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2020/04/19 勝デク小説「フラワー・インフェルノ(魔法の言葉 ・前日譚)」をUPしました。

「フラワー・インフェルノ(魔法の言葉 ・前日譚)」

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もはや見えぬ光よ
かつて私のものだった光よ
もう一度私を照らしてくれ……
やっとたどり着いた
人生は始まったところで終わるのだ

ピエル・パオロ・パゾリーニ
         「アポロンの地獄」より

 

 壁面時計の長針と短針がカチリと重なる。

 時は正午、12時ジャストだ。
 晴れた空の天頂に、太陽は支配者のように輝き、光に灼かれて逃げ遅れた雲がぽつぽつと散らばっている。
 駅から伸びる歩行者専用デッキに立って、僕は周囲を見渡した。
 歩行者デッキはバスロータリーに覆い被さり、片方の端はデパートの二階の入り口に、もう片方は歩道に降りる階段に繋がっている。
 中心は広場になっていて、大きな円弧の上に立つ人物のオブジェが置かれている。片足立ちで空を見上げているその姿は、青い空を背にしてひとり、儚く危うく見える。今にも転んでしまいそうだ。
 手すりに手を置いて、バスロータリーを見下ろした。歩道を歩く幾人かの疎らな人影。駅の周りを取り囲む低層のビルや商店街。その先に高層ビルが1棟聳えている。都心のように喧騒としてはいない、静かな街だ。平日昼間の地方都市。
 ヴィランが潜んでるなんて、到底思えない。
 覚悟して単身この街に乗り込んだけれど、悪戯だったのだろうか。
 けれども、携帯の電波を確認すると、圏外になっていた。田舎ならいざ知らず、中都市の街中であり得ない。街の通信網を遮断したと言っていたのは、本当だったようだ。ピリッと空気が張り詰めた。
 フルカウルにして身構える。皮膚の下を軽微な電流が流れるような感覚。携帯が繋がらないのに、道を歩く誰にも慌てているような様子がない。何故だろう。偽の情報が流されているのだろうか。悪戯などではない、周到な計画の下で。


 ヴィラン連合から呼び出されたのは、数時間前だった。
 街中をパトロールしている時、突然携帯に着信があった。知らない番号だったので、不審に思ったものの、人通りのない横道に入って応答した。
『やあ、久しぶりだな、ガキ。いや、もうガキじゃないか』
 耳障りなざらついた男の声が聞こえた。
 死柄木。姿を晦ましたヴィラン連合のボス。
「僕に何の用だ」
 直接コンタクトを取ってくるなんて、何か魂胆があるのか。今どこに潜んでいるんだろう。なんとか知る手段はないだろうか。
『何、いいところに招待しようと思ってさ』死柄木は楽しそうに言った。『でも大勢招待したくはねえんだよな。なあ、お前一人で来いよ、ヒーローデク。俺の居場所を調べようとか、余計な事すんなよ。通信は傍受している。そういう便利な個性を持った奴がいるからな。ヒーローにコンタクトを取ればすぐにわかるぞ』
「僕が行かなければ、どうするんだ」
『あー、そうだな。お前がもし1人で来なければ、ある街が一瞬で吹き飛ばされることになるな。B街のようにな。ニュースになってたろ。あれさ、俺の仕業だと思わなかったか?』
 ひゅうっと息を呑んだ。
 数日前、街一つが一瞬で消えた事件があった。現場にあったのは、地面ごと抉られたようなクレーターの跡。僕も現場に行ったけれど、クレーターの内側には広大な土地が広がっているだけで、被害者も手がかりも、何一つ見つからなかった。犯行声明もなく、原因不明の事件としていまだ調査中だ。
 だが、現場に残されたコンクリートの外壁の欠片は、触れただけで粉々に砕けた。瞬間、死柄木の個性が頭を過ったのは確かだ。
「お前が首謀者だとしたら、何のためにやったんだ!」
『かっかすんなよ。なに、ちょっとした実験だよ』
「実験…?実験なんかで、そんな」
 あの事件は、やはりヴィラン連合の仕業だったのか。いや、現場に手掛かりがなかったように、ヴィラン連合の仕業だという証拠も何一つないのだ。騙っている可能性もある。奴らは無関係な事件に便乗して、僕をおびき寄せようとしているのかもしれない。
『どうした?返事がないぞ、おい。どうしようかなー。そうだ、1時間後に実行することにしよう。またニュースになるよなあ。知ってて見殺しにしたなら、今度はお前のせいだぜ。なあ、どうする、ヒーロー』
 明らかな罠をちらつかせながら、死柄木は言った。
「わかった」そう答えるしかなかった。「何処に行けばいい」
『場所は教えられないな。先回りされちゃ面白くないだろう。ルートは道中指示してやるよ、さあ、パーティと行こうじゃないか』
 通話は切れた。ざらっとした嘲笑い声が耳に残った。
 たとえ行ったとしても、奴らが約束を守るだろうか。でも、本当にヴィラン連合の仕業だとしたら、現地に行けば惨劇を阻止できるかも知れないんだ。少なくとも街を破壊する理由はなくなるはずだ。ヴィランは街の人達じゃなく僕を狙うだろう。
 敵が大勢いても片っ端からやっつけよう。大丈夫、OFAがあればなんとかなる。一方的にやられたりするものか。


 僕は携帯をしまった。
 ここは街中だ。隔絶された場所じゃないんだ。たとえ外部に通信できなくても、ヴィランによって騒ぎが起これば、きっと近隣のヒーロー達が駆けつけてくれる。
 僕はそれまでもちこたえられればいい。
 歩行者専用デッキを降りて、バスロータリーの周辺を用心しながら歩く。バスやタクシーの運転手、待合場所に並ぶ人々、一般人に怪しげな人はいないようだ。
 死ぬかもしれない、と思った。だからOFAは譲渡した。
 行き先を掴ませないようにする措置だろう。路地を進ませたかと思えば、ビルの上に行くよう指示されたり、行きつ戻りつ、右に左にと迂回させられた。その間ひとりのヒーローにも遭遇することはなかった。彼らが巡回していそうな場所は、巧みに避けられていた。
 けれど幸いにも、経路の途中に洸太くんの通う中学校があった。一か八か、お手洗いに行くと偽って学校に立ち寄り、こっそり彼に会うことができた。彼は未成年で一般人だから、彼らもその存在を知らない。故に接触することが出来たのだろう。
 とはいえ、猶予はほんの数分。詳しい説明は一言二言で、ほとんど髪の毛を一本ちぎって差し出すことしかできなかった。しかし、個性の譲渡という突飛な話を、彼は真剣に聞いてくれ、快諾してくれた。
 胸が痛んだ。林間学校の一件から、彼は両親への蟠りが解けて明るくなった。ヒーローを目指すようになり、来年は雄英の入試を受けるときいた。でも彼にはヒーロー向きの立派な個性がある。無個性だった故に、望んでOFAを継承した僕とは違うのだ。望んでいるわけではないのに、押し付けるようなことをしてしまった。危険に巻き込んでしまうというのに。
 歴代の保持者も、後継者に悩んだのだろうか。誰でもいい。ヒーローに連絡できたなら、彼を巻き込まずに済んだのに。

―自殺志願かよ、クソが!

 幼馴染の声が脳裏に響く。
 かっちゃんはどうしているだろう。暫く会ってないな。君ならきっと僕を罵倒するだろうな。
 我ながら不思議に思う。こんな時でも思うのは他の誰でもない、君のことだなんて。死地に向かう前に、一目でもいいから、君に会いたかった。
 まるでほんの数日前であるかのように、鮮やかな思い出が脳裏に去来した。
 幼い頃から雄英卒業の日まで、同じ時を過ごした君との、酸っぱくて、苦くて、痛い、すれ違いの思い出の数々。和解してからの和やかで幸せな日々。OFAの秘密を共有する者として、関わる機会は前よりぐんと多くなり、時々言い合いをすることもあった。けれども、それもまた、対等になれた証と思えて嬉しかった。
 そういえば、卒業式の日のことだ。君はあの時、何を言おうとしたのだろう。


 式が終わり、卒業証書を手に講堂を出た僕は、ふと渡り廊下で立ち止まった。
 幼いころから憧れた雄英高校。3年間の学校生活は長いようで、あっという間に過ぎてしまった。校門を出ればもう雄英の生徒ではなくなる。立ち去りがたくて、足が動かなくなった。
 扉の側の花壇を何気なく眺めた。僕の背後を、みんなが通り過ぎていった。
 花壇に植えられた樹には、ふっくらとした蕾がいくつも付いていた。どんな花が咲いていたんだろう。
「ぼさっとしてんじゃねえ。クソデク!何見てやがる」
 通りかかった君は、立ち止まり、僕に問うた。
「かっちゃん。いやその、この木は入学した時からあるけど、前はずっと丈が低かったのにねって思って」
「ああ、杏の木だ」君は花壇に顔を向けて言った。「まだ花咲くには早えな。三月下旬に薄紅の花が咲くんだ」
「かっちゃん、なんでもよく知ってるね」
「そのくれえ、常識だっつーんだ!てめえはなんで知らねえんだ」
 みんながみんな知ってるとは思えないのだけど。知ってて当たり前のような物言いは、実にかっちゃんらしい。
「そっか、花が咲く前に卒業だね。毎年咲いてたんだろうけど、気づかなかった。見たかったな」
 満開の淡い紅の花はきっと華やかで綺麗だろう。たとえ誰にも気づかれなくても、密かに蕾をつけてまた花は咲く。

 あんずよ花咲け
 地ぞ早に輝け
 あんずよ花着け
 あんずよ燃え

 室生犀星の詩だったろうか。小学生の時に国語の授業で暗記させられた。
「おい、クソデク」耳元の側から声が聞こえた。
 いつの間にか、かっちゃんは肩が触れるほどに、側に寄ってきていた。吃驚して胸が跳ねた。
「俺は卒業後はK市に行く」かっちゃんは言った。
「そっか、遠いね」離れた土地だ。飛行機でなければ何時間もかかる。簡単には会えなくなる。
「てめえとの腐れ縁もここまでだ、デク。もうてめえの面を見なくて済むと思うと、せいせいするわ」
 なにかと思えば、卒業だというのにそんな憎まれ口。かっちゃんらしいけれど。
「そうだね。物心つかない頃から一緒だもんね。長い付き合いだったね」と調子を合わせた。「かっちゃんとは色々あったね。遊んだり、揶揄われたり、虐められたり、喧嘩したり。それから、和解したり」
 思い出せば、僕の人生のどの場面にも君がいた。
「てめえの秘密を知ったりな」
「うん、それは僕のミスだけど」
 君に嘘をつきたくなくて、隠さなきゃいけないってことを忘れた。「でも僕的には、秘密を知っている人が同じ学校にいること、すごく心強かった」
「は!てめえは迂闊なんだ。あの後もたびたびボロを出しそうになってたろうが。もう俺はてめえの尻拭いはできねえぞ」
「う、うん、気をつけるよ」
 卒業すれば、もう別々になるとわかっていたのに。
 寂しいと思う心にこっそり蓋をして、僕は綻びかけた杏の蕾に目を移した。
 蕾を見ているうちに、言葉がするっとこぼれ落ちた。
 言うつもりじゃなかった言葉。
「僕はね。かっちゃんとは、ずっと一緒なんじゃないかと、心のどこかで思っていたんだ。おかしいよね」
 良くも悪くも心の中には、いつも君の定位置があった。僕のとても柔らかい部分に隣接した場所。君だけにかき乱される場所。
 そこがいずれ誰かに取って代わる日が、来るのだろうか。
 くだらねえと揶揄されるかと思ったけど、君は何も言わなかった。会話は途切れた。渡り廊下を通る生徒も、ひとりふたりと少なくなった。そろそろ行かなきゃならない。
 歩き出そうとしたその時、君は僕の腕を掴んだ。
「まだ話は終わってねえ」
 そう言って、痛いくらい掴んで離さなかった。
 視線が交錯した。真っ直ぐに睨んでくる赤い瞳に囚われた。
 君の口元が歪んで、少し開いた。でも言葉はなかなか継がれなかった。布越しにも君の高い体温が伝わった。強い視線を、息を止めて見つめた。
「おーい、緑谷」
 誰だっただろうか、クラスの友達に名を呼ばれた。
 クソが、と呟く声とともに、腕の拘束は解かれた。そのまま踵を返して、君は立ち去った。
 あの時の君の言葉の続きを、いつか聴くことができるだろうか。

 

 ひらひらと、目の前を薄桃色の花びらが舞った。
 桜の花?こんな季節に花びらが散るなんて、狂い咲きなのだろうか。周囲を見渡してみたが、近くに桜の木は植えられてはいない。
 思案する暇もなく、あっという間に、辺り一帯が桜吹雪に包まれ、僕を中心にして渦を巻いた。
 ヴィランの攻撃なのか。しかし、周囲の通行人は平然としている。この花吹雪は僕にだけ見えてるらしい。ではこれは幻覚だ。いつの間にか敵の個性にかかってしまったのだ。
 側を通り過ぎたはずの男が、ぶらぶらと戻ってきた。しかし桜吹雪で顔がよく見えない。
 突然、男は拳を握って殴りかかってきた。身構えたが、押し寄せる桜の花弁に視界を遮られる。距離感が掴めない。
 だが、パンチは僕の方が早い。
 花弁の隙間から見えた拳を避けて、男を殴り倒す。
 風圧で桃色の欠片は散らばり、空気に溶けるように消えた。
 目眩しの個性か。しかし、このヴィランを倒したからといって、当然終わりではないようだ。横道からヴィランが数人現れた。背後からも迫ってくる。
 一人対大勢では分が悪い。個性で一気に吹っ飛ばすことはできるけど、歩道を歩いている人を巻き込んでしまう。
「危ないです!避けて」と声を上げた。近くを歩いていた人は気づいて、足早に離れてくれたが、離れたところにいる通行人は、こちらに全く気づかない風情で平然としている。インナーヘッドホンでもつけているのだろうか。これではスマッシュは撃てない。
 じりじりと囲まれるように逃げ場を塞がれ、追い詰められる。一旦引こう。
 僕は背後のビルの中に駆け込んだ。エントランスは広く吹き抜けになっていて、エスカレーターが3、4階まで長く伸びている。
 ビルの中で働いている人に迷惑をかけてしまうけれど、外部に連絡してもらえる可能性がある。
 追ってきたヴィランを倒して、エスカレーターを駆け上がる。ヴィラン達も怒号をあげながら上がってきた。追いつかれる。
 3階に上がりきる途中で振り向き、指を弾いてスマッシュを撃った。出力は抑えたが、ヴィラン達は折り重なるようにして、1階まで転げ落ちていった。
 すぐにまた追ってくるだろう。時間稼ぎにしかならない。非常口かどこかから脱出して、体制を整えよう。一般人のいるビルの中で、そうそうスマッシュは撃てない。肉弾戦で一人一人倒していくしかない。
 階下にはヴィラン達が続々と集まってきている。何人相手にすればいいんだろう。
 エスカレーターが途切れたので、通路に入った。片面は壁が硝子張りのオフィス、片側にはドアが並んでいる。
 なんだろう。通路に人の頭部大の水の玉がいくつか浮いている。立ち止まって、後ろを振り返った。ヴィランは追ってきていない。用心しながら水玉に近寄ってみる。なんらかの個性には違いないけれど、この水玉は罠なのか?ほっといた方がいいのか?破壊した方がいいのか?
 僕に気づいた男の人が、硝子の向こうからこっちを見た。他の人にも伝えているようだ。「隠れて」と叫んだが、中年男性が「ちょっと君」と言いながら、オフィスから出てきた。
 彼の側に水玉が近づいてゆく。警告する間もなく、男性は「なんだ?これ」と言い水玉に触れた。
 途端に、水玉が砕けるように割れる。
 解放された水は生き物のようにくねり、男性の頭を包みこんだ。
 やはり罠だったのか!
 男性は水玉の中で泡を吐き、倒れて苦しげにもがいている。外せないかと水玉に入れた指は、ざぶざぶと水をかき混ぜるだけで、取ることはできない。
 この人が窒息してしまう。どうすればいい。風圧ならば一気に吹き飛ばすことはできるだろうか。
 迷ってる場合じゃない。危険だけど試してみるしかない。
 注意深く顔を避けて、小指を曲げて慎重に弾き、スマッシュを撃つ。
 水玉は弾けて蒸発し、男性は苦し気に咳き込んだ。
 騒めくオフィスの人々に「危険だから、出てこないでください」と声をかける。男性の背中をさすり、無事を確認する。
 安堵して、ふう、と息を吐いて立ち上がった瞬間、うっかり背後に浮遊してきた水玉に肩が触れた。
 まずい!と思う間も無く水玉は割れ、中の水が僕の頭を覆うように広がった。
 咄嗟にスマッシュで弾き、背後に跳ねて距離を取ったが、今度は別の水玉が足元にぶつかった。
 破裂して中から出た水は、右足に絡みつき、絞るようにぎゅっと水圧をかけてきた。足を振っても水玉は取れない。筋肉が潰されそうだ。スマッシュで水玉を吹き飛ばす。
 脚を摩り、曲げてみる。骨が折れてはいないみたいだけど、今ので右足にダメージが入った。締められた脹脛が痛む。
 他にも誰かがこの水玉に触れると危険だ。一気に吹き飛ばしてしまわないと、犠牲者が増える。
 僕は廊下の向こうの窓に向かって構えた。ガラス張りのオフィスには風圧がかからないよう、角度を調整する。
 2つ指を曲げて構えて、スマッシュを撃った。
 窓硝子が割れ、浮かんでいた水玉は全て外に吹き飛ばされた。水玉は散開し、細かい飛沫となって、蒸発した。
 これで大丈夫だ、と一息つく間もない。「奴がいたぞ!」と怒鳴り声が聞こえた。今のスマッシュでヴィランにみつかってしまったらしい。
「騒がしいな、一体なんだ」とぼやきながら、硝子張りではない向かい側のドアから、中年の男性が出てきた。
「出てきちゃダメです、ヴィランがいる。逃げて!」と声をかけた。だが遅かった。角から1人のヴィランが現れて、ダッシュでこっちに走ってきた。
 ヴィランに気づいた男性は硬直している。間に合わなかった。今は男性をヴィランから庇いながら戦うしかない。
 ヴィランは腕を広げ、掌からいくつも水泡を吹き出した。水泡はみるみる大きくなり、僕の頭を狙って浮遊してくる。
 水玉の地雷を出すヴィランはこいつだ。
 怯える男性を背後に隠し、水玉を避けて、スマッシュを撃てるように構える。じりじりとガラス張りの壁を伝い、ドアに辿り着く。
「入ったら鍵を掛けてください」と囁き、素早くドアを開けて、男性をオフィスに押し込んだ。
 よし、身軽になった。
「は!遅えよ、ヒーロー」
 ヴィランの勝ち誇った声が聞こえたその瞬間、とぷんと水泡が頭を包んだ。冷たい。目の前が歪み、息ができなくなる。
 ヴィランが近づいてきた。とどめを刺すつもりだ。水泡を出し、相手を窒息させる危険な個性。
 だが、予期していたことだ。
 水を吸いこまないように、息を止めて蹲った。ヴィランは油断している。
 今だ。
 くるっと身体を起こして振り向き、男の脛を蹴って足払いをした。倒れたところで腹に鋭く蹴りを入れる。ヴィランは避ける間もなく、吹っ飛んで昏倒した。
 水玉のヘルメットは霧散した。呼吸出来るようになり、大きく息を吸い込む。他の水泡も蒸発していく。これで罠もなくなった。
 立ち上がり、オフィスの人々に声をかける。
ヴィランが大勢侵入してきてます。ここは、危険です。外に避難できればいいんですが、危険なのでまだ外に出ないで、今は隠れてください」
 僕が移動すればヴィランも続いてくる。その後なら避難できるだろう。
「なんとかヒーローに連絡できませんか」硝子越しに先ほどの男性に問うた。
「そうしたいところなんだが、朝から携帯もパソコンも不安定なんだ。市内では問題ないんだが、まだ外部には連絡できなくてね。午後には復旧すると市から通達があったんだが」
「恐らく偽の情報だと思います」
 硝子の向こうから、溜息と共に返事が返ってきた。「これからどうなってしまうんだ」
「大丈夫です。僕がいます」
 何の根拠もないけれど、男性に向かって微笑む。僕はヒーローだ、みんなを不安にさせちゃいけない。とりあえず危険な水玉の地雷は吹き飛ばしたんだ。後は僕がここから離ればいい。
 廊下に出ると、左右からヴィランの怒号が聴こえてきた。挟み撃ちだ。どっちにも行けない。正面の非常階段のドアを開け、階段を駆け上がる。
 いきなり脹脛に突き刺されたような痛みが走った。
 何が起こった?
 見ると、右足脹脛が黒い棘に貫かれていた。棘は床から突き出したのだ。足の裏は靴底に守られたが、脹脛は防げなかった。棘を折って引き抜くと、血が吹き出して布地に染み出てきた。
 棘の生えてきた場所を確認する。何の装置もないように見える。けれども、足元にいくつもの丸い黒ずんだシミがある。見上げると、上も壁も、階段一面に黒いシミが浮き出ている。ここも罠が張られていた。誘い込まれたのだ。
 階下から大勢のヴィラン達の声が轟いてきた。引き返せない。
 黒いシミは避けきれない。ならば棘に貫かれるより早く移動するしかない。
 勢いよくジャンプして、天井を蹴る。
 シミから棘、が僕を狙って飛び出した。
 棘をかわして、壁に向かってジャンプする。
 床から棘が勢いよく数本伸びてきた。
 腕を払って棘を折り、床を蹴って壁に跳ぶ。
 しまった、シミを踏んでしまった。棘が飛び出てくる。
 先端が身体に届く前に、反対側の壁に跳ぶ。
 反動をつけ、壁や天井を蹴り、次々と跳ねて、階段を上る。
 シミを踏まないようにしていたのだが、影にも反応するようだ。通り過ぎるそばから、床だけでなく天井や床からも、棘が飛び出てくる。
 鋭い切先が服を破り、身体を掠める。手足が棘に貫かれ、血が階段に飛び散る。
 駆け抜けたのは、ほんの数秒のことだったろう。ようやく最上階に辿り着いた。水玉と棘でダメージを受けた右足を引き摺りながら、屋上のドアを開ける。


 見えるのは広く開けた遠い風景だった。
 白いコンクリートの床にヘリポート。このビルは歩行者歩道から見えた、唯一の高層ビルだ。周囲からぽんと浮き出た塔のようなビル。
 疎らにあった雲はもう何処かに消え、青ざめた空はどこまでも広がっている。
 蒼い牢獄だ。
 最上階に上ってきて、僕はどう脱出しようと思ったのだろう。地上から何十、何百メートルあるのだろうか。負傷した身では、ここから落ちれば流石にただでは済まない。
 ヘリポートに助けが来るわけがない。ここには僕の他にヒーローはいない。下からはヴィランが追って来ている。轟くような大勢の足音。敵の人数が膨れ上がっているのがわかる。
 開け放したままのドアから、ヴィラン達が現れ、下卑た笑みを浮かべた。
「行き止まりだぜ。観念するんだな」
「飛び降りてみるか、ヒーロー。うまく着地できれば助かるかもしんねえぞ。下には俺たちの仲間が待ってるがな」
 迫ってくるヴィラン達を睨みつけ、フルカウルになる。右足にずきんと痛みが走った。棘と水玉から食らったダメージだ。この状態でどのくらい戦えるだろう。
 空を仰ぐ。天空には遮るもののない太陽。
 あの日も空は澄んで青かった。
 太陽のようだと憧れた
 あんな風になりたいと思った
 眩しくて、触れたくて、手を伸ばした。
 自惚れてたのかな。1人で攻略できると思ったなんて。
 僕はこのビルに誘い込まれたのだ。いや、この街に到着した時から、死柄木からの携帯に出た時から、初めから罠は張られていたのだ。
 でも、他に方法は思いつかなかった。もし行かなければ、死柄木は住んでいる人々諸共に、この街を破壊しただろう。駅の周りにいた人達も、さっきこのビルで会った人達も、塵にされてしまっただろう。それをわかっていて見殺しにするなんて、僕にはできなかった。たとえ罠だと解っていても。

 お母さん、ごめんなさい。
 オールマイト、ごめんなさい。
 この結果は僕が選んだんだ。
 他のヒーローなら、どうしただろう。
 オールマイトなら、どうしただろう。
 かっちゃんなら、どうしただろう。

 獲物を追い詰めた優越感だろう。ヴィラン達は僕を取り巻くように広がり、ゆっくりと迫ってくる。

―てめえは阿呆だ。緻密に計画するくせに、土壇場で考えなしに飛び出しやがる

 かっちゃんに何度も怒られた。成長してないな、僕は。
 1人でどこまでやれるだろう。でも、むざむざやられたりしない。僕は逃げに来たんじゃない。戦いに来たんだ。負けるものか。足掻いて藻掻いて、最後まで戦い切ってやる。 フルカウルのパーセンテージを引き上げる。
 25パーセント、50パーセント。
 全身の筋肉が弾けて、血液が沸騰するみたいに感じる。
 80パーセント。

「緑谷!」
 空耳だろうか、僕を呼ぶ声が聞こえた。聞き覚えのある声。
 見上げた空から白い何かが、孤を描きながら、飛んでくる。
 飛行機雲?いや、縄のような何かのような。
 考えている内に、飛んできたものが蛇のようにしなり、腰回りにぐるりと巻きついた。
 これは、縄じゃなくて布だ。
 ぐんっと凄い力で白い布に引っ張られ、勢いよくビルの手すりの側に引き寄せられる。更に引っ張られて身体はホップし、手すりを越えて高く宙に浮遊する。
 視界に映る景色が青い空から逆さの街になった。
 真っ逆さまにビルから落下していると気づき、僕は悲鳴を上げた。
 まずい、ヴィランがまさか、ビルの下から来るなんて思わなかった。
 落下しながら、なんとか外せないかと、拘束する布を掴んで気づく。
 待てよ。よく見ると、この布は見覚えのある色と感触をしている。相澤先生の布に似ているような。
 まさか先生が来てる?
 アスファルトに叩きつけられると思って目を瞑った瞬間、誰かの腕に抱きとめられた。
「ドンピシャ!」
 聞き覚えのある別の誰かの声。薄目を開けると、いくつもの懐かしい顔が見えた。雄英の同級生の面々だ。安堵した表情で僕を取り囲んでいる。抱きとめてくれたのは飯田君だ。
「みんな!」
「全く、お前は馬鹿か」
 隣でふわふわと浮いている男が、静かに呟く。白い布がするすると解かれ、彼の首に巻きついて襟巻き状になる。
「え?心操くん?」
ヴィランを洗脳して、このビルに案内させてなきゃあ、やべえとこだったぜ」と心操くんは言い、「おい、解除してくれ」と麗日さんを振り見て、地面に降り立った。
「危なかったな、緑谷くん」飯田君の心配げな声。息が上がっていて、青ざめている。
「飯田がダッシュして、抱きとめたんだ。と轟君が説明する。
「何処に落ちても受け止められるように、ネット張ったのによ。いらなかったじゃねえか、飯田」
 瀬呂君が呆れたように笑う。見ると、ビルの玄関口付近には瀬呂君のテープが、大きなハンモック状に張り巡らされている。
「僕はビルの屋上から落ちたんだよ?すごいGがかかったよね。飯田くん、腕は折れてない?大丈夫?」
「問題ない。抱きとめる瞬間に麗日君が軽くしてくれた。レシプロバーストを使ったから足はエンストしてるが、大丈夫!すぐ復活する」飯田君の脹脛からは黒い煙が上がっている。
「無理してくれたんだ、ごめん。ううん、ありがとう」
「間に合ってよかったよ、立てる?」側で麗日さんが泣き笑いの表情を浮かべている。
 皆が駆けつけてくれた。
「どうした、緑谷君、目が潤んでるぞ。痛いのか」
「ううん。ヒーローが来てくれるってことは、こんなに嬉しいんだなって思って」
「ばっかだなあ、お前もヒーローだろ、緑谷!」切島君が言う。「俺たちは仲間を助けに来たんだっての」
 ビルの前庭の木立の中に連れていかれ、木の幹に寄りかかるように降ろされた。
「どうしてここがわかったの」僕は問うた。誰にも告げてないし、僕自身到着するまで何処に連れて行かれるのか、わからなかった。
「最初から話そう。洸太君が連絡してくれたんだ」飯田君が言った。「君がどこにいるのかも、何が起こったのかもわからないから、誰も信じてくれない。でも緑谷君が危ないらしいと」
「皆に一斉送信して、返信きた奴に声をかけて、皆でヴィラン連合の奴を手当たり次第に捕まえたんだぜ。勝手に動いたりして、上司のプロヒーローに見つかったらやべえけどよ。奴らの誰が情報持ってるかわかんねえしよ」上鳴が言った。
「捕まえてしまえば、後は心操の出番だ」と切島がくいっと指で示す。「こいつが一番の功労者だぜ。片っ端からヴィラン連合の奴を洗脳して、計画を知ってる奴を見つけ出して、ここまで案内させたんだ」
「すごい!心操君の個性はほんとにすごいな」
 ヴィラン向きの個性だと悩んでいた心操君。味方にいればこんなに頼もしいんだ。
「もうすぐ他のプロヒーローも来る」照れたのか、心操君はそっぽを向いてしまった。「1人で戦ってんじゃねえよ。緑谷」
「触るけど、痛くねえか」瀬呂君がテープをちぎって、僕の腕をそっと掴んだ。
「大丈夫。そんな痛くないから」
「今は縛るくらいの応急処置しかできねえけどよ。リカバリーガールが来たら、ちゃんと治療してもらおうな」
 棘に裂かれた傷は深くはないが、思ったより多い。手足の出血箇所にテープを巻かれなら、ちらちらと周りを見回す。
「爆豪は来てねえんだ。連絡つかなくてよ」
「え、僕は何も、かっちゃんなんて、誰も、探してないよ」
 心を読まれていたのかと慌てて、しどろもどろに言葉を紡ぐ。
「ま、連絡ついても、あいつのとこからは相当距離あっから、来るのは難しかっただろうけどな。爆豪がいりゃあ、強力な戦力になんだがな。よし、済んだ」
 瀬呂君はビルの方を振り向いて言う。「これから始まんだからよ」
 怒号が近づいてくる。ヴィラン達がビルの入り口から出てきたのだ。僕を逃してしまい、屋上から引き返してきたのだろう。
「おいでなすったな。行ってくるぜ。緑谷は暫く休んでろよ」
 皆がビルの入り口に押し寄せ、ヴィラン達を取り囲んだ。今や彼らは顔の知れたプロヒーローだ。ヴィラン達は思わぬ事態に怯んで、散り散りになって逃げていく。
 その時、街の中で爆発音が轟いた。
 爆発は次々と連鎖的に響き、地面がぐらぐらと揺れる。一瞬かっちゃんが来たのかと思った。だが人々の悲鳴が聞こえてくる。違う、かっちゃんなわけがないじゃないか。ヴィランの別働隊だろう。
「はいはい、うぜえヒーローどもが。羽虫みたいに湧いてきやがって。まあいい、ならばプランBに移行するだけだ。精々プロヒーローを集めろよ。シビルウォーはこれからだ」
 死柄木の声が、街頭スピーカーから流れてくる。
「俺は向こうに行くぞ」轟君が爆発のあった方向に走ってゆく。
「やはりヴィラン連合か。皆、気を引き締めるんだ」飯田君はトントンと足踏みする。「大丈夫、足は回復してきた。僕も行ってくる」とダッシュして轟君に続いた。
「ああ、これからだな、プロヒーローが来る前に、すこしでもヴィラン共の頭数を減らしとこうぜ、なあ、皆!」
 切島君が拳を握って振り上げ、皆が肯く。
 さらに爆破音が轟き、それと共にそこかしこのビルから黒煙が立ち上り、空を墨を吐いたように禍々しく染めてゆく。ヒーローたちはそれぞれの戦場に散っていった。
 腕をついて身体を起こす。ずきっと痛みが走った。でも休んでなんていられない。戦闘に参加できなくても、避難誘導くらいならできる。
 不意に誰かに右腕を触られた感触がした。
 途端に腕が燃やされたように熱くなる。
 振り返って戦慄した。掌大の黒い空間から手が生えて、僕の手首に触れているのが見えた。
 ほんのゼロコンマ何秒の一瞬。
 危険を感じてすぐに手を引っ込めたが、グローブが崩れて、瀬呂くんのテープが粉になり、皮膚がパリパリと裂けて剥落してゆく。
「あー、残念。もうちょっとで塵にしてやれたのにな」
 ワープゲートから半身を出して、死柄木が笑っている。
「死柄木、やはりお前が!」
 二の腕まで皮膚が剥がれた。あかむけになった腕に血が滲んでくる。大丈夫だ。痛いけど動かせる。スマッシュは撃てる。
「俺のことより、いいのか?ヒーロー」
 死柄木は、くいっとビルに顔を向けた。促されるままに振り返る。ビルの中から悲鳴が聞こえてきた。僕が出てきたばかりのビルだ。そういえば、ヴィランは出てきたけど、中にいた人達は避難できたんだろうか。
「助けてやるんだろ、救えない人間はいないんだろ。ヒーロー。したいようにしろよ。邪魔はしねえよ。俺はこれから別件で忙しいんだ。行かなきゃならないところがあるからな」
 別件って何のことだろう。問い返す前にワープゲートが閉じた。何事もなかったかのように空間が揺らいで元に戻る。
「緑谷くん、何か声が聞こえたが……その腕どうした!血塗れになってるじゃないか。何があったんだ」戻ってきた飯田が驚いて言った。
「これは、その、大丈夫だよ。それより、あのビルに誰か残されてる。悲鳴が聞こえたんだ。僕が入った時、中に一般の人がいたんだよ。きっと避難出来なかったんだ」
「わかった。僕が行こう」
「ううん、僕が行く。さっき入ったばかりのビルだ。勝手はわかってる」
「デクくんは休んでて。ぼろぼろだよ」駆けつけた麗日さんも、心配そうな眼差しを向けてくる。
 またビルから悲鳴が聞こえる。
「大丈夫。僕が行かなきゃ」と走り出し、振り返ってふたりに笑いかける。「助けたら合流するから」
 ビルの中を駆け上がり、火の手のある階に向かい、悲鳴の聞こえてくる方角に向かう。オフィスのドアを次々に開けたが、誰もいない。いくつめかのドアを開けると、何人かの人が集まっていた。部屋の隅に縮こまって固まっている。
「大丈夫ですか」
 声をかけると、彼らはそろって一斉に振り返った。
 何かおかしい、ロボットのような動きだ。
 彼らの目から光りが消えた。顔がひしゃげて膨れ、ひび割れた表皮の隙間から光りが漏れ出た。
 人間じゃない。これは罠だ。
 人であったものの頭が次々と弾ける。
 閃光。咄嗟に腕で頭を庇った。
 右腕に千々に引き裂かれるような痛みが走る。破裂音と共にあたり一面が光に包まれた。


 この戦いが終わったら、かっちゃんに会いに行こう。
 煙たがれるかもしれないけど、罵倒されるかもしれないけど。
 でも、会いたいんだ。


 赤い雫が雪のように舞っている。
 僕の血飛沫なのだろうか。腕の手当てをしてなかったから、血管から溢れてしまったんだろうか。
 地面に張り付いて動かない腕から、ぽたりぽたりと雫が滴る。
 雫は跳ねて、群れをなした魚のように宙を遊泳する
 紅色の玉は日に透けて、宝石のようだ。華やかで綺麗だ。
 見ているうちに、赤い雫はいつしか花弁に変わった。花弁の幻を見せるヴィランの個性攻撃だろうか。
 揺蕩う内に花弁の色は薄紅色に変わってゆく。
 桃の花だろうか、梅の花だろうか。桜の花だろうか。
 横たわる身体に花弁が降り積もる。花弁は絨毯のように地面を覆っていく。身体は指ひとつ動かない。
「杏の花だ、わかんだろ」
 誰かの声が聞こえる。
 その声音は幼馴染に似ている。
 ああ、杏の花か。いつだかそんな話をした
 花吹雪の中に、誰かが立っている。
 誰なのだろう、首を傾けて目を凝らす。
 彼はこっちを向いて自分に話しかける。
「やっと咲いたんだぜ。クソナード」
 花が渦を巻く。花弁の雨の中にいるのは、会いたくて堪らなかった幼馴染。
 彼はこちらに歩いてくる。蹴散らされた花弁が足元を舞う。
「なあ、わかんだろ、デク」
 彼はすぐ脇に近づいてきて僕を見下ろす。
 笑っているんだろうか。怒っているんだろうか。逆光になってるから君の顔がよく見えない。
 回り込んだ光が、彼の輪郭を明るく縁取る。赤い血潮と同じ色の瞳が、とても綺麗だなと思う。
「まだ話は終わってねえ」
 蹲み込んで見下ろしてくる鋭い眼差しが、三日月のように細くなる。

 

 瞼の裏が明るい。
 ざわめきが聞こえる。
 重い瞼を開いてみた。
 茫洋と滲んでよく見えないけれど、うっすらと光を感じる。
 幾人かの人が僕を取り囲んでいるようだ。
 ここは何処なんだろう。
 次第に周囲がはっきり見えてきた。白衣の人達がひとりふたり、離れたところにも何人かいる。医務室か、病院の中だ。相澤先生とお医者さん、あと誰だろう、黒服の男の人。会ったことあるような気もするけれど。
 僕助かったんだ。
 壁一面の大きなガラス窓の向こうに、皆の顔が見える。すごく心配そうな表情でこちらを見ている。
 よかった、皆無事だったんだ。
 かっちゃんもいる。目を釣り上げて、ものすごく怒った顔してる。聞こえないけれど、怒鳴っているようだ。きっと僕を罵倒しているのだろう。
 君も心配してくれたのかななんて、勘違いしそうになる。
 心配ないよ。だって、生きてるんだ。
 生き延びることができたんだ。
 OFAはもう失われたけれど。みんながいる。先生達もいる。
 君がいる。
 ああ、大丈夫だって知らせなくちゃ。でも身体が固まってしまって、小指一本たりとも動かない。口の中も切ってるみたいだ。血の味がする。
 痛いなと思いながら、頬を上に上げる。

 僕はちゃんと笑顔を作れてるだろうか。

 

 END

 


 杏の花言葉
「臆病な愛 早すぎた恋」

物の怪の家

叔父が「樹病」に罹患し、入院したと、下の兄から連絡があった。
上の兄も飛行機の便をとって、今日中に駆けつけるという。乾は急いで一泊分の着替えを旅行鞄にまとめ、伴侶に連絡をして、特急電車に乗った。
同じ県内にある実家とはいえ、複数の市を跨いでおり、ほぼ県の端である。トンネルを過ぎるたびに、車窓から見える景色の様相が変わる。街並みを過ぎると緑の田畑が広がった。田畑の向こうにこんもりと緑に覆われた、古墳のような低い山が連なり、ゆっくりと通り過ぎていった。
 この景色を見たのは、もう何年前になるだろう。大学の時に出奔してから、家に戻ったことはない。
 駅からバスに乗り、病院に到着した。面会カードを書いて、HCLの扉の前で待機する。 暫くして入り口が開き、病室の廊下に通された。病室の引き戸は硝子張りであり、硝子窓の向こうに、枝葉の影が差した。
 部屋に足を踏み入れた。青々とした葉の色が目に入る。
 ベッドの上に叔父の身体が横たわっている。その手足の関節からは枝が生え、青葉が繁っている。樹病の症状だった。
「樹病」は、この地に特有の病だ。眠るように意識がなくなり、身体が樹木と化してゆく。意識が戻れば回復の見込みはあるのだが、大抵はそのまま、節々から枝が伸び、葉を茂らせ、樹となる。
 看護師が枝葉を払いながら言った。光合成ができるようになると、食事を必要としなくなります。胴が幹になるまで、何年もかかるでしょう。完全に樹化したなら、療養所に移ってもらうことになります。失礼ですが、ご関係は息子さんですか。
 息子と言おうとして、少し考えて答えた。
「私は甥です。幼い頃に父母が亡くなり、叔父の養子になりました」
「他にご家族は来られますか」
「従兄弟達…叔父の実の息子の2人が来るはずです。上の兄、下の兄と呼んでます」
「小さな子供は病室に入れないのですが、お子さんも来られますか」
「いえ2人とも未婚です。私は伴侶と子供がおりますが、今日は来てません」
 伴侶が同性で、子供は養子とは言わなかった。来ていないのだから、あえて言う必要はないだろう。
 父親である叔父、従兄弟であり、兄でもある2人。
 自分は幼い頃に両親を亡くし、父方の叔父の家族に、養子として引き取られた。
叔父と叔母は共働きで、2人とも帰宅は遅かった。叔父は言葉少なく、叔母ともほとんど会話することがなかった。我関せずの上の兄、我の強い下の兄。異邦人である自分は家に居づらく、学生時代の帰宅時間は自然と遅くなった。
 今となっては、生活的には分け隔てなく育てられていたと思う。亡き父の保険からだと言っていたが、大学の学費まで出してくれたことには、感謝している。
 家を出てから暫くして、叔父夫婦が離婚したと聞いた。その後、上の兄は遠方の大学を出て、その地で就職した。下の兄は家を出ず、実家の離れに住み、専門学校の時の仲間と、何か事業を営んでいるらしい。
 叔父はたまに連絡を寄越したが、叔母や兄達とは疎遠になっていった。


 背後で戸が開く音がした。兄達が病室に入ってきたのだ。
「久しぶりだな。随分と会ってないが、お前は変わらないな」彼らは言った。
 乾は言葉が出なかった。兄達の相貌が、昔と違って見えたのだ。違うどころではない。彼らは異形の姿をしていた。
 上の兄の顔は、目と口のあるあたりに、浅い窪みと僅かな鼻の隆起があり、まるで埴輪のような面相だった。手足はひょろりと細く短く、手は丸くて指がなかった。
 下の兄は鼻の上に、拳大の目がひとつだけあった。肩からは腕ではなく、三本指の付いた触手が、5、6本生えていた。触手の表皮は皺皺として、皺の間に何が黒いものが見え隠れしていた。
 長旅で疲れて、幻覚が見えているのだろうか。しかし、ゴシゴシと目を擦ってみたが、彼らの姿は変わらない。兄達が異形に見えるなんて、頭がどうかしたんだろうか。
 医師は彼らに、改めて叔父の様子を説明している。看護師も普通に接している。
 どうやら私にだけそう見えているらしい。幻覚だ、気のせいだと我慢し、平静を装って久しぶりだね、と返事した。
「幸い財産はあるし、賃貸や株も持ってるから、収入はある。長期入院でも大丈夫だ」
一つ目を瞬かせて下の兄は言った。「高額医療制度はありがたいな。ひとまず年金で足りそうだ」
 部屋いっぱいに繁ってしまうな、と下の兄は触手を使って、葉を摘んでちぎり、屑篭に捨てた。
「叔父は痛いと感じるんじゃないか」と言うと、下の兄は「爪や髪みたいなもんだろう。ほっとくと生え放題だ」と返し、甲斐甲斐しく剪定した。自分も下の兄と同じ様に葉を摘むと、自分がやるから、お前はしなくていいと言われた。
 兄達と共に病院から戻り、久しぶりに家の敷居を跨いだ。しかし、ゆっくりはしてられなかった。というのも、入院の報を聞いて、近所に住んでいる叔父の兄弟達が、かわるがわる訪問してきたのだ。慌ただしく応対し、夕方になってやっと一息つけた。
 居間に集まって卓を囲んで座り、下の兄にひとしきり、彼の行っている事業の自慢を聞かされた。話が済むと、下の兄は一つ目をぎょろりと見開いた。
「さて、これからのことを相談しよう。わかってるな。疎遠にしていたが、これからは兄弟で協力しなければならないからな」と言うとこちらを向いた。「お前の彼やらは来ないようだな」
「子供を見ててくれてるんだ」
「あ?お前たち男同士だろう。子供だと?」
「前に言っただろう。彼の兄の息子を引き取ったんだ」
「そう言えば、そんなこと言ってたな。一時的なのかと思ってたよ」一つ目を細めて、嘲笑うように兄は言った。「まだ家族ごっこを続けているのか」
 嫌な気分になった。わざわざこちらを不快にさせることを言う。昔から彼にはそんな癖がある。
 以前こんなことがあった。
 彼の甥を引き取ることを決め、伴侶になった時のことだ。それを実家に伝えた時、口頭で済ませようと思ったのに、下の兄は彼に会わせろと、しつこく迫った。仕方なく喫茶店で対面させたが、散々だった。
 下の兄は彼に嫌味を言い、失礼な態度を取ったあげくに、堂々と食事を奢らせたのだ。彼は終始穏やかだったが、私は恥ずかしく、彼に申し訳なく思った。
 兄は忘れているだろうか。私はよく覚えているし、忘れたりしない。それまでは彼とは触れ合うだけの関係だったが、その夜初めて受け入れた。
 居間の隣の襖を開けると、日本間があり、小さな仏壇が置いてあった。仏壇の隣の床の間には、華やかな花魁を描いた掛け軸が飾ってある。普通は書や縁起物や、山水や四季の絵を飾ることが多い。でも、叔父は自分の好きな絵を飾ったようだ。
 上の兄は掛け軸に顔を向けると「女郎の絵か。こんなの飾るなんてな」とさらりと言った。この掛け軸を叔父が気に入っていたことは、上の兄も知っている。
 たとえ思ったとしても、言わなくていいのに、何故わざわざ口に出すのだろう。不思議に思うとともに、上の兄に伴侶を会わせた時のことを思い出した。
 上の兄には彼とのことを電話で告げた。肯定でも否定ない、あっさりした返事が返ってきた。後日、上の兄に彼に会わせた。穏やかに談笑したが、彼が席を外した時に上の兄は「普通っぽくてホモには見えないな」とさらりと言った。悪気のない調子だった。だからこそ少し苛ついたが、兄の欠点だと思うことにして聞き流した。事なかれ主義の兄だが、時々デリカシーに欠けるところがある。
 自分の部屋は物置になっていた。ベッドの上に布団はなく、沢山の物が無造作に載せられていて、埃を被っている。
「とても泊まれそうにないね」
 下の兄はふん、と鼻を鳴らして言った。「いない人間の部屋を、そのままにして置いておくわけがないだろう。荷物を隅に寄せればいい。一晩くらい泊まれるだろう」
「いや、もう行くよ。ホテルの予約を入れてあるから」
もともと自分に泊まる部屋があるとは、思っていなかった。
じゃあ明日なと言って、上の兄は二階に上がっていった。彼はたまに帰ることがあるので、部屋はあるらしい。


 ホテルに到着し、シャワーを浴びて一息ついた。
 実家からホテルまでの道中、道ゆく人を眺めていたが、全て普通の人間に見えることに安堵した。兄達についても、きっと疲れていて、幻覚でも見たのだろう。
 昔からこの町には、物の怪が見える人や、妖怪を目撃したという人が、少なからずいた。樹病のような、特有の風土病もあるくらいだ。幼い頃から、さほど不思議に思わず聞き流していた。昔は獣と化して山に入る獣病や、羽毛が生えて鳥になる鳥病があったという言い伝えもある。
 乾が伴侶である彼と会ったのも、そんな話がきっかけだ。
 大学の頃に飲み会で、郷里の不思議話をしたら、近くに座っていた彼が乗り出してきた。彼は民俗学をやっていると言った。郷里の土地柄を知ると興味津々で、研究室に通ってくるようになり、よく雑談をした。そのうち自分のアパートに頻繁に来るようになり、ふざけ合っているうちに関係を持った。
 自分が同性相手にできるなんて思っていなかったが、一度許してしまうと触れ合うことに抵抗がなくなった。回を重ねてゆくごとに次第に当たり前になった。初めからそういう関係を望んでいたと、彼から言われた時には、既に恋人同士になっていた。
 携帯を開いて、伴侶から着信があったことに気づいた。折り返して電話をかけた。
「気づかなくてすまない。今ホテルの部屋だよ。さっきまでシャワーを浴びてたんだ」
「いや、構わないよ。随分遅くなったね。お疲れ様」
「あの子はもう寝てるのかい」
「ああ、ぐっすりだよ。さっきまでおやすみを言いたいからって、頑張って起きてたんだけどな」
「残念だな。僕も話をしたかったよ」
「帰ったらすぐ顔を見れるよ。明日は帰るんだろう」
「そのつもりだよ」
 通話を切ると、すぐに眠る子供の顔が送られてきた。ソファに横向きに頭を乗せて、ふっくらした頬がふにゃりと潰れている。疲労した心が和む。
 兄の子供だと彼は言った。
 彼の兄夫婦が事故死し、ひとり残された息子は施設に預けられていた。彼の両親は既に他界しており、家族の反対や経済的な事情などで、親族が引き取るのは困難だったらしい。学生の彼には、初めから面倒を見る話は来なかった。彼の頭越しに親戚同士で相談がなされ、子供はひとまず施設で様子を見ることになったという。
 付き合い初めてから数ヶ月経った頃だ。「甥に会ってくれないか」とその施設に連れて行かれた。
 彼が名を呼ぶと、先生に手を繋がれた子供が歩いてきた。まだ赤ん坊の面影があるが、彼によく似た、利発そうな面立ちだった。顔を見ていると、どんぐり眼と目が合った。子供は駆け寄ってきて自分の前に立ち、両手を突き出して抱っこを要求してきた。
 彼は苦笑いして、「図々しいぞ」と子供の頭を撫でながら、自分に向かって「いいか?」問うた。
「いいよ」と笑って答え、両脇を支えて持ち上げ、腕に抱えた。にこにこと笑う子供の軽さに驚いた。
「あの子をうちに引き取りたいんだ」
 帰り道で彼は言った。「時々逢いに行くんだけど、だんだん元気がなくなっていくんだ。もっと標準豊かな腕白坊主だった。あのままでいいと思えない」
 子犬のように軽い小さな身体。確かに、まだ庇護者の必要な子供だ。しかし。
「君1人で子供の世話をするなんて、難しいだろう」
「わかってる」彼は俯いた。「今の俺は学生だしね。でもやりようはあるんじゃないかと思ってる」
「そうか、あの子を可愛がってたんだね」
「いや、そうでもないんだけどな」彼はポリポリと頬をかいた。「長期休暇の時に実家で会うくらいだった。そうだな、自分にしかできないって思うからかな。説明しにくいんだが」
 困難であっても引き取ると、彼はもう決めているのだろう。
「偉いな君は。手伝えることがあれば、僕も手伝うよ」と答えると、彼は顔を上げた。
「なあ、相談なんだが。俺と一緒に住んでくれないか。君と共になら、あの子を引き取れると思うんだ」
 突然の申し出に、躊躇しなかったといえば嘘になる。つまり子供を引き取るかどうかは、自分にかかっているということだ。
 彼と同居することに異論はない。だが、この流れで同居することは、そのまま伴侶になることに等しい。それは付き合うことより、遥かに覚悟が伴う。
 でも、子供の境遇に、自分の生い立ちがダブった。叔父が引き取ってくれたから、自分は施設にはいかずにすんだのだ。
 幼い頃なので覚えていないが、通夜の席で叔父は、自分を引き取ると言ったそうだ。既に子供が2人いるのに、人1人を引き取るなんて、今思えば大変なことだ。
 彼の手助けは、自分にしかできないことではないだろうか。ある意味で自分の人生への、恩返しになるのではないだろうか。
「うん、いいよ」と答えると、彼は破顔してありがとうと言った。
「実はね、君の境遇を聞いたから、この子を引き取ろうと思ったんだ。誰かが引き取ってくれればいいのに、ほっといてはいけないのに、どうすればいいんだろうって、ずっと悩んでいた。学生の身では色々問題あるだろうけど、叔父や叔母に協力してもらってなんとかする。俺が自分の子供を持つことはないから、彼を引き取るのに都合はいいはずだしね。それからごめん」
「何を謝ってるんだ?」
「君がいればできる、そういう言い方をしたら断れないと思ったんだ」
「狡いなあ」正直に白日するのに呆れた。でも腹は立たない。
「ああ、俺は狡いんだ」
 2人して笑った。その後の彼の動きは早かった。彼は3人で住むための3LDKの新居を探して、引越しを済ませ、親戚に協力してもらって書類を作り、間もなく無事に甥を引き取った。
 彼の甥は借りてきた猫のようだった。だがそれはほんの一瞬で、すぐに新しい環境に慣れた。今や小さな猛獣のように、我が物顔で気ままに振る舞っている。だが寂しがり屋で、自分が持ち帰った仕事をしていると、くっついてくる。
 彼の申し出を受けて良かったと思う。意外な経緯だったけれど、自分にとって初めて、心安らぐ家庭を持てたのだから。
 時折、叔父のことを考える。
 兄の子だからといって、叔父は何故自分を引き取ったのだろう。彼と同じような義侠心からなのだろうか。
 定年を迎えてから、叔父は時々自分に会いにきた。家を出る前は、ほとんど話すことなかった叔父。会うのは育ててもらった恩義が大半を占めていた。だが、嫌々だったわけではなかった。家を出る前より、叔父とはずっと話しやすくなったからだ。離婚してから、気負いがなくなったのだろうか。
 叔父は会いに来ると、よく映画を見ようと言った。大抵駅で待ち合わせて、適当に近くの映画館に入って鑑賞した。当たり外れはあったが、叔父は楽しそうだった。
「だんだん兄に似てきたね。兄さんと歩いているようだよ」
 叔父はよくそう言っていた。
 彼と伴侶になることを告げた時、叔父は「お前はそうだったのか」と感慨深げに言った。同性なのが意外なのかと問うと「いや、違うよ。お前が伴侶を持つとは思わなかったんだよ」と微笑んだ。
 安心したよ、と言葉が続けられた。
 そんな叔父が樹病にかかるなんて、思いもしなかった。神頼みというわけではないが、近々神社に詣でてみようか。
 そういえば、巨樹崇拝の神社を訪れたことがある。伴侶は就職してからも、独学で民俗学を研究しており、趣味を兼ねてよく一緒に寺社を巡った。
 そこは樹齢数千年のクスノキの巨木を御神体とする神社だった。大樹は空を貫くほどに高く聳え、広く境内を葉影で覆っていた。大きなしめ縄を巻いた様は、まるで巨人のようだった。古代の巨人の樹化した姿なのではないか。郷里の風土病を思い起こして、そんな風に思った。
 彼は言っていた。
 民俗学では「遠野物語」のように、多くの怪異譚が収集される。物の怪を作るのは人だ。人の心が恐れから化け物を作り、病気や飢饉や不条理なことを、物の怪のせいにする。闇の中に見るのは、物の怪であり恐れだ。獣や病や不条理に命を奪うもの。未知のもの、隠されているもの。人の心の闇に見るのも恐れだ。恐れが物の怪を作ってきたんだ。
だが、ひょっとして、本当の物の怪がいて、それを見た人がいるのかも知れないね。


 翌日、ホテルをチェックアウトしてから、実家に行った。兄達が人間の姿に見えるのではないかと期待したが、彼らは昨日と変わらず物の怪に見えた。
 2人は居間で座って待っていた。
 今後の叔父のことを相談すると、下の兄は言っていた。しかし、遠方にいる自分や上の兄に、何ができるだろう。
 下の兄が一つ目でぎょろりとこちらを睨んで、意外なことを言った。
「叔母さんから聞いたんだが、父から掛け軸を貰ってるんだってな」
 平静を装っているが、何故か声に苛立ちが滲んでいる。
「ああ、家を出るときに貰ったよ。叔父さんの収集してた掛け軸から。でも一枚だけだよ。作者も不詳だし」
 どんな絵だと問われて、森の中に立っている小坊主が描かれた、流麗な筆致の水墨画だと答えた。小坊主の手から、紙のようなものが風に乗って舞い、背後に黒々とした、妖怪が潜んでいるような山が迫る。伴侶はそれを見て、三枚のお札のような絵だなと言っていた。
「三枚のお札」は、和尚からお使いを頼まれた小坊主が、途中である家に泊まり、家の主人の正体が妖怪だと知って逃げる話だ。その道中に、和尚に渡された三枚のお札を使うのだ。
 下の兄は憤慨した声で言った。
「その掛け軸はお前のものじゃない。こっちに寄越せよ」
「なんだって」
 いきなり言われ、驚いた。掛け軸は家を出る時に、叔父が餞別がわりにとくれたものだ。
 下の兄は威圧的な調子で、滔々と続けた。自分が父の貯金を仕切る。治療費の足しにするため父の金を集める必要がある。兄弟で援助金を出す可能性もある。掛け軸は父のもので、実子でもない者が貰う理はない。大した額ではないだろうが、父の治療費に充てるから文句はないだろう。
「なんだ?横取りするとでも思っているのか」
 口の端を上げて、一つ目の兄は嘲るように笑った。しかし目は笑っていない。そう言われて、かえって今まで思わなかったのに、疑念がわいた。
「財産は十分あると、昨日自分で言ってたじゃないか。大した額ではないという掛け軸まで、今換金する必要があるのか」
 腹を立てて言い返した。わかり切った嘘までついて、馬鹿にしてるのか。すると、いきなり下の兄は激昂した。
「煩い煩い!寄越せよ寄越せよ!」
 助けを求めて上の兄の顔を見たが、兄は何も言わない。埴輪のような顔は、まるで表情が読めない。
 その時、下の兄の身体が変貌し始めた。触手の表面の皺の間が次々と広がり、傷のように裂けていく。黒いものの正体がわかった。無数の目玉だったのだ。目蓋が開かれて、数多の目玉が一斉にこちらを睨んだ。
 この妖怪を知っている。百々目鬼というのではなかっただろうか。ぞっとして後退り、襖を開けて居間を出た。
 今見たものは、妄想なのだろうか、幻覚なのかだろうか。あまりに気味が悪い。
 私に続いて、上の兄が廊下に出てきた。部屋に戻れと言うのだろうか。下の兄は叔父のことで、気が立っているのかも知れないが、戻る気になれない。
「とても付き合いきれない。兄はあんたが支えてくれ」と上の兄に言うと、「必要ない。メールはしてる」とそっけなく返された。2人の兄は仲が良いと思っていたので、意外だった。
 上の兄は「あいつに掛け軸を渡してやれよ」と続けた。
 たかが無名画家の絵一枚に、何故拘るんだろう。下の兄は今や、叔父の貯金の全てを握っている。あんな掛け軸を売るほど、治療費が足りないわけがない。
 まず正確な財産額をこっちに伝えるべきだと言うと、兄は「大まかに知ってる。だが、何故お前が知る必要があるんだ」とさらりと言った。何度問うても不自然にはぐらかした。口止めでもされているのだろうか。
 私は憤慨して言った。
「本来、長男のあんたが実家に戻って、叔父の財産を管理すべきだろう。家を継いで墓や仏壇管理をするのもあんたなんだし」
「私は戻るつもりはない」
 上の兄の声色が初めて苛立ちを帯びた。
「実家は家に残ったあいつが継げばいい。財産も親も全部奴に任せる。着服しても全然構わない。私は何も言わない。そのかわりに面倒には関わらない」
 どこから声を出しているのか、のっぺりした浅い穴ぼこから、声が聞こえてくる。
「お前たち2人が揉めるのは面倒だ。あいつが欲しいと言うなら、そんな掛け軸なんか、さっさと渡してしまえばいいじゃないか」
上の兄の頭が風船のように膨張した。目鼻の位置にあった凹みが延びて、平らになってゆく。
「家の近所に親戚も住んでるし、友達も大勢いるだろうし、支え手は足りてるだろう。実際、近くにいない私たちには、任せる他に何ができるんだ」
 面倒だ面倒だと呟きながら、兄の姿は変貌していった。目鼻をかろうじて形取っていた凸凹がならされる。膨れて首も寸胴になり、滑らかな表面の肉塊だけの顔になった。
 背筋が凍った。この化け物はぬっぺふほふという妖怪だ。
 襖を隔てた居間から、寄越せ、寄越せと化け物の唸り声が聞こえる。面倒だ、面倒だと呟く上の兄の横をすり抜けて、廊下を走った。
 襖が乱暴に開け放たれた音が聞こえる。つんのめって転び、膝が震えて、立てずに這いずるように玄関に向かった。
 寄越せ寄越せ、面倒だ面倒だと廊下に響く声。
 廊下は遥か遠くまで、長く伸びていくように見えた。いくら進んでも玄関に届かない。
 化け物達の引きずるような、重い足音が追ってくる。
 漸く立ち上がれたものの、またつんのめる。つまづいては転び、よろめきながら立ち上がる。
 どこまで迫ってきているのか。確認したくても、振り向くことができない。姿を見たくない。
 寄越せ寄越せ、面倒だ面倒だ、と唸る声がどんどん迫ってくる。
 足音は大きくなり、足の裏に振動が伝わった。化け物の息遣いが、すぐ側に近づいた。

 

 目覚めると電車の中だった。
 身体に響く振動。向かい側の車窓に映る自分の姿。その向こうは暗闇。見渡したが、車両には自分しかいない。電車は自宅のある方角に向かっている。
 無人改札を通り、電車に乗った覚えがある。
 ほうっと胸を撫で下ろした。胸ポケットに振動を感じたので、携帯を取り出し確認する。掛け軸を返すようにという、兄からのメールだった。
 げんなりして、伴侶に連絡を入れる。
「まだ帰らないのか?」
 彼の声を聞いて、心の底から安堵した。
「今電車で帰ってるところだよ」
「お疲れ様。叔父さんはどうだった」
「よくなかった。入院は長引くだろうな」
「そうか。残念だね」
「叔父のことより、別のことで疲れたよ」
「なにがあったんだ」
 私は郷里で起こったことを、彼に話した。冷静にはなれなかった。相槌を打ちつつ、彼は聞いてくれたが、話終わると言った。
「化け物に見えるなんて、興味深いじゃないか」
「問題はそこじゃないよ」呑気な感想に脱力する。「笑い事じゃないよ。叔父の情報は共有するべきなのに、兄達は僕に隠そうとしてるんだ」
「そうかもな」と彼は軽い調子で言った。「もしそうだとしても、構わないんじゃないか」
「え、どうして」意外な言葉に、素っ頓狂な声が出た。
「別世帯を持ってる君は、彼らにとって家族から外れてるってことだ。彼らの利害は一致しているんだろう。財産を囲い込みたい者、責任を放棄して押しつけたい者、お互いのエゴが彼ら同士では都合が良い。暗に納得済なんだ。だったらいいじゃないか。任せてしまえよ」
「でも、隠して何の得があるんだ。不信感が湧くだけじゃないか。下の兄は嘘だと指摘しても、怒鳴って話がまるで通じないんだ」
「それは、君が同じ土俵に立ってないからだよ」
「土俵ってなんだよ」
 苛立ってきて言い返すと、彼は言った。
「エゴだよ。常識じゃない。エゴが彼らの土俵なんだ。彼らの目的は、自分のエゴを通すことだ。そのために、屁理屈を捏ね、嘘をつき、我を通し、激昂したフリをして誤魔化す。エゴを通すためには手段を選ばないんだよ。指摘しても通るわけがない。正論を言えるのは無関係な人間だけなんだよ。つまり、当事者なら、君も同じ土俵に立たねばならないよ」
「僕もエゴを通すべきだっていうのか」
「ああ、だがそれ以前に、君のエゴはどこにある。それを考えないで口出しするのは、筋が通らないよ。君はどうしたい。それによって、俺の言えることは違ってくるよ」
 私は考えた。郷里に来る前に思っていたことは、久々に会う気の合わない兄弟への不安。来てから思ったことは、同居家族が入院した下の兄への同情。今こうなって思っていることは。
「僕が望んでたことは不可能だった。いや、昔からそうだったのに、長い間見ないようにしてきたんだ」
「そうか」
 叔父の家に居場所はなかった。長く遠ざかっていたなら尚更、居場所などあるわけがない。元々なかったものができるわけがない。
「これ以上、彼らに関わりたくない。いや、関わるべきじゃないんだ。嘘をついて誤魔化して悪いとも思わない。そんな相手と関係の改善なんて無理だ。時間の無駄だ。誰に責められようとも譲れない。関わっても、自分をすり減らすだけなんだ」
 漸く吐き出すことができた。帰郷してから感じていた嫌悪。互いの在り方が不快で、どうしようもなく合わない人間はいる。不快でなくとも、他者でしかない人間はいる。他人なら切れても血縁は切れない。でも距離は置ける。避けられる。仕事上の付き合いではないのだ。
「彼らに妥協して、上辺だけでも穏便に協力する道もあるけどね」
「妥協すれば増長するだけだよ。兄は変わらなかった。今後も変わらないよ。それよりも、僕は君やあの子との家庭や、僕が大切に思い、大切に思ってくれる人達を大事にしたい。今周りにいる人やこれから会う人を大事にしたいよ」
「それが君のエゴだね」
「改めて考えたことはなかったけれど、そうだったみたいだ」
「なら、言えることは一つだ。彼らの欲しがるものを、渡してしまえばいい。そうすれば、もう彼らは君に用はないよ」
「叔父から貰った掛け軸を渡せっていうのか?」
「そうだよ」
「でも、あの掛け軸は僕にとって、叔父との繋がりなんだ」
 今なら思う。子供の頃からあまり話すことのなかった叔父。自分にとってあの掛け軸は、目に見える叔父の気持ちだったのだ。兄の言うような、ただの金品ではないのだ。
「わかるよ。だが君が自分で手に入れたものじゃない。下の兄は君だけがプレゼントを貰ったことを妬み、憤ったのだろう。金額以上に、君の言う叔父さんの気持ちこそが、許せないのだろう。もしも逆の立場なら君はどうする?」
 少し考えて答えた。「面白くはないだろうけど、納得するだろうな。それが叔父の意思だろうから」
「ああ、君はそういう人だね。良くも悪くも人は人、自分は自分だ。でもそう思わない人間もいるんだよ。彼は君にマウントを取らずにはいられないんだろう。得をするのが自分じゃないのが許せない人間。内に秘めるならまだしも、それをさも正論のように主張する人間はいるんだよ」
「よくわかるね。下の兄に会ったのは一回だけなのに」少し驚いた。
「あの時の君の下の兄は、たまたま情緒不安定なんだと思ってたよ。君の話を聞くと、あれが平常運転のようだね」とはいえ、と彼は続ける。「厄介だけど、そういう性質を一概に悪いとも言えないよ。事業をしてるなら、嫉妬深くて他を貶め蹴落とす人間は、成功者の一つのタイプだよ。味方なら頼もしいかもね。でも、標的になったらたまったもんじゃないな。ともあれ、君は彼にとっては標的にしかなり得ないようだね」
「でも、それでは、結局は下の兄の思う壺じゃないのか」
「いや、言いなりになって渡すのではなく、引導の意味で渡すんだよ」
「でも」釈然としなかった。兄の不条理に納得したように見えるではないか。
「三枚のお札の話を覚えているかい」彼は唐突に言った。
「うん…覚えてるよ。あの掛け軸の絵を見た時に、君が話してくれたね」
「妖怪から逃げるために、小坊主は和尚からもらった札を使うだろう。1枚使って自分の似姿を作って家から脱出し、1枚使って大川を作り、残りの1枚を使って火の海を作り、妖怪を足止めしながら、やっと寺まで逃げおおせるんだ」
「その後、追いついてきた化け物を、和尚さんが言いくるめて、退治してしまうんだよね。確か、騙して妖怪を小さくさせて、食べてしまうんだったね」
「ラストで和尚が退治する方法は、いろんなパターンがあるよ。大抵は化け物をやっつけてエンドだ。ともあれ、小坊主は和尚から渡された貴重なお札を、全て捨ててしまうだろう。それが化け物から逃げるためには、必要だったからだ」
 漸く彼の言わんとすることが、理解できた。和尚は叔父なのだ。
「僕が彼らから逃れるためには、僕も小坊主と同じように、貰ったものは捨てなきゃいけないというんだな」
「ああ。弟に渡せと言った、君の上の兄の言も一理あるよ。他人事とは言わないまでも、面倒なんだろうね。だから見ないし口も出さない。もう割り切ってるんだろう」
 ぬっぺふほふに見えた上の兄。だからあのような姿に見えたのだろうか。
「絵を渡してしまえば、下の兄は満足するだろう。特に実害があったわけじゃないんだろう」
「ああ、精神的にはまいったけれど、それはないな」
「なら貸し借りもない。関わりを捨てて、財産額は聞かず、全て任せてしまえばいい」
「ああ、でも」下の兄の言葉を思い出した。「兄が財産額を隠して、援助を要求してくるかも知れない」
「もし要求されたら、その時初めて財産額を聞けばいい。私人であれ公人であれ、情報を伏せてる相手に協力できるわけがない。けれども、その際には常識ではなくエゴで交渉すべきだね。どうすべきじゃなく、自分はどうしたいという土俵でね」
「普通はどうするものなんだろう」
「僕が知る限りだと、子の援助は親の財産を使ってからがセオリーだね。成年後見人をつければ株も土地も処分できる。それに隠したくても、相続の時に財産額は明らかになる。養子の君も相続人のひとりだしね。想像だけど、掛け軸は叔父さんの節税対策だろう。いずれ兄弟全員のためになったろうけどね」
「叔父の財産なんて、本人のために残らず使い切ればいいんだ。でも…」
「まだなにか、迷っているのかい」
「掛け軸を渡せば、気持ちが離れてしまって、もう助けようなんて思えなくなるだろう。それでいいんだろうか」
「助けようなんて、おこがましいと思わないか」彼は言った。「厳しいことを言うけど、君は自らの気持ちでしたいのではなく、常識や義務や憐みから、すべきだと考えてはいないか。自分の意思でないなら、そんなものは相手には不要だろう。誠意のない相手にでも、見返りなく損得なく動ける性質ならいいだろう。けれども、君はそんな聖人じゃないだろう」
「僕はそんなつもりじゃ」と言いかけて、思い到る。自分のエゴを考え、距離を置こうと決めたばかりではないか。「自分自身にとって、相手はどのくらい大切なのかってことだね」
「ああ。側にいる人とたまに会う人、ほぼ会わない人では存在の重さは違う。大切なものが違えば、気持ちは共有できないんだ」
 自分も上の兄も、叔父を親として大切に思っている。でも、同居している下の兄ほどではないだろう。上の兄や自分が家を出た後も、長年共にいたのだ。下の兄は、自分が叔父の葉をむしろうとしたら止めた。触れて欲しくなかったのだろう。自分が思うより、叔父は下の兄には大切な存在なのだろう。
 私にとっての彼やあの子のように。
「近くにいない人間にできることはあまりないね。ましてや合わない人間同士では尚更だ」
「そうだね。でも問題はあるのかい。君の上の兄はよく知らないが、問題なく生計をたてているんだろう。君の下の兄は同居して楽をしてたが、叔父さんは老後の生活に安心を得ただろうね。君も伴侶を持てて安心したと言われたんだったね。それでいいんだ。それぞれ違う生き方なんだからね。時を共に過ごす人は移り変わるものだよ」
 ぱんっと胸が晴れた気がした。心に占めていた兄達への憤りの面積が薄れていく。結局は自分の心の持ち方なのだ。
 下の兄は郷里に親類や仲間がいる。上の兄も遠方に仲間がいるだろう。私もこれから帰る家に家族がいるのだ。もうお互いの人生に、深く関わることのない他者なのだ。他者だとやっと気づけたのだ。
「でも少し残念だよ」溜息混じりに吐露する。「時が経てばもっと大人の付き合いができると思ってた」
「期待していたんだな」
「そうかもしれない。気は合わなくても、幼い頃から兄弟として育った。窮地には信頼できると思ったんだ」
 腹が立っていたのは、期待していたからだ。遠くからでも、微力ながら助けになればと思っていた。それがなくなった今やっと気づいた。
「実のところ君の助けなど、必要としていないのだろうね。何年も音沙汰ない遠方の者に、何も期待できないのが普通だ。ひょっとして初めは期待してたかも知れないね。でも今はもうないだろう。君を必要とするならば、そんな態度は取らないだろうからね」
 彼は続ける。「君は自分のせいだと思いがちだ。でも憐れみは不要な感情だ。きっかけは何であれ、嫌な思いをしたのは、君のほうなんだ。彼らはしたいようにしてるんだからね」
「再会した時は、協力しようとしてみえた。思い通りにならなかったのは、下の兄も同じなのだろうか」
 叔父から掛け軸さえ貰わなければ、伯母がそのことを喋ったりしなければ。
「もしも、はないよ。たとえ今回のことがなくても、いつかは嫌な思いをしたんじゃないかな。君は違和感を感じたんだろう」
「兄達が物の怪に見えたこと?」
「気持ち悪いと感じたのは、彼らの心が離れていることが、その顔に現れていたからだろう。別の生き物に見えるくらいに。少なくとも、君は心のどこかでそう感じていたのだろう」
 彼の言葉通りなら、再会した時から、絆は絶たれていたのだろうか。いや、会わない年月の間に、終わっていたのだろう。自分は三枚のお札の小坊主と同じように、ずっと物の怪の家にいたのだ。皮肉なことだが、争いの元となった掛け軸のお陰で、彼らが自分にとって物の怪であると気づいたのだ。
「彼らにとっても、僕はとうに異邦人なのだろうね。ひょっとして、彼らの目には、僕の方が異形の物の怪に見えているのかも知れない」
「それは思ってなかったな。聞いてみなきゃわからないところだ」
「ありがとう。楽になったよ」
 彼は携帯の向こうで笑った。
「よせよな。俺としては、君が辛い思いをするなら、彼らなんかに、関わらないで欲しいだけだよ。向こうがそうしたいというなら、好都合だ。俺もエゴで喋ってるんだ。悪いけど、彼らは俺にとっては他人だからね。君の方が大切なんだよ」
 騒がしい足音が聞こえる。あの子が部屋の中を走り回っているようだ。携帯に出たいとせがんでいる声が聞こえる。一緒に話ができるように、スピーカーモードにしてもらった。
「駅に着いたら連絡しろよ。迎えに行くからな」携帯の奥で優しい声が聞こえる。
「ああ、頼む」
 そうだ、物の怪の家から早く帰ろう。信頼できる人達が私にはいるのだ。
 三枚のお札の話で、小坊主の泊まった家にいたのは、化け物ではなかったのかも知れない。だがただの人間だったとしても、小坊主には化け物にしか見えなかったのだろう。化け物じゃないと自分を誤魔化すのではなく、化け物に見えるのなら、そう対応する他はない。
 掛け軸を渡せば、兄達は私にとって完全な他者となる。繋がりは蜘蛛の糸より細くなるだろう。結局は今までと同様に、あえて会おうとしなければ、会うことはない。
 もしいつか、彼らと会うことがあるのならば、お互いどんな物の怪に見えるのだろう。
 携帯をしまって、車窓の向こうを眺めた。家々の光を切り取って、黒い山の影が過ぎてゆく。行きの電車でも見た古墳群だ。
 樹病は郷里に、古代からある病だという。ならばこの地の神社の御神木は、巨人の身体なのだろうか。古墳に植えられている樹木は、古代の人々の身体なのだろうか。
 叔父が何を思って、自分を引き取ってくれたのかは、もうわからない。だが、あの家に自分を結びつけていたのは、叔父だけだった。樹病が進行して、叔父の身体が完全に樹木となったなら、樹病施設に移される。広大な敷地を有するその場所では、完全に樹となった人々が、日当たりのいい庭に植えられて、永劫の時を過ごすのだ。
 最後に叔父と見た、映画のタイトルはなんだっただろう。叔父は洋画が好きだった。映画館で見る時は、吹替があっても、あえて字幕スーパーを選んでいた。叔父は生きているけれど、もう一緒に映画を見ることはないのだろう。
 電車が揺れる。
 家を出た日の朝のことを思い出した。会社に行く前に、叔父はそっと乾の部屋を覗き、寝てるのか、と声をかけた。乾は寝たふりをしていた。叔父は元気でな、と言ってドアを閉めた。上京する電車の中、車窓の景色がぼやけて、よく見えなかった。
今も景色はぼやけている。


END

白い庭白い猫

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 縁側に出て、白い玉砂利が敷き詰められた庭を見渡した。
 大きくて旧い日本家屋だ。元は寺社奉行の屋敷だったという。今は鬼灯や椿などの庭木が植えられているが、元はこの庭は白州だったのだろう。
 玉砂利に罪人が縛られて座し、広い縁側には奉行が座り、裁きを下していた場所。
 太宰はふっと笑う。元ポートマフィアの私にとって、随分皮肉な場所じゃないか。
 胡座をかいて座り、板敷の溝を指で辿る。着物の裾が脹脛を擽ぐる。洋服は衣紋掛けに掛けて鴨居に吊るし、引き出しに入ってた浴衣を着用することにしたけれど。和服は慣れないな。
 ここは特務課の種田長官から充てがわれた潜伏場所。横浜から遠く離れた、古都の外れの、古びた街中にある屋敷だ。 平屋で部屋は多く、広い居間に書庫に書斎、箪笥部屋に檜の浴室などを備えている。
 屋敷の外には2つの門がある。
 玄関から石畳を伸ばした先にある大門と、庭の生垣に隠れた狭い裏門。
 訪れる者はほぼいない。使用人の老婆だけが早朝に来て、朝昼晩の食事の用意をまとめて用意して帰る。梅干しのような顔をした、足腰の矍鑠とした老婆。朝寝坊が癖になってきたので、姿を見たのは一度きりだ。
 猫の鳴き声が聞こえて振り向いた。襖の隙間から、影がさらりと横切るのが見えた。丁度通り過ぎたところか。
 和服を着て猫と二人暮らしなんて、まるで小説家だ。日がな一日文机に向かい猫と戯れる。織田作の求めた生き方のようだなと思う。
 だが、その猫の姿を、未だに見たことがない。
 気配と鳴き声、二階から聞こえる足音。確かに家の中にいるようなのだが、いつも目を向けると姿はない。白い猫か黒い猫か、はたまた三毛猫なのか。
 経歴洗浄に2年か。ふうっと溜息をつく。途方もなく長く感じてしまう。今までしてきたことを考えれば仕様がないが。 種田長官からすれば、森さんへのしっぺ返しにもなるし、損はないだろうと計算して取引した。しかし、人に身を預けるのは頼りない。
 退屈すぎて何度も自殺を試みた。首を吊り、頚動脈を切り、手首を切って水に浸した。だが毎度、こと切れる前に息を吹き返してしまい、果たせない。包帯を巻く箇所が増えるばかりだ。
 苦しいのも痛いのも嫌だ。失敗するとそれしか残らないから、やる気が失せてしまった。
 縁側の縁から足を出して、ゆらゆらと揺らす。暇だ。書庫にある本でも読もうか。
 立ち上がろうとした瞬間、バイクのエンジン音の止まる音が、大門の方角から聞こえた。
 種田長官だろうか。だが、彼はいつも訪問するときは車ではなかったか、いきなりバイクで来たりするだろうか?
 いぶかしく思っていると、大門の方角から怒鳴り声が響いた。
「おい糞太宰!いるんだろうが!出て来やがれ。出てこねえと、この家ぶっ潰す」
 嘘だろう。中也じゃないか。追ってくる可能性は多少考慮していたが、何故今ここに、このタイミングで。最悪だ。
「隠れても無駄だぜ。裏は取れてんだよ。3つ数えたらこの屋敷潰すぞ。いーち、にー」
 みしり、と家屋が軋んだ。本当に潰すつもりのようだ。
「わかった、今出るよ」
 仕方なく重い腰を上げて、玄関に向かう。門を開けられた音がした。老婆が出入りするので閂はかかっていないのだ。引き戸を開けると、見慣れた黒スーツの黒帽子が立っていた。
 中也は勝ち誇るように笑った。 「よお、太宰」
「なんで中也なんかに、ここがわかったんだ」
「ああ?なんかとはなんだ。手前の作った情報網舐めてんじゃねえよ。他の組織や特務課の隠れ家の情報も、きちんと調べて揃えてんじゃねえか」
「…そうだったね。自分の優秀さが残念だよ」
 出奔する前に整理しておくべきだった。とはいえ、織田作を看取った後、そのまま戻らなかったのだから、無理な話か。
「抜かせ。家上がるぞ」
「断る」
 太宰の言葉を無視して、中也は、でけえ家だな手前には勿体ねえ、とぶつくさ言いながら居間に入った。中也はどかりと座卓に向かって片膝をついて座り、はす向かいに太宰は座った。
 「ちなみに聞くけど、ここに辿り着くまでに、何件家を潰したんだい」
「ああ?大したことねえよ」と言いながら、中也はこんくれえか、と両手の指を広げて示す。「空き家ばっかだったしな」
 どうだろう。もし隠れ家に人間がいたとしても、逃亡者ならば、マフィアに呼ばれて応えるわけがないと思うのだが。
「太宰、手前がいなくなって、マジで清々したぜ。だが居処の手掛かりがあるんじゃ、探さないわけにはいかねえよなあ」
「清々したのにかい?呆れるね。中也は随分と暇なんだな」
「手前を1人で野放しにしておけるかよ。自由に自殺しろと、言ってるようなもんじゃねえか」
「それが?何の問題もないだろう」
「あんだよ。自殺されちゃあ、手前を殺せねえだろ」
「おや、中也は組織を抜けた私を、殺しに来たのかい」にっこりと微笑んでみせる。「それなら話は別だ。歓迎しなきゃならないね」
「阿呆が。喜んでんじゃねえよ。殺せと命令されなきゃ殺さねえよ」
「それで、森さんはなんて命令を?」
「何も指示は出てねえよ」
「なんだ。では中也は命令もなしに来たのか。莫迦じゃないの」やれやれと溜息をついて、追い払う仕草で手を振る。「では、殺せないね。実に残念だ」
「森さんは手前を、追跡しようとしねえ」中也は声を低めた。「だが、探すなとも言われてねえ。俺の独断だ」
「独断ね。勝手な行動は組織人としてはどうかと思うよ。芥川くんの真似のつもりかい、中也」
「ああ、その芥川のことだがな」中也は神妙な口調になった。「手前が出てった後、芥川は手前を、血眼になって探してる。狂ったみてえに。奴は手前に捨てられたと思ってんだ。今や誰の言うこともきかねえ狂犬だ」
「そうか」彼のことだけは懸念していたが、やはり暴走してしまったか。
「手前が奴の手綱をとってやらねえで、どうすんだ」
「芥川くんに、ここを教えるつもりかい」
「は!狂乱状態の奴に言えるかよ。言うにしても、手前の返事をきいてからだ」
「心外だな。捨てられたのは私の方さ」
「あ?何言ってんだ?」
「本当さ。信じないのかい」
「太宰、首領は五代幹部会の、手前の席を埋めようとしねえ。ずっと空けたままにすると言ってんだ。手前を連れ戻してえんだ。戻るのを待ってんだ。何で手前を追わねえのか、首領は聞いても教えてくれねえが。俺にはわかる」中也は俯く。「失くして、初めてわかるもんがあるんだ」
 太宰は縁側に目を向ける。庭の樹木がさらさらと音を立て始めた。朝から空を重たい色の雲が覆っていたけれど、とうとう雨が降り始めたようだ。
「単独で敵のアジトに突入した、あのサンピンのせいか」
 太宰はゆっくりと視線を戻した。顔をあげた中也と視線が合う。
「ボスと刺し違えたんだろう。惜しい奴を亡くしたな」
「生は死を内包している。生きている限り死には抗えないよ」
あいつだけじゃねえ。あの事件では、大勢構成員がやられたと聞いた。俺がいればあれほどの犠牲を、出さずに済んだかも知れねえ」中也は悔しそうに歯噛みする。
「中也は彼を知ってたのかい」
「部署が違っても、あいつの顔くらいは知ってる」
「そう」太宰は再び庭に目を向ける。
「手前でも仲間の死を悼むんだな。太宰。手前にそんな情があるなんて、思わなかったぜ」
 そうだろうか。痛む、傷む、悼む。どれが私の心なのだろう。 霧雨に霞む庭の木々は、水煙の中に幻のように沈んでゆく。
「そういう人間らしい面が、手前にあると知ってたら、だったら、俺は」
 紡がれた中也の言葉がふいに途切れる。太宰は振り向いた。中也は視線を避けるように目を伏せる。
「いや、何でもねえ。だがそれがマフィアだ」
 情に厚い中也は、彼を悼んでるのか。中也にとっては、さほど親しくはない下級構成員だろう。羊の王であった頃には、容赦なく重力で潰していたマフィアの一員だ。だが今は、仲間であると混じりけない心で中也は悼む。
「だからこそ、無駄に死ぬ構成員を増やさねえためにも、手前が必要なんだ。組織に戻れよ。太宰」
「中也に私を連れ戻す権利があるのかい」
「ある。俺は相棒だからな」
「命令違反だろう」
「言ったろうが。追うなとは言われてねえよ」
 だが真相は、知らされていないだろう。森さんは敢えて中也の不在を狙って、ミミックを呼び寄せたのだ。計画にはその条件が必要だったから。
 だが知ったところで今更変わらないか。内務省と取引した証拠は何一つない。間諜だった安吾内務省に戻った今、証人もいない。異能許可証の取得が結果としてあるだけなのだから。中也は森さんの組織論に傾倒している。疑いもしないだろう。
 雨音に交じって、猫の鳴く声がした。
「猫の鳴き声だね」
「猫?んなもんどこにいんだ」
「私も姿を見たことはないけれどね、この家にはいるんだよ」
 微かな足音、通り過ぎた影、鳴き声が聞こえるだけだけれど。この屋敷には猫がいる。姿は見えないが気配はある。餌を皿に盛ってやれば、いつのまにか消えている。
「私は猫の世話で忙しいのさ。ああ、そろそろ餌をあげる時間だ」
「手前は言ったな。俺は一生手前の犬だとよ」
「おや、殊勝なことだ。自分で犬だと認めるのかい。中也」
 中也は苦々しい顔で睨んでくる。
「また来るからな」と言い捨てて中也は嵐のように去った。
 太宰はため息をついた。疲れた。相棒なら何をしてもいいのか。おそらく中也の行動も、森さんは折り込み済みなのだろう。
 首領に忠誠を誓いつつも、盲目に従うだけでなく、時にスタンドプレーに走る中也。
 太宰は畳の上に、仰向けになって寝転んだ。
 雨の音。水溜り。血溜まり。
 腕を交差して顔を覆う。
 自分の腕の中で冷たい骸となった友。
 結果が見えていたのに、何故織田作を止められなかったのだろう。そのために、安吾は密かに内務省の計画を、自分に漏らしたというのに。
 安吾も、何としても彼を救いたかったのだ。けれども。
首領の企みの結果であれど、犠牲は街中に広がるに至った。もはや事態の収束のためには、織田作の異能に頼る他になかった。ミミックの殲滅は最優先事項。組織に属すならば組織の利が優先する。幹部である以上、そう判断するしかなかった。
 そして、彼も復讐という死を望んでいた。
 もっと早くに森さんの企みに気づけたなら。かのミミックの首領が織田作を見つける前ならば防げたろうか。彼と私がただの友であるだけなら、彼を止められただろうか。
 ちらりと長い身体の何かが、目の端を横切った。
 姿が消えた縁側のほうを見やる。蛇だろうか。脚があったようにも思えるが。蜥蜴にしてはやけに長いようだった。
 やれやれ、何かが中也に連いて入って来たのかもしれない。

 

 

 次の日の朝、中也は再び屋敷にやって来た。
 朝食を済ませて縁側で涼んでいると、大門の方から、怒鳴り声が聞こえた。
 中也は玄関の引き戸を荒々しく開けて、ズカズカと上がり込み、居間に入って来た。図々しくも、茶くらい出ねえのかと言う。
「招かれざる客に、振る舞うものはないよ。冷蔵庫に麦茶があるから、勝手にやってくれ」
「茶だあ?酒はねえのか」
「ないよ。あっても出すわけないだろう」
「しけてんなあ」
 2つのコップと麦茶の入ったポットを持って、「昨日は雨で気づかなかったけどよ、風流な庭じゃねえか」と言いつつ中也は縁側に胡座をかいた。
 麦茶を注ぎながら、昨日と同様、組織に戻れと中也は迫る。
「首領は手前が腹括って、戻って来るのを望んでるんだ」
 そうだろうね。私に寝首を掻かれることを恐れながらも、私の能力を惜しんでる。だから殺すことはできないんだ。
「根拠はあるのかい」わかってて問いかける。
「手前はマフィアになるために生まれた男だ」中也は言いきかせようとするかのように、神妙な口調になる。「頭も性格も、根っからの闇の者だ。手前が手前らしく生きられるのは、マフィアしかねえだろ」
「15歳からマフィア業しか、してこなかっただけだよ」
「一般人みたいに、普通に仕事してる手前なんざ想像できねえ」
「いやいや、私は何でも出来るよ。中也と違ってね」
「うぜえ、例えできるとしてもな、手前ほどの野郎が、組織から足抜けできるわけねえだろう」
「できないと言われると、益々試してみたくなるよ」
「口の減らねえ野郎だ」
 また来るからな、と言い捨てて中也は去った。
 太宰は麦茶を冷蔵庫に戻し、居間に戻った。そういえば、今朝から猫の気配を感じない。どこかに遊びに行ったのだろうか。
 中也に言われるまでもなく、マフィアの仕事は向いているよ。 私が私らしく生きられる。 生きる意味が見つけられると思ったよ。はじめはね。
 だが抗争の日々の中で、生と死の意味はやがて褪せていった。心は再び麻痺していた。薄い皮膜越しに見える、錆びていく世界から、いつ旅立ってもよくなっていた。だが、任務は次々と押し寄せた。
 状況を読んで操作するのは造作無い。表の事象も裏の思惑も見抜き、最善の対処をする。何もかも予想通りに進む。ゲームのようにパズルのように。
 駒を思い通りに動かすのは面白かった。幾分かは退屈を紛らわせられた。相棒も部下もいたし友もいた。
 友。立場を越えたふたりの友。部署の違う織田作と安吾は、組織に属しながらも、任務を離れて会える友だった。揺れる自分を繋ぎ止めていた。
 森さんは私がマフィアに倦んできたのを、知っていたのだろう。だから友の命を測りにかけた。いつでもその機会を伺っていたのだろう。故に安吾を嵌めて、織田作を屠って、選択を迫ったのだ。
 組織への忠誠心と友のどちらをとるのかと。
 私に忠誠心など微塵もなかった。それを初めから承知であったのに。今更己と志を同じくせよと望んだのだ。
 私がどちらを選ぶかは、予想済みだっただろう。それでも組織を選択させようと、織田作の元に行かせる前に止めたのだ。
「私が私らしく生きられる、か」太宰は口に出して、皮肉に笑う。
 芥川君を導くこともできなかったのが私だ。彼は私に依存して暴走してしまった。生き残る術を教えるはずだったのに。
 情に飢えた子供は理解者を求める。誰かに好意を抱きたいと渇望する。口当たりのいい言葉を言う者に傾く。
 理解は容易い。求めるものも与える。だからと言って懐かせれば、踏み越えてこようとする。だから敢えて牽制する。
 他の方法を私は知らない。孤児に本当に必要なものは、違うのだろう。
 織田作の示した道は、私には到底向かないだろう。
 腰に暖かい気配。猫が私にもたれかかって蹲っているようだ。
「何処にいってたんだい」
 猫に問うてみる。温かい体温。振り向くと逃げてしまいそうな気がするので、そのままにしておく。
 生きる理由は見つからない。予測を越えるものは現れない。孤独を埋めるものは何処にもない。永遠に闇の中を彷徨う。
 まるで呪いの言葉のようじゃないか。

 

 

 その日は黄昏を過ぎてから、中也は現れた。
 陽の沈んだ小山の向こうから、夜の闇がひたひたと近づいていた。鈴を擦るような虫の声が、庭の叢から聞こえてくる。
「何度来ても無駄だよ。森さんに仕えるのは、私にはもう無理だ」
「手前もわかってんだろうが。首領も、首領の宿命に準じているに過ぎないんだ」
「どこの首領であってもそうだろうね。しかし須らく王とは、嫉妬深いものだよ、中也。組織の長である以上、家臣に唯一の忠誠を望むんだ」
 時に忠誠心を測るために、家臣の大切なものを弑するのだ。No.2が優秀なほど離反を疑う。己が地位を脅かすのではないかと恐れる。
「首領に私心はねえよ。何より組織を優先してる。手前も知ってるだろう」
「ああ、わかってるよ。一般論さ。でももし、森さんが首領として相応しくなくなるなら。どうする」
「潰す」即座に中也は答えた。「それが契約だ。構成員も首領も例外なく組織に殉じる。首領はそう言った。首領がこの言葉を守る限りは、俺は従う」
「殊勝な心掛けだね」
「手前は首領が、前首領を始末するのを、見たんだよな」
「私は目撃者で、いわば共犯だよ」
「なら首領も組織を私物化した末路は、知っているはずだ」
 だからこそ森さんは、疑い怖れるのだ。自分も同じ目に遭うのではないか、私が森さんに成り代わるのではないかと。愉快な妄想だ。
 だが王の不信も組織の毒となりえる。森さんは己の感情すらも、機械的に論理的解の構成要件としたに過ぎない。
「己が保身のためか、組織の維持のためか、中也に見分けられるとは思えないな」
 組織の理と個人の理の違いが拮抗しているならば、誰に見分けられるだろう。
「手前!」
 押し倒され、手足を押さえつけられた。喉に中也の手が回された。喉ぼとけを親指で押さえられる。
「組織のためには、手前を生かすわけにはいかねえ。森さんが手前を惜しんでも、手前が敵対組織に渡るほうが、何百倍も危険だ。他のマフィアでも、政府の機関でも、手前を欲しがるとこは数多数えきれねえ。手前の頭脳と異能を奪われれば、この俺の汚濁すら、切り札じゃなくなるんだ」
「私をこの世から排除するかい。嬉しいね。仲間思いの中也。仲間以外になら残酷になれる中也。 今の私はマフィアじゃない。 中也の仲間じゃない。死ねるのなら本望だ。中也の馬鹿力なら簡単だよ。ほら、ちょっと力を入れれば済む」
「手前、わざと俺を挑発しやがったな!」
 太宰は微笑む。
「もっと言おうか。芥川くんに僕を慕わせるのは簡単だった。彼の望むものを与えなければいい。中也を操るのも簡単だよ」
「どうやったってんだ」
「教えないよ」太宰は笑う。「中也は僕が気になるだろう。気にくわないのに追いかけてくるくらいにさ。私がそうさせたんだ」
「違えよ莫迦が。俺の意思だ!」
「意思なんて、あやふやなもの…」
 気づいたときには、唇が重ねられていた。温もりと感触。接吻とわかるまでに、些か時を要した。
「…欲情したのかい?中也」唇が離れて、ようやく思考が戻った。「そこまでは読めなかったな」
「ちげえよ。嫌がらせだ!」
「ああ、意表をつかれたよ。満足かい。でもこれでは嫌がらせにならな…」
 中也は言葉をみなまで言わせず、再び太宰の口を塞いだ。そのまま太宰を抱きしめる。
「誤算だったな。ざまあみろ」
「やれやれ」太宰は離された唇を摩る。「好意と情欲を勘違いするとはね。いまだ思春期の子供のようだな、君は。ああ、そうだった、精神年齢はまだ10代だったね」
「手前、減らず口もそこまでだ」
 中也は己の黒手袋を咥えて引き抜いた。いつも戒めのために隠されている手が現れる。中也の親指が太宰の唇をゆっくりなぞった。久しぶりの人肌か。触れる指は温かいな、と太宰は思う。
 首元に顔を伏せて、中也が囁いた
「生は命だ。命ってのは、この熱だ。体温だ。手前に教えてやる」
 顎を掴まれ、唇が重ねられた。深いキスは前戯に他ならなかった。
 唇から離れると中也の唇は首筋を辿った。時折吸い付かれるとちくりとした。舌の感触がした。喉ぼとけに歯を立てられた。一瞬噛みつかれるかと思った。中也の長い前髪が肌に落ちて肌を擽る。触れあった肌が熱を持つ。動くたびにしっとりと汗ばんでくる。互いの息遣いが重なり荒くなってくる。
 猫がいる、と太宰は言った。
 なら呼べよと中也は答える。
 猫は呼んでも、来やしないよと答えた。
 いや、呼べないはずだ。手前は猫を見ていない。
 奴はもういないと分かれよ。
 中也に組み敷かれ、身体を貫かれ、深く繋がれた。四肢が絡みつき、脈打つ質量が押し入り洞を埋める。
 体内で抜き挿しされる熱。盗まれる吐息。混じり合う呼吸。融解してゆく境界。
 天井から大蛇が這いずるような、重く床を擦る音がする。音は階段を重たげに擦りながら降りてくる。
 障子の向こうを、大蛇の影のようなものが悠然と横切るのが見えた。
 蛇は別名、長虫と呼ぶのだと思い出す。
 庭から聞こえる虫の声。鈴のように。せせらぎのように。虫は羽を震わせて音を鳴らす。羽の音を何故声と呼ぶのだろう。
 虫が何の為に鳴いているのかに思い至って、苦笑が漏れる。
「なに、笑ってんだ、余裕かよ。糞太宰」
 苛立った声と同時に、突き上げられた。衝撃に、ふっと吐息が漏れる。
「なんでもないよ。ちょっと可笑しくなっただけさ」
 そうか、呼んでいるのか。ならば声に相違ない。

 


 浴衣の帯を締め直し、腰を上げようとして太宰は呻いた。
 痛いと呟くと、中也は「は!ざまあみろ」と、してやったりといった表情で笑う。機嫌がいいのが癪に触る。
「疲れた。一歩も動けないよ」
「そうか、なら、風呂場に連れてってやろうか」
「冗談だろ。帰れ」
「はっ!手前のその面見ただけで、来た甲斐があったってもんだ」
 バイクのエンジン音が屋敷から離れていった。
 身体の奥に残る鈍痛が疼く。
 どこまでが森さんの計画であるのだろう。中也に何をさせるつもりなのだろう。
 煽ったのは藪蛇だったようだ。怒りで箍が外れたのか。それとも、身体を重ねれば、情が湧くとでも思ったのだろうか。私の読みが甘かった。 感情で動く中也は本来なら扱いやすいはずなのに。
 ふうっと深呼吸をして、気を落ち着かせる。私が出奔してからの中也の状況は、読み切れなかったのだ。 計算を誤ったのだと認めざるを得ない。
 出会った頃から、直情で単純で後先考えない男だった。 頭が冷えれば、とんだ黒歴史だったと気付くだろう。もう中也はここに顔を出せやしないだろう。
 結果的には予定通りだ。多少は暇つぶしになったけれども。
 理解は人を動かすための手段で武器だ。情報収集し観察し、呼吸をするように計算する。相手に最も適した演技をする。 他人の考えは読めるし、感情を操るのも容易いのだから。
 けれど、織田作と安吾の思考だけは読まなかった。あえて読まなかった。操る必要はないと思っていたからだ。
 3人で過ごしたあの酒場は、計算せずにいられる唯一の空間だった。あの場所でだけは孤独を忘れられた。織田作と安吾は居心地のいい距離を保ってくれた。 互いに踏み込まない友の距離。
 けれども、その距離は正しかっただろうか。
 安吾と織田作。かたや内務省の間諜と、かたや殺しを辞めた元殺し屋。私が彼らと友であるのは、森さんにとってリスクであり懸念であったろう。
 組織に価値を見いだせず、忠誠心もない。私は彼にとって、ただでさえ玉座の天頂に吊るされた、剣のようなものだったのだから。
 ミミックを誘引する森さんの計画は、不確定要素も含んでいた。事が成る前に私が真相に気づく可能性。故にまず最初に、彼らを巻き込んだのだ。
 もし私が真相に気づかず、すべてを内務省の陰謀と思いこんだなら。安吾内務省を敵視し、私はマフィアに身を沈めたろう。それでよかったはずだ。だが森さんは敢えて真相を示した。
 私に心許す存在を作るなと告げるために。
 首領は組織の存続という目的のために他を捨てる。目的があれば耐えられる。孤独が唯一の友となる。
 彼らを巻き込まずとも、私だけを殺す方が容易かったはずだ。私ならいつでも喜んでこの世を手放したのだから。
 だが森さんの望みは、私の排除ではなかった。 彼はいつだったか、私が自分に似ていると言った。私に望んだのだ。同じ枷の共有を。
 中也にも他の五代幹部の誰にも、そんな要求はしない。彼らには必要ないからだ。私が彼の片腕であったからだ。
 私と友となったから、織田作は贄となった。知り合わなければ今も生きていたのかも知れない。
 側にいて失われるのと、生きていても互いに知ることもなく、遠い存在でいるのと、私はどちらが良かったのだろう。

 

 

 翌日、予想に反して、中也は屋敷を訪れた。
 朝から雨が蕭蕭と降っていた。おかげで中也の黒帽子には細かな水玉が散り、黒い外套は濡れそぼっている。
「よくまあ顔を出せたものだね。ああ、私は気にしないよ。狂犬に手を噛まれたようなものだからね」
 予測が外れたことに、ほんの少しだけ苛立った。また計算に入れ損ねた数字があったのだろう。
 中也は答えない。 いつもと様子が違う。玄関に佇んだまま、廊下に上がろうとしない。
「タオルでも貸そうか。中也が風邪引こうが別に構わないけど。床が濡れるのは迷惑だからね」
 中也は顔を上げた。攻撃的な射るような瞳。だが言葉はない。
 怪訝に思って聞く。「中也、何しにきたんだ」
 ようやく中也は答えた。
「これからすぐに抗争に行く。ちと、てこずりそうだ」
「そうかい」入れ損ねた数字はそれだったか。「ごくろうさん。行ってらっしゃい」
「終わったら、俺はここに来るからな。最後の通告だ、糞太宰。俺と来い。手前は組織に戻んだよ」
「返事は何度もしたはずだよ。ねえ、聞いてた?」
「手前の道はマフィア以外ねえだろ。闇の世界が俺たちの住処だ。光の下なんぞありえねえ」
「中也が決めることじゃない」
「宙ぶらりんにしたままで、逃げんじゃねえよ」中也は苛ついた声で言った。「ここに残るってんならなあ、俺と戦え、太宰」
「は?私と本気でやるつもり?中也の攻撃は見切ってるけどなあ」
莫迦言え!手前の持久力も瞬発力も、俺と比べもんにならねえだろうが。手前の身体中の骨を折ってでも連れ帰る。手前を黙って行かせるほど、俺は甘かねえ」中也は声を低める。「他んとこに手前を渡せるかよ」
「それじゃ、私は出血多量で死ぬかもね。ああ、やっと私を殺してくれるのかい。なるほど、それはいい。いつも私の自殺の邪魔をしてくれた中也が、やっと願いを叶えてくれるわけだ」太宰は笑顔で答える。「とはいえ、私が死ねば汚濁を使えなくなるね」
 荒覇吐となった中也の姿は、具現化された死そのものだ。顕現する荒ぶる神。身体に絡みつく蛇のような痣も、禍々しく美しい。見られないのは惜しいなと、思う。
「手前がいなくても、使う他にねえ場面がきたなら使う。組織のためならな。それで死ぬなら天命だ」
「天命じゃない。それは自殺だよ。中也」思ったよりも冷たい声が出た。勿体無いじゃないか。
「手前が止めなきゃそうなるな、太宰」
「私が君の命を惜しむとでも?中也」
「どうだかな」中也は戸を開けて、振り向いた。「次に俺が来た時は、どっちかを選べよ、太宰」
 中也は言い捨てて、霧雨の中に去った。
 太宰は溜息をついた。全く、種田長官には呆れる。中也なんかにバレてしまうような場所では、潜伏にならないじゃないか。
 なんらかの手を打つべきだろうか。だが大門の屋根には、監視カメラが付いているはずだ。種田長官が中也の訪問を、知らないわけがない。いざとなれば手を打つつもりなのだろう。
 失くして初めてわかるものがある。中也は言った。
 その通りだね。 言われなくてもわかっている。彼はいない。もう戻らない。私が何をしようと、生き返ることはない。
 君はずっと前から知っていたのだろう。羊の王であった頃から、何人もの仲間を送って来たのだろう。
 私は初めて理解したのだよ。いつか失うとわかっていたとしても、失いたくない命だったのだ。安吾が事細かに記録していたように。駒のひとつひとつにも命があるのだ。
 失くすまで気づかなかったのだ。
 けれども、組織にいれば抗争と喧噪の日々の中で、私の世界は再び薄い皮膜に覆われるだろう。
 いつか大切な友の命もまた、私の中で風化してゆくだろう。記憶の中で塵となるだろう。
 夢のように、幻のように。
 私はそれが堪らなく厭わしいのだ

 

 

 庭に足音を聞いて、目が覚めた。
 玉砂利を踏みしめて近づいてくる、何者かの足音。布団から這い出て、縁側から辺りを見回した。庭には誰もいない。
 雨が上がり、陽射しが戻ってきた。白い眩い光が縁側に満ちている。
 足元で猫の鳴き声がした。脹脛に柔らかな毛が触れる。
 ようやく姿が見えるようだ。そう思って見下ろした。
 しかし猫の姿はない。側でまた猫が鳴いた。自分のすぐ隣で。見ると、影だけがちょこんと板敷きの上にある。
 影に手を伸ばしてみた。柔らかな毛に触れる。撫でると生き物の体温と感触がある。耳にひげに柔らかな和毛。見えないけれど、隣に猫はいる。
 門の向こう側から、三毛猫が生垣を飛び越えて入ってきた。太宰に向かって歩を進める。ルパンにいた猫に似ている。同じ猫だろうか。いや、間違いない。
「やあ、遠方からよく来てくれたね。久しぶりじゃないか」
 声をかけると、三毛猫は立ち止まった。視線が合った。
 猫は一声鳴くと、ぶるりと震えた。みるみるうちに猫の輪郭は崩れ、形が膨らんで伸び、人型を象り、壮年の紳士の形に変化した。紳士は軽く会釈をして挨拶を返し、太宰に微笑みかけた。
「そういうことでしたか。貴方が関わっていたんですね」太宰は微笑み返した。「なるほど、本当の潜伏はこれからなんですね」
 紳士は首肯して、するすると三毛猫の姿に戻った。猫はくるりと踵を返し、付いて来いと尾を立てた。
 太宰は鴨居から服を下ろした。浴衣を脱いで、久しぶりに洋装に袖を通す。
 見えない猫が縁側で鳴いた。目をやると、猫の影は縁側を越えて、畳の方に伸びていく。
 影の伸びが止まった。影は上背の高い、亡き友に似た影を形作った。
「もうここから出る時が来たようだよ」
 太宰は影に語りかけた。影は笑ったようだった。
「もう暫く、君の思い出に浸っていたかったよ。ねえ、どの門から出ればいいと思う?裏に狭い門があり、表に大きな門があるんだ」
 男の影は揺れて、裏門の方に顔を向け、腕を上げて指し示した。
 太宰は頷いた。「古の言葉にあるね。狭き門より入れ。 滅びにいたる門は大きく、その路は広く、これより入る者は多し。 生命にいたる門は狭く、その路は細く、これを見出すものは少なし」
 太宰は縁側から降りて、白州を横切り、裏門に向かった。
 抗争の日々の中で、生きる意味は次第に削れていった。けれど、3人で過ごした酒場でのひとときは、明日を生きようと思う僅かな理由だったよ。
 失われた生きる意味はもう戻らない。だが、友は私の中に踏み込んだ。彼の言葉は私の行く道を示した。予測を越えた確信を持って私に告げた。
 救う側になれ。弱者を救え、孤児を守れ。なんと困難な道だろう。
 善も悪もどうでもいい。どんな組織にも興味はない。けれども、君の救いたかった者は、私が救おう。それが君の生きた証となる。君のいた印となる。いつか君が忘れられたとしても、それは決して風化することはない。
 組織の理では身動きが取れなくても、外に出れば別の理があるのだ。
 気ままに怠惰に、猫のように戯れよう。悪夢ではない夢を見て、憂鬱ではない目覚めを迎えよう。
 君の示す道で、私がどう生きていくのか想像できないな。こんなことは初めてだ。予想がつかないのは、素敵なことだね。
 大門の方角から、バイクを乗り付けるエンジン音が響いた。抗争を終えた中也が駆けつけたのだろう。
 太宰は振り返った。中也、次に会うのはもう少し後になるよ。一生私の犬だという約束は勿論、反故にはならないよ。いつか君の命を、私は惜しむようになれるかな。それまでに汚濁を使ったりして、無駄に命を落としたりしてくれるなよ、相棒。
 太宰は生垣に向かって歩き出した。三毛猫に先導されて、狭い門を開け、大きく歩を踏み出す。
 山の端から薄っすらと虹が架かった。雲間から差す陽が広がり、空は眩い光に包まれた。
 縁側には、猫の影だけが残った。

 


魔法の言葉(全年齢版)

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prologue Dreams


 あれは出久だ
 中学生の時の冴えない出久だ
 おどおどして卑屈で、なのに反抗的で身の程知らずな幼馴染
 手を伸ばして、細い腕をつかむ。出久は振り返る。目を見開き驚きの表情を浮かべて。
 デク、デク。
 俺は声をかける。俺は何を言うつもりだ。
 ここからやり直すつもりなのか。やりなおせるのか。
 いや、だめだ。この頃はもう、てめえは俺に怯えてた。
 てめえがいつまでも、見えない鳥を追いかけていたから。
 無駄だとわかってるのに、追うのを諦めねえから。
 俺はいつも腹を立てて、てめえを追い詰めた。
 いつからだ。いつから。どこからだ。どこから間違えたんだ。
 俺に両肩を掴まれて、怯えながらも出久は俺を見上げる。


 何度も何度も見る夢だ。
 ずっと幼い頃から自問自答していた。
 なぜ出久だけが俺にとって特別なんだ。
 個性のない、ただの虫けらにすぎないのに。
 どうしようもなく求めているなんて。誰にも言えない。
 出久への気持ちなんて認められない、認めたくない。
 認めれば俺があいつの下になる。あいつの下になるなど耐えられない。
 認めればあいつに求められたくなる。思いを受け入れて欲しくなる。
 叶わなければ、あいつに何をするかわからない。
 俺がどうなるかわからない。
 あいつは容易く俺を壊すことができるのだ。
 弱みを握られるわけにはいけない。そんな存在があってはならない。
 あいつを俺より下だと思えば、意識しないでいられるに違いない。
 心の中から追い出せるに違いない。この苦しみから開放されるに違いない。
 何度も試みては果たせないけれども。
 気持ちを認めてどうなるというのだ。
 あいつは俺のものになるとでもいうのか。
 あいつも同じ気持ちになるとでもいうのか。
 手に入れることだけが安定を取り戻す方法なのに望めないんだ。行き止まりだ。
 囚われた気持ちは冷めることなく、永遠に続くだけなんだ。
 このままじゃいけないとわかってるのに。打開する術は見当たらない。


 細い肩を掴んで引き寄せ、正面から睨みつける。
 怖気付く瞳も、引けてる腰も、現実の出久そのままだ。
 これは夢だ。夢だから。
 今から本当のてめえには言えねえことを言う。
 てめえのせいだ。俺がこんなに苦しいのも、辛えのも。
 みんなみんなみんな、てめえのせいなんだ。


1. Right Here, Right Now(此処で、今すぐ)


 書類の職業欄に、ヒーローと書けるようになってから随分経つ。
 勝己は座敷に上がると、ネクタイを緩めてポケットにしまった。コスチュームだけでなく正装まで必要だなんて、どうかしてる。
 今日、ヒーロー協会の全国集会が行われた。自由参加とはいえテレビカメラも入り、デモンストレーションも許可されており、各事務所にとっては宣伝の場でもある。しかし、ヒーロー活動の一環とはえいえ、面倒といえば面倒であるし、仕事を休むわけにもいかない。ということで、各事務所は勉強にもなると嘯き、若手を送り込んでいた。
 おかげで、遠方にもかかわらず、各地に散っていた雄英の同級生達が集結した。久しぶりだと盛り上がり、集会後は飲み会になだれ込むことになった。
「めんどくせえ。同窓会じゃあるまいしくだらねえ、帰る」と断ったが、上鳴が「緑谷がどうしてるか、聞きたくねえのか?」と釣ってきた。
 出久。名を聞くだけで、心にさざ波がたった。
「お前も知らねえんだろ。ヒーロー同士の交流少ねえもんな」
「てめえ、あのクソの行方知ってんのかよ」
「いや、俺は知んねえよ。あの事件以来、何処にいんのか全然わかんねえ」上鳴はふっと目を伏せた。「俺も気になってんだよ。でも今日は皆来てるしよ。中にはあいつの消息を知ってる奴も、いんじゃねえか?お前も知りてえだろ」
「あ?余計なお世話だ」
「もしかして、緑谷本人が来てるかもしんねえぞ!な、爆豪」
 でけえ声ではっきり言いやがって。黙れと念を込めて睨みつけた。
 飲み会の会場には、元クラスメイトがほぼ集まっていた。といってもたかだか20人だ。座敷に置かれた長い机に、全員収まっている。女どもは入り口近くに集まっていて、飯田や轟はその隣に座っている。よくつるんでいた奴らだ。いれば奴らの側にいるだろうが、やはり出久はいない。予想してはいたが。
「お前が来るなんて、珍しいな」轟が声をかけてきた。
「ああ?てめえこそ珍しいじゃねえか。結局親の事務所に入ったんだよなあ。親子で同じ事務所とか、仲良しかよ」
「仲良くはない。だが奴を否定せずに、近くにいて奴の器を測ることにした」
「は!知るかよ」
「ここに来れば、緑谷の消息がわかるかと思ったんだが」
 てめえもかよ。さらっと言いやがるところが忌々しい。
「爆豪、上鳴、こっちだ」
 瀬呂と切島が奥で手招きしている。奴らが陣取った場所に上鳴と向かった。切島が場所を空けて、座れと促す。
 飯田が立ち上がって、「まだ来てない者もいるが、時間だから始めよう」と言った。やはりあいつが幹事か。注文したビールが次々とテーブルに置かれ、リレー形式で手渡された。
「爆豪は緑谷の消息が、気になってんだとよ」
「誰がンなこと言った!死ねや!アホヅラ」
 勝手なことを言う上鳴の頭を叩く。頭を押さえて、ひでえと上鳴は呻いた。爆破しないだけありがたいと思え。
「緑谷か、知んねえなあ」瀬呂が答えた。「俺は同学年の奴らと事務所作ったから、情報弱者だぜ。大きい事務所に属してる奴のが、情報入んだろ。つーか爆豪、ベストジーニストんとこ行ったんだろ?卒業後にお前の勧誘来てたの、あそこだけだったもんな」
「あそこはすげえ大手じゃん。意外にインターンで気に入られたんだな。ま、俺もだけどな。その縁でファットガムのとこ行ったしよ」切島が言う。
「でも、こないだ辞めたって聞いたぜ?だよな、爆豪」どこから知ったのか、上鳴が口を挟む。
「うぜえ!余計なこと言ってんじゃねえ」
「はー?すげー事務所なのに、なんで辞めたんだよ。もったいねえな」
「くそっ!ほっとけよ」勝己はぐっと杯をあおる。「あそこは礼儀やらなにやら、うるっせえんだよ」
「ところでよ、知ってるか?緑谷のことだけどよ。」
 出久のことだと?隣のグループから聞こえる声に、耳をそばだてた。峰田だ。
「俺会ったんだぜ。ヴィラン連合との戦いで負傷してから、あいつ、所属していたヒーロー事務所も辞めて、行方がわからなかっただろ。実はよ、今雄英に戻ってんだぜ」
「はあ?馬鹿か!あいつも卒業してんだろうがよ!」
 我慢できず、勝己は怒鳴った。
「え、いや、いやいや、まさか生徒じゃねえよ。あいつ非常勤講師をしてんだとよ。俺が学校に行った時、たまたま会ったんだよ」
 いきなり話に入ってきた勝己に、峰田はしどろもどろになって、戸惑いつつも答える。
「何でてめえが、学校に行くんだ」
「在校生に進路の話して欲しいって、先生に頼まれたんだよ」
「ああ、俺も行ったことあるわ」
「爆豪呼ばれたことねえ?あー、お前は呼ばれねえか」
「うるせえ!」
「まあ、大抵は事務所を通じてくる話だしな」
「まだベストジーニストんとこにいれば、お前も呼ばれたんじゃねえか」
「クソが!」
 ベストジーニストの事務所からは、先月独立したばかりだ。元々上から押さえつけられるのは苦手だったし。仕事を選べねえのも気に食わなかった。はなっから仕事の仕方を覚えたら、独立するつもりだった。
 自分一人しかいないのに、名ばかりの個人事務所を開設したのは、とりあえず税金対策だ。みみっちいと言われようと、賢く立ち回るべきだろう。マンションの1室である自宅の一部を、リフォームしただけだしな
 交通機関がまだあるうちにと、早めに飲み会はお開きになった。家が近い奴らは、二次会になだれ込むらしい。
 一人になり、勝己は夜空を仰いだ。ネオンや街灯の灯りで星はかき消されている。
 雄英の奴らに会うと、一気に学生の頃の空気になるのが、妙にこそばゆい。懐かしいというほどの年月は経っていないが、たまにはいい。
 それに、収穫はあった。出久は雄英にいるのか。
 考えてみれば、あいつのことだ。一時的に身を眩ましたとしても、雄英にいるオールマイトから、そんなに長く離れたりしねえよな。しかし、そんな近くにいたというのに、偶然でも町でばったり会ったりしねえのかよ。
 まあいい、確認のために、明日にでも雄英に行ってみるか。別にあいつがどうってわけじゃなく、卒業生が学校訪問するだけの話だ。クソが。
 つらつら考えつつ、繁華街をぶらぶらと歩いた。ホテルには到着時にもうチェックインしてるし、まだ戻るつもりはない。しかし、まだ宵の口だから人通りが多いな。酔っ払いもふらついている。
 誰かと肩がぶつかり、ムカついて振り返った。
 視線を向けた先に、一瞬、見慣れたふわふわ頭が目の端に入る。
 なに?
 勝己は目を向けた。しかしその前に人並みに紛れて、見えなくなった。
 まさか、出久か。
 あいつのことを考えていたから、見た気がしただけか。
 いや、俺があいつを見間違えるはずがねえ。勝己は急いで引き返し、姿を見かけた通りを曲がって追いかけた。
 やはりいた。
 俯いてひょろひょろ歩いている黒髪の癖っ毛。間違いねえ。間抜け面で身の程知らずで、いつも心をかき乱す幼馴染。
「てめえ、クソデクか!」
 ビクリと震えて、人影は振り向いた。このやろう。でけえ目を丸くして、吃驚した顔しやがって。
「かっちゃん?なんでここに」
「てめえこそ!なんだてめえはよ。んっとにてめえ、ざけんじゃねえ」
 思いがけない再会に、罵倒の言葉も出ない。
「あ、そうか、君もヒーロー集会に来てたんだね」
「クソが。てめえも居たのか」
「いや、僕は」
 へらっと伺うように笑う顔に、さらに腹が立った。てめえ、マジふざけんなよ、この野郎。消息不明だったくせに、まるでこの1年の空白を忘れたかのように、へらへらしやがって。
「てめえ、何してんだ、こんなとこで」
「実は、鞄をなくしちゃって…」出久はもごもごと答える。「財布も携帯電話も入ってたから、ずっと探してて」
「相変わらずボケてんな、てめえは。いつなくしたんだ」
「ヒーロー集会の中継を、あのビルの大型ビジョンで見てたんだ」と出久はCMの流れるビルの壁面を指さす。「鞄は足元に置いてたんだけど、中継終わって気がついたらなくて」
「あ?置き引きじゃねえのか、てめえそれでも…」ヒーローか、と続けようとして、言葉を飲みこんだ。「しょうがねえな、クソが」」
 ふたりで散々通りを探したが、結局鞄は見つからなかった。誰かに拾われたか、盗まれたのだろうという結論に至り、警察に届けを出させた。
 出久は昼から何も食べてないと言うので、飯を食わせてやることにした。今から食える場所は24時間のファミレスくらいだ。もじもじしてやがるから、勝手にカツ丼を頼んでやった。
「ありがとう、かっちゃん。ご飯まで奢ってもらって」
 食事を終えて、心底ホッとした表情で出久は言った。
「泊まるとこはあんのか?」
「ううん、日帰りで帰るつもりだったから」
「クソが。間抜けなてめえに金貸してやってもいいが、もう電車ねえだろうが」
「そうだね、始発で帰るしかないね」
「仕方ねえ、俺と来いや」
「え?かっちゃん、どこに?」
 有無を言わさず、予約していたホテルに連れ込んだ。部屋は十分広いが、一人で宿泊する予定だったから、クイーンサイズとはいえベッドはひとつだ。
「ここ、一人部屋だよね。悪いよ」と出久は頑なに遠慮したが、グズグズすんなと部屋に蹴り入れた。
「文句言うな。こんな遅い時間に、アポ無しで入れるホテルなんてねえわ。せいぜいラブホくらいだぜ、クソが」
「そんな、文句なんてあるわけないじゃないか。いいの?本当、ありがとう。かっちゃん」おずおずと出久はソファに座った。「僕、ここで寝かせてもらうね」
 勝己は先にシャワーを浴びて、持ってきた部屋着に着替え、出久には備え付けの浴衣を渡した。ソファに座り、缶ビールを袋から取り出す。通りすがりにコンビニで買ってきたものだ。シャワー室から出てきた出久にサワーを放った。こいつが甘めの酒を好むのは知ってる。
「アルコールが入ってるが、飲めるよな」
「うん、ありがとう」
 出久は缶の蓋を開けて口をつけた。勝己は出久の上下する喉仏をじっと見つめる。
 てめえ何で、何も言わないで消えた、と言おうとしてやめる。わざわざ自分に言う理由はないのだ。げんに峰田の野郎は知っていた。偶然とはいえ。
「久しぶり、だよね」出久は呟くように口を開いた。
「ああ、てめえ何処にいた」
ヴィラン連合の残党が、追跡してくるかも知れないからって、暫く安全なところに身を隠してたんだよ。僕はもうOFAを使い果たしてしまったから」出久の声が沈んだ。
「OFAは誰かに継がせたのか」
「うん。覚えてるかな。翔太くん」
「ああ、林間学校の時のマセガキか」
「うん、彼はきっといいヒーローになる」
 本当は、と出久は続ける。「彼には渡したくなかったよ。彼はヒーローだったご両親を亡くしてるし、継承者になればヴィランに狙われて危険なんだと、彼自身が身をもってわかってたから。でも彼は良いと言ってくれた。連合との戦いの前に譲渡しなければ、OFAが僕で途絶えてしまう可能性があった。迷う余裕はなかった」
 出久はサワーをあおる。その右腕には以前にはなかった白い縫い目が走っている。ズタズタになった腕を縫い合わせた痕跡。
「幸い生き延びられたけど。皆のおかげだよ」
「は!マジで運でしかねえわ。実力だと勘違いしてんじゃねえぞ」
 きついなあ君は、と出久は苦笑した。
 出久の身体に残る傷跡が物語る、ヴィラン連合との死闘。通信を遮断された街一つを焦土にして、ヒーローにも民間人にも死傷者を多数出した事件。
 だが、自分はその場にいなかった。
「てめえ、集会の情報を聞いてやってきたんだろう。雄英のやつら来てたぜ。てめえは会ってかなくていいのかよ」
「うん、僕はヒーロー活動で来たんじゃないから」
「じゃ、てめえはなんで来た。非常勤講師の仕事じゃねえよな」
「え?かっちゃん知ってたの?」
「雄英の非常勤講師になったのは、オールマイトがいるからなんだろう。なんで隠してた」
「隠してたわけじゃないけど…」
 隠してやがったんだろうが。飯田達にも言ってねえんだから。言い訳がましいんだよ、てめえは。無力なくせに、何ができる。
 何もできないならば、自分の近くにいるべきだ、と思ったが口には出せなかった。
 空調の音が響く。缶の表面から雫がぽたりと流れ落ちる。
「てめえは、経験あるのか」
 ちょっと酔いが回ったせいか、口が滑った。気になってしょうがなかったことだ。
「え?ええ?なに?なんの経験?かっちゃん」
「誰かと体の関係になったこと、あんのかって聞いてんだ」
「え…直球だなあ」
 出久は誰とも、付き合うつもりはないと言っていた。その言葉通り、浮いた話は聞いたことがない。だがもし、あるなんて抜かしやがったら。
 自制が効かないかもしれねえ。
「…ないよ。そんな暇はなかったから」
「は!童貞かよ」ほっとして笑う。そうか、まだこいつの身体を知ってる奴は、誰もいないわけだ。
「そうだよ!機会もないし、付き合ったりしたら、相手を危険に巻き込んでしまうから」
「一晩だけの付き合いだって、あんだろが」
 出久は真っ赤になって首をぶんぶんと振った。
「そんなの、無理無理!付き合うつもりもないのにそんなこと、できないよ」
 初心な奴だ。てめえには到底無理だろうな。童貞ならなおさら、考えつきもしないだろう。奥手なだけのくせして、ご大層な大義名分をつけてやがって。
「でもこれからは、余裕ができるかもね」
「は!てめえが?」聞き捨てならねえ。譲渡したら交際も解禁ってか。うかうかしてらんねえ。出久が知らねえだけで、こいつを狙ってる奴は少なくねえんだ。
「いや、ダメかもね」
「あ?なんでだ。もうOFAはてめえん中にねえんだろ」
 即座に否定するのか。他にも否定する理由があるのか。
「OFAの元の持ち主も身内も、ヴィランに狙われるんだよ。危険に巻き込むわけにはいかないよ。死柄木みたいに、人生を狂わせてしまうかもしれない」
 死柄木。あいつの祖母は、オールマイトの師匠だという話だった。詳しくは知らねえが、一家を皆殺しにされたと聞く。OFAの持ち主はAFOに狙われる。家族までも。
 あの事件の後、死柄木は収監され、ヴィラン連合は壊滅した。だが、AFOは脱獄して行方をくらましている。
「大切な人を、そんな危険に遭わせるわけにはいかないよ」
 個性を失ってなお、OFAに縛られてやがるのか、てめえは。
「はっ!付き合う奴がヴィランより強けりゃ、いいんじゃねえか」
「そっか。そうだね」
 勝己に合わせつつ、からからと出久は笑う。てめえは全然そう思ってねえんだろう。丸わかりだ。
「かっちゃんは、経験ある、よね?もちろん」
「ああ?」
「あ、ごめん、君と恋バナしてるなんて、なんか意外すぎて」
「寄って来る女に事欠かねえよ、ばあか」
 めんどくせえから付き合ったりしねえがな、と心で付け加える。時間の無駄としか思えねえからな。すぐに恋人面しやがって鬱陶しいし、構わないと文句を言う。そこが良いという、上鳴達の気が知れねえ。ましてや同棲してる奴らなんて、もっとわかんねえ。他人が部屋にいるなんて、邪魔で落ち着かねえわ。1人のほうが気楽だろうがよ。
 だが、てめえもちっとは興味があるのか?
「知りてえのかよ。デク」
「あ、答えたくなかったらいいよ。色々あるよね」
 何を思って、色々とか言ってやがるのだろう。
「俺がどんくれえ経験あんのか、てめえで確認しろや」
 勝己は出久の側に移動し、身体を寄せて隣に座った。腕を掴んで顔を近づける。酒が入ったからなのか、恋バナもどきなんかしてる、雰囲気のせいなのか。
 喉から手が出そうなほど求めていたものが、容易く手に入りそうな予感。
「かっちゃん?」
 声も身体も。こいつの存在全てが今なお情欲を煽る。にじり寄って抱きしめた。首元に顔を埋めて匂いを嗅ぎ、首筋にキスをして舐め上げる。出久は抵抗しない。そのまま出久をソファに押し倒し、見下ろしながら、自分のシャツを脱ぐ。
「ええと、引き締まってるね、かっちゃんの身体」
「てめえな、黙れや」
 出久の顎を掴み、唇を押し当ててキスをする。唇を舌で割り、口内に差し入れる。深いキスを交わしながら、出久の浴衣の帯を解く。
「なんか気持ちいい。キス、上手だね、かっちゃん」出久は呼吸を整えながら、顔を赤くして言う。
 浴衣の合わせ目から手を差し込み、肌に触れる。
「ん…、そこ、乳首だけど、ぺったんこだよ」
「うるせえ」
 興を削ぐようなことを言う唇を塞ぐ。舌を絡めとってはすり合わせる。
「キスに感じてんじゃねえかよ、てめえ」

 静かな部屋に、2人分の荒い息遣いが満ちる。全力疾走したみたいだ。掌を出久の胸に当てる。早鐘を打つような心臓の鼓動。
 出久は生きている。この掌の下で。死にかけたとは思えないくらい、心臓は激しく脈打っている。
 だがこの身体の中には、もうOFAは宿っていない。
 出久はヴィラン連合との戦いで、個性を使い果たしたのだ。


2. Won't Get Fooled Again (二度と騙されない)


 出久が瀕死の重症を負ったというニュースが届き、勝己は病院に駆けつけた。
 既にプロヒーローとなって、数年経っていた。「デク」の名はオールマイト後継とまではいかないとしても、若手ヒーローの中では抜きんでて有名になりつつあった。無論、ヴィラン達にも。
 集中治療室のドアの前には、雄英の頃の同級生一堂が集まっていた。
 途中からヒーロー科に編入した、元B組の奴もいる。眠そうな顔をした、心操とかいう奴だ。あいつが敵を洗脳して、出久が呼び出された街を突き止めたという。
 丸ごと人質に取られた街。一刻を争う事態で、出久は連絡する術がなかったという。だが、単身敵地に飛び込むなんて、馬鹿のすることだ。急遽集められたヒーローが駆けつけなければ、どうなっていたことか。
 硝子の向こうの部屋に、寝かされている肢体が目に飛び込んだ。腕から足からコードが何本も伸び、顔には人工呼吸器をつけられている。肌の色は幽鬼のように白く、生気がない。
 あのクソバカが!勝己は硝子を叩いた。
「同じ現場にいたんだ」飯田がポツリと呟いた。「いつも彼は1番危険な所に飛び込んでいくけど、笑って帰ってくる。だから大丈夫だと思ったんだ」
「飯田、自分を責めんな。現場には俺もいたんだ。止めなかったのは俺も同じだ」轟は苦悶の滲む声音で言った。
「誰も止められないよ。デクくんが助けたいというなら。いつも助けてしまうんだもの。今回だって、大丈夫だって思っていたんやもん」麗日は泣きはらした顔をしている。
 クソが。てめえらはデクを過信してたんだ。あいつはただの身の程知らずなんだ。勝己は歯噛みした。俺はこんな馬鹿のために、泣いてなんかやらねえ。泣けるもんかよ。頭にきて涙なんか一滴も出ねえわ。
 だが、一番腹が立つのは、出久の危機をニュースで聞くまで、まるで知りもしなかった自分だ。
 出久は死ぬのか。また俺の知らねえところで戦っていたのか。いつもいつもそうだ。
 こんなことになるのなら、側に置いて見張っているべきだった。自分にその権利はないとしても関係ない。できるものなら、閉じ込めておくべきだった。
 頭を硝子に押し付ける。ひやりと固く冷たい、出久との間を隔てる硝子の壁。
 幼い頃からいつも、心のど真ん中を占めていた出久。
 自制心を失わせ、感情を揺さぶり、年が経つごとに存在感を増していった出久。
 高校を卒業するまで同じクラスで、目について目障りだった。目に入らないところに行けば、やっと俺は自分を取り戻せるのだと思っていた。心を占める邪魔者がいなくなれば、自由になれるのだと思っていた。けれども違った。側にいなくても、出久は図々しく心に居座った。
 出久を失ったら、心のど真ん中に穴が開くだけだ。虚は虚のままなのだ。この虚を埋めるものは、出久のほかにないのだ。
 手の届く側から離れるべきじゃなかった。
 ようやくわかったのに。なのに失われようとしている。距離を置いてしまったが故に、俺は間に合わなかった。 
 一生この虚を抱えたままでいろというのか。
「てめえ死ぬとか、ふざけんなよ!」
 低い声で呟く。再び硝子を叩く。爆豪くん、と背後で誰かが呼ぶ。
「クソが。殴りゃあ、起きんじゃねえのか、開けろや、ぶん殴ってやる」
 治療はもう終わってんだろ。もう待つしかねえんだろ。まだ中に入れないねえのか。
 皆が見守る中、集中治療室の扉が開いた。相澤先生と警官に連れられて、一人の男が入ってきた。短髪黒髪の痩せた男だ。
「ヤクザのなんとかって奴に似てねえか?」誰かがボソッと言った。
「あいつ、緑谷と戦った、死穢八斎會のオーバーホールじゃねえか!マスク付けてねえけど間違いねえ!」切島が叫んだ。
「おいマジか?」「刑務所にいんじゃねえのかよ」同級生の奴らが、我先に硝子の前に押し寄せ、不安げに騒ついた。
ヴィランじゃねえか!」勝己は怒鳴った。「なんであんな奴を中に入れるんだ」
 表情はマスクでわからないが、医師達もひそひそと囁きあって、不安がっているようだ。
 問われる前に、男は自ら口を開いた。
「壊里に頼まれたんだ。俺の腕は壊里に巻き戻させた」
 男は手錠で拘束された腕を上げて示した。
「この手で、俺がこいつを治してやるよ」
 医師達は信じていいのか問うように、相澤先生に視線を向けた。先生は頷いた。
「こいつの個性は治療だ。何かを破壊するような力はない」
「この手があれば、どんなに怪我でも治癒できる」男は掌を広げて言った。「壊里は完全には個性を制御できない。だから死に損ないのそいつに、巻き戻す個性は危険すぎて使えない。壊里に言われたさ。俺の身体の保証はできないが、俺を巻き戻すから、そいつを治してやってほしいとな。もし巻き戻しが止まらなくなったら、自分を壊していいとまで言ってな。全くいい女になったもんだぜ」
「わかってるな。腕を得ても、お前は逃げられないぞ」相澤先生が言った。「おかしなことをしたら止める」
「逃げねえよ。お前たちと取引したからな。俺は治った腕で親父を治させてくれるなら、他に望むことはないさ。それで貸し借りはなしだ」男は言った。
「ああ、約束しよう」
「それに、死柄木の野郎を喜ばせるのは、癪に障ってしょうがねえ。奴は大嫌いだ。だがデクと言ったか、こいつのことは認めてる。やりあった仲だしな」
 男の手が出久の額に置かれた。「じゃあ、やるぜ」
 男が目を瞑り、俯いた。暫くして、出久の身体がぴくりと震え、痙攣を始めた。
「おい!」と勝己は硝子を叩いた。クラスの奴らも背後でざわめいた。
 くそっ!びくともしねえ。壊してやろうか。いや、硝子を爆破したら追い出される。自分の自制心が忌々しい。
「慌てんな」と言い、男が硝子を隔てた勝己たちに視線を移した。
 暫くして、包帯で隠しきれてない出久の傷が、引いていくのが見えた。
「マジで治っていってるぜ。あいつ、ヴィランのくせに、ほんとに治しやがった」切島が感心したように言った。
 出久は咳き込んで、首を振った。マスクが剥がれた。深い呼吸を繰り返して薄目を開けた。硝子の向こうから、自分たちを認めたように、まっすぐな視線を寄越した。ぎこちなく薄く笑った。
 クソが。あの野郎、無理に笑顔を作ってやがる。安堵したと同時に、腹が立った。
「仕事は終わった。親父のいる病院に連れてってくれ」男は言った。
「ああ」と相澤先生は頷いた。「嬉しくはないかもしれんが、礼を言う」
「ふん、皮肉にしか聞こえねえな。約束は守れよ」
 男は相澤先生に連れられて、病室を出て行った。
 出久は回復した。だが個性は失われた。
 正確には個性を出せるほど、身体が持たなくなったということだろうか。
 暫くして出久は退院した。だが、誰とも連絡を取ることもなく、集まりにも顔を出さなくなった。いつの間にか事務所も辞めていて、誰にも何も言わずに姿を消し、音信不通になった。

「僕はてっきり、君に嫌われてると思ってたんだ」
 重ねた身体の下で、出久はぽつりと言った。
「はっ!何寝言言ってんだ、クソが。てめえのこたあ、気に食わねえよ」
「え、でもこういうこと、嫌いな相手とはしないよね?」
「丁度いいとこに、てめえがいただけだ」
「そういうものなの?オトナだなあ、かっちゃん」
 くそっ何言ってんだ俺は。納得すんなよ。クソデク。何も思ってなくて、てめえを抱けるかよ。
 勝己は出久の髪をくしゃっと掴み、荒っぽくキスをした。起き上がり、ソファの下に落とした衣服を拾う。
 出久は身体を起こし、浴衣を羽織って不格好に帯を締めなおす。
「一晩限りの関係なんて、僕は今まで理解できなかったけど、成り行きでこうなることあるんだね」
「はあ?」
 一晩?何言ってんだこいつは。
「付き合ってなくても、経験はあるって言ってたけど、そういうことなんだね。」
「はあああ?」
「ご、ごめん、ぼくが言うなって感じだよね。なんか、凄かったよ。人のもの触るのも触られるのも初めてだったし。君の身体が中に入ってくるなんて、強烈な体験だったけど。忘れられるかな。でも、忘れるよ。次会ったときは、普通にできるように頑張るよ」
 出久は早口でベラベラとまくし立てる。ムカついてきた。
 てめえ、ざけんなよ。勝手に解釈してんじゃねえよ。んな器用にやれっかよ。経験なんざほとんどねえわ。てめえにんなこと言えっかよ。見栄をはっただけだ。
 いや、問題はそこじゃねえ。
 こいつは一晩限りで、終わらせようとしてやがる。そういう話はしてたけどよ。てめえに勧めたわけじゃねえぞ。つい今まで俺に抱かれてたくせに、もう思い出みたいな口調で語りやがって。それとも、初めからそのつもりで受け入れたんかよ、出久のくせにてめえ。そうはさせるかよ。
「おいデク!てめえは」
 どういうつもりで、と問いただそうとしたところで、出久が口を開いた。
オールマイトアメリカに行くんだよ」
「あ?ああ、そうかよ」
 出鼻をくじかれる。なるほど。ヒーローの本場だ。昔オールマイトが敵の手を逃れて、暫く住んでいたと聞いた。かの地での活躍が、オールマイトを世界的に有名にしたと言える。
「それでね、僕もオールマイトと一緒に、アメリカに行くんだ。そのために英会話の勉強もしていたんだ」
「はあ?なんだと?」驚いて聞き返した。出久も以前のオールマイトと同じように、逃亡するというのか。
「そんでてめえ、いつ日本に戻んだよ」
「何年いることになるか、決まってないって。もう定住することになるかも知れない」
「てめえも一緒に、かよ」
「うん、僕もだよ。一ヶ月後にもう日本を出るから、それまでに部屋を引き払わなきゃいけないんだ。手続きはもう済んでる」
「はあ?すぐじゃねえか」
「うん。そうなんだ」出久は曖昧な笑みを浮かべた。「でも、行く前に君に会えてよかった」
 何を言いやがる。ふつふつと怒りがわいてくる。ふざけんなよてめえ。やっと会えたんだ。やっと抱いたんだ。やっと手に入れたんだ。これからじゃねえのかよ。クソが!クソが!
「おい、クソデク!」
 うかうかしてはいられない。ほんの1カ月後には、出久はアメリカに行っちまう。
「な、なに?かっちゃん」
「今回の件の見返りを寄越せよ」
「えええ?見返り?」
「そうだ!文無しのてめえに飯を食わせて、ホテルにまで泊めてやった上に、明日帰る電車賃まで、出してやるわけだからよ」
 顔を寄せて迫った。やっと捕まえたのに、逃してたまるかよ。たった一ヶ月という期限だとしても、ここで手離すわけにはいかない。
「そ、そうだね。ありがとうございます。かっちゃん。あの、僕は何をすればいい?」
「てめえがアメリカに行くまでの時間、全部俺に寄越せ!」
「えええ?」
 一晩限りでこれっきりとかぜってーねえわ。アメリカに行く前に、てめえとしてえことを、全部やりきってやる。
 この時、先のことなど何も考えてはいなかった。とにかく今、なんとかしなければと思ったのだ。

 翌日、勝己は出久と一緒に帰途に着いた。だが、住居兼事務所の自宅には戻らずに、そのまま出久の住処に押しかけた。
「学校側が、セキュリティがしっかりしてないといけないって、住むところを提供してくれたんだ。家具つきだから引っ越しも楽だったよ」
 雄英の敷地の側にあるが、門からは離れてる。白壁の意外と立派なマンションだ。
「寮もそうだったな。セメントスが作ったんじゃねえのか」
「あ、そうかもね。他にも学校関係の人が住んでるよ。空き部屋もあるから、時々先生が泊まったりしてるよ」
 勝己は出久の手からキーを取り上げてドアを開け、出久が入ると後ろ手に鍵をかけた。反転して出久をドアに押し付ける。
「いたた!かっちゃん?」
「てめえの時間、全部寄越すっつったよなあ、デク」

上衣も着たままで玄関先でやるなんて、盛った動物のようだ。だが、部屋に入った途端に、待てなくなった。
 服を脱がす時間すら惜しくて、ベッドまでの距離すら長く感じた。理性も感情も吹っ飛んで、本能だけに支配されたようだ。こんなにも飢えていたのか。
「デク、口開けろや」と言い、唇を合わせて深くキスをする。口腔を探り、舐めて吸い、同時に尻を持ち上げては突き上げる。貪りつくす。


3.Ain't Talkin' 'Bout Love(叶わぬ賭け)


 カーテンの隙間から、日差しが細く指している。光はゆらゆらと移動し、隣に寝ている出久の髪を照らす。狭いベッドの中で、お互いの裸の肌が触れ合う。
 肩から腰まで、滑らかなラインを撫でる。胸に指を滑らせ平らな乳首を摩り、腹筋の割れ目を辿り、下腹の繁みの下の性器を弄ぶ。
 尻を撫でて抱きしめて、脚を挟み込み、双丘の間に勝己の性器を押し付ける。すん、と頸の匂いを嗅ぐ。
 俺のもんだ。ひとつに融け合うような感覚は、出久としか味わえやしない。
 小さく声を上げて身じろぎすると、出久は首を傾けて振り向いた。
「かっちゃん、もう朝だよ」
「やっと起きたんかよ。もう9時だわ、クソが」
「僕、そのまま寝ちゃったの?今日が休みでよかった。裸のままで寝るなんて初めてだ」
「やってから、そのまま寝るのも、だろうが」と揶揄う。「わわ」と出久は真っ赤になって、ベッドからそそくさと立ち上がった。
「かっちゃん、シャワー先に浴びていいよ。近くにご飯食べに行く?」
「食いもん、なんかねえのかよ」
「冷蔵庫の中何もないんだ。引っ越しするし。物減らさないといけないから」
「はあ?引っ越すつっても、あとひと月もあんだろーが!」勝己は起き上がって、出久の腕を掴んだ。「よし、買い物に行くぞ、クソデク」
 ふたりは近所のスーパーに連れ立って入った。弁当を手に取ろうとする出久の手を「いらねえ」と言ってはたく。卵やら玉ねぎやら、調理の必要な食材を籠いっぱいに放り込み、調味料も入れてレジに向かう。
「かっちゃんが作るの?」
「なに抜かしやがる。誰がてめえなんぞに作ってやるか!てめえも手伝うんだ、クソが」
「ええ!僕料理できないよ」
「飯の作り方くらい覚えろよ。アメリカで外食ばっかするつもりかよ」
 自分で言ったアメリカ、という言葉がちくんと胸を刺す。
「あ、そうか。うんそうだよね。何すればいいかな、かっちゃん」
「とりあえず、ご飯くらい炊けるよな」
「うん、もちろん出来るよ」
 そう答えたくせに、家に帰って準備を始めると、炊飯器を前にして出久は「あれ?どっちの目盛りに合わせればいい?」とまごついている。
「無洗米だからこっちだ」
「研がなくていいの?」
「ざっと1回洗えば十分だ。てめえ、全く自炊したことねえのかよ」
「うう、恥ずかしながら」
「それでよくもまあ、もちろんとか言えたもんだぜ。俺がやった方が早いが、猫の手でもマシだ」
 炊飯の後は味噌汁を作らせることにしたが、出久の手つきはおぼつかない。測った味噌を、そのまま汁に入れようとしたのが目に入り、といてから入れろと怒鳴る。
 台所にふたり並んで炊事しているなんて。まるで合宿の時のようだ。あの時はクラスの奴らも一緒だったが。
 もしも、このままてめえが日本にいて、一緒に住むのなら、どっちも働いてんだから、作るのは交互だろ。飯の一つも作れなきゃな。
 もしもだけどよ。
 ご飯に味噌汁に卵焼きに、お浸しにサラダ。いつもより時間がかかったが、まあいい、出久にしちゃ上出来だ。
 朝食の皿を並べて、テーブルに向かい合わせに座る。出久は自分の作ったものを「美味しい美味しい」と言いながら口に運ぶ。
「てめえ、学校から帰るのは何時だ」
「大体定時だよ。講師だからね。担任を持ってると大変そうだけどね。相澤先生はいつも残業してるよ」
「その講師の仕事はいつまで続けんだ」
「ギリギリまでやるよ。それに引き継ぎを必要とするような授業じゃない。ヒーロー歴史学は個性に関わらず、誰でもできる教科だから」
「てめえでも、役に立つってわけだ」
「うん」一拍おいて、出久は続ける。「無個性でも」
 それから、勝己の仕事の話や、ヒーロー集会で会ったクラスメート達の話になった。
 他愛無い会話が擽ったくて、胸が暖かくなる。


「おい、起きろてめえ。いつまで寝てんだ」
「お、おはよ、早起きだね。かっちゃん」
 勝己に叩かれた頭を摩りながら、出久は起き上がった。昨夜も勝己は出久の部屋に泊まった。ここ一週間、帰ってくるのは出久のマンションである。
「さっさと着替えろや。これからランニングに行くぞ。身体が鈍るわ」
 家から少し走ると、広い運動公園があった。ランニングコースの内側に、野球やサッカーのグラウンドがある。少し離れると木立に囲まれた小さな広場があり、滑り台やブランコなど、子供の遊具が設置されている。
「ここ、家の近くの公園を思い出すね」出久は懐かし気に言った。
「ああ、まあな」
 出久と一緒に遊んだことも、いじめたこともある。甘くて苦い、公園の思い出。
 飲み物を買うためにコンビニに立ち寄った。出久は花火に目を止める。
「もうそんな季節なんだ」と出久は微笑む。「花火、やったよね」
「ああ、ガキの頃な」
「かっちゃんは、ネズミ花火ばっかり火をつけて、僕に投げてきたよね」
「ばっかりたあ、なんだてめえ。チキンなてめえが逃げるからだ。それに、てめえらが尻込みする打ち上げ花火には、俺が火つけてやったろーが」
 飲み物を買ってきて公園に戻り、木陰で一休みする。
 ポカリを嚥下するデクの喉。舐めたくなる喉元から目を逸らす。歯を立てて噛み跡をつけたい。
「久々に走ったよ」額の汗を拭いて、出久は言った。
「ああ?なまってんじゃねえのか」
「君は毎日ジョギングしてるの?」
「たりめーだ。毎日鍛錬しねえで、ヒーローでいられるかよ」
「汗かくのはいいね。色々考えないですむから」
 何を考えたくないのか。芝生の上に寝転んで、出久は顔をタオルで覆っている。表情は見えない。
 子供の頃の夏の夜、花火とバケツとチャッカマンを持って、出久を誘って河原に行き、花火で遊んだ。ネズミ花火や蛇玉や打ち上げ花火だってあるのに、出久はいつも地味な花火を手に取った。
 出久の手の中の、今にも火の消えそうな線香花火。チリチリと細い火を吹く火を、心配そうに眺めているのを見かね、花火に火を継いでやった。にっこり笑う顔が、花火に照らされた。かっちゃんの掌の火花みたいだと、出久は言った。思い出すと、糸屑のように縺れて散る火花の、ぽしゅぽしゅっと弾ける音が、聞こえるようだ。
 大きな鳥の影が、広場を横切ってゆく。
 出久は空を仰いで、手を伸ばす。
「手が届くなんて、思ってなかったなあ」
 鳥の姿は遠く空の彼方に小さくなる。出久はそっと手を下ろした。
 こんなに早く失うとは思わなかったと、言っているように響いた。
 出久は瀕死の重傷を負った。助かったのは奇跡だ。単身ヴィランの元に向かう時に、前もって個性を譲渡した判断は間違ってない。だが、出久は死闘を生き延びた。生き延びてしまった。
 個性を譲渡してしまったことを、悔いているのか。オールマイトと同じように、壮年を過ぎてから譲渡したのなら、諦めがついたのか。個性の残滓すら、吹き飛んでしまった今。
「そろそろ戻るぜ」
「うん」
 起き上がり、出久は顔からタオルを取った。いつものような穏やかな顔をしている。

 警察から連絡があった。鞄が落し物として届けられたらしい。金だけはなくなっていたが、中身を聞くと他のものは無事のようだ。
「繁華街探し回るより、さっさと警察に届けりゃよかったんだ」
 まあ、うろついてやがったから、出久を見つけたわけだが。
「大したもの入ってなかったからね」
 出久は、ただ淡々と呟いた。


 なし崩しに、勝己は出久の部屋に居ついた。
 スペアの合鍵を有無を言わせず奪取し、ヒーロー活動の後は、毎日出久の部屋に入り浸り、夜毎身体を繋いだ。
 思っても見なかった同居生活。他人が部屋にいる生活など、考えられなかったというのに、この安心感はなんなのだろう。
 ようは同居する相手次第なんだ。
 出久を独占している安心感。出久の存在はいつも心を波立たせ、苛つかせていたのに。自分だけの物になった途端に、こうも心が穏やかになるとは。幸せとはこういうものなのか。
 でもひと月後に失われてしまう。
 たとえ出久を追って自分もアメリカに行ったとしても、大した実績もツテもない今の自分では、ヒーローの仕事はできない。観光客か留学生が関の山だ。職業ヒーローとして行くとしたら準備が要る。少なくとも何ヶ月、もしくは何年かはかかるだろう。その間に出久との関係はどうなる。
 手放せるのか、俺は。腕枕で眠る出久。眼前ですうすうと呼吸している出久を、ぎゅうっと抱きしめる。
 温かい生きた身体。手放せるのか。出来ることなら閉じ込めてしまいたい。
 傷だらけの腕に触れ、白い傷跡を辿る。手足を折って仕舞えばいいんじゃないか。爆破して壊して仕舞えば、てめえはどこにもいけない。
 そんなこと、出来るわけがないだろうと、理性が囁く。


「そろそろ部屋を引き払わなければいけないんだ」
 朝食の支度をしながら、出久は言った。簡単な料理なら、出久はひと通り作れるようになっていた。
「ここを出んのか」勝己は問うた。
「一週間単位で借りてるけど、来週の半ばには出発するから。家具は備え付けだし、ほとんど自分のものは無いんだけどね。オールマイトグッズは別だけど。渡米に必要なものだけ残して、後は家に送るよ」
「まだ日にちあんだろ?」
「出発までホテルに泊まるか、家に戻るよ」
「なら俺の家に来いや」
 出久は驚いた表情をして、キッチンから顔を出した。
「ええ、行けないよ。そんな、悪いよ」
「ひと月俺といる約束だろうが!忘れてんじゃねえ」
「あ、そうだったね。でも」
「てめえは約束を違えるのかよ」
 出久は思案顔で答える。「じゃあ、ちょっとだけ。お世話になるね。すぐ僕はアメリカに行くし、荷物はスーツケースに入れて持ってくよ」
 出久は力をなくしても、名前だけは敵に知られている状態だ。親元に帰るのさえ、用心しなきゃならない。海外の方が国内よりもマシなのかもしれない。
 だが納得できやしない。このままでいられないのか。
 てめえとしたいことはまだあるんだ。一緒に居ればいるほど、したいことが増えていくんだ。幾らでも沸いてくるんだ。
 人と一緒に住むなんて、考えられなかった。自分の空間を人に乱されるなんて、厄介なだけだと決めつけていた。でも結局は誰と住むかってことだけだったんだ。一緒にいたい奴と一緒に住みたいと思うのは、当たり前のことなんだ。
 てめえと同じ空を見上げたい。青い空を、赤い夕日を、黄金色の朝焼けを。自分だけなら同じ空でも、てめえと眺めるのならば、毎日違う空なんだ。同じ時間を共有したいんだ。
 てめえはアメリカ行って何すんだ。オールマイトのコバンザメみたいなものじゃねえのか。ほんとにてめえが、行かなきゃいけねえなのか。
 だがこの一月足らすでは、アメリカに行くという、出久の決心は変えられなかった。奴の中で決定事項になっているのだ。今を幸せだと思うほどに、焦燥感と苛立ちが心を黒く覆ってゆく。


4. Man on a Mission(任務を追う男)


 今日からデクが家に来る。学校が終わったら、直接、勝己の家に来ると約束をした。
 出久が来たら、あの部屋を引き払って、服やらオールマイトグッズやらを、勝己の車でデクの実家に運ぶのだ。アメリカに持っていくものもあるらしいので、取りに行くついでだ。スーツケースは勝己の家に置いておき、渡米当日は出久を空港まで送る。
 ほんの数日の猶予。あいつの決心は固いとしても、それでもギリギリまで粘ってやる。
 だがおかしい。今から行くと連絡が来てからかなり経っている。とっくに到着していい時間なのに、出久はまだ来ない。携帯にもかけたが、何故か出やしない。
 業を煮やして、勝己は学校に連絡した。
『やあ、久しぶりだね。爆豪少年』
 電話に出たのはオールマイトだった。ナンバーワンヒーローオールマイト。高揚と悔しさと両方の感情が渦巻く。
 あんたはいつも、出久に他の世界を示して、手の届かないとこに、連れて行ってしまうんだ。
『デクはそっちにいんのか』ぶっきら棒に問うた。
『ああ、君が緑谷少年といてくれたんだよね。聞いてるよ』
『そーゆーこたあいいんだよ。デクいねえのか』
『まだ着いてないのかい?』
 出久はかなり前に、学校を出たという返事だった。携帯電話のGPSを確認すると、出久は繁華街の入り口付近にいて、動いてないという。
 胸騒ぎがした。
 繁華街に行ってみると、出久のスーツケースが道路の隅に置いてあり、側に携帯電話が落ちていた。大声で名を呼んだが、出久はいない。やはり何かあったのだ。携帯電話に手掛かりを残してないかと、適当にパスワードを入れてみる。
 開いた。やっぱりオールマイトの誕生日かよ。
 最近使ったアプリの中にカメラがあった。写真フォルダを確認してみると、人相の悪い知らない男が写っている。
「おい、ここで何かあったのかよ」
 近くの店の人に問うと、騒ぎを目撃したと言う。ついさっき、出久はヴィランに絡まれてる人を助けようとしたらしい。だが相手が『デク』だと知ったヴィランは、標的を出久に変更した。出久は車に連れ込まれ、どこかに連れていかれたという。
「あのクソカスが!」
 今の無力な状態も忘れやがって、ヘドロヴィランから俺を救おうとした時から、何も変わっちゃいねえ。あいつは誰もがプレーキを踏むところで、思いっきりアクセルを踏んじまうんだ。
 商店街の人が呼んだ警官に「こいつを知らねえか」と携帯にあった写真の男を見せた。他に、追跡可能なものを持ってないのが残念だ。
 警官は一目見て答えた。彼らは最近この辺りを根城にする、札付きのヴィランだという。なかなか警察も手を出せないらしい。
 聞きたくねえが仕方ねえ。情報が欲しい。オールマイトに連絡し、チンピラの顔写真を送った。彼はその手の情報はやはり詳しい。折り返すと言い、すぐに勝己に連絡が返ってきた。
『その男は、元ヴィラン連合に属していた奴だ。君一人では危険ではないか』
『ああ?誰に言ってんだよ』
『しかし、爆豪少年』
『心配すんじゃねえよ、オールマイト。暇してる奴らに応援を頼むからよ』
『君はひとりで行くつもりだろう』オールマイトは図星を指した。『早まるなよ。今もベストジーニストの元にいるのかね。では彼に伝えよう』
『いねえよ、いいってオールマイト。俺から言う』
 仕方ねえ。オールマイトを煩わせたくねえ。勝己はベストジーニストの事務所にコンタクトを取り、受付の者に早口で伝えた。すぐに声がベストジーニストに変わった。
『久しぶりじゃないか。今どうしてる』
『世間話してる暇はねえ、こっちは急いでんだ!』
 デクが攫われた経緯を手早く説明して、この辺のチンピラのたまり場はないかと聞いた。
『廃ビル街だろう』即座にベストジーニストは答えた。
『この辺の監視カメラ映像かなんかねえか。今日の夕方5時から7時までだ』
『ちょっと待ってくれ』電話の奥で、ベストジーニストの声が誰かに指示を飛ばした。
『廃ビル街の入り口に設置した路上カメラに一件、誰かが運ばれたような、不審な映像がある。今から場所を送る』
 すぐにリンクを貼ったメールが届いた。ビルの中に連れて行かれる、拘束された人影。
 居場所の目星はついた。『間違いねえ。デクだ。俺は先に行く』
『待て、先走るな』
『時間が惜しいんだ。俺は先に行く。手の空いたヒーロー連れて、この場所に来てくれ』
 ベストジーニストのとこは大手だけあって、ネットワークに優れている。事務所に所属すんのも悪くねえかもな、とちょっと思う。
 さてと行くか。溜まり場はシャッター街の奥にある廃ビルだ。

 メールの添付写真と見比べる。あの5階建てのビルだ。
 人影は見えねえが、入り口は見張りがいるかもしれねえ。ジャンプしてビルの屋上に降り立った。足音をさせないようにして、階下に降りる。用心しながら、埃っぽい廊下を進む。
 出久はどの部屋にいる。
 耳を澄ますと、ヴィランの声に混じって、微かに唸り声が聞こえる。階段を降りて、声のする部屋の前に着き、廊下から様子を伺う。
 か細い声が止んだ。数人の足音、人を殴る音。ヴィランの笑い声。
 頭が沸騰しそうになるのを、ぐっと堪える。応援が来るまで待機だ。
 ドアの小窓から覗いてみる。5、6人いるようだが、全員雑魚くせえチンピラだ。出久はどこにいる?
 再び掠れた唸り声が聞こえてきた。確かに出久の声だ。
 声の聞こえた方向に視線を移す。
 目の端に、縛られてボロクズのように、床に転がされた出久が見えた。
 またてめえは俺の知らねえところで。
 とたんに頭に血が上った。
 勝己はドアの鍵を爆破して壊し、ドアを蹴破った
 ヴィラン達は不意をつかれて、振り向いた。散弾のごとく光球を飛ばし、ヴィラン目掛けて狙い撃つ。ヴィラン達は慌てて武器を手にしたが、煙で視界を遮られ、まごついている。勝己はドアの側の男の背中を爆破し、後頭部を掴んで、床に叩きつけた。
 衝動的に動いてしまったが、冷静になってきた。不意打ちしたとはいえ、多勢に無勢の戦いだ。煙が充満している間に勝負をつける。奴らに自分の位置を悟らせちゃいけない。
 勝己は煙の中を俊敏に動き、1人1人、ヴィランを殴り倒していった。
「てめえが最後だ!」
 ボスらしき男を床に引き倒し、首を掴んで押さえつける。
 あっという間に制圧完了したようだ。
「てめえ、人のモンに手ェ出して、ただで済むと思ってんのかよ、ああ?クソが」
 男の顔を手で覆い、爆破しようと熱を貯める。
「頭吹っ飛ばしてやるわ、覚悟しな、クソが」
 男は悲鳴を上げ、首を振って逃れようと焦っている。チキン野郎が。本当に殺っちまおうか。
「ん、かっちゃんなの?」
 出久の声が聴こえた。個性の出力を途中で止め、倒れている出久に目を向ける。
「目を覚ましたんかよ、クソデク」
「危ない、かっちゃん」出久が掠れ声で囁いた。
 背後に誰が立っている気配がした。振り向いた。鉄の棒が目に入った。
 ヴィランが棒を振り上げて、勝己に殴りかかろうとしている。
 煙の中に隠れてやがったのか。こんな側に近付くまで気づかねえなんて。油断してたのか。
 瞬時に、勝己は片手を男に向けようとした。
 だめだ、間に合わねえ。畜生!
 しかし、自分にヒットすると思われた瞬間、男は後ろに吹っ飛んだ。
 何があった?
 側を掠めた風圧の方向。うつ伏せた出久に目を向ける。
「おい、デク」
 返事がない。また気を失ったらしい。見ると、出久の人差し指が紫色に変色し、潰れている。何が起こった?
 ひょっとして個性を使ったのか。体力のない状態で使ったから、あの程度の発現で、高1の時のように指を潰してしまったのか。
 いや、まだ判断するのは早計か。奴らに指を潰されたのかも知れねえしな。
 壁にぶち当たったヴィランは崩折れ、どろりと液状化した。体を液体にするヴィランか。こっそり背後に忍び寄って来やがったんだな。嫌なこと思い出させやがる。
 唸っているヴィラン達を、念のために再度一発ずつ殴り、気絶させた。
 勝己は出久に駆け寄り、抱き起こして揺さぶった。
「ああ、かっちゃんだ。1人で何人倒したの。すごいな。君は」
 腕の中で勝己を見上げ、それだけ言うと、出久はすうっと目を閉じた。
「デク!何やられてんだ、てめえ、このカスが、クソカスが!」
 階下から複数の足音が近づいてきた。聞き覚えのある声だ。ベストジーニストの事務所の面々が駆けつけたのだ。
ヴィランは伏せろ。抵抗すれば容赦しない」警告しながら、ベストジーニストが部屋に入ってきた。
「遅えわ、クソが」
「早まるなと言っただろう、爆豪くん。しかし、よくやったな」
 ベストジーニストは部下達にテキパキと指示し、ヴィランを全員捕らえた。他の部屋にいたヴィラン達も残らず捕縛すると、連行していった。
「爆豪くん、彼は病院に連れて行かなければ」
 ベストジーニストに宥められても、勝己は抱きしめた出久を、手放そうとしない。
「事情も聞かなきゃならない。君も署に来てもらわなければならないし、彼は手当てしなければ」
 言われて、勝己は渋々出久を引き渡した。


5. Best of Both Worlds(好いとこ取り)


 勝己はベストジーニストの事務所に立ち寄って、協力の礼を言い、出久を病院に迎えに行った。
 傷はほぼ治療されていた。指の変色も消えていた。力の発現などなかったかのように。手を掴んで指を確認する勝己を、出久は不思議そうに見つめた。
「行くぞ」と掴んだ指を絡ませて、手を引いた。
「あ、商店街にスーツケースが置きっぱなしだよ」
「クソが」忘れてた。
 スーツケースは商店街の店が預かってくれていた。車に積んで、出久をマンションに連れ帰った。
 どうせうちに来るんだ。そうでなくても、出久を今一人にはできない。
「あんな弱そうな奴らにやられてよ、不甲斐ねえな」
 うん、と出久は言葉少なに俯いて答える。ソファに膝を抱えて座る出久は、まるで子供のようだ。
「あんなんじゃ、アメリカ行っても、身を守れねえんじゃねえのかよ」
 だからここにいろよ、とは言えない。
 暫くして、悔しいな、と出久は呟いた。
「君や皆の活躍が、同級生として誇らしい。けれども、自分の無力さが辛い。君に並び立てないのが辛い。だから僕は、オールマイトについていくんだ」
「はあ?何言ってんだ」
「僕にも何か、できるかも知れないから」
「今のてめえが一緒にアメリカ行って、何ができんだ。クソでもしに行くのかよ。てめえは逃げてるだけじゃねえか」
 自分から、俺から、逃げてるのだ。頭にきた。
「でも、君とはいられないよ」
「俺と、だあ?」
 出久の声が震えている。顔を伏せたままで頭を振る。
「理由はあんのかよ!」声を荒げて勝己は問うた。
ヴィランから身を隠して、各地を転々としてた時ね」出久は顔を上げずに言う。「OFAを使いきって、力を失ってしまった僕に、皆すごく優しかったんだ。よくやった、ありがとうヒーローって。僕はそれが辛かった。だって、僕はもうヒーローじゃないんだ。誰かに何か危険なことがあっても守れない。何もできない。優しくされる価値なんてない。でも君だけは違った。厳しく接してくれた」
「あ?どこに褒めるとこがあんだ。無茶をしたてめえの、自業自得だろうが」
「うん、君は僕に意地悪でぞんざいで、ちょっとだけ優しくて、側にいて居心地よかった。そんな風に思うなんて、正直意外だったけど」
「昔のてめえに、戻ったようなもんだろうが。何が違うってんだ」
「うん、かっちゃんだからなんだなって。でも、もう無理だ」
「だったらなんでなんだ」
「もう無理だよ。気づいたんだ」出久は顔を上げた。「だって君は僕が無力になったのを喜んでるだろ」
「てめえ、なんだと!」
 いきなり何をわけのわからないことを、言ってやがる。
「喜んでるだろ。君のことならわかるよ。いざとなれば力づくで、言うことを聞かせられる。そうだろ。そうしなくても、できると思えるだけで違うんだ。今の僕は君に叶わない。それが悔しいんだ。一度は君と並び立つことができたんだよ。もう子供の頃みたいな、惨めなのは嫌なんだ」
 思わぬ出久の吐露に、勝己は凍りついた。出久は所在無さげに指を組み替え、益々縮こまる。
「そんなに、僕に力が無いのが嬉しい?」
「てめえ、ざけんなよ」ふつふつと怒りが込み上げてきた。「力づくで言うことを聞かせるだと?てめえを力で、意のままにできたことなんざ、一度もねえわ!何言ってやがる」
 弱っちいくせに、ぐずぐず口答えして、怯えながら逆らって、何一つ思いどおりにならなかった。それがてめえだ。
「ごめん、ごめん、かっちゃん」出久は首を振って、涙ぐんだ目を擦った。
「今の僕の中は真っ黒なんだ。君に再会したあの日、ほんとは僕は、皆に会おうと思ってたんだ。でも、いざとなると足が竦んだ。僕は本心から笑えるんだろうか。黒い心が顔に出てしまうんじゃないだろうか。子供の頃に君やクラスメイトを見て、感じていたような、羨ましくて妬ましくて、辛くて濁った心。そんな浅ましさが、顔に出てしまうんじゃないだろうか。そう思ったら、怖くて堪らなくなった」
 勝己は思い起こした。出久はなくした鞄が見つかったと聞いても、喜ばなかった。あれほど探していたのに、おかしいと思っていた。つまり、本当は鞄を探してなどいなかったのだ。
 あの夜、出久は逡巡していたのだ。旧友達に会いたくて会えずに、それでも迷って、繁華街を彷徨っていたのだ。
「自分が嫌になるよ。だから誰も僕を知らないとこに行きたいんだ。平気で皆に会えるようになるまで」
 勝己は拳を握りしめた。火花が出そうになるほど、掌が汗ばむ。
 見えない鳥を追いかける出久に、いつも腹を立てていた。いくら求めたって、手に入るわけがないんだ。いい加減わかれよと。でも見えなかったはずの鳥を出久は見つけた。
 鳥を手に入れた。飛べる羽根を手に入れた。
 苦々しかった。てめえはその羽根を何に使うのか。自分の力の誇示か、玉虫色の正義の施行のためなのか。
 認められたい、必要とされたい。そんな自己顕示欲ならまだいい。あくまで自分がかわいいのだから。
 てめえは違うんだ。人のために生きて、そのために箍を外して、自分を壊してしまう。
 そんな使い方で、いつまでも羽根を持てるわけがないだろう。
 てめえもいつか、オールマイトのように力を失う。そんな日が来たのなら、その時は俺が、てめえを力づくででも止めてやる。そう思っていたというのに。
 いつもいつも俺の知らねえところで、死にかけてボロボロになって。俺はそれを知りもしねえで、何もできねえんだ。
 あのまま死んじまったかも知れねえんだ。
「喜んで何が悪いんだ。ああ?デク」
 勝己は低い声で唸る。
 俺のいない間に、無謀な戦いで死にかけた出久。
 管に繋がれて力なくベッドに横たわる出久。
 医者にも見放されて、死を待つばかりだった出久。
 ヤクザ野郎に助けられて、瀕死の状態から回復した出久。
 力を失い、誰にも言わず、何処かに姿を消した出久。
 やっと、俺の手の中に落ちてきた出久。
 喜んじゃいけねえのかよ。
 もう出久はOFAに振り回されねえ。俺の知らねえところで、壊されたりしねえ。なのにてめえは、ちんけなプライドでぐだぐだ言いやがって。そんなものに構ってなんかいられるかよ。
「ふざけんなよ。てめえ!」勝己は出久に掴みかかる。「今のてめえに何ができんだ!」
 威嚇するつもりではないのに、掌から火花が散った。出久はあつ、と顔を顰めたが、子供の頃のように怯む様子はない。
 それを言ってはだめだと、頭で警告音が鳴る。長い間執拗に否定し続けてたから、こいつは萎縮した。怯えて煙たがって、俺から離れていった。
 追い詰めたって、遠ざかるだけなんだ。思い通りになんて、出来やしないんだ。また繰り返すのか。同じ間違いを。
 だが、わかっているのに止められない。
「もうヒーローじゃねえだろ、てめえは!今のてめえが誰を守ろうってんだ。なんにもできないくせによ!」
 出久が項垂れる。「君にはわからないよ。君は何でもできるし、何でも持ってるから」
「今のてめえじゃ、オールマイトを守れねえし、オールマイトだって、てめえを守っちゃくれねえ。誰かに守られるしかねえくせに、そんなザマで、アメリカ行ってどうするってんだ。ああ?」
「何も出来ないから、だからだよ」
「は!逃げてるだけじゃねえか!」
「でもここには、いられないんだ」
「弱え奴が、何の役に立つってんだ」
 そんなことを言いたいんじゃない。行くな行くな離れるなと、心は哭いている。こんな言い方じゃ、届くわけがないとわかってるのに。また間違った言葉を叫び続けている。
 ガキの頃と同じだ。焦りと警戒が攻撃に、行動を間違った方向に向かわせた。思いを持て余し、手に入れたいと足掻き。苦しみの中で悲しみの中で、敵意が頭をもたげた。俺の思いを知らないてめえに、舐められていると感じた。傷つけずにはいられず、何度も傷付けた。怖がられ避けられても、まだ傷つけた。でも、てめえは従うことなどなくて、何一つ思い通りにならなかった
 どうすれば叶うんだ。てめえを求めてやまないのに、自分の気持ちが、ままならない苛立ちが、てめえが同じように思ってくれない苛立ちが、てめえを傷つける。傷つけることで自分も傷つくだけなのに。
 飲み込んだ言葉が嵐になる。刃となり胸を切り刻む。裂かれた傷から血が噴き出す。ここから出せと苛む。
 胸に閉じ込めておくんだ。外に出しては駄目なんだ。そんなみっともないこと、言えるものか。言ってしまったら。
 だがとうとう口から言葉が溢れてしまった。
「てめえのせいだ!」
「かっちゃん?」出久はきょとんとして見つめ返す。
「俺がどれだけ長い間、苦しんできたと思ってんだクソが!俺の苦しみも辛さも、全部全部全部。てめえのせいなんだ!」
「え?かっちゃん?」
 何を言ってるんだ、俺は。むちゃくちゃなことを言ってる。わかってるのに止まらない。俺は俺の望む俺でありたいのに。いつもいつも、てめえは容易く、俺をぶっ壊しちまうんだ。
「くそっくそっ!てめえのせいで、いつも俺は!俺は何でも持ってるって言ったよなあ、おい!俺が何を持ってんのか、言ってみやがれ!力か?名声か?んなものはどうでもいいわ。てめえが側にいてもいなくても、俺の頭ん中はてめえでいっぱいなんだ。てめえが手に入らないなら、俺はなんにも持ってねえと、同じことなんだ!てめえをものにして、初めて力や名声なんてもんも喜べんだよ。このクソカス死ねやクソが!」
 一気に捲し立て、勝己は肩を震わせて荒く息を吐く。
 言っちまった。
 死ぬまで言わねえつもりだったのに。畜生が、情けねえ。クソが!
 出久はどう思った。出久、てめえは。
 見つめるうちに、出久の顔がみるみる真っ赤になっていった。
「え?あ、あの、え?ひょっとして僕、酷い勘違いしてたの?だって君は、そんなこと一言も、え?」
 出久は狼狽え、頭をふるっと震わせて両手で顔を覆った。
「何言ってんだよ、かっちゃん」
 耳が真っ赤になっている。伝わったのか。
「おい、面見せろ、デク」
「僕に、そんな価値はないよ」
 顔を隠したまま、デクは声を震わせる。
「てめえの価値なんざ、無個性の頃から一ミリたりとも、変わってねえよ」
 てめえが落水した自分に、手を差し伸べた時から。有象無象の中で、てめえだけが鮮明になった時から。
「僕はもう、君や皆と並び立てない。なのに、危険だけが以前の何倍もあるんだよ。そんなの」出久は顔を覆っていた手を下ろした。「君の足手纏いにだけは、なりたくないんだ」
「デク。てめえはどうしてえんだ」
「したいことが、出来るわけじゃないよ」
「出来るかどうかなんて、どうでもいいわ、クソが。てめえはどうしてえんだ、デク!」
 出久は黙って目を伏せた。このひと月の俺との生活で、てめえは何も感じなかったのかよ。このままの時間が続けばいいと、思わなかったのかよ。
「かっちゃん」出久は漸く口を開いた。「僕は」伏せた瞳が上げられ、勝己を見た。
 やっと出久と目を合わせた。視線が交錯する。
 その時、ドアベルの音が響いた。
「ふたりともいるんだろう、ちょっといいかな」
 扉の向こうから、オールマイトの声が聞こえた。
 出久がはっと顔をドアの方に向ける。
 クソが!来ると思ってたが、よりによって、今このタイミングで来るのかよ。
 出久はなんか言いかけたんだ。きっともう少しだったんだ。今しか言わねえ言葉なんだ。
 勝己は歯ぎしりをしてドアを睨んだ。
「爆豪少年、君の声は大きいから、聞こえてしまったよ。開けてもらっていいかな」オールマイトがまた声をかけた。
「まだこいつは行かせねえよ」
 勝己は低い声で呟く。
 オールマイト、あんただ。出久が鳥を見つけたんじゃなくて、鳥が出久を見つけたんだ。てめえのために、命でもなんでも、何もかも捧げる奴を。格好の獲物だよなあ。あんたはOFAのために、出久を贄にしたんだ。
 勝己はデクの手首を掴んだ。こっちを見ろと力を籠める。出久はドアに向けていた視線を勝己に戻したが、戸惑いの表情を浮かべ、再びドアを見つめる。ドアの向こうのオールマイトを。
 いや、違う。わかってんだ。
 無力なくせに向こう見ずで、命を顧みない出久。オールマイトから個性を譲渡されなければ、きっと何処かで無駄に命を落としてただろう。オールマイトはデクの危うさに気づいて、ほっとけなかったんだ。
 でも、もういらねえだろ。俺に返せよ。俺が最初に見つけたんだ。ずっと前から俺のなんだ。畜生。
「その話でもあるんだ。爆豪少年。ちょっと外に出ようか、二人とも」
「かっちゃん」
 自分の名を呼ぶ、出久の声は冷静だ。クソが!クソが!勝己はデクの手を放し、立ち上がると玄関に向かった。


 川辺りの遊歩道に、爽やかな初夏の風が吹き抜けていた。勝己はポケットに手を突っ込んで、オールマイトの後ろを歩く。出久は勝己の後ろを付いてきている。
「気持ちがいいところだね。ここは」
「ああ。河原のグラウンドが広くて、気軽にトレーニングがしやすいからよ」
「君は自分に必要なことを、よくわかってるね。爆豪少年」
 整備された河原では、数人の子供達が水切りをしていた。デクとも近くの河原でよくやった遊びだ。平らな石を水面に向かって投げ、石を連続ジャンプさせる。デクは浅い角度で飛ばすコツが、なかなか掴めなかった。
 子供達の投げた小石は、水面を弾いて、軽やかに向こう岸を目指して渡ってゆく。
 ふいに地面を影が過ぎった。白い鷺だ。滑空してきた鷺は川の中洲に降り立ち、羽根を震わせる。川面は銀の鱗のように煌めいている。
 オールマイトが立ち止まり、「緑谷少年」と出久を呼んだ。出久は小走りに駆けてきて、オールマイトの隣に立った。
「緑谷少年、君をアメリカに連れて行くのは、やめたほうがいいだろうね」
オールマイト
 出久の声は予期していたように、静かだった。
「誰も君を知らない場所で、君が心機一転、新しく始める何かを、見つけられればいいかと思ってたんだ。何かを見つけられれば、どこでも生きていけるからね。君を手助けできればと思ったんだよ」
「僕のために、ですか」
「うん」オールマイトは頷いた。「でも、逃げるのは君らしくないね。緑谷少年。君はいつも諦めずに、立ち向かっていくんだ」
 オールマイトは2人を振り返り、微笑んだ。ひょろりと細長いシルエット。河原にいる人々は彼が誰なのか、誰も気づいてないようだ。
「私は力を失った時、自分はもう、守られなければいけない身になったのだと知った。緑谷少年、君もそうなのだよ。君に私は守れないだろう。私も君も、今はヴィランに狙われる身だ。何処に行ったとしても、誰かに守られなければならないだろう」
「だから、日本を離れるんだよね。オールマイト」出久は言った。
「己の身を守るために、渡米するのではないよ、緑谷少年」
「でも、周りの皆が僕のせいで、ヴィランに狙われたら。僕は何も出来ないのに」
「緑谷少年、OFAのデメリットから、生まれる人間を作らないために、君が濃い繋がりを恐れているのは、知っているよ。家族を失い、悲しみから闇に堕ちた死柄木のように。でも、誰しも1人ではいられないのもわかるね」
「でも、大切な人達に、傷ついて欲しくないんです」
「私も君も自分の無力を、直視しなければいけない。人に守られなければならない事実を、呑み込まなければならない。だがそれを恥じることはないんだ。悪の標的になる者を守るのは危険だ。ことに正義の象徴ともなった私や君は。だからこそ、誰かが守ってくれるだろう。彼ではなくても誰かが仕事として、行うことになる。君は知らない他の人なら、危険を共に担ってもよいというのかね」
「そんなことは」
「冗談じゃねえ。他の奴にデクを守らせるなんてよ」
 黙ってられなくなり、勝己は割り込んだ。
 オールマイトは勝己に笑いかけた。頭に大きな手が乗せられる。
「爆豪少年は君を必要としている。君を守る力も、充分すぎるくらいある。ヒーローでなくても、人のためになれる道はあるよ。昔君にそう言ったことがあったね」
「はい、初めて会った時に」
「でも君はヒーローになった。素晴らしいことだよ。だが、誰しもいつかは、第二の道を選ばねばならない。私も君もね」
オールマイトはこれから、何をするつもりなんですか?」出久は尋ねた。
「私は世界中のヒーローが団結して、AFOのような巨悪に立ち向かう、架け橋になれればと思っているんだ。情報を共有し、国の垣根を越えて、協力体制を築きたい。そのために尽力しようと思ってる。死穢八斎會が君を助けたように、ヴィランは一枚岩ではない。個々の欲望に従い、各々個別の損得勘定で動く。ヴィランとはそういうものだ。一時的に協力関係を結んだとしても、絆は利己的で脆い。だが我々は悪に対して、一枚岩になることができる。私はそのために動くつもりだよ」
「凄いですね。オールマイト
「緑谷少年、君は違うだろう」
「それは…」と言いかけて、出久は言葉を継げなくなる。
「今回の一件もそうだね。君は目の前の、助けを求める誰かを、救わずにはいられない。遠くの目標を追うより、近くの誰かを救う。それが君の生き方だ」
「それは、そうかも知れないけど」
「君には共に歩もうという者がいる。彼は君を欲して、君を必要としているのだろう」
「あ?誰がそんなこと言ったよ!オールマイト
「違うのかい」
 勝己は舌打ちしてそっぽを向く。「あんたが言うなら、そういうことでもいい」
 彼にはお見通しなのだ。もう随分と昔から、見透かされていたのではないだろうか。そんな気がする。
「緑谷少年、君もいつも彼を気にせずにはいられない。ならばその意味するところは、わかっているのだろう。もう君たちは子供の頃のような、傷つけ方をしなくてよいのだと思うよ」
 オールマイトはそう言って笑った。痩せた身体でも昔と変わらない。見た人を勇気づける笑みだ。


epilogue Right Now


 ヒーロー活動を終えて帰宅し、勝己はリビングのドアを開けた。ソファに座って雑誌をめくってきた出久が、お帰りと言って顔を上げた。
「雄英の講師の口は断ってきたのか」と問うと、出久はうんと頷く。
「戻っていいって言われたけど、今の僕に学校で教えられることはないからね」
「じゃ、こっち来んだな。いいんじゃねえか。うちなら今のてめえでも、役に立つからよ」
 部屋着に着替えて出久の隣に座り、身体を引きよせて抱きしめる。ふわふわの髪に、唇で触れ、項にキスをする。出久は携帯の画像を勝己に示して見せた。
オールマイトから、写真付きのメールが来たよ。カリフォルニアから」
「ああ、一緒にいる奴は、見たことあるヒーローだな。アメリカの相棒か」
 出久は勝己と同居することになった。事務所にするつもりだった空き部屋は、出久の部屋になった。でも当然寝室は一緒だ。ベッドはダブルベッドに買い換えた。
 勝己はベストジーニストの事務所に戻った。出久が攫われた時に、ベストジーニストから、戻って来ないかと誘いを受けていたのだ。出久が日本に残ると決めたので、勝己は話を受けることにした。
 情報網の広さにしても、事務所の規模の大きさにしても、動かせる人員数にしても、頼りになることが身にしみたからだ。出久はいつまた、厄介な事態に陥らないとも限らない。いや、自分から考えなしに困難に飛び込んでいく間抜けなのだ。
 上に従わなきゃいけないのは癪に触るが、今の自分では出久を抱えるには力不足だ。いつか独立するとしても、力を付け、ネットワークを作ってからだ。
 出久の事情も伝えて、同じく事務所に勤めさせることにした。目の届くところに置いておくのが最善策だ。
「喜んで受け入れよう。お前のサイドキックとして。彼の知識は事務所の役に立つだろう」
 とベストジーニストは快諾してくれた。
 それに、確証が持てないから出久には言ってないが、あの時出久はおそらく個性を使ったのだろう。OFAの残滓は出久の中で、眠っているだけなのかも知れない。オールマイトも短い時間なら、今でもトゥルーフォームに戻れるのだ。
 いつか出久が、ヒーローに戻る日が来る可能性はある。
 そのためにも、事務所に属しておくのは悪いことじゃない。身体も鍛えさせて、ヒーローとしての感覚を研ぎ澄ましておくのだ。いつでも時が来たなら再起できるように。
「それにしても、お前が人のために動くとは意外だったな」
 ベストジーニストは感心したように言った。勝己は鼻を鳴らして答える。
「クソデクのためなんかじゃねえよ。まるっと全部、俺のためだ」


END


副題タイトルはヴァン・ヘイレンのライブアルバム「ライヴ:ライト・ヒア、ライト・ナウ」から

Dreams(夢)
Right Here, Right Now(此処で、今すぐ)
Won't Get Fooled Again (二度と騙されない)
Ain't Talkin' 'Bout Love(叶わぬ賭け)
Man on a Mission(任務を追う男)
Best of Both Worlds(好いとこ取り)
Right Now(今すぐ)

 

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魔法の言葉(R18版)

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prologue Dreams


 あれは出久だ
 中学生の時の冴えない出久だ
 おどおどして卑屈で、なのに反抗的で身の程知らずな幼馴染
 手を伸ばして、細い腕をつかむ。出久は振り返る。目を見開き驚きの表情を浮かべて。
 デク、デク。
 俺は声をかける。俺は何を言うつもりだ。
 ここからやり直すつもりなのか。やりなおせるのか。
 いや、だめだ。この頃はもう、てめえは俺に怯えてた。
 てめえがいつまでも、見えない鳥を追いかけていたから。
 無駄だとわかってるのに、追うのを諦めねえから。
 俺はいつも腹を立てて、てめえを追い詰めた。
 いつからだ。いつから。どこからだ。どこから間違えたんだ。
 俺に両肩を掴まれて、怯えながらも出久は俺を見上げる。


 何度も何度も見る夢だ。
 ずっと幼い頃から自問自答していた。
 なぜ出久だけが俺にとって特別なんだ。
 個性のない、ただの虫けらにすぎないのに。
 どうしようもなく求めているなんて。誰にも言えない。
 出久への気持ちなんて認められない、認めたくない。
 認めれば俺があいつの下になる。あいつの下になるなど耐えられない。
 認めればあいつに求められたくなる。思いを受け入れて欲しくなる。
 叶わなければ、あいつに何をするかわからない。
 俺がどうなるかわからない。
 あいつは容易く俺を壊すことができるのだ。
 弱みを握られるわけにはいけない。そんな存在があってはならない。
 あいつを俺より下だと思えば、意識しないでいられるに違いない。
 心の中から追い出せるに違いない。この苦しみから開放されるに違いない。
 何度も試みては果たせないけれども。
 気持ちを認めてどうなるというのだ。
 あいつは俺のものになるとでもいうのか。
 あいつも同じ気持ちになるとでもいうのか。
 手に入れることだけが安定を取り戻す方法なのに望めないんだ。行き止まりだ。
 囚われた気持ちは冷めることなく、永遠に続くだけなんだ。
 このままじゃいけないとわかってるのに。打開する術は見当たらない。


 細い肩を掴んで引き寄せ、正面から睨みつける。
 怖気付く瞳も、引けてる腰も、現実の出久そのままだ。
 これは夢だ。夢だから。
 今から本当のてめえには言えねえことを言う。
 てめえのせいだ。俺がこんなに苦しいのも、辛えのも。
 みんなみんなみんな、てめえのせいなんだ。


1. Right Here, Right Now(此処で、今すぐ)


 書類の職業欄に、ヒーローと書けるようになってから随分経つ。
 勝己は座敷に上がると、ネクタイを緩めてポケットにしまった。コスチュームだけでなく正装まで必要だなんて、どうかしてる。
 今日、ヒーロー協会の全国集会が行われた。自由参加とはいえテレビカメラも入り、デモンストレーションも許可されており、各事務所にとっては宣伝の場でもある。しかし、ヒーロー活動の一環とはえいえ、面倒といえば面倒であるし、仕事を休むわけにもいかない。ということで、各事務所は勉強にもなると嘯き、若手を送り込んでいた。
 おかげで、遠方にもかかわらず、各地に散っていた雄英の同級生達が集結した。久しぶりだと盛り上がり、集会後は飲み会になだれ込むことになった。
「めんどくせえ。同窓会じゃあるまいしくだらねえ、帰る」と断ったが、上鳴が「緑谷がどうしてるか、聞きたくねえのか?」と釣ってきた。
 出久。名を聞くだけで、心にさざ波がたった。
「お前も知らねえんだろ。ヒーロー同士の交流少ねえもんな」
「てめえ、あのクソの行方知ってんのかよ」
「いや、俺は知んねえよ。あの事件以来、何処にいんのか全然わかんねえ」上鳴はふっと目を伏せた。「俺も気になってんだよ。でも今日は皆来てるしよ。中にはあいつの消息を知ってる奴も、いんじゃねえか?お前も知りてえだろ」
「あ?余計なお世話だ」
「もしかして、緑谷本人が来てるかもしんねえぞ!な、爆豪」
 でけえ声ではっきり言いやがって。黙れと念を込めて睨みつけた。
 飲み会の会場には、元クラスメイトがほぼ集まっていた。といってもたかだか20人だ。座敷に置かれた長い机に、全員収まっている。女どもは入り口近くに集まっていて、飯田や轟はその隣に座っている。よくつるんでいた奴らだ。いれば奴らの側にいるだろうが、やはり出久はいない。予想してはいたが。
「お前が来るなんて、珍しいな」轟が声をかけてきた。
「ああ?てめえこそ珍しいじゃねえか。結局親の事務所に入ったんだよなあ。親子で同じ事務所とか、仲良しかよ」
「仲良くはない。だが奴を否定せずに、近くにいて奴の器を測ることにした」
「は!知るかよ」
「ここに来れば、緑谷の消息がわかるかと思ったんだが」
 てめえもかよ。さらっと言いやがるところが忌々しい。
「爆豪、上鳴、こっちだ」
 瀬呂と切島が奥で手招きしている。奴らが陣取った場所に上鳴と向かった。切島が場所を空けて、座れと促す。
 飯田が立ち上がって、「まだ来てない者もいるが、時間だから始めよう」と言った。やはりあいつが幹事か。注文したビールが次々とテーブルに置かれ、リレー形式で手渡された。
「爆豪は緑谷の消息が、気になってんだとよ」
「誰がンなこと言った!死ねや!アホヅラ」
 勝手なことを言う上鳴の頭を叩く。頭を押さえて、ひでえと上鳴は呻いた。爆破しないだけありがたいと思え。
「緑谷か、知んねえなあ」瀬呂が答えた。「俺は同学年の奴らと事務所作ったから、情報弱者だぜ。大きい事務所に属してる奴のが、情報入んだろ。つーか爆豪、ベストジーニストんとこ行ったんだろ?卒業後にお前の勧誘来てたの、あそこだけだったもんな」
「あそこはすげえ大手じゃん。意外にインターンで気に入られたんだな。ま、俺もだけどな。その縁でファットガムのとこ行ったしよ」切島が言う。
「でも、こないだ辞めたって聞いたぜ?だよな、爆豪」どこから知ったのか、上鳴が口を挟む。
「うぜえ!余計なこと言ってんじゃねえ」
「はー?すげー事務所なのに、なんで辞めたんだよ。もったいねえな」
「くそっ!ほっとけよ」勝己はぐっと杯をあおる。「あそこは礼儀やらなにやら、うるっせえんだよ」
「ところでよ、知ってるか?緑谷のことだけどよ。」
 出久のことだと?隣のグループから聞こえる声に、耳をそばだてた。峰田だ。
「俺会ったんだぜ。ヴィラン連合との戦いで負傷してから、あいつ、所属していたヒーロー事務所も辞めて、行方がわからなかっただろ。実はよ、今雄英に戻ってんだぜ」
「はあ?馬鹿か!あいつも卒業してんだろうがよ!」
 我慢できず、勝己は怒鳴った。
「え、いや、いやいや、まさか生徒じゃねえよ。あいつ非常勤講師をしてんだとよ。俺が学校に行った時、たまたま会ったんだよ」
 いきなり話に入ってきた勝己に、峰田はしどろもどろになって、戸惑いつつも答える。
「何でてめえが、学校に行くんだ」
「在校生に進路の話して欲しいって、先生に頼まれたんだよ」
「ああ、俺も行ったことあるわ」
「爆豪呼ばれたことねえ?あー、お前は呼ばれねえか」
「うるせえ!」
「まあ、大抵は事務所を通じてくる話だしな」
「まだベストジーニストんとこにいれば、お前も呼ばれたんじゃねえか」
「クソが!」
 ベストジーニストの事務所からは、先月独立したばかりだ。元々上から押さえつけられるのは苦手だったし。仕事を選べねえのも気に食わなかった。はなっから仕事の仕方を覚えたら、独立するつもりだった。
 自分一人しかいないのに、名ばかりの個人事務所を開設したのは、とりあえず税金対策だ。みみっちいと言われようと、賢く立ち回るべきだろう。マンションの1室である自宅の一部を、リフォームしただけだしな
 交通機関がまだあるうちにと、早めに飲み会はお開きになった。家が近い奴らは、二次会になだれ込むらしい。
 一人になり、勝己は夜空を仰いだ。ネオンや街灯の灯りで星はかき消されている。
 雄英の奴らに会うと、一気に学生の頃の空気になるのが、妙にこそばゆい。懐かしいというほどの年月は経っていないが、たまにはいい。
 それに、収穫はあった。出久は雄英にいるのか。
 考えてみれば、あいつのことだ。一時的に身を眩ましたとしても、雄英にいるオールマイトから、そんなに長く離れたりしねえよな。しかし、そんな近くにいたというのに、偶然でも町でばったり会ったりしねえのかよ。
 まあいい、確認のために、明日にでも雄英に行ってみるか。別にあいつがどうってわけじゃなく、卒業生が学校訪問するだけの話だ。クソが。
 つらつら考えつつ、繁華街をぶらぶらと歩いた。ホテルには到着時にもうチェックインしてるし、まだ戻るつもりはない。しかし、まだ宵の口だから人通りが多いな。酔っ払いもふらついている。
 誰かと肩がぶつかり、ムカついて振り返った。
 視線を向けた先に、一瞬、見慣れたふわふわ頭が目の端に入る。
 なに?
 勝己は目を向けた。しかしその前に人並みに紛れて、見えなくなった。
 まさか、出久か。
 あいつのことを考えていたから、見た気がしただけか。
 いや、俺があいつを見間違えるはずがねえ。勝己は急いで引き返し、姿を見かけた通りを曲がって追いかけた。
 やはりいた。
 俯いてひょろひょろ歩いている黒髪の癖っ毛。間違いねえ。間抜け面で身の程知らずで、いつも心をかき乱す幼馴染。
「てめえ、クソデクか!」
 ビクリと震えて、人影は振り向いた。このやろう。でけえ目を丸くして、吃驚した顔しやがって。
「かっちゃん?なんでここに」
「てめえこそ!なんだてめえはよ。んっとにてめえ、ざけんじゃねえ」
 思いがけない再会に、罵倒の言葉も出ない。
「あ、そうか、君もヒーロー集会に来てたんだね」
「クソが。てめえも居たのか」
「いや、僕は」
 へらっと伺うように笑う顔に、さらに腹が立った。てめえ、マジふざけんなよ、この野郎。消息不明だったくせに、まるでこの1年の空白を忘れたかのように、へらへらしやがって。
「てめえ、何してんだ、こんなとこで」
「実は、鞄をなくしちゃって…」出久はもごもごと答える。「財布も携帯電話も入ってたから、ずっと探してて」
「相変わらずボケてんな、てめえは。いつなくしたんだ」
「ヒーロー集会の中継を、あのビルの大型ビジョンで見てたんだ」と出久はCMの流れるビルの壁面を指さす。「鞄は足元に置いてたんだけど、中継終わって気がついたらなくて」
「あ?置き引きじゃねえのか、てめえそれでも…」ヒーローか、と続けようとして、言葉を飲みこんだ。「しょうがねえな、クソが」」
 ふたりで散々通りを探したが、結局鞄は見つからなかった。誰かに拾われたか、盗まれたのだろうという結論に至り、警察に届けを出させた。
 出久は昼から何も食べてないと言うので、飯を食わせてやることにした。今から食える場所は24時間のファミレスくらいだ。もじもじしてやがるから、勝手にカツ丼を頼んでやった。
「ありがとう、かっちゃん。ご飯まで奢ってもらって」
 食事を終えて、心底ホッとした表情で出久は言った。
「泊まるとこはあんのか?」
「ううん、日帰りで帰るつもりだったから」
「クソが。間抜けなてめえに金貸してやってもいいが、もう電車ねえだろうが」
「そうだね、始発で帰るしかないね」
「仕方ねえ、俺と来いや」
「え?かっちゃん、どこに?」
 有無を言わさず、予約していたホテルに連れ込んだ。部屋は十分広いが、一人で宿泊する予定だったから、クイーンサイズとはいえベッドはひとつだ。
「ここ、一人部屋だよね。悪いよ」と出久は頑なに遠慮したが、グズグズすんなと部屋に蹴り入れた。
「文句言うな。こんな遅い時間に、アポ無しで入れるホテルなんてねえわ。せいぜいラブホくらいだぜ、クソが」
「そんな、文句なんてあるわけないじゃないか。いいの?本当、ありがとう。かっちゃん」おずおずと出久はソファに座った。「僕、ここで寝かせてもらうね」
 勝己は先にシャワーを浴びて、持ってきた部屋着に着替え、出久には備え付けの浴衣を渡した。ソファに座り、缶ビールを袋から取り出す。通りすがりにコンビニで買ってきたものだ。シャワー室から出てきた出久にサワーを放った。こいつが甘めの酒を好むのは知ってる。
「アルコールが入ってるが、飲めるよな」
「うん、ありがとう」
 出久は缶の蓋を開けて口をつけた。勝己は出久の上下する喉仏をじっと見つめる。
 てめえ何で、何も言わないで消えた、と言おうとしてやめる。わざわざ自分に言う理由はないのだ。げんに峰田の野郎は知っていた。偶然とはいえ。
「久しぶり、だよね」出久は呟くように口を開いた。
「ああ、てめえ何処にいた」
ヴィラン連合の残党が、追跡してくるかも知れないからって、暫く安全なところに身を隠してたんだよ。僕はもうOFAを使い果たしてしまったから」出久の声が沈んだ。
「OFAは誰かに継がせたのか」
「うん。覚えてるかな。翔太くん」
「ああ、林間学校の時のマセガキか」
「うん、彼はきっといいヒーローになる」
 本当は、と出久は続ける。「彼には渡したくなかったよ。彼はヒーローだったご両親を亡くしてるし、継承者になればヴィランに狙われて危険なんだと、彼自身が身をもってわかってたから。でも彼は良いと言ってくれた。連合との戦いの前に譲渡しなければ、OFAが僕で途絶えてしまう可能性があった。迷う余裕はなかった」
 出久はサワーをあおる。その右腕には以前にはなかった白い縫い目が走っている。ズタズタになった腕を縫い合わせた痕跡。
「幸い生き延びられたけど。皆のおかげだよ」
「は!マジで運でしかねえわ。実力だと勘違いしてんじゃねえぞ」
 きついなあ君は、と出久は苦笑した。
 出久の身体に残る傷跡が物語る、ヴィラン連合との死闘。通信を遮断された街一つを焦土にして、ヒーローにも民間人にも死傷者を多数出した事件。
 だが、自分はその場にいなかった。
「てめえ、集会の情報を聞いてやってきたんだろう。雄英のやつら来てたぜ。てめえは会ってかなくていいのかよ」
「うん、僕はヒーロー活動で来たんじゃないから」
「じゃ、てめえはなんで来た。非常勤講師の仕事じゃねえよな」
「え?かっちゃん知ってたの?」
「雄英の非常勤講師になったのは、オールマイトがいるからなんだろう。なんで隠してた」
「隠してたわけじゃないけど…」
 隠してやがったんだろうが。飯田達にも言ってねえんだから。言い訳がましいんだよ、てめえは。無力なくせに、何ができる。
 何もできないならば、自分の近くにいるべきだ、と思ったが口には出せなかった。
 空調の音が響く。缶の表面から雫がぽたりと流れ落ちる。
「てめえは、経験あるのか」
 ちょっと酔いが回ったせいか、口が滑った。気になってしょうがなかったことだ。
「え?ええ?なに?なんの経験?かっちゃん」
「誰かと体の関係になったこと、あんのかって聞いてんだ」
「え…直球だなあ」
 出久は誰とも、付き合うつもりはないと言っていた。その言葉通り、浮いた話は聞いたことがない。だがもし、あるなんて抜かしやがったら。
 自制が効かないかもしれねえ。
「…ないよ。そんな暇はなかったから」
「は!童貞かよ」ほっとして笑う。そうか、まだこいつの身体を知ってる奴は、誰もいないわけだ。
「そうだよ!機会もないし、付き合ったりしたら、相手を危険に巻き込んでしまうから」
「一晩だけの付き合いだって、あんだろが」
 出久は真っ赤になって首をぶんぶんと振った。
「そんなの、無理無理!付き合うつもりもないのにそんなこと、できないよ」
 初心な奴だ。てめえには到底無理だろうな。童貞ならなおさら、考えつきもしないだろう。奥手なだけのくせして、ご大層な大義名分をつけてやがって。
「でもこれからは、余裕ができるかもね」
「は!てめえが?」聞き捨てならねえ。譲渡したら交際も解禁ってか。うかうかしてらんねえ。出久が知らねえだけで、こいつを狙ってる奴は少なくねえんだ。
「いや、ダメかもね」
「あ?なんでだ。もうOFAはてめえん中にねえんだろ」
 即座に否定するのか。他にも否定する理由があるのか。
「OFAの元の持ち主も身内も、ヴィランに狙われるんだよ。危険に巻き込むわけにはいかないよ。死柄木みたいに、人生を狂わせてしまうかもしれない」
 死柄木。あいつの祖母は、オールマイトの師匠だという話だった。詳しくは知らねえが、一家を皆殺しにされたと聞く。OFAの持ち主はAFOに狙われる。家族までも。
 あの事件の後、死柄木は収監され、ヴィラン連合は壊滅した。だが、AFOは脱獄して行方をくらましている。
「大切な人を、そんな危険に遭わせるわけにはいかないよ」
 個性を失ってなお、OFAに縛られてやがるのか、てめえは。
「はっ!付き合う奴がヴィランより強けりゃ、いいんじゃねえか」
「そっか。そうだね」
 勝己に合わせつつ、からからと出久は笑う。てめえは全然そう思ってねえんだろう。丸わかりだ。
「かっちゃんは、経験ある、よね?もちろん」
「ああ?」
「あ、ごめん、君と恋バナしてるなんて、なんか意外すぎて」
「寄って来る女に事欠かねえよ、ばあか」
 めんどくせえから付き合ったりしねえがな、と心で付け加える。時間の無駄としか思えねえからな。すぐに恋人面しやがって鬱陶しいし、構わないと文句を言う。そこが良いという、上鳴達の気が知れねえ。ましてや同棲してる奴らなんて、もっとわかんねえ。他人が部屋にいるなんて、邪魔で落ち着かねえわ。1人のほうが気楽だろうがよ。
 だが、てめえもちっとは興味があるのか?
「知りてえのかよ。デク」
「あ、答えたくなかったらいいよ。色々あるよね」
 何を思って、色々とか言ってやがるのだろう。
「俺がどんくれえ経験あんのか、てめえで確認しろや」
 勝己は出久の側に移動し、身体を寄せて隣に座った。腕を掴んで顔を近づける。酒が入ったからなのか、恋バナもどきなんかしてる、雰囲気のせいなのか。
 喉から手が出そうなほど求めていたものが、容易く手に入りそうな予感。
「かっちゃん?」
 声も身体も。こいつの存在全てが今なお情欲を煽る。にじり寄って抱きしめた。首元に顔を埋めて匂いを嗅ぎ、首筋にキスをして舐め上げる。出久は抵抗しない。そのまま出久をソファに押し倒し、見下ろしながら、自分のシャツを脱ぐ。
「ええと、引き締まってるね、かっちゃんの身体」
「てめえな、黙れや」
 出久の顎を掴み、唇を押し当ててキスをする。唇を舌で割り、口内に差し入れる。深いキスを交わしながら、出久の浴衣の帯を解く。
「なんか気持ちいい。キス、上手だね、かっちゃん」出久は呼吸を整えながら、顔を赤くして言う。
 浴衣の合わせ目から手を差し込み、肌に触れる。
「ん…、そこ、乳首だけど、ぺったんこだよ」
「うるせえ」
 興を削ぐようなことを言う唇を塞ぐ。舌を絡めとってはすり合わせる。ズボンの前が膨らみ、待ち望んだ獲物を前にはちきれそうだ。
 キスを交わしながら、ズボンを脱いだ。欲望がぶるんと姿を現す。キスをしながら、出久の股に下着ごしに触れる。固い。少し勃ち上がっているようだ。出久が勝己の手を押えて、熱を帯びた目で見上げて首を振る。阿呆か、今更止まれるわけねえだろうが。
「キスに感じてんじゃねえかよ、てめえ」
 デクの浴衣をはだけて、下着の中に手を忍ばせ、陰茎に指を沿わせる。
「わ、かっちゃん、そんなところ」
 余計なことを言う前に、再び口を塞ぎ、下着を脱がす。着物は脱がし易くていい。簡単に全裸にできる。脱がせた浴衣はソファに敷き、その上に横たわり、身体を重ねてキスを交わす。擦れ合う肌。押し付けあう局部。熱が身体に灯り、燃えるようだ。
 下肢の間に腕を伸ばし、出久の性器に指を絡ませる。人差し指と親指で輪を作り、上下に扱く。竿の皮膚が縒れて、芯が固くなってくる。完全に勃たせた。出久の呼吸が乱れて喘ぎ声が漏れる。首筋に唇を這わせる。キスをして、肌に跡をつける。
「触ってみろや」
 出久の手を取り、自分のペニスに触れさせる。出久はおそるおそる先端を撫でて、幹をなぞる。
「かっちゃんのおっきいね。勃起してるの初めて見た」
「俺がしたみてえに、擦ってみろや」
 出久は促されるままに、指を滑らせて勝己のペニスを擦りあげる。出久が自分のものを摩っている。堪らない。だが、遠慮がちなのがもどかしい。
「そんな擦り方でいけるかよ」
 出久の手をどかして、出久と自分のものと束ねて握った。くっつけて一緒に擦り始める。
「あ、あ、もう、出る、あ、かっちゃ…」
 出久は悶えた。手の中でビクビクと震え、出久のものが白濁を垂らす。
はええな、てめえ」
「ごめん、出るって言ったのに」
 ティッシュで拭き取って、見つめる。自分の手で出久のものを屹立させ、いかせたことに興奮する。だが、まだこれからだ。指を舐めて手を出久の尻に回し、揉みながら、窄まりを指で掠める。びくっと出久が反応したので、キスをして口を塞いだ。するりと指を入れて、円を描くように動かして解す。このあたりのはずだ。指をぐっと第二関節まで入れて、指を曲げて探る。
「ああ!なに、今の」
 出久の身体がはねた。
「当たりか。ここがてめえの前立腺だろ。どうだ、気持ちいいかよ」
 ん、ん、と悶えるのが堪らない。再び勃起したところで、扱いて、抜いてやる。
「またいきやがって。やらしい身体してんな」
 てめえの出したもんだぜ、と掌を見せると、やめてよ、とデクは羞恥で顔を隠した。拭き取った紙を屑篭に投げ捨てる。
 脱力した出久の脚を肩に抱えあげた。窄まりが眼前に晒される。自分が触れるまで、誰も触れたことのなかった秘所だ。買い物袋を探り、ローションのボトルを取り出す。酒と一緒にこっそり買ったものだ。痛さで嫌がられんのは困るからな。ローションを窄まりに塗りこんで丁寧に解す。自分のペニスにもローションを塗って、出久の後孔に押し付ける。
「いくぞ、クソデク」
 ぐっと突き上げると、吸い込まれるように、スムーズにぬるりと沈んだ。あうっと出久は呻く。腰を振り、ゆるゆると貫いてゆく。締め付けが気持ちいい。勝己の猛った雄を呑み込んで、窄まりがひくりと震える。出久の手はシーツを泳ぐように掻き、声を押さえて、勝己の挿入に耐えている。
「どうだ、デク」
「中から内臓を押されるみたいだ。あ、ん」
 男と身体を繋ぐのは骨が折れる。本来性交に使う器官ではないのだから。初めてというなら尚更辛いだろう。だがやめられやしない。
 肌、体温、命の確かな感触。てめえはここにいる。髪に手を差し入れて、後頭部を掴んで引き寄せ、口付ける。吐息を貪る。性器を括れの際まで引き抜き、突き入れる。深く入れては引き抜き、再び穿っては貫く。
 締め付けが緩まるときに突き入ると楽に入る。コツを掴み、次第にスムーズに動けるようになってきた。
「あ、あふ、かっちゃん」
「入っちまうもんだな。てめえん中に根元まで収まっちまったぜ」
 肩からデクの足を下ろして、体を繋げたまま、両足を揃えて横に倒した。中をぐるりと抉られてデクは「ああ!」と声を上げ、苦悶の表情を浮かべる。
 ちときつかったかも知れねえが、これから快感を引き出してやる。気持ちいいと思わせねえと意味がねえ。
 激しく求めそうになる心を堪え、出久の身体をくの字に曲げて、勝己は浅い箇所をぬちぬちと様子を見ながら、小刻みに動かす。同時に亀頭を摘んで擦ってやる。指に挟んだ肉が芯を持ち、硬くなってきた。はっはっと短く呼吸する息遣いが甘い。感じているのを隠そうとしている。もどかしい。
「感じてんだろ。声、出せよな」
 汗ばんで頬に張り付いた出久の髪を梳く。勝己はニヤリと笑みを浮かべる。デクの中を行き来する己の欲望。いい光景だ。堪らねえ。
 スピードを上げるとデクは喘ぎ、シーツを爪で引っ掻いて悶える。やっと手に入れたという征服感と安堵が胸に満ちてゆく。腰が次第に熱くなってきた。射精の兆し。中に出そうか迷ったが、初めてなのだからやめておくか。性器に向かって熱の塊が走る。ギリギリで引き抜いて、出久の身体を仰向けに返した。亀頭を出久の腹に先を押し付け射精する。
 静かな部屋に、2人分の荒い息遣いが満ちる。全力疾走したみたいだ。掌を出久の胸に当てる。早鐘を打つような心臓の鼓動。
 出久は生きている。この掌の下で。死にかけたとは思えないくらい、心臓は激しく脈打っている。
 だがこの身体の中には、もうOFAは宿っていない。
 出久はヴィラン連合との戦いで、個性を使い果たしたのだ。


2. Won't Get Fooled Again (二度と騙されない)


 出久が瀕死の重症を負ったというニュースが届き、勝己は病院に駆けつけた。
 既にプロヒーローとなって、数年経っていた。「デク」の名はオールマイト後継とまではいかないとしても、若手ヒーローの中では抜きんでて有名になりつつあった。無論、ヴィラン達にも。
 集中治療室のドアの前には、雄英の頃の同級生一堂が集まっていた。
 途中からヒーロー科に編入した、元B組の奴もいる。眠そうな顔をした、心操とかいう奴だ。あいつが敵を洗脳して、出久が呼び出された街を突き止めたという。
 丸ごと人質に取られた街。一刻を争う事態で、出久は連絡する術がなかったという。だが、単身敵地に飛び込むなんて、馬鹿のすることだ。急遽集められたヒーローが駆けつけなければ、どうなっていたことか。
 硝子の向こうの部屋に、寝かされている肢体が目に飛び込んだ。腕から足からコードが何本も伸び、顔には人工呼吸器をつけられている。肌の色は幽鬼のように白く、生気がない。
 あのクソバカが!勝己は硝子を叩いた。
「同じ現場にいたんだ」飯田がポツリと呟いた。「いつも彼は1番危険な所に飛び込んでいくけど、笑って帰ってくる。だから大丈夫だと思ったんだ」
「飯田、自分を責めんな。現場には俺もいたんだ。止めなかったのは俺も同じだ」轟は苦悶の滲む声音で言った。
「誰も止められないよ。デクくんが助けたいというなら。いつも助けてしまうんだもの。今回だって、大丈夫だって思っていたんやもん」麗日は泣きはらした顔をしている。
 クソが。てめえらはデクを過信してたんだ。あいつはただの身の程知らずなんだ。勝己は歯噛みした。俺はこんな馬鹿のために、泣いてなんかやらねえ。泣けるもんかよ。頭にきて涙なんか一滴も出ねえわ。
 だが、一番腹が立つのは、出久の危機をニュースで聞くまで、まるで知りもしなかった自分だ。
 出久は死ぬのか。また俺の知らねえところで戦っていたのか。いつもいつもそうだ。
 こんなことになるのなら、側に置いて見張っているべきだった。自分にその権利はないとしても関係ない。できるものなら、閉じ込めておくべきだった。
 頭を硝子に押し付ける。ひやりと固く冷たい、出久との間を隔てる硝子の壁。
 幼い頃からいつも、心のど真ん中を占めていた出久。
 自制心を失わせ、感情を揺さぶり、年が経つごとに存在感を増していった出久。
 高校を卒業するまで同じクラスで、目について目障りだった。目に入らないところに行けば、やっと俺は自分を取り戻せるのだと思っていた。心を占める邪魔者がいなくなれば、自由になれるのだと思っていた。けれども違った。側にいなくても、出久は図々しく心に居座った。
 出久を失ったら、心のど真ん中に穴が開くだけだ。虚は虚のままなのだ。この虚を埋めるものは、出久のほかにないのだ。
 手の届く側から離れるべきじゃなかった。
 ようやくわかったのに。なのに失われようとしている。距離を置いてしまったが故に、俺は間に合わなかった。 
 一生この虚を抱えたままでいろというのか。
「てめえ死ぬとか、ふざけんなよ!」
 低い声で呟く。再び硝子を叩く。爆豪くん、と背後で誰かが呼ぶ。
「クソが。殴りゃあ、起きんじゃねえのか、開けろや、ぶん殴ってやる」
 治療はもう終わってんだろ。もう待つしかねえんだろ。まだ中に入れないねえのか。
 皆が見守る中、集中治療室の扉が開いた。相澤先生と警官に連れられて、一人の男が入ってきた。短髪黒髪の痩せた男だ。
「ヤクザのなんとかって奴に似てねえか?」誰かがボソッと言った。
「あいつ、緑谷と戦った、死穢八斎會のオーバーホールじゃねえか!マスク付けてねえけど間違いねえ!」切島が叫んだ。
「おいマジか?」「刑務所にいんじゃねえのかよ」同級生の奴らが、我先に硝子の前に押し寄せ、不安げに騒ついた。
ヴィランじゃねえか!」勝己は怒鳴った。「なんであんな奴を中に入れるんだ」
 表情はマスクでわからないが、医師達もひそひそと囁きあって、不安がっているようだ。
 問われる前に、男は自ら口を開いた。
「壊里に頼まれたんだ。俺の腕は壊里に巻き戻させた」
 男は手錠で拘束された腕を上げて示した。
「この手で、俺がこいつを治してやるよ」
 医師達は信じていいのか問うように、相澤先生に視線を向けた。先生は頷いた。
「こいつの個性は治療だ。何かを破壊するような力はない」
「この手があれば、どんなに怪我でも治癒できる」男は掌を広げて言った。「壊里は完全には個性を制御できない。だから死に損ないのそいつに、巻き戻す個性は危険すぎて使えない。壊里に言われたさ。俺の身体の保証はできないが、俺を巻き戻すから、そいつを治してやってほしいとな。もし巻き戻しが止まらなくなったら、自分を壊していいとまで言ってな。全くいい女になったもんだぜ」
「わかってるな。腕を得ても、お前は逃げられないぞ」相澤先生が言った。「おかしなことをしたら止める」
「逃げねえよ。お前たちと取引したからな。俺は治った腕で親父を治させてくれるなら、他に望むことはないさ。それで貸し借りはなしだ」男は言った。
「ああ、約束しよう」
「それに、死柄木の野郎を喜ばせるのは、癪に障ってしょうがねえ。奴は大嫌いだ。だがデクと言ったか、こいつのことは認めてる。やりあった仲だしな」
 男の手が出久の額に置かれた。「じゃあ、やるぜ」
 男が目を瞑り、俯いた。暫くして、出久の身体がぴくりと震え、痙攣を始めた。
「おい!」と勝己は硝子を叩いた。クラスの奴らも背後でざわめいた。
 くそっ!びくともしねえ。壊してやろうか。いや、硝子を爆破したら追い出される。自分の自制心が忌々しい。
「慌てんな」と言い、男が硝子を隔てた勝己たちに視線を移した。
 暫くして、包帯で隠しきれてない出久の傷が、引いていくのが見えた。
「マジで治っていってるぜ。あいつ、ヴィランのくせに、ほんとに治しやがった」切島が感心したように言った。
 出久は咳き込んで、首を振った。マスクが剥がれた。深い呼吸を繰り返して薄目を開けた。硝子の向こうから、自分たちを認めたように、まっすぐな視線を寄越した。ぎこちなく薄く笑った。
 クソが。あの野郎、無理に笑顔を作ってやがる。安堵したと同時に、腹が立った。
「仕事は終わった。親父のいる病院に連れてってくれ」男は言った。
「ああ」と相澤先生は頷いた。「嬉しくはないかもしれんが、礼を言う」
「ふん、皮肉にしか聞こえねえな。約束は守れよ」
 男は相澤先生に連れられて、病室を出て行った。
 出久は回復した。だが個性は失われた。
 正確には個性を出せるほど、身体が持たなくなったということだろうか。
 暫くして出久は退院した。だが、誰とも連絡を取ることもなく、集まりにも顔を出さなくなった。いつの間にか事務所も辞めていて、誰にも何も言わずに姿を消し、音信不通になった。

「僕はてっきり、君に嫌われてると思ってたんだ」
 重ねた身体の下で、出久はぽつりと言った。
「はっ!何寝言言ってんだ、クソが。てめえのこたあ、気に食わねえよ」
「え、でもこういうこと、嫌いな相手とはしないよね?」
「丁度いいとこに、てめえがいただけだ」
「そういうものなの?オトナだなあ、かっちゃん」
 くそっ何言ってんだ俺は。納得すんなよ。クソデク。何も思ってなくて、てめえを抱けるかよ。
 勝己は出久の髪をくしゃっと掴み、荒っぽくキスをした。起き上がり、ソファの下に落とした衣服を拾う。
 出久は身体を起こし、浴衣を羽織って不格好に帯を締めなおす。
「一晩限りの関係なんて、僕は今まで理解できなかったけど、成り行きでこうなることあるんだね」
「はあ?」
 一晩?何言ってんだこいつは。
「付き合ってなくても、経験はあるって言ってたけど、そういうことなんだね。」
「はあああ?」
「ご、ごめん、ぼくが言うなって感じだよね。なんか、凄かったよ。人のもの触るのも触られるのも初めてだったし。君の身体が中に入ってくるなんて、強烈な体験だったけど。忘れられるかな。でも、忘れるよ。次会ったときは、普通にできるように頑張るよ」
 出久は早口でベラベラとまくし立てる。ムカついてきた。
 てめえ、ざけんなよ。勝手に解釈してんじゃねえよ。んな器用にやれっかよ。経験なんざほとんどねえわ。てめえにんなこと言えっかよ。見栄をはっただけだ。
 いや、問題はそこじゃねえ。
 こいつは一晩限りで、終わらせようとしてやがる。そういう話はしてたけどよ。てめえに勧めたわけじゃねえぞ。つい今まで俺に抱かれてたくせに、もう思い出みたいな口調で語りやがって。それとも、初めからそのつもりで受け入れたんかよ、出久のくせにてめえ。そうはさせるかよ。
「おいデク!てめえは」
 どういうつもりで、と問いただそうとしたところで、出久が口を開いた。
オールマイトアメリカに行くんだよ」
「あ?ああ、そうかよ」
 出鼻をくじかれる。なるほど。ヒーローの本場だ。昔オールマイトが敵の手を逃れて、暫く住んでいたと聞いた。かの地での活躍が、オールマイトを世界的に有名にしたと言える。
「それでね、僕もオールマイトと一緒に、アメリカに行くんだ。そのために英会話の勉強もしていたんだ」
「はあ?なんだと?」驚いて聞き返した。出久も以前のオールマイトと同じように、逃亡するというのか。
「そんでてめえ、いつ日本に戻んだよ」
「何年いることになるか、決まってないって。もう定住することになるかも知れない」
「てめえも一緒に、かよ」
「うん、僕もだよ。一ヶ月後にもう日本を出るから、それまでに部屋を引き払わなきゃいけないんだ。手続きはもう済んでる」
「はあ?すぐじゃねえか」
「うん。そうなんだ」出久は曖昧な笑みを浮かべた。「でも、行く前に君に会えてよかった」
 何を言いやがる。ふつふつと怒りがわいてくる。ふざけんなよてめえ。やっと会えたんだ。やっと抱いたんだ。やっと手に入れたんだ。これからじゃねえのかよ。クソが!クソが!
「おい、クソデク!」
 うかうかしてはいられない。ほんの1カ月後には、出久はアメリカに行っちまう。
「な、なに?かっちゃん」
「今回の件の見返りを寄越せよ」
「えええ?見返り?」
「そうだ!文無しのてめえに飯を食わせて、ホテルにまで泊めてやった上に、明日帰る電車賃まで、出してやるわけだからよ」
 顔を寄せて迫った。やっと捕まえたのに、逃してたまるかよ。たった一ヶ月という期限だとしても、ここで手離すわけにはいかない。
「そ、そうだね。ありがとうございます。かっちゃん。あの、僕は何をすればいい?」
「てめえがアメリカに行くまでの時間、全部俺に寄越せ!」
「えええ?」
 一晩限りでこれっきりとかぜってーねえわ。アメリカに行く前に、てめえとしてえことを、全部やりきってやる。
 この時、先のことなど何も考えてはいなかった。とにかく今、なんとかしなければと思ったのだ。

 翌日、勝己は出久と一緒に帰途に着いた。だが、住居兼事務所の自宅には戻らずに、そのまま出久の住処に押しかけた。
「学校側が、セキュリティがしっかりしてないといけないって、住むところを提供してくれたんだ。家具つきだから引っ越しも楽だったよ」
 雄英の敷地の側にあるが、門からは離れてる。白壁の意外と立派なマンションだ。
「寮もそうだったな。セメントスが作ったんじゃねえのか」
「あ、そうかもね。他にも学校関係の人が住んでるよ。空き部屋もあるから、時々先生が泊まったりしてるよ」
 勝己は出久の手からキーを取り上げてドアを開け、出久が入ると後ろ手に鍵をかけた。反転して出久をドアに押し付ける。
「いたた!かっちゃん?」
「てめえの時間、全部寄越すっつったよなあ、デク」
 出久の尻を剥き出しにして、自分のズボンの前を寛げた。その場で後ろから挿入する。征服したばかりの身体は、二度目の侵入をやすやすと許した。強く突き上げると、出久は、はあっと喘いで振り向いた。
「ああ、かっちゃん、待って」
「止められっか、クソが。てめえも協力しろや」
 こいつの家で、今やることに意味があるんだ。もう一時の気の迷いなどとは、言わせない。
 布が邪魔になって、出久の脚を大きく開けない。先端はするっと入っちまったが、これ以上深くは入れられないか。一旦雁首を引き抜き、対面姿勢になって、出久のズボンを引き下ろした。
「ちょっ、かっちゃん」と狼狽える出久の背中をドアに押し付ける。「首に捕まれや」と言い、太腿を持ち上げて膝裏から腕を入れ、尻を抱えて抱き上げた。脚がつかなくなり、不安定になった出久は慌てて肩に腕を回し、脚を勝己の腰に巻きつける。再度窄まりに熱を押し当て、下から突き上げる。
 出久は「ああ!」と悲鳴をあげた。先端がきゅうっと締め付けられる。出久の自重で、揺さぶるほどに食い込み、括れから肉茎と締め付けが移動する。深く暖かい内壁の中に沈めてゆく。
 尻を掴んで小刻みに揺さぶるうちに、感じ始めたのか、出久は押し殺した喘ぎ声をもらす。尻を持ち上げて、浅いところを刺激する。
「そこ、やだ、おかしくなる」
 腹に触れている、デクの性器が固くなってきた。上衣も着たままで玄関先でやるなんて、盛った動物のようだ。だが、部屋に入った途端に、待てなくなった。
 服を脱がす時間すら惜しくて、ベッドまでの距離すら長く感じた。理性も感情も吹っ飛んで、本能だけに支配されたようだ。こんなにも飢えていたのか。
「デク、口開けろや」と言い、唇を合わせて深くキスをする。口腔を探り、舐めて吸い、同時に尻を持ち上げては突き上げる。貪りつくす。
 ドクリと奔流がペニスの中に押しよせ、繋げられた身体に出口を求めた。腰を引き寄せ、強く突き上げ、出久の首元に顔を伏せて唸る。絶頂が訪れた。
「あ、かっちゃん」
「ふは、ああ、悪いかよ」引き抜いてから出そうなんて、微塵も思わなかった。息が上がる。
「いったんだ。中が濡れたみたい」出久がぼうっとした声で呟く。
「ああ?うるせえ」
「抜いたら、溢れちゃうよ」
「てめえ、煽んな、バカ」
 勝己は出久の耳をかりっと甘噛みした。


3.Ain't Talkin' 'Bout Love(叶わぬ賭け)


 カーテンの隙間から、日差しが細く指している。光はゆらゆらと移動し、隣に寝ている出久の髪を照らす。狭いベッドの中で、お互いの裸の肌が触れ合う。
 肩から腰まで、滑らかなラインを撫でる。胸に指を滑らせ平らな乳首を摩り、腹筋の割れ目を辿り、下腹の繁みの下の性器を弄ぶ。
 尻を撫でて抱きしめて、脚を挟み込み、双丘の間に勝己の性器を押し付ける。すん、と頸の匂いを嗅ぐ。
 俺のもんだ。ひとつに融け合うような感覚は、出久としか味わえやしない。
 小さく声を上げて身じろぎすると、出久は首を傾けて振り向いた。
「かっちゃん、もう朝だよ」
「やっと起きたんかよ。もう9時だわ、クソが」
「僕、そのまま寝ちゃったの?今日が休みでよかった。裸のままで寝るなんて初めてだ」
「やってから、そのまま寝るのも、だろうが」と揶揄う。「わわ」と出久は真っ赤になって、ベッドからそそくさと立ち上がった。
「かっちゃん、シャワー先に浴びていいよ。近くにご飯食べに行く?」
「食いもん、なんかねえのかよ」
「冷蔵庫の中何もないんだ。引っ越しするし。物減らさないといけないから」
「はあ?引っ越すつっても、あとひと月もあんだろーが!」勝己は起き上がって、出久の腕を掴んだ。「よし、買い物に行くぞ、クソデク」
 ふたりは近所のスーパーに連れ立って入った。弁当を手に取ろうとする出久の手を「いらねえ」と言ってはたく。卵やら玉ねぎやら、調理の必要な食材を籠いっぱいに放り込み、調味料も入れてレジに向かう。
「かっちゃんが作るの?」
「なに抜かしやがる。誰がてめえなんぞに作ってやるか!てめえも手伝うんだ、クソが」
「ええ!僕料理できないよ」
「飯の作り方くらい覚えろよ。アメリカで外食ばっかするつもりかよ」
 自分で言ったアメリカ、という言葉がちくんと胸を刺す。
「あ、そうか。うんそうだよね。何すればいいかな、かっちゃん」
「とりあえず、ご飯くらい炊けるよな」
「うん、もちろん出来るよ」
 そう答えたくせに、家に帰って準備を始めると、炊飯器を前にして出久は「あれ?どっちの目盛りに合わせればいい?」とまごついている。
「無洗米だからこっちだ」
「研がなくていいの?」
「ざっと1回洗えば十分だ。てめえ、全く自炊したことねえのかよ」
「うう、恥ずかしながら」
「それでよくもまあ、もちろんとか言えたもんだぜ。俺がやった方が早いが、猫の手でもマシだ」
 炊飯の後は味噌汁を作らせることにしたが、出久の手つきはおぼつかない。測った味噌を、そのまま汁に入れようとしたのが目に入り、といてから入れろと怒鳴る。
 台所にふたり並んで炊事しているなんて。まるで合宿の時のようだ。あの時はクラスの奴らも一緒だったが。
 もしも、このままてめえが日本にいて、一緒に住むのなら、どっちも働いてんだから、作るのは交互だろ。飯の一つも作れなきゃな。
 もしもだけどよ。
 ご飯に味噌汁に卵焼きに、お浸しにサラダ。いつもより時間がかかったが、まあいい、出久にしちゃ上出来だ。
 朝食の皿を並べて、テーブルに向かい合わせに座る。出久は自分の作ったものを「美味しい美味しい」と言いながら口に運ぶ。
「てめえ、学校から帰るのは何時だ」
「大体定時だよ。講師だからね。担任を持ってると大変そうだけどね。相澤先生はいつも残業してるよ」
「その講師の仕事はいつまで続けんだ」
「ギリギリまでやるよ。それに引き継ぎを必要とするような授業じゃない。ヒーロー歴史学は個性に関わらず、誰でもできる教科だから」
「てめえでも、役に立つってわけだ」
「うん」一拍おいて、出久は続ける。「無個性でも」
 それから、勝己の仕事の話や、ヒーロー集会で会ったクラスメート達の話になった。
 他愛無い会話が擽ったくて、胸が暖かくなる。


「おい、起きろてめえ。いつまで寝てんだ」
「お、おはよ、早起きだね。かっちゃん」
 勝己に叩かれた頭を摩りながら、出久は起き上がった。昨夜も勝己は出久の部屋に泊まった。ここ一週間、帰ってくるのは出久のマンションである。
「さっさと着替えろや。これからランニングに行くぞ。身体が鈍るわ」
 家から少し走ると、広い運動公園があった。ランニングコースの内側に、野球やサッカーのグラウンドがある。少し離れると木立に囲まれた小さな広場があり、滑り台やブランコなど、子供の遊具が設置されている。
「ここ、家の近くの公園を思い出すね」出久は懐かし気に言った。
「ああ、まあな」
 出久と一緒に遊んだことも、いじめたこともある。甘くて苦い、公園の思い出。
 飲み物を買うためにコンビニに立ち寄った。出久は花火に目を止める。
「もうそんな季節なんだ」と出久は微笑む。「花火、やったよね」
「ああ、ガキの頃な」
「かっちゃんは、ネズミ花火ばっかり火をつけて、僕に投げてきたよね」
「ばっかりたあ、なんだてめえ。チキンなてめえが逃げるからだ。それに、てめえらが尻込みする打ち上げ花火には、俺が火つけてやったろーが」
 飲み物を買ってきて公園に戻り、木陰で一休みする。
 ポカリを嚥下するデクの喉。舐めたくなる喉元から目を逸らす。歯を立てて噛み跡をつけたい。
「久々に走ったよ」額の汗を拭いて、出久は言った。
「ああ?なまってんじゃねえのか」
「君は毎日ジョギングしてるの?」
「たりめーだ。毎日鍛錬しねえで、ヒーローでいられるかよ」
「汗かくのはいいね。色々考えないですむから」
 何を考えたくないのか。芝生の上に寝転んで、出久は顔をタオルで覆っている。表情は見えない。
 子供の頃の夏の夜、花火とバケツとチャッカマンを持って、出久を誘って河原に行き、花火で遊んだ。ネズミ花火や蛇玉や打ち上げ花火だってあるのに、出久はいつも地味な花火を手に取った。
 出久の手の中の、今にも火の消えそうな線香花火。チリチリと細い火を吹く火を、心配そうに眺めているのを見かね、花火に火を継いでやった。にっこり笑う顔が、花火に照らされた。かっちゃんの掌の火花みたいだと、出久は言った。思い出すと、糸屑のように縺れて散る火花の、ぽしゅぽしゅっと弾ける音が、聞こえるようだ。
 大きな鳥の影が、広場を横切ってゆく。
 出久は空を仰いで、手を伸ばす。
「手が届くなんて、思ってなかったなあ」
 鳥の姿は遠く空の彼方に小さくなる。出久はそっと手を下ろした。
 こんなに早く失うとは思わなかったと、言っているように響いた。
 出久は瀕死の重傷を負った。助かったのは奇跡だ。単身ヴィランの元に向かう時に、前もって個性を譲渡した判断は間違ってない。だが、出久は死闘を生き延びた。生き延びてしまった。
 個性を譲渡してしまったことを、悔いているのか。オールマイトと同じように、壮年を過ぎてから譲渡したのなら、諦めがついたのか。個性の残滓すら、吹き飛んでしまった今。
「そろそろ戻るぜ」
「うん」
 起き上がり、出久は顔からタオルを取った。いつものような穏やかな顔をしている。

 警察から連絡があった。鞄が落し物として届けられたらしい。金だけはなくなっていたが、中身を聞くと他のものは無事のようだ。
「繁華街探し回るより、さっさと警察に届けりゃよかったんだ」
 まあ、うろついてやがったから、出久を見つけたわけだが。
「大したもの入ってなかったからね」
 出久は、ただ淡々と呟いた。


「ちゃんとしゃぶれよ」
 ベッドに浅く座った勝己。その股の間に出久は蹲って、勝己を見上げる。指で勝己の屹立したものを挟み、少し躊躇って先を咥える。
 出久が自分も口淫すると言ったのだ。勝己にばかりさせては申し訳ないと思ったのだろう。勿論、出久なら勝己がすれば、そう思うだろうと踏んでいた。出久の舌が亀頭を舐めて、唇がそろそろと肉茎を移動する感触。
 ふうっと息を吐く。温かい口内も気持ちいいが、なによりも、自分に奉仕している出久の表情が堪らない。髪を梳いて、紅色の頬を撫でると、上目遣いに見上げてくる。
「アイスキャンデーじゃねえぞ。そんな風にただ舐めてるだけじゃ、イけねえわ。こうやんだ、練習しろや」
 出久をベッドに引き上げて寝かせ、足を開脚させると、勝己は出久のものを咥えた。先端を舐めてから、深く口内に導いて頬張り、頬を窄め、内側で圧迫しながら抽送する。あ、あ、と出久が喘ぐ。わざと水音を立てるように、しゃぶる。
「かっちゃん、もういい、出そう、離して」
 出久は自分のものを呑ませるのを嫌がる。だから逆にやりたくなる。達して、口内でビクビクと、出久のものが震える感触がいい。
「や、だ、かっちゃん」
 出久は顔を覆って喘ぎ、ああ、と唸って脱力する。
「やだって言ったのに」と呟いて、羞恥に顔を赤くする。
 塩辛いそれを飲み干して、勝己はニヤリと笑う。てめえの出したもんだろう。
 全部、俺のもんだ。


 なし崩しに、勝己は出久の部屋に居ついた。
 スペアの合鍵を有無を言わせず奪取し、ヒーロー活動の後は、毎日出久の部屋に入り浸り、夜毎身体を繋いだ。
 思っても見なかった同居生活。他人が部屋にいる生活など、考えられなかったというのに、この安心感はなんなのだろう。
 ようは同居する相手次第なんだ。
 出久を独占している安心感。出久の存在はいつも心を波立たせ、苛つかせていたのに。自分だけの物になった途端に、こうも心が穏やかになるとは。幸せとはこういうものなのか。
 でもひと月後に失われてしまう。
 たとえ出久を追って自分もアメリカに行ったとしても、大した実績もツテもない今の自分では、ヒーローの仕事はできない。観光客か留学生が関の山だ。職業ヒーローとして行くとしたら準備が要る。少なくとも何ヶ月、もしくは何年かはかかるだろう。その間に出久との関係はどうなる。
 手放せるのか、俺は。腕枕で眠る出久。眼前ですうすうと呼吸している出久を、ぎゅうっと抱きしめる。
 温かい生きた身体。手放せるのか。出来ることなら閉じ込めてしまいたい。
 傷だらけの腕に触れ、白い傷跡を辿る。手足を折って仕舞えばいいんじゃないか。爆破して壊して仕舞えば、てめえはどこにもいけない。
 そんなこと、出来るわけがないだろうと、理性が囁く。


「そろそろ部屋を引き払わなければいけないんだ」
 朝食の支度をしながら、出久は言った。簡単な料理なら、出久はひと通り作れるようになっていた。
「ここを出んのか」勝己は問うた。
「一週間単位で借りてるけど、来週の半ばには出発するから。家具は備え付けだし、ほとんど自分のものは無いんだけどね。オールマイトグッズは別だけど。渡米に必要なものだけ残して、後は家に送るよ」
「まだ日にちあんだろ?」
「出発までホテルに泊まるか、家に戻るよ」
「なら俺の家に来いや」
 出久は驚いた表情をして、キッチンから顔を出した。
「ええ、行けないよ。そんな、悪いよ」
「ひと月俺といる約束だろうが!忘れてんじゃねえ」
「あ、そうだったね。でも」
「てめえは約束を違えるのかよ」
 出久は思案顔で答える。「じゃあ、ちょっとだけ。お世話になるね。すぐ僕はアメリカに行くし、荷物はスーツケースに入れて持ってくよ」
 出久は力をなくしても、名前だけは敵に知られている状態だ。親元に帰るのさえ、用心しなきゃならない。海外の方が国内よりもマシなのかもしれない。
 だが納得できやしない。このままでいられないのか。
 てめえとしたいことはまだあるんだ。一緒に居ればいるほど、したいことが増えていくんだ。幾らでも沸いてくるんだ。
 人と一緒に住むなんて、考えられなかった。自分の空間を人に乱されるなんて、厄介なだけだと決めつけていた。でも結局は誰と住むかってことだけだったんだ。一緒にいたい奴と一緒に住みたいと思うのは、当たり前のことなんだ。
 てめえと同じ空を見上げたい。青い空を、赤い夕日を、黄金色の朝焼けを。自分だけなら同じ空でも、てめえと眺めるのならば、毎日違う空なんだ。同じ時間を共有したいんだ。
 てめえはアメリカ行って何すんだ。オールマイトのコバンザメみたいなものじゃねえのか。ほんとにてめえが、行かなきゃいけねえなのか。
 だがこの一月足らすでは、アメリカに行くという、出久の決心は変えられなかった。奴の中で決定事項になっているのだ。今を幸せだと思うほどに、焦燥感と苛立ちが心を黒く覆ってゆく。


「あ、あ、」と出久は背をしならせて喘ぐ。
 ベッドのヘリに立たせて、後ろから激しく打ち付ける。腰を振りながら髪を掴み、さらに強く突き続け、スピードを上げる。
「かっちゃん、や、あ、あ、」
 引き抜いて、ベッドに仰向けにして、背中だけをつけて寝かせた。尻を浮かせて足を開かせ、覆い被さり、再び挿入する。慣らされた孔はすんなりと勝己を受け入れる。気分がいい。
「お尻が落ちちゃうよ」
 と出久は勝己の腰に脚を巻きつけ、肩に抱きついてくる。中もきゅうっと締め付けられる。
 身体を密着させ、下腹で柔らかいままの出久の陰茎を押さえつける。
「勃たねえな」
 激しく突く内にずり上がり、出久の尻はベッドに乗った。身体を起こして、内壁の浅いところをペニスの先で擦る。出久の身体と繋がった、陰嚢の下の結合部。ひくひくと窄まり、弛緩しては勝己を刺激する。
 デクは自分のものに、手を伸ばそうとした。
「おっとお、ちんこには触んなよ。させねえよ」
 出久の手を掴んで止める。すると、出久はもう一方の手を伸ばそうとした。
「させねえっつってんだろ」
 両手を一纏めにして片手で掴むと言った。「後ろだけでいけよ、デク」
「え、そんなの無理」
「正常位と後背位とどっちでやって欲しい。答えろや。あ?後背位か」
 返事を待たずに、出久の身体をひっくり返す。ベッドの上に上半身だけを乗せて腹ばいにさせ、膝は床につかせる。尻を突き出させて、腰を引き寄せるようにして、ぬぷりと挿入する。動かすほどに擦れ合う陰茎の皮膚と、出久の内壁。
 出久は「ん、ん、」と動きに合わせて、小さく息を詰まらせる。獣じみた体位。激しく腰を振り、揺さぶり続ける。身体がぶつかり、汗ばんだ皮膚がくっついては離れ、音をたてる。獣のような荒い息遣い。
 始めは慣れもあり、余裕にも見えた出久は、何度目かの挿入と射精で、次第に苦しげな喘ぎ声を上げ始めた。
 太腿を掴んで腰を振る。泣き出しそうな嬌声。ベッドが軋んでいるのか、出久の身体が軋んでいるのか。それとも、自分の胸が軋んでいるのか。
「いったかよ」
「ん、いったよ、もう」
 触れてみると、ペニスはくたりと、力なく項垂れている。
「は!いってねえじゃねえか」
「だって、無理、かっちゃん、もう」
「まだやめてやらねえぜ。てめえがいくまでやめねえ」
 仕置だからな。中に出してやる。後頭部を掴んで突き上げる。はあ、と出久が息を吐く。勝己は唸り、深く出久を穿つ。屹立がどくりと脈打ち、精を吹き出した。出久の体内深くに注がれる。


4. Man on a Mission(任務を追う男)


 今日からデクが家に来る。学校が終わったら、直接、勝己の家に来ると約束をした。
 出久が来たら、あの部屋を引き払って、服やらオールマイトグッズやらを、勝己の車でデクの実家に運ぶのだ。アメリカに持っていくものもあるらしいので、取りに行くついでだ。スーツケースは勝己の家に置いておき、渡米当日は出久を空港まで送る。
 ほんの数日の猶予。あいつの決心は固いとしても、それでもギリギリまで粘ってやる。
 だがおかしい。今から行くと連絡が来てからかなり経っている。とっくに到着していい時間なのに、出久はまだ来ない。携帯にもかけたが、何故か出やしない。
 業を煮やして、勝己は学校に連絡した。
『やあ、久しぶりだね。爆豪少年』
 電話に出たのはオールマイトだった。ナンバーワンヒーローオールマイト。高揚と悔しさと両方の感情が渦巻く。
 あんたはいつも、出久に他の世界を示して、手の届かないとこに、連れて行ってしまうんだ。
『デクはそっちにいんのか』ぶっきら棒に問うた。
『ああ、君が緑谷少年といてくれたんだよね。聞いてるよ』
『そーゆーこたあいいんだよ。デクいねえのか』
『まだ着いてないのかい?』
 出久はかなり前に、学校を出たという返事だった。携帯電話のGPSを確認すると、出久は繁華街の入り口付近にいて、動いてないという。
 胸騒ぎがした。
 繁華街に行ってみると、出久のスーツケースが道路の隅に置いてあり、側に携帯電話が落ちていた。大声で名を呼んだが、出久はいない。やはり何かあったのだ。携帯電話に手掛かりを残してないかと、適当にパスワードを入れてみる。
 開いた。やっぱりオールマイトの誕生日かよ。
 最近使ったアプリの中にカメラがあった。写真フォルダを確認してみると、人相の悪い知らない男が写っている。
「おい、ここで何かあったのかよ」
 近くの店の人に問うと、騒ぎを目撃したと言う。ついさっき、出久はヴィランに絡まれてる人を助けようとしたらしい。だが相手が『デク』だと知ったヴィランは、標的を出久に変更した。出久は車に連れ込まれ、どこかに連れていかれたという。
「あのクソカスが!」
 今の無力な状態も忘れやがって、ヘドロヴィランから俺を救おうとした時から、何も変わっちゃいねえ。あいつは誰もがプレーキを踏むところで、思いっきりアクセルを踏んじまうんだ。
 商店街の人が呼んだ警官に「こいつを知らねえか」と携帯にあった写真の男を見せた。他に、追跡可能なものを持ってないのが残念だ。
 警官は一目見て答えた。彼らは最近この辺りを根城にする、札付きのヴィランだという。なかなか警察も手を出せないらしい。
 聞きたくねえが仕方ねえ。情報が欲しい。オールマイトに連絡し、チンピラの顔写真を送った。彼はその手の情報はやはり詳しい。折り返すと言い、すぐに勝己に連絡が返ってきた。
『その男は、元ヴィラン連合に属していた奴だ。君一人では危険ではないか』
『ああ?誰に言ってんだよ』
『しかし、爆豪少年』
『心配すんじゃねえよ、オールマイト。暇してる奴らに応援を頼むからよ』
『君はひとりで行くつもりだろう』オールマイトは図星を指した。『早まるなよ。今もベストジーニストの元にいるのかね。では彼に伝えよう』
『いねえよ、いいってオールマイト。俺から言う』
 仕方ねえ。オールマイトを煩わせたくねえ。勝己はベストジーニストの事務所にコンタクトを取り、受付の者に早口で伝えた。すぐに声がベストジーニストに変わった。
『久しぶりじゃないか。今どうしてる』
『世間話してる暇はねえ、こっちは急いでんだ!』
 デクが攫われた経緯を手早く説明して、この辺のチンピラのたまり場はないかと聞いた。
『廃ビル街だろう』即座にベストジーニストは答えた。
『この辺の監視カメラ映像かなんかねえか。今日の夕方5時から7時までだ』
『ちょっと待ってくれ』電話の奥で、ベストジーニストの声が誰かに指示を飛ばした。
『廃ビル街の入り口に設置した路上カメラに一件、誰かが運ばれたような、不審な映像がある。今から場所を送る』
 すぐにリンクを貼ったメールが届いた。ビルの中に連れて行かれる、拘束された人影。
 居場所の目星はついた。『間違いねえ。デクだ。俺は先に行く』
『待て、先走るな』
『時間が惜しいんだ。俺は先に行く。手の空いたヒーロー連れて、この場所に来てくれ』
 ベストジーニストのとこは大手だけあって、ネットワークに優れている。事務所に所属すんのも悪くねえかもな、とちょっと思う。
 さてと行くか。溜まり場はシャッター街の奥にある廃ビルだ。

 メールの添付写真と見比べる。あの5階建てのビルだ。
 人影は見えねえが、入り口は見張りがいるかもしれねえ。ジャンプしてビルの屋上に降り立った。足音をさせないようにして、階下に降りる。用心しながら、埃っぽい廊下を進む。
 出久はどの部屋にいる。
 耳を澄ますと、ヴィランの声に混じって、微かに唸り声が聞こえる。階段を降りて、声のする部屋の前に着き、廊下から様子を伺う。
 か細い声が止んだ。数人の足音、人を殴る音。ヴィランの笑い声。
 頭が沸騰しそうになるのを、ぐっと堪える。応援が来るまで待機だ。
 ドアの小窓から覗いてみる。5、6人いるようだが、全員雑魚くせえチンピラだ。出久はどこにいる?
 再び掠れた唸り声が聞こえてきた。確かに出久の声だ。
 声の聞こえた方向に視線を移す。
 目の端に、縛られてボロクズのように、床に転がされた出久が見えた。
 またてめえは俺の知らねえところで。
 とたんに頭に血が上った。
 勝己はドアの鍵を爆破して壊し、ドアを蹴破った
 ヴィラン達は不意をつかれて、振り向いた。散弾のごとく光球を飛ばし、ヴィラン目掛けて狙い撃つ。ヴィラン達は慌てて武器を手にしたが、煙で視界を遮られ、まごついている。勝己はドアの側の男の背中を爆破し、後頭部を掴んで、床に叩きつけた。
 衝動的に動いてしまったが、冷静になってきた。不意打ちしたとはいえ、多勢に無勢の戦いだ。煙が充満している間に勝負をつける。奴らに自分の位置を悟らせちゃいけない。
 勝己は煙の中を俊敏に動き、1人1人、ヴィランを殴り倒していった。
「てめえが最後だ!」
 ボスらしき男を床に引き倒し、首を掴んで押さえつける。
 あっという間に制圧完了したようだ。
「てめえ、人のモンに手ェ出して、ただで済むと思ってんのかよ、ああ?クソが」
 男の顔を手で覆い、爆破しようと熱を貯める。
「頭吹っ飛ばしてやるわ、覚悟しな、クソが」
 男は悲鳴を上げ、首を振って逃れようと焦っている。チキン野郎が。本当に殺っちまおうか。
「ん、かっちゃんなの?」
 出久の声が聴こえた。個性の出力を途中で止め、倒れている出久に目を向ける。
「目を覚ましたんかよ、クソデク」
「危ない、かっちゃん」出久が掠れ声で囁いた。
 背後に誰が立っている気配がした。振り向いた。鉄の棒が目に入った。
 ヴィランが棒を振り上げて、勝己に殴りかかろうとしている。
 煙の中に隠れてやがったのか。こんな側に近付くまで気づかねえなんて。油断してたのか。
 瞬時に、勝己は片手を男に向けようとした。
 だめだ、間に合わねえ。畜生!
 しかし、自分にヒットすると思われた瞬間、男は後ろに吹っ飛んだ。
 何があった?
 側を掠めた風圧の方向。うつ伏せた出久に目を向ける。
「おい、デク」
 返事がない。また気を失ったらしい。見ると、出久の人差し指が紫色に変色し、潰れている。何が起こった?
 ひょっとして個性を使ったのか。体力のない状態で使ったから、あの程度の発現で、高1の時のように指を潰してしまったのか。
 いや、まだ判断するのは早計か。奴らに指を潰されたのかも知れねえしな。
 壁にぶち当たったヴィランは崩折れ、どろりと液状化した。体を液体にするヴィランか。こっそり背後に忍び寄って来やがったんだな。嫌なこと思い出させやがる。
 唸っているヴィラン達を、念のために再度一発ずつ殴り、気絶させた。
 勝己は出久に駆け寄り、抱き起こして揺さぶった。
「ああ、かっちゃんだ。1人で何人倒したの。すごいな。君は」
 腕の中で勝己を見上げ、それだけ言うと、出久はすうっと目を閉じた。
「デク!何やられてんだ、てめえ、このカスが、クソカスが!」
 階下から複数の足音が近づいてきた。聞き覚えのある声だ。ベストジーニストの事務所の面々が駆けつけたのだ。
ヴィランは伏せろ。抵抗すれば容赦しない」警告しながら、ベストジーニストが部屋に入ってきた。
「遅えわ、クソが」
「早まるなと言っただろう、爆豪くん。しかし、よくやったな」
 ベストジーニストは部下達にテキパキと指示し、ヴィランを全員捕らえた。他の部屋にいたヴィラン達も残らず捕縛すると、連行していった。
「爆豪くん、彼は病院に連れて行かなければ」
 ベストジーニストに宥められても、勝己は抱きしめた出久を、手放そうとしない。
「事情も聞かなきゃならない。君も署に来てもらわなければならないし、彼は手当てしなければ」
 言われて、勝己は渋々出久を引き渡した。


5. Best of Both Worlds(好いとこ取り)


 勝己はベストジーニストの事務所に立ち寄って、協力の礼を言い、出久を病院に迎えに行った。
 傷はほぼ治療されていた。指の変色も消えていた。力の発現などなかったかのように。手を掴んで指を確認する勝己を、出久は不思議そうに見つめた。
「行くぞ」と掴んだ指を絡ませて、手を引いた。
「あ、商店街にスーツケースが置きっぱなしだよ」
「クソが」忘れてた。
 スーツケースは商店街の店が預かってくれていた。車に積んで、出久をマンションに連れ帰った。
 どうせうちに来るんだ。そうでなくても、出久を今一人にはできない。
「あんな弱そうな奴らにやられてよ、不甲斐ねえな」
 うん、と出久は言葉少なに俯いて答える。ソファに膝を抱えて座る出久は、まるで子供のようだ。
「あんなんじゃ、アメリカ行っても、身を守れねえんじゃねえのかよ」
 だからここにいろよ、とは言えない。
 暫くして、悔しいな、と出久は呟いた。
「君や皆の活躍が、同級生として誇らしい。けれども、自分の無力さが辛い。君に並び立てないのが辛い。だから僕は、オールマイトについていくんだ」
「はあ?何言ってんだ」
「僕にも何か、できるかも知れないから」
「今のてめえが一緒にアメリカ行って、何ができんだ。クソでもしに行くのかよ。てめえは逃げてるだけじゃねえか」
 自分から、俺から、逃げてるのだ。頭にきた。
「でも、君とはいられないよ」
「俺と、だあ?」
 出久の声が震えている。顔を伏せたままで頭を振る。
「理由はあんのかよ!」声を荒げて勝己は問うた。
ヴィランから身を隠して、各地を転々としてた時ね」出久は顔を上げずに言う。「OFAを使いきって、力を失ってしまった僕に、皆すごく優しかったんだ。よくやった、ありがとうヒーローって。僕はそれが辛かった。だって、僕はもうヒーローじゃないんだ。誰かに何か危険なことがあっても守れない。何もできない。優しくされる価値なんてない。でも君だけは違った。厳しく接してくれた」
「あ?どこに褒めるとこがあんだ。無茶をしたてめえの、自業自得だろうが」
「うん、君は僕に意地悪でぞんざいで、ちょっとだけ優しくて、側にいて居心地よかった。そんな風に思うなんて、正直意外だったけど」
「昔のてめえに、戻ったようなもんだろうが。何が違うってんだ」
「うん、かっちゃんだからなんだなって。でも、もう無理だ」
「だったらなんでなんだ」
「もう無理だよ。気づいたんだ」出久は顔を上げた。「だって君は僕が無力になったのを喜んでるだろ」
「てめえ、なんだと!」
 いきなり何をわけのわからないことを、言ってやがる。
「喜んでるだろ。君のことならわかるよ。いざとなれば力づくで、言うことを聞かせられる。そうだろ。そうしなくても、できると思えるだけで違うんだ。今の僕は君に叶わない。それが悔しいんだ。一度は君と並び立つことができたんだよ。もう子供の頃みたいな、惨めなのは嫌なんだ」
 思わぬ出久の吐露に、勝己は凍りついた。出久は所在無さげに指を組み替え、益々縮こまる。
「そんなに、僕に力が無いのが嬉しい?」
「てめえ、ざけんなよ」ふつふつと怒りが込み上げてきた。「力づくで言うことを聞かせるだと?てめえを力で、意のままにできたことなんざ、一度もねえわ!何言ってやがる」
 弱っちいくせに、ぐずぐず口答えして、怯えながら逆らって、何一つ思いどおりにならなかった。それがてめえだ。
「ごめん、ごめん、かっちゃん」出久は首を振って、涙ぐんだ目を擦った。
「今の僕の中は真っ黒なんだ。君に再会したあの日、ほんとは僕は、皆に会おうと思ってたんだ。でも、いざとなると足が竦んだ。僕は本心から笑えるんだろうか。黒い心が顔に出てしまうんじゃないだろうか。子供の頃に君やクラスメイトを見て、感じていたような、羨ましくて妬ましくて、辛くて濁った心。そんな浅ましさが、顔に出てしまうんじゃないだろうか。そう思ったら、怖くて堪らなくなった」
 勝己は思い起こした。出久はなくした鞄が見つかったと聞いても、喜ばなかった。あれほど探していたのに、おかしいと思っていた。つまり、本当は鞄を探してなどいなかったのだ。
 あの夜、出久は逡巡していたのだ。旧友達に会いたくて会えずに、それでも迷って、繁華街を彷徨っていたのだ。
「自分が嫌になるよ。だから誰も僕を知らないとこに行きたいんだ。平気で皆に会えるようになるまで」
 勝己は拳を握りしめた。火花が出そうになるほど、掌が汗ばむ。
 見えない鳥を追いかける出久に、いつも腹を立てていた。いくら求めたって、手に入るわけがないんだ。いい加減わかれよと。でも見えなかったはずの鳥を出久は見つけた。
 鳥を手に入れた。飛べる羽根を手に入れた。
 苦々しかった。てめえはその羽根を何に使うのか。自分の力の誇示か、玉虫色の正義の施行のためなのか。
 認められたい、必要とされたい。そんな自己顕示欲ならまだいい。あくまで自分がかわいいのだから。
 てめえは違うんだ。人のために生きて、そのために箍を外して、自分を壊してしまう。
 そんな使い方で、いつまでも羽根を持てるわけがないだろう。
 てめえもいつか、オールマイトのように力を失う。そんな日が来たのなら、その時は俺が、てめえを力づくででも止めてやる。そう思っていたというのに。
 いつもいつも俺の知らねえところで、死にかけてボロボロになって。俺はそれを知りもしねえで、何もできねえんだ。
 あのまま死んじまったかも知れねえんだ。
「喜んで何が悪いんだ。ああ?デク」
 勝己は低い声で唸る。
 俺のいない間に、無謀な戦いで死にかけた出久。
 管に繋がれて力なくベッドに横たわる出久。
 医者にも見放されて、死を待つばかりだった出久。
 ヤクザ野郎に助けられて、瀕死の状態から回復した出久。
 力を失い、誰にも言わず、何処かに姿を消した出久。
 やっと、俺の手の中に落ちてきた出久。
 喜んじゃいけねえのかよ。
 もう出久はOFAに振り回されねえ。俺の知らねえところで、壊されたりしねえ。なのにてめえは、ちんけなプライドでぐだぐだ言いやがって。そんなものに構ってなんかいられるかよ。
「ふざけんなよ。てめえ!」勝己は出久に掴みかかる。「今のてめえに何ができんだ!」
 威嚇するつもりではないのに、掌から火花が散った。出久はあつ、と顔を顰めたが、子供の頃のように怯む様子はない。
 それを言ってはだめだと、頭で警告音が鳴る。長い間執拗に否定し続けてたから、こいつは萎縮した。怯えて煙たがって、俺から離れていった。
 追い詰めたって、遠ざかるだけなんだ。思い通りになんて、出来やしないんだ。また繰り返すのか。同じ間違いを。
 だが、わかっているのに止められない。
「もうヒーローじゃねえだろ、てめえは!今のてめえが誰を守ろうってんだ。なんにもできないくせによ!」
 出久が項垂れる。「君にはわからないよ。君は何でもできるし、何でも持ってるから」
「今のてめえじゃ、オールマイトを守れねえし、オールマイトだって、てめえを守っちゃくれねえ。誰かに守られるしかねえくせに、そんなザマで、アメリカ行ってどうするってんだ。ああ?」
「何も出来ないから、だからだよ」
「は!逃げてるだけじゃねえか!」
「でもここには、いられないんだ」
「弱え奴が、何の役に立つってんだ」
 そんなことを言いたいんじゃない。行くな行くな離れるなと、心は哭いている。こんな言い方じゃ、届くわけがないとわかってるのに。また間違った言葉を叫び続けている。
 ガキの頃と同じだ。焦りと警戒が攻撃に、行動を間違った方向に向かわせた。思いを持て余し、手に入れたいと足掻き。苦しみの中で悲しみの中で、敵意が頭をもたげた。俺の思いを知らないてめえに、舐められていると感じた。傷つけずにはいられず、何度も傷付けた。怖がられ避けられても、まだ傷つけた。でも、てめえは従うことなどなくて、何一つ思い通りにならなかった
 どうすれば叶うんだ。てめえを求めてやまないのに、自分の気持ちが、ままならない苛立ちが、てめえが同じように思ってくれない苛立ちが、てめえを傷つける。傷つけることで自分も傷つくだけなのに。
 飲み込んだ言葉が嵐になる。刃となり胸を切り刻む。裂かれた傷から血が噴き出す。ここから出せと苛む。
 胸に閉じ込めておくんだ。外に出しては駄目なんだ。そんなみっともないこと、言えるものか。言ってしまったら。
 だがとうとう口から言葉が溢れてしまった。
「てめえのせいだ!」
「かっちゃん?」出久はきょとんとして見つめ返す。
「俺がどれだけ長い間、苦しんできたと思ってんだクソが!俺の苦しみも辛さも、全部全部全部。てめえのせいなんだ!」
「え?かっちゃん?」
 何を言ってるんだ、俺は。むちゃくちゃなことを言ってる。わかってるのに止まらない。俺は俺の望む俺でありたいのに。いつもいつも、てめえは容易く、俺をぶっ壊しちまうんだ。
「くそっくそっ!てめえのせいで、いつも俺は!俺は何でも持ってるって言ったよなあ、おい!俺が何を持ってんのか、言ってみやがれ!力か?名声か?んなものはどうでもいいわ。てめえが側にいてもいなくても、俺の頭ん中はてめえでいっぱいなんだ。てめえが手に入らないなら、俺はなんにも持ってねえと、同じことなんだ!てめえをものにして、初めて力や名声なんてもんも喜べんだよ。このクソカス死ねやクソが!」
 一気に捲し立て、勝己は肩を震わせて荒く息を吐く。
 言っちまった。
 死ぬまで言わねえつもりだったのに。畜生が、情けねえ。クソが!
 出久はどう思った。出久、てめえは。
 見つめるうちに、出久の顔がみるみる真っ赤になっていった。
「え?あ、あの、え?ひょっとして僕、酷い勘違いしてたの?だって君は、そんなこと一言も、え?」
 出久は狼狽え、頭をふるっと震わせて両手で顔を覆った。
「何言ってんだよ、かっちゃん」
 耳が真っ赤になっている。伝わったのか。
「おい、面見せろ、デク」
「僕に、そんな価値はないよ」
 顔を隠したまま、デクは声を震わせる。
「てめえの価値なんざ、無個性の頃から一ミリたりとも、変わってねえよ」
 てめえが落水した自分に、手を差し伸べた時から。有象無象の中で、てめえだけが鮮明になった時から。
「僕はもう、君や皆と並び立てない。なのに、危険だけが以前の何倍もあるんだよ。そんなの」出久は顔を覆っていた手を下ろした。「君の足手纏いにだけは、なりたくないんだ」
「デク。てめえはどうしてえんだ」
「したいことが、出来るわけじゃないよ」
「出来るかどうかなんて、どうでもいいわ、クソが。てめえはどうしてえんだ、デク!」
 出久は黙って目を伏せた。このひと月の俺との生活で、てめえは何も感じなかったのかよ。このままの時間が続けばいいと、思わなかったのかよ。
「かっちゃん」出久は漸く口を開いた。「僕は」伏せた瞳が上げられ、勝己を見た。
 やっと出久と目を合わせた。視線が交錯する。
 その時、ドアベルの音が響いた。
「ふたりともいるんだろう、ちょっといいかな」
 扉の向こうから、オールマイトの声が聞こえた。
 出久がはっと顔をドアの方に向ける。
 クソが!来ると思ってたが、よりによって、今このタイミングで来るのかよ。
 出久はなんか言いかけたんだ。きっともう少しだったんだ。今しか言わねえ言葉なんだ。
 勝己は歯ぎしりをしてドアを睨んだ。
「爆豪少年、君の声は大きいから、聞こえてしまったよ。開けてもらっていいかな」オールマイトがまた声をかけた。
「まだこいつは行かせねえよ」
 勝己は低い声で呟く。
 オールマイト、あんただ。出久が鳥を見つけたんじゃなくて、鳥が出久を見つけたんだ。てめえのために、命でもなんでも、何もかも捧げる奴を。格好の獲物だよなあ。あんたはOFAのために、出久を贄にしたんだ。
 勝己はデクの手首を掴んだ。こっちを見ろと力を籠める。出久はドアに向けていた視線を勝己に戻したが、戸惑いの表情を浮かべ、再びドアを見つめる。ドアの向こうのオールマイトを。
 いや、違う。わかってんだ。
 無力なくせに向こう見ずで、命を顧みない出久。オールマイトから個性を譲渡されなければ、きっと何処かで無駄に命を落としてただろう。オールマイトはデクの危うさに気づいて、ほっとけなかったんだ。
 でも、もういらねえだろ。俺に返せよ。俺が最初に見つけたんだ。ずっと前から俺のなんだ。畜生。
「その話でもあるんだ。爆豪少年。ちょっと外に出ようか、二人とも」
「かっちゃん」
 自分の名を呼ぶ、出久の声は冷静だ。クソが!クソが!勝己はデクの手を放し、立ち上がると玄関に向かった。


 川辺りの遊歩道に、爽やかな初夏の風が吹き抜けていた。勝己はポケットに手を突っ込んで、オールマイトの後ろを歩く。出久は勝己の後ろを付いてきている。
「気持ちがいいところだね。ここは」
「ああ。河原のグラウンドが広くて、気軽にトレーニングがしやすいからよ」
「君は自分に必要なことを、よくわかってるね。爆豪少年」
 整備された河原では、数人の子供達が水切りをしていた。デクとも近くの河原でよくやった遊びだ。平らな石を水面に向かって投げ、石を連続ジャンプさせる。デクは浅い角度で飛ばすコツが、なかなか掴めなかった。
 子供達の投げた小石は、水面を弾いて、軽やかに向こう岸を目指して渡ってゆく。
 ふいに地面を影が過ぎった。白い鷺だ。滑空してきた鷺は川の中洲に降り立ち、羽根を震わせる。川面は銀の鱗のように煌めいている。
 オールマイトが立ち止まり、「緑谷少年」と出久を呼んだ。出久は小走りに駆けてきて、オールマイトの隣に立った。
「緑谷少年、君をアメリカに連れて行くのは、やめたほうがいいだろうね」
オールマイト
 出久の声は予期していたように、静かだった。
「誰も君を知らない場所で、君が心機一転、新しく始める何かを、見つけられればいいかと思ってたんだ。何かを見つけられれば、どこでも生きていけるからね。君を手助けできればと思ったんだよ」
「僕のために、ですか」
「うん」オールマイトは頷いた。「でも、逃げるのは君らしくないね。緑谷少年。君はいつも諦めずに、立ち向かっていくんだ」
 オールマイトは2人を振り返り、微笑んだ。ひょろりと細長いシルエット。河原にいる人々は彼が誰なのか、誰も気づいてないようだ。
「私は力を失った時、自分はもう、守られなければいけない身になったのだと知った。緑谷少年、君もそうなのだよ。君に私は守れないだろう。私も君も、今はヴィランに狙われる身だ。何処に行ったとしても、誰かに守られなければならないだろう」
「だから、日本を離れるんだよね。オールマイト」出久は言った。
「己の身を守るために、渡米するのではないよ、緑谷少年」
「でも、周りの皆が僕のせいで、ヴィランに狙われたら。僕は何も出来ないのに」
「緑谷少年、OFAのデメリットから、生まれる人間を作らないために、君が濃い繋がりを恐れているのは、知っているよ。家族を失い、悲しみから闇に堕ちた死柄木のように。でも、誰しも1人ではいられないのもわかるね」
「でも、大切な人達に、傷ついて欲しくないんです」
「私も君も自分の無力を、直視しなければいけない。人に守られなければならない事実を、呑み込まなければならない。だがそれを恥じることはないんだ。悪の標的になる者を守るのは危険だ。ことに正義の象徴ともなった私や君は。だからこそ、誰かが守ってくれるだろう。彼ではなくても誰かが仕事として、行うことになる。君は知らない他の人なら、危険を共に担ってもよいというのかね」
「そんなことは」
「冗談じゃねえ。他の奴にデクを守らせるなんてよ」
 黙ってられなくなり、勝己は割り込んだ。
 オールマイトは勝己に笑いかけた。頭に大きな手が乗せられる。
「爆豪少年は君を必要としている。君を守る力も、充分すぎるくらいある。ヒーローでなくても、人のためになれる道はあるよ。昔君にそう言ったことがあったね」
「はい、初めて会った時に」
「でも君はヒーローになった。素晴らしいことだよ。だが、誰しもいつかは、第二の道を選ばねばならない。私も君もね」
オールマイトはこれから、何をするつもりなんですか?」出久は尋ねた。
「私は世界中のヒーローが団結して、AFOのような巨悪に立ち向かう、架け橋になれればと思っているんだ。情報を共有し、国の垣根を越えて、協力体制を築きたい。そのために尽力しようと思ってる。死穢八斎會が君を助けたように、ヴィランは一枚岩ではない。個々の欲望に従い、各々個別の損得勘定で動く。ヴィランとはそういうものだ。一時的に協力関係を結んだとしても、絆は利己的で脆い。だが我々は悪に対して、一枚岩になることができる。私はそのために動くつもりだよ」
「凄いですね。オールマイト
「緑谷少年、君は違うだろう」
「それは…」と言いかけて、出久は言葉を継げなくなる。
「今回の一件もそうだね。君は目の前の、助けを求める誰かを、救わずにはいられない。遠くの目標を追うより、近くの誰かを救う。それが君の生き方だ」
「それは、そうかも知れないけど」
「君には共に歩もうという者がいる。彼は君を欲して、君を必要としているのだろう」
「あ?誰がそんなこと言ったよ!オールマイト
「違うのかい」
 勝己は舌打ちしてそっぽを向く。「あんたが言うなら、そういうことでもいい」
 彼にはお見通しなのだ。もう随分と昔から、見透かされていたのではないだろうか。そんな気がする。
「緑谷少年、君もいつも彼を気にせずにはいられない。ならばその意味するところは、わかっているのだろう。もう君たちは子供の頃のような、傷つけ方をしなくてよいのだと思うよ」
 オールマイトはそう言って笑った。痩せた身体でも昔と変わらない。見た人を勇気づける笑みだ。


epilogue Right Now


 ヒーロー活動を終えて帰宅し、勝己はリビングのドアを開けた。ソファに座って雑誌をめくってきた出久が、お帰りと言って顔を上げた。
「雄英の講師の口は断ってきたのか」と問うと、出久はうんと頷く。
「戻っていいって言われたけど、今の僕に学校で教えられることはないからね」
「じゃ、こっち来んだな。いいんじゃねえか。うちなら今のてめえでも、役に立つからよ」
 部屋着に着替えて出久の隣に座り、身体を引きよせて抱きしめる。ふわふわの髪に、唇で触れ、項にキスをする。出久は携帯の画像を勝己に示して見せた。
オールマイトから、写真付きのメールが来たよ。カリフォルニアから」
「ああ、一緒にいる奴は、見たことあるヒーローだな。アメリカの相棒か」
 出久は勝己と同居することになった。事務所にするつもりだった空き部屋は、出久の部屋になった。でも当然寝室は一緒だ。ベッドはダブルベッドに買い換えた。
 勝己はベストジーニストの事務所に戻った。出久が攫われた時に、ベストジーニストから、戻って来ないかと誘いを受けていたのだ。出久が日本に残ると決めたので、勝己は話を受けることにした。
 情報網の広さにしても、事務所の規模の大きさにしても、動かせる人員数にしても、頼りになることが身にしみたからだ。出久はいつまた、厄介な事態に陥らないとも限らない。いや、自分から考えなしに困難に飛び込んでいく間抜けなのだ。
 上に従わなきゃいけないのは癪に触るが、今の自分では出久を抱えるには力不足だ。いつか独立するとしても、力を付け、ネットワークを作ってからだ。
 出久の事情も伝えて、同じく事務所に勤めさせることにした。目の届くところに置いておくのが最善策だ。
「喜んで受け入れよう。お前のサイドキックとして。彼の知識は事務所の役に立つだろう」
 とベストジーニストは快諾してくれた。
 それに、確証が持てないから出久には言ってないが、あの時出久はおそらく個性を使ったのだろう。OFAの残滓は出久の中で、眠っているだけなのかも知れない。オールマイトも短い時間なら、今でもトゥルーフォームに戻れるのだ。
 いつか出久が、ヒーローに戻る日が来る可能性はある。
 そのためにも、事務所に属しておくのは悪いことじゃない。身体も鍛えさせて、ヒーローとしての感覚を研ぎ澄ましておくのだ。いつでも時が来たなら再起できるように。
「それにしても、お前が人のために動くとは意外だったな」
 ベストジーニストは感心したように言った。勝己は鼻を鳴らして答える。
「クソデクのためなんかじゃねえよ。まるっと全部、俺のためだ」


END


副題タイトルはヴァン・ヘイレンのライブアルバム「ライヴ:ライト・ヒア、ライト・ナウ」から

Dreams(夢)
Right Here, Right Now(此処で、今すぐ)
Won't Get Fooled Again (二度と騙されない)
Ain't Talkin' 'Bout Love(叶わぬ賭け)
Man on a Mission(任務を追う男)
Best of Both Worlds(好いとこ取り)
Right Now(今すぐ)

 

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デート(全年齢版)

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爆殺王:おい、クソデクには付き合ってる奴はいねえんだな

 

切島:今んとこあいつに彼女いるとかいう話は聞いたことねえよ

 

爆殺王:は!だろうよ!

 

切島:で、お前はどうなんだよ

 

爆殺王:ああ?クソデクにいねえのに、んな浮ついたことしてられっかよ

 

切島:それってよ、緑谷に恋人ができるまで、お前も恋人作らねえってことかよ。緑谷に恋人出来たらどーすんだ

 

爆殺王:ああ?デクにンな相手ができるわけねえだろ

 

切島:わかんねえぞ。あいつ優しいからよ。緑谷に気がなくても、グイグイ押されたら付き合っちゃうかもしんねえぞ

 

爆殺王:はさなやたややはさ

 

切島:おいおい、何て書いてんだ。読めねえぞ。取り乱してんのか

 

爆殺王:俺は冷静だ!くだらねえこと連絡してくんな。うぜえわ

 

切島:お前が聞いたんだろーがよ。あいつに先越されるほうが、お前ムカつくんじゃねえかよ

 

爆殺王:デクが誰かと付き合えるわけねえだろ。オールマイトの話しかしねえオタクだぜ。集中すると人の話なんも聞かねえし。そんじょそこらの奴がついてけるかよ

 

うぇーい:あいつのことよくわかってんじゃんよ。じゃ、お前が付き合っちゃえよ、爆豪

 

切島:お、上鳴。うっす

 

うぇーい:うっす。なんか面白そうな話してんじゃん。混ぜろよな。お前が一番緑谷をよく分かってるってんだろ、爆豪。気になんだったらよ。お前が付き合っちゃえばいいんじゃん

 

爆殺王:さあまさたかむはます

 

切島:なんだ、また取り乱してんのか

 

爆殺王:うるせえ!俺はいつも冷静だ!クソが

 

うぇーい:俺はぴったりだと思うぜ、お前ら。破れ鍋に綴じ蓋っていうだろ。緑谷みたいな一見まともそうに見えて、ぶっ壊れた奴には、お前みたいな直情に見えて、実は沈着冷静な奴が合ってると思うぜ。マジで。な、切島もそう思うだろ?

 

切島:ああ、先越されることもなくなるし、一石二鳥じゃねえか

 

爆殺王:無責任なこと言ってんじゃねえよ。クソが

うぇーい:緑谷に聞いてみりゃいいじゃん

 

爆殺王:ああ?デクに舐められてたまるかよ

 

切島:緑谷は好意を示してくれた相手を、舐めたりしねえだろ

 

爆殺王:好意??はあ?誰が誰にだ

 

切島:お前ここまできて…

 

うぇーい:まあ、面と向かって告白して振られたら、その後どう付き合ったらいいのか、困っちまうよな

 

爆殺王:さたはたたさたかまなまほ

 

切島:落ち着け爆豪

 

うぇーい:じゃあよ、なんなら取り持ってやろうか?俺らが呼び出してそれとなく聞いてやるよ。OKだったら決まりだし、断られたらなかったことにできるしよ。直接言うんじゃねえから平気だろ

 

爆殺王:は!あいつがOKするわけねえ。クソが

 

切島:てことは、OKなら付き合いてえんだな?あいつの真意が、はっきりすりゃいいんだよな。じゃ、お膳立てしてやるからよ

 

爆殺王:勝手にしろ!


1


「緑谷、こっちだ、こっち」
 ファミレスの店内に入った途端に名を呼ばれた。出久は声のする方に視線を向ける。奥の窓際の席に、上鳴と切島が座っていた。上鳴が「こっちこっち」と手招きしている。
「ごめん、遅れちゃって。待たせちゃったよね」
「いや、そうでもねえよ。遅れるってライン見たから、こっちも合わせたしよ」
 切島は出久に隣の席を勧めた。
「うん。ほんと久しぶりだね。上鳴君、切島君」
「お互い新社会人だし、何かと忙しいよな」
 そう言うと、上鳴はメニューを広げる。
「夕飯まだだろ?腹減ったし、色々摘もうぜ。ファミレス飲みっていいよな、安くてさ。俺金なくてよ」
 昨夜、上鳴と切島の2人で、明日の仕事帰りに会わないかと連絡があった。切島が出張でこっちに来るという。二つ返事でOKした。
 雄英を卒業してから、級友達はヒーロー事務所に入ったり、大学に進学したりと、それぞれの道を歩み出し、新生活が始まっていた。
 毎日クラスで顔を会わせていたのに、上鳴も切島も随分大人びてみえる。数カ月経っただけなのに。不思議な感じだ。
 かっちゃんはどうしてるかな。2人の顔を見るとつい思ってしまう。
 勝己は自分から人とつるむ方じゃなかったけれど、昔から周りに人が集まってきた。雄英にいた頃は、彼らのような元気な男子が、よく勝己の周りにいた。
 一年生の頃、上鳴に勝己が怖くなかったのか、と聞いたことがある。
 上鳴は言った。「だってよ、あいつ意外と良い奴じゃん。ああ見えて親分肌で面倒見いいしよ。テスト勉強ん時とか結構助けてもらってるぜ」それに、と不敵な表情で続けた。「俺はあいつと喧嘩しても、いい勝負だと思ってるからよ」
 強個性ならではの返事だった。
 切島に聞いた時は「あいつ強いし男気あんじゃん」と彼らしい答えが返ってきた。
「俺みたいな微妙な個性だと、やっぱ憧れちまうよな」と苦笑いする彼に、幼い頃の純粋な気持ちで、勝己を仰いでいた自分がダブった。
 小さな頃は自分も彼らと同じように。混じり気のない感情でもって、勝己と接していたのだ。万能感に溺れて、彼が変わってしまうまでは。
 でも、自分に見えてないだけで、今の彼の中にだって、あの頃の勝己がいるのかも知れない。無邪気で悪戯っ子な彼が。だからこそ幼い自分は、彼が変わってしまっても、惹かれていたのだろうから。
 ともあれ、彼らの言葉は、勝己への認識改めさせずにはいられなかった。勝己の乱暴な口調と態度は、三年間変わることはなかった。けれども、反射的なものだと思えば、次第に口の悪さにも慣れてきた。
 勝己との関係が段々好転してきたのは、他の見方を促してくれた、彼らのおかげでもあるのだ。
 卒業後、勝己はヒーロー事務所に入り、一人暮らしを始めた。寮生活で毎日顔を会わせていたのに、今はほぼ会うことがない。ヒーロー活動の現場でごくたまにニアミスするくらいだ。
 おかげで心穏やかな日々だけれど、いつも心をざわつかせていた存在がいない状態は、妙に気持ちを落ち着かなくさせる。
「なに食う?俺、唐揚げとピザがいいな。お前らは?」
 上鳴メニューを差し出した。受け取った切島はページをめくる。
「俺は刺身とタコの唐揚げと、枝豆は外せねえな」
「僕はええと、いっぱいあって決められないよ」
「焦んなくても、後で追加すりゃいいだろ。じゃ、とりあえず頼むな」
 ウエイトレスを呼んで注文すると、席を立って順番にドリンクバーに向かった。
「お前ら近況どうだ。俺はなかなか長続きしなくてよ。次の事務所が決まるまでバイト生活だ」
 レモンスカッシュを手にして、上鳴は席に着いた。
「お前の個性すげえ便利だけどな。攻撃にも使えるし、電力も使えんじゃん」切島が言った。
「そうそう、引く手数多なんだぜ。だからなかなか決め手がねえっていうか、決められねえんだよな」
「お前なあ、だから金欠なんだろ。真面目にやれってんだ」
「まだ自由にしてえっていうかさ。なあ、緑谷はなんか知んねえ事務所に行ったよな。もっと有名なとこ行くかと思ったぜ」
「うん、グラントリノのとこだよ。まだ教えてもらいたいことがいっぱいあるんだ。オールマイトも時々来てくれるんだよ」
「切島、お前はファットガムんとこ行ったよな」
「ああ、インターンで世話になったしな」
「大阪どうよ」
「居心地いいぜ。食い物美味いし、ノリが良いしよ。でもやっぱ、ファットガムがマジでカッコいいんだよ。ああなりてえよな」
 インターンの話から、自然に話題は高校の頃の思い出に移った。
「1年の頃、お前と爆豪、すっげえ喧嘩したよな」上鳴はにやにや笑って言った。「謹慎くらうほどの喧嘩なんて、あいつならともかく、緑谷は意外だったぜ」
 切島が肘でこずいた。「時々熱いよな、お前」
「あー、うん、まあ僕も意外だったというか、勢いで」
 売られた喧嘩を買うなんて、我ながら、らしくなかった。勝己が悩んでるなんて思わなくて、というより、あの勝己が悩むことがあるなんてと驚いた。そんな彼のSOSだ。助けなきゃいけない、自分にしか出来ないことなんだと思った。受けて立つしかなかった。怒られたけど、あれで良かったんだ。
「やっぱ男は拳で語らなくちゃな。殴り合って分かり合うって、男らしいぜ」
「いや、かっちゃんとわかり合ったかどうかは、微妙だけど」
「あれからお前ら、無闇に揉めなくなったじゃねえの。結果オーライだぜ」
「雨降って地固まるってやつだよな。話さなきゃわかんねえことはあるからよ」
 切島に追従して、上鳴がうんうんと頷く。本当にその通りだ。
 彼らと話していて思う。グラウンドベータで喧嘩した時。勝己は言っていた。出久が何を考えているのか、ずっとわからなくて、苛ついていたのだと。見下ろしていると思ってたなんて、吃驚した。観察してただけなのに、そんな風に取られてたなんて。
 とはいえ追いつきたかったのは本当だ。それは以前に彼にも言ったことだ。個性の性質も違うし、追い越しようがないけれど、気持ち的な部分でというか。
 もっと早くに誤解を解いてればよかったと思う。でも言ってくれなきゃわからない。以前のかっちゃんは、僕の話なんてまるで聞いてくれなくて、会話にならなかった。本当、人が何考えてるかなんて、わからない。
「どうしたよ、緑谷、ぼうっとしてよ」
 上鳴の声に、過去の世界に沈んでいた意識が、現在に引き戻される。
「うん、益体も無いことだけれど、もしかっちゃんと普通の幼馴染らしく仲良くしてたら、君達のような関係になれたのかなって思って」
「あー、ちょっと無理じゃねえかな」
 上鳴にさらっと返された。恥ずかしくなって、言い訳じみた返事をしてしまう。
「そうだよね。流石に性格が違いすぎて合わないよね、だったらいいなって思って」
「いや、違うって、誤解すんなよ!無理ってのはそういう意味じゃねえよ。じゃなくて、爆豪にとって難しいっつーか、別の意味でよ。いい意味で!なあ、切島」上鳴は焦った様子で切島に振った。
「そうそう、爆豪はさ、自分だけの測りを持ってて、他人の評価なんて、気にしねえ奴だったろ。俺らはもちろん、先生の評価すら屁でもねえ。でも、唯一、お前にどう見られてるかだけは、気にしてんだよな。なんつーか、緑谷は特別なんだよ」
「そんなことないと思うよ」
 フォローしてくれる気持ちは嬉しいけど、友達になれないのに特別なんて、意味がわからない。
「さてと、ところでさ、」と何気ない調子を装って、上鳴が口を開いた。
「お前さ、浮いた噂全くねえけど、付き合ってる奴いたりすんの?」
「ううん、ないよ。全然」
「交際に興味ない口か?」
「え?そんなことないよ。縁がないだけだよ。ヒーローの仕事の忙しさにかまけて、そっちは疎かになってるだけ」
「じゃあよ、紹介したい奴がいんだけどよ。どうだ?」
「ええ?今日の話って、そういう話だったの?」
「まあな、お前も興味あんだろ?」
「それはまあ、なくはないよ、でも、こ、心の準備が」
「こういうのは勢いだぜ」
「そういうもんなの?」
「そうそう、考えるよりノリと勢いだぜ」切島も調子を合わせた。
 うわあ、ドキドキする。お付き合いするなんてはじめてだ。中高生の頃は恋愛にほんのり憧れたりしたけれど、結局、雄英三年間は何もないままに卒業。社会人になったらますます縁遠くなった。
「その子って、どんな人?」
「ああ、まあ、いい奴だぜ。ちーっと気が強いけど」
 何故か上鳴は口ごもった。
「か、かわいい子かな」
 顔はそんなに気にしないけど、でもちょっとは気になる。
「あー、面はいい方だな。割と整ってるぜ」
 と言いながら、上鳴の視線が泳ぐ。何かおかしい。
「上鳴、言わねえわけにいかねえだろ」
「だよなあ…言わねえで会わせちゃえばいっかと思ったけど」
 切島に窘められ、上鳴はくるっと向き直って真顔になった。
「あのな、紹介したい奴って、爆豪なんだ」
「え?」
「爆豪がお前と付き合いたいらしいんだ」
「え?何言ってんの?」
「冗談じゃなくて、マジだぜ」切島が上鳴の後を継ぐように言った。
「あいつモテるくせに誰とも付き合わねえし。興味ねえのかって聞いたら、逆にお前に恋人がいるのか聞かれたんだよ」
「それ、ただ聞いただけじゃないの」
「信じねえのかよ。まあ、そうだよな。仕方ねえ、見せてやるよ。これがそのやりとりした時のグループラインなんだけどよ」
「かっちゃん、グループラインしてるの?へえ、意外」
「高校んときあいつに勉強のこと聞くために作ったグループ「バカの壁」だ。ひでえだろ。あいつの命名だ。上鳴もいるし、常闇とか瀬呂もいる。そのまま高校ん時の奴との連絡に使ってんだ。で、こん時はあいつに近況聞いて、えーと、こっから読んでみろ」
 切島はスマホの画面をスクロールすると、出久に差し出した。

「というわけだ。信じるか」
「信じがたいけど、信じるしかないよね…」
 さっきの、友達は無理ってそういう意味だったのか。額にじっとりと変な汗が出た。
「僕、押されたら付き合っちゃうように見える?」
「見えるぜ。てか、押されねえとつきあわねえって感じだな」
 切島は揶揄うように言った。そんなことない、とは言えない。ヒーローになった今でも、自分が誰かの恋愛対象になれるなんて思えない。きっと恋愛ってふわふわして甘い。そんな想像をするけれど、別世界の気がしてならない。
「お前が独り身でいる限り、爆豪は諦められねえんだよ。あいつは誰とも付き合えねえんだ」
「でも、でも、あのかっちゃんだよ。そういう雰囲気なんて、今も昔も片鱗もないよ」
「お前が気づいてねえだけだ。俺らは近くにいたからわかってんだよ。でなきゃあんなプライドの高い奴が、俺らの計画に乗ってくるわけねえだろ。あいつは自分じゃ絶対言えねえんだ」
「緑谷にはいつも偉そうでいたいんだろーな。ほんっとめんどくせえよな」上鳴が呆れたように口を挟む。「お前がダメだってんなら、きっぱりふってくれりゃいいんだ。そしたらスッキリして、あいつも前に進めんじゃね」
「明日の土曜日、待ち合わせ場所に、上鳴があいつ連れて来るからよ。もし嫌なら、お前来ないでくれよな。それが返事ってとこにするからよ。何もなかったことにして、今まで通りに出来るしよ。でももし付き合ってもいいってんなら、迎えに行くから、俺と一緒に来てくれよな」
 最終列車に飛び乗って、家に帰って来た。
 遅くなってしまった。リビングの灯りは既に消えている。母は寝ているのだろう。音を立てないように部屋に入り、ベッドに突っ伏す。平日は始発で出ないといけないから、母と顔を会わせるのは週末くらいだ。毎日寝るためだけに帰っているようなものだ。
「あー、どうしよう」落ち着いてよく心に問う。
 本気なのかっちゃん?彼らが言うなら本当なのだろう。かっちゃんが嘘をつく理由なんてない。証拠のラインだってあるんだ。
 人と付き合ったことなんてないし、そもそも考えたこともない。自分にとって晴天の霹靂だ。紹介されるのが男で、しかも相手が勝己だなんて。現場でたまたま会う時だって、恋愛を匂わせる雰囲気なんて微塵もないのに。
 でも本当に勝己が思ってくれているのだとしたら。
 幼い頃からの憧れと畏怖の対象。幼馴染に抱く思いとしては入り組んでいて、名前のつけられない感情を引き起こす幼馴染。彼が恋人になるなんて想像もできない。不安しかない。
 ならやめたほうがいいのかな。けれども、理由は?
 勝己は高校の時までは荒々しくて、粗暴だった。いや、過去形ではなく今も粗暴だけど、卒業後の彼は、真面目にヒーロー活動をしている。気が合うかといえばまるで合わない。でも、昔と違って、普通に話だってできる。
 いつも心の中にいて、気にせずにいられない存在。
 なぜだろう。おかしいな。問題点を探しても、確固とした断る理由にならない。ただ、漠然とした不安という感情だけだ。ならば。
 出久は身体を起こした。付き合いたいと言ってくれたのだ。元より恋愛自体が自分にとって未知の世界なのだ。たとえ相手が勝己でも誰であっても、未知なのは同じじゃないか。挑戦するいい機会だと思おう。飛び込んでみなければ何も変わらない。


2


「おお、来たんだな。緑谷」
 駅前のコンビニの前に立っていた切島が、こちらに向かって手を上げた。出久は改札を出ると足早に駆け寄る。
「うん、約束通り、僕行くよ」
「おお!そうこなくちゃな」
「かっちゃんの真意を知りたいんだ」
「おい、知るイコール付き合うことになんぞ。本当にいいのか?流されてねえよな」
「うん。大丈夫。僕決めたから」
「そうか。いやー、良かった。俺らもあいつに殺されないで済むわ」
「え?命懸けだったの?」
「いやいや、冗談だって。でもよ、ハッパかけたからには、いい方向に転がって欲しいじゃんよ」
 商店街に入ると、いきなり人の波に飲まれそうになった。休みの日は人でごった返している。はぐれないように切島の背中を追った。
 漸く待ち合わせのファーストフード店に到着した。外に設置してあるテーブル席に、ホッとした表情の上鳴と、険しい表情の勝己が座っている。
「遅えわ!クソが」
 まだ約束の時間前だけど、と思いつつ「ごめん」と出久は謝った。
「行くぞ。デク」勝己はすぐに席を立った。「え?皆でご飯食べるんじゃないの?」
「いやいや、デートの邪魔はしねえよ」
「じゃ、後はお若い2人でごゆっくり」
「うるせえ。クソが!さっさといけや
 上鳴と切島はにやにや笑いながら、店内に入っていった。
 すぐにふたりきりにされるなんて、思わなかった、どうしよう。
 勝己は出久に向かい「離れんなよ、クソナード」と声をかけた。緊張してしまい、うんうん、と数回頷く。
 再び商店街の人混みに戻ることになった。勝己はすいすいと、器用に人の間をすり抜けてゆく。出久は必死で背中を追ったものの、人の波にぶつかり押されてしまった。見失いそうだ。
「かっちゃん、待って」と声をかけた。
「ああ?」と勝己は振り向いて、眉根を寄せる。「てめえ、ついて来いっつったろーが」
「だって、かっちゃん、足早いよ」
 人混みの中でほらよ、と伸ばされた手を掴んだ。力強く温かい。
 散々な目にあった思い出しかない、爆破の個性を持つ彼の掌。それを頼もしいと思うなんて。
 漸く商店街を抜けることが出来た。ほっとする。しかし手は繋げられたまま、離されない。
 男同士で手を繋いで、往来を歩いているなんて。恥ずかしくなり、そっと指を緩めた。しかし、勝己の手はさらにぎゅっと掴んでくる。
 え?まだ、離しちゃだめなのか。かっちゃんの表情は変わらないけど。付き合ってるから、なのかな。ぽっぽっと頬が熱くなってきた。
 周りの人から、どう見られているんだろう。つい人目を気にして、キョロキョロしてしまう。でも誰も自分達を気にしてないようだ。今の時代、性別も体格も個性によっても、多様なカップルがいるから、珍しくないのだろうか。
 ショーウィンドウ自分達が映っている。周囲に溶け込んで違和感がない、ように見える。だんだんと手を繋いでることが、気にならなくなってきた。
「ここだ」と勝己はレトロ風の洋食屋の扉を開けた。りん、と澄んだドアベルの音が鳴る。
 繋いだ手がやっと解かれた。ほっとしたけれど、少し寂しく感じる。
 店内の灯りは抑えられていて仄暗い。燻んだ木造りの内装はヨーロッパ風に揃えられ、アンティークな時計やバースタンドがある。雰囲気があってかっこいい。案内されたテーブルには、グラスにロウソク型の電球が入っていて、暖かな光が灯っている。ちかちかと瞬いて本物の炎のようだ。
ビーフカツでいいな。この店の名物だ。てめえ、カツ好きだろ。」
「うん、好きだよ。豚カツとかメンチカツならよく食べるけど。へえ、牛カツなんて初めてだ」
 値段も意外とリーズナブルだ。勝己はウェイターを呼んで注文を取り、メニューを閉じると黙ってしまった。
 緊張で喉が乾いた。お冷を口に含んで舌を潤す。なんか、話題話題。大丈夫。今のかっちゃんは無闇に怒ったりしない、はずだよね。もじもじと顔を上げると、勝己の視線とかちあった。
「デクてめえ、まだ家から通ってんだな。てめえの職場から遠いのによ」
 勝己が先に口を開いた。
「うん、事務所まで特急で数時間だよ。でも通えなくはないし」
 始業時間が特に決まってないから、家から通えるのだ。でもできるだけ、早起きするようにしている。帰り時間はヒーロー活動次第だから読めない。終電を過ぎてしまって、事務所に泊めてもらうこともしばしばある。
「俺のマンションからのが近えよな」と勝己は職場の住所を告げた。
「へえ、事件現場で時々会うし、同じ市内だとは知ってたけど、近所だったんだね。かっちゃんはすぐ一人暮らし始めたよね」
「は!家から事務所まで距離あんだ。たりめーだろーが。元々卒業したら、家出ると決めてたからよ」
「一人暮らし始めた人多いね。皆、全国に散ってしまったもんね」
 料理がテーブルに置かれた。しばし舌鼓を打つ。牛のカツは豚とはまた違う味で新鮮だ。美味しい美味しいとパクつく出久を、勝己はガキかてめえ、と呆れたように揶揄する。
「オイデク、来週空いてんのか」
 まっすぐに出久を見据えて、勝己が尋ねた。暖色の灯りに浮かび上がる表情が、妙に真剣で緊張する。けれど、開いてるって?何を聞きたいんだろう。
「うん?何が?」
「週末の予定だ。わかんだろーがよ、クソが」
「え?僕ら、来週も会うの?」
「ああ!たりめーだろーが!」
「ごめん。そっか、そういうもんか。予定確認しないとはっきり言えないけど、多分空いてるよ」
「じゃあ、来週土曜日の10時、てめえんちに迎えに行く。いいな」
 直ぐに次の約束を取り付けられ、時間まで決まってしまった。
 店を出ると、勝己は手を差し出した。繋げってことだよね、違うのかな、と逡巡していると、引っ手繰るように手を掴まれた。再び手を繋いで往来を歩くことになった。今度は五本の指を絡ませるようにして。
 その日はゲームセンターやスポーツ店に立ち寄ったり、街を散策して、駅で別れた。
 階段を登りかけて振り向いた。改札を隔てた向こう側に、勝己は去らずに立っている。出久と視線が合うと、勝己はしかめ面して顔を背けた。
 家までの帰り道、団地の手前の角を曲がれば、勝己の実家がある。どこから帰っても、この曲がり角まではいつも一緒だった。駅で別れるのは変な感じだ。
 手のひらを広げてみた。肉厚で力強い掌の感触が残っている。


3


 インターホンが鳴った。席を立とうとした母に自分が出るからと言い、慌ててドアを開けると、勝己が立っていた。
 幼い頃の姿がフラッシュバックする。
 まだ勝己との関係に距離ができる前までは、家によく迎えにきてくれた。
 自分は幼稚園や小学校から帰ったら、パソコン開き、オールマイトの動画に齧り付いて、家にこもりがちだった。でも晴れた日には、いつも勝己が呼びに来た。
「さっさと来いや、行くぞ」
 あの頃は勝己が誘いに来ると、喜んで外に遊びに出ていたのだ。
 勝己は出久の顔を見るなり眉根を寄せた。
「まだ着替えてねえのかよ!遅えわ、クソデク。俺が来る前に準備しとけとや」
 まだ10時には15分も前なんだけどな、と思いながら「ごめん」と謝っておく。
「てめえ、先週この映画見てえって言ってたよな」
 スマホ画面を目の前につきつけられた。表示されているのは映画会社のサイト。今月封切られたばかりの、ハリウッドのヒーロー映画だ。
「うん。このシリーズは全部見てるよ。配信されるの待って、見ようと思ってるんだ。役者の個性が本物だから、迫力が凄いんだよね。でも今回の新キャラは時間を操る超人だから、さすがに…」
「うぜえ、薀蓄はいらねえわ。てめえはこれ見てえんだな。なら見に行くぞ」
「でも、待てば配信で見れるんだよ」
「ああ?クソが!さっさと着替えろや。行くぞ」
 勝己は有無を言わせず、出久を急き立てた。電車に乗って移動し、映画館に到着した。めあての映画は3階のようだ。上映スケジュールを確認してほっとする。
「もうすぐ始まるね。いい席が残ってるといいけど」
 発券機でチケットを買おうと財布を出すと、勝己に制せられた。
「てめえが遅えからもう買ったわ」
 手に持った2枚のチケットをひらっと示す。一緒にいたのにいつの間に買ったのだろう。
「あ、ありがとう。じゃあ僕の分払うよ」
「いらねえ」
「え?でも」
「いらねえって言ってんだ!クソが」
「だって、奢ってもらう理由がないよ」
「クソナードが!なら飲みモンでも買えや」
「え、全然安いけど。じゃあポップコーンも買う?」
「いらねえ。映画見てんのにボリボリうるせえ音させんのは、性に合わねえ」
 ブラックのアイスコーヒーと炭酸飲料を買って、席に着いた。上映時間が迫ってくる。わくわくしてきた。
「浮かれてんな。てめえ」
「映画館で映画見るなんて、久しぶりかも」
「俺もだ。つーか、家でも映画なんざほとんど見ねえ」
 チケットの値段は高いし、好きなシーンを繰り返し見たり出来ないけど、大画面と臨場感のある音響で見るのは楽しみだ。ここにいる皆がわくわくしながら上映を待っているんだ。一緒に一つのものを見る一体感っていいな。
 でも、かっちゃんはそんなに映画見ないんだっけ。僕に合わせてくれたのか。
 客電がすうっと消えた。次回上映作の宣伝映像が始まる。気分が高揚してきた。
 ふと、勝己の手が手の甲に置かれた。驚いて胸が跳ねる。
 爆破の衝撃に耐える、皮の厚いゴツっとした温かい掌だ。ただ置かれてるだけ、なのに。何故だろう。動悸が早くなってきた。
 画面が何かに遮られ、見えなくなった。
 真っ暗な影は勝己の顔だ、表情はわからない。スクリーンが見えないな、と顔を傾ける。勝己の顔が近づいた。
 柔らかいものが唇を掠めて、すっと離れた。
 唇に残る微かな温もり。かっちゃん僕にキスした?いや、今のはキスだったの?事故じゃないの?柔らかくて、温かくて、ぷにゅっとして。
 映画会社のマークが出て、本編が始まった。けれど、映画の内容が全然頭に入ってこない。
 勝己の指にするっと手の甲をなぞられた。擽ったいのにドキドキする。骨に沿ってするすると撫でられ、また手の甲の上に重ねられ、ぎゅっと握られる。
 スクリーンの光に仄白く照らされた勝己の横顔は、いつになく静かで、表情は読めない。
 エンディングが流れ、客電が着いた。
 顔が赤くなってるのではないだろうか。手で頬を覆い「お、面白かったね」と誤魔化すように言った。本当は勝己の悪戯が気になって映画どころではなかった。
「ああ」と生返事が返ってきた。
 ロビーに出ると「おいデク」と呼ばれ、腕をくいっと引かれた。映画館の片隅に連れていかれる。
 壁に背を押し付けられ、顎を掴まれて再度キスをされる。やわらかな感触。さっきのは事故ではなかったのだ。唇が離れるとほうっと息を吐いた。でも鼻先が触れるほどに顔は近いままだ。
「口開けや」
 言われるままに薄く口を開いた。勝己の唇が被さる。今度は掠めるだけじゃない、粘膜の擦れ合う濃厚なキス。水音が口内から鼓膜を震わせる。
 唇が離れても、頭がぼうっとして、胸の動悸がおさまらない。
 駅から歩く夕暮れの帰り道、唇の感触を思い出してまた鼓動が早くなる。今も近所に住んでたなら、帰り道もずっと一緒だった。ちょっと寂しく思ってしまう。でも、きっと平静でいられなかっただろうから、これで良かったのかも。
 来週は行くまでに準備しとけや、と勝己は言った。またデートの約束をした。
 ふわふわして甘い。これが恋愛なのかな。


4


 大水槽の中を揺蕩う海月の群れ。薄いレースの衣を着ているような、半透明の儚い幻。でも本当はゼリーのような手触りなのを知っている。
 綿飴をちぎったような雲の浮かぶ空
 波打ち際を撫でる白い泡。
 青い海から顔を出した薄黄色の頭
 波を蹴立てて近づいてくる幼い勝己。
 ぽてりと手に乗せられた、透明なすべすべした塊。
 これは何なのと問うと、海月だと言った。
 刺されると慌てたら、ミズクラゲは刺したりしねえよと笑った。
 ひんやりとして身動きしない、つるりとした手触り。
 本当に生き物なんだろうかと思った。
 掌に乗せたまま海水に浸して離したら、海月はするりと波に浚われ、ゆらゆらと泳いでいった。
 陽光の下の眩ゆく煌めく波
 遠い日の夏の海。
 ここは海ではないけれども。水槽の中を青い照明が淡く照らす。館内にいる人々も静かに影に沈み、音もなくて深海のようだ。
 まるで夜の海に、2人きりでいるかのような錯覚を起こす。だけど何故だろう。
 出久は隣に立っている勝己を窺い見た。ほの青く照らされた顔は静かで、表情は読み取れない。
 今日は勝己の車で連れてこられた、水族館の中にいる。
 お昼過ぎに「おい、着いたぞ。出て来いや」と勝己から携帯で呼び出された。
 ドアを開けても誰もいなくて、でも呼ぶ声が聞こえて、下を見下ろした。団地の入り口前に停車した目立つ赤い車の中から、勝己が姿を見せた。てっきり今日も電車だと思っていた。
 勝己の車の助手席に座るのは、初めてなので緊張した。でも、海沿いの道を走るのは爽快で、リラックスしてくると、自然に感嘆の声が出た。
 しかし、初めこそ返事を返していた勝己の言葉数は、目的地に近づくにつれ、次第に少なくなっていった。
 ここに来てからは、ほぼ沈黙している。
 どうしたんだろう。僕何かしたのかな。
「オイ、クソデク、今日で何回目のデートだ?」
 やっと勝己は口を開いた。
「え?3回目だよね?」
「そうだ。3回目ともなれば決めなきゃいけねえ。わかってんだろうな」
「ええ?」
 出久は驚いて聞き返した。付き合うかどうか決めるってことなのか?まだ勝己は決めかねていたのだろうか。いや、初めから付き合ってから、決めるつもりだったのか。
 そういえば、勝己からは好きとも何とも言われてない。上鳴くん達がそう言ってただけで、勝己自身の気持ちを聞いたわけじゃないのだ。
「僕らまだ付き合ってなかったの?」
 出久は問うた。やっぱりやめるって言われたらどうしよう。急に置き去りにされた気分になった。
 勝己に会うのが、楽しみになっていた。こんな風に一緒に過ごすのが、ずっと続くのだと思っていた。気持ちが彼にどんどん傾いて行くのを感じていた。もうおしまいなのなら、この気持ちはどこに行けばいいのだろう。元になんて戻れない、戻せない。
「あ?違えわ!死ねやクソカス!ざけんな!てめえはまだ、んな世迷言を。クソカスが!クソが。クソが!」
「か、かっちゃん?」
 あまりの剣幕に圧倒された。勝己は射るような目で出久を睨みつける。
「付き合ってねえのかだと?てめえよくもそんな戯言を言えるよなあ」
「でも、君は何も言わないから」
「言わなきゃわかんねえのか!クソが!てめえはこ、恋人だろうが」
「恋人?」ボワッと顔が熱くなった。「3回しか会ってないのに恋人って、わかんないよ。実感ないよ」
「ああ?わかんねえだと?ざけんな!そうでなきゃあ、俺が貴重な休日の時間割いて、デートしたりするかよ。前もってチケット買ったりするかよ。わざわざ車出して、水族館くんだりまで来るかよ!わかれやボケ!」
 安堵が胸に広がった。こんなにも嬉しくなるなんて。
「良かった」頬が緩んで、笑みが零れる。
「ああクソ、クソボケが!来いデク!」
 勝己に腕を掴まれ、引き摺られるように水族館を出た。車に押し込まれる。
「クソがクソが!」と連呼しながら勝己は車を飛ばす。
「てめえは自覚が足んねえようだな。クソデク。決めるってのは覚悟だ。俺のもんになる覚悟だ!つっても、今更てめえにはもう選択権はねえ。確認しただけだ」
 海沿いの道から進路が変えられた。帰り道ではない方向だ。街中を走り、タワーマンションに到着した。地下の駐車場に車を停め、上に上がった。勝己がカードキーをタッチすると、自動ドアが開いた。
「ここ、かっちゃんのマンション?すごいね」
「クソが。セキュリティを考えりゃ、これくらい普通だ。プロヒーローの常識だろーが」
 堅実な勝己らしい返答だった。エレベーターは上昇し、扉が開いた。うっかりして見てなかったけど、何階なんだろう。廊下にある細い窓から夜景が見える。窓の半分が以上が夜空ということは、相当上の階からの景色だ。
 腕を引かれ、勝己の部屋に入る。壁にある機械にカードキーを差し込むと、自動で足元の灯りがついた。廊下を抜けるとリビングがあり、カーテンのかかった大きな窓がある。リビングの間接照明の灯りも自動でつくようだ。壁がほの明るい光に照らされている。
「灯りのスイッチは?」
「あ?ついてんだろ。これで十分だ」
「ちょっと暗くないかな」
 問うと何故か睨まれた。
「景色見ていい?」と聞くと「後にしろや。その前にシャワー浴びろ」と浴室に押し込まれた。
 ひょっとして、今から?
 勝己の部屋に2人きり。身体を洗っていると、じわじわと実感がわいてきた。頭がふわあっと熱くなってくる。かっちゃん本気なんだ。
 浴室を出ると、すぐに勝己が入れ替わりに入った。勝己がシャワーを浴びてる間、悶々と考える。服は着ていいよね、とシャツに袖を通す。
 カーテンをそっと捲った。向かいのビルはホテルかな。ガラス張りのエレベーターが上がって行く。眼下には街の灯りが散らばって星のようだ。
 カーテンを摘む指先が震えているのに気づいた。いつかするのかなとは思ってたけど、もっと先だと思ってた。
 それに、何も調べてない。男同士でどんなことする気なんだろ。調べたらわかるだろうけど、なんて言葉で検索すればいいんだろ。
 かっちゃんは洗うの早いから、すぐ浴室から出てきてしまう。時間がない。
 そもそも、大事なことを確認してない。それ次第で、準備も心構えも変わってくる。
 出久は携帯を手に取り、ラインを開いた。


5


デク:@切島 今時間ある?

 

切島:緑谷か、どうだ、爆豪と上手くやってるか?

 

デク:うん。それで、切島くん、あの、聞きたいんだけど、男同士だと、あれの時どうするのかな

 

切島:あー…、なるほどね。まあ、やるこたあ男女と変わんねえんじゃねえの?人間だし

 

デク:でもその、男女なら役割がはっきりしてるよね。かっちゃんは男役と女役とどっちのつもりなんだろ

 

うぇーい:おっとお、面白い話してんじゃん

 

切島:おう、上鳴

 

うぇーい:おいおい、そりゃあ、愚問だぜ、緑谷。あの爆豪だぜ。わかりきってんじゃねえか

 

デク:そ、そうだよね。やっぱりそっかあ

 

うぇーい:なに、お前ら、もうそこまでいってんのか

 

デク:違うよ。そのうちそんな時が来たらってことだよ。何も調べてなくて。でも、さ、触りっこくらいだよね。初めてだもんね

 

切島:そーだなー、いきなりはねえだろ。あいつも多分経験ないだろうしな

 

うぇーい:いやいや、甘えんじゃねえか。爆豪だぞ。手加減する玉かよ

デク:そ、そうか。でもなんか用意必要だよね

 

うぇーい:ラブホなら色々揃ってんだろ

 

デク:いや、普通に部屋だから、ああ、違う、普通のホテルの部屋だった場合ってことだよ

 

切島:緑谷、ここまで来て、切羽詰まったお前の状況が、わからねえ俺らじゃねえぞ。爆豪んちかよ。ならきっと用意…

 

 浴室のドアが乱暴に開けられ、驚いて心臓が飛び出そうになった。
「おい、デク!」と勝己が怒鳴った。
 切島からの文面を読みきれず、慌ててスマホの電源を切った。タンクトップとハーフパンツを身につけた勝己は、出久を見て顔をしかめる。
「ああ?んだてめえ、しっかり着込みやがって。しかもスマホ持って何してやがる」
「な、なんでもないよ」
「おいこら。見せろや」
 ズカズカと近づいてきた勝己に、あっという間にスマホを取り上げられた。
「あ、あ、かっちゃん」
 勝己は「最近使ったアプリ」を確認し、「ふん、あいつらとのグループラインかよ」と言うとラインを開いた。画面を見る勝己の目が、みるみる釣り上がってゆく。ああ、やばい。
「てめえざけんな!奴らに何聞いてやがんだ!クソナード!阿呆かよ」
「ごめん、僕動転してて」
 それとなく尋ねるつもりだったのに、彼らに気取られてしまった。かあっと?が熱くなる。勝己は烈火の如く怒ってる。何してんだろ、僕。
「クソがぁ!」と吐き捨てて、勝己はスマホをソファに放り投げた。
 肩でぜいぜいと息をして、頭から湯気が出てるようだ。本当に湯気出てる。風呂上がりだからか。そうじゃなくて、どうしよう。怒らせてしまった。
「だが、覚悟はしてるってこったな。クソデク。知りてえんなら教えてやるわ」
「かっちゃん?」
 振り向いた勝己は、にかっと悪辣に笑っている。
 肩を抱かれて、ベッドルームに連れていかれ、押し倒された。
「こういうことだ。てめえは俺の下だ!」
 勝己は出久の下腹に乗り上げ、馬乗りになった。ハーフパンツが押し上げられ膨らんでいるのが目に入る。
 かっちゃんのかっちゃんが、もうかっちゃん状態だ。なんでもうこんなに?
 出久の両腕はシーツに押し付けられ、拘束された。
「触りっこだけとか有り得ねえわ。ガキじゃあるめえし。フルコースに決まってんだろーが」
「ちょ、かっちゃん待って」
「は!今更嫌だとか聞かねえぞ。奴らに知られちまったんじゃあ、もう引くわけにはいかねえしよ。引くつもりはハナっからなかったけどな」
「そ、そうじゃないけど」
 雰囲気も前触れもなく、始まってしまうのか。付き合うことすら未知だった自分にとって、展開が急すぎる。目が回る。
「てめえ、怖気付いたのかよ」
「まだ早すぎるかな、て」
「段階は踏んだ。てめえに心の準備時間は十分やったろーが」
「でも、3回しかデートしてないのに」
「黙れや、クソが」
 勝己は屈み込み、顔を近づける。「どんだけ待ったと思ってんだ。観念しろや、クソデク」


6


 カーテンを開けると、早朝の明るい日差しが差し込んできた。ダイニングが眩い光に満たされる。出久は窓の外を見下ろした。
 見晴らしがいい。遥か向こうには港があるのだろう。荷下ろしのクレーンが見える。昨夜はビルの窓灯りが星のように見えたけれど、彼方にあるのは高層ビル以外の何者でもない。
 キッチンから勝己が顔を出した。「あり合わせのもんだ」と言いながら、テーブルに朝食を乗せた盆を置く。皿には温めたクロワッサンとベーコンエッグとコーヒーが乗っている。
 昨夜は疲労と痛みでとても動けず、シャワーを浴びた後、勝己の部屋に泊まった。今もあそこにまだ挟まってるみたいだ。
 セミシングルのベッドに、勝己に抱きしめられて眠った。背中に感じる温もり。微睡みの中で、ダブルにしねえとな、と勝己が呟いてたような気がする。
「おいデク、来週末から同棲だ。迎えに行くからな」
 クロワッサンを齧りながら、勝己が告げた。びっくりして顔を上げる。
「ええ!早すぎるよ」
 昨晩、半ば脅迫まがいに責められて根を上げ、要求を飲むしかなかった。しかし、来週だなんて。
「てめえはうちに来るっつったよな」
「言ったよ、言ったけど」
「早かろうが遅かろうが、同じだろうが!それまでに、最低限の身の回りの荷物をまとめとけや。部屋の準備はしておいてやる。細けえもんはおいおい、揃えていきゃいい」
「待って、聞いてよ、かっちゃん」
「ああ?ぐだぐだ言ってんじゃねえ。てめえはOKしたろーが!もう決定事項だ」
 たった3回の逢瀬で全部決まってしまった。あれよあれよと事態が進んでしまい、思考が追いつかない。迷う暇は与えられないようだ。
 強引で自分勝手で、僕の言うことなんて、何一つ聞いてくれない。
 でも奇妙なことに、今はそれでも、断る理由が見つからないのだ。
 ふわふわして甘いような、足が地につかないような。でもそんな夢心地から、あっという間に卒業させられてしまった。もう少し浸っていたかったと思うのは、贅沢なんだろうか。
「僕は初めてなんだよ、かっちゃん」
 負け惜しみじみた言葉を呟くと、勝己の手が出久の頭をがしりと掴んで引き寄せた。
「ああ?初めて?何言ってんだてめえ。初めて初めてってなあ、オイ」
 正面から見据えられてドキッとする。赤い瞳がすうっと細められた。
「耳かっぽじって、よく聞きやがれ。てめえの初めての男も、最後の男も俺だからな」
 そう告げると勝己は悪戯っぽく笑った。


END

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