碧天飛天の小説サイト

碧天飛天の小説サイトです。腐向け二次創作やオリジナルの小説を置いてます。無断転載禁止Reprint is prohibited

物の怪の家

叔父が「樹病」に罹患し、入院したと、下の兄から連絡があった。
上の兄も飛行機の便をとって、今日中に駆けつけるという。乾は急いで一泊分の着替えを旅行鞄にまとめ、伴侶に連絡をして、特急電車に乗った。
同じ県内にある実家とはいえ、複数の市を跨いでおり、ほぼ県の端である。トンネルを過ぎるたびに、車窓から見える景色の様相が変わる。街並みを過ぎると緑の田畑が広がった。田畑の向こうにこんもりと緑に覆われた、古墳のような低い山が連なり、ゆっくりと通り過ぎていった。
 この景色を見たのは、もう何年前になるだろう。大学の時に出奔してから、家に戻ったことはない。
 駅からバスに乗り、病院に到着した。面会カードを書いて、HCLの扉の前で待機する。 暫くして入り口が開き、病室の廊下に通された。病室の引き戸は硝子張りであり、硝子窓の向こうに、枝葉の影が差した。
 部屋に足を踏み入れた。青々とした葉の色が目に入る。
 ベッドの上に叔父の身体が横たわっている。その手足の関節からは枝が生え、青葉が繁っている。樹病の症状だった。
「樹病」は、この地に特有の病だ。眠るように意識がなくなり、身体が樹木と化してゆく。意識が戻れば回復の見込みはあるのだが、大抵はそのまま、節々から枝が伸び、葉を茂らせ、樹となる。
 看護師が枝葉を払いながら言った。光合成ができるようになると、食事を必要としなくなります。胴が幹になるまで、何年もかかるでしょう。完全に樹化したなら、療養所に移ってもらうことになります。失礼ですが、ご関係は息子さんですか。
 息子と言おうとして、少し考えて答えた。
「私は甥です。幼い頃に父母が亡くなり、叔父の養子になりました」
「他にご家族は来られますか」
「従兄弟達…叔父の実の息子の2人が来るはずです。上の兄、下の兄と呼んでます」
「小さな子供は病室に入れないのですが、お子さんも来られますか」
「いえ2人とも未婚です。私は伴侶と子供がおりますが、今日は来てません」
 伴侶が同性で、子供は養子とは言わなかった。来ていないのだから、あえて言う必要はないだろう。
 父親である叔父、従兄弟であり、兄でもある2人。
 自分は幼い頃に両親を亡くし、父方の叔父の家族に、養子として引き取られた。
叔父と叔母は共働きで、2人とも帰宅は遅かった。叔父は言葉少なく、叔母ともほとんど会話することがなかった。我関せずの上の兄、我の強い下の兄。異邦人である自分は家に居づらく、学生時代の帰宅時間は自然と遅くなった。
 今となっては、生活的には分け隔てなく育てられていたと思う。亡き父の保険からだと言っていたが、大学の学費まで出してくれたことには、感謝している。
 家を出てから暫くして、叔父夫婦が離婚したと聞いた。その後、上の兄は遠方の大学を出て、その地で就職した。下の兄は家を出ず、実家の離れに住み、専門学校の時の仲間と、何か事業を営んでいるらしい。
 叔父はたまに連絡を寄越したが、叔母や兄達とは疎遠になっていった。


 背後で戸が開く音がした。兄達が病室に入ってきたのだ。
「久しぶりだな。随分と会ってないが、お前は変わらないな」彼らは言った。
 乾は言葉が出なかった。兄達の相貌が、昔と違って見えたのだ。違うどころではない。彼らは異形の姿をしていた。
 上の兄の顔は、目と口のあるあたりに、浅い窪みと僅かな鼻の隆起があり、まるで埴輪のような面相だった。手足はひょろりと細く短く、手は丸くて指がなかった。
 下の兄は鼻の上に、拳大の目がひとつだけあった。肩からは腕ではなく、三本指の付いた触手が、5、6本生えていた。触手の表皮は皺皺として、皺の間に何が黒いものが見え隠れしていた。
 長旅で疲れて、幻覚が見えているのだろうか。しかし、ゴシゴシと目を擦ってみたが、彼らの姿は変わらない。兄達が異形に見えるなんて、頭がどうかしたんだろうか。
 医師は彼らに、改めて叔父の様子を説明している。看護師も普通に接している。
 どうやら私にだけそう見えているらしい。幻覚だ、気のせいだと我慢し、平静を装って久しぶりだね、と返事した。
「幸い財産はあるし、賃貸や株も持ってるから、収入はある。長期入院でも大丈夫だ」
一つ目を瞬かせて下の兄は言った。「高額医療制度はありがたいな。ひとまず年金で足りそうだ」
 部屋いっぱいに繁ってしまうな、と下の兄は触手を使って、葉を摘んでちぎり、屑篭に捨てた。
「叔父は痛いと感じるんじゃないか」と言うと、下の兄は「爪や髪みたいなもんだろう。ほっとくと生え放題だ」と返し、甲斐甲斐しく剪定した。自分も下の兄と同じ様に葉を摘むと、自分がやるから、お前はしなくていいと言われた。
 兄達と共に病院から戻り、久しぶりに家の敷居を跨いだ。しかし、ゆっくりはしてられなかった。というのも、入院の報を聞いて、近所に住んでいる叔父の兄弟達が、かわるがわる訪問してきたのだ。慌ただしく応対し、夕方になってやっと一息つけた。
 居間に集まって卓を囲んで座り、下の兄にひとしきり、彼の行っている事業の自慢を聞かされた。話が済むと、下の兄は一つ目をぎょろりと見開いた。
「さて、これからのことを相談しよう。わかってるな。疎遠にしていたが、これからは兄弟で協力しなければならないからな」と言うとこちらを向いた。「お前の彼やらは来ないようだな」
「子供を見ててくれてるんだ」
「あ?お前たち男同士だろう。子供だと?」
「前に言っただろう。彼の兄の息子を引き取ったんだ」
「そう言えば、そんなこと言ってたな。一時的なのかと思ってたよ」一つ目を細めて、嘲笑うように兄は言った。「まだ家族ごっこを続けているのか」
 嫌な気分になった。わざわざこちらを不快にさせることを言う。昔から彼にはそんな癖がある。
 以前こんなことがあった。
 彼の甥を引き取ることを決め、伴侶になった時のことだ。それを実家に伝えた時、口頭で済ませようと思ったのに、下の兄は彼に会わせろと、しつこく迫った。仕方なく喫茶店で対面させたが、散々だった。
 下の兄は彼に嫌味を言い、失礼な態度を取ったあげくに、堂々と食事を奢らせたのだ。彼は終始穏やかだったが、私は恥ずかしく、彼に申し訳なく思った。
 兄は忘れているだろうか。私はよく覚えているし、忘れたりしない。それまでは彼とは触れ合うだけの関係だったが、その夜初めて受け入れた。
 居間の隣の襖を開けると、日本間があり、小さな仏壇が置いてあった。仏壇の隣の床の間には、華やかな花魁を描いた掛け軸が飾ってある。普通は書や縁起物や、山水や四季の絵を飾ることが多い。でも、叔父は自分の好きな絵を飾ったようだ。
 上の兄は掛け軸に顔を向けると「女郎の絵か。こんなの飾るなんてな」とさらりと言った。この掛け軸を叔父が気に入っていたことは、上の兄も知っている。
 たとえ思ったとしても、言わなくていいのに、何故わざわざ口に出すのだろう。不思議に思うとともに、上の兄に伴侶を会わせた時のことを思い出した。
 上の兄には彼とのことを電話で告げた。肯定でも否定ない、あっさりした返事が返ってきた。後日、上の兄に彼に会わせた。穏やかに談笑したが、彼が席を外した時に上の兄は「普通っぽくてホモには見えないな」とさらりと言った。悪気のない調子だった。だからこそ少し苛ついたが、兄の欠点だと思うことにして聞き流した。事なかれ主義の兄だが、時々デリカシーに欠けるところがある。
 自分の部屋は物置になっていた。ベッドの上に布団はなく、沢山の物が無造作に載せられていて、埃を被っている。
「とても泊まれそうにないね」
 下の兄はふん、と鼻を鳴らして言った。「いない人間の部屋を、そのままにして置いておくわけがないだろう。荷物を隅に寄せればいい。一晩くらい泊まれるだろう」
「いや、もう行くよ。ホテルの予約を入れてあるから」
もともと自分に泊まる部屋があるとは、思っていなかった。
じゃあ明日なと言って、上の兄は二階に上がっていった。彼はたまに帰ることがあるので、部屋はあるらしい。


 ホテルに到着し、シャワーを浴びて一息ついた。
 実家からホテルまでの道中、道ゆく人を眺めていたが、全て普通の人間に見えることに安堵した。兄達についても、きっと疲れていて、幻覚でも見たのだろう。
 昔からこの町には、物の怪が見える人や、妖怪を目撃したという人が、少なからずいた。樹病のような、特有の風土病もあるくらいだ。幼い頃から、さほど不思議に思わず聞き流していた。昔は獣と化して山に入る獣病や、羽毛が生えて鳥になる鳥病があったという言い伝えもある。
 乾が伴侶である彼と会ったのも、そんな話がきっかけだ。
 大学の頃に飲み会で、郷里の不思議話をしたら、近くに座っていた彼が乗り出してきた。彼は民俗学をやっていると言った。郷里の土地柄を知ると興味津々で、研究室に通ってくるようになり、よく雑談をした。そのうち自分のアパートに頻繁に来るようになり、ふざけ合っているうちに関係を持った。
 自分が同性相手にできるなんて思っていなかったが、一度許してしまうと触れ合うことに抵抗がなくなった。回を重ねてゆくごとに次第に当たり前になった。初めからそういう関係を望んでいたと、彼から言われた時には、既に恋人同士になっていた。
 携帯を開いて、伴侶から着信があったことに気づいた。折り返して電話をかけた。
「気づかなくてすまない。今ホテルの部屋だよ。さっきまでシャワーを浴びてたんだ」
「いや、構わないよ。随分遅くなったね。お疲れ様」
「あの子はもう寝てるのかい」
「ああ、ぐっすりだよ。さっきまでおやすみを言いたいからって、頑張って起きてたんだけどな」
「残念だな。僕も話をしたかったよ」
「帰ったらすぐ顔を見れるよ。明日は帰るんだろう」
「そのつもりだよ」
 通話を切ると、すぐに眠る子供の顔が送られてきた。ソファに横向きに頭を乗せて、ふっくらした頬がふにゃりと潰れている。疲労した心が和む。
 兄の子供だと彼は言った。
 彼の兄夫婦が事故死し、ひとり残された息子は施設に預けられていた。彼の両親は既に他界しており、家族の反対や経済的な事情などで、親族が引き取るのは困難だったらしい。学生の彼には、初めから面倒を見る話は来なかった。彼の頭越しに親戚同士で相談がなされ、子供はひとまず施設で様子を見ることになったという。
 付き合い初めてから数ヶ月経った頃だ。「甥に会ってくれないか」とその施設に連れて行かれた。
 彼が名を呼ぶと、先生に手を繋がれた子供が歩いてきた。まだ赤ん坊の面影があるが、彼によく似た、利発そうな面立ちだった。顔を見ていると、どんぐり眼と目が合った。子供は駆け寄ってきて自分の前に立ち、両手を突き出して抱っこを要求してきた。
 彼は苦笑いして、「図々しいぞ」と子供の頭を撫でながら、自分に向かって「いいか?」問うた。
「いいよ」と笑って答え、両脇を支えて持ち上げ、腕に抱えた。にこにこと笑う子供の軽さに驚いた。
「あの子をうちに引き取りたいんだ」
 帰り道で彼は言った。「時々逢いに行くんだけど、だんだん元気がなくなっていくんだ。もっと標準豊かな腕白坊主だった。あのままでいいと思えない」
 子犬のように軽い小さな身体。確かに、まだ庇護者の必要な子供だ。しかし。
「君1人で子供の世話をするなんて、難しいだろう」
「わかってる」彼は俯いた。「今の俺は学生だしね。でもやりようはあるんじゃないかと思ってる」
「そうか、あの子を可愛がってたんだね」
「いや、そうでもないんだけどな」彼はポリポリと頬をかいた。「長期休暇の時に実家で会うくらいだった。そうだな、自分にしかできないって思うからかな。説明しにくいんだが」
 困難であっても引き取ると、彼はもう決めているのだろう。
「偉いな君は。手伝えることがあれば、僕も手伝うよ」と答えると、彼は顔を上げた。
「なあ、相談なんだが。俺と一緒に住んでくれないか。君と共になら、あの子を引き取れると思うんだ」
 突然の申し出に、躊躇しなかったといえば嘘になる。つまり子供を引き取るかどうかは、自分にかかっているということだ。
 彼と同居することに異論はない。だが、この流れで同居することは、そのまま伴侶になることに等しい。それは付き合うことより、遥かに覚悟が伴う。
 でも、子供の境遇に、自分の生い立ちがダブった。叔父が引き取ってくれたから、自分は施設にはいかずにすんだのだ。
 幼い頃なので覚えていないが、通夜の席で叔父は、自分を引き取ると言ったそうだ。既に子供が2人いるのに、人1人を引き取るなんて、今思えば大変なことだ。
 彼の手助けは、自分にしかできないことではないだろうか。ある意味で自分の人生への、恩返しになるのではないだろうか。
「うん、いいよ」と答えると、彼は破顔してありがとうと言った。
「実はね、君の境遇を聞いたから、この子を引き取ろうと思ったんだ。誰かが引き取ってくれればいいのに、ほっといてはいけないのに、どうすればいいんだろうって、ずっと悩んでいた。学生の身では色々問題あるだろうけど、叔父や叔母に協力してもらってなんとかする。俺が自分の子供を持つことはないから、彼を引き取るのに都合はいいはずだしね。それからごめん」
「何を謝ってるんだ?」
「君がいればできる、そういう言い方をしたら断れないと思ったんだ」
「狡いなあ」正直に白日するのに呆れた。でも腹は立たない。
「ああ、俺は狡いんだ」
 2人して笑った。その後の彼の動きは早かった。彼は3人で住むための3LDKの新居を探して、引越しを済ませ、親戚に協力してもらって書類を作り、間もなく無事に甥を引き取った。
 彼の甥は借りてきた猫のようだった。だがそれはほんの一瞬で、すぐに新しい環境に慣れた。今や小さな猛獣のように、我が物顔で気ままに振る舞っている。だが寂しがり屋で、自分が持ち帰った仕事をしていると、くっついてくる。
 彼の申し出を受けて良かったと思う。意外な経緯だったけれど、自分にとって初めて、心安らぐ家庭を持てたのだから。
 時折、叔父のことを考える。
 兄の子だからといって、叔父は何故自分を引き取ったのだろう。彼と同じような義侠心からなのだろうか。
 定年を迎えてから、叔父は時々自分に会いにきた。家を出る前は、ほとんど話すことなかった叔父。会うのは育ててもらった恩義が大半を占めていた。だが、嫌々だったわけではなかった。家を出る前より、叔父とはずっと話しやすくなったからだ。離婚してから、気負いがなくなったのだろうか。
 叔父は会いに来ると、よく映画を見ようと言った。大抵駅で待ち合わせて、適当に近くの映画館に入って鑑賞した。当たり外れはあったが、叔父は楽しそうだった。
「だんだん兄に似てきたね。兄さんと歩いているようだよ」
 叔父はよくそう言っていた。
 彼と伴侶になることを告げた時、叔父は「お前はそうだったのか」と感慨深げに言った。同性なのが意外なのかと問うと「いや、違うよ。お前が伴侶を持つとは思わなかったんだよ」と微笑んだ。
 安心したよ、と言葉が続けられた。
 そんな叔父が樹病にかかるなんて、思いもしなかった。神頼みというわけではないが、近々神社に詣でてみようか。
 そういえば、巨樹崇拝の神社を訪れたことがある。伴侶は就職してからも、独学で民俗学を研究しており、趣味を兼ねてよく一緒に寺社を巡った。
 そこは樹齢数千年のクスノキの巨木を御神体とする神社だった。大樹は空を貫くほどに高く聳え、広く境内を葉影で覆っていた。大きなしめ縄を巻いた様は、まるで巨人のようだった。古代の巨人の樹化した姿なのではないか。郷里の風土病を思い起こして、そんな風に思った。
 彼は言っていた。
 民俗学では「遠野物語」のように、多くの怪異譚が収集される。物の怪を作るのは人だ。人の心が恐れから化け物を作り、病気や飢饉や不条理なことを、物の怪のせいにする。闇の中に見るのは、物の怪であり恐れだ。獣や病や不条理に命を奪うもの。未知のもの、隠されているもの。人の心の闇に見るのも恐れだ。恐れが物の怪を作ってきたんだ。
だが、ひょっとして、本当の物の怪がいて、それを見た人がいるのかも知れないね。


 翌日、ホテルをチェックアウトしてから、実家に行った。兄達が人間の姿に見えるのではないかと期待したが、彼らは昨日と変わらず物の怪に見えた。
 2人は居間で座って待っていた。
 今後の叔父のことを相談すると、下の兄は言っていた。しかし、遠方にいる自分や上の兄に、何ができるだろう。
 下の兄が一つ目でぎょろりとこちらを睨んで、意外なことを言った。
「叔母さんから聞いたんだが、父から掛け軸を貰ってるんだってな」
 平静を装っているが、何故か声に苛立ちが滲んでいる。
「ああ、家を出るときに貰ったよ。叔父さんの収集してた掛け軸から。でも一枚だけだよ。作者も不詳だし」
 どんな絵だと問われて、森の中に立っている小坊主が描かれた、流麗な筆致の水墨画だと答えた。小坊主の手から、紙のようなものが風に乗って舞い、背後に黒々とした、妖怪が潜んでいるような山が迫る。伴侶はそれを見て、三枚のお札のような絵だなと言っていた。
「三枚のお札」は、和尚からお使いを頼まれた小坊主が、途中である家に泊まり、家の主人の正体が妖怪だと知って逃げる話だ。その道中に、和尚に渡された三枚のお札を使うのだ。
 下の兄は憤慨した声で言った。
「その掛け軸はお前のものじゃない。こっちに寄越せよ」
「なんだって」
 いきなり言われ、驚いた。掛け軸は家を出る時に、叔父が餞別がわりにとくれたものだ。
 下の兄は威圧的な調子で、滔々と続けた。自分が父の貯金を仕切る。治療費の足しにするため父の金を集める必要がある。兄弟で援助金を出す可能性もある。掛け軸は父のもので、実子でもない者が貰う理はない。大した額ではないだろうが、父の治療費に充てるから文句はないだろう。
「なんだ?横取りするとでも思っているのか」
 口の端を上げて、一つ目の兄は嘲るように笑った。しかし目は笑っていない。そう言われて、かえって今まで思わなかったのに、疑念がわいた。
「財産は十分あると、昨日自分で言ってたじゃないか。大した額ではないという掛け軸まで、今換金する必要があるのか」
 腹を立てて言い返した。わかり切った嘘までついて、馬鹿にしてるのか。すると、いきなり下の兄は激昂した。
「煩い煩い!寄越せよ寄越せよ!」
 助けを求めて上の兄の顔を見たが、兄は何も言わない。埴輪のような顔は、まるで表情が読めない。
 その時、下の兄の身体が変貌し始めた。触手の表面の皺の間が次々と広がり、傷のように裂けていく。黒いものの正体がわかった。無数の目玉だったのだ。目蓋が開かれて、数多の目玉が一斉にこちらを睨んだ。
 この妖怪を知っている。百々目鬼というのではなかっただろうか。ぞっとして後退り、襖を開けて居間を出た。
 今見たものは、妄想なのだろうか、幻覚なのかだろうか。あまりに気味が悪い。
 私に続いて、上の兄が廊下に出てきた。部屋に戻れと言うのだろうか。下の兄は叔父のことで、気が立っているのかも知れないが、戻る気になれない。
「とても付き合いきれない。兄はあんたが支えてくれ」と上の兄に言うと、「必要ない。メールはしてる」とそっけなく返された。2人の兄は仲が良いと思っていたので、意外だった。
 上の兄は「あいつに掛け軸を渡してやれよ」と続けた。
 たかが無名画家の絵一枚に、何故拘るんだろう。下の兄は今や、叔父の貯金の全てを握っている。あんな掛け軸を売るほど、治療費が足りないわけがない。
 まず正確な財産額をこっちに伝えるべきだと言うと、兄は「大まかに知ってる。だが、何故お前が知る必要があるんだ」とさらりと言った。何度問うても不自然にはぐらかした。口止めでもされているのだろうか。
 私は憤慨して言った。
「本来、長男のあんたが実家に戻って、叔父の財産を管理すべきだろう。家を継いで墓や仏壇管理をするのもあんたなんだし」
「私は戻るつもりはない」
 上の兄の声色が初めて苛立ちを帯びた。
「実家は家に残ったあいつが継げばいい。財産も親も全部奴に任せる。着服しても全然構わない。私は何も言わない。そのかわりに面倒には関わらない」
 どこから声を出しているのか、のっぺりした浅い穴ぼこから、声が聞こえてくる。
「お前たち2人が揉めるのは面倒だ。あいつが欲しいと言うなら、そんな掛け軸なんか、さっさと渡してしまえばいいじゃないか」
上の兄の頭が風船のように膨張した。目鼻の位置にあった凹みが延びて、平らになってゆく。
「家の近所に親戚も住んでるし、友達も大勢いるだろうし、支え手は足りてるだろう。実際、近くにいない私たちには、任せる他に何ができるんだ」
 面倒だ面倒だと呟きながら、兄の姿は変貌していった。目鼻をかろうじて形取っていた凸凹がならされる。膨れて首も寸胴になり、滑らかな表面の肉塊だけの顔になった。
 背筋が凍った。この化け物はぬっぺふほふという妖怪だ。
 襖を隔てた居間から、寄越せ、寄越せと化け物の唸り声が聞こえる。面倒だ、面倒だと呟く上の兄の横をすり抜けて、廊下を走った。
 襖が乱暴に開け放たれた音が聞こえる。つんのめって転び、膝が震えて、立てずに這いずるように玄関に向かった。
 寄越せ寄越せ、面倒だ面倒だと廊下に響く声。
 廊下は遥か遠くまで、長く伸びていくように見えた。いくら進んでも玄関に届かない。
 化け物達の引きずるような、重い足音が追ってくる。
 漸く立ち上がれたものの、またつんのめる。つまづいては転び、よろめきながら立ち上がる。
 どこまで迫ってきているのか。確認したくても、振り向くことができない。姿を見たくない。
 寄越せ寄越せ、面倒だ面倒だ、と唸る声がどんどん迫ってくる。
 足音は大きくなり、足の裏に振動が伝わった。化け物の息遣いが、すぐ側に近づいた。

 

 目覚めると電車の中だった。
 身体に響く振動。向かい側の車窓に映る自分の姿。その向こうは暗闇。見渡したが、車両には自分しかいない。電車は自宅のある方角に向かっている。
 無人改札を通り、電車に乗った覚えがある。
 ほうっと胸を撫で下ろした。胸ポケットに振動を感じたので、携帯を取り出し確認する。掛け軸を返すようにという、兄からのメールだった。
 げんなりして、伴侶に連絡を入れる。
「まだ帰らないのか?」
 彼の声を聞いて、心の底から安堵した。
「今電車で帰ってるところだよ」
「お疲れ様。叔父さんはどうだった」
「よくなかった。入院は長引くだろうな」
「そうか。残念だね」
「叔父のことより、別のことで疲れたよ」
「なにがあったんだ」
 私は郷里で起こったことを、彼に話した。冷静にはなれなかった。相槌を打ちつつ、彼は聞いてくれたが、話終わると言った。
「化け物に見えるなんて、興味深いじゃないか」
「問題はそこじゃないよ」呑気な感想に脱力する。「笑い事じゃないよ。叔父の情報は共有するべきなのに、兄達は僕に隠そうとしてるんだ」
「そうかもな」と彼は軽い調子で言った。「もしそうだとしても、構わないんじゃないか」
「え、どうして」意外な言葉に、素っ頓狂な声が出た。
「別世帯を持ってる君は、彼らにとって家族から外れてるってことだ。彼らの利害は一致しているんだろう。財産を囲い込みたい者、責任を放棄して押しつけたい者、お互いのエゴが彼ら同士では都合が良い。暗に納得済なんだ。だったらいいじゃないか。任せてしまえよ」
「でも、隠して何の得があるんだ。不信感が湧くだけじゃないか。下の兄は嘘だと指摘しても、怒鳴って話がまるで通じないんだ」
「それは、君が同じ土俵に立ってないからだよ」
「土俵ってなんだよ」
 苛立ってきて言い返すと、彼は言った。
「エゴだよ。常識じゃない。エゴが彼らの土俵なんだ。彼らの目的は、自分のエゴを通すことだ。そのために、屁理屈を捏ね、嘘をつき、我を通し、激昂したフリをして誤魔化す。エゴを通すためには手段を選ばないんだよ。指摘しても通るわけがない。正論を言えるのは無関係な人間だけなんだよ。つまり、当事者なら、君も同じ土俵に立たねばならないよ」
「僕もエゴを通すべきだっていうのか」
「ああ、だがそれ以前に、君のエゴはどこにある。それを考えないで口出しするのは、筋が通らないよ。君はどうしたい。それによって、俺の言えることは違ってくるよ」
 私は考えた。郷里に来る前に思っていたことは、久々に会う気の合わない兄弟への不安。来てから思ったことは、同居家族が入院した下の兄への同情。今こうなって思っていることは。
「僕が望んでたことは不可能だった。いや、昔からそうだったのに、長い間見ないようにしてきたんだ」
「そうか」
 叔父の家に居場所はなかった。長く遠ざかっていたなら尚更、居場所などあるわけがない。元々なかったものができるわけがない。
「これ以上、彼らに関わりたくない。いや、関わるべきじゃないんだ。嘘をついて誤魔化して悪いとも思わない。そんな相手と関係の改善なんて無理だ。時間の無駄だ。誰に責められようとも譲れない。関わっても、自分をすり減らすだけなんだ」
 漸く吐き出すことができた。帰郷してから感じていた嫌悪。互いの在り方が不快で、どうしようもなく合わない人間はいる。不快でなくとも、他者でしかない人間はいる。他人なら切れても血縁は切れない。でも距離は置ける。避けられる。仕事上の付き合いではないのだ。
「彼らに妥協して、上辺だけでも穏便に協力する道もあるけどね」
「妥協すれば増長するだけだよ。兄は変わらなかった。今後も変わらないよ。それよりも、僕は君やあの子との家庭や、僕が大切に思い、大切に思ってくれる人達を大事にしたい。今周りにいる人やこれから会う人を大事にしたいよ」
「それが君のエゴだね」
「改めて考えたことはなかったけれど、そうだったみたいだ」
「なら、言えることは一つだ。彼らの欲しがるものを、渡してしまえばいい。そうすれば、もう彼らは君に用はないよ」
「叔父から貰った掛け軸を渡せっていうのか?」
「そうだよ」
「でも、あの掛け軸は僕にとって、叔父との繋がりなんだ」
 今なら思う。子供の頃からあまり話すことのなかった叔父。自分にとってあの掛け軸は、目に見える叔父の気持ちだったのだ。兄の言うような、ただの金品ではないのだ。
「わかるよ。だが君が自分で手に入れたものじゃない。下の兄は君だけがプレゼントを貰ったことを妬み、憤ったのだろう。金額以上に、君の言う叔父さんの気持ちこそが、許せないのだろう。もしも逆の立場なら君はどうする?」
 少し考えて答えた。「面白くはないだろうけど、納得するだろうな。それが叔父の意思だろうから」
「ああ、君はそういう人だね。良くも悪くも人は人、自分は自分だ。でもそう思わない人間もいるんだよ。彼は君にマウントを取らずにはいられないんだろう。得をするのが自分じゃないのが許せない人間。内に秘めるならまだしも、それをさも正論のように主張する人間はいるんだよ」
「よくわかるね。下の兄に会ったのは一回だけなのに」少し驚いた。
「あの時の君の下の兄は、たまたま情緒不安定なんだと思ってたよ。君の話を聞くと、あれが平常運転のようだね」とはいえ、と彼は続ける。「厄介だけど、そういう性質を一概に悪いとも言えないよ。事業をしてるなら、嫉妬深くて他を貶め蹴落とす人間は、成功者の一つのタイプだよ。味方なら頼もしいかもね。でも、標的になったらたまったもんじゃないな。ともあれ、君は彼にとっては標的にしかなり得ないようだね」
「でも、それでは、結局は下の兄の思う壺じゃないのか」
「いや、言いなりになって渡すのではなく、引導の意味で渡すんだよ」
「でも」釈然としなかった。兄の不条理に納得したように見えるではないか。
「三枚のお札の話を覚えているかい」彼は唐突に言った。
「うん…覚えてるよ。あの掛け軸の絵を見た時に、君が話してくれたね」
「妖怪から逃げるために、小坊主は和尚からもらった札を使うだろう。1枚使って自分の似姿を作って家から脱出し、1枚使って大川を作り、残りの1枚を使って火の海を作り、妖怪を足止めしながら、やっと寺まで逃げおおせるんだ」
「その後、追いついてきた化け物を、和尚さんが言いくるめて、退治してしまうんだよね。確か、騙して妖怪を小さくさせて、食べてしまうんだったね」
「ラストで和尚が退治する方法は、いろんなパターンがあるよ。大抵は化け物をやっつけてエンドだ。ともあれ、小坊主は和尚から渡された貴重なお札を、全て捨ててしまうだろう。それが化け物から逃げるためには、必要だったからだ」
 漸く彼の言わんとすることが、理解できた。和尚は叔父なのだ。
「僕が彼らから逃れるためには、僕も小坊主と同じように、貰ったものは捨てなきゃいけないというんだな」
「ああ。弟に渡せと言った、君の上の兄の言も一理あるよ。他人事とは言わないまでも、面倒なんだろうね。だから見ないし口も出さない。もう割り切ってるんだろう」
 ぬっぺふほふに見えた上の兄。だからあのような姿に見えたのだろうか。
「絵を渡してしまえば、下の兄は満足するだろう。特に実害があったわけじゃないんだろう」
「ああ、精神的にはまいったけれど、それはないな」
「なら貸し借りもない。関わりを捨てて、財産額は聞かず、全て任せてしまえばいい」
「ああ、でも」下の兄の言葉を思い出した。「兄が財産額を隠して、援助を要求してくるかも知れない」
「もし要求されたら、その時初めて財産額を聞けばいい。私人であれ公人であれ、情報を伏せてる相手に協力できるわけがない。けれども、その際には常識ではなくエゴで交渉すべきだね。どうすべきじゃなく、自分はどうしたいという土俵でね」
「普通はどうするものなんだろう」
「僕が知る限りだと、子の援助は親の財産を使ってからがセオリーだね。成年後見人をつければ株も土地も処分できる。それに隠したくても、相続の時に財産額は明らかになる。養子の君も相続人のひとりだしね。想像だけど、掛け軸は叔父さんの節税対策だろう。いずれ兄弟全員のためになったろうけどね」
「叔父の財産なんて、本人のために残らず使い切ればいいんだ。でも…」
「まだなにか、迷っているのかい」
「掛け軸を渡せば、気持ちが離れてしまって、もう助けようなんて思えなくなるだろう。それでいいんだろうか」
「助けようなんて、おこがましいと思わないか」彼は言った。「厳しいことを言うけど、君は自らの気持ちでしたいのではなく、常識や義務や憐みから、すべきだと考えてはいないか。自分の意思でないなら、そんなものは相手には不要だろう。誠意のない相手にでも、見返りなく損得なく動ける性質ならいいだろう。けれども、君はそんな聖人じゃないだろう」
「僕はそんなつもりじゃ」と言いかけて、思い到る。自分のエゴを考え、距離を置こうと決めたばかりではないか。「自分自身にとって、相手はどのくらい大切なのかってことだね」
「ああ。側にいる人とたまに会う人、ほぼ会わない人では存在の重さは違う。大切なものが違えば、気持ちは共有できないんだ」
 自分も上の兄も、叔父を親として大切に思っている。でも、同居している下の兄ほどではないだろう。上の兄や自分が家を出た後も、長年共にいたのだ。下の兄は、自分が叔父の葉をむしろうとしたら止めた。触れて欲しくなかったのだろう。自分が思うより、叔父は下の兄には大切な存在なのだろう。
 私にとっての彼やあの子のように。
「近くにいない人間にできることはあまりないね。ましてや合わない人間同士では尚更だ」
「そうだね。でも問題はあるのかい。君の上の兄はよく知らないが、問題なく生計をたてているんだろう。君の下の兄は同居して楽をしてたが、叔父さんは老後の生活に安心を得ただろうね。君も伴侶を持てて安心したと言われたんだったね。それでいいんだ。それぞれ違う生き方なんだからね。時を共に過ごす人は移り変わるものだよ」
 ぱんっと胸が晴れた気がした。心に占めていた兄達への憤りの面積が薄れていく。結局は自分の心の持ち方なのだ。
 下の兄は郷里に親類や仲間がいる。上の兄も遠方に仲間がいるだろう。私もこれから帰る家に家族がいるのだ。もうお互いの人生に、深く関わることのない他者なのだ。他者だとやっと気づけたのだ。
「でも少し残念だよ」溜息混じりに吐露する。「時が経てばもっと大人の付き合いができると思ってた」
「期待していたんだな」
「そうかもしれない。気は合わなくても、幼い頃から兄弟として育った。窮地には信頼できると思ったんだ」
 腹が立っていたのは、期待していたからだ。遠くからでも、微力ながら助けになればと思っていた。それがなくなった今やっと気づいた。
「実のところ君の助けなど、必要としていないのだろうね。何年も音沙汰ない遠方の者に、何も期待できないのが普通だ。ひょっとして初めは期待してたかも知れないね。でも今はもうないだろう。君を必要とするならば、そんな態度は取らないだろうからね」
 彼は続ける。「君は自分のせいだと思いがちだ。でも憐れみは不要な感情だ。きっかけは何であれ、嫌な思いをしたのは、君のほうなんだ。彼らはしたいようにしてるんだからね」
「再会した時は、協力しようとしてみえた。思い通りにならなかったのは、下の兄も同じなのだろうか」
 叔父から掛け軸さえ貰わなければ、伯母がそのことを喋ったりしなければ。
「もしも、はないよ。たとえ今回のことがなくても、いつかは嫌な思いをしたんじゃないかな。君は違和感を感じたんだろう」
「兄達が物の怪に見えたこと?」
「気持ち悪いと感じたのは、彼らの心が離れていることが、その顔に現れていたからだろう。別の生き物に見えるくらいに。少なくとも、君は心のどこかでそう感じていたのだろう」
 彼の言葉通りなら、再会した時から、絆は絶たれていたのだろうか。いや、会わない年月の間に、終わっていたのだろう。自分は三枚のお札の小坊主と同じように、ずっと物の怪の家にいたのだ。皮肉なことだが、争いの元となった掛け軸のお陰で、彼らが自分にとって物の怪であると気づいたのだ。
「彼らにとっても、僕はとうに異邦人なのだろうね。ひょっとして、彼らの目には、僕の方が異形の物の怪に見えているのかも知れない」
「それは思ってなかったな。聞いてみなきゃわからないところだ」
「ありがとう。楽になったよ」
 彼は携帯の向こうで笑った。
「よせよな。俺としては、君が辛い思いをするなら、彼らなんかに、関わらないで欲しいだけだよ。向こうがそうしたいというなら、好都合だ。俺もエゴで喋ってるんだ。悪いけど、彼らは俺にとっては他人だからね。君の方が大切なんだよ」
 騒がしい足音が聞こえる。あの子が部屋の中を走り回っているようだ。携帯に出たいとせがんでいる声が聞こえる。一緒に話ができるように、スピーカーモードにしてもらった。
「駅に着いたら連絡しろよ。迎えに行くからな」携帯の奥で優しい声が聞こえる。
「ああ、頼む」
 そうだ、物の怪の家から早く帰ろう。信頼できる人達が私にはいるのだ。
 三枚のお札の話で、小坊主の泊まった家にいたのは、化け物ではなかったのかも知れない。だがただの人間だったとしても、小坊主には化け物にしか見えなかったのだろう。化け物じゃないと自分を誤魔化すのではなく、化け物に見えるのなら、そう対応する他はない。
 掛け軸を渡せば、兄達は私にとって完全な他者となる。繋がりは蜘蛛の糸より細くなるだろう。結局は今までと同様に、あえて会おうとしなければ、会うことはない。
 もしいつか、彼らと会うことがあるのならば、お互いどんな物の怪に見えるのだろう。
 携帯をしまって、車窓の向こうを眺めた。家々の光を切り取って、黒い山の影が過ぎてゆく。行きの電車でも見た古墳群だ。
 樹病は郷里に、古代からある病だという。ならばこの地の神社の御神木は、巨人の身体なのだろうか。古墳に植えられている樹木は、古代の人々の身体なのだろうか。
 叔父が何を思って、自分を引き取ってくれたのかは、もうわからない。だが、あの家に自分を結びつけていたのは、叔父だけだった。樹病が進行して、叔父の身体が完全に樹木となったなら、樹病施設に移される。広大な敷地を有するその場所では、完全に樹となった人々が、日当たりのいい庭に植えられて、永劫の時を過ごすのだ。
 最後に叔父と見た、映画のタイトルはなんだっただろう。叔父は洋画が好きだった。映画館で見る時は、吹替があっても、あえて字幕スーパーを選んでいた。叔父は生きているけれど、もう一緒に映画を見ることはないのだろう。
 電車が揺れる。
 家を出た日の朝のことを思い出した。会社に行く前に、叔父はそっと乾の部屋を覗き、寝てるのか、と声をかけた。乾は寝たふりをしていた。叔父は元気でな、と言ってドアを閉めた。上京する電車の中、車窓の景色がぼやけて、よく見えなかった。
今も景色はぼやけている。


END