじゃねえよ」
 勝己は掌をこちらに向けて構えてる。
「かっちゃん、ごめん。僕はずっと君に嫌われてると思ってたんだ。だから、確認したかっただけなんだよ。怒らせるつもりじゃなかったんだ」
「喋んじゃねえっつったろうが!」
「聞かなかったことにするよ。忘れるから、かっちゃん、だから」
 瞬間、眼前で火花が散った。危険を察知して横に飛び退く。顔のすぐ側で爆発が起こった。
 キーンと耳鳴りがする。直撃コースだ。
「あ、危ないだろ。かっちゃん」
「はっ!次は容赦しねえ。退け!」
 肩を捕まれ、ぐっと乱暴に押しのけられた。足がもつれて倒れそうになり、円柱にもたれかかる。
 簡単に許してくれるなんて思ってない。でも、許してくれるまで諦めない。出久はじんじんと痛む肩を摩った。
 それから何日も、出久は勝己を追いかけては、幾度も謝ろうとした。そのたびに勝己は視線で殺せるほどの敵意を向けて、出久を罵倒した。
 出久が寄ろうとしただけでも、掌から火花を散らして威嚇する。諍いを止めようとしたクラスメイトも、とばっちりを受ける。取りつく島もない。出久の神経は次第に磨耗していった。

 ふと教室の窓の外に目をやる。
 窓枠に区切られた、重苦しく空を覆う鉛色の雲。まるで僕の心のようだ。出久はふうっと溜息を吐く。
 子供の頃のことじゃないか。いや、今もだとしても。なんでいつまでもへそ曲げるんだよ、と恨めしく思ってしまう。でも悪いのは自分なのだ。
 傷つけるつもりはなくても、相手が傷ついたなら、怒りを覚えたのなら、傷つけた者は悪なのだ。僕は昔のいじめっ子をそう断罪していた。身を持って知っている罪だ。なのに僕も彼らと同じことをしてしまったのだ。
 薄曇りの空に、ぱらぱらと木々の葉を打つ音。雨だ。
 教室の硝子を叩く雨粒を見ているうちに、出久の心は過去に引き込まれた。
 子供の頃の勝己は純粋に、憧れそのものだった。勝ち気な赤い瞳、上級生にも怯まないタフさ。彼のようになりたかった。
 オールマイトを知ってからは、目標は彼に変わってしまったけれど。それでも勝己の不屈の闘志や勝利を諦めない辛抱強さには、未だ変わらず憧れてやまない。
 気性が激しさは君の個性に相応しく、生命力そのもののような君が眩しい。
 でも、憧れと恋慕は全く違うものだ。
 雨が強くなってきた。窓硝子に水滴が幾筋も跡を付けてゆく。
 「放課後、待ってろよ」と中学生の時に勝己に何度も言われた。
 中学生の頃の勝己の取巻き連中は、小学生以前の仲間と違い、出久を虐めたりはしなかった。というより自分には目もくれなかった。それが普通だ。無個性な奴にわざわざ絡みにくるほど、彼らも暇じゃない。
 だが帰りのHRの前に度々、勝己は彼らから離れて出久の方に来ては、一方的に告げるのだ。放課後に待ってろと。
 何の用なのか、聞いても言ってくれない。だから、きっとろくなことがないに違いないと思い、待つことはなかった。逆になるべく早くに帰ろうとした。
 その度に勝己に見つかって詰られた。捕まって校舎裏や廊下の隅に連れて行かれて、小突かれたり、頭を抑えこまれたりした。
 やはりろくなことがないんだと、何度言われても一度も待ったりしなかった。でも逃げようとしても逃げ切ることは出来ず、いつも捕まった。
 今みたいな雨の日だ。
 早く帰るのではなく、裏をついて遅く帰ろうとしたのに、勝己に見つかってしまった。
 廊下の窓硝子を雫が伝って流れていた。勝己は自分を床に組み敷いて、下腹の上に馬乗りになっていた。両腕は拘束された。万力のように締められた手首が痛かった。
「逃げんな」
 吐息がかかるほど、勝己は顔を近づけた。
「逃げんなクソが。待ってろっつったろーが!いつもいつも逆らいやがって」
 じわりと勝己の掌が汗ばんできたのを、掴まれた手首に感じた。
「クソナードのくせに。虫ケラのくせに。クソが!クソが!この俺がてめえなんかに!」
 勝己は出久の手首を束ねて片手で拘束し直し、自由になった手で頬を撫でた。ひたりと湿った感触。ニトロを含有する汗。硬い掌が発火し、頬を爆破するんじゃないかと怯えた。
 個性の使用は禁止だから、勝己は相手に酷い火傷を負わせたりしない。手加減するのに長けてる。わかってても、かたかたと震えて、歯の根が合わなった。いつ殴られるのか、爆破されるのかと恐れた。
 ギリッと歯ぎしりをし、「待ってろと言っただろうが!」と言って見下ろす勝己が、ただ怖くて時が過ぎるのを、解放してくれるのを待った。
 あの時、勝己は出久を抑えこんで、顔に触れただけで何もしなかった。
 廊下の床の硬さと冷たさ。
 下腹を圧迫する勝己の重み。
「逃げんな、逃げんな」と譫言のように繰り返された言葉。
 頬に触れる体温の高い掌。
 雨だれがコンクリートを打つ音。
 群青色の雲が垂れ込めた空。
 今、恐怖の記憶が違った意味を持って思い出される。あの時勝己は、自分を傷つけるつもりではなかったのだろうか。
 何度も呼び出す理由を、難癖つけるつもりなのだと決めつけていた。いつも怖がってばかりだった。
 声が震えて体が震えた。条件反射になっていたくらいに。それは逆に彼を傷つけていたのだろうか。もう聞けるわけがない。
 小学生の時の仲間だけじゃなく、ひょっとして中学生の頃の勝己の取巻きの連中も、彼の心に気付いていたのだろうか。自分に構う勝己を、呆れたように見ているだけだった彼らも。
 ただ怖がって、勝己を避けるので精いっぱいで、何故絡んでくるのかなんて、一度も考えたことはなかった。
 思い至るわけがないよ。僕は君が何を考えてるかわからなかったんだから。
 君のことを嫌な奴だと思っていたよ。君のせいで僕の小中学時代の学校生活は灰色だったんだ。
 でも1番楽しかった思い出も、君とのものなんだ。
 君はいつも逃げるなと言っていた。ずっと僕は逃げていた。でももう、君と対話することから逃げたくない。逃げてはいけないんだ。
 授業が終わると、出久は教室を出て行く勝己を追いかけた。
「かっちゃん!」と呼ぶが止まってはくれない。呼びながら廊下を追いかける。
 勝己は階段の踊り場で「ああ?」と振り向いて、やっと立ち止まってくれた。
「しつこく付いて回りやがって。何が言いてえんだ」
「君の気持ちは嬉しかったんだよ、本当だよ」
「は!嬉しい、かよ」と勝己は吐き捨てるように言う。「随分余裕の口振りだよな。てめえ、優越感かよ」
「違うよ、君とは意味が違うけど、僕はずっと君とわかりあいたかったんだ。やっと君と和解したのに、こんなことでまた仲違いしたくないんだ」
「は!てめえにとってはこんなことかよ。ムカつくことしか言わねえな。クソが」
「ちが、ごめん、君を怒らせるつもりはなかったんだ。馬鹿にするつもりなんて、絶対なかった。そのことはわかって欲しいんだ」
「はあん、そうか」勝己は歪んだ笑みを浮かべる。「俺に悪く思われたくねえってか。大した偽善者だぜ」
「そんな。僕はそんなつもりじゃないよ」
「じゃあなんだ。てめえは俺にどうして欲しいんだ。俺に許して欲しいのかよ。は!随分図々しい言い草じゃねえか。おいデク、悪気がなければ、なんでも許されるなんて思うなよ」
 何を言えば君に届くのだろう。どう言えば君は聞いてくれるのだろう。
「どうすれば、償えるの?かっちゃん。償えるならなんでもするよ」
 思い余って紡いだ言葉は、正しかったのだろうか。
 言ってすぐに後悔した。何を口走ってるんだ。僕は。償うなんておかしいだろ。
 項垂れた出久を勝己は冷たく見据える。重たい沈黙が流れた。
「なんでもすんのかよ」
 いたたまれなくなった頃、勝己はやっと言葉を発した。冷たい声。しかし、出久は返事してくれたことにほっとした。
「うん。僕にできることならだけど。あ、もちろん法律に触れるようなことは駄目だよ。何をすればいい?」
「じゃあてめえ、俺に抱かれるか」勝己は顔を近づけた。鼻が触れそうなくらいの距離で繰り返す。「抱かせろや。デク」
 抱く、という言葉が頭の中でくわんくわんとエコーする。
「それは……無理だよ」震える声でやっと答える。
「ああ?なんでもっつったよな!てめえ」
「君に、こ、恋してないのにできないよ」
「はっ!できねえってか。できねえなら、なんでもするなんて言うんじゃねえ!クソが」
 勝己の形相が変わる。爆破される?直当てから逃げられない距離だ。
「おいおい、なんだなんだ!喧嘩かよ」
「なんだか知んねえけど、まだ怒ってんのかよ、爆豪」
 上鳴と切島が通りかかった。助かったと安堵する。
「うるせえ!てめえらには関係ねえ」
 勝己はドンっと出久の胸を突くと、去って行った。弾みで出久はよろけ、壁に背をぶつけて尻餅をつく。
「大丈夫か、緑谷。あいつのことは熱り冷めるまでほっとくしかねえんじゃねえか。時間が立てばあいつの怒りも収まるだろうし」
「ああ、どうにもならねえことはあるからな。時間が全部解決してくれるとは言えねえけど。待つしかねえこともあるぜ」
 切島と上鳴は自分を案じてくれてる。荒ぶる勝己に近寄る危険は、彼らもよくわかっているのだ。
「うん、でも時間を置いたりしたら、修復がきかなくなるかも知れない」
「うーん、そんなことねえと思うけど、いや、言い切れねえか。お前ら何年も揉めてたんだもんな」と上鳴は困り顔で腕を組む。
「もう嫌なんだ。何もしないで悪化するのを眺めてるだけなんて」
「そうか、ある意味奴と戦うってことだな。拳を交えて解決する方法を選ぶのも一理あるぜ。漢だもんな」
「ちょ、ちょっと違うよ。切島くん。でも、煙たがられても、やめるわけにはいかない」
「そっか」上鳴が肩を叩く。「理由、やっぱり言えねえのか?力になれるかも知んねえぜ」
「ううん、ごめん。言えなくて」
「そうか、でも困ったら言えよな。いつでも聞くぜ」
「ありがとう」胸がきゅうっと暖かくなる。
 級友達は優しい。相談すればきっと助けてくれるだろう。でも、そのためには勝己のことを、言わなきゃならなくなる。彼がずっと隠していたことを。それだけは駄目だ。
 もしかして幼馴染達のように、彼らも勝己の心に気づいているのだろうか。いや、推測するのはよそう。自分で解決すべきことなんだ。
 だがその日も、勝己は頑なに出久に怒りを向けた。謝ろうとするほどに、勝己はさらに態度を硬化させていった。関係を修復する糸口すら見つからない。かえって仲はどんどん悪化していく。焦るほどに歯車が狂っていく。
 徒労に終わる日々は出久を消耗させた。それでも、捨ておけないのだ。放っておいてはヒーローになれない。彼の怒りは自分の所為なのだから。

 出久は寮の自室に戻ると、鞄を下ろして溜息を吐いた。今日も勝己は剣呑として、一言も出久と話そうとしなかった。
 好意を持たれていた。本来なら嬉しいことのはずだ。なのに辛いだけだなんて。
 何故、好意だけじゃなく恋なんだろう。
 何故好意だけを抱いてくれなかったんだろう。
 恋ってなんなんだろう。
 子供の頃の勝己に好かれていたと聞いて、信じられないと思ったけど嬉しかった。でも恋と聞いて戸惑った。頭ではそんなに違いがあると思えなかったのに。でも心のどこかで、明確な違いを感じ取っていたんだろう。
 勝己は抱かせろと言ったのだ。そんな風に自分を、見ていたのだ。
 恋の正体はどんなにオブラートに包んでも、情欲なのかも知れない。恋は好意とは似て非なるものなんだ。
 好意は感情で、情欲は本能だ。
 ならば。性欲さえ解消できれば、落ち着いてくれるのか。
 そうだ、一度抱かせればいいんだ。勝己が言ったように。
 することすればスッキリするし、怒りも静まるんじゃないだろうか。自分も男だから、本能に抗えないことはわかる。男ってそういうとこがあるもんだし。
 出久は立ち上がり、パソコンを起動した。小窓に検索したことのない言葉を打ち込む。
 このまま険悪になるだけなんて僕は嫌だ。折角縮まった距離を諦めるなんて嫌だ。どうなるのかはわからない。でも、何もしないよりマシだ。とりあえずかっちゃんに提案してみよう。罵倒されたならそれまでだ。
 それに、抱かせろなんて、言ってるだけで、いざとなれば冷静になるかも知れない。
 僕は切羽詰まっていた。自分の傲慢さに気づいていなかったのだ。


3・戸惑う牙


「かっちゃん、起きてる?」
 皆が寝静まった頃に、出久は勝己の部屋を訪れ、ドアをノックした。
「入っていいかな」と問うてみる。
 返事はないけれど、起きてるようだ。衣擦れの音がする。ノブを掴むとくるりと回った。鍵はかかってない。
「お邪魔するよ、かっちゃん」
 そろそろと部屋に足を踏み入れる。暗い室内に廊下の光が差し込んだ。
「寄んな」
 ベッドの方から、低い唸るような声がした。夜の猛禽類のような、赤々と光る瞳が威嚇してくる。視線が合って怯んだが、勇気を奮って出久は後ろ手に扉を閉める。ドアの隙間から漏れる光が、闇に細く筋をつけて消えた。
「こんな夜にわざわざ来てよお、なんだデク、犯されてえのかよ」
 勝己は起き上がってデスクライトを点けると、ベッドに戻って座った。
「お、か、」
 直接的な言葉にぞくりとする。慄いて後退りしたのを勝己は見逃さない。ニヤリと笑って立ち上がり歩み寄ると、いきなり足を払って出久を絨毯の上に引き倒した。
 馬乗りになって、見下ろしてくる勝己は悪鬼のようだ。怖くてたまらない。ひくっと喉が鳴る。
 でも逃げちゃいけない。覚悟してきたのだ。出久はすうっと息を吸った。
「それで君の怒りが収まるのなら、いいよ」
「はあ?てめえ、わかってんのかよ。セックスするっつってんだぞ」
 ごくりと唾を飲む。「いいよ、何をするのかはわかってるから」
 とりあえず調べてはみたのだ。男同士のやり方を。正直、余計に怖くなってしまったのだけど。
「いいよ」と勝己をまっすぐに見上げる。
 一回やってみたら、彼の鬱憤が解消されるかも知れないと、その可能性に賭けたのだ。グラウンドベータでの対決の時みたいに。
 勝己は驚いて硬直している。意表を突けたようだ。
「わかってるだと?おい、デク」
 すうっと部屋の温度が冷えたような気がした。
「かっちゃん?」
「てめえ、まさか、やったことあんのかよ。言え!誰にやられやがった!」
 知ってると言ったから、経験したと解釈されてしまったのか?しかもやられたって、男にってこと?
「ないない!ないよ!なんでそうなるんだ」
「クソが!紛らわしいわ!」
「君もしたことないよね?」
「ああ?うるせえわ、クソナード!」
「ないよね?だったらさ、一回やってみようよ?ね?」
「てめえは……」
 そう言いかけて勝己は黙ってしまった。冷静になると恥ずかしさが押し寄せてくる。何言ってるんだろう、僕は。まるで僕から積極的に誘ってるみたいじゃないか。かっちゃん呆気に取られてないか?
 ひょっとして、抱くって言ってたのも、言葉だけで本気じゃなかったかも。
「ご、ごめん、君にその気がなければ、今のなしで」
 出久は狼狽えた。顔が羞恥で熱くなる
「身体だけなら、てことかよ。てめえはまた!また!」勝己は拳を床に叩きつける。「俺を虚仮にしやがって!クソが、クソが!」
「違うよ。虚仮にしてなんかない、かっちゃん」
 怒らせてしまった。また間違ってしまったのか。
 だが罵倒しながらも、勝己は出久の顎を掴んで口を開けさせ、口付けた。隙間なく唇で塞いで食らうようなキス。歯がぶつかった。吐息を奪われる。
 本気だ。かっちゃん。口内を這う舌の音が内側から鼓膜を震わせる。
 キスを交わしながら、勝己は出久を抱き起こし、、縺れるようにベッドに倒れ込んだ。
 食むようなキスが続き、音を立てて唇が離される。勝己は出久のTシャツの中に手を入れて肌を弄り、邪魔だとばかり破りそうなほど荒々しくシャツを剥いだ。体を起こして勝己もTシャツを脱ぐ。性急さに戸惑って、出久はハーフパンツにかけられた手を押さえた。
「ま、待って、かっちゃん」
「ああ?んだよ!」
 出久を見下ろすギラついた瞳は、獰猛な獣のようだ。
「やっぱり難しいんじゃないかな。男同士なんて」
「ああ!今更てめえ、ざけんじゃねえ!舐めんな。できるわ!」
「もう一度確認するけど、かっちゃんも経験ないよね」
「あ?それがどうした」
「べ、勉強してからの方がよくない?」
「デクてめえ、逃げんのか。ここまできて怖気づいたのかよ」
「そ、そんなことないよ」
 覚悟してきたくせに、いざとなると怖い。それを看破されている。
「もう遅えわ。クソが」
 あっという間に一糸纏わぬ姿にされた。勝己も裸になり、出久の上にのしかかり身体を重ねてくる。
 ひたりと直に触れる人の皮膚。引き締まった筋肉の重み。胸と腹に感じる自分より少し高い体温。下腹部に体毛と硬いものが当たってる。これは、勝己のあれだ。勃起してる。かあっと顔から火が出そうになる。
 勝己の唇が首に触れて押し当てられ、ちゅうっと吸い付く。出久は目を瞑った。もう、止められないんだ。
 キスは跡を付けながら、胸、腹、脇腹に降りてゆく。足が広げられ、内腿にも落ちる。唇が触れると擽ったく、吸い付かれるとちくりと痛い。吸われた跡が赤くなってる。
 勝己の指がするすると出久の陰茎に絡まり擦り始める。
「わわ、かっちゃん」
 人の指に触られるなんて、恥ずかしさで前を隠したくなり、上体を起こす。勝己のものが見えた。完全に屹立して存在を誇示している。出久の下腹部を弄っていた勝己は、寝てろや、と出久の胸を押してシーツに押し付ける。
 人の勃起したものを見ることって、あまりない。というか全然ない。でも、かっちゃんのかなり大きくない?比較対象は自分のものくらいだけど。
「邪魔だ。手どけろよ」
 無意識に勝己の手を抑えてようだ。勝己は出久の額にこつりと自分の額を当てる。間近で紡がれる勝己の声が熱を帯びている。
「あ、ご、ごめん」
 括れを勝己の指になぞられ、竿を包む皮膚が擦られて、中心が熱くなってくる。顔に当たる勝己の吐息が荒い。かっちゃん、興奮しているんだ。
 半分くらい勃起したところで、勝己は出久のものと自分のものとを合わせて、片手で握りこむと上下に扱き始めた。密着した陰茎の根元から亀頭まで、分厚い皮膚の掌に包み込まれる。
「あ、かっちゃっ、」
「へっ、エロい顔」
 勝己は指先で、出久の先端の孔を捏ねる。
 吐息とともに、出久の口からあふっと変な声が漏れた。頭の中に火花が散る。出久は登りつめ、勝己の手に射精してしまった。
「気持ちいいんか、デク」
 こくりと頷くとキスをされる。キスをしながら、勝己は後孔の周囲を探る。ぬるりと指が入ってきた。
「わあ、何?」
「てめえの出したもん返してるだけだぜ」
「でも、そんなとこ触るなんて」
 と言ってから気づく。男同士ならそこに入れるんだった。やはり触りあうだけでは済まないのか。
「オイルも何もねえからよ。てめえので代用すんぞ」
 唇を貪られ舌を絡め取られながら、指が体内に入ってくる感覚も感じる。中と外の触覚が混じりあい混乱する。勝己は精液を後孔に丹念に塗り込んでゆく。かき混ぜられ、深く浅く嬲られる、指が増やされ、擦られる内部に熱が増してゆく。おかしくなりそうだ。
「ふあ、ふ、」
「だいぶ柔らかくなってきたな。三本も入りゃあ、いけっだろ」
 三本も、いつの間に入れられてたんだろう。
 足を広げられ、中心に勝己のものが押し当てられる。怒張して筋の張ったペニス。弾力のある丸みを帯びた肉の感触に、ひくっと喉がなる。
 勝己が腰を振った。窄まりをぐっと突かれる。先端が入り口を広げ、精液の滑りでぬるっとめり込んだ。
「いあ、痛、痛いよかっちゃん」
 身体を抉られる痛みに、出久は悲鳴を上げた。内側を広げられ、身体が軋むようだ。
「無理だよ。あ、うっ、あ」
 勝己も眉根を寄せている。かっちゃん、締め付けられて君もきついんだろ。なのになんで僕に入れようとするんだ。なんでこんなことをしたいんだ。
「力抜け」と勝己は掠れ気味の声で言う。「息をゆっくり吐けよ。痛みが引くからよ」
 言われるままに。力を抜いたその瞬間に、勝己が強く腰を揺すった。
 ぬっと雁首が窄まりを越えて入ってくる。あ、かっちゃん嘘ついたんだ。
 押し込まれ中を埋める大きさに、はあ!と息を呑む。下腹部が焼けつくようだ。
「痛えか」と勝己が聞いた。
 息が詰まって声が出ない。目尻から涙が零れ落ちる。でも自分からすると言ったんだ。ふるふる、と首を横に振る。
「よし!我慢しろよ。先が入りゃあ、いけっからよ」
 勝己は出久の上に覆い被さり、前後に腰を振る。抜き挿しして、体内を肉棒で小刻みに擦る。熱を擦り付ける。ぬっぬっと内壁を貫いてくる勝己のペニス。身体を引き裂いて穿たれる、熱い勃起したもの存在感。何もなかった場所に虚が作られ、勝己の身体の一部で埋められる。
 勝己は顔を上げてにっと笑うと、「案外スムーズに入んな」と出久の頬を撫でた。
 恥ずかしくなり、きゅっと力を入れてしまう。生々しく感じる、微かに弾力のある屹立の形。締めることでかえって圧迫が増した。「んん、う」 と、喘いでしまう。
「お、てめえな」と勝己はふうっと息を吐く。「阿呆が。まだいかせんなよ」
 膝頭を掴まれさらに足を広げられた。勝己は強く局部を押し付け、さらに深く突き上げる。
 たまらず「ああ!」と出久は喘ぎ声を上げた。
 勝己の荒い息遣い。押し込まれる熱。後孔に勝己の陰部の金毛が触れる。少し、擽ったい。
「はあ、入ったぜ。これで逃げられねえよなあ、デク」
 全部入ってしまったんだ。体内の最奥に勝己のペニスを受け入れるなんて。こんなこと、恋人でもないのに、してよかったんだろうか。今更だけど。
 まるで脈打つ肉の杭に串刺しにされたようだ。捕まってしまったのだろうか。逃げて追われて捕まった、中学生の時の廊下での出来事を、なんで今思い出すんだろう。
 ほっとしたところで引き抜かれ、再び挿れられ、ずんっと奥を突かれた。「んあ、あ」と出久は悶える。
「まだ序の口だぜ。デク」
 勝己は腰を引いては貫いて、内部を擦り続ける。下腹部を内側から圧迫し、隙間なく埋める。肌を打ち付ける音。体内を行き来する太い肉茎。出久は「ああ、ああ」と悲鳴とも喘ぎ声ともつかない声を上げる。
 勝己に犯されている。窄まりを抉り広げる雁首、引き攣れる竿の皮膚。揺さぶられるたびに彼の陰嚢が尻を打ち、音を立てる。
 痛くて堪らないのに、奥深くから快感が湧き上がってきた。痒いような痺れるような初めての感覚。吐息に甘い声が混じる。
「えっろ」と勝己は艶めいた笑みを浮かべた。
 感じたのが恥ずかしくなる。喘ぎ声が漏れそうになり、歯を食いしばった。気づいた勝己が低い声で促す。
「デク、我慢すんじゃねえ、声出せよ」
 妖しく鼓膜を擽る囁き。そんな、快感に喘ぐ声なんて聞かれたくない、と首を振る。舌打ちして勝己が口付けする。深く口内を侵すキス。舌を絡めながらも、勝己は容赦なく突き上げる。喘ぐ声が勝己に呑み込まれる。
 唇が離れた。かっちゃん、と名を呼ぶ。自分じゃないような掠れた甘い声。
「いい声出すじゃねえか。気持ちいいんかよ。デク」
 勝己は嬉しそうに笑う。「初めてで気持ちいいとか、素質あんじゃねえか」
「わ、わかんない。や、あ、あ」
 手首を掴まれシーツに押し付けられた。途端に勝己の腰を揺するスピードが上がる。
「あ、ああ!」と嬌声を上げてしまう。
 ずり上がれないように固定され、身体を揺さぶられる。熱の塊に内壁を抉られ燃えるようだ。体内を行き来する勝己の一部。結合した部分から侵食されていく。身体の中を抉っては擦り、火をくべて熱を残して引き抜き、また熱を押し込んでくる。
「てめえの中でいくからな」と勝己は呟いた。
 接合部を押し付けて、勝己は低く呻く。ぶるりと中でペニスが膨れたような気がした。注がれる熱い飛沫。身体の中が濡れてゆくのを感じる。
 僕の中で射精したんだ。人の身体の中に出すなんて。かっちゃん、そんなことできちゃうんだ。雄のマーキングみたいなものなのかな。精液なんて、ティッシュでくるんで捨てるものとしか思ってなかった。
 ぬぷりと性器が引き抜かれ、圧迫感から解放された。
 脱力した身体がずしりと重ねられる。ふうっと首元で勝己が息をつく。
 この生々しさが恋なんだ。
 好きということと恋じゃ全然違うんだ。
 疲労で手足が重い。頭に霞がかかったようだ。
 ポツリと勝己が呟く。「自己犠牲かよ。反吐が出るぜ」
 ぎゅうっと抱きしめられた。抱き潰されそうだ。
「かっちゃん」出久は呼んでみた。喘ぎ過ぎて、声が枯れている。
「デク、デク」と勝己は呼ぶ。どちらのものとも知れない汗で濡れた肌。
 背にまわされた皮の分厚い勝己の掌が、じわりと熱を帯びてゆく。
「殺す。てめえを殺してやる。クソが」
 かっちゃんの怒りは収まらなかったのか。情欲を解消しても。そう簡単にはいくはずなかったんだ。全然簡単じゃなかったけれど。
 うっすらとニトロの香りが漂う。かっちゃんの掌が汗ばんでるんだ。このまま爆破されるんだろうか。くっついてたら、かっちゃんも火の粉を浴びるけれど。疲れて動けないから避けられないな。
 でも怖いと思わない。何故だろう。不思議だ。
 出久はすうっと意識を手放した。


4・ぬかるみの足跡


 翌朝。目覚めると間近に勝己の顔があった。吃驚してひゅうっと息を呑み、硬直する。
「やっと起きたんかよ、デク」
「う、ん、おはよう」
 昨晩は勝己の部屋で寝てしまったのか。ふたりとも裸のままだ。いつから寝顔を見られてたのだろうか。
 背中は、痛くない。爆破されなかったんだ、とほっとする。
「てめえ、寝落ちしやがって。クソが」
 勝己の口調は落ち着いている。文句を言ってるけれども、言葉に棘はない。機嫌が治ってるようだ。
 勝己は出久の背中に腕を回し、ぎゅうっと抱きしめてきた。身体が密着する。目の前に綺麗な鎖骨。分厚い胸。身動ぎすると、力強い腕が逃がさないとでも言うように、封じ込めてくる。
 微かに甘い、勝己の匂いだ。
「朝飯食いにいくか?」
 と話しかけられ、コクコクと首肯する。やっぱり機嫌がいい。
 嵐のようだった昨夜の行為。最初の噛みつくようなキスに、きっと酷く扱われるだろうと覚悟していた。手荒いセックスを覚悟していた。だが、入れられた時はすごく痛かったものの、前戯は念入り行われたし、挿入した時も痛くないかと聞かれた。思いの外優しい抱き方だった。
「折角の機会なんだから、楽しまなきゃ損だろうが。童貞」
 出久の思考を読んだように、勝己は揶揄ってくる。勝己は出久の額にキスをして腕を解くと、ベッドから抜け出して、立ち上がった。
「君もだろ」と言って見上げると、勝己のペニスが目に入った。どきりとして目を逸らす。
 昨日の勃起した状態と違い、通常の形に戻っている。あれが昨夜僕の中に入って、暴れ回ってたんだ。君と身体を繋げたなんて信じられない。今更ながら頬が熱くなる。
「今更なに照れてんだ、てめえ」
 勝己はニヤッと笑い、腰を揺らして振って見せる。子供みたいだ。
「腹減ったな」と言いながら、勝己は脱ぎ散らかした服を拾って、身に付けている。
 自分も服を着なきゃ、と出久は腰を上げようとしたが、股の間に違和感を感じ、「うわあ」と呻いて突っ伏した。まだ挟まっているかのような感触が、昨晩の出来事を現実なのだと突きつけてくる。
 勝己は呆れたように笑うと、散らばった出久の服を「さっさと着ろよ」と投げて寄越した。礼を言って受け取り、そそくさと身に付ける。
「まだ時間あるし、さくっとシャワーでも浴びに行くか、デク」
「そうだね。汗かいちゃったし」
 立ち上がろうとして、痛みに足元がふらついた。ざまあねえな、とにやつく勝己に腕を支えられる。
 風呂場を出て、上機嫌の勝己と廊下を連れだって歩く。尻の痛みはシャワーを浴びたおかげで、幾分か和らいだ。
 出久は自分に言い聞かせる。僕は間違ってなかったよね。
 食堂の入り口で、丁度出てきた上鳴とすれ違い、声をかけられた。
「うっす、お揃いで珍しいじゃねえか、爆豪、緑谷」
「おはよう。上鳴くん」
「でもおせえじゃん。俺もだけどよ。ちょっと寝坊しちまってよ。皆先に食って、学校行っちまったぜ」
「ね、寝汗かいたから、シャワー浴びてたんだ。朝浴びると気持ちいいよね」ちょっと狼狽えて早口になる。
「そっか。爆豪、なんか機嫌いいじゃねえか。お前ら仲直りしたのかよ」
「うっせえ、クソが」
「う、うん。おかげさまで」
「何が原因だったのか、やっぱり言えねえか、緑谷」
「うんまあ、大したことじゃないんだ。心配かけてごめん」
「おい、遅えんだろうが、無駄口たたいてんじゃねえ。行くぞ、デク」
 勝己に腕を肘で突かれる。
「うん、じゃ、上鳴くん、学校でね」。
「緑谷、あのよ」と上鳴は言いかけて口籠り、再び口を開く。「俺が言えることでもねえな。よかったな、爆豪。もう喧嘩すんなよ」
「うるせえわ。飯食ったんだろ、さっさと行けや」
 朝食を乗せたトレーを持って勝己は席に着き、腕を引っ張ると隣に出久を座らせた。勝己と隣あって食べるなんて久しぶりだ。合宿以来だろうか。
 パンを齧りながらふと思い至る。ひょっとして、さっき上鳴くんは僕じゃなく、かっちゃんによかったなって言ったのだろうか。
 気づいているのかも知れない。いつも勝己の側にいる彼らだ。でも聞かないでいてくれるのも、きっと優しさなのだ。どこまで知ってるのかなんて聞けないけれど。
 でも、ほんとにこれで良かったのだろうか。セックスはしたけれど、勝己の意に沿えるわけじゃない。機嫌はいいのは一時的なもので、また怒り出すのかも知れない。その場しのぎに過ぎないのだ。でも他に方法を思いつかなかった。
 その日の勝己は出久だけでなく、周りに対しても穏やかだった。久々に訪れた平和な日だった。
 性欲を解消したからだろうか。即物的な方法だったけれども。これで良かったんだ、と出久は安堵した。
 しかし、その安堵はほんの短い間だった。

 放課後になり、寮に戻ると勝己が玄関先で待っていた。
「かっちゃん?どうしたの?」
 勝己はこっち来いとばかりに指を曲げる。出久が側に歩み寄ると、肩を抱き、耳元で囁いた。
「おいデク、後で部屋に来いや」
「え?なんで」
「わかんだろーが」
 出久は驚いて離れようとしたが、肩を強く掴まれ、逃れられない。
「あれは、一回だけのはずだよね?」
「ああ?何言ってんだてめえ」
 勝己に腕を取られ、引きずられるように部屋に連れ込まれる。
「誰が一回で終いだっつったよ。俺の気の済むまで、てめえは俺の相手をすんだよ」
「でも、僕は君をそんな風には思えないんだよ」
「てめえの気持ちなんか知るかよ!」
「かっちゃん、でも」
「俺は一生言わねえつもりだったんだ。暴いたのはてめえだ。面白半分によ」
「そんな、面白半分になんて、違うよ」
「償いてえんだろ。許して欲しいんだろ。おら脱げ!今からセックスすんだよ」
 勝己は出久をベッドに突き飛ばし、ズボンのベルトを外した。戸惑う出久に覆い被さると、口付ける。確かに一度だけなんて約束はしてない。ならばもう一度と言われても呑むしかないのか。
 うつ伏せにされ、丹念に慣らされ、背後から貫かれる。
 揺さぶられるほどに、身体を穿ち、埋めてゆく。
 最奥まで抜いては挿れられる質量。
 汗ばんだ身体に被さる重みと、名を呼ぶ熱を含んだ声。
 熱い楔は緩やかに身体を穿ち、奥深くで動きを止める。
 背後から抱きしめる腕は、離してはくれず、出久が身じろぎすると、さらに力が籠められた。

 勝己は落ち着いた。これまでの荒れようが嘘のように。
 無闇に人に噛み付かなくなったので、クラスメイトもほっとしている。
 だが、元に戻ったわけではない。疲労が激しい時以外は、出久は毎夜のように性交を求められた。二度目の時に宣告されたのだ。勝己の気の済むまで続けるのだと。出久に断る道理はなかった。
 とはいえ、勝己は口調は荒いが抱き方は優しく、事後はとても機嫌がよい。断る理由はもはやなかった。
「かっちゃん」と呼びかける。
 ちゅぷちゅぷと下肢からしていた音が止み、ペニスを包んでいた熱が離れる。
「気持ちいいなら言えよ、デク」
 部屋に入るなり、出久はべッドに押し倒された。すぐさまハーフパンツと下着を脱がされる。
 剥き出しになった下肢に顔を埋め、勝己は口淫を始めた。勝己の舌が巧みに出久のものを舐め回す。深く咥えて、頬を窄めて前後に絞る。鮮烈な快感に支配される。
「かっちゃん、やめ、出ちゃう」
 勝己はほっておくと、時々吸い上げて呑んでしまう。でも、やはり人の口の中で果てるのは抵抗がある。恥ずかしさと罪悪感が伴う行為。
「やめ、てよ、かっちゃん、離して」
 出久が必死で頼むと、登りつめる前に止めてくれた。ほっとする。だが、括れをきゅっと指で圧迫して、射精を許してくれない。中心に熱が篭って辛くなってきた。哀願するように勝己を見つめる。
「いきてえか」
 と問われ、こくんと頷く。
「なら俺のもしろや、デク」
 勝己はボクサーパンツを脱いでベッドサイドに立ち、意地悪そうな顔で見下ろす。
 半端な状態で堰き止められた。出してしまいたい。でも勝己の前で、自分で扱いていけるわけがない。
 身のうちに暴れる熱を堪えつつ、身体を起こし、勝己の前に跪く。フェラチオなんてまだしたことない。でもかっちゃんは僕にしてるんだ。僕もやらなきゃ。
 そそり立つ彼のものをそっと掴む。目の前で見るとより大きく感じる。思ったより口を大きく開けなきゃ入らない。頬張るように咥える。
 口内に導くと、案外咥えられるもんだなと思う。先端を舐め回し、括れの溝に沿って舌先を這わせ、血管を辿るように滑らせる。勝己がくくっと含み笑いをした。
「てめえ、よくしゃぶれるよな」
 勝己の言葉に、かあっと頬が熱くなる。
「君だってしてただろ」
「ああ、文句あんのかよ。俺はいいんだよ。てめえの急所、食らってやるつもりでしてんだからよ」
 にやっと悪戯っぽく口の端を上げて勝己は笑う。「いつ噛みついてやろうかってな」
 本気だろうか。きゅっと股が縮こまる。
 再び勝己のものを口に含んで舐め、竿を半分くらい頬張る。
「なあデク」熱に浮かされたような声で、勝己は囁く。「こうすんだよ」
 勝己は出久の頭を掴んで、前後にゆっくり揺すった。
「ん、んー」口内を行き来する勝己のもの。主導権を奪われ、喉の奥を突かれそうでちょっと怖い。舌先に濃い海水のような先走りの味がした。
「全部飲めよ」と勝己は低く囁く。
 ぞくりとして見上げると、「はっ、ビビったんか。冗談だ」と勝己は言い、出久の口を解放した。
 出久の唇を親指でなぞり、勝己は言う。「俺は全然飲めるぜ。てめえは嫌かよ?」
 さっきはびっくりしたけれど、嫌だったわけじゃない気がする。出久が首を横に振ると、勝己はニヤッと片頬で笑う。
「上も脱げよ」と勝己は出久のシャツを上に引っ張り、剥ぎ取った。
 二人とも裸になり、立ったまま抱き合いキスを交わす。肩甲骨から腰回りまで勝己の掌に愛撫される。
 カーテンを閉めてるとはいえ、裸のシルエットが外から見えてしまいそうだ。内心焦ってしまうが、勝己は気にならないのだろうか。
 口づけを貪りながら、勝己は出久の尻を掴んで揉み、出久の後孔を指で探った。突いたりなぞったりして弄ぶ。
 かっちゃん、もう入れる気なのか。でもまだベッドに移動しないのかな、と思っていると、勝己は出久をくるりと後ろを向かせた。
 背後に立って腰を掴み、「机に手をつけよ」と言う。
 ドキッとする。ここで入れるつもりなんだ。
 広い机の上に置いてあるのは、ノートパソコンだけだ。机の角が面か、どこに手を付けばいいのか迷い、机の上を撫でる。
 この姿勢は、立ちバックって言うんだっけ。すごく恥ずかしいんだけど。振り返って、縋るように勝己の顔を見つめる。勝己は悪戯っぽく笑い、くいっと顎で促す。
 仕方なく、出久は腰を曲げて、机の上に手をついた。勝己は尻の肉を掴んで割り開き、陰嚢から後孔まで撫で上げる。擽ったくて、あふ、声を上げてしまい、勝己に聞かれたかと焦る。
 勝己は窄まりにぐっと指を入れて確かめると、「いけそうだな」と言うなり勃ち上がったものを押し当て、挿入し始めた。
 窄まりをゆっくりと広げられていく感覚。圧迫感が堪らず、はあ、と吐息が溢れる。
 ゼリー付きのコンドームをつければ、さほど慣らさなくても入ってしまう。勝己の大きさに身体が慣れてしまったのだろう。痛みもあるけど擦られると気持ちいい。
 でもまだ中はまだそんなに柔らかくないから、穿たれる感覚は鮮烈だ。
 勝己のペニスが内壁に引っかかるように入ってゆく。出久は動きに合わせて「ん、ん、」と小さく喘ぐ。
 体内にある勝己の形と感触を、生々しく感じてしまう。太さ、硬さ、覚えてしまった勝己の存在感が堪らない。
 勝己は出久の肩を掴んで、腰を打ち付ける。初めてこそ生で挿入された上に中出しされたが、今はいつもコンドームを使ってくれる。
「立ったままだと絨毯汚しちゃうよ」
 勃起した自分のものから先走りが出てきた。片手で先を押さえるが不安になる。
「ああ?細けえこと言ってんじゃねえよ」
「でも。気になるよ」
「じゃあ、つけてやるわ」
 勝己はコンドームのパッケージを噛み破って、後ろから手を回し、出久のペニスに器用に装着した。
「いっちまえよ」
 勝己は耳元で息を吹きかけると、性器を扱きながら、雁で体内の前立腺の膨らみをぐりぐり突き上げ、出久の射精を促す。
 「あ、あ」と喘ぎ、出久はコンドームの中に吐精した。途端に勝己に強く突き上げられ、ひあっと悲鳴をあげる。
 激しく突かれて脱力した身体を支えられず、机に突っ伏す。ガクガクと激しく揺さぶられる。深くはゆっくりと、浅くは激しく、巧みに攻められる。
「いくぜ」と勝己は告げると、ズンッと奥を何度も突き上げた。
 デク、と呟いて、勝己は背中に覆いかぶさる。達したのだろう。触れている勝己の胸がビクビクっと震える。
 背中に感じる鍛えられた筋肉。汗ばんだ皮膚がひたりと吸い付く。再びデク、と呼ぶ声と共に、首筋に熱い息が吹きかけられる。
 勝己とのセックスは、優しかったり激しかったり、日によって気まぐれだ。
 ベッドですることが多いけど、今みたいに違う場所ですることもある。明かりをつけたままでされたり、姿見の前で挿入されたり、恥ずかしくなるようなこともする。
 でも、なるべく勝己がしたいようにさせた。セックスした後の彼は機嫌がいいからだ。出すもの出せばすっきりする。即物的だが男の生理とはそういうものだ。
 けれども、これでいいのだろうか?
 一度だけだと思ってたのに、もう何回彼としたのかわからない。
 気持ちが伴わないのに、身体だけが慣れてくるのだ。身体を重ねることに、受け入れることに。ペニスを咥えるなんてこと、ちょっと前ならとても考えられなかった。
 本当にこれで良かったのだろうか。
 泥濘に足を取られて這い上がれなくなるのではないだろうか。
 迷いは膨らみ、煩悶は澱のように沈殿していった。


5・甘噛みと囁き


 ある日から、ぱたりと勝己は出久を誘わなくなった。
 寮に帰っても挨拶程度の話しかせず、ましてや色事を匂わせるようなことは、全く言わなくなった。
 始めはその気がない日もあるのだろう、と思った出久だったが、毎日のように部屋に連れ込んで抱いていたのだ。何もない日が何日も続くと、何か気に触ることをしたのだろうか、と不安になってきた。思い出せる限り身に覚えはない。
 勝己は怒ってる様子もなく、出久を無視するわけでもない。気まぐれに過ぎないのだろうか。
 出久は戸惑った。勝己の真意がわからない。セックスのことなんて聞きにくいのだけど、気になってしまう。
「あの、かっちゃんいる?」
 ドアをノックすると、「入れよ、デク」と中から返事が返ってきた。ぶっきらぼうだけれど、不機嫌ではないようだ。
「あんだ?デク」
 勝己はベッドに座っており、出久を見据えて促す。どう切りだそう。意を決して勝己の部屋に来たけれど。
「かっちゃん、その、もうしないの?」逡巡したすえについ直球で問うてみる。
「あ?何をだ?」
「その、あれのことだけど」出久は言葉を探すが思いつかない。
「あー?セックスしてえのかよ」
「そ、そういう意味じゃないよ。その、もういいのかなって」
「へえ」勝己は目を細める。「セックスじゃねえならなんだ」
「ごめん、好きでも、毎日したいわけじゃないよね、じゃ」
 恥ずかしくなって、部屋を出ようとする出久の背中に「待てや、デク」と勝己は呼びかける。
「てめえ、勘違いしてんだろ」
「なんのこと?」出久は振り返った。
「てめえ、俺がてめえを好きでやってたと、思ってんのかよ」
「かっちゃん?」
 勝己は悪辣な笑みを浮かべた。勝己が勝利を確信して、相手に勝ち誇る時の表情だ。嫌な予感がした。
「はっは、俺がいつてめえを好きだと言ったよ」
「え?だって君が」
 いや、確かに勝己ははっきりとは言ったことはない。でも、そんなこと。一体彼は何を言ってるんだ。
「俺は一度もてめえを好きだなんて、言ったことねえよなあ、デク。てめえが勘違いしただけだろーがよ」
「でも、かっちゃん」
 指先が冷たくなってゆく。
 勝己は嘲笑った。「はっは!俺に抱かれてよがって、気持ちよかったんだよなあ。デク!雌みてえに俺のちんこ咥えこんで、悦んでたもんなあ」
 何も言葉を発せられない。頭が熱くなってくる。喉に石が詰まったようだ。
「だって君は。君がそうだと思ったから、だから僕は君に抱かれたんだ」
 なんとか言葉を絞り出す。そうじゃなければ、何故抱かせろなんて言ったんだ。何のために自分は抱かれたんだ。勝己は膝を叩いて笑う。
「はっ!いい気になってたんだろう。俺に抱かせてやってるつもりだったんだろーが。好かれてると思い込んでよ。馬鹿はてめえだ。まんまとてめえで童貞捨てさせてもらったわ!」
 勝己の言葉が突き刺さる。勝己は自分嘲笑うために抱いたというのか。
 指先を凍らせた冷気が腕を登って胸に届く。すうっと心臓が冷えてゆく。足元が崩れて沈み込んでしまうような錯覚を覚える。
 勝己の笑い声が頭に反響する。
 立ってられない。もうこれ以上ここにいられない。
「そっか。君がもういいなら、もう終わりなんだね」
「ああ?」
「でも、男相手で童貞を捨てたことには、ならないと思うよ。かっちゃん」
 平静を保とうとしても声が震える。勝己の顔を見られない。踵を返して部屋を出ると
出久は廊下を駆けた。
 後ろから勝己の怒鳴り声が聞こえる。でも振り返ってられない。
 足早に階段を駆け下りて自室に駆け込み、ベッドに突っ伏した。
 好きではなかったと勝己は言った。恋じゃなかったのか。自分が勘違いしてただけだったのか。
 でも最初に恋という言葉をうっかり口にしてしまい、否定してしまった時の勝己の怒りは、本物だったのだ。無駄な偽りを言う彼ではない。なら、答えは一つだ。
 抱いて想いを遂げたから醒めたのだ。もう恋はなくなったのだ。
 もとより恋というのも、ただの子供の頃からの、思い込みだったのかも知れない。彼にとっても不本意な思いだったんだ。
 これで良かったんだ。
 溜まっていた諸々を解消されて、かっちゃんの怒りは収まったのだ。僕はもう自由になったのだ。
 なのに。解放されたはずなのに。思いのほか傷ついている心に気づかされる。ほろほろと涙が溢れて止まらない。刀で裂かれたように、胸が痛む。
 ああ、今の僕は君に恋をしているのだ。君をそんな風に思ってなどなかったのに。
 悲しくて苦しくて堪らない。終わってしまってから気づくなんて。
 望むと望まざるに関わらず、恋は予期せぬ時に嵐のように心を蹂躙するものなんだ。まるで災難のようだ。
「身体で堕ちるなんてあんまりだ」
 声に出してみる。言葉にするとなんて月並みなんだろう。
 ああ、そうか。肌の触れ合いも人の交流方法のひとつなのだ。
 君の体温が、睦言が、身を貫く熱が。言葉じゃ伝え合うことのできない、君との唯一の対話の方法だったのだ。
「馬鹿なのは僕だ」
 僕の愚かさを君はわかっていたんだろう。君のことを慮るのなら、たとえ長くかかるとしても、僕は君の心が整理されるまで、待つべきだったのだ。二度と心を開いてくれなくても、甘んじて受けるべきだったのだ。
 でも僕は待てなかった。君との関係をもう二度と悪化させたくなかった。取り返しようがなく距離ができてしまうことを恐れた。
 でもそれ以上に、僕は君を傷つけた悪者になりたくなかった。罪悪感に苛まれたくなかった。きっと君のためなどではなかったのだ。
 自分のために人の心を操ろうとするなんて傲慢だ。だからこうなるのは当然のことなんだ。偽善者の報いなんだ。
 涙の雫で枕が濡れてしまった。
 かっちゃんとのことはもう忘れよう。過ちは償ったのだ。かっちゃんは僕を貶めて、気は晴れただろう。
 今夜は無理だけれども、涙が止まらないけれど、明日になればきっと立ち直れる。
「大丈夫。僕なら大丈夫だ」声に出してみる。暗示をかけるように繰り返す。「大丈夫。何もなかったように、元に戻れるはずだ」
 僕らの間には、何もなかったんだと思えるようになれる。
「デク!てめえ!」
 バタンと勢いよくドアが開けられた。目を釣り上げて、勝己が立っている。
「かっちゃん?な、何だよ」
「はっ!なんだてめえ、べそかいてんじゃねえかよ。泣き虫がよ」
 出久の顔を見て、勝己の形相が和らぎ、得意げに嘲笑う。
「こ、これは別に、なんでもない。何しに来たんだ」
 急いで身体を起こして涙を拭った。勝己はズカズカと部屋に入ると、出久の肩を掴み、どすんと押し倒す。
「な、何?なんのつもりだよ、かっちゃん。君とはもう関係ないだろ」
「ああ?なんだてめえ、その言い草はよ。謝るときはしつこく食らいついてきたくせによ。今回はあっさり引き下がりやがって。クソが!」
「だって、もう僕らは終わったんだろ。かっちゃんの気は済んだろ。これ以上何だよ」
「はあ?ボケカス!勝手に終わらせてんじゃねえわ。誰がやめるっつったよ。クソが」
「かっちゃん?」
「てめえはほんとにカスだな。んなこったろうと思ったわ。自分から手の中に転がり落ちて来た馬鹿を、この俺が逃すわけねえわ!」
 勘違いだと言ったくせに、訳がわからない。
「君に恋心がないのならもう付き合う理由がないよね?」
「あるわ。おいデク!てめえ、俺に抱かれたいんだよなあ。認めろや」
「かか、かっちゃん?意味がわからないよ」
「抱かれてえんだろが!デク、てめえさっき身体で堕ちたっつったよな」
「き、聞いてたの?」
 勝己はいつからドアの外にいたのだろう。まるで気づかなかった。こっそり来て聞き耳を立てていたのか。どこから独り言を聞かれていたのだろうか。
「違うよ、あれは」
 顔がかあっと熱くなる。どう言い繕えばいいんだろう。
「てめえ、自分で恋に堕ちたと思ってんのか?」
「え?どういう意味」
「はっは!てめえは勝手に堕ちたんじゃねえよ。俺がてめえを堕としたんだ。てめえは堕とされたんだ、この俺によ」
「かっちゃん?何言ってるの」
「てめえがいきなり部屋に来て、俺にやっていいって言いやがった時、マジで殺意が湧いたぜ。ンなことあっさり言えるってことがよ。てめえにはその程度のことなのかよってな。これ以上ねえってくらいムカついて、てめえをめちゃくちゃにしてやろうかと思ったわ」
「ごめん、かっちゃん」
 今ならどれだけ心無いことを言ったのか、理解できる。
「だけどな」と勝己は続けた。「思い直したんだ。てめえは贖罪にきたんだ。てめえ勝手な贖罪だがよ。乱暴にしたら、てめえの思い通りになっちまう。一度抱いただけで済ませてたまるかってんだ。だから、てめえを堕とすことにしたんだ。計算通り、てめえはまんまと堕ちた。認めろよ、デク。俺に抱かれてえんだろうがよお。なあ、そうだろ、クソナード」
「かっちゃん」
「俺はてめえが好きじゃねえ!全然好きじゃねえわ!でも、てめえは俺を好きなんだろ。欲しいんだろうが。そう言えや。肯定しろやデク!」
 好きじゃないと言いながら、堕としたという。認めろと迫り、僕に好きだと言わせようとする。矛盾してる。むちゃくちゃだ。
 でも。僕はほっとしている。かっちゃんの恋が醒めたんじゃないということに。
 君が僕を欲しいと思うように、今は僕も君を欲しいと思っているんだ。君がここに来てくれたことを、理不尽な言葉を、嬉しいと思ってるんだ。
 君の思惑にまんまと乗せられたのかも知れないけれど。もう墜ちる前に戻れはしないんだ。
 出久は肯定の返事として、こくりと頷いた。勝己は満足そうに口角を上げる。
「はっは!デク、デク!もう今までみてえに手加減してやらねえ。コンドームなんざつけるかよ。一晩に一回で足りるかよ。これからだ。全部これからだ。俺が飽きるまでずっとてめえは俺のもんだ。飽きなきゃあ一生、死ぬまでずうっと俺のもんだからな。覚悟しろや」
 勝己は勝ち誇ったように笑う。
 あれ?条件が酷くなったようだぞ。かっちゃんにしては優しいやり方だと思っていたけど、やはり手加減してたんだ。
 勝己は出久の唇を食むように甘噛みし、がぶりと噛み付くように深いキスをする。
 口腔を荒々しく暴れる舌。最初の交わりの時のような濃厚な口付け。息を奪われる。窒息しそうだ。
 漸く唇が離れ、開放されてやっと空気を吸い込む。
 赤い瞳が返事を促すように見下ろす。
 彼は相当押さえていたのだ。それは今のキスでよくわかった。今後は容赦しないと、そう目で告げている。
 本気のかっちゃん相手に、どうなっちゃうんだろう。でも怖くはない。
「うん、わ、かったよ」
 呼吸がまだ戻らない。途切れ途切れに言葉を紡ぐ。勝己はすうっと目を細める。
 再び唇の触れそうなほどかがみ込み、吐息混じりの声で囁く。
「でも、ちったあてめえの言うことも聞いてやるわ。言えよ、デク。俺にどうして欲しいんだ」
 ああ、彼は僕の何倍も我儘で傲慢で、一枚も二枚も上手だったのだ。


6・橙色の思い出


「疲れたよ、かっちゃん」
 ふうふうと息を弾ませて、僕は前を歩くかっちゃんに呼びかける。
 裏山を流れる川の上流に遡って、随分と歩いてきた気がする。
 鶺鴒だろうか。川面をついっと滑るように飛んでいる。
 セキレイイザナミイザナギが、尾を振るの見て何かを知ったんだっけ。前にかっちゃんが得意げに教えてくれたけど、思い出せない。
 川べりの岩が下流に比べて、かなり大きくなってきた。ゴツゴツした岩で足が滑りそうになる。
 ふいっと前を赤蜻蛉が横切った。
「だらしねえな、デク」
 かっちゃんが手を伸ばした。僕はその手に縋るように捕まる。肉厚な掌はしっかりしてて頼もしくて、安心する。
 そのまま手を繋いで歩を進めた。川の流れが次第に細くなり、岩を穿った小ぶりな滝に繋がってゆく。
 ようやくかっちゃんは立ち止まった。着いたぜ。と顎をしゃくる。
 見上げると、空を覆うように2つの大きな岩が聳えていた。大きな岩と岩は寄り添うようにくっついている。岩の間に挟まれて、人がやっと通れるくらいの隙間があり、隙間の向こうには遠く山の端が見える。
「もうちょっと待てや。そろそろだ」
「何?何か起こるの?かっちゃん」
「黙って見てろや」
 かっちゃんはウキウキしてるみたいだ。
 ふと、岩の隙間の上部がキラリと光った。
「何なに?」
 隙間を覗いてみると、紅色の夕陽が見えた。陽が降りるに連れ、眩しく光が射し込んで広がり、両方の岩肌を橙色に塗りつぶしてゆく。美しさに疲れも吹っ飛んだ。
「すごく綺麗だね。かっちゃん」
「こないだ山登ってて、ここを見つけたんだぜ。俺の特別な場所だ」と言い、くるっと僕を見る。「てめえだから見せてやんだからな」
 かっちゃんは得意げだ。特別と聞いて嬉しくなった。手を繋いだまま、しばらく見惚れているとかっちゃんが口を開いた。
「デク、見せてやったんだから、てめえの特別を寄越せよ」
「え?見返りがいるの?」びっくりして聞き返した。
「たりめーだ、クソが!」
 頼んだわけでもないのに、お礼を要求されるんだ。やっぱりかっちゃんだった。
 とはいえ、夕陽はとても綺麗だし、かっちゃんの言葉が嬉しかった。
 僕にも彼に見せられるような、いい景色はないだろうかと考えてみたが、思いつかない。
「ごめん、かっちゃん。僕は素敵な場所なんて知らないんだ」
「クソが。場所じゃねえ」
「じゃあ、もの?」まさかと思って、恐る恐る聞いた。「僕のオールマイトのフィギュアとか?」
「クソが!てめえのお宝なんぞいんねえ。俺はてめえみてえなコレクターじゃねえよ」
「でも、僕は何も持ってないんだよ」
 君と違って、という言葉は飲み込む。ここで言う言葉じゃない。
「あんだろ。てめえの特別を寄越せって言ってんだ」
「だから、持ってないよ」
 かっちゃんはふくっと膨れてしまった。
「わかんないよ。かっちゃん」
「クソナードが」
 それっきりかっちゃんは黙ってしまった。視線を僕から外して、岩に向けてしまう。怒ったのだろうか。そっと顔を伺う。
 眉間に皺は寄ってないし、そんなに機嫌を損ねたわけじゃないようだ。
 かっちゃんは僕の手をきゅっと握り直し、そのまま一緒にポケットに入れた。ジャンパーの中で、かっちゃんの手がすりすりと僕の手を摩る。
 川からの風で思ったより冷えていたみたいだ。かっちゃんの体温に手が温められる。
「特別を寄越せや」
 かっちゃんはぽつりと繰り返す。
 岩の隙間から覗く橙色の空が朱い色に染まってゆく。
 夕陽は色の白い幼馴染の頬も赤く染めていく。

END