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輝くもの天より墜ち(全年齢版)

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prologue


「てめえ!ざけんなよ!」
勝己は吼えた。
足元から振動が響いてくる。
崩れかけて瓦礫が散乱するビルの最上階。衝撃による振動で、天井がいつ崩落してもおかしくない。
砂塵が舞い散る部屋の中に天井に開いた穴から光が差し込み、緑色のパーカーと特徴のあるくせっ毛を照らし出す。
勝己はデクと邂逅した。最も望まない形で。
デクは悲しげな視線を向けてくる。あの時のようだと、勝己は思う。
始業式のあの日。瓦礫とコンクリートの白い粉に塗れた講堂。轟音と悲鳴。足元に蹲り見上げてくるデク。
つい最近のことなのに、随分と昔のように思える。
「追いかけて来たのが君でよかった。他の友達だったら、僕はきっと迷ってしまっただろうから」
「ああ?てめえ!何言ってんだ。説明しろよ。なんでここにてめえがいんだ。何をしてやがんだよ。ヴィラン共に混じってよ」
デクは「僕は」と言いかけて止め、唇を引き結び、勝己を見据える。
「僕は行くよ」


scene・1


3年生の春を迎えた。
始業式の日は描き割りの青空ような、嘘くさい晴れの日だった。
春休み明けの呆けた顔をした生徒たちが、だらだらと講堂に並んだ。講堂の上部に連なる窓からは、花をみっしりと咲かせた満開の桜の枝が見える。
勝己はだるさを隠しもせずにポケットに手を突っ込んだ。
「かっちゃん」と小声で呼んで、デクが嗜めるように勝己の袖をそっとつまむ。
「うぜえ。ほっとけよ、クソが」
悪態をつきながらも、慣れた背後の存在に安堵しているのを自覚する。
一年生の時のあの事件の後、やむを得ないとはいえ、一度は学校を去ったのだ。雄英への復学が許可され、進級までできたのは先生方の尽力だ。今年も同じA組の面々と過ごすことになるだろう。
いつもの始業式のはずだった。
校長が講堂の壇上に立った。
マイクがキインとハウリングしたその瞬間、爆発音が轟いた。
誰かが「ヴィランの襲撃だ」と叫んだ。同時に、窓ガラスが次々と立て続けに割れ、複数のヴィランが一斉に飛び込んできた。
逃げ惑う新入生達、入ってきたヴィランに応戦する先生方、避難誘導する上級生たち。講堂内は混乱に包まれた。
「邪魔だ!どけえ」
勝己は爆破で一気に薙ぎ払いたいのを抑え、APショットでヴィラン達を次々と狙い撃つ。移動しながらデクはどこにいるのかと探す。デクは黒紐を使って生徒たちを大勢括って持ち上げ、移動させていた。少し息切れしているようだ。
混戦の中、爆弾を仕掛けられたのか、爆音とともに天井が崩れた。
瞬間、剥落してゆく天井の真下に走ってゆくデクが見えた。その先には逃げ遅れて腰を抜かしている数人の下級生がいる。
一体どう助けようってんだ。黒鞭を使えよ。どうした、使えねえのか。ダッシュしても全員は救えねえぞ。わかってんのか。だが考えなしに飛び出しても、そこで全員を掬おうとするのがあいつだ。一瞬の思考の後、勝己は反射的に走り出した。
「どけ、カス!」
逃げ遅れた生徒達に被さり、亀のように丸くなったデクを足蹴にし、勝己は掌を天井に向けた。欠片をなるべく小さくするために、火力を上げて爆破する。粉々にするには足りない。拳大に分かたれ降り注ぐ瓦礫を次々に粉砕してゆく。
コンクリートの欠片が雨霰と降り注ぐ。頬を欠片が掠めてチリっと痛みが走る。
四つ這いになったデクを背に、勝己は仁王立ちになっていた。
振り向くと、顔を上げたデクと目が合った。勝己の名を呼び、自分の方が傷ついたように痛々しい顔で見つめるデク。勝己は口角を上げる。
自分のために他人が傷つくのは嫌だろう。
「血が出てるよ、かっちゃん!もういいよ、大丈夫だから」
「だったら、てめえがそいつら連れてどきやがれ、クソが」
思い知ったかよ馬鹿が。ああ、それだけじゃねえ。ふと頭をよぎる。
デクの目に俺はどう映ってるのだろう。
泣きそうな顔で俺を見つめる瞳。この満足感のためにやったんだ。
俺はてめえの目にヒーローとしてうつってるのか。
浅ましい。邪念だ。
だが、表情とは裏腹に「ありがとう、かっちゃん」と礼を言う出久の声には何の熱もない。
「さっさと来いやクソデク。ヴィラン共を追うぞ」
勝己は内心の落胆を隠すために、デクに背を向ける。今更だ。デクがそういう奴だってことは嫌と言うほど知っている。
デクは「怪我してない? 」と訊きながら下級生達を外に出るよう促し、腰を上げる。
「緑谷、爆豪、来てくれ」
何処からか相澤先生の呼ぶ声がした。周囲を見回すと、先生が講堂の壊れたドアから顔を出し、クイっと手招きしているのが見える。
「下級生は全員寮に避難させた。今は校舎内に逃げたヴィラン達を追討している。お前らも手伝ってくれ」
「はい、先生」
「ああ、わかった」
勝己は制服に着いた粉をはたき、足元の瓦礫を蹴って道を作る。
オールマイトがいなくてよかった」デクが言った。
オールマイトは仕事で警察に協力してるとかなんとかで、暫く学校に来ていない。秘密裏に行動しているらしく、デクにも連絡はないらしい。
オールマイトなら、きっと今の身体でも皆を助けようと、無茶をしただろうから」
「ああ?てめえが言えんのかよ。さっきのはなんだ?無策で飛び出して、あいつらをどう助けるつもりだったんだ」
「黒鞭が出なくて、焦ってしまって、でも助けなきゃって思って、咄嗟にその」
慣れない個性を使い過ぎてガス欠したんだろう。しどろもどろに答えるデクにイラっとし、背中を思いっきり叩く。
死柄木相手に1人で空中戦を挑み、ボロボロになっていく姿を昨日のことのように思い出す。こいつは何一つ変わっていない、自分の命を秤にかけない気味のわりぃ幼馴染。
「成長しろや、クソが」
だがてめえのその厄介な性質と、逃げずに付き合ってゆくと決めたのだ。だから自分にできねえなら誰かを頼れや、いや、誰かじゃねえ、俺を。せめてそのくらいはしろや。言えない言葉を飲み込む。
講堂を出ると、砂煙が薄く漂っていた。外も講堂の中と同じように瓦礫が散乱している。避難する生徒とは逆方向に、ふたりは相澤先生を追って駆け出した。

始業式は中止になった。
幸い生徒にも教師にも負傷者は少なく、ヴィラン達は易々と捕縛された。派手な襲撃の割に強力なヴィランはいなかったらしい。ほとんどが金で雇われた町のチンピラだったと後で聞いた。
破壊された講堂はセメントス先生によって、すぐに再建された。しかし、調査とセキュリティ対策のために、ゴールデンウィーク明けまで、生徒たちは実家に戻り自宅待機となった。
安全のためになるべく家から出るなといわれ、どっさりと宿題が出された。
そんな時期に事件は起こった。


scene・2


鏡に映った身体に残る、引き攣った星のような傷痕。腹と肩、貫かれた背中にも同じ痕がある。
死柄木の個性からあいつを庇った時の傷だ。消せるそうだが消したくなかった。残してくれと俺は言った。
今も時々、あの時の夢を見る。
べっとりと身体に巻き付いたスライム。拘束された四肢は自由に動けない。爆破しても粘度の高い泥のようなヴィランにはダメージが通らない。
口を覆われて呼吸ができなくなった。酸欠で気が遠くなりそうになり懸命に足掻く。助けを求めてあたりを見回す。
だが誰もが遠巻きに見ているだけ。ヒーローが来てくれるからとか、頑張れとか無責任な声が聞こえる。
うるせえよ。見てんじゃねえよ。今苦しいんだ。今窒息しそうなんだ。
野次馬の中にデクを見つけた。視線が合った。
俺はどんな顔をしてあいつを見たんだ。
途端に弾けるようにデクが走ってくる。泣きそうな顔で聞きなれた声が自分の名を呼び、スライムに取り付いて懸命にはがそうとする。
なんでてめえが出てくんだよ。
なんでてめえだけなんだよ。
夢はそこで覚めることもあるし、その先に進むこともある。続きの展開もその都度変わる。デクが必死にスライムを剥ぎ取ろうとしたり、自分と同じようにスライムに呑まれてしまったりもする。だが駆け寄ってくるシーンだけは、いつも共通しているのだ。
繰り返し脳裏に焼き付けられる。あいつのむかつくほどの自己犠牲だけは、夢の中でも同じなのだ。
ヒーローといえど誰しも多少は利己的なのにデクは違う。川に落ちた俺に手を差し伸べた時も、ヘドロヴィランから俺を助けようとした時も。それが誰でもてめえは同じことをしたんだろう。言ってみればてめえのは条件反射みたいなもんだ。それが子供の頃から堪らなく許せなかった。てめえには好きな奴でも嫌いな奴でも同価値なんだ。
あの頃、ヒーロー物に多い、弱え奴が強い奴を庇うシチュエーションが嫌いだった。身の程知らずにも、奴らは庇うことで対等になれたつもりなのだと思った。そんな場面を好ましく思う奴らの気が知れなかった。弱え奴の向こう見ずな行動はヒーローには必要ねえ。傷ついたりしたら、負い目を負わせるだけだ。きっと気持ちをを押し付けて好意を求めてるんだ。自分を印象づけて一目置かれようと格好つけてるんだ。そんな場面が出るたび苛ついた。
だが今、そうせずにはいられない気持ちがわかっちまう。厚かましいとあんなに嫌ったのに、同じことをしようとしてしまう自分がいる。デクに俺を印象づけたいんだ。デクに同じくらいの思いを返してほしいんだ。
欲しくて堪らないのに他に手段がみつからない。だがこんなやり方じゃ、どんだけ経ってもてめえに通じやしねえ。
デクは見返りを求めねえ。地位や名声のためでもねえ。好かれたいとも一目置かれたいとも思ってねえ。その身を犠牲にして全力で救ったとしても、ただの自己満足だ。てめえの理想に近付きたいだけなんだ。
ましてや救われた奴が好意を持つ可能性があるなんて、考えもしねえ。
奴は好意を求めてねえし、受け止めるつもりもねえ。救うことに行動以上の意味はねえんだ。
だから気付かねえんだ。デクは自分が見返りを求めねえから、人もそうだと思ってんだ。てめえを命がけで救っても、ただヒーロー活動と思ってやがるんだ。救うとか庇う行動に邪念があるなんて、思いもよらねえんだ。俺は誰でも身体張って助けたりしねえんだよ。
てめえのあの姿が何年たっても、鮮やかに心に焼き付いているように。
せめて、てめえに俺を印象付けたいと思うのは欲なのか。

「ちゃんと家に篭ってるんだろうな」
相澤先生から勝己の携帯に連絡があったのは、襲撃から十日ほど経った頃だ。
「親は2人とも出張で留守だ。気楽にやってるぜ」
「こっそり繁華街に出てる奴もいるからな。そういう馬鹿は声の後ろから聞こえる、賑やかな音で丸わかりだ」
「まさかクラス全員、
いちいち確認してんじゃねえだろうな。うぜえな」
「ま、仕方ない。これも教師の仕事のひとつだ」
ところで、と相澤先生は声の調子を変えた。
「お前の家は緑谷の近所だったな。ひとつ聞きたいんだが、緑谷は家にいるか」
「知らねえよ。別に近所だからってわざわざ会ったりしねえしよ。デクは家にひとりでいるはずだぜ。母親は旅行中だって聞いたからよ」
「あいつに連絡が取れないんだ。確認できないか」
ただごとではない様子に「何があった」と聞くと、「他には言うなよ」と言添えて相澤先生は言った。
「ヒーロー協会の支部が何者かに襲撃される事件が頻発してるのは、お前も知ってるか」
「ああ、ニュースになってるな」
ちょうど自宅待機になってからだ。幸い被害は少なく、死傷者もないという。支部に誰もいない時を狙うのか、目撃者はいないらしい。
「ニュースではそう発表されたな。だが1台のカメラに犯人らしき者が写っていたよ。まだ他の生徒には黙っておくが、お前には伝えておこうと思ってな」
「何が写ってたんだよ」嫌な予感がした。デクは事件に巻き込まれたりしたのだろうか。
「関東支部の監視カメラに、緑谷らしき姿が映っていたらしい」
「はあ?何言ってんだ」勝己は呆れる。「何かと思えばくだらねえ。どう考えても人違いだろ。あのヒーロー馬鹿に限ってあり得ねえわ」
「俺もそう思う。だからお前も協会本部に来て確認してくれないか。今から迎えに行く」
意味がわからない。まず確認してみてからだ。勝己はデクの携帯と家の電話にかけてみた。しかし相澤先生の言うように、どちらも繋がらなかった。まだ時間はある。相澤先生を待っている間に、デクの実家のある団地に立ち寄ることにした。
団地をぐるりと取り囲む桜並木は、花の盛りを過ぎ初め、五月雨のように花びらを散らしている。薄紅色の花弁は淡い光を透かして儚げに積もる。日向の木はもう黄緑の若葉を覗かせている。
デクの自宅の呼び鈴を鳴らしてみたが、反応がない。やはり留守のようだ。どこに行ってる。何やってんだ。不安と苛立ちが混ざり合う。
迎えに来た相澤の先生の車に乗り込み、協会に向かう車中で事件の詳細をきいた。
数日前の深夜に、ヒーロー本部の裏の壁を壊し、何者かが侵入した。二重三重にプロテクトされた高い壁で、そうそう壊されることはない。だがオールマイト並みの力なら破壊は可能だ。犯人はまず監視カメラをなにか飛び道具のようなもので破壊し、上階から地下まで各部屋のドアを破壊して開き、何も盗らずに姿を消したらしい。屋内も屋外もほとんどのカメラが壊されていたが、ひとつだけ塀の側の木に設置されたものが残っていた。
「そのカメラに侵入者が映っていたそうだ。他の支部も同一犯の可能性があると見られている」
「その情報は誰が知ってんだ」
「雄英の各教師や、一部の信頼のおけるプロヒーローだけに伝えられた。雄英の生徒の可能性があるということで、影響を鑑みてヒーロー協会お得意の箝口令が敷かれている。まあ、ありがたいことだがな」
相澤先生は皮肉混じりに言う。
「信じられるかよ。デクがやったなんてよ。あいつに限ってあり得ねえよ」
「ああ、同感だ。だが、他に手がかりがない。襲撃事件が続くなら、公にせざるをえなくなるかもしれん」
「クソが!マジかよ」
「だからそれまでに真相を突き止めたい。後手に回ってヴィランどもにメディア操作をされるのは痛いからな」
以前のヴィラン連合による放送ジャックの時のように、ということだろう。隠していたのかとエンデヴァーが非難されたあの事件。去年のような殺伐とした状況を、再び生むわけにはいかない。そのためにはたとえ学生であろうとも、ということか。
車は関東支部に到着した。壊されたという外壁は元通りになっている。出張したセメントス先生によって修復されたらしい。各部屋も修理されている。ただ、ドア周りのセキュリティ関連はまだ修復が済んでいないそうだ。
監視ルームに通された。問題のカメラの映像を確認する。
早送りをして、深夜の3時ごろ、塀の上に少年のような小柄なシルエットの男が現れた。緑のパーカーを着てフードで頭を隠している。一瞬でその姿は塀の下に消え、壁が崩れる音がしたところで、映像はざざっと乱れた。
「は?こんだけかよ」
「どうだ、爆豪」
「後姿だしフードで顔も見えねえ。こんな一瞬じゃあ見極められねえよ。どう壁を壊したのかもわからねえじゃねえか」
だが明らかにシルエットはデクに似ていた。胸騒ぎがする。
本部のヒーロー達も、デクがヴィラン側についたなんて信じられないと言う。彼らはヴィラン連合一斉検挙の時の、死柄木とデクの死闘を知っている。例の事件でデクはプロヒーロー達に一目置かれてるらしい。
ついでにその場にいた自分も一目置かれている。だから今回もここに呼ばれたりしてるわけだが。
しかし、新学期早々の騒動以後、近所にいるのにあいつを全くみかけなかった。いつもなら、狙っていなくてもよくニアミスするのだ。そこでおかしいと思うべきだったのかもしれない。いや、あいつなわけがねえが。
「始業式の数日後、近所で警官の服を着た、顔のない変死体が発見されてる」
家に自分を送り届ける車中で、相澤先生は言った。
「なんだよ、それは!それもデクに関係あるっていうのかよ!」
「わからん。まだ調査中なんだ。無関係であってほしいがな」
オールマイトはこのこと知ってんのか」
支部は無事なのかと連絡があった。ニュースを見たんだろう。まだ緑谷の件は伏せてる。はっきりしてるわけじゃないし心配させるだけだからな。こちらからあの人に連絡は取れないし。まだ戻って来れないそうだ」
もしGWが終わっても学校に登校して来なかったなら。いや、連絡がないのは、ただ単に休みボケしてやがるだけかも知れない。
家に帰ってから再びデクの自宅に電話してみると、母親が出た。旅行から帰ってきたらしい。しかし母親が言うには、もう学校の寮に戻ると連絡があったという。本当のことは告げられなかった。
勝己は歯噛みする。あいつ、親にまで嘘をついてやがる。オールマイトの後継者だというのに、母親にも言わず、俺にも言わずに何してやがる。デクはまた学校をやめるつもりなのだろうか。
理由がわからない。信じられない。音信不通だったオールマイトからやっと連絡があったばかりだというのにだ。
待機なんてしてられない。勝己は毎日街に出て捜索することにした。
あり得ねえ。あいつが堕ちるわけがねえ。あいつがヒーローをやめるなんて。なにもかも捨ててヒーローに殉じると言ったあいつが。


scene・3


1年生の頃の3月のことだ。
学校をやめて姿を隠したデクから、俺の携帯に連絡があった。
「ミリオ先輩にこっそり花束を渡したいんだ」
だから、卒業の日に手引きをしてほしいというのだ。俺はあまり知らねえが、デクはインターンの時に世話になったのに、何も説明してないからという。
「クラスの奴らには会っていかねえのか」
「……会えないよ。今はまだ」
うじうじとめんどくせえ。と思ったが承諾した。次はデクにいつ会えるのかわからない。
ヴィランが活性化した不穏な時期だが、厳戒態勢の中、卒業式が行われた。
俺は式が終わるのを見計らって、先輩を呼び出した。
「はは!君は確か、デクと一緒にいた爆発する子だね。君、凄かったよ。お腹ぐっさり刺されてたけど、もう大丈夫なのかい?」
「子じゃねえ。大爆殺神ダイナマイトだ。あんなかすり傷屁でもねえ」
底抜けの明るさがちょっと苦手だが、マッスル形態のオールマイトを思わせるところがある。デクがわざわざ挨拶したいっていうのもわからなくはない。
待ち合わせ場所に指定した、訓練所に到着した。廃工場を模したロケーションは隠れるのに適しているし、卒業式なのでまず誰も来ない。デクは物陰から出てきてミリオ先輩に対面し、花束を渡して泣いていた。彼は一時個性を喪失していた。デクとしても思うところがあるのだろう。卒業後は晴れて念願のヒーロー事務所に入るらしい。
先輩を見送った後、そそくさと去って行こうとしたデクを、俺は「話がある」と呼び止めた。
今デクに言わなきゃならないことがある。
だが、何を言うのか決めてはいなかった。決められなかった。どう言葉にしたらいいのかわからない。
いつからだろう。てめえに欲を抱くようになったのは。てめえに触れたい。他の奴に触らせたくねえ。ガキのような我儘な欲だ。
自覚してからは、てめえに知られてはいけないと避けるようになった。なのにてめえが俺を避け始めたら本能が追いかけた。心を見透かされたと思い見下されてると疑った。だがてめえが何一つ気づいてはいないと知ると、頭の中は安堵と、真逆の憤りが渦巻いた。
今だってデクは考えもしないだろう。はっきり言わねえと伝わらねえ。言っても叶うはずがねえ。だが言葉にすべきなのだ。きっとデクは今後も気づかない。このままでは.何も変わらない。 
何処から告げればいいんだろう。どう告げれば良いのだろう。
呼び止めたものの、俺は逡巡し言葉を探しあぐねた。
「君とは本当に長い付き合いだよね。僕の秘密を知られてからはすごく助けられた。昔みたいに親密になれたよね」
沈黙に耐えられなくなったのか、告げる前にデクは口を開いた。
「はっ!親密?どこがだ。寝言言ってんじゃねえ」
思いと逆の言葉が口から出た。なんで俺はこうなんだと内心歯噛みする。
「君はそう言うと思った。でも、僕は嬉しいんだよ。やっと君に近づけたと思ってたから。君は僕にとって特別なんだ。子供の頃の君の存在は輝いていて、僕の魂の奥深くに刻みついている」
「けっ!おかしな言い回ししてんじゃねえよ」
少し気分が浮上する。てめえも距離を詰めたいと思ってたんだな。ならばちったあ脈あるんじゃねえか。てめえの秘密を知って、これから徐々に距離を詰めて、いつか新しい別の付き合い方ができるんじゃねえか。
「君やみんなが来年卒業したら、もう頻繁には会えなくなるね。でも、どんな形でもきっと現場で会えるよね」
「てめえとはOFAの秘密を共有してんだ。これっきりになるわけねえだろうがよ」
「うん、そうだね。でももう、僕の秘密はA組の皆も知ってるけどね」
「あいつらは重要性をわかってねえよ」
学校をやめる前に、他の奴らにもデクは秘密を手紙で教えた。だがOFAがどんな代物なのかという詳細は別だ。当然だ。持ち主が望めば譲渡できる個性だ。知るものが多いほど危険は増す。OFAの譲渡の方法も、歴代保持者がデクの中に幽霊みたいに居座ってることも、保持者がいずれどうなるのかってことも。AFOが弟への執着からOFAを狙ってるってことも。
秘密を知る者は最小限でいい。俺だけでいい。秘密を口実にしていつでも会える。デクの人生に介入できる。
「そうだね。かっちゃんがずっと秘密を守ってくれてた」
「てめえのためじゃねえわ、クソが。てめえがしっかりしねえからだろーがよ。ぽろっと喋りそうになるてめえを何度止めたか知れやしねえ」
「うん、そのたびにげんこつ食らったけど」
デクは少し笑った。笑顔を見るのは久しぶりだった。
「初めに知られたのが、他の誰かじゃなくかっちゃんでよかったと思うよ」
じれったい。そんな与太話がしたくて呼び止めたんじゃねえ。
しかし、俺はなかなか言い出せず、話題はさらにどうでもいい話になり、クラスの奴らの話にとんだ。
「恋人同士になってる人もいたよね。社会人になったら結婚するんだって言ってた。びっくりしたよ」
「は! んなわけねえって。あいつらが卒業まで続くかどうかわかりゃしねえ。ぼろが出るってよ」
「ひどいなあ、かっちゃん」
ふふっとまたデクは笑う。話題が途切れた。今が言う機会だろうか。
「僕は誰とも付き合えないけれど」
しかし、またしても俺が口を開く前にデクはポツリと言った。
「何故だ」出鼻を挫かれ、俺は問うた。
「だって、君ならわかるよね。OFAを持つ者は狙われるからだよ。夫や子供を失ったオールマイトの先代みたいね。家族や恋人がいれば危険に巻き込んでしまう。大切な人を犠牲者にしたくない。だからオールマイトはずっと独り身なんだよ」
「てめえはオールマイトじゃねえだろうが!」
予防線をはってるつもりか?いや、鈍いデクが俺が何を言おうとしてるのか、気づいてるとは思えない。
「うん、僕はオールマイトに遠く及ばない。だから、なおさらだよ。僕は絶対に誰とも付き合わないよ。大切な人も大切に思ってくれる人も失いたくない」
「人としての幸せってやつを捨てるってのかよ」
「そんなことない。僕は十分幸せだよ」
身に余る個性を得て、夢見ていた人生を歩むことだけを選び、それ以外の全てを引き換えにする。それを幸せだというのか。
「なんで、俺に言った」
「君にしか言えないよ。君と僕はOFAの秘密の全てを共有してるから。特別なんだ。そうだよね」
寂しそうに笑うデクに、それ以上何も言えなくなった。言おうとした言葉は飲み込むしかなかった。
てめえにとって俺が特別だと言ったな。けれど、てめえの特別と俺の特別は違うんだ。
てめえの魂の奥深くに刻みついていると言ったな。だがそれが何になる。
デクは誰のものにもならない。絶望的に俺の気持ちは一方通行だ。
てめえにとって俺は何だ。所詮はてめえにとって、幼馴染でクラスメイトで秘密の共有者でしかないのか。
だから俺はてめえが気に食わねえんだ。
気持ちに気づくな。もう忘れるんだ。
俺は何も望んじゃいない。


scene・4


テレビにビル街のライブ中継が映し出されている。
どうやらヴィランの襲撃に遭っているのは、近隣の高層ビル街のようだ。
あの中にはヒーロー協会支部のビルもある。ただの偶然だろうか。こそこそ侵入してやがるくせに、人目につく昼日中に襲撃するわけがない。だが胸騒ぎがする。
勝己はソファから立ち上がり、コスチュームに着替えて現地に向かうことにした。
自宅待機と言われてるが、仮免は取ってるのだ。ヒーロー活動に加わっても問題ないはずだ。
あの事件からヴィランによる事件が頻発するようになった。殆どが小物のヴィランによるものだが、奴らの個性によっては被害が大きくなることもある。
世の中が不安が満ちていくのが肌で感じられる。
自分の知らない、ヒーロー社会以前にあったという、不条理な無法地帯に戻っていくのだろうか。
ビル街は避難する人々で混乱していた。勝己はヒーロー達に加わり、ヴィランと戦いたいと申し出たが、避難誘導の方を頼まれた。不満だが仕方がない。主犯のヴィランは逮捕されたそうだ。便乗した輩が起こしている暴動もまもなく鎮圧されるという。
ヒーロー支部のプロヒーロー達は全員この事件に出払っており、その他の職員は避難して、現在はビルの中は無人らしい。勝己は支部の玄関ホールを見据える。襲撃するにはおあつらえ向きの状態じゃねえか。
ふと、ビルの窓から見慣れた小柄な影が走っていくのが見えた気がした。
気のせいだろうか。プロヒーロー達はもう中に人はいないと言っていた。あの影がデクかどうかわからない。
だが奴だと自分の勘が告げている。
勝己はビルの中に消えた影をダッシュで追った。ホールの真ん中で立ち止まり、耳を澄ます。微かに何者かの足音が聞こえる。勝己はその足音の方向を目指し、階段を飛ぶように駆け上がる。

ビルの最上階、2面を高い窓に囲まれた広い会議室で、勝己はデクに邂逅した。
緑色のパーカーを着てフードで頭を隠しているくせに、白いグローブと赤いブーツはコスチュームの特注品という、半端なコーディネートだ。侵入者がヒーロースーツを着るわけにはいかないからだろう。
「てめえ、デクだろ? 」と問うたが、デクは振り向かない。答えない。
「てめえだってこたあ、わかんだよ、おいデクよお」
名を呼ぶとデクはびくりと震え、ゆっくりと振り返った。
夕陽を背にした姿は、まるで太陽に灼かれているようだ。差し込む光を反射した塵が、雲母の欠片のように舞っている。
「こんなとこで何してやがる、クソデク」
「かっちゃんこそ、どうしてここに?僕は事件をニュースで見て来ただけだよ」 
「は-ん、おかしいよなあ。らしくねえじゃねえか。いつものてめえなら下で暴れているヴィラン共をほっとかねえよな。てめえ、支部に用があったんだろ?」
カマをかけた。支部を連続して襲撃してたのは本当にデクなのか。酷似していたとはいえ、防犯カメラの映像ではシルエットしか見えなかった。確証があるとはいえない。
デクの頭がびくりと揺れた。
「プロヒーロー達に見つかるわけにいかないから」
信じたくなかったことを肯定する言葉だった。
「あのヴィラン共はてめえの仲間じゃねえだろうな」
「まさか、違うよ」デクは首を振る。「でもこの騒ぎで支部の人達がみんな避難してくれてよかった」
「コソコソ何かやってんのか?ああ?いつも夜に襲撃してたくせに、今回は昼間かよ」
「やむを得なかったんだ。もう時間がないんだよ。こうしてる間にも、取り返しがつかなくなるかも知れない」
「俺の質問に答えろや!」
頭に来て威嚇のつもりでデクの足元を爆破した。コンクリートの床が抉れる。
デクはジャンプして避けると、空中からスマッシュを勝己に目掛け放ってきた。風圧で会議室の椅子や机が次々と渦巻くように宙に浮き、倒れてゆく。
やべえ!勝己は避けきれずに吹っ飛ばされ、壁にぶち当たった。衝撃で内臓が揺れ、背骨が軋む。
あの野郎ふざけやがって。本気でぷっぱなしやがった。
「か、は、おいクソデク!やりゃあがって!覚悟は出来てんだろうな」
掌をデクに向ける。手加減しては捉えられない。今の一撃でわかった。奴は本気だ。理由は不明だがそれほどに焦っているのだろう。
だが、自分はリミッターを解除出来るのか。人間を相手に。デクを相手に。
幼い頃から人を殺せる個性を自覚している自分は、粗暴だといわれても、結局手加減するのが身についてる。こんな時に身についた習性が恨めしくなる。
今の一撃でデクの右指はひしゃげていた。力の出力のコントロールは出来てたはずだ。己の身体への負荷の調整も忘れてやがるのか。
「クソが!」
デクのいる方向を大火力で爆破する。当たんなきゃ死なねえ。
広範囲を吹っ飛ばしたが、デクは翻るように飛び上がり、二弾目を放ってきた。咄嗟に横に跳んで避ける。さっきまで立っていた床に大穴が空いた。吹っ飛ばされた椅子が階下に落ちてゆく。
「この程度かよ!ああ?俺相手に指ごときでいけると思ってんのか。使ってこいや、腕をよ」と挑発する。
使わせて避けるのだ。あいつの片腕が使い物にならなくなれば、捉えるのは容易い。
「かっちゃん。お願いだ。今は見逃してよ」
デクは悲壮な声を上げた。
「ああ?アホかてめえ。理由も言わねえで何クソみてえなこと言ってんだ」
「言えないんだ。ごめん。多分、言ってもわかってもらえない。君はあれを見ていないから」
「あれって何だ」
答えず口を噤んだデクを睨んで1歩近づく。「まあいいどっちにしろ、同じことだ。てめえを捕まえて全部吐かす」
言い終わるや否や、デクに向かって掌を向け、狙い撃ちする。既に弾道の先にデクはいないが、避けられるのは織り込み済みだ。逃げる方向を追尾して連続でぶっ放す。
柱が抉れ防弾の窓硝子が割れる。壁に弾痕が増えていく。煙がもうもうと立ち込めてきた。視界を遮られる。
「クソが!」自分が爆破したせいだが、前も後ろも見えねえ。腕を振って煙を割く。
デクはどこだ。床に血は散ってねえ。傷は負わせられてねえか。あんだけ撃ったのに無傷かよ。
煙の先に揺れる人影が見えた。影の方向にAPショットを広範囲に連続して放つ。ちょっと当たったって死にゃしねえ。
煙が晴れた。デクは半分に崩れた柱の後ろに立っている。
「ビルが壊れちゃうよ。かっちゃん」
「ああ?だったらおとなしく捕まっとけや」
「それは、できないんだ」
出久が拳を固めるのが見えた。全力のスマッシュを出しやがるか。よし、上等だ。衝撃に備えて身構える。
その瞬間、がくりとデクの肩が下がった。足が床にめり込んだのだ。大穴を開けたせいで床が脆くなっていたらしい。デクは飛び上がって避ける。ヒビは蜘蛛の巣のように、一気に床一面に走ってきて勝己の足元に届き、ごそりと床が崩れた。
「クソが!」
「かっちゃん!」とデクがすっ飛んできて手を差し出した。
はあ?
頭にきた。今の今まで戦っていた相手だろうが。こんな時にまで人助けかよ、てめえ!
だが、伸ばされた指先に触れ、手を掴む。
いや、捕まえた。
勝己は空いた左手でデクの足元の床を爆破した。
「ええ!?かっちゃん?」
「ばあか、甘えんだよ」
勝己はデクの手を繋いだまま、崩落した穴の中に落ちていった。

パラパラとコンクリートの屑が落ちてくる。
勝己は目を覚まし、顔にかかった砂つぶを払う。光は上から降ってくる。どうやら地下階まで落下したらしい。瓦礫が散乱しているが、広い空間で柱が多く天井が低い。駐車場のようだ。
「いってえ、クソが。大穴掘削しやがって」
身体が動かねえ。背骨がいっちまったのか。クソが。デクは何処にいる。
頭を起こして見回すと、数メートル先にデクが見えた。瓦礫の下から起き上がろうとしている。
「おい、デクてめえ!」
勝己は身体を起こそうとしたが、腕と首しか動かせない。ふらりと立ち上がったデクが振り返った。
「言ったよね。僕は行くよ」
「デク、畜生!クソが、ふざけんじゃねえぞ、クソデクが! 」
デクが行っちまう。ここまで追い詰めたってのに。行かせてはいけないと焦るが、起き上がれない。
だが、ゆらりと数歩歩いて、デクはぐにゃりと崩折れた。
「は?」
あいつ、スタミナ切れかよ。
勝己はよろめきながら身体を起こした。衝撃で痺れてただけのようだ。外傷は多いものの、骨が折れたり肉が抉れたりといった大きな傷はない。デクを引きずり起こし、仰向けにして膝で腕を押さえつけ、馬乗りになる。デクの服は爆破のせいで焼けてボロボロになり、身体も傷だらけだ。だが手加減はしてやらない。パンパン、と頬を平手打ちする。
「起きろやクソデク。追いかけっこはしめえだ。観念しろよな」
デクは薄眼を開けた。「かっちゃん」
「てめえ、なんか言いかけたよな、さっき。言ってみろや。何を信じてくれないって?てめえの戯言聞いてやるよ」
「信じてくれないよ」とデクは沈んだ声で言う。「世の中に公表されることはないんだ。これからもきっと」
「何かを見たんだろ。それはなんだ。言ってみろや」
顎を掴んで固定し、デクと視線を合わせる。
「信じてくれないよ」
「言えや。言わねえと殴る。言うまで殴んぞ」
同じ言葉を繰り返すデクに苛々する。
デクは目を伏せたが、「じゃあ言うよ」と呟いた。覚悟を決めたらしい。
オールマイトを救出するためだよ」
「あ?何言ってんだ?」
「僕は見たんだよ、かっちゃん。ヒーロー支部の地下でヴィランに囲まれ、拷問されてるオールマイトを。ヒーロー達の上層部にヴィランがいるんだ。僕は支部の何処かに捕まってるオールマイトを探して、救わなきゃいけない」
「ちょっと待てや、てめえ」勝己はさらに続けようとするデクを制止する。「オールマイトが捕まったなんて、んな事件きいたことねえぞ。しかも支部が絡んでるなんてよ」
「だから信じないよって言ったよ。見ないとわからないよ」
デクは見たと言い切っている。誰かに聞いて思い込んでるわけではないらしい。馬鹿げた話としか思えないが、偽りと断じていいものか。まずもっと話させるべきだろう。
「詳しく言えってんだ。信じて欲しけりゃ信じるに足る材料を出してこい」
「僕の目の前でオールマイトがボロボロになって、倒れて、またヴィランに無理やり起こされて。もう時間がないんだよ。こうしてる間にもオールマイトがどんな目に遭ってるか」
「落ち着けや、てめえ。どっかの支部ヴィランの巣窟だっていうなら、慎重に考えろよ」
見たと言い張るばかりで、まるで要領を得ない説明だ。
「だから君は信じないって」
デクは落胆の色を声に滲ませる。「君は見てないから。僕はこの目で見たんだ」
「仮にんな事があったとしてだ、そん時てめえは何処にいた?拷問されるオールマイトを何処から見てやがった」
「僕は、僕はすぐ近くで見ていたんだ。身体を端から削られていくオールマイトの表情が苦しそうで、肉片や汗や血が飛び散って床を汚してた」
「近くで見てたんなら、止めなかったのかよ。戦って、やめさせなかったのかよ。むざむざと見殺しかよ」
「止める?」デクは混乱しているように頭を抱えて髪をかき乱す。
「目の前で触れそうなくらい近くだった」デクは手を止める。「あれ?僕は何処から見てたんだろう」
「あのなあ、俺は先日オールマイトに会ったばかりだ。オールマイトはピンピンしてたぞ。てめえは何を見たってんだ?ああ?」
嘘だ。オールマイトはまだ帰って来てない。だが相澤先生に連絡してきたのだ。デクが行方不明になる前に拉致されてるわけがない。
オールマイトが……無事?」
「ああ、元気いっぱいだわ。てめえは一体何を見たんだ。おい」
オールマイトは拷問にかけられて」
「どちらにしろ、ヒーロー本部を襲撃するなんて愚の骨頂だ。お前はオールマイトのためにヒーローやってんのかよ」
勝己の言葉が聞こえていないのか、「オールマイトオールマイトが……」とぶつぶつとデクは繰り返す。
「おい、どうした」
「いっ!頭が、いた、痛いよ。オールマイト
「おい!おいデク!」
虚ろな瞳を閉じて、デクは気を失った。頬を強く叩いてみたが、今度は目を覚まさない。何があった。打ち所が悪かったのか?
顔に掌をかざすと、吐息が触れた。息はしてるし脈は正常だ。
なら丁度いいか。勝己は意識を失ったデクを肩に担いで立ち上がった。


scene・5


緑谷出久の音声記録

こちらデク
聞こえますか
無事ヴィランのアジトに潜入しました
これからの行動はスマホに記録を残しておきます
渡されたイヤホンはクリアな音で通信できてます
ホログラムスキンは試したとおり成功してます
別の姿がちゃんと体表に投影されてるみたいです
すれ違ったけどヴィラン達は僕に気づいてません
オールマイトはどこにいるんだろう
誰かの足音が近づいてきました
大丈夫です気づかれてない
通り過ぎていきました
頂いた地図の通りならこの通路の先に捕虜を閉じ込めておく部屋があるはずですよね
おかしいです
行き止まりになってます
この地図は何か変だ
イヤホンに雑音が混じってますよ
声が聞こえません
塚内さん僕の声聞こえますか
ヴィランは僕に気づかないはずですよね
足音が聞こえてきます
増えてるみたいです
まるで僕を追いかけてきてるみたいです
塚内さん聞こえますか
大変です!
オールマイトが捕まってます
あの場所は知ってます
支部の取り調べ室です
どうして支部になんて
拷問されてます!
ああ!オールマイト
どうしよう助けなくちゃ
助け

(何かが倒れる音)
(通信遮断音)

緑谷出久の録音記録2

ヒーロー協会支部の潜入に成功した
僕の目的は誰にも知らせるわけにはいかない
だから後々のために今回も録音記録を残しておくことにする
目的が果たせなかった時のために
僕が何のために行動したのかわかるように
ヴィランの基地に潜入したときにヒーロー支部の地下に捕縛されているオールマイトの映像を見た
酷い拷問を受けていた
早く救出しなければ殺されてしまう
どこの支部なのかはわからない
だから片っ端からあたるしかない
どこかの支部オールマイトがいるんだ
なのにまだ見つけられない
時間がない
今までの支部は本物だった
でもここは偽の支部かもしれない
慎重に動かなければ
ヴィランに占拠されたヒーロー支部があるなんて信じがたいことだけれど事実なんだ
偽の支部のことはいずれ公にしなきゃいけないだろう
でも今発表したら捕まってるオールマイトに危険が及ぶかもしれない
今はオールマイトさえ見つけられればいい
なるべく人を傷つけたくない
1人だって傷つけたくない
彼らは真実を知らないんだ
でもオールマイトを助けることができれば証明することができる
まずいな
かっちゃんがいた
ここに入るところをかっちゃんに見つかったかも知れない
追ってきてる
やはり気づかれてしまった
彼もヒーロー協会支部が偽物だなんて知らないんだ。
言っても解ってもらえるとは思えない
でもオールマイトを見つける前に邪魔されるわけにはいかない
ああ頭がガンガンする
この頃頻繁に頭痛がする
戦いたくない
甘いだろうけど見逃してくれないだろうか
頭が割れそうに痛い

(通信遮断音)


scene・6


シャワーを浴びて、砂塗れだった身体がさっぱりした。勝己はTシャツとハーフパンツを身につけ、タオルで髪を乾かしながら部屋に戻る。ベッドの側に椅子を寄せて座り、惰眠を貪る幼馴染を見つめる。
デクを誰もいない本人の家に連れていくわけにもいかず、自分の実家に運んできた。
気絶したデクの服を脱がせ、埃だらけの身体を拭き、傷の手当てをして自室のベッドに寝かせた。上半身は包帯をまいただけでパンツ一丁だ。
ピクピクとデクの瞼が動いた。覚醒したようだ。そろっと目を開けて、キョロキョロと部屋を見回し、こちらに顔を向ける。
「ここ、かっちゃんの家だね」
「ああ、俺の部屋だ」
「かっちゃんの部屋……久しぶりだね」
身体を起こそうとして、デクは手首を戒める手錠に気づき、「これは?」と言って鎖を左右に引っ張る。
「てめえが妙なことしねえように、付けさせてもらったぜ。対ヴィラン用だ。そう簡単には壊れねえ」
「なんで、何があったの?」
「あ?てめえ、覚えてねえのかよ」
「確か僕はヒーロー支部に行って」徐々に思い出してきたのだろう。デクの顔色が変わった。「僕は君と戦ったんだ」
「思い出したかよ、てめえの愚行をよ」
「愚行……」
「こっちが聞きてえこと答えてもらうぜ。何があった?催眠術でもかけられてたのかよ。てめえ」
「違う。でも、言っても」
「信じねってんだろ。信じるかどうかは俺が判断する。言え!」
デクは手錠を嵌めた手を組んで膝を抱える。
「僕がヒーロー支部に行ったのは、行方不明のオールマイトを救出するためだった」
「そう言ってたな。ヒーロー支部ヴィランに何の関係があると思ってやがった。続けろよ」
「新学期が始まって、襲撃事件が起こったよね。それから自宅待機が決定する前に、学校で警察の顔見知りに会ったんだ。それで、聞いたんだ。オールマイトが事件の捜査中にヴィランに攫われたって」
「ああ?んなこと聞いたことねえぞ」
「極秘事項だと言われた。オールマイトが攫われたなんて、公には言えないんだって。だから潜入捜査を頼まれたんだ」
「ああ?そいつはてめえなんざに協力しろって言ったのか」
「その人はOFAの秘密を知ってるんだよ。オールマイトの古くからの知り合いなんだ。信用できる人だよ。」
「だが、警察が単独で学生に依頼するかよ」
「秘密の任務だから警察内部で捜査できないって、そう言ってた。それから、その人とヴィランのアジトに潜入して情報を得て、オールマイトを助け出す計画を立てた。ホログラムスキンって知ってる?警察で使う潜入捜査用のアイテムらしいんだけど。別人の像を顔に映し出す映像皮膜なんだ。それで変装したんだ。ただ、入り口に心を読むヴィランが配置されていて、バレる危険性があるから、暗示をかけて記憶の表層からオールマイト救出という目的を消したんだ。潜入したら僕の携帯に連絡してもらって、暗示を解くあるキーワードを聞き、目的を思い出す計画だった」
昔敵国にスパイを潜伏させる方法の一つとして、暗示をかける方法があったときいたことがある。スパイは目的を忘れて暫く潜伏し、キーワードを聞いたら暗示を解かれて、行動を開始するのだ。
「で、携帯は鳴らず暗示は解かれなかったのか」
「解かれたよ。ちゃんと目的を思い出してたから」
「本当にそいつは警察だったのか。偽物じゃなかったのか。もしヴィランならいくら変装したって無駄だ。てめえは正体がバレてると知らずに、丸腰で敵の巣窟に入ったことになる。暗示もクソもねえぞ」
「小規模な基地だったし、万が一の時は基地ごと吹っ飛ばして、逃げられると踏んでたよ。情報が得られなくなるから避けたいことだけど」
「キーワードは何だ」
オールマイトを見つけろ、だったと思う」
「その警察の野郎が鍵だな。そいつの名を教えろ。プロならともかく、潜入捜査なんて危ねえ仕事を学生に、しかもOFA後継者と知ってて頼むなんておかしいだろ。だれだそいつ」
それは、と出久は口籠る。「信頼できる人なんだ。絶対ヴィランじゃないよ」
「んなこたあ、どうでもいいわ。判断すんのはきいてからだ。言えってんだ」
「……塚内さんっていう刑事さんだよ。かっちゃんは知ってる?」
「ツカウチ……知らねえよ」
オールマイトの旧知で、ずっと昔からOFAのことも知ってるんだ。怪しい人じゃないよ」
「そいつの所属は?知んねえのかよ。今更かばってんじゃねえよ。」
デクは首を振る。本当にそこまでは知らないらしい。所属部署は相澤先生にあたることにしよう。勝己は携帯を手に取った。
「TVに出てたあ?ああ、襲撃区域には行ったけれど、なんも危険なこたあしてねえよ。プロヒーローに聞いてみろや。いや、他には誰もいねえ。俺1人だ」デクにちらっと視線を送る。「ひとつ聞きたいことがある」
通話を切り、デクに向き直る。
「おいデク、その塚内って刑事は、今月から北海道に転属になってんぞ」
「ええ!そんな」
「相澤先生に聞いてもらった。てめえは誰に会ったんだ?」
オールマイトは極秘任務に赴き、数日間音信不通になった。行方不明だと思い込まされたデクが、塚内刑事とやらの偽物に唆された。そういうことだろう。
たった数日だ。だが、今まで毎日オールマイトと連絡を取っていたデクにとっては、心を揺さぶるに十分だったのだろう。
学生の身では情報だって満足に得られない。ことに全寮制で、許可なく外に出られない身となれば尚更だ。デクは不安につけこまれたのだ。
「新学期早々のヴィラン襲撃事件も、ひょっとして偽警官を送り込むのが、真の目的だったのかもな。数日前に警官の服着た奴が、顔のない変死体で発見されてんだ。ヴィランが塚内って刑事になりすましていたのか。ヴィランに丸め込まれた警官だったのか。殺された理由は口封じなのか、仲間割れなのか。どうなんだか知れねえが」
「そんな、そんなことって」
「仮に殺されたのが本物の警官だったとしても、てめえの潜入捜査を知ってたのは、警察内でそいつ1人だったんだろう?どちらにしろもう、てめえの目的が潜入捜査だったと知る者はいないんだ。知ってるか?てめえはヒーロー達にヴィランの仲間になったと疑われてんだよ」
「僕が……ヴィランに?」
デクの声が震える。やっと事態の重大性に気づいたようだ。
「迂闊に偽物を信じやがって。てめえはOFA後継者の名に泥を塗りやがったんだ。このままじゃ、てめえはタルタロス送りになんぞ」
「だって、僕はオールマイトがヒーロー支部に囚われているのを見たんだ。今だってすごく鮮明な記憶がある」デクは包帯を巻いた腕を震わせる。「なのに全部が偽りだなんて」
ごめんなさい、オールマイト、とデクは悔しげに呟く。
それを見てちょっと溜飲が下がる。ああ、せいせいしたぜ。責めるのはこのくらいでいいか。
デクは戻って来たんだ。ヴィラン堕ちもしてなかった。
今はまだマスコミに箝口令がしかれている。間に合ったのだ。
しかし、疑いは晴れてねえんだ。何らかの証拠を探さないといけねえ。
ずっと隠してるわけにはいかないだろうが、どうする。諸々のケリがつくまで匿っておくか、それとも先生にだけでも告げておくべきなのか。
考えがまとまらないまま、夜になった。
勝己は隣室のクローゼットからマットレスを持ってきて、デクを寝かせたベッドの側に敷いた。明かりを落として暗くする。
「とりあえず、てめえは俺のベッドで寝てろ」
俯いていたデクは、思いつめたような表情で顔を上げる。向けられたまっすぐな瞳に、嫌な予感がした。
「君に頼みがあるんだ」
「あんだ。クソデク」
「君にOFAを譲渡したいんだ」
「ああ?なんだと!」
予感は的中した。クソみたいな提案を口にして、さらにデクは続ける。
「そうすればOFAは汚されない。秘密を知ってる君ならわかるよね。もしタルタロス送りになったら、OFAは封印されたも同然だ。それだけはダメなんだよ」
「てめえ、正気で言ってんのかよ。ざけんな!」
「お願いだよ。かっちゃん」
「クソして寝ろよ」と勝己は布団をかぶって背を向ける。
OFAの力。ヒーローなら誰もが羨望せずにいられないパワー。あのエンデヴァーを狂わせた力。たとえ個性持ちには負担のかかる、命を食らう力であったとしても、それが得られるのなら、何と引き換えにしても惜しくはないだろう。
ただ、今のOFAの所有者はデクだ。その一点で自分には不要なものだ。
背後で衣擦れの音がする。眠れないのか。寝返りをうっているようだ。
起きあがりベッドを降りた気配。堪らず振り返った。
すぐ側でデクが四つん這いになって、勝己の顔を覗き込んでいる。
「あ……の、かっちゃん」
「てめえ、なんか用かよ」
「お願いだよ、かっちゃん。OFAを受け取って欲しい。個性持ちの君にはきっとリスクになるけれど」
デクは悲壮な泣きそうな声で言う。
リスク。確証はないが、とオールマイトが言っていた。OFAは個性持ちの奴にとっては、使わず所有するだけで負担がかかり、寿命を縮めるのだという。膨大なパワーと引き換えの代償。デクはそれをリスクと言うのだろう。
だが、そんなことはまるで気にならなかった。半裸でにじりかってくるデク。包帯の巻かれていない場所から見えるむき出しの素肌。まるで夜這いのような構図だ。勝己は唾を飲んだ。
「譲渡する方法はDNAの摂取なんだ。知ってるだろ。あの島で、一度は君に譲渡しようとしたんだから」
「覚えてねえわ」
嘘だった。克明に覚えている。虫の息のデク。伸ばされた血で汚れた手。合わせたお互いの濡れた掌。
滑り落ちそうな手を落とすものかと強く掴んだ。血を舐めて、とデクは言った。しかし身体に力が漲るのが感じられたので、必要ないと判断して止めた。
あの時一時的にしか譲渡されなかったのを、オールマイトは奇跡だと称していた。しかしおそらく、正しい方法ではなかったからだろう。
デクは吐息がかかるほど側に近寄ってくる。
「本来なら譲渡する意志さえあれば、なんでもいいんだ、僕は髪の毛を飲んだけど」
「ざけんな!」
勝己は上体を起こし、デクを睨みつけた。
「僕は本気だよ。今だけでいいから君に保持してもらいたい。オールマイトに頼んで、無個性の人を探してもらって、いなければいつか僕がまた引き取るよ。でも今は、この世界からOFAが失われてしまうという、最悪の事態だけは避けなきゃいけない。君に頼むしかないんだ。秘密を知っている君にしか」
はらわたが沸々と煮え繰り返る。てめえの頭はOFAのことしかねえのかよ。そんなにOFAが大事かよ。
秘密を知りたかったのは自分だ。隠し事をしているてめえが我慢ならなかった。だから暴いた。秘密を共有することで、俺の心は嘘みたいに安定した。
だがてめえはそれをまるで印籠のように振り翳す。人の気も知らずに。
「なら俺にキスしてみろよ、デク」
「え??」
薄明りの中でも、デクが驚きに目を丸くしたのが見える。
「DNAであればなんでもいいってこったろ。なら唾液でもいいんだろーが」
「でもキスだよ?そんなことできないよ。なんで」
デクは怯んだ。勝己は苦笑してデクの腕を掴み、もう片方の手で手首からそろそろと上に撫でてゆく。
「できねえだろ。はは!クソデク。できねえよなあ」
肩から首筋をたどり頬を撫でる。間近に顔を近づける。
「てめえの覚悟なんざその程度だ。なあ、デク」
じゃらりと手錠の鎖が鳴った。勝己の顔にデクの手が触れ、引き寄せられる。
嗤う勝己の口に掠めるように触れた唇。
舌が勝己の唇を舐めた。
熱だけを残して。幻のように一瞬で離れる。
キスをされたのだ。
なによりも求めていたものを、てめえは俺にあっさりとくれやがった。
譲渡のため、それだけのために。てめえはそんなに簡単に差し出せるのか。
「てめえ!なにしやがる!」
頭に血が上った。デクを押し倒し、押さえつける。
「ごめん、かっちゃん、なんでもいいんだ、唾液でも血でも。誰も見てない。ふたりきりの闇の中だ」
薄闇の中で、デクが蠱惑的な声音で囁く。「ねえ、かっちゃん、譲渡できた?」
「てめえには、その程度のもんなのかよ!ふざけるな」
てめえは俺をOFAの容れ物として、それだけのために必要とするのか。俺の心を知りもしねえで。
「そ、そんな簡単なわけないだろ。僕の、ファ、ファーストキスだよ」
「初めてかよ。くっだらねえ。残念だったな、譲渡なんざできてねえよ。バーカ!」
腹が立って、勝己はデクの頬を打った。返す手でまた頬を打つ。痛いよ、と抗うデクに手を掴まれたが、その手を捻り、間髪入れずに布団の上に引き倒す。抵抗するデクの腕を押さえつけ、足の脛で膝を抑える。四肢を体重で押さえつけて組み伏せる。
しかしデクはもがいて逃れようとした。ならばと全身で押さえつける。取っ組み合いのはずが腰を押し付け、脚を絡ませて、まるでいちゃついているようになった。
包帯を巻いただけのデクの身体。素肌が触れ合って身体の中心が熱くなる。
「クソが!てめえはここでくたばれ!」
勝己は誘うように薄く開かれた唇に、噛み付くようにキスをする。飢えた獣のように。舌を入れて口内を荒々しく舐める。飢えていたのだ。抑えられていた欲が奔流のように押し寄せる。
「てめえは俺にOFAに全てを捧げろってのか。てめえのように」
唇を離し、問いかける。
「そうだよ」
「そんなことだけ、てめえは俺に頼るのか」
「それが今1番大切なことだろ。君にだってわかってるはずだ。君にしか頼れないんだ。秘密を知る君にしか」
「秘密、秘密、うぜえわ!なら俺にてめえの全部を寄越せ!」
デクは見返りを求めない。それが子供の頃から憧れた、ヒーローたるものだと言うのだろう。だが俺は違う。デクのようにはなれない。
いや、地位や名声はなんてものはもうでもいい。だが、デクにだけは見返りを求めずにいられない。
唇を貪るように重ねる。首筋に歯を立てて喰らうように吸い付く。デクの口から小さく声が漏れる。包帯の隙間から見える肌に唇を滑らせる。
「なんでもいいんだ」出久は呟く。「血でも汗でも涙でも」
「はっ!譲渡された気がしねえな。てめえも渡した気がしねえだろ。DNAをこんなことで譲渡できるかよ」
「できるんだよ。だって僕は譲渡された」
「なら足りねえんだ。貰ってほしいなら。DNAの一部なんかじゃ足りねえ。てめえの全部を食わせろよ!」

OFAなんか抜けちまえばいい。デクの中を俺だけで満たせればいいのによ。
新しい関係になれるなんて、なんで思ったんだ。なれるわけねえ。俺はてめえを屈伏させたいんだ。支配してえんだ。昔から何一つ変わっちゃいねえんだ。今こそこの身体を征服するんだ。心を征服するんだ。堕ちろよ。俺のところまで堕ちてこいや。
激しいセックスの一夜が更けていく。俺のもんなんだ。ずっと前からそうなんだ。遠慮するなんて全く俺らしくなかった。
てめえをヒーローに誘導したのが俺だと言うのなら、てめえをヒーローの座から落とすのも俺だ。


scene・7


スライムが絡みつく。肩から下はとぷりと呑まれている。
海月のように透けたそれの体内で、足が宙に浮いている。透明な体表から肘から先がはみ出して揺れる。
いつもと違うのは囚われているのが自分ではなくデクの方だということだ。
デクと名を呼び駆け寄ろうとする。
だが足取りは鉛の靴を履いたように重くなり、ゆっくりとしか歩けない。
デクの名を何度も呼ぶ。
気絶しているのか、眠っているのか。デクは目を瞑っている。
何度も怒鳴る。叫ぶ。
目を覚ませ、助けを求めろよ、そうしてくれれば俺は。

カーテンの隙間から光が帯になって漏れる。
裸のまま抱き合って眠ったようだ。腕の中の温もり。淡い光の中で、間近でみつめる睫毛、低めの鼻梁、唇。
手錠をつけたままだった。外してデクの手を握りこむ。デクの瞼が震えて薄目を開ける。
「デク」
と呼ぶと虚な瞳に光が宿った。
「かっちゃん、譲渡されたかな」
開口一番その質問かとムカついたが、自分の身体に変化はないかと感覚を探る。あの島での時のような変化は伺えない。個性の譲渡はやはり出来てないようだ。
「変わんねえな」
「本当に?譲渡しても、すぐにわかるような変化はないんだよ。僕だってすぐには確認できなかった」
「俺は一度仮譲渡されてんだろ。あれと全然感覚が違うぜ。思った通りだな。望んでない相手には譲渡できないってこった。無理矢理与えるような真似ができるのは、ヴィランの親玉だけだろうよ」
「なんで?OFAの力だよ。君は欲しくないの」
「リスクあんだろうが」
「確かにそうだけど」
「ま、リスクなんざあ気にならねえが。借り物の力なんざいらねえ。てめえなんぞに頼まれたって貰えるかってんだ」
「じゃあなんで僕を……」
「わかんだろ。抱く理由が他にあんのかよ」
「いや、その、嫌がらせか性欲処理なのかと思ってた……」
デクはバツが悪そうにもごもごと言い、握られた手で顔を隠そうとする。
「はあ?てめえ…ふざけんなよ。俺をなんだと思ってやがる!」
「ごめん、でも思ってもみなかったから」
「てめえはほんっとにクソだな。自分からキスしたくせによ」
「あれは、君に挑発されたから、ムキになって…。やんなきゃダメなのかなって……」
しどろもどろに言い訳する唇に軽くキスをする。デクの顔が真っ赤になる。
「仮に譲渡できたとしたら、てめえはどうする。俺が欲しいものがなんなのか。馬鹿なてめえでもわかんだろうが」
「かっちゃん、でも、僕はもう」
「何度でも試せよ。俺の欲しいもんを呉れるって確証を寄越せよ。譲渡されてもいいって思わせてみろ。何度もやればわかんねえぜ。俺だってその気になるかもな」
「そうしたら、受け取る気になってくれる?」
首を引き寄せるように腕を回して抱きしめる。「俺をその気にさせてみろや」
勝己はパンとコーヒーと目玉焼きの簡単な朝食を用意した。勝己のTシャツを着たデクは部屋から出てくると、ダイニングの席についた。彼シャツよろしく肩からずり落ちる袖を上げている。まるで同棲中のようでこそばゆい。
「遅かったじゃねえか。適当にどれでも着ろって言ったろ」
「うん、ありがとう、かっちゃん」と言い、デクはおどおどと視線を送ってくる。
やっぱりこのままデクを匿っちまうか。
暗示をかけられていてことを証明できなければ、逮捕されるかもしれない。デクはどこにも行けないのだ。俺が黙ってれば、こいつはこのまま俺のものだ。
だが、同時に未来の平和の象徴は失われる。地に堕ちたとしても、平和の象徴は必要なのか。
朝食の皿を片付けていると、呼び鈴が鳴った。
「俺だ、爆豪」
インターホンの画面に映っているのは相澤先生だ。何で来たのだろう。
「爆豪、緑谷もいるんだろう?」
「はあ?いねえよ、なんで」
「隠すな爆豪。緑谷の携帯のGPSを追ってきたんだ」
そんなわけねえ。電源は切って隠していたはずだ。勝己はベッドルームに駆け込んだ。ベッドの下を探ったが、携帯はなくなっている。
「デク!」ダイニングに戻るとデクに掴みかかった。デクの膝から携帯が滑り落ちる。
「デク、てめえ!携帯見つけてたのかよ」
「うん……君が朝食の用意してる時に探した」
「遅えと思ったぜ。GPSをオンにしやがったな!」
GPSをつければ、担任の相澤先生には生徒の居場所がわかってしまう。
「くそが!」
勝己は手を振り放し悪態をつく。解放されたデクは携帯を拾い、テーブルに置いた。再びインターホンが鳴る。
「かっちゃん。君にAFOは渡せたかどうかわからない。けれど、AFOのことはもういいんだ」静かな口調でデクは言う。「君に迷惑はかけられないよ。君の心を知ったのなら、尚更だ」
「嫌だったってのか」
てめえから仕掛けておいて、抱かせといて、俺とは嫌だとそう言うのか。
「違うよ。すごく、すごく嬉しいよ。思ってもみなかった。こんな僕を君がそんな風に思ってくれるなんて。嘘みたいだ。でも、君はヒーローなんだよ」
「てめえもだろうが」
「もう、違うよ」デクは唇を噛んで俯く。「こんな形でなんて、悔しいけれど。でも、君を巻き込むのだけは絶対駄目だ」
「まだんなこと言ってんのか、てめえは!元はといやあてめえが誰にも言わねえで、一人で突っ走っちまったからだろうが!」
「そう、だね。でも頼ったりしたら君まで共犯になるよ。そうなったら、今度こそ僕は僕を赦せなくなる。僕はもう、ヒーローではいられないんだ」
「てめえはなんでそうなんだ!ああ、クソが!」
何故いきなりデクは考えを変えた?OFAを譲渡するまでここにいるつもりじゃなかったのか。
まさか、俺がてめえを欲しいと言ったからなのか。
そう言うことかよ、クソが。絶対に誰とも付き合えない、大切な人も大切に思ってくれる人も失いたくない。デクはそう言っていた。
そんな存在は側に置けないということか。ならば心を明かしたことが、抱いたことが裏目に出てしまったのか。俺がてめえに気持ちはねえと思ってたからこそ、側にいられたというのか。
「僕は取り返しのつかないことをしてしまった。償わなきゃいけない。だからこうするのが一番いいんだ」
デクは真っ直ぐな視線を勝己に向ける。昔から殴っても蹴っても怯むことのなかった、強い意志の宿る瞳。どうしようもなく憎み、惹かれた瞳。知っている。こんな顔をしたデクは途方もなく頑固なんだ。
「わからずやが!てめえ1人で何もかも決めやがって」
それでもデクの決心を変え、留め置く術はないかと必死に考える。
デクを抱えて裏から逃げられないか。携帯をどっかに捨ててデクを隠せないか。何か方法はないのか。
「先生を待たせられないよ、かっちゃん」
再びインターホンが鳴った。結局逃げる気のないデクを先生から隠すことはできない。呼んでしまった以上、いくらごねても手遅れだ。
「君を共犯にすることは、自分が罪人になるよりも辛いんだよ。かっちゃん」
「うるせえよ。てめえはそれでいいのかよ。」
絶対に認めたくなかった。ずっと昔、ガキの頃から、俺だけが気づいていた時から。てめえはムカつくくらい身の程知らずなヒーローなんだ。自分の痛みより人の痛みを優先するてめえの性。そんなてめえだから、いつもいつも、てめえの目に俺がどう映ってるのか気になってしょうがなくて、いつの間にかどうしようもなく囚われたんだ。たとえヴィランの汚名を被るとしても、てめえは自分の保身のためには動かない。
「話は終わったか?いくぞ、緑谷。詳しくは着いてから聞く」
扉の外で相澤先生が腕組みをして待っていた。
「はい。先生。かっちゃん」デクは困ったような顔をして微笑んでみせる。「服ありがとう。後で返すね」
まるでなんでもないように、デクは明るく振る舞う。明日また会えるかのように。
容疑者として逮捕されたなら、今度はいつ会えるというのだろう。
はたと気づく。デクは説明できるのか。教えるまで何が起こったのか知らなかったくせに、自分で自覚してもいないことを言葉にできるのか。そっくり罪を認めちまうんじゃねえか。
こいつを一人で行かせちゃいけねえ。もう側から離しちゃいけねえんだ。
「おい待てよ、俺も着いていく。こいつの説明力のなさは知ってんだろ。長くてくどいだけで要領を得ねえし、馬鹿だから言われるままに罪を被っちかねねえ」
「え、ちょっとひどいよ、かっちゃん」
言われように不満げなデクの肩を掴んで引き寄せ、相澤先生を睨む。「いいよな、先生」
「しょうがない奴だな。まあわからんでもない。構わん。お前も来い」
相澤先生は頭をかいて二人を車に乗せた。車中でデクはオールマイトの消息を尋ね、何事もないと聞いて安堵していた。
車はヒーロー本部には向かわなかった。逆方向に車は走る。
「どこに向かってんだ?」
「病院だ。俺は警察じゃないぞ。緑谷を捕縛しに来たわけじゃない」
病院に到着すると、相澤先生に連れられデクは検査室に入っていった。ふたりを見送り、勝己はじりじりしながら待合室で待機する。暫くして勝己も検査室に呼ばれた。デクは大きな硝子窓の向こうでCTを撮ってるらしい。相澤先生だけが中の長椅子に座っていた。勝己は向かい側の長椅子に腰掛け、ポケットに手を突っ込む。
「あのな、先生。車ん中でも言ったけどよ。クソデクはヴィランに堕ちてねえ。催眠術をかけられたかなんかだ。奴の意思じゃねえんだ」
相澤先生に共通認識を持ってほしいと思った。実際デクの状態を見れば明らかなはずだ。しかし目論見通りにはいかなかった。
「いや、そういう形跡はなかったよ」
相澤先生の言葉にざっと頭の血が下がる気がした。
「それじゃあ、暗示にかかったわけでもなく、ただ騙されてたってのか。自分の意志で……あの馬鹿が!」
「それも少し違うな」
「どういうことだ?」
「どうやら緑谷は個性にかけられていたようだ。イメージを頭に固着させるものらしい。緑谷は脳裏にあるイメージを植え付けられていたんだ」
「それだけか。それだけであいつは」
デクは暗示にかけられ洗脳されたわけではなかったのか。見たものを疑うこともなく、素面で支部を襲撃してたというのか。
「自分の意思に反した暗示にはかかりにくいものだ。普通の精神状態なら騙されることはなかっただろう。潜入捜査前に暗示をかけられたそうだな。オールマイトを見つけるという、緑谷の目的と合致する暗示だったから、容易にかかってしまったと考えられる。脳に焼き付けられたイメージを暗示で隠し、キーワードで暗示が解かれ目的を思い出させてから、適度なタイムラグを挟んで、イメージが脳に蘇らせるようにされていたのだろう。緑谷の言うには、オールマイトがヒーロー本部で拷問されているイメージだったそうだ。そうとうえげつない代物だったらしい。」
「それがどんなきついイメージだったしても、一度見せられたくらいで操られちまったりすんのかよ」
「1度じゃない。そのイメージは1日に何度もフラッシュバックしたらしい。繰り返し頭の中で再生する仕様らしいね。寝ても覚めても夢にも見る。白昼夢のように現実との境目が薄れてゆく。悪夢がフラッシュバックして精神を追い詰めてゆく。そういう個性なんだ」
「推測にしては断言すんじゃねえか」
「ああ、実はな、学校で顔のない死体が見つかっただろう。その個性因子を解析したら、某大国所属の元軍人のものだったとわかったんだ。彼は前線には出ることなく、捕虜を洗脳する部門に属していたらしい。彼の個性が適していたからだ」
「穏やかじゃねえな」
「それだけじゃない。某大国では優秀な兵士を作るために、彼の個性によって自国兵に繰り返し残酷な映像を見せ続けたという話だ。常軌を逸した過剰なストレスにさらされ、ともすると精神が壊れてゆく。そのうち麻痺して残虐行為を平気で行える兵士が出来上がるわけだ。この個性は実に洗脳に適している。時間も手間もかかる洗脳が簡単に、より多くの人数に、より短時間で出来るわけだからな」
「敵国の捕虜だけじゃなく自国民までもかよ。捕虜ならいいってわけじゃねえが、まともじゃねえ」
「合理的だと判断されたのだろう。しかし、戦場にいる間ならともかく、帰還しても兵達の壊された精神は元には戻らなかった。彼は疑問を感じて退職したそうだ。なのにヴィランに下った理由はわからん。お前のような物理的な強個性ではないが、敵に回れば厄介な個性だからな。某大国も行方を捜索していた。おかげでデータベースから探すことができたんだが」
「なんか問題があんのか」
「記録上、彼はずっと以前に死亡していたよ」
「でもそいつの個性なんだろ。死を偽装したのかよ」勝己ははたと気づく。「もしかして、そいつ、AFOに個性を奪われたんじゃねえのか。他のヴィランにそいつの個性が与えられ、口封じに使い捨てにされたんだ」
勝己の言葉に相澤先生は頷く。
「その可能性は高いな。死者を弄ぶ許し難い行為だ。身体はとうに滅びたのに、個性だけが幽霊のように生き続ける」
相澤先生は誰かを思い出しているように遠い目をした。
「ともかく、彼は結局、自分の意に反して、軍人だった頃と同じような個性の使われ方をされてしまったわけだ」
「自分の意思で自覚的に行動する分、催眠術より質が悪ぃな。クソが」
繰り返し脳裏に焼き付けられる鮮烈なイメージ。何度も思い出すそれに思考も行動も支配される。そんなイメージを自分もよく知っている。
「緑谷はイメージを繰り返し見せられるうちに、その場に自分がいて実際に目撃したと思い込んでしまったんだろう。そのくらい鮮明な像を送られたんだろうな」
「そのクソ個性、もう解除したんだろうな」
「ああ、勿論だ。しかし、精神的ダメージは大きいようだ。暫く入院して検査を受けてもらうことになる」
「ヒーロー本部にはどう報告するつもりなんだよ」
「それは、これから考えるところだ。お前にも何があったのか聞かなきゃならん」
「ああ、わかってる」勿論、昨夜のことだけは伏せておくつもりだった。
「ともあれ、緑谷が五体満足で安心したよ」
相澤先生は安堵した穏やかな声色になる。
バタバタと足音が聞こえた。看護士に歩くように注意されている声が聞こえる。ひょろりと背の高いその人物は勢いよくドアを開けて入ってきて、ペコリと頭を下げる。
「早い到着だったな、オールマイト」相澤先生が言う。
「緑谷少年は無事か!」
ヴィランに拉致されたとデクが思い込んでいたオールマイトは、拍子抜けするほど元気な姿だっだ。
「あんた、遅えよ!」
「すまない。ニュースを見て、よもやと思って切り上げてきたんだ」
「あんたは、今やクソデクの弱点なんだ。ヒーローを引退したとしても、あいつの精神的支柱なのに変わりはねえんだ。しっかりしろよ。あいつはまだガキで馬鹿なんだからよ」
「爆豪、お前な」
嗜めようとする相澤先生を制してオールマイトは言う。
「その通りだね。自覚するよ。彼を心配してくれる君のためにも」
「一言余計だ。クソが」
勝己は顔を背けて、深く腰掛ける。


epilogue


数日後、勝己は入院中のデクの元を訪れた。
「あ、かっちゃん」
勝己に気づき、ベッドに寝ていた出久は身体を起こした。ベッドサイドの椅子に腰掛けていた相澤先生が振り返る。
「あんたもいたのか。やっぱり暇なんだろ」
「聞き取り調査だ。この後はヒーロー協会に行く。おかげで全く暇がなくなったよ。」
勝己に答えながら、相澤先生はメモを鞄にしまう。
「てめえ、身体はどうなんだ」
「異常はないみたい。色んな検査をされたよ。脳とか神経とか」デクはヘラッと微笑んだ。
「もうすぐGWが終わる。デクは学校戻れんのか」
勝己は相澤先生に目を向けた。
「表向きは、緑谷は犯人のアジトに捕まっていて、お前が救出したことにした。今まで姿を見せていたのは偽物だと。そういうことにしたぞ。ほぼお前の主張通りにな」
相澤先生はヒーロー達に連絡し、本部に送られたデクに付き添った。証拠として提出したデクの携帯に入っていた口述記録は、事の真相を示していた。マスコミ向けのシナリオに誰も異論はなかった。ヒーロー達は知った上で乗ってくれた。なにより秘密を知っている校長がそう計らった。それほどに、未来のオールマイトの後継者という、称号の影響力は大きいようだ。
デクを拉致したのに殺さずに、逃して犯罪を起こさせる。それこそがヴィランの目的だったのだから、奴らの思い通りにするわけにはいかない。
デクが直接人やプロヒーローを攻撃しなかったのも大きい。個性をかけられていてもヒーローとしての分別はあったようだ。
「新学期には緑谷も間に合うだろう。今期は随分遅い開始になってしまったな」
相澤先生は立ち上がり、「俺は協会に戻る。緑谷は任せたぞ、爆豪」と言って病室から出ていった。入れかわりに勝己は椅子に座る。
「かっちゃん、君にAFOは譲渡されてたのかな」
相澤先生が去ったのを見計らい、デクは尋ねてくる。
「いいや、貰ってねえわ」
「そっか」
「ほっとしたか。OFAを失ってなくてよ」
「うん。また僕はヒーローに戻れるんだね」デクは柔らかく微笑む。「君のおかげだ」
しばらく黙って、デクは肯いた。
「あの時は君の意思を無視してごめん。個性持ちの君がOFAを保有すれば、負担になる。君にそんな枷は負わせてはいけないのに」
「てめえならいいとでも?は!馬鹿かよ。例え譲渡されたとしても俺は縛られやしねえ。やりたいようにやるぜ。欲しいものは全部手に入れる」
「そうだね」デクは微笑んだ。「君ならそうするし、きっとできるだろうね。大切な人も守れそうだ」
「てめえだって自分で自分のことくらい守れんだろ。お互いヒーローなんだからよ。デク、今更独り身を固辞する我儘を通せると思うなよ」
「そんな、我儘なんかじゃ」
「綺麗事言ってんじゃねえよ。てめえ、本当は俺にAFOを譲渡してなくてホッとしたんだろ」
「え?そんなこと、ないよ」
思いがけない言葉だったのだろう。デクの声が上擦った。
「OFAを葬ってしまうとしても、てめえは俺には譲渡したくなかったんだろ。ああ?てめえの心に聞いてみろや」
勝久に組み敷かれながら、貫かれながらも、デクは何度も譲渡出来たのかと聞いた。願うように、恐れるように。怯えるように。
「そうかもしれないね」デクは目を伏せて俯く。「いや、そうなんだろうな。あの南の島では君に譲渡することに何の躊躇もなかったんだよ。それなのに。いや、きっとそれで理解してしまったんだと思う。OFAを失うことの意味を」
溜息を吐き、デクは自嘲気味に呟く。「僕は弱いな」  
「てめえはOFAが惜しいのかよ」
デクは首を振った。「違うよ。OFAは受け継がれていくものだ。他の人になら誰にでも譲渡しようと思える。ミリオ先輩でもプロヒーローの人達でも。必要ならば躊躇なんてしない。でも僕は、君にだけは譲渡したくないんだ、きっと、心の何処かで」
「なんで、そう思うんだ」
「君と並び立つのが僕の願いだからだよ」
デクは掛け布団を握りしめる。
「混じり気のないヒーローでありたいのに。OFAを葬ってしまうところだったのに、なのに僕は」
窓から青々とした若葉を繁らせた木が見える。青い葉は強い日差しに立ち向かうように力強く繁る。満開の桜に包まれていた始業式から随分経ってしまった。もう初夏の気配が漂っている。
「こっち見ろや、デク」
デクは勝己を見上げた。デクの表情はいつになく便りなさげに見える。
「かっちゃん、君は僕にとって迷いなんだ」
勝己はデクの顎を掴み、キスをして不敵に笑う。
「だったら、迷えよ、デク」
てめえにとって今の俺がなんなのか。
てめえが俺自身に望むことはなんなのか。
きっとそれは一言では言い表せやしない。
俺にとっててめえがそうであるように。
てめえは大切なものもそうでないものも目いっぱい抱えて
守りたいからといってそのすべてを遠ざけるという。
だが、俺はてめえの思い通りにするとは限らねえ。たとえそれが最も正しい判断だとしても、俺にとっても最良とは限らねえからな。
なにもかも捨ててヒーローに殉じるなんて傲慢、もう許すわけにはいかねえんだ。
てめえは目を離すと、どこまでも上を目指してしまう。まっすぐに翼を広げて太陽に灼かれたイカロスのように。
だからてめえを地に落として、てめえの立つ地面を忘れるなと。押さえつけるのは俺の役目だ。

俺はてめえの枷であり続ける。

 

END

輝くもの天より墜ち(R18版)

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prologue


「てめえ!ざけんなよ!」
勝己は吼えた。
足元から振動が響いてくる。
崩れかけて瓦礫が散乱するビルの最上階。衝撃による振動で、天井がいつ崩落してもおかしくない。
砂塵が舞い散る部屋の中に天井に開いた穴から光が差し込み、緑色のパーカーと特徴のあるくせっ毛を照らし出す。
勝己はデクと邂逅した。最も望まない形で。
デクは悲しげな視線を向けてくる。あの時のようだと、勝己は思う。
始業式のあの日。瓦礫とコンクリートの白い粉に塗れた講堂。轟音と悲鳴。足元に蹲り見上げてくるデク。
つい最近のことなのに、随分と昔のように思える。
「追いかけて来たのが君でよかった。他の友達だったら、僕はきっと迷ってしまっただろうから」
「ああ?てめえ!何言ってんだ。説明しろよ。なんでここにてめえがいんだ。何をしてやがんだよ。ヴィラン共に混じってよ」
デクは「僕は」と言いかけて止め、唇を引き結び、勝己を見据える。
「僕は行くよ」


scene・1


3年生の春を迎えた。
始業式の日は描き割りの青空ような、嘘くさい晴れの日だった。
春休み明けの呆けた顔をした生徒たちが、だらだらと講堂に並んだ。講堂の上部に連なる窓からは、花をみっしりと咲かせた満開の桜の枝が見える。
勝己はだるさを隠しもせずにポケットに手を突っ込んだ。
「かっちゃん」と小声で呼んで、デクが嗜めるように勝己の袖をそっとつまむ。
「うぜえ。ほっとけよ、クソが」
悪態をつきながらも、慣れた背後の存在に安堵しているのを自覚する。
一年生の時のあの事件の後、やむを得ないとはいえ、一度は学校を去ったのだ。雄英への復学が許可され、進級までできたのは先生方の尽力だ。今年も同じA組の面々と過ごすことになるだろう。
いつもの始業式のはずだった。
校長が講堂の壇上に立った。
マイクがキインとハウリングしたその瞬間、爆発音が轟いた。
誰かが「ヴィランの襲撃だ」と叫んだ。同時に、窓ガラスが次々と立て続けに割れ、複数のヴィランが一斉に飛び込んできた。
逃げ惑う新入生達、入ってきたヴィランに応戦する先生方、避難誘導する上級生たち。講堂内は混乱に包まれた。
「邪魔だ!どけえ」
勝己は爆破で一気に薙ぎ払いたいのを抑え、APショットでヴィラン達を次々と狙い撃つ。移動しながらデクはどこにいるのかと探す。デクは黒紐を使って生徒たちを大勢括って持ち上げ、移動させていた。少し息切れしているようだ。
混戦の中、爆弾を仕掛けられたのか、爆音とともに天井が崩れた。
瞬間、剥落してゆく天井の真下に走ってゆくデクが見えた。その先には逃げ遅れて腰を抜かしている数人の下級生がいる。
一体どう助けようってんだ。黒鞭を使えよ。どうした、使えねえのか。ダッシュしても全員は救えねえぞ。わかってんのか。だが考えなしに飛び出しても、そこで全員を掬おうとするのがあいつだ。一瞬の思考の後、勝己は反射的に走り出した。
「どけ、カス!」
逃げ遅れた生徒達に被さり、亀のように丸くなったデクを足蹴にし、勝己は掌を天井に向けた。欠片をなるべく小さくするために、火力を上げて爆破する。粉々にするには足りない。拳大に分かたれ降り注ぐ瓦礫を次々に粉砕してゆく。
コンクリートの欠片が雨霰と降り注ぐ。頬を欠片が掠めてチリっと痛みが走る。
四つ這いになったデクを背に、勝己は仁王立ちになっていた。
振り向くと、顔を上げたデクと目が合った。勝己の名を呼び、自分の方が傷ついたように痛々しい顔で見つめるデク。勝己は口角を上げる。
自分のために他人が傷つくのは嫌だろう。
「血が出てるよ、かっちゃん!もういいよ、大丈夫だから」
「だったら、てめえがそいつら連れてどきやがれ、クソが」
思い知ったかよ馬鹿が。ああ、それだけじゃねえ。ふと頭をよぎる。
デクの目に俺はどう映ってるのだろう。
泣きそうな顔で俺を見つめる瞳。この満足感のためにやったんだ。
俺はてめえの目にヒーローとしてうつってるのか。
浅ましい。邪念だ。
だが、表情とは裏腹に「ありがとう、かっちゃん」と礼を言う出久の声には何の熱もない。
「さっさと来いやクソデク。ヴィラン共を追うぞ」
勝己は内心の落胆を隠すために、デクに背を向ける。今更だ。デクがそういう奴だってことは嫌と言うほど知っている。
デクは「怪我してない? 」と訊きながら下級生達を外に出るよう促し、腰を上げる。
「緑谷、爆豪、来てくれ」
何処からか相澤先生の呼ぶ声がした。周囲を見回すと、先生が講堂の壊れたドアから顔を出し、クイっと手招きしているのが見える。
「下級生は全員寮に避難させた。今は校舎内に逃げたヴィラン達を追討している。お前らも手伝ってくれ」
「はい、先生」
「ああ、わかった」
勝己は制服に着いた粉をはたき、足元の瓦礫を蹴って道を作る。
オールマイトがいなくてよかった」デクが言った。
オールマイトは仕事で警察に協力してるとかなんとかで、暫く学校に来ていない。秘密裏に行動しているらしく、デクにも連絡はないらしい。
オールマイトなら、きっと今の身体でも皆を助けようと、無茶をしただろうから」
「ああ?てめえが言えんのかよ。さっきのはなんだ?無策で飛び出して、あいつらをどう助けるつもりだったんだ」
「黒鞭が出なくて、焦ってしまって、でも助けなきゃって思って、咄嗟にその」
慣れない個性を使い過ぎてガス欠したんだろう。しどろもどろに答えるデクにイラっとし、背中を思いっきり叩く。
死柄木相手に1人で空中戦を挑み、ボロボロになっていく姿を昨日のことのように思い出す。こいつは何一つ変わっていない、自分の命を秤にかけない気味のわりぃ幼馴染。
「成長しろや、クソが」
だがてめえのその厄介な性質と、逃げずに付き合ってゆくと決めたのだ。だから自分にできねえなら誰かを頼れや、いや、誰かじゃねえ、俺を。せめてそのくらいはしろや。言えない言葉を飲み込む。
講堂を出ると、砂煙が薄く漂っていた。外も講堂の中と同じように瓦礫が散乱している。避難する生徒とは逆方向に、ふたりは相澤先生を追って駆け出した。

始業式は中止になった。
幸い生徒にも教師にも負傷者は少なく、ヴィラン達は易々と捕縛された。派手な襲撃の割に強力なヴィランはいなかったらしい。ほとんどが金で雇われた町のチンピラだったと後で聞いた。
破壊された講堂はセメントス先生によって、すぐに再建された。しかし、調査とセキュリティ対策のために、ゴールデンウィーク明けまで、生徒たちは実家に戻り自宅待機となった。
安全のためになるべく家から出るなといわれ、どっさりと宿題が出された。
そんな時期に事件は起こった。


scene・2


鏡に映った身体に残る、引き攣った星のような傷痕。腹と肩、貫かれた背中にも同じ痕がある。
死柄木の個性からあいつを庇った時の傷だ。消せるそうだが消したくなかった。残してくれと俺は言った。
今も時々、あの時の夢を見る。
べっとりと身体に巻き付いたスライム。拘束された四肢は自由に動けない。爆破しても粘度の高い泥のようなヴィランにはダメージが通らない。
口を覆われて呼吸ができなくなった。酸欠で気が遠くなりそうになり懸命に足掻く。助けを求めてあたりを見回す。
だが誰もが遠巻きに見ているだけ。ヒーローが来てくれるからとか、頑張れとか無責任な声が聞こえる。
うるせえよ。見てんじゃねえよ。今苦しいんだ。今窒息しそうなんだ。
野次馬の中にデクを見つけた。視線が合った。
俺はどんな顔をしてあいつを見たんだ。
途端に弾けるようにデクが走ってくる。泣きそうな顔で聞きなれた声が自分の名を呼び、スライムに取り付いて懸命にはがそうとする。
なんでてめえが出てくんだよ。
なんでてめえだけなんだよ。
夢はそこで覚めることもあるし、その先に進むこともある。続きの展開もその都度変わる。デクが必死にスライムを剥ぎ取ろうとしたり、自分と同じようにスライムに呑まれてしまったりもする。だが駆け寄ってくるシーンだけは、いつも共通しているのだ。
繰り返し脳裏に焼き付けられる。あいつのむかつくほどの自己犠牲だけは、夢の中でも同じなのだ。
ヒーローといえど誰しも多少は利己的なのにデクは違う。川に落ちた俺に手を差し伸べた時も、ヘドロヴィランから俺を助けようとした時も。それが誰でもてめえは同じことをしたんだろう。言ってみればてめえのは条件反射みたいなもんだ。それが子供の頃から堪らなく許せなかった。てめえには好きな奴でも嫌いな奴でも同価値なんだ。
あの頃、ヒーロー物に多い、弱え奴が強い奴を庇うシチュエーションが嫌いだった。身の程知らずにも、奴らは庇うことで対等になれたつもりなのだと思った。そんな場面を好ましく思う奴らの気が知れなかった。弱え奴の向こう見ずな行動はヒーローには必要ねえ。傷ついたりしたら、負い目を負わせるだけだ。きっと気持ちをを押し付けて好意を求めてるんだ。自分を印象づけて一目置かれようと格好つけてるんだ。そんな場面が出るたび苛ついた。
だが今、そうせずにはいられない気持ちがわかっちまう。厚かましいとあんなに嫌ったのに、同じことをしようとしてしまう自分がいる。デクに俺を印象づけたいんだ。デクに同じくらいの思いを返してほしいんだ。
欲しくて堪らないのに他に手段がみつからない。だがこんなやり方じゃ、どんだけ経ってもてめえに通じやしねえ。
デクは見返りを求めねえ。地位や名声のためでもねえ。好かれたいとも一目置かれたいとも思ってねえ。その身を犠牲にして全力で救ったとしても、ただの自己満足だ。てめえの理想に近付きたいだけなんだ。
ましてや救われた奴が好意を持つ可能性があるなんて、考えもしねえ。
奴は好意を求めてねえし、受け止めるつもりもねえ。救うことに行動以上の意味はねえんだ。
だから気付かねえんだ。デクは自分が見返りを求めねえから、人もそうだと思ってんだ。てめえを命がけで救っても、ただヒーロー活動と思ってやがるんだ。救うとか庇う行動に邪念があるなんて、思いもよらねえんだ。俺は誰でも身体張って助けたりしねえんだよ。
てめえのあの姿が何年たっても、鮮やかに心に焼き付いているように。
せめて、てめえに俺を印象付けたいと思うのは欲なのか。

「ちゃんと家に篭ってるんだろうな」
相澤先生から勝己の携帯に連絡があったのは、襲撃から十日ほど経った頃だ。
「親は2人とも出張で留守だ。気楽にやってるぜ」
「こっそり繁華街に出てる奴もいるからな。そういう馬鹿は声の後ろから聞こえる、賑やかな音で丸わかりだ」
「まさかクラス全員、
いちいち確認してんじゃねえだろうな。うぜえな」
「ま、仕方ない。これも教師の仕事のひとつだ」
ところで、と相澤先生は声の調子を変えた。
「お前の家は緑谷の近所だったな。ひとつ聞きたいんだが、緑谷は家にいるか」
「知らねえよ。別に近所だからってわざわざ会ったりしねえしよ。デクは家にひとりでいるはずだぜ。母親は旅行中だって聞いたからよ」
「あいつに連絡が取れないんだ。確認できないか」
ただごとではない様子に「何があった」と聞くと、「他には言うなよ」と言添えて相澤先生は言った。
「ヒーロー協会の支部が何者かに襲撃される事件が頻発してるのは、お前も知ってるか」
「ああ、ニュースになってるな」
ちょうど自宅待機になってからだ。幸い被害は少なく、死傷者もないという。支部に誰もいない時を狙うのか、目撃者はいないらしい。
「ニュースではそう発表されたな。だが1台のカメラに犯人らしき者が写っていたよ。まだ他の生徒には黙っておくが、お前には伝えておこうと思ってな」
「何が写ってたんだよ」嫌な予感がした。デクは事件に巻き込まれたりしたのだろうか。
「関東支部の監視カメラに、緑谷らしき姿が映っていたらしい」
「はあ?何言ってんだ」勝己は呆れる。「何かと思えばくだらねえ。どう考えても人違いだろ。あのヒーロー馬鹿に限ってあり得ねえわ」
「俺もそう思う。だからお前も協会本部に来て確認してくれないか。今から迎えに行く」
意味がわからない。まず確認してみてからだ。勝己はデクの携帯と家の電話にかけてみた。しかし相澤先生の言うように、どちらも繋がらなかった。まだ時間はある。相澤先生を待っている間に、デクの実家のある団地に立ち寄ることにした。
団地をぐるりと取り囲む桜並木は、花の盛りを過ぎ初め、五月雨のように花びらを散らしている。薄紅色の花弁は淡い光を透かして儚げに積もる。日向の木はもう黄緑の若葉を覗かせている。
デクの自宅の呼び鈴を鳴らしてみたが、反応がない。やはり留守のようだ。どこに行ってる。何やってんだ。不安と苛立ちが混ざり合う。
迎えに来た相澤の先生の車に乗り込み、協会に向かう車中で事件の詳細をきいた。
数日前の深夜に、ヒーロー本部の裏の壁を壊し、何者かが侵入した。二重三重にプロテクトされた高い壁で、そうそう壊されることはない。だがオールマイト並みの力なら破壊は可能だ。犯人はまず監視カメラをなにか飛び道具のようなもので破壊し、上階から地下まで各部屋のドアを破壊して開き、何も盗らずに姿を消したらしい。屋内も屋外もほとんどのカメラが壊されていたが、ひとつだけ塀の側の木に設置されたものが残っていた。
「そのカメラに侵入者が映っていたそうだ。他の支部も同一犯の可能性があると見られている」
「その情報は誰が知ってんだ」
「雄英の各教師や、一部の信頼のおけるプロヒーローだけに伝えられた。雄英の生徒の可能性があるということで、影響を鑑みてヒーロー協会お得意の箝口令が敷かれている。まあ、ありがたいことだがな」
相澤先生は皮肉混じりに言う。
「信じられるかよ。デクがやったなんてよ。あいつに限ってあり得ねえよ」
「ああ、同感だ。だが、他に手がかりがない。襲撃事件が続くなら、公にせざるをえなくなるかもしれん」
「クソが!マジかよ」
「だからそれまでに真相を突き止めたい。後手に回ってヴィランどもにメディア操作をされるのは痛いからな」
以前のヴィラン連合による放送ジャックの時のように、ということだろう。隠していたのかとエンデヴァーが非難されたあの事件。去年のような殺伐とした状況を、再び生むわけにはいかない。そのためにはたとえ学生であろうとも、ということか。
車は関東支部に到着した。壊されたという外壁は元通りになっている。出張したセメントス先生によって修復されたらしい。各部屋も修理されている。ただ、ドア周りのセキュリティ関連はまだ修復が済んでいないそうだ。
監視ルームに通された。問題のカメラの映像を確認する。
早送りをして、深夜の3時ごろ、塀の上に少年のような小柄なシルエットの男が現れた。緑のパーカーを着てフードで頭を隠している。一瞬でその姿は塀の下に消え、壁が崩れる音がしたところで、映像はざざっと乱れた。
「は?こんだけかよ」
「どうだ、爆豪」
「後姿だしフードで顔も見えねえ。こんな一瞬じゃあ見極められねえよ。どう壁を壊したのかもわからねえじゃねえか」
だが明らかにシルエットはデクに似ていた。胸騒ぎがする。
本部のヒーロー達も、デクがヴィラン側についたなんて信じられないと言う。彼らはヴィラン連合一斉検挙の時の、死柄木とデクの死闘を知っている。例の事件でデクはプロヒーロー達に一目置かれてるらしい。
ついでにその場にいた自分も一目置かれている。だから今回もここに呼ばれたりしてるわけだが。
しかし、新学期早々の騒動以後、近所にいるのにあいつを全くみかけなかった。いつもなら、狙っていなくてもよくニアミスするのだ。そこでおかしいと思うべきだったのかもしれない。いや、あいつなわけがねえが。
「始業式の数日後、近所で警官の服を着た、顔のない変死体が発見されてる」
家に自分を送り届ける車中で、相澤先生は言った。
「なんだよ、それは!それもデクに関係あるっていうのかよ!」
「わからん。まだ調査中なんだ。無関係であってほしいがな」
オールマイトはこのこと知ってんのか」
支部は無事なのかと連絡があった。ニュースを見たんだろう。まだ緑谷の件は伏せてる。はっきりしてるわけじゃないし心配させるだけだからな。こちらからあの人に連絡は取れないし。まだ戻って来れないそうだ」
もしGWが終わっても学校に登校して来なかったなら。いや、連絡がないのは、ただ単に休みボケしてやがるだけかも知れない。
家に帰ってから再びデクの自宅に電話してみると、母親が出た。旅行から帰ってきたらしい。しかし母親が言うには、もう学校の寮に戻ると連絡があったという。本当のことは告げられなかった。
勝己は歯噛みする。あいつ、親にまで嘘をついてやがる。オールマイトの後継者だというのに、母親にも言わず、俺にも言わずに何してやがる。デクはまた学校をやめるつもりなのだろうか。
理由がわからない。信じられない。音信不通だったオールマイトからやっと連絡があったばかりだというのにだ。
待機なんてしてられない。勝己は毎日街に出て捜索することにした。
あり得ねえ。あいつが堕ちるわけがねえ。あいつがヒーローをやめるなんて。なにもかも捨ててヒーローに殉じると言ったあいつが。


scene・3


1年生の頃の3月のことだ。
学校をやめて姿を隠したデクから、俺の携帯に連絡があった。
「ミリオ先輩にこっそり花束を渡したいんだ」
だから、卒業の日に手引きをしてほしいというのだ。俺はあまり知らねえが、デクはインターンの時に世話になったのに、何も説明してないからという。
「クラスの奴らには会っていかねえのか」
「……会えないよ。今はまだ」
うじうじとめんどくせえ。と思ったが承諾した。次はデクにいつ会えるのかわからない。
ヴィランが活性化した不穏な時期だが、厳戒態勢の中、卒業式が行われた。
俺は式が終わるのを見計らって、先輩を呼び出した。
「はは!君は確か、デクと一緒にいた爆発する子だね。君、凄かったよ。お腹ぐっさり刺されてたけど、もう大丈夫なのかい?」
「子じゃねえ。大爆殺神ダイナマイトだ。あんなかすり傷屁でもねえ」
底抜けの明るさがちょっと苦手だが、マッスル形態のオールマイトを思わせるところがある。デクがわざわざ挨拶したいっていうのもわからなくはない。
待ち合わせ場所に指定した、訓練所に到着した。廃工場を模したロケーションは隠れるのに適しているし、卒業式なのでまず誰も来ない。デクは物陰から出てきてミリオ先輩に対面し、花束を渡して泣いていた。彼は一時個性を喪失していた。デクとしても思うところがあるのだろう。卒業後は晴れて念願のヒーロー事務所に入るらしい。
先輩を見送った後、そそくさと去って行こうとしたデクを、俺は「話がある」と呼び止めた。
今デクに言わなきゃならないことがある。
だが、何を言うのか決めてはいなかった。決められなかった。どう言葉にしたらいいのかわからない。
いつからだろう。てめえに欲を抱くようになったのは。てめえに触れたい。他の奴に触らせたくねえ。ガキのような我儘な欲だ。
自覚してからは、てめえに知られてはいけないと避けるようになった。なのにてめえが俺を避け始めたら本能が追いかけた。心を見透かされたと思い見下されてると疑った。だがてめえが何一つ気づいてはいないと知ると、頭の中は安堵と、真逆の憤りが渦巻いた。
今だってデクは考えもしないだろう。はっきり言わねえと伝わらねえ。言っても叶うはずがねえ。だが言葉にすべきなのだ。きっとデクは今後も気づかない。このままでは.何も変わらない。 
何処から告げればいいんだろう。どう告げれば良いのだろう。
呼び止めたものの、俺は逡巡し言葉を探しあぐねた。
「君とは本当に長い付き合いだよね。僕の秘密を知られてからはすごく助けられた。昔みたいに親密になれたよね」
沈黙に耐えられなくなったのか、告げる前にデクは口を開いた。
「はっ!親密?どこがだ。寝言言ってんじゃねえ」
思いと逆の言葉が口から出た。なんで俺はこうなんだと内心歯噛みする。
「君はそう言うと思った。でも、僕は嬉しいんだよ。やっと君に近づけたと思ってたから。君は僕にとって特別なんだ。子供の頃の君の存在は輝いていて、僕の魂の奥深くに刻みついている」
「けっ!おかしな言い回ししてんじゃねえよ」
少し気分が浮上する。てめえも距離を詰めたいと思ってたんだな。ならばちったあ脈あるんじゃねえか。てめえの秘密を知って、これから徐々に距離を詰めて、いつか新しい別の付き合い方ができるんじゃねえか。
「君やみんなが来年卒業したら、もう頻繁には会えなくなるね。でも、どんな形でもきっと現場で会えるよね」
「てめえとはOFAの秘密を共有してんだ。これっきりになるわけねえだろうがよ」
「うん、そうだね。でももう、僕の秘密はA組の皆も知ってるけどね」
「あいつらは重要性をわかってねえよ」
学校をやめる前に、他の奴らにもデクは秘密を手紙で教えた。だがOFAがどんな代物なのかという詳細は別だ。当然だ。持ち主が望めば譲渡できる個性だ。知るものが多いほど危険は増す。OFAの譲渡の方法も、歴代保持者がデクの中に幽霊みたいに居座ってることも、保持者がいずれどうなるのかってことも。AFOが弟への執着からOFAを狙ってるってことも。
秘密を知る者は最小限でいい。俺だけでいい。秘密を口実にしていつでも会える。デクの人生に介入できる。
「そうだね。かっちゃんがずっと秘密を守ってくれてた」
「てめえのためじゃねえわ、クソが。てめえがしっかりしねえからだろーがよ。ぽろっと喋りそうになるてめえを何度止めたか知れやしねえ」
「うん、そのたびにげんこつ食らったけど」
デクは少し笑った。笑顔を見るのは久しぶりだった。
「初めに知られたのが、他の誰かじゃなくかっちゃんでよかったと思うよ」
じれったい。そんな与太話がしたくて呼び止めたんじゃねえ。
しかし、俺はなかなか言い出せず、話題はさらにどうでもいい話になり、クラスの奴らの話にとんだ。
「恋人同士になってる人もいたよね。社会人になったら結婚するんだって言ってた。びっくりしたよ」
「は! んなわけねえって。あいつらが卒業まで続くかどうかわかりゃしねえ。ぼろが出るってよ」
「ひどいなあ、かっちゃん」
ふふっとまたデクは笑う。話題が途切れた。今が言う機会だろうか。
「僕は誰とも付き合えないけれど」
しかし、またしても俺が口を開く前にデクはポツリと言った。
「何故だ」出鼻を挫かれ、俺は問うた。
「だって、君ならわかるよね。OFAを持つ者は狙われるからだよ。夫や子供を失ったオールマイトの先代みたいね。家族や恋人がいれば危険に巻き込んでしまう。大切な人を犠牲者にしたくない。だからオールマイトはずっと独り身なんだよ」
「てめえはオールマイトじゃねえだろうが!」
予防線をはってるつもりか?いや、鈍いデクが俺が何を言おうとしてるのか、気づいてるとは思えない。
「うん、僕はオールマイトに遠く及ばない。だから、なおさらだよ。僕は絶対に誰とも付き合わないよ。大切な人も大切に思ってくれる人も失いたくない」
「人としての幸せってやつを捨てるってのかよ」
「そんなことない。僕は十分幸せだよ」
身に余る個性を得て、夢見ていた人生を歩むことだけを選び、それ以外の全てを引き換えにする。それを幸せだというのか。
「なんで、俺に言った」
「君にしか言えないよ。君と僕はOFAの秘密の全てを共有してるから。特別なんだ。そうだよね」
寂しそうに笑うデクに、それ以上何も言えなくなった。言おうとした言葉は飲み込むしかなかった。
てめえにとって俺が特別だと言ったな。けれど、てめえの特別と俺の特別は違うんだ。
てめえの魂の奥深くに刻みついていると言ったな。だがそれが何になる。
デクは誰のものにもならない。絶望的に俺の気持ちは一方通行だ。
てめえにとって俺は何だ。所詮はてめえにとって、幼馴染でクラスメイトで秘密の共有者でしかないのか。
だから俺はてめえが気に食わねえんだ。
気持ちに気づくな。もう忘れるんだ。
俺は何も望んじゃいない。


scene・4


テレビにビル街のライブ中継が映し出されている。
どうやらヴィランの襲撃に遭っているのは、近隣の高層ビル街のようだ。
あの中にはヒーロー協会支部のビルもある。ただの偶然だろうか。こそこそ侵入してやがるくせに、人目につく昼日中に襲撃するわけがない。だが胸騒ぎがする。
勝己はソファから立ち上がり、コスチュームに着替えて現地に向かうことにした。
自宅待機と言われてるが、仮免は取ってるのだ。ヒーロー活動に加わっても問題ないはずだ。
あの事件からヴィランによる事件が頻発するようになった。殆どが小物のヴィランによるものだが、奴らの個性によっては被害が大きくなることもある。
世の中が不安が満ちていくのが肌で感じられる。
自分の知らない、ヒーロー社会以前にあったという、不条理な無法地帯に戻っていくのだろうか。
ビル街は避難する人々で混乱していた。勝己はヒーロー達に加わり、ヴィランと戦いたいと申し出たが、避難誘導の方を頼まれた。不満だが仕方がない。主犯のヴィランは逮捕されたそうだ。便乗した輩が起こしている暴動もまもなく鎮圧されるという。
ヒーロー支部のプロヒーロー達は全員この事件に出払っており、その他の職員は避難して、現在はビルの中は無人らしい。勝己は支部の玄関ホールを見据える。襲撃するにはおあつらえ向きの状態じゃねえか。
ふと、ビルの窓から見慣れた小柄な影が走っていくのが見えた気がした。
気のせいだろうか。プロヒーロー達はもう中に人はいないと言っていた。あの影がデクかどうかわからない。
だが奴だと自分の勘が告げている。
勝己はビルの中に消えた影をダッシュで追った。ホールの真ん中で立ち止まり、耳を澄ます。微かに何者かの足音が聞こえる。勝己はその足音の方向を目指し、階段を飛ぶように駆け上がる。

ビルの最上階、2面を高い窓に囲まれた広い会議室で、勝己はデクに邂逅した。
緑色のパーカーを着てフードで頭を隠しているくせに、白いグローブと赤いブーツはコスチュームの特注品という、半端なコーディネートだ。侵入者がヒーロースーツを着るわけにはいかないからだろう。
「てめえ、デクだろ? 」と問うたが、デクは振り向かない。答えない。
「てめえだってこたあ、わかんだよ、おいデクよお」
名を呼ぶとデクはびくりと震え、ゆっくりと振り返った。
夕陽を背にした姿は、まるで太陽に灼かれているようだ。差し込む光を反射した塵が、雲母の欠片のように舞っている。
「こんなとこで何してやがる、クソデク」
「かっちゃんこそ、どうしてここに?僕は事件をニュースで見て来ただけだよ」 
「は-ん、おかしいよなあ。らしくねえじゃねえか。いつものてめえなら下で暴れているヴィラン共をほっとかねえよな。てめえ、支部に用があったんだろ?」
カマをかけた。支部を連続して襲撃してたのは本当にデクなのか。酷似していたとはいえ、防犯カメラの映像ではシルエットしか見えなかった。確証があるとはいえない。
デクの頭がびくりと揺れた。
「プロヒーロー達に見つかるわけにいかないから」
信じたくなかったことを肯定する言葉だった。
「あのヴィラン共はてめえの仲間じゃねえだろうな」
「まさか、違うよ」デクは首を振る。「でもこの騒ぎで支部の人達がみんな避難してくれてよかった」
「コソコソ何かやってんのか?ああ?いつも夜に襲撃してたくせに、今回は昼間かよ」
「やむを得なかったんだ。もう時間がないんだよ。こうしてる間にも、取り返しがつかなくなるかも知れない」
「俺の質問に答えろや!」
頭に来て威嚇のつもりでデクの足元を爆破した。コンクリートの床が抉れる。
デクはジャンプして避けると、空中からスマッシュを勝己に目掛け放ってきた。風圧で会議室の椅子や机が次々と渦巻くように宙に浮き、倒れてゆく。
やべえ!勝己は避けきれずに吹っ飛ばされ、壁にぶち当たった。衝撃で内臓が揺れ、背骨が軋む。
あの野郎ふざけやがって。本気でぷっぱなしやがった。
「か、は、おいクソデク!やりゃあがって!覚悟は出来てんだろうな」
掌をデクに向ける。手加減しては捉えられない。今の一撃でわかった。奴は本気だ。理由は不明だがそれほどに焦っているのだろう。
だが、自分はリミッターを解除出来るのか。人間を相手に。デクを相手に。
幼い頃から人を殺せる個性を自覚している自分は、粗暴だといわれても、結局手加減するのが身についてる。こんな時に身についた習性が恨めしくなる。
今の一撃でデクの右指はひしゃげていた。力の出力のコントロールは出来てたはずだ。己の身体への負荷の調整も忘れてやがるのか。
「クソが!」
デクのいる方向を大火力で爆破する。当たんなきゃ死なねえ。
広範囲を吹っ飛ばしたが、デクは翻るように飛び上がり、二弾目を放ってきた。咄嗟に横に跳んで避ける。さっきまで立っていた床に大穴が空いた。吹っ飛ばされた椅子が階下に落ちてゆく。
「この程度かよ!ああ?俺相手に指ごときでいけると思ってんのか。使ってこいや、腕をよ」と挑発する。
使わせて避けるのだ。あいつの片腕が使い物にならなくなれば、捉えるのは容易い。
「かっちゃん。お願いだ。今は見逃してよ」
デクは悲壮な声を上げた。
「ああ?アホかてめえ。理由も言わねえで何クソみてえなこと言ってんだ」
「言えないんだ。ごめん。多分、言ってもわかってもらえない。君はあれを見ていないから」
「あれって何だ」
答えず口を噤んだデクを睨んで1歩近づく。「まあいいどっちにしろ、同じことだ。てめえを捕まえて全部吐かす」
言い終わるや否や、デクに向かって掌を向け、狙い撃ちする。既に弾道の先にデクはいないが、避けられるのは織り込み済みだ。逃げる方向を追尾して連続でぶっ放す。
柱が抉れ防弾の窓硝子が割れる。壁に弾痕が増えていく。煙がもうもうと立ち込めてきた。視界を遮られる。
「クソが!」自分が爆破したせいだが、前も後ろも見えねえ。腕を振って煙を割く。
デクはどこだ。床に血は散ってねえ。傷は負わせられてねえか。あんだけ撃ったのに無傷かよ。
煙の先に揺れる人影が見えた。影の方向にAPショットを広範囲に連続して放つ。ちょっと当たったって死にゃしねえ。
煙が晴れた。デクは半分に崩れた柱の後ろに立っている。
「ビルが壊れちゃうよ。かっちゃん」
「ああ?だったらおとなしく捕まっとけや」
「それは、できないんだ」
出久が拳を固めるのが見えた。全力のスマッシュを出しやがるか。よし、上等だ。衝撃に備えて身構える。
その瞬間、がくりとデクの肩が下がった。足が床にめり込んだのだ。大穴を開けたせいで床が脆くなっていたらしい。デクは飛び上がって避ける。ヒビは蜘蛛の巣のように、一気に床一面に走ってきて勝己の足元に届き、ごそりと床が崩れた。
「クソが!」
「かっちゃん!」とデクがすっ飛んできて手を差し出した。
はあ?
頭にきた。今の今まで戦っていた相手だろうが。こんな時にまで人助けかよ、てめえ!
だが、伸ばされた指先に触れ、手を掴む。
いや、捕まえた。
勝己は空いた左手でデクの足元の床を爆破した。
「ええ!?かっちゃん?」
「ばあか、甘えんだよ」
勝己はデクの手を繋いだまま、崩落した穴の中に落ちていった。

パラパラとコンクリートの屑が落ちてくる。
勝己は目を覚まし、顔にかかった砂つぶを払う。光は上から降ってくる。どうやら地下階まで落下したらしい。瓦礫が散乱しているが、広い空間で柱が多く天井が低い。駐車場のようだ。
「いってえ、クソが。大穴掘削しやがって」
身体が動かねえ。背骨がいっちまったのか。クソが。デクは何処にいる。
頭を起こして見回すと、数メートル先にデクが見えた。瓦礫の下から起き上がろうとしている。
「おい、デクてめえ!」
勝己は身体を起こそうとしたが、腕と首しか動かせない。ふらりと立ち上がったデクが振り返った。
「言ったよね。僕は行くよ」
「デク、畜生!クソが、ふざけんじゃねえぞ、クソデクが! 」
デクが行っちまう。ここまで追い詰めたってのに。行かせてはいけないと焦るが、起き上がれない。
だが、ゆらりと数歩歩いて、デクはぐにゃりと崩折れた。
「は?」
あいつ、スタミナ切れかよ。
勝己はよろめきながら身体を起こした。衝撃で痺れてただけのようだ。外傷は多いものの、骨が折れたり肉が抉れたりといった大きな傷はない。デクを引きずり起こし、仰向けにして膝で腕を押さえつけ、馬乗りになる。デクの服は爆破のせいで焼けてボロボロになり、身体も傷だらけだ。だが手加減はしてやらない。パンパン、と頬を平手打ちする。
「起きろやクソデク。追いかけっこはしめえだ。観念しろよな」
デクは薄眼を開けた。「かっちゃん」
「てめえ、なんか言いかけたよな、さっき。言ってみろや。何を信じてくれないって?てめえの戯言聞いてやるよ」
「信じてくれないよ」とデクは沈んだ声で言う。「世の中に公表されることはないんだ。これからもきっと」
「何かを見たんだろ。それはなんだ。言ってみろや」
顎を掴んで固定し、デクと視線を合わせる。
「信じてくれないよ」
「言えや。言わねえと殴る。言うまで殴んぞ」
同じ言葉を繰り返すデクに苛々する。
デクは目を伏せたが、「じゃあ言うよ」と呟いた。覚悟を決めたらしい。
オールマイトを救出するためだよ」
「あ?何言ってんだ?」
「僕は見たんだよ、かっちゃん。ヒーロー支部の地下でヴィランに囲まれ、拷問されてるオールマイトを。ヒーロー達の上層部にヴィランがいるんだ。僕は支部の何処かに捕まってるオールマイトを探して、救わなきゃいけない」
「ちょっと待てや、てめえ」勝己はさらに続けようとするデクを制止する。「オールマイトが捕まったなんて、んな事件きいたことねえぞ。しかも支部が絡んでるなんてよ」
「だから信じないよって言ったよ。見ないとわからないよ」
デクは見たと言い切っている。誰かに聞いて思い込んでるわけではないらしい。馬鹿げた話としか思えないが、偽りと断じていいものか。まずもっと話させるべきだろう。
「詳しく言えってんだ。信じて欲しけりゃ信じるに足る材料を出してこい」
「僕の目の前でオールマイトがボロボロになって、倒れて、またヴィランに無理やり起こされて。もう時間がないんだよ。こうしてる間にもオールマイトがどんな目に遭ってるか」
「落ち着けや、てめえ。どっかの支部ヴィランの巣窟だっていうなら、慎重に考えろよ」
見たと言い張るばかりで、まるで要領を得ない説明だ。
「だから君は信じないって」
デクは落胆の色を声に滲ませる。「君は見てないから。僕はこの目で見たんだ」
「仮にんな事があったとしてだ、そん時てめえは何処にいた?拷問されるオールマイトを何処から見てやがった」
「僕は、僕はすぐ近くで見ていたんだ。身体を端から削られていくオールマイトの表情が苦しそうで、肉片や汗や血が飛び散って床を汚してた」
「近くで見てたんなら、止めなかったのかよ。戦って、やめさせなかったのかよ。むざむざと見殺しかよ」
「止める?」デクは混乱しているように頭を抱えて髪をかき乱す。
「目の前で触れそうなくらい近くだった」デクは手を止める。「あれ?僕は何処から見てたんだろう」
「あのなあ、俺は先日オールマイトに会ったばかりだ。オールマイトはピンピンしてたぞ。てめえは何を見たってんだ?ああ?」
嘘だ。オールマイトはまだ帰って来てない。だが相澤先生に連絡してきたのだ。デクが行方不明になる前に拉致されてるわけがない。
オールマイトが……無事?」
「ああ、元気いっぱいだわ。てめえは一体何を見たんだ。おい」
オールマイトは拷問にかけられて」
「どちらにしろ、ヒーロー本部を襲撃するなんて愚の骨頂だ。お前はオールマイトのためにヒーローやってんのかよ」
勝己の言葉が聞こえていないのか、「オールマイトオールマイトが……」とぶつぶつとデクは繰り返す。
「おい、どうした」
「いっ!頭が、いた、痛いよ。オールマイト
「おい!おいデク!」
虚ろな瞳を閉じて、デクは気を失った。頬を強く叩いてみたが、今度は目を覚まさない。何があった。打ち所が悪かったのか?
顔に掌をかざすと、吐息が触れた。息はしてるし脈は正常だ。
なら丁度いいか。勝己は意識を失ったデクを肩に担いで立ち上がった。


scene・5


緑谷出久の音声記録

こちらデク
聞こえますか
無事ヴィランのアジトに潜入しました
これからの行動はスマホに記録を残しておきます
渡されたイヤホンはクリアな音で通信できてます
ホログラムスキンは試したとおり成功してます
別の姿がちゃんと体表に投影されてるみたいです
すれ違ったけどヴィラン達は僕に気づいてません
オールマイトはどこにいるんだろう
誰かの足音が近づいてきました
大丈夫です気づかれてない
通り過ぎていきました
頂いた地図の通りならこの通路の先に捕虜を閉じ込めておく部屋があるはずですよね
おかしいです
行き止まりになってます
この地図は何か変だ
イヤホンに雑音が混じってますよ
声が聞こえません
塚内さん僕の声聞こえますか
ヴィランは僕に気づかないはずですよね
足音が聞こえてきます
増えてるみたいです
まるで僕を追いかけてきてるみたいです
塚内さん聞こえますか
大変です!
オールマイトが捕まってます
あの場所は知ってます
支部の取り調べ室です
どうして支部になんて
拷問されてます!
ああ!オールマイト
どうしよう助けなくちゃ
助け

(何かが倒れる音)
(通信遮断音)

緑谷出久の録音記録2

ヒーロー協会支部の潜入に成功した
僕の目的は誰にも知らせるわけにはいかない
だから後々のために今回も録音記録を残しておくことにする
目的が果たせなかった時のために
僕が何のために行動したのかわかるように
ヴィランの基地に潜入したときにヒーロー支部の地下に捕縛されているオールマイトの映像を見た
酷い拷問を受けていた
早く救出しなければ殺されてしまう
どこの支部なのかはわからない
だから片っ端からあたるしかない
どこかの支部オールマイトがいるんだ
なのにまだ見つけられない
時間がない
今までの支部は本物だった
でもここは偽の支部かもしれない
慎重に動かなければ
ヴィランに占拠されたヒーロー支部があるなんて信じがたいことだけれど事実なんだ
偽の支部のことはいずれ公にしなきゃいけないだろう
でも今発表したら捕まってるオールマイトに危険が及ぶかもしれない
今はオールマイトさえ見つけられればいい
なるべく人を傷つけたくない
1人だって傷つけたくない
彼らは真実を知らないんだ
でもオールマイトを助けることができれば証明することができる
まずいな
かっちゃんがいた
ここに入るところをかっちゃんに見つかったかも知れない
追ってきてる
やはり気づかれてしまった
彼もヒーロー協会支部が偽物だなんて知らないんだ。
言っても解ってもらえるとは思えない
でもオールマイトを見つける前に邪魔されるわけにはいかない
ああ頭がガンガンする
この頃頻繁に頭痛がする
戦いたくない
甘いだろうけど見逃してくれないだろうか
頭が割れそうに痛い

(通信遮断音)


scene・6


シャワーを浴びて、砂塗れだった身体がさっぱりした。勝己はTシャツとハーフパンツを身につけ、タオルで髪を乾かしながら部屋に戻る。ベッドの側に椅子を寄せて座り、惰眠を貪る幼馴染を見つめる。
デクを誰もいない本人の家に連れていくわけにもいかず、自分の実家に運んできた。
気絶したデクの服を脱がせ、埃だらけの身体を拭き、傷の手当てをして自室のベッドに寝かせた。上半身は包帯をまいただけでパンツ一丁だ。
ピクピクとデクの瞼が動いた。覚醒したようだ。そろっと目を開けて、キョロキョロと部屋を見回し、こちらに顔を向ける。
「ここ、かっちゃんの家だね」
「ああ、俺の部屋だ」
「かっちゃんの部屋……久しぶりだね」
身体を起こそうとして、デクは手首を戒める手錠に気づき、「これは?」と言って鎖を左右に引っ張る。
「てめえが妙なことしねえように、付けさせてもらったぜ。対ヴィラン用だ。そう簡単には壊れねえ」
「なんで、何があったの?」
「あ?てめえ、覚えてねえのかよ」
「確か僕はヒーロー支部に行って」徐々に思い出してきたのだろう。デクの顔色が変わった。「僕は君と戦ったんだ」
「思い出したかよ、てめえの愚行をよ」
「愚行……」
「こっちが聞きてえこと答えてもらうぜ。何があった?催眠術でもかけられてたのかよ。てめえ」
「違う。でも、言っても」
「信じねってんだろ。信じるかどうかは俺が判断する。言え!」
デクは手錠を嵌めた手を組んで膝を抱える。
「僕がヒーロー支部に行ったのは、行方不明のオールマイトを救出するためだった」
「そう言ってたな。ヒーロー支部ヴィランに何の関係があると思ってやがった。続けろよ」
「新学期が始まって、襲撃事件が起こったよね。それから自宅待機が決定する前に、学校で警察の顔見知りに会ったんだ。それで、聞いたんだ。オールマイトが事件の捜査中にヴィランに攫われたって」
「ああ?んなこと聞いたことねえぞ」
「極秘事項だと言われた。オールマイトが攫われたなんて、公には言えないんだって。だから潜入捜査を頼まれたんだ」
「ああ?そいつはてめえなんざに協力しろって言ったのか」
「その人はOFAの秘密を知ってるんだよ。オールマイトの古くからの知り合いなんだ。信用できる人だよ。」
「だが、警察が単独で学生に依頼するかよ」
「秘密の任務だから警察内部で捜査できないって、そう言ってた。それから、その人とヴィランのアジトに潜入して情報を得て、オールマイトを助け出す計画を立てた。ホログラムスキンって知ってる?警察で使う潜入捜査用のアイテムらしいんだけど。別人の像を顔に映し出す映像皮膜なんだ。それで変装したんだ。ただ、入り口に心を読むヴィランが配置されていて、バレる危険性があるから、暗示をかけて記憶の表層からオールマイト救出という目的を消したんだ。潜入したら僕の携帯に連絡してもらって、暗示を解くあるキーワードを聞き、目的を思い出す計画だった」
昔敵国にスパイを潜伏させる方法の一つとして、暗示をかける方法があったときいたことがある。スパイは目的を忘れて暫く潜伏し、キーワードを聞いたら暗示を解かれて、行動を開始するのだ。
「で、携帯は鳴らず暗示は解かれなかったのか」
「解かれたよ。ちゃんと目的を思い出してたから」
「本当にそいつは警察だったのか。偽物じゃなかったのか。もしヴィランならいくら変装したって無駄だ。てめえは正体がバレてると知らずに、丸腰で敵の巣窟に入ったことになる。暗示もクソもねえぞ」
「小規模な基地だったし、万が一の時は基地ごと吹っ飛ばして、逃げられると踏んでたよ。情報が得られなくなるから避けたいことだけど」
「キーワードは何だ」
オールマイトを見つけろ、だったと思う」
「その警察の野郎が鍵だな。そいつの名を教えろ。プロならともかく、潜入捜査なんて危ねえ仕事を学生に、しかもOFA後継者と知ってて頼むなんておかしいだろ。だれだそいつ」
それは、と出久は口籠る。「信頼できる人なんだ。絶対ヴィランじゃないよ」
「んなこたあ、どうでもいいわ。判断すんのはきいてからだ。言えってんだ」
「……塚内さんっていう刑事さんだよ。かっちゃんは知ってる?」
「ツカウチ……知らねえよ」
オールマイトの旧知で、ずっと昔からOFAのことも知ってるんだ。怪しい人じゃないよ」
「そいつの所属は?知んねえのかよ。今更かばってんじゃねえよ。」
デクは首を振る。本当にそこまでは知らないらしい。所属部署は相澤先生にあたることにしよう。勝己は携帯を手に取った。
「TVに出てたあ?ああ、襲撃区域には行ったけれど、なんも危険なこたあしてねえよ。プロヒーローに聞いてみろや。いや、他には誰もいねえ。俺1人だ」デクにちらっと視線を送る。「ひとつ聞きたいことがある」
通話を切り、デクに向き直る。
「おいデク、その塚内って刑事は、今月から北海道に転属になってんぞ」
「ええ!そんな」
「相澤先生に聞いてもらった。てめえは誰に会ったんだ?」
オールマイトは極秘任務に赴き、数日間音信不通になった。行方不明だと思い込まされたデクが、塚内刑事とやらの偽物に唆された。そういうことだろう。
たった数日だ。だが、今まで毎日オールマイトと連絡を取っていたデクにとっては、心を揺さぶるに十分だったのだろう。
学生の身では情報だって満足に得られない。ことに全寮制で、許可なく外に出られない身となれば尚更だ。デクは不安につけこまれたのだ。
「新学期早々のヴィラン襲撃事件も、ひょっとして偽警官を送り込むのが、真の目的だったのかもな。数日前に警官の服着た奴が、顔のない変死体で発見されてんだ。ヴィランが塚内って刑事になりすましていたのか。ヴィランに丸め込まれた警官だったのか。殺された理由は口封じなのか、仲間割れなのか。どうなんだか知れねえが」
「そんな、そんなことって」
「仮に殺されたのが本物の警官だったとしても、てめえの潜入捜査を知ってたのは、警察内でそいつ1人だったんだろう?どちらにしろもう、てめえの目的が潜入捜査だったと知る者はいないんだ。知ってるか?てめえはヒーロー達にヴィランの仲間になったと疑われてんだよ」
「僕が……ヴィランに?」
デクの声が震える。やっと事態の重大性に気づいたようだ。
「迂闊に偽物を信じやがって。てめえはOFA後継者の名に泥を塗りやがったんだ。このままじゃ、てめえはタルタロス送りになんぞ」
「だって、僕はオールマイトがヒーロー支部に囚われているのを見たんだ。今だってすごく鮮明な記憶がある」デクは包帯を巻いた腕を震わせる。「なのに全部が偽りだなんて」
ごめんなさい、オールマイト、とデクは悔しげに呟く。
それを見てちょっと溜飲が下がる。ああ、せいせいしたぜ。責めるのはこのくらいでいいか。
デクは戻って来たんだ。ヴィラン堕ちもしてなかった。
今はまだマスコミに箝口令がしかれている。間に合ったのだ。
しかし、疑いは晴れてねえんだ。何らかの証拠を探さないといけねえ。
ずっと隠してるわけにはいかないだろうが、どうする。諸々のケリがつくまで匿っておくか、それとも先生にだけでも告げておくべきなのか。
考えがまとまらないまま、夜になった。
勝己は隣室のクローゼットからマットレスを持ってきて、デクを寝かせたベッドの側に敷いた。明かりを落として暗くする。
「とりあえず、てめえは俺のベッドで寝てろ」
俯いていたデクは、思いつめたような表情で顔を上げる。向けられたまっすぐな瞳に、嫌な予感がした。
「君に頼みがあるんだ」
「あんだ。クソデク」
「君にOFAを譲渡したいんだ」
「ああ?なんだと!」
予感は的中した。クソみたいな提案を口にして、さらにデクは続ける。
「そうすればOFAは汚されない。秘密を知ってる君ならわかるよね。もしタルタロス送りになったら、OFAは封印されたも同然だ。それだけはダメなんだよ」
「てめえ、正気で言ってんのかよ。ざけんな!」
「お願いだよ。かっちゃん」
「クソして寝ろよ」と勝己は布団をかぶって背を向ける。
OFAの力。ヒーローなら誰もが羨望せずにいられないパワー。あのエンデヴァーを狂わせた力。たとえ個性持ちには負担のかかる、命を食らう力であったとしても、それが得られるのなら、何と引き換えにしても惜しくはないだろう。
ただ、今のOFAの所有者はデクだ。その一点で自分には不要なものだ。
背後で衣擦れの音がする。眠れないのか。寝返りをうっているようだ。
起きあがりベッドを降りた気配。堪らず振り返った。
すぐ側でデクが四つん這いになって、勝己の顔を覗き込んでいる。
「あ……の、かっちゃん」
「てめえ、なんか用かよ」
「お願いだよ、かっちゃん。OFAを受け取って欲しい。個性持ちの君にはきっとリスクになるけれど」
デクは悲壮な泣きそうな声で言う。
リスク。確証はないが、とオールマイトが言っていた。OFAは個性持ちの奴にとっては、使わず所有するだけで負担がかかり、寿命を縮めるのだという。膨大なパワーと引き換えの代償。デクはそれをリスクと言うのだろう。
だが、そんなことはまるで気にならなかった。半裸でにじりかってくるデク。包帯の巻かれていない場所から見えるむき出しの素肌。まるで夜這いのような構図だ。勝己は唾を飲んだ。
「譲渡する方法はDNAの摂取なんだ。知ってるだろ。あの島で、一度は君に譲渡しようとしたんだから」
「覚えてねえわ」
嘘だった。克明に覚えている。虫の息のデク。伸ばされた血で汚れた手。合わせたお互いの濡れた掌。
滑り落ちそうな手を落とすものかと強く掴んだ。血を舐めて、とデクは言った。しかし身体に力が漲るのが感じられたので、必要ないと判断して止めた。
あの時一時的にしか譲渡されなかったのを、オールマイトは奇跡だと称していた。しかしおそらく、正しい方法ではなかったからだろう。
デクは吐息がかかるほど側に近寄ってくる。
「本来なら譲渡する意志さえあれば、なんでもいいんだ、僕は髪の毛を飲んだけど」
「ざけんな!」
勝己は上体を起こし、デクを睨みつけた。
「僕は本気だよ。今だけでいいから君に保持してもらいたい。オールマイトに頼んで、無個性の人を探してもらって、いなければいつか僕がまた引き取るよ。でも今は、この世界からOFAが失われてしまうという、最悪の事態だけは避けなきゃいけない。君に頼むしかないんだ。秘密を知っている君にしか」
はらわたが沸々と煮え繰り返る。てめえの頭はOFAのことしかねえのかよ。そんなにOFAが大事かよ。
秘密を知りたかったのは自分だ。隠し事をしているてめえが我慢ならなかった。だから暴いた。秘密を共有することで、俺の心は嘘みたいに安定した。
だがてめえはそれをまるで印籠のように振り翳す。人の気も知らずに。
「なら俺にキスしてみろよ、デク」
「え??」
薄明りの中でも、デクが驚きに目を丸くしたのが見える。
「DNAであればなんでもいいってこったろ。なら唾液でもいいんだろーが」
「でもキスだよ?そんなことできないよ。なんで」
デクは怯んだ。勝己は苦笑してデクの腕を掴み、もう片方の手で手首からそろそろと上に撫でてゆく。
「できねえだろ。はは!クソデク。できねえよなあ」
肩から首筋をたどり頬を撫でる。間近に顔を近づける。
「てめえの覚悟なんざその程度だ。なあ、デク」
じゃらりと手錠の鎖が鳴った。勝己の顔にデクの手が触れ、引き寄せられる。
嗤う勝己の口に掠めるように触れた唇。
舌が勝己の唇を舐めた。
熱だけを残して。幻のように一瞬で離れる。
キスをされたのだ。
なによりも求めていたものを、てめえは俺にあっさりとくれやがった。
譲渡のため、それだけのために。てめえはそんなに簡単に差し出せるのか。
「てめえ!なにしやがる!」
頭に血が上った。デクを押し倒し、押さえつける。
「ごめん、かっちゃん、なんでもいいんだ、唾液でも血でも。誰も見てない。ふたりきりの闇の中だ」
薄闇の中で、デクが蠱惑的な声音で囁く。「ねえ、かっちゃん、譲渡できた?」
「てめえには、その程度のもんなのかよ!ふざけるな」
てめえは俺をOFAの容れ物として、それだけのために必要とするのか。俺の心を知りもしねえで。
「そ、そんな簡単なわけないだろ。僕の、ファ、ファーストキスだよ」
「初めてかよ。くっだらねえ。残念だったな、譲渡なんざできてねえよ。バーカ!」
腹が立って、勝己はデクの頬を打った。返す手でまた頬を打つ。痛いよ、と抗うデクに手を掴まれたが、その手を捻り、間髪入れずに布団の上に引き倒す。抵抗するデクの腕を押さえつけ、足の脛で膝を抑える。四肢を体重で押さえつけて組み伏せる。
しかしデクはもがいて逃れようとした。ならばと全身で押さえつける。取っ組み合いのはずが腰を押し付け、脚を絡ませて、まるでいちゃついているようになった。
包帯を巻いただけのデクの身体。素肌が触れ合って身体の中心が熱くなる。
「クソが!てめえはここでくたばれ!」
勝己は誘うように薄く開かれた唇に、噛み付くようにキスをする。飢えた獣のように。舌を入れて口内を荒々しく舐める。飢えていたのだ。抑えられていた欲が奔流のように押し寄せる。
「てめえは俺にOFAに全てを捧げろってのか。てめえのように」
唇を離し、問いかける。
「そうだよ」
「そんなことだけ、てめえは俺に頼るのか」
「それが今1番大切なことだろ。君にだってわかってるはずだ。君にしか頼れないんだ。秘密を知る君にしか」
「秘密、秘密、うぜえわ!なら俺にてめえの全部を寄越せ!」
デクは見返りを求めない。それが子供の頃から憧れた、ヒーローたるものだと言うのだろう。だが俺は違う。デクのようにはなれない。
いや、地位や名声はなんてものはもうでもいい。だが、デクにだけは見返りを求めずにいられない。
唇を貪るように重ねる。首筋に歯を立てて喰らうように吸い付く。デクの口から小さく声が漏れる。包帯の隙間から見える肌に唇を滑らせる。
「なんでもいいんだ」出久は呟く。「血でも汗でも涙でも」
「はっ!譲渡された気がしねえな。てめえも渡した気がしねえだろ。DNAをこんなことで譲渡できるかよ」
「できるんだよ。だって僕は譲渡された」
「なら足りねえんだ。貰ってほしいなら。DNAの一部なんかじゃ足りねえ。てめえの全部を食わせろよ!」
勝己は唯一身につけていたデクの下着を剥ぎ取り、局部を剥き出しにした。ついでに自分のTシャツも脱ぐ。
「や、なに、かっちゃん?」
「貰って欲しいんだろうが。なんでもいいんだろーがよ!」
言い捨てると、デクのものを摘んだ。先端を包むように扱く。
「ちょ、かっちゃん?なにしてんだよ?」
「黙ってろ、クソが、黙ってねえと握り潰す」
言われた通りに黙っているデクの息が震える。勝己はデクの両足を持ち上げて開脚させ、芯を持ち始めたそれを咥えた。
「かっちゃん!」ともがくデクの太腿を抱えるように固定してしゃぶる。自分の与える刺激にそれはさらに固くなってくる。デクの抵抗が鬱陶しい。
舌と内側で圧迫し、音を立てて抽送する。デクは勝己の頭を掴むが、引き離すことは叶わない。快感に抗うように首を振って耐えていたが、次第に抵抗する力が弱まってくる。
「や、かっちゃん、出ちゃう、やめ、あ」と呻き、デクは啜り哭くような声を上げて達した。
荒い息を吐いて、デクは脱力した。顔が見たくなり、枕元のライトをつける。デクは涙ぐんでいる。
塩辛いそれを飲み干して、勝己は「はっは!」と笑う。聖人ぶったって、快感には抗えないのだ。
「思い知ったかよ、クソが」
しかし、切れ切れの息の中で「譲渡できた?」とデクは問いかけてきた。
「ああ?」溜まらなく苛立つ。てめえは俺にイカされたんだろ。何とも思わねえのかよ。
「譲渡された気はしねえな。てめえは譲渡された時、どう感じた?」
オールマイトの髪を飲んだ時は、何も」
「てめえは無個性だったからな。別の個性が混じれば、何かを感じねえはずはねえだろうよ。まだ譲渡できてねえな。なんたって、俺は望んでねえんだからよ」
「そんな……」
勝己は下着を脱き、屹立したものをあらわにして、仰向けに寝転ぶ。デクは吃驚した表情を浮かべて怯んだ。手錠の鎖を掴み、腕を掴んで引き寄せ、仰臥させると尻を掴んで揉む。
「俺のを自分で入れろや。ここによ、デク」と勝己はデクの窄まりを突く。
「なんで?そんな、無理だよ、かっちゃん」
「俺が望まなきゃ譲渡はできねえ。そうだよな、デク」
唾を付けて指を差し入れ、指の数を2本に増やし、広げるように解す。
「かっちゃん……あ、ふ」
自分の名を呼ぶ声が掠れる。そこは狭く熱い。人間の体内の熱さ。デクは声を殺して悶えている。
「おら、やれよ、デク」
デクはビクつきながら勝己に跨ると勝己の性器を窄まりにあてがう。縋るように見つめてくるが、顎をしゃくり、やれと促す。デクは目を逸らすと、「ん、ん、」小さな声を出して腰を少し下ろした。雁首が半分くらい潜る。それだけで苦痛に出久は小さく喘ぐ。
「う、ふあ……、無理、だよ。かっちゃん」
「先っぽしかはいってねえぞ。ちゃんとやれや」
詰りながらも興奮していた。豆電球の照明に浮かぶなめらかな身体のライン。きつく熱い肉壁が亀頭を締め付ける。デクの中に入ったんだ。やっと括れまで入れて、デクは苦しげに息を吐いて止まる。
「動けよ、デク」デクの両尻を掴み、じりじりと尻を下ろさせる。
「うあ、かっちゃん、無理だ、これ以上入んない。痛いよ」
とデクは苦悶の表情を浮かべる。熱い肉がまとわりつく。もっともっとと本能が囁く。
「は!やれよおら」デクの尻を乱暴に上下に揺さぶる。
「や、やめ、かっちゃん」
激しく動かすと強く締めてくるが、緩んだ時により深く潜ってゆく。肉棒に串刺しにされてデクは「あう、」と苦しげに啼く。
デクの陰嚢とペニスが下腹にのっかり、揺れる。いい眺めだが半分も入っていかねえ。尻を掴んだまま腰を突き上げて揺さぶる。自由に動けないのがもどかしい。
勝己は身体を起こし、デクの身体を仰向けに倒して下に組み敷いた。手錠で戒めた腕は頭上に上げる。
動いたはずみで抜けた屹立を蕾に押し付け、一気に強く突き上げる。
「ああ…」とデクが溜息のように唸る。楔を打ち込むように、激しく腰を振って挿入してゆく。肉の杭が秘部にめり込んでゆく。デクは声を上げて拒むように締め付けてくる。抜いて欲しいのか。誰が抜いてやるかよ。奥まで挿入し、ふうっと息を吐いて、腰を掴んで引き寄せては何度も穿つ。
「……かっちゃんのが、奥に入ってくる、熱いよ」
「そーだ。てめえは犯されてんだ。もっと俺を感じろや、クソが」
譫言のようなデクの呟きに煽られ、さらに激しく律動する。デクは揺さぶられる度に「ん、ん、」と小さく悶える。デクの身体の奥まで押し広げ、己の硬い肉で繰り返し貫く。下腹部が熱い。熱が膨れて出口を求めている。局部が芯から繋がる感覚。堪らない。
身体をぴったりと重ね、付け根まで入れて息をつき、動きを停める。首元にキスをして鎖骨を舐める。快楽が脳天まで突き抜けた。それと共に唸り声を上げる。奔流がデクの体内に向かってゆく。
デクの目尻から涙が伝った。溢れてしまう前に舌で拭って舐める。深く食らうようにキスをする。デクも応え、互いに舌を絡ませ合う。
「これで譲渡できたのかな」
唇を離すと、薄目を開けてデクは問いかけてきた。
「キスに応えたのは譲渡のためかよ。てめえはどこまで苛立たせやがんだ」
腹が立ち、屹立したまま張りを失わない自身を、再びデクに突き入れた。腰を振って抜いては抉り、最奥まで貫く。身を引いては中を擦りあげて抉る。雄の本能のままに激しく律動して犯す。デクはすすり泣くように喘ぐ。
デクの身体を返し、うつ伏せにすると尻を持ち上げ、根元にまで一気に埋めた。
「あ、ああ!」とデクは叫ぶ。
精液を放出されてぬめる体内は、滑らかに奥まで勝己を受けいれた。体を捩っても、手錠で手の自由のきかないデクは逃れられない。戒められた手でシーツを掴んで悶える。引き抜いては貫き、前後に激しく揺さぶって責める。
肩胛骨を舐め上げ、肩に噛み付き歯型をつける。痛い、とデクは悶える。滲み出た血を舐める。羽根を毟り取るような行為だと思う。事実、 OFAでデクは羽根を得たのだ。夢を叶える翼を。
「てめえを全部食らってやる。てめえを俺のもんにする」
3年生の卒業式の時に飲み込んだ言葉は、嵐になり欲情になり発露を求める。OFAなんざいらねえんだ。俺が欲しいのはてめえだけだ。激しく突き上げては引き抜き、擦りあげる、肉棒で貫いては引き抜きまた突き上げる。
印を付けるにはどれだけ繰り返せばいいのだろう。皮膚を擦り合わせ、肉を打ち付けながら、煩悶する。
ゆるりと引き抜くとデクの内部が恋しがり纏わり付いてくるようだ。挿れては抜いて、深々と埋めると中に射精する。己を注いで満たす。
屹立の硬直は解けない。まだ全然足らねえ。デクを横向きに寝かせ、背後から抱えるように抱きしめ、片足を持ち上げてぐっぐっと腰を振って挿入してゆく。
デクの身体に食い込んだ自分の性器。横抱きにしてデクのペニスを扱きながら、長いストロークで根本から先端まで出し入れし、ゆっくりと突き続ける。突くたびに上がるデクの甘い嬌声。快感に震える吐息。繋げた部分から溶け合ってゆくような錯覚を起こす。
OFAなんか抜けちまえばいい。デクの中を俺だけで満たせればいいのによ。
新しい関係になれるなんて、なんで思ったんだ。なれるわけねえ。俺はてめえを屈伏させたいんだ。支配してえんだ。昔から何一つ変わっちゃいねえんだ。今こそこの身体を征服するんだ。心を征服するんだ。堕ちろよ。俺のところまで堕ちてこいや。
激しいセックスの一夜が更けていく。俺のもんなんだ。ずっと前からそうなんだ。遠慮するなんて全く俺らしくなかった。
てめえをヒーローに誘導したのが俺だと言うのなら、てめえをヒーローの座から落とすのも俺だ。


scene・7


スライムが絡みつく。肩から下はとぷりと呑まれている。
海月のように透けたそれの体内で、足が宙に浮いている。透明な体表から肘から先がはみ出して揺れる。
いつもと違うのは囚われているのが自分ではなくデクの方だということだ。
デクと名を呼び駆け寄ろうとする。
だが足取りは鉛の靴を履いたように重くなり、ゆっくりとしか歩けない。
デクの名を何度も呼ぶ。
気絶しているのか、眠っているのか。デクは目を瞑っている。
何度も怒鳴る。叫ぶ。
目を覚ませ、助けを求めろよ、そうしてくれれば俺は。

カーテンの隙間から光が帯になって漏れる。
裸のまま抱き合って眠ったようだ。腕の中の温もり。淡い光の中で、間近でみつめる睫毛、低めの鼻梁、唇。
手錠をつけたままだった。外してデクの手を握りこむ。デクの瞼が震えて薄目を開ける。
「デク」
と呼ぶと虚な瞳に光が宿った。
「かっちゃん、譲渡されたかな」
開口一番その質問かとムカついたが、自分の身体に変化はないかと感覚を探る。あの島での時のような変化は伺えない。個性の譲渡はやはり出来てないようだ。
「変わんねえな」
「本当に?譲渡しても、すぐにわかるような変化はないんだよ。僕だってすぐには確認できなかった」
「俺は一度仮譲渡されてんだろ。あれと全然感覚が違うぜ。思った通りだな。望んでない相手には譲渡できないってこった。無理矢理与えるような真似ができるのは、ヴィランの親玉だけだろうよ」
「なんで?OFAの力だよ。君は欲しくないの」
「リスクあんだろうが」
「確かにそうだけど」
「ま、リスクなんざあ気にならねえが。借り物の力なんざいらねえ。てめえなんぞに頼まれたって貰えるかってんだ」
「じゃあなんで僕を……」
「わかんだろ。抱く理由が他にあんのかよ」
「いや、その、嫌がらせか性欲処理なのかと思ってた……」
デクはバツが悪そうにもごもごと言い、握られた手で顔を隠そうとする。
「はあ?てめえ…ふざけんなよ。俺をなんだと思ってやがる!」
「ごめん、でも思ってもみなかったから」
「てめえはほんっとにクソだな。自分からキスしたくせによ」
「あれは、君に挑発されたから、ムキになって…。やんなきゃダメなのかなって……」
しどろもどろに言い訳する唇に軽くキスをする。デクの顔が真っ赤になる。
「仮に譲渡できたとしたら、てめえはどうする。俺が欲しいものがなんなのか。馬鹿なてめえでもわかんだろうが」
「かっちゃん、でも、僕はもう」
「何度でも試せよ。俺の欲しいもんを呉れるって確証を寄越せよ。譲渡されてもいいって思わせてみろ。何度もやればわかんねえぜ。俺だってその気になるかもな」
「そうしたら、受け取る気になってくれる?」
首を引き寄せるように腕を回して抱きしめる。「俺をその気にさせてみろや」
勝己はパンとコーヒーと目玉焼きの簡単な朝食を用意した。勝己のTシャツを着たデクは部屋から出てくると、ダイニングの席についた。彼シャツよろしく肩からずり落ちる袖を上げている。まるで同棲中のようでこそばゆい。
「遅かったじゃねえか。適当にどれでも着ろって言ったろ」
「うん、ありがとう、かっちゃん」と言い、デクはおどおどと視線を送ってくる。
やっぱりこのままデクを匿っちまうか。
暗示をかけられていてことを証明できなければ、逮捕されるかもしれない。デクはどこにも行けないのだ。俺が黙ってれば、こいつはこのまま俺のものだ。
だが、同時に未来の平和の象徴は失われる。地に堕ちたとしても、平和の象徴は必要なのか。
朝食の皿を片付けていると、呼び鈴が鳴った。
「俺だ、爆豪」
インターホンの画面に映っているのは相澤先生だ。何で来たのだろう。
「爆豪、緑谷もいるんだろう?」
「はあ?いねえよ、なんで」
「隠すな爆豪。緑谷の携帯のGPSを追ってきたんだ」
そんなわけねえ。電源は切って隠していたはずだ。勝己はベッドルームに駆け込んだ。ベッドの下を探ったが、携帯はなくなっている。
「デク!」ダイニングに戻るとデクに掴みかかった。デクの膝から携帯が滑り落ちる。
「デク、てめえ!携帯見つけてたのかよ」
「うん……君が朝食の用意してる時に探した」
「遅えと思ったぜ。GPSをオンにしやがったな!」
GPSをつければ、担任の相澤先生には生徒の居場所がわかってしまう。
「くそが!」
勝己は手を振り放し悪態をつく。解放されたデクは携帯を拾い、テーブルに置いた。再びインターホンが鳴る。
「かっちゃん。君にAFOは渡せたかどうかわからない。けれど、AFOのことはもういいんだ」静かな口調でデクは言う。「君に迷惑はかけられないよ。君の心を知ったのなら、尚更だ」
「嫌だったってのか」
てめえから仕掛けておいて、抱かせといて、俺とは嫌だとそう言うのか。
「違うよ。すごく、すごく嬉しいよ。思ってもみなかった。こんな僕を君がそんな風に思ってくれるなんて。嘘みたいだ。でも、君はヒーローなんだよ」
「てめえもだろうが」
「もう、違うよ」デクは唇を噛んで俯く。「こんな形でなんて、悔しいけれど。でも、君を巻き込むのだけは絶対駄目だ」
「まだんなこと言ってんのか、てめえは!元はといやあてめえが誰にも言わねえで、一人で突っ走っちまったからだろうが!」
「そう、だね。でも頼ったりしたら君まで共犯になるよ。そうなったら、今度こそ僕は僕を赦せなくなる。僕はもう、ヒーローではいられないんだ」
「てめえはなんでそうなんだ!ああ、クソが!」
何故いきなりデクは考えを変えた?OFAを譲渡するまでここにいるつもりじゃなかったのか。
まさか、俺がてめえを欲しいと言ったからなのか。
そう言うことかよ、クソが。絶対に誰とも付き合えない、大切な人も大切に思ってくれる人も失いたくない。デクはそう言っていた。
そんな存在は側に置けないということか。ならば心を明かしたことが、抱いたことが裏目に出てしまったのか。俺がてめえに気持ちはねえと思ってたからこそ、側にいられたというのか。
「僕は取り返しのつかないことをしてしまった。償わなきゃいけない。だからこうするのが一番いいんだ」
デクは真っ直ぐな視線を勝己に向ける。昔から殴っても蹴っても怯むことのなかった、強い意志の宿る瞳。どうしようもなく憎み、惹かれた瞳。知っている。こんな顔をしたデクは途方もなく頑固なんだ。
「わからずやが!てめえ1人で何もかも決めやがって」
それでもデクの決心を変え、留め置く術はないかと必死に考える。
デクを抱えて裏から逃げられないか。携帯をどっかに捨ててデクを隠せないか。何か方法はないのか。
「先生を待たせられないよ、かっちゃん」
再びインターホンが鳴った。結局逃げる気のないデクを先生から隠すことはできない。呼んでしまった以上、いくらごねても手遅れだ。
「君を共犯にすることは、自分が罪人になるよりも辛いんだよ。かっちゃん」
「うるせえよ。てめえはそれでいいのかよ。」
絶対に認めたくなかった。ずっと昔、ガキの頃から、俺だけが気づいていた時から。てめえはムカつくくらい身の程知らずなヒーローなんだ。自分の痛みより人の痛みを優先するてめえの性。そんなてめえだから、いつもいつも、てめえの目に俺がどう映ってるのか気になってしょうがなくて、いつの間にかどうしようもなく囚われたんだ。たとえヴィランの汚名を被るとしても、てめえは自分の保身のためには動かない。
「話は終わったか?いくぞ、緑谷。詳しくは着いてから聞く」
扉の外で相澤先生が腕組みをして待っていた。
「はい。先生。かっちゃん」デクは困ったような顔をして微笑んでみせる。「服ありがとう。後で返すね」
まるでなんでもないように、デクは明るく振る舞う。明日また会えるかのように。
容疑者として逮捕されたなら、今度はいつ会えるというのだろう。
はたと気づく。デクは説明できるのか。教えるまで何が起こったのか知らなかったくせに、自分で自覚してもいないことを言葉にできるのか。そっくり罪を認めちまうんじゃねえか。
こいつを一人で行かせちゃいけねえ。もう側から離しちゃいけねえんだ。
「おい待てよ、俺も着いていく。こいつの説明力のなさは知ってんだろ。長くてくどいだけで要領を得ねえし、馬鹿だから言われるままに罪を被っちかねねえ」
「え、ちょっとひどいよ、かっちゃん」
言われように不満げなデクの肩を掴んで引き寄せ、相澤先生を睨む。「いいよな、先生」
「しょうがない奴だな。まあわからんでもない。構わん。お前も来い」
相澤先生は頭をかいて二人を車に乗せた。車中でデクはオールマイトの消息を尋ね、何事もないと聞いて安堵していた。
車はヒーロー本部には向かわなかった。逆方向に車は走る。
「どこに向かってんだ?」
「病院だ。俺は警察じゃないぞ。緑谷を捕縛しに来たわけじゃない」
病院に到着すると、相澤先生に連れられデクは検査室に入っていった。ふたりを見送り、勝己はじりじりしながら待合室で待機する。暫くして勝己も検査室に呼ばれた。デクは大きな硝子窓の向こうでCTを撮ってるらしい。相澤先生だけが中の長椅子に座っていた。勝己は向かい側の長椅子に腰掛け、ポケットに手を突っ込む。
「あのな、先生。車ん中でも言ったけどよ。クソデクはヴィランに堕ちてねえ。催眠術をかけられたかなんかだ。奴の意思じゃねえんだ」
相澤先生に共通認識を持ってほしいと思った。実際デクの状態を見れば明らかなはずだ。しかし目論見通りにはいかなかった。
「いや、そういう形跡はなかったよ」
相澤先生の言葉にざっと頭の血が下がる気がした。
「それじゃあ、暗示にかかったわけでもなく、ただ騙されてたってのか。自分の意志で……あの馬鹿が!」
「それも少し違うな」
「どういうことだ?」
「どうやら緑谷は個性にかけられていたようだ。イメージを頭に固着させるものらしい。緑谷は脳裏にあるイメージを植え付けられていたんだ」
「それだけか。それだけであいつは」
デクは暗示にかけられ洗脳されたわけではなかったのか。見たものを疑うこともなく、素面で支部を襲撃してたというのか。
「自分の意思に反した暗示にはかかりにくいものだ。普通の精神状態なら騙されることはなかっただろう。潜入捜査前に暗示をかけられたそうだな。オールマイトを見つけるという、緑谷の目的と合致する暗示だったから、容易にかかってしまったと考えられる。脳に焼き付けられたイメージを暗示で隠し、キーワードで暗示が解かれ目的を思い出させてから、適度なタイムラグを挟んで、イメージが脳に蘇らせるようにされていたのだろう。緑谷の言うには、オールマイトがヒーロー本部で拷問されているイメージだったそうだ。そうとうえげつない代物だったらしい。」
「それがどんなきついイメージだったしても、一度見せられたくらいで操られちまったりすんのかよ」
「1度じゃない。そのイメージは1日に何度もフラッシュバックしたらしい。繰り返し頭の中で再生する仕様らしいね。寝ても覚めても夢にも見る。白昼夢のように現実との境目が薄れてゆく。悪夢がフラッシュバックして精神を追い詰めてゆく。そういう個性なんだ」
「推測にしては断言すんじゃねえか」
「ああ、実はな、学校で顔のない死体が見つかっただろう。その個性因子を解析したら、某大国所属の元軍人のものだったとわかったんだ。彼は前線には出ることなく、捕虜を洗脳する部門に属していたらしい。彼の個性が適していたからだ」
「穏やかじゃねえな」
「それだけじゃない。某大国では優秀な兵士を作るために、彼の個性によって自国兵に繰り返し残酷な映像を見せ続けたという話だ。常軌を逸した過剰なストレスにさらされ、ともすると精神が壊れてゆく。そのうち麻痺して残虐行為を平気で行える兵士が出来上がるわけだ。この個性は実に洗脳に適している。時間も手間もかかる洗脳が簡単に、より多くの人数に、より短時間で出来るわけだからな」
「敵国の捕虜だけじゃなく自国民までもかよ。捕虜ならいいってわけじゃねえが、まともじゃねえ」
「合理的だと判断されたのだろう。しかし、戦場にいる間ならともかく、帰還しても兵達の壊された精神は元には戻らなかった。彼は疑問を感じて退職したそうだ。なのにヴィランに下った理由はわからん。お前のような物理的な強個性ではないが、敵に回れば厄介な個性だからな。某大国も行方を捜索していた。おかげでデータベースから探すことができたんだが」
「なんか問題があんのか」
「記録上、彼はずっと以前に死亡していたよ」
「でもそいつの個性なんだろ。死を偽装したのかよ」勝己ははたと気づく。「もしかして、そいつ、AFOに個性を奪われたんじゃねえのか。他のヴィランにそいつの個性が与えられ、口封じに使い捨てにされたんだ」
勝己の言葉に相澤先生は頷く。
「その可能性は高いな。死者を弄ぶ許し難い行為だ。身体はとうに滅びたのに、個性だけが幽霊のように生き続ける」
相澤先生は誰かを思い出しているように遠い目をした。
「ともかく、彼は結局、自分の意に反して、軍人だった頃と同じような個性の使われ方をされてしまったわけだ」
「自分の意思で自覚的に行動する分、催眠術より質が悪ぃな。クソが」
繰り返し脳裏に焼き付けられる鮮烈なイメージ。何度も思い出すそれに思考も行動も支配される。そんなイメージを自分もよく知っている。
「緑谷はイメージを繰り返し見せられるうちに、その場に自分がいて実際に目撃したと思い込んでしまったんだろう。そのくらい鮮明な像を送られたんだろうな」
「そのクソ個性、もう解除したんだろうな」
「ああ、勿論だ。しかし、精神的ダメージは大きいようだ。暫く入院して検査を受けてもらうことになる」
「ヒーロー本部にはどう報告するつもりなんだよ」
「それは、これから考えるところだ。お前にも何があったのか聞かなきゃならん」
「ああ、わかってる」勿論、昨夜のことだけは伏せておくつもりだった。
「ともあれ、緑谷が五体満足で安心したよ」
相澤先生は安堵した穏やかな声色になる。
バタバタと足音が聞こえた。看護士に歩くように注意されている声が聞こえる。ひょろりと背の高いその人物は勢いよくドアを開けて入ってきて、ペコリと頭を下げる。
「早い到着だったな、オールマイト」相澤先生が言う。
「緑谷少年は無事か!」
ヴィランに拉致されたとデクが思い込んでいたオールマイトは、拍子抜けするほど元気な姿だっだ。
「あんた、遅えよ!」
「すまない。ニュースを見て、よもやと思って切り上げてきたんだ」
「あんたは、今やクソデクの弱点なんだ。ヒーローを引退したとしても、あいつの精神的支柱なのに変わりはねえんだ。しっかりしろよ。あいつはまだガキで馬鹿なんだからよ」
「爆豪、お前な」
嗜めようとする相澤先生を制してオールマイトは言う。
「その通りだね。自覚するよ。彼を心配してくれる君のためにも」
「一言余計だ。クソが」
勝己は顔を背けて、深く腰掛ける。


epilogue


数日後、勝己は入院中のデクの元を訪れた。
「あ、かっちゃん」
勝己に気づき、ベッドに寝ていた出久は身体を起こした。ベッドサイドの椅子に腰掛けていた相澤先生が振り返る。
「あんたもいたのか。やっぱり暇なんだろ」
「聞き取り調査だ。この後はヒーロー協会に行く。おかげで全く暇がなくなったよ。」
勝己に答えながら、相澤先生はメモを鞄にしまう。
「てめえ、身体はどうなんだ」
「異常はないみたい。色んな検査をされたよ。脳とか神経とか」デクはヘラッと微笑んだ。
「もうすぐGWが終わる。デクは学校戻れんのか」
勝己は相澤先生に目を向けた。
「表向きは、緑谷は犯人のアジトに捕まっていて、お前が救出したことにした。今まで姿を見せていたのは偽物だと。そういうことにしたぞ。ほぼお前の主張通りにな」
相澤先生はヒーロー達に連絡し、本部に送られたデクに付き添った。証拠として提出したデクの携帯に入っていた口述記録は、事の真相を示していた。マスコミ向けのシナリオに誰も異論はなかった。ヒーロー達は知った上で乗ってくれた。なにより秘密を知っている校長がそう計らった。それほどに、未来のオールマイトの後継者という、称号の影響力は大きいようだ。
デクを拉致したのに殺さずに、逃して犯罪を起こさせる。それこそがヴィランの目的だったのだから、奴らの思い通りにするわけにはいかない。
デクが直接人やプロヒーローを攻撃しなかったのも大きい。個性をかけられていてもヒーローとしての分別はあったようだ。
「新学期には緑谷も間に合うだろう。今期は随分遅い開始になってしまったな」
相澤先生は立ち上がり、「俺は協会に戻る。緑谷は任せたぞ、爆豪」と言って病室から出ていった。入れかわりに勝己は椅子に座る。
「かっちゃん、君にAFOは譲渡されてたのかな」
相澤先生が去ったのを見計らい、デクは尋ねてくる。
「いいや、貰ってねえわ」
「そっか」
「ほっとしたか。OFAを失ってなくてよ」
「うん。また僕はヒーローに戻れるんだね」デクは柔らかく微笑む。「君のおかげだ」
しばらく黙って、デクは肯いた。
「あの時は君の意思を無視してごめん。個性持ちの君がOFAを保有すれば、負担になる。君にそんな枷は負わせてはいけないのに」
「てめえならいいとでも?は!馬鹿かよ。例え譲渡されたとしても俺は縛られやしねえ。やりたいようにやるぜ。欲しいものは全部手に入れる」
「そうだね」デクは微笑んだ。「君ならそうするし、きっとできるだろうね。大切な人も守れそうだ」
「てめえだって自分で自分のことくらい守れんだろ。お互いヒーローなんだからよ。デク、今更独り身を固辞する我儘を通せると思うなよ」
「そんな、我儘なんかじゃ」
「綺麗事言ってんじゃねえよ。てめえ、本当は俺にAFOを譲渡してなくてホッとしたんだろ」
「え?そんなこと、ないよ」
思いがけない言葉だったのだろう。デクの声が上擦った。
「OFAを葬ってしまうとしても、てめえは俺には譲渡したくなかったんだろ。ああ?てめえの心に聞いてみろや」
勝久に組み敷かれながら、貫かれながらも、デクは何度も譲渡出来たのかと聞いた。願うように、恐れるように。怯えるように。
「そうかもしれないね」デクは目を伏せて俯く。「いや、そうなんだろうな。あの南の島では君に譲渡することに何の躊躇もなかったんだよ。それなのに。いや、きっとそれで理解してしまったんだと思う。OFAを失うことの意味を」
溜息を吐き、デクは自嘲気味に呟く。「僕は弱いな」  
「てめえはOFAが惜しいのかよ」
デクは首を振った。「違うよ。OFAは受け継がれていくものだ。他の人になら誰にでも譲渡しようと思える。ミリオ先輩でもプロヒーローの人達でも。必要ならば躊躇なんてしない。でも僕は、君にだけは譲渡したくないんだ、きっと、心の何処かで」
「なんで、そう思うんだ」
「君と並び立つのが僕の願いだからだよ」
デクは掛け布団を握りしめる。
「混じり気のないヒーローでありたいのに。OFAを葬ってしまうところだったのに、なのに僕は」
窓から青々とした若葉を繁らせた木が見える。青い葉は強い日差しに立ち向かうように力強く繁る。満開の桜に包まれていた始業式から随分経ってしまった。もう初夏の気配が漂っている。
「こっち見ろや、デク」
デクは勝己を見上げた。デクの表情はいつになく便りなさげに見える。
「かっちゃん、君は僕にとって迷いなんだ」
勝己はデクの顎を掴み、キスをして不敵に笑う。
「だったら、迷えよ、デク」
てめえにとって今の俺がなんなのか。
てめえが俺自身に望むことはなんなのか。
きっとそれは一言では言い表せやしない。
俺にとっててめえがそうであるように。
てめえは大切なものもそうでないものも目いっぱい抱えて
守りたいからといってそのすべてを遠ざけるという。
だが、俺はてめえの思い通りにするとは限らねえ。たとえそれが最も正しい判断だとしても、俺にとっても最良とは限らねえからな。
なにもかも捨ててヒーローに殉じるなんて傲慢、もう許すわけにはいかねえんだ。
てめえは目を離すと、どこまでも上を目指してしまう。まっすぐに翼を広げて太陽に灼かれたイカロスのように。
だからてめえを地に落として、てめえの立つ地面を忘れるなと。押さえつけるのは俺の役目だ。

俺はてめえの枷であり続ける。

 

END

銀の獣の森

彼は天を仰いだ。
青い空はまるで見えず深い深い緑の天井が覆う。巨木に囲まれたこの森の中を、もう何日彷徨っただろう。
【未開の島未開の森、未知の生物を採取しよう】
眉唾ものだと思いつつも魅力的な見出しに釣られ、孤島探検ツアーに参加した。船は巨大な渦の隙間を縫うようにして曳航し、島に到着して探検隊を下すと、まるで厭うかのようにすぐさま出航した。桟橋は落ち葉に覆われ、道は繁みに浸食され、頭上から重く大木の枝が垂れ下がっていた。歩きにくさも未開の島らしさに思えて期待に胸は膨らんだ。
森の奥地に進むと、誘い文句を違えない異形の生物群が現れた。小動物を待ち受けて包み込んで食う巨大な薔薇。腰の丈ほどもありゆっくりと進む枝のような節足昆虫。木立の間を浮遊する海月のような鳥。自分も含めて、探検隊の皆は未知の生物達に無邪気に夢中になった。子供の頃に昆虫採集に没頭したように、写真を撮り、サンプルを取り、虫を捕らえ、花を摘んだ。
気づくと周囲には誰もいなくなっていた。まるで自分だけを残して緑の深淵に飲み込まれてしまったように。
彼は立ち止まり、人の声が聞こえないかと耳を澄ます。
ざわざわと木の葉が揺れる。空気がひんやりと息づく。鳥の声、吐息の音。生き物の気配。
大きな生き物が草を踏む足音。
間違いない。何かが自分を見ている。
一人になってからずっと、何かの気配を感じていた。未知の発見のためなら命は惜しまないと嘯いて、望んで探検に来たけれど、獣に食われるのは遠慮したい。一歩でも前に進まなければ。そう思うのに疲労が身体を蝕んでゆく。後一歩踏み出せばくず折れてしまう。
少し休憩しようと岩に腰掛けた。リュックを探ると水筒と残り少ない携帯食料が入っている。大切に食せねばならない。水を一口飲んで、クッキーをひとかじりする。
木の枝が遠くから順繰りに揺れている。何かが近づいてきているのだ。すぐ側に気配を感じる。猪か熊だろうか。
「誰かいるのか。いるなら出てこいよ」
追跡者が人であることに一縷の望みをかけて呼びかけた。
大木の陰から銀の毛並みが揺れるのが見える。
隠れていた何か、がそろりと姿を現した。
人ではない。見上げるような大きな獣だ。両目の部分に穴が空いた石の面を被り、銀色のふさふさとした毛並みに覆われている。前足には鋭く長い爪が生えている。
背筋が凍るように冷たくなった。こんな獣にかなうわけがない。獣から目を逸さずにリュックを探ぐるものの、武器になるものなど何も入ってない。
小刻みに震える呼吸音が聞こえる。笑っているかのようだ。
しかし獣は近づいては来る様子はない。一定の距離から見つめてくるだけだ。獣の様子を伺いながら立ち上がり歩き出した。獣は一定の距離を保って後ろをついてくる。
開けた場所に尖塔のように聳える巨木が見えた。根本にゴツゴツと大きな瘤がいくつも隆起し、枝葉はドームの天井のように空を覆っている。その下に湖が澄んだ水を湛えている。陽の射さない水面は黒く静かに水底を映し、靄がふうわりと水面の上を漂う。掌に水を掬って飲み干し、水筒に汲む。水を手に入れられた。しかし行きには見たことのない場所だ。この先に行ってもきっと帰れない。
「帰りたいのか、お前」
獣が囁いた。湖の底から響いてくるような声。深淵の呼び声。「帰りたいのか」再び獣は問うた。
「ああ、帰りたい」
答えると獣は面の下で笑うように吐息を漏らした。
「帰り道は見つからない。いくら歩いても。お前は人の身で森に入った。森の物を摘んだ。森の姿を映した。森の物を食した。故にお前は森の一部になった」
「本当なのか」
「嘘を言う理由がない。現にお前は船着き場に戻れないではないか。さほど離れていないはずの船着き場に。だが方法はある」
「どうすればいい」
「お前の身体の一部を我に呉れればいい」
「なんだって?」驚愕して聞き返す。
「お前の身体の一部を呉れるなら森から出られるだろう。目か耳か手足か。どこでも好きな部分を選ぶといい。森を出るには供物が必要だ。森の生き物に返すのだ。供物なくしては森からは出られない。森が望むだけの供物を捧げれば出られよう」
獣は続けて言った。「一つか、二つか、三つか。供物がどれだけ必要かは我は知らない」
彼は迷った。獣の言葉を信用していいのだろうか。しかしいまや食料も尽きかけている。このままでも遠からずいずれ死ぬ。この獣と取り引きをするほかはない。
「じゃあ、耳を呉れてやる」
比較的なくしても困らないのではないかと判断して答える。
「耳だな」
獣は彼の両耳を撫でて屈みこみ、仮面の顔を近づけた。ひやりと耳が凍った気がした。パキリと軽い音が聞こえた。
「代わりに我の耳をやろう」
獣はそう言いながら面の下で咀嚼している。
獣に耳を喰われたようだ。耳のあった場所に触れるとふさっと毛の感触。大きくて先がとがった形。これが獣の耳なのか。
様々な音がクリアになり鼓膜を通り抜けていく。森の中はこんなに様々な音で満ちているのか。遥か遠くの微かな音まで聞こえてくる。木の芽の伸びる音、苔が胞子を吹き出す音。木の皮の下で虫が樹脂を食む音。
貝の呼吸のようなあぶく音は何だろう。あれは光合成で葉が光を吸い込んでいるのだ。木漏れ日が葉を叩く音。花弁が開く密やかな音。音からその生物の形を、存在を捉えられる。
獣と連れだって歩いていくうちにまた道は塞がれた。崖に出たのだ。人が到底越えられないような絶壁。向こう側に道は続いているというのにこれ以上進めない。
「ここまでだろう」獣は言う。「お前の足ではここを越えられない」
「じゃあ足を呉れてやる。そうすればこの先に行けるんだな」
彼は言った。引き返しても帰り道はない。
「お前が望むなら、その足を貰おう」
獣はしゃがみこみ、爪で彼の足を優しく摩る。彼は目を閉じた。ぱきりと氷の割れるような音が聞こえた。目を開けると自分の足の代わりに銀の毛に覆われた獣脚が生えていた。獣は面の下で咀嚼している。
「代わりに我の足を呉れてやった」と獣は言った。
怪物の強靭な足で崖を飛び越えた。勢いで藪を飛び越え、森の中を駆けた。獣も追ってくる。力強いこの足なら森を抜けられるんじゃないだろうか。森に夕暮れが迫っている。夜になるまでに行けるだけ進まなければと、彼は猛然と駆けた。彼の通り過ぎる風圧に木々が騒めいた。
日が落ちた。緑の天井は月光を阻み天鵞絨のような闇をもたらした。月の光が葉の間から見える時だけ、月光を反射する獣の毛皮を手掛かりにして進んだ。
葉陰で月の光が遮られ、ふと、獣の姿が見えなくなった。真の闇の中で立ち竦む。
「どこにいるんだ。近くにいるのか」心細くなり呼びかける。
「側にいる」背後から獣の声がする。含み笑いをしているようだ。
「暗闇の中ではお前は進めないだろう」
「わかってる。だけど食料ももう持たない。時間がないんだ」
「闇に見える目が欲しいか」
獣の言わんとすることはわかった。選択の余地はない。
「欲しい」
彼が答えると獣は顔を近づけた。瞑った目がひやりとした。目を開けると闇が晴れた。昼間とも違う青みがかった明るさ。獣の視界で見る風景。木の葉の間から降り注ぐわずかな月光でも木々は鮮明に見える。空を仰ぐと、葉陰を透かして満天の星が輝いているのが見える。薄桃色と薄青色に分かれた空気の層。その層と層の間を滑るように翅の沢山ある蜻蛉が渡っていく。羽のある生き物はこうやって風に乗るのか。
夜がふけて朝日が枝の間に差し込んだ。光は帯のように色分けされた靄を反射して虹のように煌めく。こんな美しいものを今まで見たことがなかった。
光に誘われるように歩むと藪が開け、切り立った崖のうえに出た。島を見渡せる小高い場所だ。海の方向がわかるはず。しかし海は見えなかった。どこまでも森が広がっている。
リュックの中の食べ物がなくなり、飢えが彼を襲った。
木の実は頭上高くになっており、小動物は自分の足では捕まえられない。太い茨の繁みが行く手を阻む。
「せめてあの木の実をなんとか採れないだろうか」
呟きを聞いて、獣は言う。
「腕を呉れればいい。そうすれば代わりの腕をやろう。いくらでも自分で採れるだろう」
彼は承諾するほかなかった。怪物は彼の腕を一飲みにした。
銀の毛に覆われた腕は強靭で、爪はナイフのように鋭い。素手で茨をへし折り、薙ぎ払って道を作った。
獣の足で追い、爪でひっかけて生き物を捕まえる。彼は四つ足で高い木に登り、木の実をもいだ。森の中で飢えることはなくなった。
だが、いくら進んでも帰り道は見つからない。歩むほどに森の奥深くに沈んでいくようだ。
この森はどれだけの供物を捧げろというのだろう。
彼は獣に言った。身体の残りの全てを捧げると。
獣は快諾し、彼の首から腹をするすると撫でた。彼は目を瞑る。ひやりと凍る感触が胴体を包んだ。
獣は彼を喰らった。そうして彼に代わりの身体を呉れた。
「供物は十分なはずだ」彼は言う。「もうすべてを返した。そうだろう。なのになぜ帰り道がみつからないんだ」
「森が許せば帰り道を見つけられるだろう」獣は平坦な調子で答える。
彼は少し考えて獣に問うた。
「お前は帰り道を知っているのか」
「ああ、知っている」
やはり獣は知っていたのだ。供物などと嘯いて隠していたのだ。
「初めから知っていて、私に教えなかったのか」
「聞かれてない。お前が問うたのは帰る方法だ。」
「ならば今問おう。知ってるならば教えてくれ」
なんとしても聞き出そう。今の自分なら獣の爪も恐れはしない。
「知っていても教えられるものではない。帰り道そのものではないからだ。迷いはお前の中にある」
「私が何を迷っているというんだ」
「帰りたいのか、知りたいのか、お前は自分に問うてみたか」獣は面を震わせて笑う。「未知に惹かれ未知の感覚に溺れる。それは快楽に等しい。それがお前を森に留めているのだ」
「私自身が帰り道をみつけようとしていないというのか」
自分はこんな状況だというのに迷っているのか。未知を求めて森に来た。様々な動植物に魅了された。獣との取引で死から免れた。そうして獣の身体で感じる感覚に魅了されている。自分は迷う限り帰れないというのか。
獣は言った。
「帰りたいと思うならば先導してやろう。喰わせてくれればな」
「もう捧げるものなんてないよ」彼はか細い声で言う。「喰わせてやるものなどもう何もないんだ」
「まだ心があるだろう」獣は彼の胸を爪で突いた。
「お前の心を喰わせて呉れればいい。そうすれば帰れるだろう。獣の身体を持ち獣の感覚に溺れたお前の心がなくなれば、森に迷うことはなくなるからな」
「私の心を捧げろというのか」
獣となったこの身体で、人の心を失くしたのなら、もう自分の命だけしか残らない。
果たしてそれは自分といえるのだろうか。
 
 
随分留守にしてしまったね。どこに行ってたかって?
未開の島の探検ツアーに行っていたんだよ。日帰りの旅のはずが森で迷ってしまってね。長い間彷徨っていたと思っていたのだが、幾日も経っていないらしいね。一緒に探検に行った人たちも無事帰ってきたのかって?知らないよ。そもそも個人で参加したから知り合いはいなかったしね。誰が誰なのか知らないままだったよ。
どうやって森から出られたのか教えようか。森の中で私は銀の獣に会ったんだよ。熊のように大きくて爪が長くて、石の面を被った人語を喋る獣なんだ。信じられないかい。獣は私が帰り道を問うと、代わりに私の身体の部分を望んでね。一つ一つ喰わせる代わりに獣と同じ身体と交換していったんだ。
騙されていたのかもしれないね。どんどん森の奥に連れていかれてしまった気がするからね。
どうやって獣から逃げたのか知りたいかい。獣は私の身体をすべて交換して、最後に心を望んだんだ。切羽詰まった私はついに獣と心を取り替えたんだよ。すると怪物の身体が変化してね、獣は私そのものになったんだよ。船着き場に到着すると獣は森の中に姿を消した。暫くして迎えに来た船に乗って家に帰ってこれたというわけさ。
つまりどういうことかというとね、獣と全部を入れ替えたら、結果的に私は私に戻ってしまったというわけさ。一周回って元通りになったということだね。
なんだい?私の方が獣なんじゃないかと言うんだね。それは自分ではわからないな。私には自分が私だとしか認識できないからね。
でも時々思うんだよ。あの島に、あの森になにかを忘れてきてしまったんじゃないかとね。記憶と魂と器とが別れているのなら、どこに命はあるのだろうね。
あまりに荒唐無稽だと言うんだね。君が信じられないのも無理はないよ。そもそも島に行ったのかどうかすら定かではないんだ。旅行の申込書も残ってないし、誰にも言ってないから誰も知らないのだからね。
そうだね、本当は全部夢を見ていたのかもしれないね。
 
 
獣は洞窟の中でまどろむ。
まるで人間のように暮らしている夢を見た。まるで前世に人であったような、かりそめの思い出のようだ。
のそりと起きて伸びをして毛を立てる。陽を反射して光る銀毛。爪でひっかけて石の仮面をつける。いつも被っているはずなのに何故か初めてつけるように思う。獲物を探して森の中を駆ける。立ち止まり森の隅々まで感覚を拡張する。鳥のさえずりが聞こえる。羽搏きから波紋のように形が見える。大きく口を開けた雛に食餌を与えているのだ。獣は頭上を見あげる。木の実に隠れた小さな哺乳類の匂いが姿を形取る。匂いが触覚となり、雄なのか雌なのか子持ちなのかも明らかに感じられる。物質そのものを理解する。巨木の葉の細胞の呼吸する様、葉脈の一本一本まで鮮明に見える。森のすべてを掌に乗せているような万能感。
日が暮れて夜となった。
獣は空を仰いだ。厚く雲の垂れ込める闇の空でも、獣の目には降り注ぐかのような満天の星々が見える。獣は湖畔に佇み水面を見渡す。月の光が漣を反射してパリパリと音を立て、鈴を鳴らすかのように鼓膜に届く。
獣は森を駆ける。白銀の矢のように。
 
end

インフォメーション2020年4月~

最新情報です。下に行くほど新しいニュースです。母艦サイトのINFOや自作創作小説カテゴリー に内容紹介文を詳しく載せてます。

母艦サイトへのリンク→BLUE HUMAN

2020/04/19 勝デク小説「フラワー・インフェルノ(魔法の言葉 ・前日譚)」をUPしました。

2020/11/12 オリジナル小説「銀の獣の森」をUPしました。

「フラワー・インフェルノ(魔法の言葉 ・前日譚)」

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もはや見えぬ光よ
かつて私のものだった光よ
もう一度私を照らしてくれ……
やっとたどり着いた
人生は始まったところで終わるのだ

ピエル・パオロ・パゾリーニ
         「アポロンの地獄」より

 

 壁面時計の長針と短針がカチリと重なる。

 時は正午、12時ジャストだ。
 晴れた空の天頂に、太陽は支配者のように輝き、光に灼かれて逃げ遅れた雲がぽつぽつと散らばっている。
 駅から伸びる歩行者専用デッキに立って、僕は周囲を見渡した。
 歩行者デッキはバスロータリーに覆い被さり、片方の端はデパートの二階の入り口に、もう片方は歩道に降りる階段に繋がっている。
 中心は広場になっていて、大きな円弧の上に立つ人物のオブジェが置かれている。片足立ちで空を見上げているその姿は、青い空を背にしてひとり、儚く危うく見える。今にも転んでしまいそうだ。
 手すりに手を置いて、バスロータリーを見下ろした。歩道を歩く幾人かの疎らな人影。駅の周りを取り囲む低層のビルや商店街。その先に高層ビルが1棟聳えている。都心のように喧騒としてはいない、静かな街だ。平日昼間の地方都市。
 ヴィランが潜んでるなんて、到底思えない。
 覚悟して単身この街に乗り込んだけれど、悪戯だったのだろうか。
 けれども、携帯の電波を確認すると、圏外になっていた。田舎ならいざ知らず、中都市の街中であり得ない。街の通信網を遮断したと言っていたのは、本当だったようだ。ピリッと空気が張り詰めた。
 フルカウルにして身構える。皮膚の下を軽微な電流が流れるような感覚。携帯が繋がらないのに、道を歩く誰にも慌てているような様子がない。何故だろう。偽の情報が流されているのだろうか。悪戯などではない、周到な計画の下で。


 ヴィラン連合から呼び出されたのは、数時間前だった。
 街中をパトロールしている時、突然携帯に着信があった。知らない番号だったので、不審に思ったものの、人通りのない横道に入って応答した。
『やあ、久しぶりだな、ガキ。いや、もうガキじゃないか』
 耳障りなざらついた男の声が聞こえた。
 死柄木。姿を晦ましたヴィラン連合のボス。
「僕に何の用だ」
 直接コンタクトを取ってくるなんて、何か魂胆があるのか。今どこに潜んでいるんだろう。なんとか知る手段はないだろうか。
『何、いいところに招待しようと思ってさ』死柄木は楽しそうに言った。『でも大勢招待したくはねえんだよな。なあ、お前一人で来いよ、ヒーローデク。俺の居場所を調べようとか、余計な事すんなよ。通信は傍受している。そういう便利な個性を持った奴がいるからな。ヒーローにコンタクトを取ればすぐにわかるぞ』
「僕が行かなければ、どうするんだ」
『あー、そうだな。お前がもし1人で来なければ、ある街が一瞬で吹き飛ばされることになるな。B街のようにな。ニュースになってたろ。あれさ、俺の仕業だと思わなかったか?』
 ひゅうっと息を呑んだ。
 数日前、街一つが一瞬で消えた事件があった。現場にあったのは、地面ごと抉られたようなクレーターの跡。僕も現場に行ったけれど、クレーターの内側には広大な土地が広がっているだけで、被害者も手がかりも、何一つ見つからなかった。犯行声明もなく、原因不明の事件としていまだ調査中だ。
 だが、現場に残されたコンクリートの外壁の欠片は、触れただけで粉々に砕けた。瞬間、死柄木の個性が頭を過ったのは確かだ。
「お前が首謀者だとしたら、何のためにやったんだ!」
『かっかすんなよ。なに、ちょっとした実験だよ』
「実験…?実験なんかで、そんな」
 あの事件は、やはりヴィラン連合の仕業だったのか。いや、現場に手掛かりがなかったように、ヴィラン連合の仕業だという証拠も何一つないのだ。騙っている可能性もある。奴らは無関係な事件に便乗して、僕をおびき寄せようとしているのかもしれない。
『どうした?返事がないぞ、おい。どうしようかなー。そうだ、1時間後に実行することにしよう。またニュースになるよなあ。知ってて見殺しにしたなら、今度はお前のせいだぜ。なあ、どうする、ヒーロー』
 明らかな罠をちらつかせながら、死柄木は言った。
「わかった」そう答えるしかなかった。「何処に行けばいい」
『場所は教えられないな。先回りされちゃ面白くないだろう。ルートは道中指示してやるよ、さあ、パーティと行こうじゃないか』
 通話は切れた。ざらっとした嘲笑い声が耳に残った。
 たとえ行ったとしても、奴らが約束を守るだろうか。でも、本当にヴィラン連合の仕業だとしたら、現地に行けば惨劇を阻止できるかも知れないんだ。少なくとも街を破壊する理由はなくなるはずだ。ヴィランは街の人達じゃなく僕を狙うだろう。
 敵が大勢いても片っ端からやっつけよう。大丈夫、OFAがあればなんとかなる。一方的にやられたりするものか。


 僕は携帯をしまった。
 ここは街中だ。隔絶された場所じゃないんだ。たとえ外部に通信できなくても、ヴィランによって騒ぎが起これば、きっと近隣のヒーロー達が駆けつけてくれる。
 僕はそれまでもちこたえられればいい。
 歩行者専用デッキを降りて、バスロータリーの周辺を用心しながら歩く。バスやタクシーの運転手、待合場所に並ぶ人々、一般人に怪しげな人はいないようだ。
 死ぬかもしれない、と思った。だからOFAは譲渡した。
 行き先を掴ませないようにする措置だろう。路地を進ませたかと思えば、ビルの上に行くよう指示されたり、行きつ戻りつ、右に左にと迂回させられた。その間ひとりのヒーローにも遭遇することはなかった。彼らが巡回していそうな場所は、巧みに避けられていた。
 けれど幸いにも、経路の途中に洸太くんの通う中学校があった。一か八か、お手洗いに行くと偽って学校に立ち寄り、こっそり彼に会うことができた。彼は未成年で一般人だから、彼らもその存在を知らない。故に接触することが出来たのだろう。
 とはいえ、猶予はほんの数分。詳しい説明は一言二言で、ほとんど髪の毛を一本ちぎって差し出すことしかできなかった。しかし、個性の譲渡という突飛な話を、彼は真剣に聞いてくれ、快諾してくれた。
 胸が痛んだ。林間学校の一件から、彼は両親への蟠りが解けて明るくなった。ヒーローを目指すようになり、来年は雄英の入試を受けるときいた。でも彼にはヒーロー向きの立派な個性がある。無個性だった故に、望んでOFAを継承した僕とは違うのだ。望んでいるわけではないのに、押し付けるようなことをしてしまった。危険に巻き込んでしまうというのに。
 歴代の保持者も、後継者に悩んだのだろうか。誰でもいい。ヒーローに連絡できたなら、彼を巻き込まずに済んだのに。

―自殺志願かよ、クソが!

 幼馴染の声が脳裏に響く。
 かっちゃんはどうしているだろう。暫く会ってないな。君ならきっと僕を罵倒するだろうな。
 我ながら不思議に思う。こんな時でも思うのは他の誰でもない、君のことだなんて。死地に向かう前に、一目でもいいから、君に会いたかった。
 まるでほんの数日前であるかのように、鮮やかな思い出が脳裏に去来した。
 幼い頃から雄英卒業の日まで、同じ時を過ごした君との、酸っぱくて、苦くて、痛い、すれ違いの思い出の数々。和解してからの和やかで幸せな日々。OFAの秘密を共有する者として、関わる機会は前よりぐんと多くなり、時々言い合いをすることもあった。けれども、それもまた、対等になれた証と思えて嬉しかった。
 そういえば、卒業式の日のことだ。君はあの時、何を言おうとしたのだろう。


 式が終わり、卒業証書を手に講堂を出た僕は、ふと渡り廊下で立ち止まった。
 幼いころから憧れた雄英高校。3年間の学校生活は長いようで、あっという間に過ぎてしまった。校門を出ればもう雄英の生徒ではなくなる。立ち去りがたくて、足が動かなくなった。
 扉の側の花壇を何気なく眺めた。僕の背後を、みんなが通り過ぎていった。
 花壇に植えられた樹には、ふっくらとした蕾がいくつも付いていた。どんな花が咲いていたんだろう。
「ぼさっとしてんじゃねえ。クソデク!何見てやがる」
 通りかかった君は、立ち止まり、僕に問うた。
「かっちゃん。いやその、この木は入学した時からあるけど、前はずっと丈が低かったのにねって思って」
「ああ、杏の木だ」君は花壇に顔を向けて言った。「まだ花咲くには早えな。三月下旬に薄紅の花が咲くんだ」
「かっちゃん、なんでもよく知ってるね」
「そのくれえ、常識だっつーんだ!てめえはなんで知らねえんだ」
 みんながみんな知ってるとは思えないのだけど。知ってて当たり前のような物言いは、実にかっちゃんらしい。
「そっか、花が咲く前に卒業だね。毎年咲いてたんだろうけど、気づかなかった。見たかったな」
 満開の淡い紅の花はきっと華やかで綺麗だろう。たとえ誰にも気づかれなくても、密かに蕾をつけてまた花は咲く。

 あんずよ花咲け
 地ぞ早に輝け
 あんずよ花着け
 あんずよ燃え

 室生犀星の詩だったろうか。小学生の時に国語の授業で暗記させられた。
「おい、クソデク」耳元の側から声が聞こえた。
 いつの間にか、かっちゃんは肩が触れるほどに、側に寄ってきていた。吃驚して胸が跳ねた。
「俺は卒業後はK市に行く」かっちゃんは言った。
「そっか、遠いね」離れた土地だ。飛行機でなければ何時間もかかる。簡単には会えなくなる。
「てめえとの腐れ縁もここまでだ、デク。もうてめえの面を見なくて済むと思うと、せいせいするわ」
 なにかと思えば、卒業だというのにそんな憎まれ口。かっちゃんらしいけれど。
「そうだね。物心つかない頃から一緒だもんね。長い付き合いだったね」と調子を合わせた。「かっちゃんとは色々あったね。遊んだり、揶揄われたり、虐められたり、喧嘩したり。それから、和解したり」
 思い出せば、僕の人生のどの場面にも君がいた。
「てめえの秘密を知ったりな」
「うん、それは僕のミスだけど」
 君に嘘をつきたくなくて、隠さなきゃいけないってことを忘れた。「でも僕的には、秘密を知っている人が同じ学校にいること、すごく心強かった」
「は!てめえは迂闊なんだ。あの後もたびたびボロを出しそうになってたろうが。もう俺はてめえの尻拭いはできねえぞ」
「う、うん、気をつけるよ」
 卒業すれば、もう別々になるとわかっていたのに。
 寂しいと思う心にこっそり蓋をして、僕は綻びかけた杏の蕾に目を移した。
 蕾を見ているうちに、言葉がするっとこぼれ落ちた。
 言うつもりじゃなかった言葉。
「僕はね。かっちゃんとは、ずっと一緒なんじゃないかと、心のどこかで思っていたんだ。おかしいよね」
 良くも悪くも心の中には、いつも君の定位置があった。僕のとても柔らかい部分に隣接した場所。君だけにかき乱される場所。
 そこがいずれ誰かに取って代わる日が、来るのだろうか。
 くだらねえと揶揄されるかと思ったけど、君は何も言わなかった。会話は途切れた。渡り廊下を通る生徒も、ひとりふたりと少なくなった。そろそろ行かなきゃならない。
 歩き出そうとしたその時、君は僕の腕を掴んだ。
「まだ話は終わってねえ」
 そう言って、痛いくらい掴んで離さなかった。
 視線が交錯した。真っ直ぐに睨んでくる赤い瞳に囚われた。
 君の口元が歪んで、少し開いた。でも言葉はなかなか継がれなかった。布越しにも君の高い体温が伝わった。強い視線を、息を止めて見つめた。
「おーい、緑谷」
 誰だっただろうか、クラスの友達に名を呼ばれた。
 クソが、と呟く声とともに、腕の拘束は解かれた。そのまま踵を返して、君は立ち去った。
 あの時の君の言葉の続きを、いつか聴くことができるだろうか。

 

 ひらひらと、目の前を薄桃色の花びらが舞った。
 桜の花?こんな季節に花びらが散るなんて、狂い咲きなのだろうか。周囲を見渡してみたが、近くに桜の木は植えられてはいない。
 思案する暇もなく、あっという間に、辺り一帯が桜吹雪に包まれ、僕を中心にして渦を巻いた。
 ヴィランの攻撃なのか。しかし、周囲の通行人は平然としている。この花吹雪は僕にだけ見えてるらしい。ではこれは幻覚だ。いつの間にか敵の個性にかかってしまったのだ。
 側を通り過ぎたはずの男が、ぶらぶらと戻ってきた。しかし桜吹雪で顔がよく見えない。
 突然、男は拳を握って殴りかかってきた。身構えたが、押し寄せる桜の花弁に視界を遮られる。距離感が掴めない。
 だが、パンチは僕の方が早い。
 花弁の隙間から見えた拳を避けて、男を殴り倒す。
 風圧で桃色の欠片は散らばり、空気に溶けるように消えた。
 目眩しの個性か。しかし、このヴィランを倒したからといって、当然終わりではないようだ。横道からヴィランが数人現れた。背後からも迫ってくる。
 一人対大勢では分が悪い。個性で一気に吹っ飛ばすことはできるけど、歩道を歩いている人を巻き込んでしまう。
「危ないです!避けて」と声を上げた。近くを歩いていた人は気づいて、足早に離れてくれたが、離れたところにいる通行人は、こちらに全く気づかない風情で平然としている。インナーヘッドホンでもつけているのだろうか。これではスマッシュは撃てない。
 じりじりと囲まれるように逃げ場を塞がれ、追い詰められる。一旦引こう。
 僕は背後のビルの中に駆け込んだ。エントランスは広く吹き抜けになっていて、エスカレーターが3、4階まで長く伸びている。
 ビルの中で働いている人に迷惑をかけてしまうけれど、外部に連絡してもらえる可能性がある。
 追ってきたヴィランを倒して、エスカレーターを駆け上がる。ヴィラン達も怒号をあげながら上がってきた。追いつかれる。
 3階に上がりきる途中で振り向き、指を弾いてスマッシュを撃った。出力は抑えたが、ヴィラン達は折り重なるようにして、1階まで転げ落ちていった。
 すぐにまた追ってくるだろう。時間稼ぎにしかならない。非常口かどこかから脱出して、体制を整えよう。一般人のいるビルの中で、そうそうスマッシュは撃てない。肉弾戦で一人一人倒していくしかない。
 階下にはヴィラン達が続々と集まってきている。何人相手にすればいいんだろう。
 エスカレーターが途切れたので、通路に入った。片面は壁が硝子張りのオフィス、片側にはドアが並んでいる。
 なんだろう。通路に人の頭部大の水の玉がいくつか浮いている。立ち止まって、後ろを振り返った。ヴィランは追ってきていない。用心しながら水玉に近寄ってみる。なんらかの個性には違いないけれど、この水玉は罠なのか?ほっといた方がいいのか?破壊した方がいいのか?
 僕に気づいた男の人が、硝子の向こうからこっちを見た。他の人にも伝えているようだ。「隠れて」と叫んだが、中年男性が「ちょっと君」と言いながら、オフィスから出てきた。
 彼の側に水玉が近づいてゆく。警告する間もなく、男性は「なんだ?これ」と言い水玉に触れた。
 途端に、水玉が砕けるように割れる。
 解放された水は生き物のようにくねり、男性の頭を包みこんだ。
 やはり罠だったのか!
 男性は水玉の中で泡を吐き、倒れて苦しげにもがいている。外せないかと水玉に入れた指は、ざぶざぶと水をかき混ぜるだけで、取ることはできない。
 この人が窒息してしまう。どうすればいい。風圧ならば一気に吹き飛ばすことはできるだろうか。
 迷ってる場合じゃない。危険だけど試してみるしかない。
 注意深く顔を避けて、小指を曲げて慎重に弾き、スマッシュを撃つ。
 水玉は弾けて蒸発し、男性は苦し気に咳き込んだ。
 騒めくオフィスの人々に「危険だから、出てこないでください」と声をかける。男性の背中をさすり、無事を確認する。
 安堵して、ふう、と息を吐いて立ち上がった瞬間、うっかり背後に浮遊してきた水玉に肩が触れた。
 まずい!と思う間も無く水玉は割れ、中の水が僕の頭を覆うように広がった。
 咄嗟にスマッシュで弾き、背後に跳ねて距離を取ったが、今度は別の水玉が足元にぶつかった。
 破裂して中から出た水は、右足に絡みつき、絞るようにぎゅっと水圧をかけてきた。足を振っても水玉は取れない。筋肉が潰されそうだ。スマッシュで水玉を吹き飛ばす。
 脚を摩り、曲げてみる。骨が折れてはいないみたいだけど、今ので右足にダメージが入った。締められた脹脛が痛む。
 他にも誰かがこの水玉に触れると危険だ。一気に吹き飛ばしてしまわないと、犠牲者が増える。
 僕は廊下の向こうの窓に向かって構えた。ガラス張りのオフィスには風圧がかからないよう、角度を調整する。
 2つ指を曲げて構えて、スマッシュを撃った。
 窓硝子が割れ、浮かんでいた水玉は全て外に吹き飛ばされた。水玉は散開し、細かい飛沫となって、蒸発した。
 これで大丈夫だ、と一息つく間もない。「奴がいたぞ!」と怒鳴り声が聞こえた。今のスマッシュでヴィランにみつかってしまったらしい。
「騒がしいな、一体なんだ」とぼやきながら、硝子張りではない向かい側のドアから、中年の男性が出てきた。
「出てきちゃダメです、ヴィランがいる。逃げて!」と声をかけた。だが遅かった。角から1人のヴィランが現れて、ダッシュでこっちに走ってきた。
 ヴィランに気づいた男性は硬直している。間に合わなかった。今は男性をヴィランから庇いながら戦うしかない。
 ヴィランは腕を広げ、掌からいくつも水泡を吹き出した。水泡はみるみる大きくなり、僕の頭を狙って浮遊してくる。
 水玉の地雷を出すヴィランはこいつだ。
 怯える男性を背後に隠し、水玉を避けて、スマッシュを撃てるように構える。じりじりとガラス張りの壁を伝い、ドアに辿り着く。
「入ったら鍵を掛けてください」と囁き、素早くドアを開けて、男性をオフィスに押し込んだ。
 よし、身軽になった。
「は!遅えよ、ヒーロー」
 ヴィランの勝ち誇った声が聞こえたその瞬間、とぷんと水泡が頭を包んだ。冷たい。目の前が歪み、息ができなくなる。
 ヴィランが近づいてきた。とどめを刺すつもりだ。水泡を出し、相手を窒息させる危険な個性。
 だが、予期していたことだ。
 水を吸いこまないように、息を止めて蹲った。ヴィランは油断している。
 今だ。
 くるっと身体を起こして振り向き、男の脛を蹴って足払いをした。倒れたところで腹に鋭く蹴りを入れる。ヴィランは避ける間もなく、吹っ飛んで昏倒した。
 水玉のヘルメットは霧散した。呼吸出来るようになり、大きく息を吸い込む。他の水泡も蒸発していく。これで罠もなくなった。
 立ち上がり、オフィスの人々に声をかける。
ヴィランが大勢侵入してきてます。ここは、危険です。外に避難できればいいんですが、危険なのでまだ外に出ないで、今は隠れてください」
 僕が移動すればヴィランも続いてくる。その後なら避難できるだろう。
「なんとかヒーローに連絡できませんか」硝子越しに先ほどの男性に問うた。
「そうしたいところなんだが、朝から携帯もパソコンも不安定なんだ。市内では問題ないんだが、まだ外部には連絡できなくてね。午後には復旧すると市から通達があったんだが」
「恐らく偽の情報だと思います」
 硝子の向こうから、溜息と共に返事が返ってきた。「これからどうなってしまうんだ」
「大丈夫です。僕がいます」
 何の根拠もないけれど、男性に向かって微笑む。僕はヒーローだ、みんなを不安にさせちゃいけない。とりあえず危険な水玉の地雷は吹き飛ばしたんだ。後は僕がここから離ればいい。
 廊下に出ると、左右からヴィランの怒号が聴こえてきた。挟み撃ちだ。どっちにも行けない。正面の非常階段のドアを開け、階段を駆け上がる。
 いきなり脹脛に突き刺されたような痛みが走った。
 何が起こった?
 見ると、右足脹脛が黒い棘に貫かれていた。棘は床から突き出したのだ。足の裏は靴底に守られたが、脹脛は防げなかった。棘を折って引き抜くと、血が吹き出して布地に染み出てきた。
 棘の生えてきた場所を確認する。何の装置もないように見える。けれども、足元にいくつもの丸い黒ずんだシミがある。見上げると、上も壁も、階段一面に黒いシミが浮き出ている。ここも罠が張られていた。誘い込まれたのだ。
 階下から大勢のヴィラン達の声が轟いてきた。引き返せない。
 黒いシミは避けきれない。ならば棘に貫かれるより早く移動するしかない。
 勢いよくジャンプして、天井を蹴る。
 シミから棘、が僕を狙って飛び出した。
 棘をかわして、壁に向かってジャンプする。
 床から棘が勢いよく数本伸びてきた。
 腕を払って棘を折り、床を蹴って壁に跳ぶ。
 しまった、シミを踏んでしまった。棘が飛び出てくる。
 先端が身体に届く前に、反対側の壁に跳ぶ。
 反動をつけ、壁や天井を蹴り、次々と跳ねて、階段を上る。
 シミを踏まないようにしていたのだが、影にも反応するようだ。通り過ぎるそばから、床だけでなく天井や床からも、棘が飛び出てくる。
 鋭い切先が服を破り、身体を掠める。手足が棘に貫かれ、血が階段に飛び散る。
 駆け抜けたのは、ほんの数秒のことだったろう。ようやく最上階に辿り着いた。水玉と棘でダメージを受けた右足を引き摺りながら、屋上のドアを開ける。


 見えるのは広く開けた遠い風景だった。
 白いコンクリートの床にヘリポート。このビルは歩行者歩道から見えた、唯一の高層ビルだ。周囲からぽんと浮き出た塔のようなビル。
 疎らにあった雲はもう何処かに消え、青ざめた空はどこまでも広がっている。
 蒼い牢獄だ。
 最上階に上ってきて、僕はどう脱出しようと思ったのだろう。地上から何十、何百メートルあるのだろうか。負傷した身では、ここから落ちれば流石にただでは済まない。
 ヘリポートに助けが来るわけがない。ここには僕の他にヒーローはいない。下からはヴィランが追って来ている。轟くような大勢の足音。敵の人数が膨れ上がっているのがわかる。
 開け放したままのドアから、ヴィラン達が現れ、下卑た笑みを浮かべた。
「行き止まりだぜ。観念するんだな」
「飛び降りてみるか、ヒーロー。うまく着地できれば助かるかもしんねえぞ。下には俺たちの仲間が待ってるがな」
 迫ってくるヴィラン達を睨みつけ、フルカウルになる。右足にずきんと痛みが走った。棘と水玉から食らったダメージだ。この状態でどのくらい戦えるだろう。
 空を仰ぐ。天空には遮るもののない太陽。
 あの日も空は澄んで青かった。
 太陽のようだと憧れた
 あんな風になりたいと思った
 眩しくて、触れたくて、手を伸ばした。
 自惚れてたのかな。1人で攻略できると思ったなんて。
 僕はこのビルに誘い込まれたのだ。いや、この街に到着した時から、死柄木からの携帯に出た時から、初めから罠は張られていたのだ。
 でも、他に方法は思いつかなかった。もし行かなければ、死柄木は住んでいる人々諸共に、この街を破壊しただろう。駅の周りにいた人達も、さっきこのビルで会った人達も、塵にされてしまっただろう。それをわかっていて見殺しにするなんて、僕にはできなかった。たとえ罠だと解っていても。

 お母さん、ごめんなさい。
 オールマイト、ごめんなさい。
 この結果は僕が選んだんだ。
 他のヒーローなら、どうしただろう。
 オールマイトなら、どうしただろう。
 かっちゃんなら、どうしただろう。

 獲物を追い詰めた優越感だろう。ヴィラン達は僕を取り巻くように広がり、ゆっくりと迫ってくる。

―てめえは阿呆だ。緻密に計画するくせに、土壇場で考えなしに飛び出しやがる

 かっちゃんに何度も怒られた。成長してないな、僕は。
 1人でどこまでやれるだろう。でも、むざむざやられたりしない。僕は逃げに来たんじゃない。戦いに来たんだ。負けるものか。足掻いて藻掻いて、最後まで戦い切ってやる。 フルカウルのパーセンテージを引き上げる。
 25パーセント、50パーセント。
 全身の筋肉が弾けて、血液が沸騰するみたいに感じる。
 80パーセント。

「緑谷!」
 空耳だろうか、僕を呼ぶ声が聞こえた。聞き覚えのある声。
 見上げた空から白い何かが、孤を描きながら、飛んでくる。
 飛行機雲?いや、縄のような何かのような。
 考えている内に、飛んできたものが蛇のようにしなり、腰回りにぐるりと巻きついた。
 これは、縄じゃなくて布だ。
 ぐんっと凄い力で白い布に引っ張られ、勢いよくビルの手すりの側に引き寄せられる。更に引っ張られて身体はホップし、手すりを越えて高く宙に浮遊する。
 視界に映る景色が青い空から逆さの街になった。
 真っ逆さまにビルから落下していると気づき、僕は悲鳴を上げた。
 まずい、ヴィランがまさか、ビルの下から来るなんて思わなかった。
 落下しながら、なんとか外せないかと、拘束する布を掴んで気づく。
 待てよ。よく見ると、この布は見覚えのある色と感触をしている。相澤先生の布に似ているような。
 まさか先生が来てる?
 アスファルトに叩きつけられると思って目を瞑った瞬間、誰かの腕に抱きとめられた。
「ドンピシャ!」
 聞き覚えのある別の誰かの声。薄目を開けると、いくつもの懐かしい顔が見えた。雄英の同級生の面々だ。安堵した表情で僕を取り囲んでいる。抱きとめてくれたのは飯田君だ。
「みんな!」
「全く、お前は馬鹿か」
 隣でふわふわと浮いている男が、静かに呟く。白い布がするすると解かれ、彼の首に巻きついて襟巻き状になる。
「え?心操くん?」
ヴィランを洗脳して、このビルに案内させてなきゃあ、やべえとこだったぜ」と心操くんは言い、「おい、解除してくれ」と麗日さんを振り見て、地面に降り立った。
「危なかったな、緑谷くん」飯田君の心配げな声。息が上がっていて、青ざめている。
「飯田がダッシュして、抱きとめたんだ。と轟君が説明する。
「何処に落ちても受け止められるように、ネット張ったのによ。いらなかったじゃねえか、飯田」
 瀬呂君が呆れたように笑う。見ると、ビルの玄関口付近には瀬呂君のテープが、大きなハンモック状に張り巡らされている。
「僕はビルの屋上から落ちたんだよ?すごいGがかかったよね。飯田くん、腕は折れてない?大丈夫?」
「問題ない。抱きとめる瞬間に麗日君が軽くしてくれた。レシプロバーストを使ったから足はエンストしてるが、大丈夫!すぐ復活する」飯田君の脹脛からは黒い煙が上がっている。
「無理してくれたんだ、ごめん。ううん、ありがとう」
「間に合ってよかったよ、立てる?」側で麗日さんが泣き笑いの表情を浮かべている。
 皆が駆けつけてくれた。
「どうした、緑谷君、目が潤んでるぞ。痛いのか」
「ううん。ヒーローが来てくれるってことは、こんなに嬉しいんだなって思って」
「ばっかだなあ、お前もヒーローだろ、緑谷!」切島君が言う。「俺たちは仲間を助けに来たんだっての」
 ビルの前庭の木立の中に連れていかれ、木の幹に寄りかかるように降ろされた。
「どうしてここがわかったの」僕は問うた。誰にも告げてないし、僕自身到着するまで何処に連れて行かれるのか、わからなかった。
「最初から話そう。洸太君が連絡してくれたんだ」飯田君が言った。「君がどこにいるのかも、何が起こったのかもわからないから、誰も信じてくれない。でも緑谷君が危ないらしいと」
「皆に一斉送信して、返信きた奴に声をかけて、皆でヴィラン連合の奴を手当たり次第に捕まえたんだぜ。勝手に動いたりして、上司のプロヒーローに見つかったらやべえけどよ。奴らの誰が情報持ってるかわかんねえしよ」上鳴が言った。
「捕まえてしまえば、後は心操の出番だ」と切島がくいっと指で示す。「こいつが一番の功労者だぜ。片っ端からヴィラン連合の奴を洗脳して、計画を知ってる奴を見つけ出して、ここまで案内させたんだ」
「すごい!心操君の個性はほんとにすごいな」
 ヴィラン向きの個性だと悩んでいた心操君。味方にいればこんなに頼もしいんだ。
「もうすぐ他のプロヒーローも来る」照れたのか、心操君はそっぽを向いてしまった。「1人で戦ってんじゃねえよ。緑谷」
「触るけど、痛くねえか」瀬呂君がテープをちぎって、僕の腕をそっと掴んだ。
「大丈夫。そんな痛くないから」
「今は縛るくらいの応急処置しかできねえけどよ。リカバリーガールが来たら、ちゃんと治療してもらおうな」
 棘に裂かれた傷は深くはないが、思ったより多い。手足の出血箇所にテープを巻かれなら、ちらちらと周りを見回す。
「爆豪は来てねえんだ。連絡つかなくてよ」
「え、僕は何も、かっちゃんなんて、誰も、探してないよ」
 心を読まれていたのかと慌てて、しどろもどろに言葉を紡ぐ。
「ま、連絡ついても、あいつのとこからは相当距離あっから、来るのは難しかっただろうけどな。爆豪がいりゃあ、強力な戦力になんだがな。よし、済んだ」
 瀬呂君はビルの方を振り向いて言う。「これから始まんだからよ」
 怒号が近づいてくる。ヴィラン達がビルの入り口から出てきたのだ。僕を逃してしまい、屋上から引き返してきたのだろう。
「おいでなすったな。行ってくるぜ。緑谷は暫く休んでろよ」
 皆がビルの入り口に押し寄せ、ヴィラン達を取り囲んだ。今や彼らは顔の知れたプロヒーローだ。ヴィラン達は思わぬ事態に怯んで、散り散りになって逃げていく。
 その時、街の中で爆発音が轟いた。
 爆発は次々と連鎖的に響き、地面がぐらぐらと揺れる。一瞬かっちゃんが来たのかと思った。だが人々の悲鳴が聞こえてくる。違う、かっちゃんなわけがないじゃないか。ヴィランの別働隊だろう。
「はいはい、うぜえヒーローどもが。羽虫みたいに湧いてきやがって。まあいい、ならばプランBに移行するだけだ。精々プロヒーローを集めろよ。シビルウォーはこれからだ」
 死柄木の声が、街頭スピーカーから流れてくる。
「俺は向こうに行くぞ」轟君が爆発のあった方向に走ってゆく。
「やはりヴィラン連合か。皆、気を引き締めるんだ」飯田君はトントンと足踏みする。「大丈夫、足は回復してきた。僕も行ってくる」とダッシュして轟君に続いた。
「ああ、これからだな、プロヒーローが来る前に、すこしでもヴィラン共の頭数を減らしとこうぜ、なあ、皆!」
 切島君が拳を握って振り上げ、皆が肯く。
 さらに爆破音が轟き、それと共にそこかしこのビルから黒煙が立ち上り、空を墨を吐いたように禍々しく染めてゆく。ヒーローたちはそれぞれの戦場に散っていった。
 腕をついて身体を起こす。ずきっと痛みが走った。でも休んでなんていられない。戦闘に参加できなくても、避難誘導くらいならできる。
 不意に誰かに右腕を触られた感触がした。
 途端に腕が燃やされたように熱くなる。
 振り返って戦慄した。掌大の黒い空間から手が生えて、僕の手首に触れているのが見えた。
 ほんのゼロコンマ何秒の一瞬。
 危険を感じてすぐに手を引っ込めたが、グローブが崩れて、瀬呂くんのテープが粉になり、皮膚がパリパリと裂けて剥落してゆく。
「あー、残念。もうちょっとで塵にしてやれたのにな」
 ワープゲートから半身を出して、死柄木が笑っている。
「死柄木、やはりお前が!」
 二の腕まで皮膚が剥がれた。あかむけになった腕に血が滲んでくる。大丈夫だ。痛いけど動かせる。スマッシュは撃てる。
「俺のことより、いいのか?ヒーロー」
 死柄木は、くいっとビルに顔を向けた。促されるままに振り返る。ビルの中から悲鳴が聞こえてきた。僕が出てきたばかりのビルだ。そういえば、ヴィランは出てきたけど、中にいた人達は避難できたんだろうか。
「助けてやるんだろ、救えない人間はいないんだろ。ヒーロー。したいようにしろよ。邪魔はしねえよ。俺はこれから別件で忙しいんだ。行かなきゃならないところがあるからな」
 別件って何のことだろう。問い返す前にワープゲートが閉じた。何事もなかったかのように空間が揺らいで元に戻る。
「緑谷くん、何か声が聞こえたが……その腕どうした!血塗れになってるじゃないか。何があったんだ」戻ってきた飯田が驚いて言った。
「これは、その、大丈夫だよ。それより、あのビルに誰か残されてる。悲鳴が聞こえたんだ。僕が入った時、中に一般の人がいたんだよ。きっと避難出来なかったんだ」
「わかった。僕が行こう」
「ううん、僕が行く。さっき入ったばかりのビルだ。勝手はわかってる」
「デクくんは休んでて。ぼろぼろだよ」駆けつけた麗日さんも、心配そうな眼差しを向けてくる。
 またビルから悲鳴が聞こえる。
「大丈夫。僕が行かなきゃ」と走り出し、振り返ってふたりに笑いかける。「助けたら合流するから」
 ビルの中を駆け上がり、火の手のある階に向かい、悲鳴の聞こえてくる方角に向かう。オフィスのドアを次々に開けたが、誰もいない。いくつめかのドアを開けると、何人かの人が集まっていた。部屋の隅に縮こまって固まっている。
「大丈夫ですか」
 声をかけると、彼らはそろって一斉に振り返った。
 何かおかしい、ロボットのような動きだ。
 彼らの目から光りが消えた。顔がひしゃげて膨れ、ひび割れた表皮の隙間から光りが漏れ出た。
 人間じゃない。これは罠だ。
 人であったものの頭が次々と弾ける。
 閃光。咄嗟に腕で頭を庇った。
 右腕に千々に引き裂かれるような痛みが走る。破裂音と共にあたり一面が光に包まれた。


 この戦いが終わったら、かっちゃんに会いに行こう。
 煙たがれるかもしれないけど、罵倒されるかもしれないけど。
 でも、会いたいんだ。


 赤い雫が雪のように舞っている。
 僕の血飛沫なのだろうか。腕の手当てをしてなかったから、血管から溢れてしまったんだろうか。
 地面に張り付いて動かない腕から、ぽたりぽたりと雫が滴る。
 雫は跳ねて、群れをなした魚のように宙を遊泳する
 紅色の玉は日に透けて、宝石のようだ。華やかで綺麗だ。
 見ているうちに、赤い雫はいつしか花弁に変わった。花弁の幻を見せるヴィランの個性攻撃だろうか。
 揺蕩う内に花弁の色は薄紅色に変わってゆく。
 桃の花だろうか、梅の花だろうか。桜の花だろうか。
 横たわる身体に花弁が降り積もる。花弁は絨毯のように地面を覆っていく。身体は指ひとつ動かない。
「杏の花だ、わかんだろ」
 誰かの声が聞こえる。
 その声音は幼馴染に似ている。
 ああ、杏の花か。いつだかそんな話をした
 花吹雪の中に、誰かが立っている。
 誰なのだろう、首を傾けて目を凝らす。
 彼はこっちを向いて自分に話しかける。
「やっと咲いたんだぜ。クソナード」
 花が渦を巻く。花弁の雨の中にいるのは、会いたくて堪らなかった幼馴染。
 彼はこちらに歩いてくる。蹴散らされた花弁が足元を舞う。
「なあ、わかんだろ、デク」
 彼はすぐ脇に近づいてきて僕を見下ろす。
 笑っているんだろうか。怒っているんだろうか。逆光になってるから君の顔がよく見えない。
 回り込んだ光が、彼の輪郭を明るく縁取る。赤い血潮と同じ色の瞳が、とても綺麗だなと思う。
「まだ話は終わってねえ」
 蹲み込んで見下ろしてくる鋭い眼差しが、三日月のように細くなる。

 

 瞼の裏が明るい。
 ざわめきが聞こえる。
 重い瞼を開いてみた。
 茫洋と滲んでよく見えないけれど、うっすらと光を感じる。
 幾人かの人が僕を取り囲んでいるようだ。
 ここは何処なんだろう。
 次第に周囲がはっきり見えてきた。白衣の人達がひとりふたり、離れたところにも何人かいる。医務室か、病院の中だ。相澤先生とお医者さん、あと誰だろう、黒服の男の人。会ったことあるような気もするけれど。
 僕助かったんだ。
 壁一面の大きなガラス窓の向こうに、皆の顔が見える。すごく心配そうな表情でこちらを見ている。
 よかった、皆無事だったんだ。
 かっちゃんもいる。目を釣り上げて、ものすごく怒った顔してる。聞こえないけれど、怒鳴っているようだ。きっと僕を罵倒しているのだろう。
 君も心配してくれたのかななんて、勘違いしそうになる。
 心配ないよ。だって、生きてるんだ。
 生き延びることができたんだ。
 OFAはもう失われたけれど。みんながいる。先生達もいる。
 君がいる。
 ああ、大丈夫だって知らせなくちゃ。でも身体が固まってしまって、小指一本たりとも動かない。口の中も切ってるみたいだ。血の味がする。
 痛いなと思いながら、頬を上に上げる。

 僕はちゃんと笑顔を作れてるだろうか。

 

 END

 


 杏の花言葉
「臆病な愛 早すぎた恋」

物の怪の家

叔父が「樹病」に罹患し、入院したと、下の兄から連絡があった。
上の兄も飛行機の便をとって、今日中に駆けつけるという。乾は急いで一泊分の着替えを旅行鞄にまとめ、伴侶に連絡をして、特急電車に乗った。
同じ県内にある実家とはいえ、複数の市を跨いでおり、ほぼ県の端である。トンネルを過ぎるたびに、車窓から見える景色の様相が変わる。街並みを過ぎると緑の田畑が広がった。田畑の向こうにこんもりと緑に覆われた、古墳のような低い山が連なり、ゆっくりと通り過ぎていった。
 この景色を見たのは、もう何年前になるだろう。大学の時に出奔してから、家に戻ったことはない。
 駅からバスに乗り、病院に到着した。面会カードを書いて、HCLの扉の前で待機する。 暫くして入り口が開き、病室の廊下に通された。病室の引き戸は硝子張りであり、硝子窓の向こうに、枝葉の影が差した。
 部屋に足を踏み入れた。青々とした葉の色が目に入る。
 ベッドの上に叔父の身体が横たわっている。その手足の関節からは枝が生え、青葉が繁っている。樹病の症状だった。
「樹病」は、この地に特有の病だ。眠るように意識がなくなり、身体が樹木と化してゆく。意識が戻れば回復の見込みはあるのだが、大抵はそのまま、節々から枝が伸び、葉を茂らせ、樹となる。
 看護師が枝葉を払いながら言った。光合成ができるようになると、食事を必要としなくなります。胴が幹になるまで、何年もかかるでしょう。完全に樹化したなら、療養所に移ってもらうことになります。失礼ですが、ご関係は息子さんですか。
 息子と言おうとして、少し考えて答えた。
「私は甥です。幼い頃に父母が亡くなり、叔父の養子になりました」
「他にご家族は来られますか」
「従兄弟達…叔父の実の息子の2人が来るはずです。上の兄、下の兄と呼んでます」
「小さな子供は病室に入れないのですが、お子さんも来られますか」
「いえ2人とも未婚です。私は伴侶と子供がおりますが、今日は来てません」
 伴侶が同性で、子供は養子とは言わなかった。来ていないのだから、あえて言う必要はないだろう。
 父親である叔父、従兄弟であり、兄でもある2人。
 自分は幼い頃に両親を亡くし、父方の叔父の家族に、養子として引き取られた。
叔父と叔母は共働きで、2人とも帰宅は遅かった。叔父は言葉少なく、叔母ともほとんど会話することがなかった。我関せずの上の兄、我の強い下の兄。異邦人である自分は家に居づらく、学生時代の帰宅時間は自然と遅くなった。
 今となっては、生活的には分け隔てなく育てられていたと思う。亡き父の保険からだと言っていたが、大学の学費まで出してくれたことには、感謝している。
 家を出てから暫くして、叔父夫婦が離婚したと聞いた。その後、上の兄は遠方の大学を出て、その地で就職した。下の兄は家を出ず、実家の離れに住み、専門学校の時の仲間と、何か事業を営んでいるらしい。
 叔父はたまに連絡を寄越したが、叔母や兄達とは疎遠になっていった。


 背後で戸が開く音がした。兄達が病室に入ってきたのだ。
「久しぶりだな。随分と会ってないが、お前は変わらないな」彼らは言った。
 乾は言葉が出なかった。兄達の相貌が、昔と違って見えたのだ。違うどころではない。彼らは異形の姿をしていた。
 上の兄の顔は、目と口のあるあたりに、浅い窪みと僅かな鼻の隆起があり、まるで埴輪のような面相だった。手足はひょろりと細く短く、手は丸くて指がなかった。
 下の兄は鼻の上に、拳大の目がひとつだけあった。肩からは腕ではなく、三本指の付いた触手が、5、6本生えていた。触手の表皮は皺皺として、皺の間に何が黒いものが見え隠れしていた。
 長旅で疲れて、幻覚が見えているのだろうか。しかし、ゴシゴシと目を擦ってみたが、彼らの姿は変わらない。兄達が異形に見えるなんて、頭がどうかしたんだろうか。
 医師は彼らに、改めて叔父の様子を説明している。看護師も普通に接している。
 どうやら私にだけそう見えているらしい。幻覚だ、気のせいだと我慢し、平静を装って久しぶりだね、と返事した。
「幸い財産はあるし、賃貸や株も持ってるから、収入はある。長期入院でも大丈夫だ」
一つ目を瞬かせて下の兄は言った。「高額医療制度はありがたいな。ひとまず年金で足りそうだ」
 部屋いっぱいに繁ってしまうな、と下の兄は触手を使って、葉を摘んでちぎり、屑篭に捨てた。
「叔父は痛いと感じるんじゃないか」と言うと、下の兄は「爪や髪みたいなもんだろう。ほっとくと生え放題だ」と返し、甲斐甲斐しく剪定した。自分も下の兄と同じ様に葉を摘むと、自分がやるから、お前はしなくていいと言われた。
 兄達と共に病院から戻り、久しぶりに家の敷居を跨いだ。しかし、ゆっくりはしてられなかった。というのも、入院の報を聞いて、近所に住んでいる叔父の兄弟達が、かわるがわる訪問してきたのだ。慌ただしく応対し、夕方になってやっと一息つけた。
 居間に集まって卓を囲んで座り、下の兄にひとしきり、彼の行っている事業の自慢を聞かされた。話が済むと、下の兄は一つ目をぎょろりと見開いた。
「さて、これからのことを相談しよう。わかってるな。疎遠にしていたが、これからは兄弟で協力しなければならないからな」と言うとこちらを向いた。「お前の彼やらは来ないようだな」
「子供を見ててくれてるんだ」
「あ?お前たち男同士だろう。子供だと?」
「前に言っただろう。彼の兄の息子を引き取ったんだ」
「そう言えば、そんなこと言ってたな。一時的なのかと思ってたよ」一つ目を細めて、嘲笑うように兄は言った。「まだ家族ごっこを続けているのか」
 嫌な気分になった。わざわざこちらを不快にさせることを言う。昔から彼にはそんな癖がある。
 以前こんなことがあった。
 彼の甥を引き取ることを決め、伴侶になった時のことだ。それを実家に伝えた時、口頭で済ませようと思ったのに、下の兄は彼に会わせろと、しつこく迫った。仕方なく喫茶店で対面させたが、散々だった。
 下の兄は彼に嫌味を言い、失礼な態度を取ったあげくに、堂々と食事を奢らせたのだ。彼は終始穏やかだったが、私は恥ずかしく、彼に申し訳なく思った。
 兄は忘れているだろうか。私はよく覚えているし、忘れたりしない。それまでは彼とは触れ合うだけの関係だったが、その夜初めて受け入れた。
 居間の隣の襖を開けると、日本間があり、小さな仏壇が置いてあった。仏壇の隣の床の間には、華やかな花魁を描いた掛け軸が飾ってある。普通は書や縁起物や、山水や四季の絵を飾ることが多い。でも、叔父は自分の好きな絵を飾ったようだ。
 上の兄は掛け軸に顔を向けると「女郎の絵か。こんなの飾るなんてな」とさらりと言った。この掛け軸を叔父が気に入っていたことは、上の兄も知っている。
 たとえ思ったとしても、言わなくていいのに、何故わざわざ口に出すのだろう。不思議に思うとともに、上の兄に伴侶を会わせた時のことを思い出した。
 上の兄には彼とのことを電話で告げた。肯定でも否定ない、あっさりした返事が返ってきた。後日、上の兄に彼に会わせた。穏やかに談笑したが、彼が席を外した時に上の兄は「普通っぽくてホモには見えないな」とさらりと言った。悪気のない調子だった。だからこそ少し苛ついたが、兄の欠点だと思うことにして聞き流した。事なかれ主義の兄だが、時々デリカシーに欠けるところがある。
 自分の部屋は物置になっていた。ベッドの上に布団はなく、沢山の物が無造作に載せられていて、埃を被っている。
「とても泊まれそうにないね」
 下の兄はふん、と鼻を鳴らして言った。「いない人間の部屋を、そのままにして置いておくわけがないだろう。荷物を隅に寄せればいい。一晩くらい泊まれるだろう」
「いや、もう行くよ。ホテルの予約を入れてあるから」
もともと自分に泊まる部屋があるとは、思っていなかった。
じゃあ明日なと言って、上の兄は二階に上がっていった。彼はたまに帰ることがあるので、部屋はあるらしい。


 ホテルに到着し、シャワーを浴びて一息ついた。
 実家からホテルまでの道中、道ゆく人を眺めていたが、全て普通の人間に見えることに安堵した。兄達についても、きっと疲れていて、幻覚でも見たのだろう。
 昔からこの町には、物の怪が見える人や、妖怪を目撃したという人が、少なからずいた。樹病のような、特有の風土病もあるくらいだ。幼い頃から、さほど不思議に思わず聞き流していた。昔は獣と化して山に入る獣病や、羽毛が生えて鳥になる鳥病があったという言い伝えもある。
 乾が伴侶である彼と会ったのも、そんな話がきっかけだ。
 大学の頃に飲み会で、郷里の不思議話をしたら、近くに座っていた彼が乗り出してきた。彼は民俗学をやっていると言った。郷里の土地柄を知ると興味津々で、研究室に通ってくるようになり、よく雑談をした。そのうち自分のアパートに頻繁に来るようになり、ふざけ合っているうちに関係を持った。
 自分が同性相手にできるなんて思っていなかったが、一度許してしまうと触れ合うことに抵抗がなくなった。回を重ねてゆくごとに次第に当たり前になった。初めからそういう関係を望んでいたと、彼から言われた時には、既に恋人同士になっていた。
 携帯を開いて、伴侶から着信があったことに気づいた。折り返して電話をかけた。
「気づかなくてすまない。今ホテルの部屋だよ。さっきまでシャワーを浴びてたんだ」
「いや、構わないよ。随分遅くなったね。お疲れ様」
「あの子はもう寝てるのかい」
「ああ、ぐっすりだよ。さっきまでおやすみを言いたいからって、頑張って起きてたんだけどな」
「残念だな。僕も話をしたかったよ」
「帰ったらすぐ顔を見れるよ。明日は帰るんだろう」
「そのつもりだよ」
 通話を切ると、すぐに眠る子供の顔が送られてきた。ソファに横向きに頭を乗せて、ふっくらした頬がふにゃりと潰れている。疲労した心が和む。
 兄の子供だと彼は言った。
 彼の兄夫婦が事故死し、ひとり残された息子は施設に預けられていた。彼の両親は既に他界しており、家族の反対や経済的な事情などで、親族が引き取るのは困難だったらしい。学生の彼には、初めから面倒を見る話は来なかった。彼の頭越しに親戚同士で相談がなされ、子供はひとまず施設で様子を見ることになったという。
 付き合い初めてから数ヶ月経った頃だ。「甥に会ってくれないか」とその施設に連れて行かれた。
 彼が名を呼ぶと、先生に手を繋がれた子供が歩いてきた。まだ赤ん坊の面影があるが、彼によく似た、利発そうな面立ちだった。顔を見ていると、どんぐり眼と目が合った。子供は駆け寄ってきて自分の前に立ち、両手を突き出して抱っこを要求してきた。
 彼は苦笑いして、「図々しいぞ」と子供の頭を撫でながら、自分に向かって「いいか?」問うた。
「いいよ」と笑って答え、両脇を支えて持ち上げ、腕に抱えた。にこにこと笑う子供の軽さに驚いた。
「あの子をうちに引き取りたいんだ」
 帰り道で彼は言った。「時々逢いに行くんだけど、だんだん元気がなくなっていくんだ。もっと標準豊かな腕白坊主だった。あのままでいいと思えない」
 子犬のように軽い小さな身体。確かに、まだ庇護者の必要な子供だ。しかし。
「君1人で子供の世話をするなんて、難しいだろう」
「わかってる」彼は俯いた。「今の俺は学生だしね。でもやりようはあるんじゃないかと思ってる」
「そうか、あの子を可愛がってたんだね」
「いや、そうでもないんだけどな」彼はポリポリと頬をかいた。「長期休暇の時に実家で会うくらいだった。そうだな、自分にしかできないって思うからかな。説明しにくいんだが」
 困難であっても引き取ると、彼はもう決めているのだろう。
「偉いな君は。手伝えることがあれば、僕も手伝うよ」と答えると、彼は顔を上げた。
「なあ、相談なんだが。俺と一緒に住んでくれないか。君と共になら、あの子を引き取れると思うんだ」
 突然の申し出に、躊躇しなかったといえば嘘になる。つまり子供を引き取るかどうかは、自分にかかっているということだ。
 彼と同居することに異論はない。だが、この流れで同居することは、そのまま伴侶になることに等しい。それは付き合うことより、遥かに覚悟が伴う。
 でも、子供の境遇に、自分の生い立ちがダブった。叔父が引き取ってくれたから、自分は施設にはいかずにすんだのだ。
 幼い頃なので覚えていないが、通夜の席で叔父は、自分を引き取ると言ったそうだ。既に子供が2人いるのに、人1人を引き取るなんて、今思えば大変なことだ。
 彼の手助けは、自分にしかできないことではないだろうか。ある意味で自分の人生への、恩返しになるのではないだろうか。
「うん、いいよ」と答えると、彼は破顔してありがとうと言った。
「実はね、君の境遇を聞いたから、この子を引き取ろうと思ったんだ。誰かが引き取ってくれればいいのに、ほっといてはいけないのに、どうすればいいんだろうって、ずっと悩んでいた。学生の身では色々問題あるだろうけど、叔父や叔母に協力してもらってなんとかする。俺が自分の子供を持つことはないから、彼を引き取るのに都合はいいはずだしね。それからごめん」
「何を謝ってるんだ?」
「君がいればできる、そういう言い方をしたら断れないと思ったんだ」
「狡いなあ」正直に白日するのに呆れた。でも腹は立たない。
「ああ、俺は狡いんだ」
 2人して笑った。その後の彼の動きは早かった。彼は3人で住むための3LDKの新居を探して、引越しを済ませ、親戚に協力してもらって書類を作り、間もなく無事に甥を引き取った。
 彼の甥は借りてきた猫のようだった。だがそれはほんの一瞬で、すぐに新しい環境に慣れた。今や小さな猛獣のように、我が物顔で気ままに振る舞っている。だが寂しがり屋で、自分が持ち帰った仕事をしていると、くっついてくる。
 彼の申し出を受けて良かったと思う。意外な経緯だったけれど、自分にとって初めて、心安らぐ家庭を持てたのだから。
 時折、叔父のことを考える。
 兄の子だからといって、叔父は何故自分を引き取ったのだろう。彼と同じような義侠心からなのだろうか。
 定年を迎えてから、叔父は時々自分に会いにきた。家を出る前は、ほとんど話すことなかった叔父。会うのは育ててもらった恩義が大半を占めていた。だが、嫌々だったわけではなかった。家を出る前より、叔父とはずっと話しやすくなったからだ。離婚してから、気負いがなくなったのだろうか。
 叔父は会いに来ると、よく映画を見ようと言った。大抵駅で待ち合わせて、適当に近くの映画館に入って鑑賞した。当たり外れはあったが、叔父は楽しそうだった。
「だんだん兄に似てきたね。兄さんと歩いているようだよ」
 叔父はよくそう言っていた。
 彼と伴侶になることを告げた時、叔父は「お前はそうだったのか」と感慨深げに言った。同性なのが意外なのかと問うと「いや、違うよ。お前が伴侶を持つとは思わなかったんだよ」と微笑んだ。
 安心したよ、と言葉が続けられた。
 そんな叔父が樹病にかかるなんて、思いもしなかった。神頼みというわけではないが、近々神社に詣でてみようか。
 そういえば、巨樹崇拝の神社を訪れたことがある。伴侶は就職してからも、独学で民俗学を研究しており、趣味を兼ねてよく一緒に寺社を巡った。
 そこは樹齢数千年のクスノキの巨木を御神体とする神社だった。大樹は空を貫くほどに高く聳え、広く境内を葉影で覆っていた。大きなしめ縄を巻いた様は、まるで巨人のようだった。古代の巨人の樹化した姿なのではないか。郷里の風土病を思い起こして、そんな風に思った。
 彼は言っていた。
 民俗学では「遠野物語」のように、多くの怪異譚が収集される。物の怪を作るのは人だ。人の心が恐れから化け物を作り、病気や飢饉や不条理なことを、物の怪のせいにする。闇の中に見るのは、物の怪であり恐れだ。獣や病や不条理に命を奪うもの。未知のもの、隠されているもの。人の心の闇に見るのも恐れだ。恐れが物の怪を作ってきたんだ。
だが、ひょっとして、本当の物の怪がいて、それを見た人がいるのかも知れないね。


 翌日、ホテルをチェックアウトしてから、実家に行った。兄達が人間の姿に見えるのではないかと期待したが、彼らは昨日と変わらず物の怪に見えた。
 2人は居間で座って待っていた。
 今後の叔父のことを相談すると、下の兄は言っていた。しかし、遠方にいる自分や上の兄に、何ができるだろう。
 下の兄が一つ目でぎょろりとこちらを睨んで、意外なことを言った。
「叔母さんから聞いたんだが、父から掛け軸を貰ってるんだってな」
 平静を装っているが、何故か声に苛立ちが滲んでいる。
「ああ、家を出るときに貰ったよ。叔父さんの収集してた掛け軸から。でも一枚だけだよ。作者も不詳だし」
 どんな絵だと問われて、森の中に立っている小坊主が描かれた、流麗な筆致の水墨画だと答えた。小坊主の手から、紙のようなものが風に乗って舞い、背後に黒々とした、妖怪が潜んでいるような山が迫る。伴侶はそれを見て、三枚のお札のような絵だなと言っていた。
「三枚のお札」は、和尚からお使いを頼まれた小坊主が、途中である家に泊まり、家の主人の正体が妖怪だと知って逃げる話だ。その道中に、和尚に渡された三枚のお札を使うのだ。
 下の兄は憤慨した声で言った。
「その掛け軸はお前のものじゃない。こっちに寄越せよ」
「なんだって」
 いきなり言われ、驚いた。掛け軸は家を出る時に、叔父が餞別がわりにとくれたものだ。
 下の兄は威圧的な調子で、滔々と続けた。自分が父の貯金を仕切る。治療費の足しにするため父の金を集める必要がある。兄弟で援助金を出す可能性もある。掛け軸は父のもので、実子でもない者が貰う理はない。大した額ではないだろうが、父の治療費に充てるから文句はないだろう。
「なんだ?横取りするとでも思っているのか」
 口の端を上げて、一つ目の兄は嘲るように笑った。しかし目は笑っていない。そう言われて、かえって今まで思わなかったのに、疑念がわいた。
「財産は十分あると、昨日自分で言ってたじゃないか。大した額ではないという掛け軸まで、今換金する必要があるのか」
 腹を立てて言い返した。わかり切った嘘までついて、馬鹿にしてるのか。すると、いきなり下の兄は激昂した。
「煩い煩い!寄越せよ寄越せよ!」
 助けを求めて上の兄の顔を見たが、兄は何も言わない。埴輪のような顔は、まるで表情が読めない。
 その時、下の兄の身体が変貌し始めた。触手の表面の皺の間が次々と広がり、傷のように裂けていく。黒いものの正体がわかった。無数の目玉だったのだ。目蓋が開かれて、数多の目玉が一斉にこちらを睨んだ。
 この妖怪を知っている。百々目鬼というのではなかっただろうか。ぞっとして後退り、襖を開けて居間を出た。
 今見たものは、妄想なのだろうか、幻覚なのかだろうか。あまりに気味が悪い。
 私に続いて、上の兄が廊下に出てきた。部屋に戻れと言うのだろうか。下の兄は叔父のことで、気が立っているのかも知れないが、戻る気になれない。
「とても付き合いきれない。兄はあんたが支えてくれ」と上の兄に言うと、「必要ない。メールはしてる」とそっけなく返された。2人の兄は仲が良いと思っていたので、意外だった。
 上の兄は「あいつに掛け軸を渡してやれよ」と続けた。
 たかが無名画家の絵一枚に、何故拘るんだろう。下の兄は今や、叔父の貯金の全てを握っている。あんな掛け軸を売るほど、治療費が足りないわけがない。
 まず正確な財産額をこっちに伝えるべきだと言うと、兄は「大まかに知ってる。だが、何故お前が知る必要があるんだ」とさらりと言った。何度問うても不自然にはぐらかした。口止めでもされているのだろうか。
 私は憤慨して言った。
「本来、長男のあんたが実家に戻って、叔父の財産を管理すべきだろう。家を継いで墓や仏壇管理をするのもあんたなんだし」
「私は戻るつもりはない」
 上の兄の声色が初めて苛立ちを帯びた。
「実家は家に残ったあいつが継げばいい。財産も親も全部奴に任せる。着服しても全然構わない。私は何も言わない。そのかわりに面倒には関わらない」
 どこから声を出しているのか、のっぺりした浅い穴ぼこから、声が聞こえてくる。
「お前たち2人が揉めるのは面倒だ。あいつが欲しいと言うなら、そんな掛け軸なんか、さっさと渡してしまえばいいじゃないか」
上の兄の頭が風船のように膨張した。目鼻の位置にあった凹みが延びて、平らになってゆく。
「家の近所に親戚も住んでるし、友達も大勢いるだろうし、支え手は足りてるだろう。実際、近くにいない私たちには、任せる他に何ができるんだ」
 面倒だ面倒だと呟きながら、兄の姿は変貌していった。目鼻をかろうじて形取っていた凸凹がならされる。膨れて首も寸胴になり、滑らかな表面の肉塊だけの顔になった。
 背筋が凍った。この化け物はぬっぺふほふという妖怪だ。
 襖を隔てた居間から、寄越せ、寄越せと化け物の唸り声が聞こえる。面倒だ、面倒だと呟く上の兄の横をすり抜けて、廊下を走った。
 襖が乱暴に開け放たれた音が聞こえる。つんのめって転び、膝が震えて、立てずに這いずるように玄関に向かった。
 寄越せ寄越せ、面倒だ面倒だと廊下に響く声。
 廊下は遥か遠くまで、長く伸びていくように見えた。いくら進んでも玄関に届かない。
 化け物達の引きずるような、重い足音が追ってくる。
 漸く立ち上がれたものの、またつんのめる。つまづいては転び、よろめきながら立ち上がる。
 どこまで迫ってきているのか。確認したくても、振り向くことができない。姿を見たくない。
 寄越せ寄越せ、面倒だ面倒だ、と唸る声がどんどん迫ってくる。
 足音は大きくなり、足の裏に振動が伝わった。化け物の息遣いが、すぐ側に近づいた。

 

 目覚めると電車の中だった。
 身体に響く振動。向かい側の車窓に映る自分の姿。その向こうは暗闇。見渡したが、車両には自分しかいない。電車は自宅のある方角に向かっている。
 無人改札を通り、電車に乗った覚えがある。
 ほうっと胸を撫で下ろした。胸ポケットに振動を感じたので、携帯を取り出し確認する。掛け軸を返すようにという、兄からのメールだった。
 げんなりして、伴侶に連絡を入れる。
「まだ帰らないのか?」
 彼の声を聞いて、心の底から安堵した。
「今電車で帰ってるところだよ」
「お疲れ様。叔父さんはどうだった」
「よくなかった。入院は長引くだろうな」
「そうか。残念だね」
「叔父のことより、別のことで疲れたよ」
「なにがあったんだ」
 私は郷里で起こったことを、彼に話した。冷静にはなれなかった。相槌を打ちつつ、彼は聞いてくれたが、話終わると言った。
「化け物に見えるなんて、興味深いじゃないか」
「問題はそこじゃないよ」呑気な感想に脱力する。「笑い事じゃないよ。叔父の情報は共有するべきなのに、兄達は僕に隠そうとしてるんだ」
「そうかもな」と彼は軽い調子で言った。「もしそうだとしても、構わないんじゃないか」
「え、どうして」意外な言葉に、素っ頓狂な声が出た。
「別世帯を持ってる君は、彼らにとって家族から外れてるってことだ。彼らの利害は一致しているんだろう。財産を囲い込みたい者、責任を放棄して押しつけたい者、お互いのエゴが彼ら同士では都合が良い。暗に納得済なんだ。だったらいいじゃないか。任せてしまえよ」
「でも、隠して何の得があるんだ。不信感が湧くだけじゃないか。下の兄は嘘だと指摘しても、怒鳴って話がまるで通じないんだ」
「それは、君が同じ土俵に立ってないからだよ」
「土俵ってなんだよ」
 苛立ってきて言い返すと、彼は言った。
「エゴだよ。常識じゃない。エゴが彼らの土俵なんだ。彼らの目的は、自分のエゴを通すことだ。そのために、屁理屈を捏ね、嘘をつき、我を通し、激昂したフリをして誤魔化す。エゴを通すためには手段を選ばないんだよ。指摘しても通るわけがない。正論を言えるのは無関係な人間だけなんだよ。つまり、当事者なら、君も同じ土俵に立たねばならないよ」
「僕もエゴを通すべきだっていうのか」
「ああ、だがそれ以前に、君のエゴはどこにある。それを考えないで口出しするのは、筋が通らないよ。君はどうしたい。それによって、俺の言えることは違ってくるよ」
 私は考えた。郷里に来る前に思っていたことは、久々に会う気の合わない兄弟への不安。来てから思ったことは、同居家族が入院した下の兄への同情。今こうなって思っていることは。
「僕が望んでたことは不可能だった。いや、昔からそうだったのに、長い間見ないようにしてきたんだ」
「そうか」
 叔父の家に居場所はなかった。長く遠ざかっていたなら尚更、居場所などあるわけがない。元々なかったものができるわけがない。
「これ以上、彼らに関わりたくない。いや、関わるべきじゃないんだ。嘘をついて誤魔化して悪いとも思わない。そんな相手と関係の改善なんて無理だ。時間の無駄だ。誰に責められようとも譲れない。関わっても、自分をすり減らすだけなんだ」
 漸く吐き出すことができた。帰郷してから感じていた嫌悪。互いの在り方が不快で、どうしようもなく合わない人間はいる。不快でなくとも、他者でしかない人間はいる。他人なら切れても血縁は切れない。でも距離は置ける。避けられる。仕事上の付き合いではないのだ。
「彼らに妥協して、上辺だけでも穏便に協力する道もあるけどね」
「妥協すれば増長するだけだよ。兄は変わらなかった。今後も変わらないよ。それよりも、僕は君やあの子との家庭や、僕が大切に思い、大切に思ってくれる人達を大事にしたい。今周りにいる人やこれから会う人を大事にしたいよ」
「それが君のエゴだね」
「改めて考えたことはなかったけれど、そうだったみたいだ」
「なら、言えることは一つだ。彼らの欲しがるものを、渡してしまえばいい。そうすれば、もう彼らは君に用はないよ」
「叔父から貰った掛け軸を渡せっていうのか?」
「そうだよ」
「でも、あの掛け軸は僕にとって、叔父との繋がりなんだ」
 今なら思う。子供の頃からあまり話すことのなかった叔父。自分にとってあの掛け軸は、目に見える叔父の気持ちだったのだ。兄の言うような、ただの金品ではないのだ。
「わかるよ。だが君が自分で手に入れたものじゃない。下の兄は君だけがプレゼントを貰ったことを妬み、憤ったのだろう。金額以上に、君の言う叔父さんの気持ちこそが、許せないのだろう。もしも逆の立場なら君はどうする?」
 少し考えて答えた。「面白くはないだろうけど、納得するだろうな。それが叔父の意思だろうから」
「ああ、君はそういう人だね。良くも悪くも人は人、自分は自分だ。でもそう思わない人間もいるんだよ。彼は君にマウントを取らずにはいられないんだろう。得をするのが自分じゃないのが許せない人間。内に秘めるならまだしも、それをさも正論のように主張する人間はいるんだよ」
「よくわかるね。下の兄に会ったのは一回だけなのに」少し驚いた。
「あの時の君の下の兄は、たまたま情緒不安定なんだと思ってたよ。君の話を聞くと、あれが平常運転のようだね」とはいえ、と彼は続ける。「厄介だけど、そういう性質を一概に悪いとも言えないよ。事業をしてるなら、嫉妬深くて他を貶め蹴落とす人間は、成功者の一つのタイプだよ。味方なら頼もしいかもね。でも、標的になったらたまったもんじゃないな。ともあれ、君は彼にとっては標的にしかなり得ないようだね」
「でも、それでは、結局は下の兄の思う壺じゃないのか」
「いや、言いなりになって渡すのではなく、引導の意味で渡すんだよ」
「でも」釈然としなかった。兄の不条理に納得したように見えるではないか。
「三枚のお札の話を覚えているかい」彼は唐突に言った。
「うん…覚えてるよ。あの掛け軸の絵を見た時に、君が話してくれたね」
「妖怪から逃げるために、小坊主は和尚からもらった札を使うだろう。1枚使って自分の似姿を作って家から脱出し、1枚使って大川を作り、残りの1枚を使って火の海を作り、妖怪を足止めしながら、やっと寺まで逃げおおせるんだ」
「その後、追いついてきた化け物を、和尚さんが言いくるめて、退治してしまうんだよね。確か、騙して妖怪を小さくさせて、食べてしまうんだったね」
「ラストで和尚が退治する方法は、いろんなパターンがあるよ。大抵は化け物をやっつけてエンドだ。ともあれ、小坊主は和尚から渡された貴重なお札を、全て捨ててしまうだろう。それが化け物から逃げるためには、必要だったからだ」
 漸く彼の言わんとすることが、理解できた。和尚は叔父なのだ。
「僕が彼らから逃れるためには、僕も小坊主と同じように、貰ったものは捨てなきゃいけないというんだな」
「ああ。弟に渡せと言った、君の上の兄の言も一理あるよ。他人事とは言わないまでも、面倒なんだろうね。だから見ないし口も出さない。もう割り切ってるんだろう」
 ぬっぺふほふに見えた上の兄。だからあのような姿に見えたのだろうか。
「絵を渡してしまえば、下の兄は満足するだろう。特に実害があったわけじゃないんだろう」
「ああ、精神的にはまいったけれど、それはないな」
「なら貸し借りもない。関わりを捨てて、財産額は聞かず、全て任せてしまえばいい」
「ああ、でも」下の兄の言葉を思い出した。「兄が財産額を隠して、援助を要求してくるかも知れない」
「もし要求されたら、その時初めて財産額を聞けばいい。私人であれ公人であれ、情報を伏せてる相手に協力できるわけがない。けれども、その際には常識ではなくエゴで交渉すべきだね。どうすべきじゃなく、自分はどうしたいという土俵でね」
「普通はどうするものなんだろう」
「僕が知る限りだと、子の援助は親の財産を使ってからがセオリーだね。成年後見人をつければ株も土地も処分できる。それに隠したくても、相続の時に財産額は明らかになる。養子の君も相続人のひとりだしね。想像だけど、掛け軸は叔父さんの節税対策だろう。いずれ兄弟全員のためになったろうけどね」
「叔父の財産なんて、本人のために残らず使い切ればいいんだ。でも…」
「まだなにか、迷っているのかい」
「掛け軸を渡せば、気持ちが離れてしまって、もう助けようなんて思えなくなるだろう。それでいいんだろうか」
「助けようなんて、おこがましいと思わないか」彼は言った。「厳しいことを言うけど、君は自らの気持ちでしたいのではなく、常識や義務や憐みから、すべきだと考えてはいないか。自分の意思でないなら、そんなものは相手には不要だろう。誠意のない相手にでも、見返りなく損得なく動ける性質ならいいだろう。けれども、君はそんな聖人じゃないだろう」
「僕はそんなつもりじゃ」と言いかけて、思い到る。自分のエゴを考え、距離を置こうと決めたばかりではないか。「自分自身にとって、相手はどのくらい大切なのかってことだね」
「ああ。側にいる人とたまに会う人、ほぼ会わない人では存在の重さは違う。大切なものが違えば、気持ちは共有できないんだ」
 自分も上の兄も、叔父を親として大切に思っている。でも、同居している下の兄ほどではないだろう。上の兄や自分が家を出た後も、長年共にいたのだ。下の兄は、自分が叔父の葉をむしろうとしたら止めた。触れて欲しくなかったのだろう。自分が思うより、叔父は下の兄には大切な存在なのだろう。
 私にとっての彼やあの子のように。
「近くにいない人間にできることはあまりないね。ましてや合わない人間同士では尚更だ」
「そうだね。でも問題はあるのかい。君の上の兄はよく知らないが、問題なく生計をたてているんだろう。君の下の兄は同居して楽をしてたが、叔父さんは老後の生活に安心を得ただろうね。君も伴侶を持てて安心したと言われたんだったね。それでいいんだ。それぞれ違う生き方なんだからね。時を共に過ごす人は移り変わるものだよ」
 ぱんっと胸が晴れた気がした。心に占めていた兄達への憤りの面積が薄れていく。結局は自分の心の持ち方なのだ。
 下の兄は郷里に親類や仲間がいる。上の兄も遠方に仲間がいるだろう。私もこれから帰る家に家族がいるのだ。もうお互いの人生に、深く関わることのない他者なのだ。他者だとやっと気づけたのだ。
「でも少し残念だよ」溜息混じりに吐露する。「時が経てばもっと大人の付き合いができると思ってた」
「期待していたんだな」
「そうかもしれない。気は合わなくても、幼い頃から兄弟として育った。窮地には信頼できると思ったんだ」
 腹が立っていたのは、期待していたからだ。遠くからでも、微力ながら助けになればと思っていた。それがなくなった今やっと気づいた。
「実のところ君の助けなど、必要としていないのだろうね。何年も音沙汰ない遠方の者に、何も期待できないのが普通だ。ひょっとして初めは期待してたかも知れないね。でも今はもうないだろう。君を必要とするならば、そんな態度は取らないだろうからね」
 彼は続ける。「君は自分のせいだと思いがちだ。でも憐れみは不要な感情だ。きっかけは何であれ、嫌な思いをしたのは、君のほうなんだ。彼らはしたいようにしてるんだからね」
「再会した時は、協力しようとしてみえた。思い通りにならなかったのは、下の兄も同じなのだろうか」
 叔父から掛け軸さえ貰わなければ、伯母がそのことを喋ったりしなければ。
「もしも、はないよ。たとえ今回のことがなくても、いつかは嫌な思いをしたんじゃないかな。君は違和感を感じたんだろう」
「兄達が物の怪に見えたこと?」
「気持ち悪いと感じたのは、彼らの心が離れていることが、その顔に現れていたからだろう。別の生き物に見えるくらいに。少なくとも、君は心のどこかでそう感じていたのだろう」
 彼の言葉通りなら、再会した時から、絆は絶たれていたのだろうか。いや、会わない年月の間に、終わっていたのだろう。自分は三枚のお札の小坊主と同じように、ずっと物の怪の家にいたのだ。皮肉なことだが、争いの元となった掛け軸のお陰で、彼らが自分にとって物の怪であると気づいたのだ。
「彼らにとっても、僕はとうに異邦人なのだろうね。ひょっとして、彼らの目には、僕の方が異形の物の怪に見えているのかも知れない」
「それは思ってなかったな。聞いてみなきゃわからないところだ」
「ありがとう。楽になったよ」
 彼は携帯の向こうで笑った。
「よせよな。俺としては、君が辛い思いをするなら、彼らなんかに、関わらないで欲しいだけだよ。向こうがそうしたいというなら、好都合だ。俺もエゴで喋ってるんだ。悪いけど、彼らは俺にとっては他人だからね。君の方が大切なんだよ」
 騒がしい足音が聞こえる。あの子が部屋の中を走り回っているようだ。携帯に出たいとせがんでいる声が聞こえる。一緒に話ができるように、スピーカーモードにしてもらった。
「駅に着いたら連絡しろよ。迎えに行くからな」携帯の奥で優しい声が聞こえる。
「ああ、頼む」
 そうだ、物の怪の家から早く帰ろう。信頼できる人達が私にはいるのだ。
 三枚のお札の話で、小坊主の泊まった家にいたのは、化け物ではなかったのかも知れない。だがただの人間だったとしても、小坊主には化け物にしか見えなかったのだろう。化け物じゃないと自分を誤魔化すのではなく、化け物に見えるのなら、そう対応する他はない。
 掛け軸を渡せば、兄達は私にとって完全な他者となる。繋がりは蜘蛛の糸より細くなるだろう。結局は今までと同様に、あえて会おうとしなければ、会うことはない。
 もしいつか、彼らと会うことがあるのならば、お互いどんな物の怪に見えるのだろう。
 携帯をしまって、車窓の向こうを眺めた。家々の光を切り取って、黒い山の影が過ぎてゆく。行きの電車でも見た古墳群だ。
 樹病は郷里に、古代からある病だという。ならばこの地の神社の御神木は、巨人の身体なのだろうか。古墳に植えられている樹木は、古代の人々の身体なのだろうか。
 叔父が何を思って、自分を引き取ってくれたのかは、もうわからない。だが、あの家に自分を結びつけていたのは、叔父だけだった。樹病が進行して、叔父の身体が完全に樹木となったなら、樹病施設に移される。広大な敷地を有するその場所では、完全に樹となった人々が、日当たりのいい庭に植えられて、永劫の時を過ごすのだ。
 最後に叔父と見た、映画のタイトルはなんだっただろう。叔父は洋画が好きだった。映画館で見る時は、吹替があっても、あえて字幕スーパーを選んでいた。叔父は生きているけれど、もう一緒に映画を見ることはないのだろう。
 電車が揺れる。
 家を出た日の朝のことを思い出した。会社に行く前に、叔父はそっと乾の部屋を覗き、寝てるのか、と声をかけた。乾は寝たふりをしていた。叔父は元気でな、と言ってドアを閉めた。上京する電車の中、車窓の景色がぼやけて、よく見えなかった。
今も景色はぼやけている。


END

白い庭白い猫

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 縁側に出て、白い玉砂利が敷き詰められた庭を見渡した。
 大きくて旧い日本家屋だ。元は寺社奉行の屋敷だったという。今は鬼灯や椿などの庭木が植えられているが、元はこの庭は白州だったのだろう。
 玉砂利に罪人が縛られて座し、広い縁側には奉行が座り、裁きを下していた場所。
 太宰はふっと笑う。元ポートマフィアの私にとって、随分皮肉な場所じゃないか。
 胡座をかいて座り、板敷の溝を指で辿る。着物の裾が脹脛を擽ぐる。洋服は衣紋掛けに掛けて鴨居に吊るし、引き出しに入ってた浴衣を着用することにしたけれど。和服は慣れないな。
 ここは特務課の種田長官から充てがわれた潜伏場所。横浜から遠く離れた、古都の外れの、古びた街中にある屋敷だ。 平屋で部屋は多く、広い居間に書庫に書斎、箪笥部屋に檜の浴室などを備えている。
 屋敷の外には2つの門がある。
 玄関から石畳を伸ばした先にある大門と、庭の生垣に隠れた狭い裏門。
 訪れる者はほぼいない。使用人の老婆だけが早朝に来て、朝昼晩の食事の用意をまとめて用意して帰る。梅干しのような顔をした、足腰の矍鑠とした老婆。朝寝坊が癖になってきたので、姿を見たのは一度きりだ。
 猫の鳴き声が聞こえて振り向いた。襖の隙間から、影がさらりと横切るのが見えた。丁度通り過ぎたところか。
 和服を着て猫と二人暮らしなんて、まるで小説家だ。日がな一日文机に向かい猫と戯れる。織田作の求めた生き方のようだなと思う。
 だが、その猫の姿を、未だに見たことがない。
 気配と鳴き声、二階から聞こえる足音。確かに家の中にいるようなのだが、いつも目を向けると姿はない。白い猫か黒い猫か、はたまた三毛猫なのか。
 経歴洗浄に2年か。ふうっと溜息をつく。途方もなく長く感じてしまう。今までしてきたことを考えれば仕様がないが。 種田長官からすれば、森さんへのしっぺ返しにもなるし、損はないだろうと計算して取引した。しかし、人に身を預けるのは頼りない。
 退屈すぎて何度も自殺を試みた。首を吊り、頚動脈を切り、手首を切って水に浸した。だが毎度、こと切れる前に息を吹き返してしまい、果たせない。包帯を巻く箇所が増えるばかりだ。
 苦しいのも痛いのも嫌だ。失敗するとそれしか残らないから、やる気が失せてしまった。
 縁側の縁から足を出して、ゆらゆらと揺らす。暇だ。書庫にある本でも読もうか。
 立ち上がろうとした瞬間、バイクのエンジン音の止まる音が、大門の方角から聞こえた。
 種田長官だろうか。だが、彼はいつも訪問するときは車ではなかったか、いきなりバイクで来たりするだろうか?
 いぶかしく思っていると、大門の方角から怒鳴り声が響いた。
「おい糞太宰!いるんだろうが!出て来やがれ。出てこねえと、この家ぶっ潰す」
 嘘だろう。中也じゃないか。追ってくる可能性は多少考慮していたが、何故今ここに、このタイミングで。最悪だ。
「隠れても無駄だぜ。裏は取れてんだよ。3つ数えたらこの屋敷潰すぞ。いーち、にー」
 みしり、と家屋が軋んだ。本当に潰すつもりのようだ。
「わかった、今出るよ」
 仕方なく重い腰を上げて、玄関に向かう。門を開けられた音がした。老婆が出入りするので閂はかかっていないのだ。引き戸を開けると、見慣れた黒スーツの黒帽子が立っていた。
 中也は勝ち誇るように笑った。 「よお、太宰」
「なんで中也なんかに、ここがわかったんだ」
「ああ?なんかとはなんだ。手前の作った情報網舐めてんじゃねえよ。他の組織や特務課の隠れ家の情報も、きちんと調べて揃えてんじゃねえか」
「…そうだったね。自分の優秀さが残念だよ」
 出奔する前に整理しておくべきだった。とはいえ、織田作を看取った後、そのまま戻らなかったのだから、無理な話か。
「抜かせ。家上がるぞ」
「断る」
 太宰の言葉を無視して、中也は、でけえ家だな手前には勿体ねえ、とぶつくさ言いながら居間に入った。中也はどかりと座卓に向かって片膝をついて座り、はす向かいに太宰は座った。
 「ちなみに聞くけど、ここに辿り着くまでに、何件家を潰したんだい」
「ああ?大したことねえよ」と言いながら、中也はこんくれえか、と両手の指を広げて示す。「空き家ばっかだったしな」
 どうだろう。もし隠れ家に人間がいたとしても、逃亡者ならば、マフィアに呼ばれて応えるわけがないと思うのだが。
「太宰、手前がいなくなって、マジで清々したぜ。だが居処の手掛かりがあるんじゃ、探さないわけにはいかねえよなあ」
「清々したのにかい?呆れるね。中也は随分と暇なんだな」
「手前を1人で野放しにしておけるかよ。自由に自殺しろと、言ってるようなもんじゃねえか」
「それが?何の問題もないだろう」
「あんだよ。自殺されちゃあ、手前を殺せねえだろ」
「おや、中也は組織を抜けた私を、殺しに来たのかい」にっこりと微笑んでみせる。「それなら話は別だ。歓迎しなきゃならないね」
「阿呆が。喜んでんじゃねえよ。殺せと命令されなきゃ殺さねえよ」
「それで、森さんはなんて命令を?」
「何も指示は出てねえよ」
「なんだ。では中也は命令もなしに来たのか。莫迦じゃないの」やれやれと溜息をついて、追い払う仕草で手を振る。「では、殺せないね。実に残念だ」
「森さんは手前を、追跡しようとしねえ」中也は声を低めた。「だが、探すなとも言われてねえ。俺の独断だ」
「独断ね。勝手な行動は組織人としてはどうかと思うよ。芥川くんの真似のつもりかい、中也」
「ああ、その芥川のことだがな」中也は神妙な口調になった。「手前が出てった後、芥川は手前を、血眼になって探してる。狂ったみてえに。奴は手前に捨てられたと思ってんだ。今や誰の言うこともきかねえ狂犬だ」
「そうか」彼のことだけは懸念していたが、やはり暴走してしまったか。
「手前が奴の手綱をとってやらねえで、どうすんだ」
「芥川くんに、ここを教えるつもりかい」
「は!狂乱状態の奴に言えるかよ。言うにしても、手前の返事をきいてからだ」
「心外だな。捨てられたのは私の方さ」
「あ?何言ってんだ?」
「本当さ。信じないのかい」
「太宰、首領は五代幹部会の、手前の席を埋めようとしねえ。ずっと空けたままにすると言ってんだ。手前を連れ戻してえんだ。戻るのを待ってんだ。何で手前を追わねえのか、首領は聞いても教えてくれねえが。俺にはわかる」中也は俯く。「失くして、初めてわかるもんがあるんだ」
 太宰は縁側に目を向ける。庭の樹木がさらさらと音を立て始めた。朝から空を重たい色の雲が覆っていたけれど、とうとう雨が降り始めたようだ。
「単独で敵のアジトに突入した、あのサンピンのせいか」
 太宰はゆっくりと視線を戻した。顔をあげた中也と視線が合う。
「ボスと刺し違えたんだろう。惜しい奴を亡くしたな」
「生は死を内包している。生きている限り死には抗えないよ」
あいつだけじゃねえ。あの事件では、大勢構成員がやられたと聞いた。俺がいればあれほどの犠牲を、出さずに済んだかも知れねえ」中也は悔しそうに歯噛みする。
「中也は彼を知ってたのかい」
「部署が違っても、あいつの顔くらいは知ってる」
「そう」太宰は再び庭に目を向ける。
「手前でも仲間の死を悼むんだな。太宰。手前にそんな情があるなんて、思わなかったぜ」
 そうだろうか。痛む、傷む、悼む。どれが私の心なのだろう。 霧雨に霞む庭の木々は、水煙の中に幻のように沈んでゆく。
「そういう人間らしい面が、手前にあると知ってたら、だったら、俺は」
 紡がれた中也の言葉がふいに途切れる。太宰は振り向いた。中也は視線を避けるように目を伏せる。
「いや、何でもねえ。だがそれがマフィアだ」
 情に厚い中也は、彼を悼んでるのか。中也にとっては、さほど親しくはない下級構成員だろう。羊の王であった頃には、容赦なく重力で潰していたマフィアの一員だ。だが今は、仲間であると混じりけない心で中也は悼む。
「だからこそ、無駄に死ぬ構成員を増やさねえためにも、手前が必要なんだ。組織に戻れよ。太宰」
「中也に私を連れ戻す権利があるのかい」
「ある。俺は相棒だからな」
「命令違反だろう」
「言ったろうが。追うなとは言われてねえよ」
 だが真相は、知らされていないだろう。森さんは敢えて中也の不在を狙って、ミミックを呼び寄せたのだ。計画にはその条件が必要だったから。
 だが知ったところで今更変わらないか。内務省と取引した証拠は何一つない。間諜だった安吾内務省に戻った今、証人もいない。異能許可証の取得が結果としてあるだけなのだから。中也は森さんの組織論に傾倒している。疑いもしないだろう。
 雨音に交じって、猫の鳴く声がした。
「猫の鳴き声だね」
「猫?んなもんどこにいんだ」
「私も姿を見たことはないけれどね、この家にはいるんだよ」
 微かな足音、通り過ぎた影、鳴き声が聞こえるだけだけれど。この屋敷には猫がいる。姿は見えないが気配はある。餌を皿に盛ってやれば、いつのまにか消えている。
「私は猫の世話で忙しいのさ。ああ、そろそろ餌をあげる時間だ」
「手前は言ったな。俺は一生手前の犬だとよ」
「おや、殊勝なことだ。自分で犬だと認めるのかい。中也」
 中也は苦々しい顔で睨んでくる。
「また来るからな」と言い捨てて中也は嵐のように去った。
 太宰はため息をついた。疲れた。相棒なら何をしてもいいのか。おそらく中也の行動も、森さんは折り込み済みなのだろう。
 首領に忠誠を誓いつつも、盲目に従うだけでなく、時にスタンドプレーに走る中也。
 太宰は畳の上に、仰向けになって寝転んだ。
 雨の音。水溜り。血溜まり。
 腕を交差して顔を覆う。
 自分の腕の中で冷たい骸となった友。
 結果が見えていたのに、何故織田作を止められなかったのだろう。そのために、安吾は密かに内務省の計画を、自分に漏らしたというのに。
 安吾も、何としても彼を救いたかったのだ。けれども。
首領の企みの結果であれど、犠牲は街中に広がるに至った。もはや事態の収束のためには、織田作の異能に頼る他になかった。ミミックの殲滅は最優先事項。組織に属すならば組織の利が優先する。幹部である以上、そう判断するしかなかった。
 そして、彼も復讐という死を望んでいた。
 もっと早くに森さんの企みに気づけたなら。かのミミックの首領が織田作を見つける前ならば防げたろうか。彼と私がただの友であるだけなら、彼を止められただろうか。
 ちらりと長い身体の何かが、目の端を横切った。
 姿が消えた縁側のほうを見やる。蛇だろうか。脚があったようにも思えるが。蜥蜴にしてはやけに長いようだった。
 やれやれ、何かが中也に連いて入って来たのかもしれない。

 

 

 次の日の朝、中也は再び屋敷にやって来た。
 朝食を済ませて縁側で涼んでいると、大門の方から、怒鳴り声が聞こえた。
 中也は玄関の引き戸を荒々しく開けて、ズカズカと上がり込み、居間に入って来た。図々しくも、茶くらい出ねえのかと言う。
「招かれざる客に、振る舞うものはないよ。冷蔵庫に麦茶があるから、勝手にやってくれ」
「茶だあ?酒はねえのか」
「ないよ。あっても出すわけないだろう」
「しけてんなあ」
 2つのコップと麦茶の入ったポットを持って、「昨日は雨で気づかなかったけどよ、風流な庭じゃねえか」と言いつつ中也は縁側に胡座をかいた。
 麦茶を注ぎながら、昨日と同様、組織に戻れと中也は迫る。
「首領は手前が腹括って、戻って来るのを望んでるんだ」
 そうだろうね。私に寝首を掻かれることを恐れながらも、私の能力を惜しんでる。だから殺すことはできないんだ。
「根拠はあるのかい」わかってて問いかける。
「手前はマフィアになるために生まれた男だ」中也は言いきかせようとするかのように、神妙な口調になる。「頭も性格も、根っからの闇の者だ。手前が手前らしく生きられるのは、マフィアしかねえだろ」
「15歳からマフィア業しか、してこなかっただけだよ」
「一般人みたいに、普通に仕事してる手前なんざ想像できねえ」
「いやいや、私は何でも出来るよ。中也と違ってね」
「うぜえ、例えできるとしてもな、手前ほどの野郎が、組織から足抜けできるわけねえだろう」
「できないと言われると、益々試してみたくなるよ」
「口の減らねえ野郎だ」
 また来るからな、と言い捨てて中也は去った。
 太宰は麦茶を冷蔵庫に戻し、居間に戻った。そういえば、今朝から猫の気配を感じない。どこかに遊びに行ったのだろうか。
 中也に言われるまでもなく、マフィアの仕事は向いているよ。 私が私らしく生きられる。 生きる意味が見つけられると思ったよ。はじめはね。
 だが抗争の日々の中で、生と死の意味はやがて褪せていった。心は再び麻痺していた。薄い皮膜越しに見える、錆びていく世界から、いつ旅立ってもよくなっていた。だが、任務は次々と押し寄せた。
 状況を読んで操作するのは造作無い。表の事象も裏の思惑も見抜き、最善の対処をする。何もかも予想通りに進む。ゲームのようにパズルのように。
 駒を思い通りに動かすのは面白かった。幾分かは退屈を紛らわせられた。相棒も部下もいたし友もいた。
 友。立場を越えたふたりの友。部署の違う織田作と安吾は、組織に属しながらも、任務を離れて会える友だった。揺れる自分を繋ぎ止めていた。
 森さんは私がマフィアに倦んできたのを、知っていたのだろう。だから友の命を測りにかけた。いつでもその機会を伺っていたのだろう。故に安吾を嵌めて、織田作を屠って、選択を迫ったのだ。
 組織への忠誠心と友のどちらをとるのかと。
 私に忠誠心など微塵もなかった。それを初めから承知であったのに。今更己と志を同じくせよと望んだのだ。
 私がどちらを選ぶかは、予想済みだっただろう。それでも組織を選択させようと、織田作の元に行かせる前に止めたのだ。
「私が私らしく生きられる、か」太宰は口に出して、皮肉に笑う。
 芥川君を導くこともできなかったのが私だ。彼は私に依存して暴走してしまった。生き残る術を教えるはずだったのに。
 情に飢えた子供は理解者を求める。誰かに好意を抱きたいと渇望する。口当たりのいい言葉を言う者に傾く。
 理解は容易い。求めるものも与える。だからと言って懐かせれば、踏み越えてこようとする。だから敢えて牽制する。
 他の方法を私は知らない。孤児に本当に必要なものは、違うのだろう。
 織田作の示した道は、私には到底向かないだろう。
 腰に暖かい気配。猫が私にもたれかかって蹲っているようだ。
「何処にいってたんだい」
 猫に問うてみる。温かい体温。振り向くと逃げてしまいそうな気がするので、そのままにしておく。
 生きる理由は見つからない。予測を越えるものは現れない。孤独を埋めるものは何処にもない。永遠に闇の中を彷徨う。
 まるで呪いの言葉のようじゃないか。

 

 

 その日は黄昏を過ぎてから、中也は現れた。
 陽の沈んだ小山の向こうから、夜の闇がひたひたと近づいていた。鈴を擦るような虫の声が、庭の叢から聞こえてくる。
「何度来ても無駄だよ。森さんに仕えるのは、私にはもう無理だ」
「手前もわかってんだろうが。首領も、首領の宿命に準じているに過ぎないんだ」
「どこの首領であってもそうだろうね。しかし須らく王とは、嫉妬深いものだよ、中也。組織の長である以上、家臣に唯一の忠誠を望むんだ」
 時に忠誠心を測るために、家臣の大切なものを弑するのだ。No.2が優秀なほど離反を疑う。己が地位を脅かすのではないかと恐れる。
「首領に私心はねえよ。何より組織を優先してる。手前も知ってるだろう」
「ああ、わかってるよ。一般論さ。でももし、森さんが首領として相応しくなくなるなら。どうする」
「潰す」即座に中也は答えた。「それが契約だ。構成員も首領も例外なく組織に殉じる。首領はそう言った。首領がこの言葉を守る限りは、俺は従う」
「殊勝な心掛けだね」
「手前は首領が、前首領を始末するのを、見たんだよな」
「私は目撃者で、いわば共犯だよ」
「なら首領も組織を私物化した末路は、知っているはずだ」
 だからこそ森さんは、疑い怖れるのだ。自分も同じ目に遭うのではないか、私が森さんに成り代わるのではないかと。愉快な妄想だ。
 だが王の不信も組織の毒となりえる。森さんは己の感情すらも、機械的に論理的解の構成要件としたに過ぎない。
「己が保身のためか、組織の維持のためか、中也に見分けられるとは思えないな」
 組織の理と個人の理の違いが拮抗しているならば、誰に見分けられるだろう。
「手前!」
 押し倒され、手足を押さえつけられた。喉に中也の手が回された。喉ぼとけを親指で押さえられる。
「組織のためには、手前を生かすわけにはいかねえ。森さんが手前を惜しんでも、手前が敵対組織に渡るほうが、何百倍も危険だ。他のマフィアでも、政府の機関でも、手前を欲しがるとこは数多数えきれねえ。手前の頭脳と異能を奪われれば、この俺の汚濁すら、切り札じゃなくなるんだ」
「私をこの世から排除するかい。嬉しいね。仲間思いの中也。仲間以外になら残酷になれる中也。 今の私はマフィアじゃない。 中也の仲間じゃない。死ねるのなら本望だ。中也の馬鹿力なら簡単だよ。ほら、ちょっと力を入れれば済む」
「手前、わざと俺を挑発しやがったな!」
 太宰は微笑む。
「もっと言おうか。芥川くんに僕を慕わせるのは簡単だった。彼の望むものを与えなければいい。中也を操るのも簡単だよ」
「どうやったってんだ」
「教えないよ」太宰は笑う。「中也は僕が気になるだろう。気にくわないのに追いかけてくるくらいにさ。私がそうさせたんだ」
「違えよ莫迦が。俺の意思だ!」
「意思なんて、あやふやなもの…」
 気づいたときには、唇が重ねられていた。温もりと感触。接吻とわかるまでに、些か時を要した。
「…欲情したのかい?中也」唇が離れて、ようやく思考が戻った。「そこまでは読めなかったな」
「ちげえよ。嫌がらせだ!」
「ああ、意表をつかれたよ。満足かい。でもこれでは嫌がらせにならな…」
 中也は言葉をみなまで言わせず、再び太宰の口を塞いだ。そのまま太宰を抱きしめる。
「誤算だったな。ざまあみろ」
「やれやれ」太宰は離された唇を摩る。「好意と情欲を勘違いするとはね。いまだ思春期の子供のようだな、君は。ああ、そうだった、精神年齢はまだ10代だったね」
「手前、減らず口もそこまでだ」
 中也は己の黒手袋を咥えて引き抜いた。いつも戒めのために隠されている手が現れる。中也の親指が太宰の唇をゆっくりなぞった。久しぶりの人肌か。触れる指は温かいな、と太宰は思う。
 首元に顔を伏せて、中也が囁いた
「生は命だ。命ってのは、この熱だ。体温だ。手前に教えてやる」
 顎を掴まれ、唇が重ねられた。深いキスは前戯に他ならなかった。
 唇から離れると中也の唇は首筋を辿った。時折吸い付かれるとちくりとした。舌の感触がした。喉ぼとけに歯を立てられた。一瞬噛みつかれるかと思った。中也の長い前髪が肌に落ちて肌を擽る。触れあった肌が熱を持つ。動くたびにしっとりと汗ばんでくる。互いの息遣いが重なり荒くなってくる。
 猫がいる、と太宰は言った。
 なら呼べよと中也は答える。
 猫は呼んでも、来やしないよと答えた。
 いや、呼べないはずだ。手前は猫を見ていない。
 奴はもういないと分かれよ。
 中也に組み敷かれ、身体を貫かれ、深く繋がれた。四肢が絡みつき、脈打つ質量が押し入り洞を埋める。
 体内で抜き挿しされる熱。盗まれる吐息。混じり合う呼吸。融解してゆく境界。
 天井から大蛇が這いずるような、重く床を擦る音がする。音は階段を重たげに擦りながら降りてくる。
 障子の向こうを、大蛇の影のようなものが悠然と横切るのが見えた。
 蛇は別名、長虫と呼ぶのだと思い出す。
 庭から聞こえる虫の声。鈴のように。せせらぎのように。虫は羽を震わせて音を鳴らす。羽の音を何故声と呼ぶのだろう。
 虫が何の為に鳴いているのかに思い至って、苦笑が漏れる。
「なに、笑ってんだ、余裕かよ。糞太宰」
 苛立った声と同時に、突き上げられた。衝撃に、ふっと吐息が漏れる。
「なんでもないよ。ちょっと可笑しくなっただけさ」
 そうか、呼んでいるのか。ならば声に相違ない。

 


 浴衣の帯を締め直し、腰を上げようとして太宰は呻いた。
 痛いと呟くと、中也は「は!ざまあみろ」と、してやったりといった表情で笑う。機嫌がいいのが癪に触る。
「疲れた。一歩も動けないよ」
「そうか、なら、風呂場に連れてってやろうか」
「冗談だろ。帰れ」
「はっ!手前のその面見ただけで、来た甲斐があったってもんだ」
 バイクのエンジン音が屋敷から離れていった。
 身体の奥に残る鈍痛が疼く。
 どこまでが森さんの計画であるのだろう。中也に何をさせるつもりなのだろう。
 煽ったのは藪蛇だったようだ。怒りで箍が外れたのか。それとも、身体を重ねれば、情が湧くとでも思ったのだろうか。私の読みが甘かった。 感情で動く中也は本来なら扱いやすいはずなのに。
 ふうっと深呼吸をして、気を落ち着かせる。私が出奔してからの中也の状況は、読み切れなかったのだ。 計算を誤ったのだと認めざるを得ない。
 出会った頃から、直情で単純で後先考えない男だった。 頭が冷えれば、とんだ黒歴史だったと気付くだろう。もう中也はここに顔を出せやしないだろう。
 結果的には予定通りだ。多少は暇つぶしになったけれども。
 理解は人を動かすための手段で武器だ。情報収集し観察し、呼吸をするように計算する。相手に最も適した演技をする。 他人の考えは読めるし、感情を操るのも容易いのだから。
 けれど、織田作と安吾の思考だけは読まなかった。あえて読まなかった。操る必要はないと思っていたからだ。
 3人で過ごしたあの酒場は、計算せずにいられる唯一の空間だった。あの場所でだけは孤独を忘れられた。織田作と安吾は居心地のいい距離を保ってくれた。 互いに踏み込まない友の距離。
 けれども、その距離は正しかっただろうか。
 安吾と織田作。かたや内務省の間諜と、かたや殺しを辞めた元殺し屋。私が彼らと友であるのは、森さんにとってリスクであり懸念であったろう。
 組織に価値を見いだせず、忠誠心もない。私は彼にとって、ただでさえ玉座の天頂に吊るされた、剣のようなものだったのだから。
 ミミックを誘引する森さんの計画は、不確定要素も含んでいた。事が成る前に私が真相に気づく可能性。故にまず最初に、彼らを巻き込んだのだ。
 もし私が真相に気づかず、すべてを内務省の陰謀と思いこんだなら。安吾内務省を敵視し、私はマフィアに身を沈めたろう。それでよかったはずだ。だが森さんは敢えて真相を示した。
 私に心許す存在を作るなと告げるために。
 首領は組織の存続という目的のために他を捨てる。目的があれば耐えられる。孤独が唯一の友となる。
 彼らを巻き込まずとも、私だけを殺す方が容易かったはずだ。私ならいつでも喜んでこの世を手放したのだから。
 だが森さんの望みは、私の排除ではなかった。 彼はいつだったか、私が自分に似ていると言った。私に望んだのだ。同じ枷の共有を。
 中也にも他の五代幹部の誰にも、そんな要求はしない。彼らには必要ないからだ。私が彼の片腕であったからだ。
 私と友となったから、織田作は贄となった。知り合わなければ今も生きていたのかも知れない。
 側にいて失われるのと、生きていても互いに知ることもなく、遠い存在でいるのと、私はどちらが良かったのだろう。

 

 

 翌日、予想に反して、中也は屋敷を訪れた。
 朝から雨が蕭蕭と降っていた。おかげで中也の黒帽子には細かな水玉が散り、黒い外套は濡れそぼっている。
「よくまあ顔を出せたものだね。ああ、私は気にしないよ。狂犬に手を噛まれたようなものだからね」
 予測が外れたことに、ほんの少しだけ苛立った。また計算に入れ損ねた数字があったのだろう。
 中也は答えない。 いつもと様子が違う。玄関に佇んだまま、廊下に上がろうとしない。
「タオルでも貸そうか。中也が風邪引こうが別に構わないけど。床が濡れるのは迷惑だからね」
 中也は顔を上げた。攻撃的な射るような瞳。だが言葉はない。
 怪訝に思って聞く。「中也、何しにきたんだ」
 ようやく中也は答えた。
「これからすぐに抗争に行く。ちと、てこずりそうだ」
「そうかい」入れ損ねた数字はそれだったか。「ごくろうさん。行ってらっしゃい」
「終わったら、俺はここに来るからな。最後の通告だ、糞太宰。俺と来い。手前は組織に戻んだよ」
「返事は何度もしたはずだよ。ねえ、聞いてた?」
「手前の道はマフィア以外ねえだろ。闇の世界が俺たちの住処だ。光の下なんぞありえねえ」
「中也が決めることじゃない」
「宙ぶらりんにしたままで、逃げんじゃねえよ」中也は苛ついた声で言った。「ここに残るってんならなあ、俺と戦え、太宰」
「は?私と本気でやるつもり?中也の攻撃は見切ってるけどなあ」
莫迦言え!手前の持久力も瞬発力も、俺と比べもんにならねえだろうが。手前の身体中の骨を折ってでも連れ帰る。手前を黙って行かせるほど、俺は甘かねえ」中也は声を低める。「他んとこに手前を渡せるかよ」
「それじゃ、私は出血多量で死ぬかもね。ああ、やっと私を殺してくれるのかい。なるほど、それはいい。いつも私の自殺の邪魔をしてくれた中也が、やっと願いを叶えてくれるわけだ」太宰は笑顔で答える。「とはいえ、私が死ねば汚濁を使えなくなるね」
 荒覇吐となった中也の姿は、具現化された死そのものだ。顕現する荒ぶる神。身体に絡みつく蛇のような痣も、禍々しく美しい。見られないのは惜しいなと、思う。
「手前がいなくても、使う他にねえ場面がきたなら使う。組織のためならな。それで死ぬなら天命だ」
「天命じゃない。それは自殺だよ。中也」思ったよりも冷たい声が出た。勿体無いじゃないか。
「手前が止めなきゃそうなるな、太宰」
「私が君の命を惜しむとでも?中也」
「どうだかな」中也は戸を開けて、振り向いた。「次に俺が来た時は、どっちかを選べよ、太宰」
 中也は言い捨てて、霧雨の中に去った。
 太宰は溜息をついた。全く、種田長官には呆れる。中也なんかにバレてしまうような場所では、潜伏にならないじゃないか。
 なんらかの手を打つべきだろうか。だが大門の屋根には、監視カメラが付いているはずだ。種田長官が中也の訪問を、知らないわけがない。いざとなれば手を打つつもりなのだろう。
 失くして初めてわかるものがある。中也は言った。
 その通りだね。 言われなくてもわかっている。彼はいない。もう戻らない。私が何をしようと、生き返ることはない。
 君はずっと前から知っていたのだろう。羊の王であった頃から、何人もの仲間を送って来たのだろう。
 私は初めて理解したのだよ。いつか失うとわかっていたとしても、失いたくない命だったのだ。安吾が事細かに記録していたように。駒のひとつひとつにも命があるのだ。
 失くすまで気づかなかったのだ。
 けれども、組織にいれば抗争と喧噪の日々の中で、私の世界は再び薄い皮膜に覆われるだろう。
 いつか大切な友の命もまた、私の中で風化してゆくだろう。記憶の中で塵となるだろう。
 夢のように、幻のように。
 私はそれが堪らなく厭わしいのだ

 

 

 庭に足音を聞いて、目が覚めた。
 玉砂利を踏みしめて近づいてくる、何者かの足音。布団から這い出て、縁側から辺りを見回した。庭には誰もいない。
 雨が上がり、陽射しが戻ってきた。白い眩い光が縁側に満ちている。
 足元で猫の鳴き声がした。脹脛に柔らかな毛が触れる。
 ようやく姿が見えるようだ。そう思って見下ろした。
 しかし猫の姿はない。側でまた猫が鳴いた。自分のすぐ隣で。見ると、影だけがちょこんと板敷きの上にある。
 影に手を伸ばしてみた。柔らかな毛に触れる。撫でると生き物の体温と感触がある。耳にひげに柔らかな和毛。見えないけれど、隣に猫はいる。
 門の向こう側から、三毛猫が生垣を飛び越えて入ってきた。太宰に向かって歩を進める。ルパンにいた猫に似ている。同じ猫だろうか。いや、間違いない。
「やあ、遠方からよく来てくれたね。久しぶりじゃないか」
 声をかけると、三毛猫は立ち止まった。視線が合った。
 猫は一声鳴くと、ぶるりと震えた。みるみるうちに猫の輪郭は崩れ、形が膨らんで伸び、人型を象り、壮年の紳士の形に変化した。紳士は軽く会釈をして挨拶を返し、太宰に微笑みかけた。
「そういうことでしたか。貴方が関わっていたんですね」太宰は微笑み返した。「なるほど、本当の潜伏はこれからなんですね」
 紳士は首肯して、するすると三毛猫の姿に戻った。猫はくるりと踵を返し、付いて来いと尾を立てた。
 太宰は鴨居から服を下ろした。浴衣を脱いで、久しぶりに洋装に袖を通す。
 見えない猫が縁側で鳴いた。目をやると、猫の影は縁側を越えて、畳の方に伸びていく。
 影の伸びが止まった。影は上背の高い、亡き友に似た影を形作った。
「もうここから出る時が来たようだよ」
 太宰は影に語りかけた。影は笑ったようだった。
「もう暫く、君の思い出に浸っていたかったよ。ねえ、どの門から出ればいいと思う?裏に狭い門があり、表に大きな門があるんだ」
 男の影は揺れて、裏門の方に顔を向け、腕を上げて指し示した。
 太宰は頷いた。「古の言葉にあるね。狭き門より入れ。 滅びにいたる門は大きく、その路は広く、これより入る者は多し。 生命にいたる門は狭く、その路は細く、これを見出すものは少なし」
 太宰は縁側から降りて、白州を横切り、裏門に向かった。
 抗争の日々の中で、生きる意味は次第に削れていった。けれど、3人で過ごした酒場でのひとときは、明日を生きようと思う僅かな理由だったよ。
 失われた生きる意味はもう戻らない。だが、友は私の中に踏み込んだ。彼の言葉は私の行く道を示した。予測を越えた確信を持って私に告げた。
 救う側になれ。弱者を救え、孤児を守れ。なんと困難な道だろう。
 善も悪もどうでもいい。どんな組織にも興味はない。けれども、君の救いたかった者は、私が救おう。それが君の生きた証となる。君のいた印となる。いつか君が忘れられたとしても、それは決して風化することはない。
 組織の理では身動きが取れなくても、外に出れば別の理があるのだ。
 気ままに怠惰に、猫のように戯れよう。悪夢ではない夢を見て、憂鬱ではない目覚めを迎えよう。
 君の示す道で、私がどう生きていくのか想像できないな。こんなことは初めてだ。予想がつかないのは、素敵なことだね。
 大門の方角から、バイクを乗り付けるエンジン音が響いた。抗争を終えた中也が駆けつけたのだろう。
 太宰は振り返った。中也、次に会うのはもう少し後になるよ。一生私の犬だという約束は勿論、反故にはならないよ。いつか君の命を、私は惜しむようになれるかな。それまでに汚濁を使ったりして、無駄に命を落としたりしてくれるなよ、相棒。
 太宰は生垣に向かって歩き出した。三毛猫に先導されて、狭い門を開け、大きく歩を踏み出す。
 山の端から薄っすらと虹が架かった。雲間から差す陽が広がり、空は眩い光に包まれた。
 縁側には、猫の影だけが残った。