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優しい時間(全年齢バージョン)

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 落ちる。
 青葉の茂る木の枝が足元から離れていく。
 眼前に青い空が見えた。
 木漏れ日を背にして勝己の姿が逆光になっている。焦燥した表情を顔に浮かべているようだ。出久の腕を捕まえようとこちらに手を伸ばしている。だが子供の手では届かない。 こんな高い木から落ちたらどうなっちゃうんだろう。僕死んじゃうかも。
 出久が目を瞑ると背後から爆音が響いた。温かい爆風に抱かれるように押し上げられ、地面にふわりと背中から着地する。
 助かった。今のはかっちゃんがやったのか。
 でも元はといえば落ちたのは、かっちゃんが手を放したからじゃないか。
 木から降りてきた勝己が出久を見下ろす。一瞬心配そうな表情に見えたのは気のせいだろうか。心底ムカついたように彼は言った。
「落ちてんじゃねえよ、バカデク」

「こっちが小さい頃よく遊んだ森なんだ」
 出久は麗日と飯田に地元の雑木林の案内をしていた。初めての友達が自分の町に来てくれたのだ。心がウキウキと弾んでいた。木の葉を踏みしめ、3人は木漏れ日の射す坂道を歩いてゆく。
 今日は早帰り。「せっかく時間があるんだから、駅を降りてデクくんの住む町を散策しよう」と言い出したのは麗日だった。
「意外とアウトドアだったんだな」
 と言いながら飯田はハンカチで汗を拭いている。
「うん、かっちゃんといると、ほとんど外遊びだったから。いつも一緒にいたんだ」
「爆豪くんとか?」
「ふたりの時も他の友達がいる時もあったけどね。かっちゃんは積極的に色んな事をやりたがるから、毎日が冒険でわくわくしたよ」と答えてから、あ、と付け加える。「小さい頃はね、仲良かったから 」
「そうだったな。今の緑谷くんと彼からは想像出来ないが」
「色々あったんだ。今となってはもう何が原因かわからないくらい」
 憧れて背中を追いかけた。彼のようになりたかった。ずっとそう思っていられたならよかったのに。
「そのうち普通に話せる時がくるよ、デクくん」麗日が朗らかに言った。
「うん、ありがとう、麗日さん」
「クラスの結束のためにもそうなることを望みたいものだな」
「真面目!学級委員長らしい言葉だね、飯田くん」
 そんな日はいつ来るだろう。いつか来ればいいけれどまるで想像できない。
 森の中を川に沿って歩くと、開けた丘に出た。原っぱの真ん中に高い木が見える。高さは2、3階の建物くらいだろうか。5階くらいはあるように思っていたけれど、子供だったから高く見えたのだろう。それでも十分高い大木だ。記憶より枝葉が伸びて青々と繁っている。
 麗日の個性に浮かして貰って木の頂上近くまで浮き上がり、太めの枝を選んでそれぞれ座った。森の向こうに出久や勝己の家の屋根が見える。
「いい景色だね」
「うん。ここから街が見渡せるんだ」
 そう言いつつ記憶を探る。何故だろう。ここからの景色に見覚えがないような気がする。木には登ったはずなのに。今初めて見たように感じるのは僕が大きくなったからだろうか。

 翌日、食堂にて。出久は麗日、飯田と共にトレーを持って行列に並んでいた。一般にはさほど知られていないクックヒーローも、出久には名前を知る憧れのヒーローのひとり。顔が見られないかなと惣菜の並ぶ棚の隙間を覗く。
「あの木、結構高かったよねえ。小さい頃でしょ。よく登れたねデク君」
小鉢をトレーに乗せながら麗日が言った。
「うーん。どうやって登ったんだっけ」
 出久は遠い記憶を思い起こす。もやっと得意げな金髪の幼馴染の顔が浮かんできた。同時に付随した記憶が蘇ってくる。
「ああ、かっちゃんだ。かっちゃんに無理やり木の上に連れて行かれたんだった。しがみついていた手を離されちゃって。落ちて大泣きしたんだ」
「あの木からか?大変じゃないか」
 飯田が驚いて聞き返してきた。出久は慌ててフォローする。
「でも、でもね、かっちゃんが爆風を起こしてくれたから、大怪我もなく事なきを得たんだよ。落ちてんじゃねえってキレられたけど」
「彼のせいではないのか」
「まあ、そうだけど、昔のことだから。そっか、だから。あの時は景色見る余裕なんてなかったんだな。覚えてないはずだ。結局僕も昨日初めて見たようなもんだね」
 背後から呆れた口調の上鳴の声がする。
「また爆豪かよ。あいつとろくな思い出がねえんだなあ、緑谷」
「お前、ガキの頃から理不尽なとこ変わらねえのな、爆豪」
 切島の言葉に驚いて振り向いた。二人の後ろにいる赤い瞳にギロッと睨まれる。
 誰にも言うなよ。
 あの後の記憶が蘇った。そうだ。かっちゃんそう言ってたんだった。
 舌打ちすると勝己は列から離れて通り過ぎてしまった。すれ違いざまに肩をぶつけられる。
「あ、かっちゃん」
 忘れてた。そういえばあの時「絶対誰にも言うなよ。俺たちだけの秘密だからな」って、そう言ってたんだ。皆に教えちゃった。それって僕を落としたことを言うなって意味だろう。なんか勝手だな。でも一応謝ったほうがいいのかな。こんな約束、もう覚えてないかも知れないけど。
 トレーをテーブルに置いて席につく。飯田と麗日は向かい側に座った。
「爆豪くん、昔デクくんのこと馬鹿にしてたんだよね」麗日が言った。
「かっちゃんだけじゃないけどね。昔だけじゃなくて、かっちゃんは今もだと思うよ」
「だからデクって」
「ううん。今のその名前はかっちゃんじゃなくて、麗日さんがつけてくれた名前だよ」
「えへへ」麗日が微笑む。
「おら、邪魔だデク!ちゃっちゃと椅子引けや。狭えんだよ」
 いつのまにか背後に立っていた勝己が怒鳴った。
「わあ!なんで後ろに」反射的に身体が竦んでしまう。
「そんなに驚くことかよ、緑谷」勝己の向かい側に座った上鳴と切島が笑う。
 慌てて出久が椅子を引くと、勝己はそのまま真後ろの席に座った。他に開いてる席はいくらでもあるのに、なんでわざわざ側に座るんだろう。引いた椅子を戻せなくなった。
「緑谷くん、君の力は誰もが認めざるを得ないんだ。彼にしても、もう馬鹿にしたくてもできないだろう」飯田は溜息をついた。「しかし、子供ならともかくウマが合わなければ、関わらないようにするのが普通だと思うんだが。彼は変わってるな」
「飯田くんも合わない人でも放っておけない方だよね」麗日がさらっと言う。
「麗日さん、それだと飯田くんも変わってるって意味に」
「ぼ、僕は、俺は委員長だからだ」憮然として飯田が答える。
 あの頃は。出久は言葉を飲み込む。友達にも言えないことだ。あの頃は個性がなかったんだから。勝己だけじゃなく皆に馬鹿にされていて、それが普通だった。
 でも今は授かったものとはいえ、個性を持ってるんだ。勝己や皆と同じように。だから胸を張っていいんだ。そうなんだけれど、どうもまだ慣れない。
「昔のことはしょうがないが」飯田が続ける。「だが、君もいけないかも知れないな」
「え?」
「そうそう」背後から上鳴が声をかけてくる。「爆豪が苦手なんだろうけどさあ、何もしてなくても怯えるなんて失礼とすら言えねえか?」
 切島も上鳴に続けて話し出す。
「怯えねえでさ、ちゃんと向き合ってみろよ、緑谷。そうすれば、ちったあこいつも変わってくるんじゃないか?」
「なあ、爆豪」
「うっせえわ、クソが。くだらねえことぺちゃくちゃ喋ってんなよ。俺あ行くぜ」
 勢い良く立ち上がった拍子に勝己の椅子がガタンとぶつかり、出久の椅子に衝撃が走る。舌打ちをして振り返りもせず勝己は立ち去った。
「おい爆豪!乱暴だぞ」
「大丈夫か?緑谷」
 上鳴と切島が心配そうにこちらを向いている。出久は背中をさする。自分達のことをからかわれるのはいつものことなのに。他に何か気に触ることでもあったのだろうか。
「うん、全然平気だよ」食堂を出て行く勝己を見送りながら、出久は言う。「君達の言うとおりだね。できれば僕もかっちゃんと向き合いたいんだ」
「おお、その意気だぜ」上鳴は親指を立ててにかっと笑う。
 食事に戻って出久は考える。
 ああは言ったものの。勝己の攻撃性は生来のものだ。昔から自分が関わりなくとも、いつも周囲を威嚇してあんな感じだった。
 けれども確かに、間違ってるところは自分にもあるかも知れない。
 勝己の嫌がらせは振りきれてないところがあった。酷い物言いに散々傷つけられたが。 ノートを焦がしても焼失させたりしなかった。暴力を奮っても脅す程度。大怪我を負わせたり身体に酷い火傷を残すようなことはない。カツアゲもしない。内申書に響くからと嘯くが大したことはしないのだ。ならば目的もなくわざわざ何故絡むのかと、出久自身も思い当たらず、勝己の取り巻きも不思議がっていた。
 ただただ気に食わないからと言って。それだけで。
 容赦なく暴力を奮われたのは、高校で最初の授業の時が初めてだ。個性を隠していたと決めつけて、怒りのままに彼は自制を失った。遠慮のない剥き出しの感情に晒されるのは、今までとはとても比較にならない怖さだった。それで、これまでは手加減をされていたのだと知ったのだ。あれでも。
 ああ見えて彼は理性的なんだ。今のままがいい状況ではないことはわかってるはず。皆と同じように級友と呼べるようになるには、僕がかっちゃんへの感情をフラットにしていかないといけない。
平常心で付き合えるようにならなくちゃだめだ。相手を変えるには自分が変わらなきゃ。飯田くんの言うように、上鳴りくんや切島くんの言うように。クラスの結束のためにも。

 帰りの電車を降りて駅のロータリーを抜けると、10メートルほど前を勝己が歩いていた。 帰り道で彼を見かけるのはいつものことだ。タイミング的に毎日同じ電車に乗ることが多いわけだから。
 いつも学校から飯田や麗日と一緒に電車に乗って帰るけど、彼らと降りる駅は違う。降車してからは彼らとは別々になり、かわりに勝己と自宅までの道のりを共にすることになる。近所だから家まで帰り道は同じだ。会うと気まずいが、かといって避ける理由もなかった。
 いや、気まずいと思っちゃダメだ。平常心平常心。皆みたいに級友だと思うんだ。そう考えつつも出久はただ彼の背中を見つめて歩く。
 昔と同じだ。彼の背中を追っていた幼い頃と。でも同じじゃないはずだよね。
 ふと、勝己が立ち止まり、振り向いて怒鳴った。
「おい!俺の背後を取るんじゃねえよ。ついてくんなや。クソデク」
「ご、ごめん」反射的に謝してしまったが、言い返す。「家、同じ方向だからしょうがないよ」
「ああ!?」勝己は目をむいて睨んでくる。
 出久は怯んだものの意を決し、歩みを早めて勝己を追い越そうとした。だが追い抜く寸前に強く腕を捕まれ引き止められる。
「てめえ、俺の前を歩くんじゃねえ」
「は?理不尽だよ。どうしろって言うんだよ、かっちゃん」
 勝己は 苦虫を噛み潰したような顔で睨みながら手で示す。
「隣、歩けや」
「え?」
「さっさと隣に来やがれ!てめえトロいんだよ」
「う、うん」
 恐る恐る隣に移動する。連れ立って歩きながら勝己の顔をちらちらと伺う。機嫌がいいわけでもないみたいだ。どういう風の吹き回しだろう。隣を歩けなんて。けれども昼間のことを謝るいい機会かも知れない。
「あの、今日はごめん」
「は?何がだ」
「昔の話、皆に話したりして」
「ああ?どうでもいいわ。あんなの」
「それに、かっちゃんが昔教えてくれた場所、麗日さんと飯田くんに教えちゃった。ごめん」
「てめえ、何かと思ったら、今更そんなくだらねえこと言いやがって」
 勝己はいつものように爆発せず、ふつふつと憤り出した。だが怒鳴るでもなく燻らせたままそれ以上何も言わない。なぜか我慢しているようだ。
「うん、そうだよね。でも約束だったから」
「今更だばあか。約束ってんなら破んなや。バカデク。ていうか、約束したのはそこじゃねえ」
「そうなんだっけ。他に何か約束した?」
「覚えてねえならいいわ」
 言葉に棘がなくなった。あれ?もう怒ってない? やけに優しいというか大人しいというか。どうしたんだろう。
 薄紅色の夕焼けを筆で描いたような墨染めの雲が覆ってゆく。陽の名残りが雲の隙間に透けて金色の波のよう。黄昏が隣を歩く幼馴染の顔を影色に隠してゆく。表情をそっと伺う。穏やかそうに見えるのは気のせいだろうか。勝己が振り向く。
「んだよ。何顔見てんだ」
「ううん、ごめん、何でもないよ」
「ふん」
目が合っても怒られない。どうしたんだろう。
 無言で歩きながらつらつらと考える。個性がないと馬鹿にされてたあの頃は、今と違って友達は一人もいなかった。勝己だけがやたらに絡んできただけで。ある意味そんな彼との歪な関係が、唯一の同級生と繋がりだったようなものだ。彼が絡んで来なければ、ひとりなりに平穏な生活だったろうけど。
 彼は周りに何を言われても、構わずに毎日何かと言いがかりをつけてきた。それは雄英に来た今も、多少減ったとはいえ変わらない。だから、いつ難癖つけられるかと構えてしまう。
「おい、デク」
「な、何?かっちゃん」
「お前んちだろうが」
「あ、ホントだ」
 いつの間にか自宅に到着していた。勝己の歩幅に合わせていたせいか、いつもより早く着いた気がする。
「じゃあ、また明日」
 勝己は何か言いたげな素振りを見せたが「ああ、じゃあな」とだけ返事した。
 普通だ。出久が玄関のドアを開けても勝己はまだ門の前に佇んでいた。ちょっと手を振ってみると、勝己はフンッと横を向いて漸く立ち去った。
 どうしちゃったんだろう。 すごくイライラを我慢してるようにも見えたけど。上鳴くんや切島くんの言う通りなのかな。そうだ、彼らが何か言ってくれたのかも知れない。人の言うことをきくようなかっちゃんではないのだけれど。
 かっちゃんの気紛れなんだろう。こんなの今日だけで、明日になったらまたいつもどおりになるんだろう。
でもなんか、嬉しかったな。
 出久は心がふくっと暖かくなるのを感じた。

 だが予想に反して、翌日勝己は駅の改札口で出久を待っていた。目が合うと隣を歩くよう示され、また肩を並べて共に帰宅した。やはり眉間に皺を寄せて何か我慢している様子だったが、歩くうちに不機嫌な表情ではなくなっていった。家に到着すると出久が玄関に入るまで、勝己は門の前で立っていた。
 なにがなんだかわからない。訳がわからないままに次の日も、その次の日も彼は待っていて、いつの間にか一緒に帰宅するのが日常となった。勝己がまだ来ていない時は出久が待っているようになった。はじめは恐る恐る話しかけていたが、怒鳴られないとわかると、次第に授業の話や世間話もできるようになった。気まずいこともなくなってきた。
「お、おはよ」
「おお」
 出久の挨拶に勝己はちょっと目を向けて短く返す。以前はギロッと睨まれたり舌打ちされたりしたものだけれど。普通の何気ないやり取りをしているなんて、ちょっと前なら考えられなかった。今でも不思議でたまらない。
どうしちゃったんだろ。事あるごとに言いがかりをつけてきたかっちゃんが。聞きたいけれど聞きづらい。 居心地は悪くないけど、ついぞ訪れたことのない平穏な日々に戸惑ってしまう。気まぐれ、なのかな。今だけなのかな。前の席に座る勝己の背中は何も語ってくれない。
「爆豪、最近緑谷に無闇に怒鳴らなくなったな」
 上鳴と切島が勝己の席に近づいてきた。上鳴が後ろの席の出久に目配せしてにっと笑う。
「目が合うだけで突っかかってたのにな」
「て言うか、今までもよー。先に爆豪が目合わせてたんじゃねえの」
「そりゃあさ、あれだ、あれ。だから機嫌いいんだろ」
 二人はニヤニヤと笑っている。上鳴がこちらを向く。
「一緒に帰ってんだろ。緑谷」
 いきなり話を振られた。ちらっと勝己の背中を見る。別に言ってもいいんだよね。
「え、うん。そうだけど」
「やっぱなー」
「うるせえ!」
 勝己が怒鳴った。だが怒っている時の声音ではない。らしくないこと指摘されて照れてるみたいな感じだ。
 皆もいいことだと思ってくれてる。自分も緊張せずに勝己と一緒に歩けるようになるのは嬉しい。勝己も関係をリセットして新しくするべきだと思ってるのかもしれない。自分と同じように変わろうとしてるんだ。
 友達、は無理、かな。でも友達にはなれないにしても、他の関係のあり方があるかも知れない。他の関係ってどんなだろう。幼馴染なのはずっと変わらないけど。出久は思いを膨らませた。

 その日の帰り道。突然立ち止まると勝己は「食ってくか。お前も来い」と言い、ファーストフードを顎でしゃくった。出久は迷った。どうしよう。小腹は空いてるけど、帰りに食べるところに立ち寄ったことなんてない。
「いいよ僕は。お母さんがご飯作ってるし」恐る恐る出久は返事する。
「ごちゃごちゃうるせえ!どっちも食えばいいだろ」
 勝己は苛立ちを顔に浮かべた。出久は反射的に後退りしたが、勝己に腕を捕まれ、無理やり引っ張られて店に連れ込まれる。
「横暴だよ、かっちゃん」
「家で食っても外で食っても一緒なんだよ」
振り向いて勝己が言った。
 僕と一緒に御飯食べたいの?らしくない勝己にどうしていいかわからなくなる。
 勝己はバーガーを3個とコーラ、出久はシェイクを買って席についた。勝己はあっという間にガツガツとバーガーを平けてしまった。シェイクは冷たくてすぐには飲みきれない。僕が待たせてるのかな。でも、今が自分の意思を伝えて彼の考えを確認するチャンスだろうか。シェイクをちょっとずつ吸いながら言葉を探す。
「あの、かっちゃん。戻れるよね」
「は?」
「うんと子供の頃みたいに。その、そうだと僕は嬉しいけど」
 昔みたいに、と。だが勝己の表情が変わった。みるみる眉間に皺が寄ってゆく。
「は!昔みてえに戻りてえだと?俺はそうなのかとでも?」
 勝己は突然声を荒らげると、テーブルを平手で強く叩いた。 驚いて出久はビクッと慄く。
「んなわけねえだろ。俺は違うぜ、デク。無理だ。戻れるわけがねえんだ。元になんか全ッ然戻りたくねえし。水に流してなかったことにしてやろうって言ってんのか。てめえは。ざけんな! 」
「か、かっちゃん?」
 いきなり憤る勝己に出久は戸惑った。何を怒ってるのかわからない。
「デクってアダ名みてえによ。勝手にてめえは。畜生っ!なんでもてめえの都合がいいように上書きすりゃあいいだろうが。てめえはそうでも俺はなあ」途中で勝己は言葉を切り、出久を睨む。「 クソが!」
 言い捨てて勝己は席を離れた。勝己の剣幕に押されたが、我に返って出久はすぐに後を追いかける。洗面所に続く通路で勝己は立ち止まっていた。拳をぎゅっと握りこんでいる。
「どうしたの、かっちゃん」
「だー、もう!やめだやめだ!まどろっこしいわ」
 と勝己はいきなり切れた。振り向きざまに出久を壁に押し付ける。
「痛い、かっちゃん、なに」
 壁にぶつけられた肩の骨が痛い。抗議しようとして、釣り上がった勝己の眼差しに息を呑む。なんか怒らせるようなこと言ったんだろうか。勝己の両手に囲まれて正面から向き合う形になった。
「俺と付き合え。デク」
「付き合うって、どこに」
「舐めてんのかてめえは!付き合うっつったら一つだろうが」
「まさか、それって、お付き合いのこと?」
「他にあんのかよ」
 何言ってるんだろう。勝己の言葉が頭に入ってこない。
「えーと、え?冗談」
「俺が冗談言ったことあったかよ」
「な、ないね」
「じゃあ、決まりな」
「え、待ってよ。その、君のことをそんな風に思ったことなんてないよ」
「なら今思えよ。今から思え」
 勝己は出久の胸ぐらをつかんで唇を重ねた。濡れた柔らかい感触。
 かっちゃん、何を?かっちゃんとキスしてるのか僕は。
 出久は動転して慌てる。なんでこんなこと。誰かが来たらどうしよう。唇の隙間から勝己の舌がねじ込まれた。驚いて首を振ると顎を固定される。
「う、んく、ん」
 荒々しく口内を蹂躙されて苦しい。勝己は歯列をなぞり口腔を隈なく舐める。息継ぎの合間にも唇は離されず、また角度を変えて深く重ねられる。出久の逃げる舌を追いかけて勝己のそれがさらに深く差し入れられる。
「ん、んー」
 息が詰まりそうになりそろっと舌を差し出した。そこを待っていたとばかりに絡め取られる。舌先から舌裏まで勝己の舌が生き物のように這い回る。勝己の唾液は薄いコーラの味がする。
 音を立ててやっと唇が離れた。
「ん、はあ、は、はあ」
 漸く解放されて呼吸を取り戻せた。咳き込んで声が掠れる。頭の芯がぼうっとする。
「甘え」
 勝己が呟く。
 嬲られた舌がじんと痺れている。まだ口内に勝己の感触が残っているようだ。
「なあ、どうなんだ。デク」
 勝己も息を整えながら、また問うた。
 本気で自分に聞いているんだ。かと言って勝己と付き合うなんてとても考えられない。でも断ったらどうなる。また前みたいなギスギスした関係に戻ってしまうのか。それは嫌だ。どうしても嫌だ。嫌だけど。どうすればいいんだろう。
「さっさと答えろや。答えによっちゃあ」
 勝己は出久の目の前に掌をかざしてパンっと火花を出した。ニトロの匂いが漂う。
「むちゃくちゃだ!こんなとこで個性なんか使ったら、お店が壊れちゃうよ」
 慌てて出久は勝己の掌に手をかざして蓋をした。だが熱くてすぐに手を離してしまう。
「だよなあ、デク。さっさと答えろや」
 とても僕の意志なんかきいてくれそうにない。大体付き合うって何するんだよ?僕とかっちゃんで。かっちゃんはなにか勘違いしてるんだ。きっとそうに決まってる。
 元々出久は勝己に押されると従ってしまう。逆らう時は正義感が勝つからだ。自分が正しいと確信してる時は、命を賭しても絶対に譲れない。けれども善悪の介在しない事象では、自分が譲って収まることならばと結局譲ってしまう。
 今の勝己に悪気は感じられない。やり方は問題ありだが、そもそも言ってることが問題だらけだがそれでも。ならば自分としてはここで抗うべき理由がない。
 出久は落ち着こうと深呼吸する。なんだかんだ言っても、折角勝己から歩み寄ってくれていたのだ。願ってもないことだった。それが嬉しいと思ったのだ。他のことは後で考えよう。
「いいよ」と出久は承諾した。
「よし」
 勝己はニヤリと笑い、腕の囲いを解いた。張り詰めた空気が霧散する。出久は安堵して身体の緊張を解いた。
「それで、何をしたいの、かっちゃん。デ、デートとか?」
「は?今更何言ってんだ。そりゃ今やってるだろうが」
「そ、そう?これデートだったんだ。じゃあこのままでいいってことかな」
 ひとまず出久はほっとした。だが勝己が怒鳴る。
「はあ?馬鹿かてめえは!」
「そ、そうだよね。じゃあ何をすればいいのかな」
「はあ?何をって、てめえ。このくそナードが」勝己は口籠り、そっぽを向いて続ける。「調べろよ、てめえはオタクだろうがよ」
 勝己をしても言いづらいことなのだろうか。それともあえて自分で調べてこいと言いたいのだろうか。
 帰宅して出久はパソコンに向かった。困った時のグーグル先生だ。付き合うって、男同士でどうするのかってことかな。身体の構造的にできることって。調べていくうちに出久は青くなった。
 まさか、こんなことかっちゃんと?そんな、とても無理だ。
 僕、これをOKしちゃったの?

 翌日の学校。昨夜から気の重いままに、出久は寝不足気味で登校した。
 教室に入ると勝己と目が合った。心臓が跳ねる。だが彼は昨日のことなどなかったかのように平然としている。前の座席に座る勝己の背中を見ながら思考がぐるぐると渦を巻いた。
キスまでしてきたんだ。しかもあんな濃厚な。冗談ではないのだ。 どうして僕なんだろう。どう考えればいいんだ。
 確かめたいと思ったが、なかなか学校では二人きりになれない。勝己は休み時間にはさっとどこかにいなくなる。昼休みになっても食堂には来ていない。上鳴に聞くと、売店でパンを買って何処かに行ったらしい。
「最近爆豪くん、デクくんにつっかかってこんね」麗日が言った。「デクくんもそう思うよね」
「え、う、うん。そうだね」
 思いがけず勝己の名前が出て焦ってしまう。
「教室でも後ろ向いてはデクくんに言いがかりつけてたのにな。そういうことも最近はほとんどないし、廊下で睨んでくることも少なくなったな」飯田が言った。
「やっぱりそれっていいこと、なんだよね」出久はふたりに尋ねる。
「いいことじゃないか?爆豪くんも成長してるんだろう」飯田は言葉を続ける。「いつまでも子供じゃいられないと彼もわかってるんだろうな」
「そ、そうかもね。このままのほうがいい、よね」
「そりゃそうだよ。というか、爆豪くんが怒るとデクくんがびくびくしちゃうし。ウチはデクくんが良いのがいい」麗日が微笑んで言った。
「何か、引っかかるのかい?緑谷くん」
「ううん、何も。僕も良いことだなあと思ってるから」
 出久は2人に笑顔を見せる。 どう説明していいものかわからないし、なにより心配はかけたくない。

 とうとう学校では勝己と話す機会はなく、帰宅時間になった。後は電車を降りてからの2人の帰り道。駅の階段を下った先で、いつものように壁を背にして勝己が待っていた。
「かっちゃん、あの」
 話そうとすると勝己は「来いよ」と顎をしゃくった。少し早めの勝己に歩調を合わせて黙って並んで歩く。
「調べたんかよ」やっと勝己は口を開く。
「うん、あの。本当にあんなこと、したいの?」
「したいのか、だと?てめえ、付き合うって言ったよな。撤回する気か。殺すぞ!」
「だって僕男だよ?」
「今の時代珍しくねえだろ」
「それはそうだけど」
 性別も年齢も人種もはたまた種族すら超越する個性の時代だ。前時代ならともかく確かに珍しくはない。だがいざ自分がそうするかというと、まるで考えが及ばなかった。男女の性交ですら未知の世界だというのに。しかも相手は勝己だ。
「何も今日明日しようってんじゃねえんだ」
「そうか、そうだよね。なんだ」
 出久はほっと胸をなでおろした。
「心構えだけはしとけよ」
「う、うん」
 考えるのはその時でいいだろう。今は居心地のいいこの関係を続ければいいのだ。
 先送りにしただけだというのに、出久は安堵した。だがその日は思いのほかすぐに来ることになる。

 3日後、出久は勝己に家に来るよう誘われた。
 思いもよらない歩み寄りに出久は浮かれてしまい、迂闊なことに3日前の勝己の言葉をすっかり忘れていた。
「いいの?」
「いいって言っただろうがよ」
「かっちゃんの家なんて何年ぶりだろ。ううん、十何年ぶりかな」
「てめえ聞いてんのかよ」ぼそっと勝己が付け加える。「俺んち今日親いねえし」
「かっちゃんち共働きだもんね。お母さんにかっちゃんちに行くって言わなきゃ」
 鞄を置いて母親に一声かけると、待っていた勝己と一緒に家に向かった。変わらない勝己の家。リビングを抜け、すぐに勝己の部屋に案内される。部屋の中は子供の頃と随分様変わりしていた。おもちゃ箱も勿論ないし。ベッドと本棚と机の上にパソコンがあるだけで、随分シンプルになっている。
「昔貼ってたオールマイトのポスター外したんだね。あれ、かっこよかった」
「たりめーだろ!とうの昔に外したわ。俺はオールマイトを越えるんだからよ」
 自分のオールマイト尽くしの部屋とは大違いだ。オールマイトを越えるなんて、力を貰っても自分にはとても言えない。けれども勝己は幼い頃から本気で言えてしまう。そこが勝己の勝己らしいところだ。
「てめーはまだベタベタ部屋中にポスターとか貼ってんのかよ」
「うん、もっと増えてるよ」
「ガキか、てめーは」
 部屋の中を眺めているとするりと背後から腕が回った。ドキリとして身体を捩るがさらにぎゅっと力が込められる。
「か、かっちゃん? 」
 恐る恐る声を出す。勝己は出久を羽交い締めにして告げた。
「するぞ。わかってて来たんだよな。デク」
 背後から耳元で囁く声。吐息。ぞわりと背筋に痺れが走る。
「ごめん。わ、わかってなかったよ」
「てめえコラ!ふざけんなよ。じゃあ今わかれや」
「あの、正直に言うよ」出久は深呼吸して口を開く。「僕には無理だと思う」
「ああ!? デクてめえ!いい加減にしろよ!やりもしねえで怖気づいたってだけでよ」
「だって、かっちゃん知ってるの?あんなすごいことするんだよ」
「アホか!知っとるわ、クソデク」
 もがいて腕を逃れたが、ドアは勝己の背後。彼はにやりと笑って後ろ手に鍵をかけた。逃げ場のない部屋の中で勝己にじりじりと迫られる。後退って距離をとったものの、出久の後ろには壁しかない。
「待ってよ、かっちゃん」
「ざけんな!待つって何をだ。無理かどうかはやってみねえとわかんねえだろうが!」
 とうとう壁際に追い詰められた。腕を捕まれ身体を押し付けられる。勝己は172センチ、自分は166センチ。目の前に立たれると少し見上げる形になる。ドキンと動悸が高鳴る。昔からこうやって威嚇されてきた。怒気を含んだ赤い瞳に身体が反射的に竦む。
「これ以上待てっかよ!観念しろや、クソナード」
 勝己の顔が近づいてきた。唇が触れる。後退りすると後頭部を捕まれ唇が重ねられた。はずみで開いた口の中に勝己の舌が滑り込む。舌が触れ合い、くちゅりと音を立てる。逃げるとさらに奥に入り、舌を絡め取られ嬲られる。暫く口腔内は勝己の思うがままに蹂躙された。ねっとり舐め上げ、貪るように蠢く。漸く糸を引いて唇が離れる。呼吸を奪われて息が苦しい。
「逃げたら頭爆破するぜ」
 勝己は熱を含んだ声でそう脅し、またキスをする。
 何言ってんだ。僕だって反撃くらい。
 だめだ、できない。僕の個性を出せばかっちゃんの部屋を破壊してしまうかも知れない。
 個性の調整は勝己のほうが一枚も二枚も上手だ。勝己は狙ったものだけを爆破できるだろう。僕はまだ使いこなせない。もしも取り返しのつかないことになったら。
 勝己は出久の腰に腕を回してベッドに押し倒した。シャツのボタンを外してゆくと、ズボンを下着ごと手早く引っこ抜く。押さえつけたまま器用に衣服を剥ぎとってゆく。一糸纏わぬ姿にされた。抵抗するべきなのか、するならどこまですべきなのか。出久が思考を巡らせるうちに事態は後戻りできないところまで進んでいく。
「観念しろよなあ、デク」
 出久の上に馬乗りになると勝己は悪辣に笑い、服を脱いでゆく。鍛えられた身体が顕になった。綺麗に筋肉ついてるなあ。僕もそこそこついたと思うけど全然敵わないな。と、そんなことを考えてる間に、裸になった勝己の身体が出久に覆いかぶさった。
「か、かっちゃん?かっちゃん」
 重みのある筋肉質な身体。肌が触れあいぴったりと重なる。背中に回された腕が出久の肩と肩甲骨を撫でる。弾力のある硬いものが下っ腹に当たった。これって、まさかかっちゃんの?思い当たって顔が熱くなる。
「デク、口あけろ。腕はこう、俺の背中に捕まれや」
 唇がくっつきそうな距離で勝己が指示する。促されるままに背中にそろっと手を回した
 夜が更けて空が白々と明るくなっていた。
 カーテン越しの薄明かりの中で出久は目覚めた。見慣れないベッドの中。軽い薄手の羽根布団にさらさらしたシーツ。下着も何も身につけないで裸のままだ。背中に感じる温もりは勝己。剥き出しの背中と臀部が触れあっている。あの後何度身体を重ねたかわからない。疲れて眠気が押し寄せてきて、「寝るな」と怒る勝己の声を聞きながらそのまま意識を手放した。
 僕は昨日かっちゃんと。
 あり得ない。なんてことをしたんだろう。彼の意志の強さを知ってるのに、説得できるなんて思い上がってたんだ。呑まれてしまうのは僕のほう。いつもそうだったじゃないか。
 流石にこれが一度で済まないことはわかる。後で考えればいいなんて、そんなものじゃない。浅はかだった。勝己に触れられた肌がまだ熱を持っている。繋げられた身体と身体。体の奥に植え付けられた感覚。獣みたいな行為。
 彼が、怖い。また彼が怖くなってしまったのか。なんでこんな。
 昨夜の衝撃が忘れられない。元には戻れない。越えてしまった。取り返しのつかないことだ。
 勝己が身じろぎをした。ドキッとする。そろっと触れ合っていた身体を離す。ベッドのスプリングが揺れる。勝己が目を覚まして身体を起こした。
「起きてんだろ。デク。こっち向けよ」
 出久は緊張して縮こまった。動悸が早くなってゆく。
「おい、おいって」
 肩を揺さぶられたが、出久は布団をぎゅっと掴んでさらに丸まる。
「てめえ、目も合わせらんねえのかよ!」
 勝己が焦れてますます苛立った口調になる。だが振り向けない。きっと今彼に見られてはまずい顔をしてる。
「こっち向きやがれ!」
 肩を捕まれてあっさりひっくり返された。力任せに組み敷かれ赤い目に見下ろされる。
「てめえ。なんだよ。その被害者面はよ!」 勝己は声を荒らげる。「合意の下だったよなあ。おい!」
 裸のままの剥き出しの勝己のペニスが押し付けられる。昨夜固くなり自分の中で暴れていたもの。頭が沸騰しそうだ。出久は身体を捩った。
「離してよ、こんなのダメだ、かっちゃん」
「ああ?」
「僕自身が君に臆してしまう。僕は君に対して平常心にならなきゃいけないんだから」
「何言ってんだ、てめえ」
「皆と同じように。だから」
「は?何言って」勝己は訝しげな顔をしていたが、徐々に理解したらしい。みるみる目元が釣り上がる。「デク、てめえ、俺を他の奴らと同じとこに落とそうってのか」
「落とすなんて、違うよ。僕らの関係をフラットにしないと前に進めない。これじゃまた君を」出久は目を逸らして続ける。「君を、怖いと思ってしまう」
「クソが!」勝己は声を震わせる。「俺はてめえが嫌いだ!」
 激怒した勝己が怒鳴った。彼の目が爛々と赤く光り、眼光鋭く出久を睨みつける。反射的に身体が竦み上がった。
「かっちゃ」やっと声が出る。
「いつもいつも苛々させやがって。うんとガキの時は俺はこんなじゃなかった。なのに小学生の時も中学生になっても、いつも満たされねえ。てめえのせいだ。てめえが俺の前をちょろちょろとしやがるからだ」
「か、かっちゃん?」
 出久は勝己の勢いに気圧された。硬直してしまい視線を外せない。腕がシーツに縫い付けられ、動きを封じられた。勝己は顔を近づけて出久に言い聞かせるように言う。
「俺がしてえんだ。抱きてえんだ。てめえの考えなんざ知ったことかよ。なんでかわかっかよ。こうすりゃてめえを俺の下に出来るからだ。てめえを組み敷いて俺より下だって思い知らせたかったんだよ」
「そんなことで?」出久は息を呑む。そんな理由でなのか。「僕はかっちゃんが僕と同じ事を考えてるのかとそう思って。君は違ったの?」
 それとも、君が何考えているのかを確認しなかった僕が悪いのか。混乱する。 射るよう瞳で見下ろす勝己。痛い。掴まれた手首を砕かれそうだ。
「てめえと同じだと?平常心ってやつかよ。平常心平常心、はっ!くっだらねえ」
「離してよ!かっちゃん」
 彼に従うわけにはいかない。出久はのしかかる重みを押し返そうと抗った。
「誰が離すか!ばあか」
 もがいても逃れることはできない。両腕を一纏めにして頭上に上げられ、押さえつけられる。
「こうすりゃ個性は使えねえよなあ、デク。もっとも、てめえは人んち壊すようなこたあ、できねえか」
「かっちゃん、離せってば!」
「名前を付けるってのは私物化するってことなんだぜ。てめえは俺のだからデクって名前を付けたんだ」
「なんだよそれ。僕はものじゃない」
「ああ、ガキだったからな。てめえの意志なんか知ったこっちゃねえわ。だがてめえは付き合うって言ったろうが!」
「かっちゃん」
「俺はあの頃てめえに向いた衝動を持て余してた。なんで無個性なてめえに負けてると思っちまうのか。舐められてると思っちまうのか。負けてると思う自分が嫌でたまらねえ。てめえにだけは負けたくねえ。そう意識してしょうがなかった。気になって気に触って暴力奮って傷つけて。それでも気が済むことなんてなかった。それまで何もかもうまくいってたんだ。なのにてめえのことだけがうまくいかなかった。てめえをどうすればいいのかわからなかった。怯えて離れていくてめえを追いかけるのはムカついた。かといって放ってもおけなかった。てめえに絡んでは苛立って苛立って。どう手に入れればいいんだって足掻いてたんだ。今ならわかるんだ。あの頃は性欲なんて知らなかったからな。衝動は性欲に直結するんだよなあ。デク。今ならてめえへの苛々を収める方法がある。てめえを抱けばいいんだからよ。俺の下に組み敷いて何度も何度でもてめえを貫けばいんだってな」
 勝己は一気にまくし立てた。勝己が手を振り上げる。殴られるかと思い目を瞑ったが、拳は飛んでこない。そのかわりに身体をひっくり返され、尻を高く上げられる。背後から被さる勝己の身体の重み。
「馬鹿が」勝己が声を低めて言う。「てめえのこたあ大嫌いだ」
「あ、やだ、やめてよ、かっちゃん」
「上書きなんかさせねえ。てめえの名も身体も過去も未来も俺のもんだ」
 遠くなる意識の中で聞こえる勝己の声。

「待て待て、こっち来いよ、緑谷」
 教室に入る前に廊下で上鳴に引き止められた。
「今教室に入んねえ方がいいぜ。お前、あいつの真後ろの席だしよ」
 切島は教室内を隠すように入り口に立ちふさがる。いや、廊下にいる自分を隠しているのか。二人に背中を押されて教室を離れる。角を曲がって廊下の隅に連れていかれた。切島はそっと背後を伺うと声を潜めて問いかける。
「爆豪とうまくやってんのか」
「どうだったんだ」
「どうって」
 出久は口ごもる。力づくの行為の後、逃げるように家に帰った。次の日は身体が辛くて学校を休んでしまった。当然あれから勝己の顔を見てないわけで。
「爆豪の奴、このところずっと上機嫌だったのに、今日はすげえ荒れてっからさ」
「なんかまずいことがあったんだろ」
 彼らは勝己と出久が一緒に帰宅していたのを知っている。ふたりが仲良くなれるようにと応援してくれていた。クラスのためにもそうしたいと思っていたのに。皆が案じてくれてたのに。それなのに僕は。
「僕には無理だったみたいだ」出久は袖口をきゅっと摘む。「皆みたいに、かっちゃんとも向き合いたいと思ってたんだけど、ダメだった。ごめん」
「いやいや、謝るこたあ、全然ねえぜ」軽い口調で上鳴は言う。
「上鳴くんも切島くんも、僕らが普通に接することができるように、頑張れって言ってくれたのに」
「へ?何言ってんだ、緑谷。俺らはそんな意味で言ったんじゃねえよ」
「え、だって」出久は驚いて顔を上げた。
「普通になんてむりだろ。お前らお互い意識し過ぎてんのに」
「あん時はあいつに脈あんのかどうか確認しただけだぜ。お前が歩み寄りたいんだってわかったから、だったらいけそうだと踏んだんだ」
「脈あり?え、どこまで知ってるの?」
「爆豪と一線越えたんだろ」
 出久は仰天した。思わず問い返す。
「え!? そんなこと、かっちゃんが言ったの?」
「しー!声抑えろよ。あいつが言うわけねえじゃん。でもわかるっつーの。俺らが最初に話にのったんだからよ。というかこっちから聞きだしたというか」
「誰だか言わねえけど、ものにしてえ奴がいっけど、やり方知らねえって感じのこと言うからよ。ぽろっと。あの爆豪がだぜ。意外っちゃ意外だったけどよ。隠したってあいつが意識する相手なんて、お前しかいないしよ。バレバレだっつう話」
「だから直接的は言わねえけど、それとなく勝手に忠告してやったんだよ。二人きりの時間をなんとか作るもんだよなとか。顔見れば苛つくとしても、ぐっとこらえてまずは優しくするもんだよなとか。爆豪はうるさそうにしてたけどよ、その通りにしてたんだろ」
 腑に落ちる。最近の彼のらしくなさはそういうことだったのか。
「あのさ、あいつやっぱりダメか?」上鳴が訊ねる。「たきつけたのは俺らだけどよ。緑谷と爆豪、今までよりいい関係だったんじゃねえかなと思うんだよ」
「僕もそう思ってたよ。 またかっちゃんと普通に話せる日が来るなんて、思ってもみなかった。でも」
「それ以上はダメなのかよ」
「ダメというか。それまでまともに話もできなかったのに。かっちゃんとなんて、考えたこともないのに」出久は俯く。「でもかっちゃんは考える間もくれなくて」
「そりゃあ、考えさせたくなかったってことだろうな。まったく偉そうというかチキンというか」
「僕も悪いんだ。それでも考えてから答えるべきだった。でもかっちゃんの顔を見ると、どうしても押されちゃう。結局、昔みたいになってしまうんだ」
「なら、あいつをフルってことか。今更そりゃねえだろ」
「あいつがどんだけ荒れるかわかんねえ。そりゃお前、ほんとに殺されるぜ」
 ぶるっと身体が震える。でもうまくいくわけない。彼らには到底言えない。勝己が望むものは違うんだ。
「それとも、お前が爆豪に付き合ったのは、クラスのためだけなのかよ」
「そんなわけない」出久は首を横に振る。「クラスのためっていうのは多分口実で、僕もかっちゃんとちゃんと向き合いたかったよ。多分ずっと前からそう思ってたんだ」
 切島は腕を組み、じっと出久を見つめて口を開いた。
「多分飯田や麗日なら、爆豪はやめとけって言うだろうな。あいつらはお前の味方だ。爆豪はすげえ奴だけどきついしよ。お前の身になれば苦労が目に見えてるし、あえてあいつはねえよなって、立場が違えば俺らもそう思うだろうぜ。でもな、俺らは爆豪の味方なんだわ」
「あいつはお前がいいんだよ。てか、お前以外なくね?クラスメートの名前覚えたの、あいつ相当経ってからだぜ。つか、今でもほぼお前の名前しか呼ばねえじゃん」上鳴は呆れたようにぼやく。
「あいつはお前に固執してんだ。緑谷、なんだかんだ言ってお前もそうだろ。なあ、どうなんだ」
「違うよ」出久は指を握りこむ。「かっちゃんは僕が気に食わないんだ。嫌いだって言われたんだ。僕にはわからないよ。ああいうのは好き同士ですることなのに」
 ああいうこと、は勝己にとっては自分に対して力を誇示する手段でしかないのだ。
 僕を捩じ伏せる。それほどまでに憎まれているのだろうか。良くは思われていないと思ってはいたけれど。こんなにも。
「僕は嫌われてるんだ」
だが上鳴は出久の言葉をさらっと受け流す。
「何言ってんだ。何言われたかは聞かねえけどよ。爆豪の口の悪さわかってんだろ。お前に嫌いとか気に食わねえって言ってんのは、気になるから言ってんだろ。やってることは好きな子を苛める子供そのものだしよ」
「それは」
「あいつの失言なんて今更だろ。それで全部括っちまうのは、いささか乱暴じゃねえかな」
反論できない。そうかもしれない。勝己は直情そうにみえるけれど案外感情的ではない。人を傷つけて本心を虚勢で隠していることも多い。昔から彼を見てきて、彼の虚勢を見分けてきたのだからわかる。
 僕を傷つけようとしていたんだ。
 でも何故だろう。もっと酷いことを今まで散々言われてきたというのに。嫌いだと言われただけで今までよりずっと辛いなんて。
「男同士なんだぜ。好きでなきゃ抱いたりできねえよ。あいつはいいんだよ。わかってんだから。聞いてんのはお前の気持ちだよ」切島がまた問いかける。「緑谷は爆豪のこと、どう思ってんだ?」
「僕は」
「てか、待てよ、ん?」出久の言葉を遮り、上鳴は頭を捻る。「その言い方だとよ、あいつがお前を好きならいいってことになんねえか?お前は好き同士だからってしたんだよな」
「え。そんな意味じゃないよ」
 出久は意外な方向からの指摘に慌てる。切島が上鳴の発言にさらに重ねて言った。
「いやいや、そうなるよな。お前は好きだから抱かれること許したってことだよな?」
「抱かれる、とかそんなはっきりと」
思い出して顔が熱くなるのを感じる。言葉を聞くだけで生々しく感触が蘇ってくるようだ。
「そうに決まってんじゃんよ。お前、他の奴でも同じことできんのか」
 丸め込まれてるような気もする。でも、勝己じゃなかったらどうだっただろうか?同性相手に付き合うことに同意したり。キスをしたり身体を重ねたり。想像できない。ありえない。それって勝己だったからってことになるのだろうか。
「そういうこと、なのかな。」それなら納得できてしまうような気がする。「かっちゃんだっただから」
 彼と一緒に過ごす帰り道のひとときはいつの間にか大切な時間になっていた。嬉しかった。彼の目的を無茶だと思ってもその時間と引き換えにできなかった。身勝手だったのは自分の方だ。
切島が背後に向かって呼びかけた。
「だとよ、爆豪」
「出てこいよ。聞いてんだろ」上鳴も続いて呼んだ。
「うぜえ。クソが」
 爆豪がのそっと影から出てきた。眉間に皺を寄せた明らかに不機嫌な様子に「うわあ」と悲鳴が出そうになる。
「お前が緑谷の気配に気づかないわけねえもんな」
「余計なことをべらべらと言いやがって。てめえら、さっさと失せろ!」勝己は怒鳴った。
「じゃあな、緑谷、後は二人で決めな」
 上鳴と切島はニヤニヤと笑いながら去り、廊下には出久と勝己だけが残された。勝己が出久に向き直る。もう怒ってはいないようだ。どこまで聞かれていたのだろう。身体が震える。だが言わなくちゃいけない。勢いで答えてはダメだ。
「ごちゃごちゃ言ってたけどよお。俺だから抱かれたって、ことなんだよなあ、デク」
凶悪な笑みを浮かべて勝己が口を開く。
「それは、そうなんだけど」そこは認めざるをえない。
「俺もてめえだから抱いたわけわけだからよ。なんの問題もねえよなあ」
 威嚇するような笑顔が怖い。でも押されちゃいけない。出久は息を吸い込み口を開く。
「あの、かっちゃん」
「んだよ」
「考えさせてほしいんだ」
「ああ?この期に及んで何言ってんだ、てめえ。ダメだ!俺がどんだけ曲げて曲げて。こんだけ自分を曲げたってのに、まだ足りねえってのか。これ以上曲げるとこなんてねえ!」
「かっちゃん、僕は逃げてるんじゃない。ちゃんと考えて」
「てめえはロクなこと考えねえだろ。感じろよ。考えるんじゃなくよ。友達なんかにゃなれねえ。てめえもそうだろ。そんなこと言ったことねえもんな。初めっからお前とは友達じゃねえんだ」
「そんな、かっちゃん」
「でも気になってしょうがねえ。苛立ってしょうがねえ。関わらずにいられねえ。だったらどうなりてえのか。てめえをどうしてえのか。俺はずっと。ずっとよお」勝己は拳を握る。「俺がそうしたようにてめえも感じろよ、クソが。今てめえはどうなんだ。まだ俺が怖えのかよ。ぶっ殺すぞ!」
 勝己の声が上擦っている。彼は無理強いしてるのではない。まっすぐ出久の心を問うているのだ。
 答えなきゃいけないんだ。胸がきゅうっと掴まれたみたいに痛い。僕は君が怖いのだろうか。それとも怖いのは僕の中の何かなのだろうか。僕はもう君の後についていってた僕じゃない。君は堂々と僕の前を歩いていた君じゃない。隣を歩いて身体を重ねて、僕君に今何を感じているんだろう。それでもなお。
 ああ、怖いんだ。たまらなく怖い。
 君を怒らせるであろうことも。並んで歩いた時間を失うだろうことも。
「怖いよ」
 目を逸らして出久は小さな声で答えた。勝己の肩がピクリと震える。 喉が詰まったようにそれ以上声が発せられない。だが勝己は黙ってまだ出久の言葉を待っている。
 感情を晒しているのは君なのに暴かれるのは僕の方なんだ。
「君の顔が見れないんだ」出久は俯いてやっと言葉を紡ぐ。「怖いのか怖くないのか好きなのか嫌いなのか。混乱してわからない。こんなはずじゃなかった。前より酷いんだ。こんなんじゃダメになるよ」
「はっ」一瞬の沈黙の後、突然勝己がはじけたように笑い出した。
かっちゃん、笑ってる?
 なんで、かっちゃん、笑ってるんだ?
「それが俺がずっと味わってきたもんだ。てめえもおかしくなればいいんだ。ざまあみろ」
 出久はそろっと顔を上げる。勝己はさも嬉しそうに破顔している。一歩踏み出すと彼は片手で出久の首を掴んだ。身体を引く間もない。
「かっちゃん、何を」
 ひくりと咽喉が鳴る。締められるのか。だが熱い掌は優しく首筋をさするだけ。壊れ物に触れるようにさらさらと勝己の手が皮膚を滑る。指が顎を掴む。
「ざまあみろ」勝己が顔を近づける。「デク」
 触れるほどに間近で名を呼ぶ勝己の声。赤い瞳に火が灯っているかのようだ。かっちゃん、と名を呼ぶ前に唇が塞がれる。

 電車を降りると階段の下で勝己が待っているのが見えた。出久に気づいたのかこっちを見上げて、顔を顰める。出久は慌てて急ぎ足で駆け降りる。勝己の前に走り寄ると、どんっと胸を拳で小突かれた。ちょっと咳き込む。
「てめえ、遅えんだよ。同じ電車だろうがよ」
「ごめん。かっちゃん。ちょっと飯田くんと麗日さんと話してたから」
「あいつらとは学校で喋ってっから、もういいじゃねえか。」
「学校ではその、ちょっと言いにくくて。やっぱり二人には話しておこうと思ったから」
「俺らのことかよ」
「う、うん。二人には隠したくなかったから」
「一緒に帰ってるとしか言ってねえんじゃねえだろうな。全部話したんか」
「えーと、うん、そうだけど」
「ああ、ならいいわ」
 いつものように連れ立って歩き始めた。そっと横顔を見る。 勝己の機嫌は直っているようだ。顔には出てないけれど纏う雰囲気がそう告げている。彼の黄金色の髪が陽に照らされて透けるように輝いている。
「今日家に来んだよな」勝己が口を開く。
「うん。宿題してから」
「はあ?すぐ来い。宿題なんか持ってくりゃいいだろ」
 勝己はくるっと方向転換して道を引き返した。商店街の方に足を向ける。デクも小走りになって着いて行く。
「帰り道こっちだよ?かっちゃん」
「買うもんあんだよ」
「コンビニじゃダメなの?」
「近所でなんか買えるかよ」そう言ってから付け加える。「もうゴムがなくなったんだ。言わせんな、バカデク」
「あー、あ、そう、なんだ」
 出久は恥ずかしさから俯き、消え入りそうな声で返事をする。
「なしでいいってんなら俺は構わねえけどよ。その方が気持ちいいしよ」
「ハイ、いります」
 勝己は出久の顔を覗き込んでにやりと得意気な笑顔を見せる。
「顔が真っ赤になってるぜ、デク」
 橙色の陽が差す方向に見えるのは、子供の頃によく遊んだ森だ。丘の上に頭一つ突き出ているのは昔登った大木だろう。木の上から街を見下ろせたように、街からも木が見えるのだ。
「そういえば」出久は思い出して口を開く。「僕が忘れてる約束って何のことだったの?
 振り向いた勝己と視線が合った。
「言ったろうが、忘れてんならいいってよ」
「でも、気になるよ」
「教えねえよ。ぜってえ教えねえ。知りたきゃてめえで思い出せ」
 そう言うと勝己は歩を速める。慌てて出久も速足になり、彼に追いつく。

 有頂天だった。誰よりもいい個性が発現したのだ。
 力をひけらかしたくてしょうがなかった。それに水を差すのはいつも出久だ。また遊んでやってた奴を庇って俺を非難しやがる。
「やめなよ。かっちゃん」
「どけよデク。そいつがヴィラン役だろうが」
「遊んでるだけだろ」「なあ、かっちゃん」子分達が口々に調子を合わせる。
「かっちゃんが勝手に決めたんだろ。そんなのヒーローじゃない」
「一番強えのがヒーローだろ」
「僕が許さない」
 生意気なことを言いやがる。頭にきて出久に殴りかかった。だが腕を伸ばした瞬間、身体が前によろけた。前に出した腕を出久が掴んで引っ張ったのだ。勝己はバランスを崩して膝をついた。
 今、何が起こった?こいつが反撃したのか。個性もねえ何も出来ねえこいつが。
「逃げて」出久が庇った奴に声をかける。
 子分達が逃げる奴を追いかけていった。だが逃げる奴なんか目に入らない。頭に血が上り、出久を引き倒して馬乗りになった。
「デクのくせに」
 と言いながら平手で叩く。拳で殴らないくらいには頭は冷静だった。おどおどした目を見て溜飲が下がる。
「おいデク、謝れば許してやる」
「何を?」
「俺に逆らったことをだ」
 ビクつき目を逸らしながらもあいつは反論した。
「間違ってるのはかっちゃんだよ」
「なんだと」
 地面に手を叩きつけて小さく爆破すると、ビクリと出久が震えた。だが怯えてるくせになおも言い募る。
「あんなのヒーローじゃないよ」
「てめえ」
「かっちゃんはすごい個性を持ってるのに。どうしてあんな使い方しかしないんだよ」
 腹が立った。思い知らせてやる。
「ちょっと来い」
 立たせて手を引っぱった。あいつは「どこに行くの」と不安気に聞く。「いいもの見せてやるよ」と答えてにやりと笑う。
 森を歩かせて大きな木の下に出久を連れてきた。最近仲間に入ってこない出久。自分が乱暴するからか、あいつが生意気だからなのか。もうきっかけは忘れた。
 最近知った個性の使い方だ。掌を下に向けて爆破すればかなり高いところまで跳べる。出久の腰を抱えて狙った枝にジャンプした。「うわあ」とあいつが叫ぶ。
 あいつを抱えたまま木の枝に座り、原っぱの全景を見渡した。まるで森の王になったかのようだ。 怖がってしがみつく身体をしっかり抱きしめる。
「見てみろよデク。な、俺の個性でここまでジャンプできるんだぜ」
 得意になって言う。こんなことできるの俺だけだ。
「早く降りようよ、かっちゃん」
 折角連れてきてやったってのにとイラッとした。てめえだから見せてやってんのに。
 ふとタンクトップ越しの出久の体躯を意識する。個性の影響で体温の高い自分より低い体温のはずなのに、なぜか自分よりほんのり熱く感じる。ふわふわのくせっ毛の日向の匂い。つい最近まで無造作に当たり前のように触れていたのに。叩いたり蹴ったりすることはあっても、今はこんなふうに触れられない。出久が触れてくることももう殆どない。いつも俺のすぐ後をついてきたくせに。いつの間にか楯突くようになった。怯えながらも反抗する出久。お前がそんなだから俺は。
 俺を認めねえのか。認めろよ。どうすれば認めるんだ。てめえの言うヒーローってなんだよ。強ければいいんじゃないのかよ。離れても離れきらずに、遠くから観察しやがって。ふざけんな。それがてめえの望む距離なのかよ。俺を参考にして、てめえがヒーローになるつもりなのかよ。なれねえよ。てめえは俺より下だ。ずっと下のままだ。だからてめえは俺だけ見てりゃいいんだ。
「怖いよ、かっちゃん」
 そう言い、出久は勝己を見上げ、さらにぎゅっと抱きついてくる。緑がかった大きな瞳。密着するあいつの身体。触れたところがぶわっと熱を帯びる。頭が真っ白になり、勝己は動転して手を離してしまった。
 しまった。
 腕を掴もうとしたが間に合わない。やべえ、落ちる前になんとかしないと。
 勝己は地面に掌を向けた。温度は低めにして地面を爆破して爆風を起こす。出久の身体がゆっくり軟着陸したのが見えた。
 ジャンプして下に降りる。出久は寝転んだまま目を丸くしている。
「おい」と勝己は声をかけた。
 出久はそろっと顔を向けた。焦点が合ってない。だが勝己を認めるとみるみる目に涙を貯める。背筋にふわりと走る感覚。これは何だ。上半身を起こした出久の目から大粒の涙が吹き出し、ぽろぽろと零れ落ちる。
「酷いよ、かっちゃん」
「落ちるてめえが悪いんだ」
 そう言いながら触って身体を確認する。熱で赤くなってるところはあるが、大した怪我はないようだ。
「ほんとにデクだな。てめえひとりじゃ何もできねえ」そう言いながら勝己はほっとする。
「酷いよ。舌ちょっと噛んじゃったよ」
「ああ!? 知るかよ」
 見ると出久の舌先に血が滲んでいる。紅い紅い色。吸い寄せられる。勝己は顔を寄せてそれを舐めた。
「か、かっちゃん?」
 引っ込んだ舌を追いかけて口を合わせる。ふにゅりと柔らかい唇。はむっと啄む。そろっと隙間に舌を忍ばせる。
「ん、ん」
 逃げる舌を捉えてぴちゃぴちゃと音を立てて絡ませる。柔らかくて甘い。とろけてしまいそうだ。出久はぎゅっと目を瞑り頬を紅潮させている。勝己のなすがままだ。気分がいい。キスを味わいようやく出久の唇を開放した。
 気持よかった。喉が渇く。もっと欲しい。こいつを。
 もっとよこせよ。
 無意識に幼馴染の頬に手を伸ばす。指先が滑らかな肌に届く。
「かっちゃん」
 か細い声で呼ばれて我に返った。今、何をしていたんだ俺は。何をしようとしていたんだ。
「クソが」
 胸のうちに燻る行き場のない熱。内側からじりじりと灼かれてゆくようだ。熱の向かう先は今目の前にいるのに。
 こいつのことだけは何一つ思い通りにならねえ。なんで、なんでだ。
 立ち上がり、ぼうっとしている出久に言った。
「おいデク、誰にも言うなよ。二人だけの秘密だからな」

END