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銀の獣の森

彼は天を仰いだ。
青い空はまるで見えず深い深い緑の天井が覆う。巨木に囲まれたこの森の中を、もう何日彷徨っただろう。
【未開の島未開の森、未知の生物を採取しよう】
眉唾ものだと思いつつも魅力的な見出しに釣られ、孤島探検ツアーに参加した。船は巨大な渦の隙間を縫うようにして曳航し、島に到着して探検隊を下すと、まるで厭うかのようにすぐさま出航した。桟橋は落ち葉に覆われ、道は繁みに浸食され、頭上から重く大木の枝が垂れ下がっていた。歩きにくさも未開の島らしさに思えて期待に胸は膨らんだ。
森の奥地に進むと、誘い文句を違えない異形の生物群が現れた。小動物を待ち受けて包み込んで食う巨大な薔薇。腰の丈ほどもありゆっくりと進む枝のような節足昆虫。木立の間を浮遊する海月のような鳥。自分も含めて、探検隊の皆は未知の生物達に無邪気に夢中になった。子供の頃に昆虫採集に没頭したように、写真を撮り、サンプルを取り、虫を捕らえ、花を摘んだ。
気づくと周囲には誰もいなくなっていた。まるで自分だけを残して緑の深淵に飲み込まれてしまったように。
彼は立ち止まり、人の声が聞こえないかと耳を澄ます。
ざわざわと木の葉が揺れる。空気がひんやりと息づく。鳥の声、吐息の音。生き物の気配。
大きな生き物が草を踏む足音。
間違いない。何かが自分を見ている。
一人になってからずっと、何かの気配を感じていた。未知の発見のためなら命は惜しまないと嘯いて、望んで探検に来たけれど、獣に食われるのは遠慮したい。一歩でも前に進まなければ。そう思うのに疲労が身体を蝕んでゆく。後一歩踏み出せばくず折れてしまう。
少し休憩しようと岩に腰掛けた。リュックを探ると水筒と残り少ない携帯食料が入っている。大切に食せねばならない。水を一口飲んで、クッキーをひとかじりする。
木の枝が遠くから順繰りに揺れている。何かが近づいてきているのだ。すぐ側に気配を感じる。猪か熊だろうか。
「誰かいるのか。いるなら出てこいよ」
追跡者が人であることに一縷の望みをかけて呼びかけた。
大木の陰から銀の毛並みが揺れるのが見える。
隠れていた何か、がそろりと姿を現した。
人ではない。見上げるような大きな獣だ。両目の部分に穴が空いた石の面を被り、銀色のふさふさとした毛並みに覆われている。前足には鋭く長い爪が生えている。
背筋が凍るように冷たくなった。こんな獣にかなうわけがない。獣から目を逸さずにリュックを探ぐるものの、武器になるものなど何も入ってない。
小刻みに震える呼吸音が聞こえる。笑っているかのようだ。
しかし獣は近づいては来る様子はない。一定の距離から見つめてくるだけだ。獣の様子を伺いながら立ち上がり歩き出した。獣は一定の距離を保って後ろをついてくる。
開けた場所に尖塔のように聳える巨木が見えた。根本にゴツゴツと大きな瘤がいくつも隆起し、枝葉はドームの天井のように空を覆っている。その下に湖が澄んだ水を湛えている。陽の射さない水面は黒く静かに水底を映し、靄がふうわりと水面の上を漂う。掌に水を掬って飲み干し、水筒に汲む。水を手に入れられた。しかし行きには見たことのない場所だ。この先に行ってもきっと帰れない。
「帰りたいのか、お前」
獣が囁いた。湖の底から響いてくるような声。深淵の呼び声。「帰りたいのか」再び獣は問うた。
「ああ、帰りたい」
答えると獣は面の下で笑うように吐息を漏らした。
「帰り道は見つからない。いくら歩いても。お前は人の身で森に入った。森の物を摘んだ。森の姿を映した。森の物を食した。故にお前は森の一部になった」
「本当なのか」
「嘘を言う理由がない。現にお前は船着き場に戻れないではないか。さほど離れていないはずの船着き場に。だが方法はある」
「どうすればいい」
「お前の身体の一部を我に呉れればいい」
「なんだって?」驚愕して聞き返す。
「お前の身体の一部を呉れるなら森から出られるだろう。目か耳か手足か。どこでも好きな部分を選ぶといい。森を出るには供物が必要だ。森の生き物に返すのだ。供物なくしては森からは出られない。森が望むだけの供物を捧げれば出られよう」
獣は続けて言った。「一つか、二つか、三つか。供物がどれだけ必要かは我は知らない」
彼は迷った。獣の言葉を信用していいのだろうか。しかしいまや食料も尽きかけている。このままでも遠からずいずれ死ぬ。この獣と取り引きをするほかはない。
「じゃあ、耳を呉れてやる」
比較的なくしても困らないのではないかと判断して答える。
「耳だな」
獣は彼の両耳を撫でて屈みこみ、仮面の顔を近づけた。ひやりと耳が凍った気がした。パキリと軽い音が聞こえた。
「代わりに我の耳をやろう」
獣はそう言いながら面の下で咀嚼している。
獣に耳を喰われたようだ。耳のあった場所に触れるとふさっと毛の感触。大きくて先がとがった形。これが獣の耳なのか。
様々な音がクリアになり鼓膜を通り抜けていく。森の中はこんなに様々な音で満ちているのか。遥か遠くの微かな音まで聞こえてくる。木の芽の伸びる音、苔が胞子を吹き出す音。木の皮の下で虫が樹脂を食む音。
貝の呼吸のようなあぶく音は何だろう。あれは光合成で葉が光を吸い込んでいるのだ。木漏れ日が葉を叩く音。花弁が開く密やかな音。音からその生物の形を、存在を捉えられる。
獣と連れだって歩いていくうちにまた道は塞がれた。崖に出たのだ。人が到底越えられないような絶壁。向こう側に道は続いているというのにこれ以上進めない。
「ここまでだろう」獣は言う。「お前の足ではここを越えられない」
「じゃあ足を呉れてやる。そうすればこの先に行けるんだな」
彼は言った。引き返しても帰り道はない。
「お前が望むなら、その足を貰おう」
獣はしゃがみこみ、爪で彼の足を優しく摩る。彼は目を閉じた。ぱきりと氷の割れるような音が聞こえた。目を開けると自分の足の代わりに銀の毛に覆われた獣脚が生えていた。獣は面の下で咀嚼している。
「代わりに我の足を呉れてやった」と獣は言った。
怪物の強靭な足で崖を飛び越えた。勢いで藪を飛び越え、森の中を駆けた。獣も追ってくる。力強いこの足なら森を抜けられるんじゃないだろうか。森に夕暮れが迫っている。夜になるまでに行けるだけ進まなければと、彼は猛然と駆けた。彼の通り過ぎる風圧に木々が騒めいた。
日が落ちた。緑の天井は月光を阻み天鵞絨のような闇をもたらした。月の光が葉の間から見える時だけ、月光を反射する獣の毛皮を手掛かりにして進んだ。
葉陰で月の光が遮られ、ふと、獣の姿が見えなくなった。真の闇の中で立ち竦む。
「どこにいるんだ。近くにいるのか」心細くなり呼びかける。
「側にいる」背後から獣の声がする。含み笑いをしているようだ。
「暗闇の中ではお前は進めないだろう」
「わかってる。だけど食料ももう持たない。時間がないんだ」
「闇に見える目が欲しいか」
獣の言わんとすることはわかった。選択の余地はない。
「欲しい」
彼が答えると獣は顔を近づけた。瞑った目がひやりとした。目を開けると闇が晴れた。昼間とも違う青みがかった明るさ。獣の視界で見る風景。木の葉の間から降り注ぐわずかな月光でも木々は鮮明に見える。空を仰ぐと、葉陰を透かして満天の星が輝いているのが見える。薄桃色と薄青色に分かれた空気の層。その層と層の間を滑るように翅の沢山ある蜻蛉が渡っていく。羽のある生き物はこうやって風に乗るのか。
夜がふけて朝日が枝の間に差し込んだ。光は帯のように色分けされた靄を反射して虹のように煌めく。こんな美しいものを今まで見たことがなかった。
光に誘われるように歩むと藪が開け、切り立った崖のうえに出た。島を見渡せる小高い場所だ。海の方向がわかるはず。しかし海は見えなかった。どこまでも森が広がっている。
リュックの中の食べ物がなくなり、飢えが彼を襲った。
木の実は頭上高くになっており、小動物は自分の足では捕まえられない。太い茨の繁みが行く手を阻む。
「せめてあの木の実をなんとか採れないだろうか」
呟きを聞いて、獣は言う。
「腕を呉れればいい。そうすれば代わりの腕をやろう。いくらでも自分で採れるだろう」
彼は承諾するほかなかった。怪物は彼の腕を一飲みにした。
銀の毛に覆われた腕は強靭で、爪はナイフのように鋭い。素手で茨をへし折り、薙ぎ払って道を作った。
獣の足で追い、爪でひっかけて生き物を捕まえる。彼は四つ足で高い木に登り、木の実をもいだ。森の中で飢えることはなくなった。
だが、いくら進んでも帰り道は見つからない。歩むほどに森の奥深くに沈んでいくようだ。
この森はどれだけの供物を捧げろというのだろう。
彼は獣に言った。身体の残りの全てを捧げると。
獣は快諾し、彼の首から腹をするすると撫でた。彼は目を瞑る。ひやりと凍る感触が胴体を包んだ。
獣は彼を喰らった。そうして彼に代わりの身体を呉れた。
「供物は十分なはずだ」彼は言う。「もうすべてを返した。そうだろう。なのになぜ帰り道がみつからないんだ」
「森が許せば帰り道を見つけられるだろう」獣は平坦な調子で答える。
彼は少し考えて獣に問うた。
「お前は帰り道を知っているのか」
「ああ、知っている」
やはり獣は知っていたのだ。供物などと嘯いて隠していたのだ。
「初めから知っていて、私に教えなかったのか」
「聞かれてない。お前が問うたのは帰る方法だ。」
「ならば今問おう。知ってるならば教えてくれ」
なんとしても聞き出そう。今の自分なら獣の爪も恐れはしない。
「知っていても教えられるものではない。帰り道そのものではないからだ。迷いはお前の中にある」
「私が何を迷っているというんだ」
「帰りたいのか、知りたいのか、お前は自分に問うてみたか」獣は面を震わせて笑う。「未知に惹かれ未知の感覚に溺れる。それは快楽に等しい。それがお前を森に留めているのだ」
「私自身が帰り道をみつけようとしていないというのか」
自分はこんな状況だというのに迷っているのか。未知を求めて森に来た。様々な動植物に魅了された。獣との取引で死から免れた。そうして獣の身体で感じる感覚に魅了されている。自分は迷う限り帰れないというのか。
獣は言った。
「帰りたいと思うならば先導してやろう。喰わせてくれればな」
「もう捧げるものなんてないよ」彼はか細い声で言う。「喰わせてやるものなどもう何もないんだ」
「まだ心があるだろう」獣は彼の胸を爪で突いた。
「お前の心を喰わせて呉れればいい。そうすれば帰れるだろう。獣の身体を持ち獣の感覚に溺れたお前の心がなくなれば、森に迷うことはなくなるからな」
「私の心を捧げろというのか」
獣となったこの身体で、人の心を失くしたのなら、もう自分の命だけしか残らない。
果たしてそれは自分といえるのだろうか。
 
 
随分留守にしてしまったね。どこに行ってたかって?
未開の島の探検ツアーに行っていたんだよ。日帰りの旅のはずが森で迷ってしまってね。長い間彷徨っていたと思っていたのだが、幾日も経っていないらしいね。一緒に探検に行った人たちも無事帰ってきたのかって?知らないよ。そもそも個人で参加したから知り合いはいなかったしね。誰が誰なのか知らないままだったよ。
どうやって森から出られたのか教えようか。森の中で私は銀の獣に会ったんだよ。熊のように大きくて爪が長くて、石の面を被った人語を喋る獣なんだ。信じられないかい。獣は私が帰り道を問うと、代わりに私の身体の部分を望んでね。一つ一つ喰わせる代わりに獣と同じ身体と交換していったんだ。
騙されていたのかもしれないね。どんどん森の奥に連れていかれてしまった気がするからね。
どうやって獣から逃げたのか知りたいかい。獣は私の身体をすべて交換して、最後に心を望んだんだ。切羽詰まった私はついに獣と心を取り替えたんだよ。すると怪物の身体が変化してね、獣は私そのものになったんだよ。船着き場に到着すると獣は森の中に姿を消した。暫くして迎えに来た船に乗って家に帰ってこれたというわけさ。
つまりどういうことかというとね、獣と全部を入れ替えたら、結果的に私は私に戻ってしまったというわけさ。一周回って元通りになったということだね。
なんだい?私の方が獣なんじゃないかと言うんだね。それは自分ではわからないな。私には自分が私だとしか認識できないからね。
でも時々思うんだよ。あの島に、あの森になにかを忘れてきてしまったんじゃないかとね。記憶と魂と器とが別れているのなら、どこに命はあるのだろうね。
あまりに荒唐無稽だと言うんだね。君が信じられないのも無理はないよ。そもそも島に行ったのかどうかすら定かではないんだ。旅行の申込書も残ってないし、誰にも言ってないから誰も知らないのだからね。
そうだね、本当は全部夢を見ていたのかもしれないね。
 
 
獣は洞窟の中でまどろむ。
まるで人間のように暮らしている夢を見た。まるで前世に人であったような、かりそめの思い出のようだ。
のそりと起きて伸びをして毛を立てる。陽を反射して光る銀毛。爪でひっかけて石の仮面をつける。いつも被っているはずなのに何故か初めてつけるように思う。獲物を探して森の中を駆ける。立ち止まり森の隅々まで感覚を拡張する。鳥のさえずりが聞こえる。羽搏きから波紋のように形が見える。大きく口を開けた雛に食餌を与えているのだ。獣は頭上を見あげる。木の実に隠れた小さな哺乳類の匂いが姿を形取る。匂いが触覚となり、雄なのか雌なのか子持ちなのかも明らかに感じられる。物質そのものを理解する。巨木の葉の細胞の呼吸する様、葉脈の一本一本まで鮮明に見える。森のすべてを掌に乗せているような万能感。
日が暮れて夜となった。
獣は空を仰いだ。厚く雲の垂れ込める闇の空でも、獣の目には降り注ぐかのような満天の星々が見える。獣は湖畔に佇み水面を見渡す。月の光が漣を反射してパリパリと音を立て、鈴を鳴らすかのように鼓膜に届く。
獣は森を駆ける。白銀の矢のように。
 
end