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放課後遊戯(全年齢版)

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Chapter・1


始めてキスをしたのは13歳の夏休み明け。
その日の放課後は、くすんだ水色の空に、水母のように透けた半月がぽうっと浮かんでいた。

誰かに呼び止められた気がして、出久は足を止めた。
よく知っている声だった。心を揺さぶられる声だった。校庭を見回したが、帰る生徒達の中に声の主はいない。
再び歩き出すと、校門側の木立に勝己が佇んでいるのが見えた。紫がかった影の中に沈むように。
急に足が泥に沈むように重くなる。
いつからなのか。幼馴染の勝己との間に生まれた距離。止めようもなく広がった間隔。
中学生になって初めての夏休みが過ぎた今、勝己の交友関係に自分は入っていない。話をするどころか、挨拶を交わすことも殆どない。
寂しくないかと言ったら嘘になる。けれども、もとよりアクティブな勝己と自分では性格が違いすぎた。幼い頃ならともかく、これからはお互い自分に合った環境で、新たな関係を築くべきなのだろう。
魚の水槽を変えるように。花を植え替えるように。そう自分を納得させた。
とはいえ、自分はいまだ新たな環境に慣れたとはいえないけれど。
しかしこの日は違った。足早に通り過ぎようと校門を出たところで
「おい、デク、無視してんじゃねえよ。ちょっと来いや」
と勝己に声をかけられ、強引に腕を取られた。
「無視なんて、ごめん、そんなつもりじゃなかったんだ。僕に用なんてないと思って」やましくなどないのに反射的に狼狽えてしまう。「それで、かっちゃん、なんか用だった?」
「ああ?用がなきゃ呼ばねえわ、クソが。ちとツラ貸せや!」
「あの、用ならここで聞くよ。僕、早く帰って宿題しなきゃいけないんだ」
ふたりきりになってはいけないと勘が囁く。幼い頃ならともかく、今の彼には警戒せずにはいられない。
「お前帰宅部だろうが。全然時間あんだろ」
「確かにそうだけど」図星を指されてちょっと詰まる。「ノート纏めたり、オールマイトのニュースチェックしたり、やることいっぱいあるし」
と言ったが、勝己は全く聞く耳を持たない。
「ぶつぶつうるせえわ!てめえの事情なんざ知ったことか、クソが!」
引きずるようにして勝己に連れて来られたのは大橋の下。頭上を通る車の振動が橋桁に押しつけられた背中に響いてくる。
堤の上を通る人はいない。もしいても自分達の姿は橋桁の影に隠れて見えないだろう。
足元で拳大の石がごろりと転がり、バランスを崩しそうになった。
「転けてんじゃねえよ。てめえ、朝、挨拶しなかっただろ」
支えるように出久の肩に手を置くと、勝己は口を開いた。
「挨拶…?」日直で先生に呼ばれ、挨拶するタイミングがなかったな、と思い出す。「そうだった、かな。でも、僕が挨拶しても君は返してくれないし」
橋桁のひんやりした感触を背に感じながら言い返す。
「俺は挨拶しねえよ。だがてめえはしろや」
「え?なんで?返事がないのに挨拶しなきゃいけないの?」
「俺がそうしろっつったらしろや!
「わ、わかったよ。意味わかんないけど、わかったよ。これからは心がけるよ。もう帰っていいのかな?」
「ああ?あんだ、その言い草はよ。むかつくな」
どこが気に障ったのだろう。長く話せば話すほど、勝己の機嫌は悪くなるのが常だ。一刻も早くこの場を離れたいだけであるのに。
「ごめん、でも帰らせてほしい」
「口先だけで謝ってんじゃねえ、クソが!挨拶なんざどうでもいいんだよ。まだ話は終わってねえわ」
「え? どうでもいいの?」
なにがきっかけだったのか覚えていない。
さらなる数々の言いがかりに、口籠もりながらも言い返したように思う。
苛立った勝己に橋桁に強く押し付けられ、背中への衝撃に目を瞑った。その時だ。
顔の前に影が差し、唇に柔らかいものが触れた。
目を開けると、勝己の瞳が眼前にぼやけて見えた。
何が起こったのかわからなくて混乱する。
暫くして唇を重ねられたと知った。
触れ合った唇は離されることなく、角度を変えて押しつけられる。薄い唇の皮越しに伝わる勝己の体温。湿った感触。
「かっちゃん?」と問いかけた唇の隙間から、迷うように舌が差し入れられた。
入ってきた舌はくまなく口内を這い、大胆に自分の舌を絡め取る。口内を探られるくすぐったい感触。息が苦しくなると一時的に唇は離されるが、ひと呼吸するとまた塞がれてしまう。
さっきまで聞こえていた川のせせらぎの音が消えていった。橋の上を通る車の音も聞こえない。
口内でうねる水音が、内耳から大きく響いて頭を埋め尽くす。
「てめえ、顔赤くしやがって、興奮してんのかよ」
軽く上唇をつけたままに、かすれた声で勝己が揶揄う。
「違うよ、酸欠になっただけだ」
それか夕焼けのせいだ、と言い返そうとした言葉が、再び唇で塞がれて勝己に飲み込まれる。
いっそ食べ物だと思えばいいのか。そうだ、食べ物だ。口の中でこんな風に動く食べなんて、何かあるだろうか。
違和感に慣れようと耐えているうちに、頭の芯がぼうっとしてくる。
ようやく開放された。橋桁に背中を預けて、ずるずるとしゃがみ込む。嬲られた舌がふわっと痺れている。
「かっちゃん、いったいなに、あんのつもりで」
呂律のまわらない言葉で、問いかけながら顔を上げた。
目に入ったのは、荒っぽくキスを貪ったくせに、真っ赤になった勝己の顔。
荒く息を吐いて、誰にも言うんじゃねえぞと脅す余裕のない表情。
「いいな、誰かに言ったらコロスからな」
と念押しして、勝己は歩き去って行った。
橋の上を通る自動車の音が耳に戻ってきた。
出久はどちらのものともわからない唾液で濡れた唇を拭う。
勝己の考えていることがわからない。一度やって見たかったんだろうか。勝己の新しい遊びだろうか。怖くてとても聞けないけれど。
「ファーストキスだったのに酷いや」
我に返ると災難でしかない。でも殴られたり、ノートを破られるより、ずっとマシかも知れないと思った。
確かキスをする魚がいた。キッシンググラミーという名だっただろうか。雄同士が互いの口をくっつけるので、仲がいいのかと思いきや喧嘩をしているのだという。でもマツバスズメダイはツガイの雄が、求愛のためにキスをするという。
勝己はどっちだろう。いや、人と魚は違うし、考えるまでもないか。
でも、あの時、彼でもこんな風になるんだと、どこか奇妙な満足感を覚えていた。
よろっと腰を上げて立ち上がり、鞄を抱えて川縁を歩く。川面はあの頃と変わらず、鏡の欠片を散らしたように、きらきら光っている。
小さな頃ここでよく、勝己と魚やザリガニを獲ったりして遊んだ。川にざぶざぶと入って獲るのは勝己。自分はうまくできないので、たもを持つ彼の背中を見ていた。それはほんの数年前のことなのだ。
出久は橋の方を振り返った。太いワイヤーを渡した吊り橋仕様の大橋。縦に伸びた線は、空を細長い四角形に区画している。
まるで見えない怪獣を閉じ込める、巨大な檻のように。


Chapter・A


河原に行こうとかっちゃんが言った。
靴を脱いで躊躇なく川に入ってゆくかっちゃんに、自分も仲間たちも、たもを持ってついて行った。
水位は深いところでも膝までしかない浅瀬。水に浸した足がひんやりとして気持ち良かった。
かっちゃんはひょいひょいと中洲に向かって流れを渡っていく。
「待ってよ、かっちゃん」
置いていかれると焦ってしまい、川底の石に足取られて転んだ。辛うじて手を川底についたけれど、服は下着までぐっしょり濡れている。
馬鹿でえ、と振り返ってかっちゃんは笑う。だが、少しだけ歩くスピードを落としてくれた。慎重に歩いて中洲に到着し、たもを置いて座り込む。
日差しが強いおかげで、直ぐに服は乾いてきた。Tシャツの首元をめくると、皮膚の色が薄く褐色になっているのが見える。
「てめえ、もう日焼けしてんのか」
上から聞こえた声に、顔を上げて眼前を振り仰ぐ。いつの間にか、かっちゃんが立っていて自分を見下ろしていた。襟元に手をかけられ、肩までのばされる。
「は!かっこわり。こういうのは土方焼けってんだぜ」
「だって、半袖着てて日焼けしたら、皆こうなっちゃうよ」
見ろよ、と言ってかっちゃんはTシャツを脱ぐ。
「……かっちゃんは焼けてないね」
「まあな!俺は焼けたことねえよ」
かっちゃんの肌は髪の色と同じく色素が薄い。真夏でも日焼けしてるのを見たことがない。
たもを手に持ってかっちゃんは川に戻り、魚を獲りに行った。
彼を追おうと立ち上がり、川の浅瀬に足を浸す。透明度の高い水の中、幾つもの細長い影が揺らめく。
小魚だ。水草の間を縫って小さな魚たちが翻る。
半透明で大きな赤い尾鰭を持つ魚が数匹寄ってきた。動かない自分を岩か何かと思っているのだろうか。
足の周りをくるくると回遊したり、脹脛に隠れたり、まるで遊んでいるかのようだ。鱗に撫でられているようでくすぐったい。
足元をざぶんと網が掬った。
掬い上げたのはかっちゃんのたもだ。網目の中に、さっきの赤い尾鰭の魚が見える。
かっちゃんは魚ではなく、こっちをじっと見ている。
グッピーの鰭よりも赤い綺麗な紅色。
網の中で魚がぐったりとして、尾を震わせているのに気づいた。
「かっちゃん!魚、水につけてあげないと弱ってしまうよ」
焦って言う。キャッチアンドリリースの精神というわけではないが、魚は獲っても持ち帰らず、川に放してやるのが常だった。
「わーっとるわ」
しかし、かっちゃんはたもを摘んで魚をバケツに入れた。中には2匹の魚が泳いでいる。
グッピーだな」かっちゃんは言った。
「持って帰るの?」
「ああ、飼う」
皆と別れた後、追いかけてきたかっちゃんに呼び止められ、家に誘われた。
グッピーを水槽に入れるの見に来いや」とかっちゃんは言った。「うちにアクアリウムっていう、水草だけを育てている水槽があんだ。水草だけなんてつまんねえだろ。前から魚がいた方がいいって思ってたんだ」
水槽はリビングの窓際に置いてあった。かっちゃんは魚を両手に掬い上げ、水槽に入れた。
色とりどりの水草や珊瑚の林の中を、2匹の魚は気持ちよさそうに泳いでいる。
グッピー外来種だ。元々国内にはいなかった魚なんだぜ」
「かっちゃん、なんでも知ってるね」
「知んねえのかよ。こんなん常識だ」かっちゃんは得意げに言った。
「でも生態系に影響与えたりしねえから、野生化しても、ブラックバスみたいに駆除されたりしねえんだ」
「どこの川にもいるのにね」
「ああ、弱いから生かされてるんだ」
弱いから生かされている。その言葉は何故かちくりと胸を刺した。半透明の身体を揺らめかせる小さな姿。矮小さ故に存在を許された魚。
「だから、俺らが捕っても構わない魚なんだ」
水草の森から姿を現したグッピーは、赤い鰭をはためかせて泳ぎ、鼻先が硝子に触れると直角に曲がった。
魚は何故前に進めなくなったのかと、不思議に思っているかも知れない。この四角い世界にもう2匹しかいないなんて、きっと気付いてないだろう。
捉われたと知らず、いつの間にかどこにも行けなくなった魚たち。
大きな魚や鳥に狙われることのない、透明な硝子の壁に囲まれた世界と、危険に溢れた川の中とどっちがいいんだろう。
ガラス越しに見える風景は、魚からはどんな風に見えているんだろう。


Chapter・2


初めて性交したのは、3学期が始まった頃。
かじかんだ掌を擦り合わせ、マフラーで口元も覆って見上げた薄曇りの空。

その日の帰り道、足速に通り過ぎようとした勝己の家の前で、突然呼び止められた。
「よお、デク。帰宅部のくせして、随分遅え帰りじゃねえか」
凶悪な笑顔を浮かべて、勝己は玄関先に立っている。
帰宅時間をずらしていたのは、やはりバレているようだ。
キスをした日から気まずくなり、勝己と顔を合わせづらくなっていた。
勝己が何を考えて、あんなことをしたのかわからない。でもとても理由なんて聞けない。挨拶どころか、目を合わせることもできない。あれから勝己との間には、より一層距離ができていた。
あの時に感じた、形のない感情には蓋をした。
しかし、心理的な距離とは裏腹に、物理的な距離はある意味近くなっていたと言ってもいい。
勝己は交流がなかった頃から一転して、しばしば出久に絡んでくるようになった。事あるごとに出久が無個性であることを周囲に吹聴し、顔を見ればこづいたり悪態ついたり、酷くいじるようになった。
「今家に誰もいねえ。気使うこたねえ。上がれよ、デク」
勝己はクイっと顎をしゃくる。
「そうなんだ。誘ってくれて嬉しいよ。だけど、ごめん。僕用事があるし早く帰らなきゃ」
「用事だあ?どうせオタクノート書くとかだろ。ちょっと寄ってくだけだっつうんだ。時間とらせねえよ。それともなんだてめえ、俺の言うことが聞けねえのか?」
「そ、そんなことないよ、ええと、」
「他に説得力のある言い訳あんなら、言ってみろや。聞いてやっからよ」
「う……じゃあ、お邪魔します」
咄嗟に説得力のある嘘などつけない。偽るのはやめて従うことにした。仮に思いついても、断ることは許されないだろう。
久しぶりに入った勝己の家は、昔と殆ど変わってなかった。モデルハウスのような綺麗なリビングダイニング。吹き抜けの窓からの明るい光。テレビの設置してある壁はエコカラット。
ただ一つ、窓際にあったはずの水槽がなくなっている。
「なんで来た、てめえ」
背中を向けたまま、低い声で勝己は言った。
「なんでって、そんな、かっちゃんが入れって言ったから」
こっちを振り返った勝己の鋭い視線に、びくりと震える。
「は、は、俺が言ったからってか。俺の言うことなんざ、ひとつも聞かねえくせによ」
「そんなことないよ。ごくたまに、どうしても譲れないことがあるだけで」
「てめえ、ろくなことにならねえって思ってんだろ。いや、わかってんだろ。なのになんでノコノコと入ってこれんだ?」
彼は何が言いたいのだろう。来いと言ったくせに、来たことを非難されているようだ。理不尽な言葉に、怖いと思うより苛立ってきた。
「何か用があるんだよね?かっちゃん」
「用なんてねえよ」
「ないの?だったらなんで?」
返事はない。勢いでこのまま家を出た方がいいかも知れない。
しかし踵を返した途端、勝己は強く腕を掴んできた。
「誰が帰っていいと言ったよ」と言うなり、有無を言わさず出久の腕を引っ張り、リビング階段から階上に連れていく。
水槽は二階のホールの壁際に移してあった。光を反射して、天井に水面の影が揺らめいている。
勝己は水槽の前に立ち止まると、水槽をじっと見つめた。
水没した森のジオラマのような水槽。小さなぷくぷくと出る泡に押されて、中の水草が揺れる。しかし、魚らしきものは見当たらない。
「あの魚いないの?かっちゃん」
グッピーか?いるわけねえだろ。あれから何年経ったと思ってんだ。」
「そっか。2匹いたから繁殖してると思ってた」
「両方とも雄だったわ。増えるわけねえ」
「大きな水槽だし、魚増やせばよかったのに」
「他の魚なんざいらねえんだ」勝己は苛ついた口調で呟く。「ごちゃごちゃ言ってねえで来いよ、デク」
久しぶりに勝己の部屋に足を踏み入れた。
机とベッドと本棚、壁にかかってるのは時計とカレンダーのみ。飾り気のないシンプルな部屋だ。昔はゲーム機や玩具が、見えるところに置いてあったように思う。
「てめえ、なんで大人しく着いてきてんだ」
また勝己は理不尽な言葉を吐いた。
「だって、君がつれて来たんじゃないか」
「言われたから来んのかよ。嫌なら逆らえんだろ。必死で抗えよ。のこのこと来やがって、馬鹿じゃねえのか」
「え?意味がわからない。来いって言ったのは君じゃないか。矛盾してるよ。僕にどうしろって言うんだ」
「うるせえ!てめえがそんなだから俺はなあ」
いきなりベッドに投げ出された。不意打ちに面食らっているうちに、上にのしかかられる。殴られるのかと頭を庇い、目を瞑る。しかし、顔を覆った両手は剥がされ、頭上に纏められた。
「嫌なら最初から抗えよ」
凶悪な薄い笑みを浮かべた勝己は、出久のベルトを外し、ズボンを足から引き抜いた。思わぬ横暴な行為に抵抗が遅れる。
「うわ、かっちゃん!何すんだよ」
「誘っても家に入んな。引きずられても部屋に入んな。家に俺1人しかいねえってわかってんだろ!」
「何言ってんだ。わかんないよ、かっちゃん。もう帰るからズボン返してよ」
「てめえは入ってきちまったんだ。もう遅えわ」
地の底から響くような声だった。
シャツのボタンが外された。肌けた隙間から勝己の手が差し入れられる。
「なに?何してんだよ」
掌が胸をまさぐる。乳首を捏ねるように撫でられ、擽ったくて身体を捩る。
そろりと勝己が足の付け根に手を伸ばした。意を察して抵抗したものの、下着もあっさり剥ぎ取られ、脱がされた服はベッドの下に放られる。
裸の身体が勝己の視線にさらされる。恥ずかしくて落ち着かない。
「うっすい身体だな」じっと見つめて勝己は言う。
「あ、あの。何のつもりかわかんないけど、もう服着ていい?」
戸惑う出久の腕を戒めたまま、勝己は首元から腹へと肌を撫でる。内股を撫でられ、びくりとする。局部を避けるように、勝己の手が肌の上を滑る。
皮の分厚い勝己の掌は温かく、手つきは細やかだ。戸惑いつつも、摩られていると緊張が解けてゆく。
やっと腕の戒めが解かれた。しかし自由にしてくれたわけではない。勝己は押さえつけながら肌に触れ続ける。
縋るものを求めて、出久はシーツをぎゅっと掴む。
勝己はズボンの前を寛げた。シャツの裾から勃ちあがりかけたものが、ちらりと垣間見えた。
やばくないか?心の中で黄色い信号が点滅する。
予感は現実になった。下着も脱ぐと勝己は覆いかぶさって、体重をかけてきた。
出久はびっくりして足を捩ったが、「動くんじゃねえ!」と怒鳴られ、身体が硬直した。

生々しい感触。焼け付くような感覚。
勝己の息が荒い。デクの首元に勝己の唇が触れ、音を立てて吸い付く。場所を変えて舌先で舐めてはまた吸い付く。
顎を掴まれた。指が縁取るように唇をなぞる。
「デク、てめえは、」
と目を合わせて上擦った声で囁かれ、キスをされる。舌が唇を割るように入ってきて、口内を荒らす。息を盗まれて酸欠になりそうだ。
今だけ、今だけ我慢すればいいんだ、と自分に言い聞かせる。好奇心を満たせばきっと気が済むはずだ。
「はっは、ざまあみろ」と笑うように息を切らせて、勝己は背中に覆いかぶさってきた。シャツ越しに感じる彼の肌の温み。肩にかかる吐息。

重みと体内の圧迫が漸く離され、解放された出久は身体を返して仰向けになり、勝己を仰いだ。
こんな彼を見たことがない、と思った。
いつも張り詰めて、強気にふるまう勝己の、快感に浸ったしどけない表情。
頬は紅潮し、瞳は潤んで、艶めいた、綺麗といってもいいような面差し。
勝己は再び覆い被さり、強く抱きしめてくる。
何故だろう。ほんとに何故だろう。蹂躙されたのに。どういうわけか彼をかわいいと思った。
彼の快感に蕩けた表情。それは痛みよりも勝る鮮烈な印象だった。
だから、深みに嵌っていったのかもしれない。


Chapter・B


「勝己、いずくくんが来たよ!」
玄関に出たのはかっちゃんのお母さんだ。雰囲気がよく似てる。でもそう言うとかっちゃんはすごく怒る。
「おお、上がれや。デク」
リビングに繋がるドアの向こうから、声だけ飛んできた。かっちゃんのお母さんに続いて部屋に入ると、ソファに寝転んでいたかっちゃんが起き上がった。開けてくれた隣に座る。スプリングが跳ねてかっちゃんと二の腕が触れ合う。
リビング階段に吹き抜け。大きな窓に嵌った格子が青い空を四角く切り取っている。高い天井が外国の教会みたいに思えて荘厳に感じる。窓に嵌められているのは青いステンドグラスだろうか。
白いテーブルの上には林檎や梨が盛られた果物籠。広くて整頓されたリビングは、綺麗すぎてモデルハウスのようで落ち着かない。自分の家は団地だから平面アップダウンがあるかっちゃんの家は、いつ来ても素敵だと思う。
「かっちゃん、映画見てたの?」
壁にかかった大きなテレビ外国の映画がついてるので問うた。ちらりとエッフェル塔が映った。石畳にくねるように曲がった街灯。フランス映画のようだ。
「ちげえよ。親が見てんだ。全然俺の趣味じゃねえわ。うんと古い映画だしよ」
と言いつつもかっちゃんの視線は画面に向けられている。
かっちゃんは他の友達を家には呼ばない。お母さんに禁止されてるそうだ。
一度何故なのか訊いたら、「どう考えてもあいつら呼んだら家ん中で騒いじまうだろ。あいつらとは外で遊ぶのがいいんだ」と言い、「てめえは別だからな。呼んだら来い」と付け加えた。
かっちゃんのお母さんがソーダ水を出してくれた。カットグラスの中の薄青い色。氷が溶けてチリっと鳴った。コップの表面についた水滴が光を反射して煌めく。滴り落ちる雫を指で辿る。ソーダ水は口に含むと花火のように弾けた。冷たくて美味しい。
「勝己、おやつ食べたら部屋行きな」
お菓子の入った籠をテーブルにおいて、かっちゃんの頭を叩いてお母さんが言った。
「じゃ、もうかっちゃんの部屋に行く?」
「菓子食えデク」とかっちゃんは籠を寄せてくる。「まだいかねえの。最後まで見てえし」
「やっぱりかっちゃん、この映画見てたんじゃないか。面白いんだね」
「全然面白かねえわ、クソが。つい見ちまったから、この先どうなんのか気になるだけだ」
画面の中では女装した男が病院に入り込み、病室で眠っている女性を絞殺した。まさかそうなるとは思わなかった。かっちゃんもひゅっと息を呑んでいる。
「うわあ、びっくりした。サスペンスなんだね」
「ちげえよ。バカ」
かっちゃんは即座に否定した。
「え、でも、殺人事件が起こったよ」
「この女はこいつの恋人だ」
「え、恋人なの?
「だから手にかけるんだ」
「なんで?恋人なのに?」
そう聞いたとき、彼が答えた言葉を覚えていない。かっちゃんはなんと答えたのだろう。


Chapter・3


もう何度交わっただろう。

キスをした時から一年になるだろうか。けれども、学校での勝己の態度は変わらない。だから自分も変えられない。彼との距離は一向に縮まる気配はなかった。
なのに放課後はセックスの真似事をしている。
男同士だし恋人でもない。では僕らはなんなのだろう。
開かれたカーテンの向こうに空が見える。二重サッシの窓は閉まっているから、声は漏れないと勝己は言っていた。でも、誰かに見られてしまうんじゃないかと、気になってしまう。隣家の窓はこっちの部屋が見える位置にはないけれど、2人とも全裸なのだ。
「おい、余所事考えてんじゃねえ」
「かっちゃ…別に僕は、何も考えてなんて」
「集中してねえだろ。上の空なのわかんだよ。てめえは感じてればいいんだ」
「だったらカーテンを閉めてよ。気になるじゃないか」
「だめだ。興が削がれんだろ」
確かに隣の窓は見えない。わかってたことだけど、そういう問題だろうか。
普段の帰宅時間なら、カーテンを閉めなくても薄暗がりになる。でも今日は半日登校だったからまだ昼間なのだ。
ベランダの上に見えるのは、秋の高く澄んだ青い空。一面にうろこ雲が広がっている。
うろこ雲は巻積雲、いわし雲とも呼ばれ、上空高くに浮かんでいて、氷の結晶でできている。さらに上空だと刷毛で描いたような薄い筋雲ができる。
あれがもし本当に魚の鱗ならば、空にはなんて巨大な魚がいるのだろう。
ベランダの手すりに、鶫が飛んできて止まった。不思議そうに首を傾げて、僕らを見ている。
生産性のない行為をしている、滑稽な僕らを。
人間だけが快楽のために行う、交尾じゃない交尾の紛い物。勝己にとってはきっと、苛むための行為でもあるだろう。
好奇心を満たせば済むなんて、間違いだった。一度したら味をしめる可能性を、なんで考えなかったんだろう。
必死で抵抗すればできたのだ。本来女性とすることなのだから。でも大人になったら、本当にこんなこと女性に出来るのだろうか。想像できない。勝己はそれを試してるんだろうか。
彼がわからない。自分がわからない。何故ここに来てしまうのだろう。
汗ばんだ肌が重ねられる。ことが終わるといつも勝己は抱きしめてくる。
勝己の身体は、肩も胸も硬い筋肉に覆われてきて、ずしりと重みを感じる。1年前は少年の身体だったというのに。いまだにひょろい自分の体躯とは違う。
勝己のやり方は、日が経つごとに身勝手になってきたようだ。
まるで追い立てられるかのように。
憔悴しているかのように。
何かを証明しようとしているかのように。
互いに気持ちいい行為だったはすなのに、どうして歯車がズレてきたのだろう。
時々抱かれていると、まるで自分が人ではなく、人の皮を被った肉袋のように思えてしまう。
「噛み付いたら殴んぞ」
と言うと勝己は口付けた。深く喘ぐ吐息を貪るように。

勝己の家からの帰り道に、遠回りをして公園に立ち寄った。臀部に慣れてしまった違和感を感じ、つつベンチに腰掛ける。
すぐには家に帰れない。母に心配をかけてしまう。自分は今きっと酷い顔をしているだろう。
密かに期待したのだ。この遊戯の行く先に。
この関係が、絡まった自分達の関係を少しは好転させてくれるのではないかと。
セックスした後の勝己は、心なしか機嫌が良くて、あたりもほんの少し柔らかい。
だから密かに期待した。
けれども、勝己は学校では相変わらず、馬鹿にしてきつくあたるのだ。放課後だけの秘密の行為は、昼間の関係を何も変えることはない。
普段と違う勝己を見れるのは、密かに嬉しかった。でも、その代償に勝己によって、自分の身体が変えられていく。
勝己の都合の良いように、開発されてゆく。お尻だけで絶頂になるなんておかしいのだ。
勝己の好奇心にたとえ悪気がなかったとしても、このまま続けていたら取り返しがつかなくなる。
そもそも友達を性欲処理の相手になんてするわけがない。自分にしたのは友達に戻るつもりなんてないからだ。
初めから勘違いしていた。なんで気づかなかった。いや、気づいているのに、気づかないふりをしていたのか。
こんなことで元に戻れるなんてどうして思ってしまったんだろう。
自分達の拗れた関係を元に戻せるなんて夢物語だったのだ。
もう止めよう。彼を避けよう。学校でも行き帰りでも目を合わせないようにしよう。帰り道にある勝己の家の前は足早に通り過ぎよう。
暫く頻繁に寄っていた勝己の家。勝己の部屋にも、きっともう来ることもない。


Chapter・C


配信映画の中にそれがあった。
思い出す。
夏の午後、空を溶かした様なソーダ水、グラスを濡らしテーブルに滴る雫。
家に遊びに行ったときに、かっちゃんがテレビで見ていた午後のロードショー
フランスの映画だった。
ベティブルー」確かそんな題名だった。
パッケージ写真は深い青い背景と頬杖をついてどこか上を見ている女性。
サスペンスではなかった。彼が言ったように恋愛映画だった。
オープニングに悲恋を予想させるサクソフォンのソロが流れた。
出会ってすぐに恋人同士となったふたり。楽しく過ごしていたのに、突然心が壊れてしまった恋人。悲しい恋愛映画だった。
何故別れなかったのだろう。悲劇となる前に。殺してしまう前に。
「フランスの恋愛映画は出会って別れるまでの話なのよ」
と母は言った。
「恋人関係の始まりから終わりまでを描くの。アメリカ映画は出会って、別れて、復縁するまでのストーリーが多いけれど。物語としてはともかく、普通は復縁するなんてあまりないわ。恋愛は一期一会よ」
「なら、辛いことになる前に手を離してしまえばいいのに。それが正しいよね」
「過ごした時が美しいほどに固執してしまうのよ。
手を離せば終わりだと思うから、ふたりの時がもう二度と戻って来ないと思うから。辛くても苦しくても、耐えがたくても、手離せないものなのよ」
だから一緒にいる時を大切にするのよ、と母は笑って言った。
関係の終わりまでを、とことんまで突き詰めて、初めて見えるものもあるのだろうか。
予測できたのではないのだろうか。
予測していても選んでしまうのだろうか。
カタストロフが待っているかもしれない
そんな底知れない世界
怖くないのだろうか。
病院に忍び込み恋人の首を締める結末。
捕まることもなく、後を追うこともなく。
彼はこの先にどうなったのだろう。


Chapter・4


背後でドアの鍵が閉まった音がした。

リビングには吹き抜けから、眩しい光が降り注いでいる。なのに、なぜか氷の城に入ったように錯覚する。
「おいデク、服を脱いで後を向いて、テーブルの前に立てや」
勝己が言った。何気なくも有無を言わせない口調。
「いやだよ。もう理由がないよ。大体、お、男同士でおかしいだろ」
「は?今更何下らねえこと言ってんだ。さんざんやっといておかしいだあ?」
「……もうやめたいんだ」
「戯言はもういい。脱げっつってんだ!」
放課後に学校の裏門からこっそり出ようとしたら、待ち伏せしていた勝己に捕まった。そのまま引きずるように、勝己の家に連れてこられて今に至る。
「てめえ、また下校時間をずらして、帰り道も変えてやがったな。裏門から出るたあ姑息なやり方しやがって。気づかれないと思ってんたんかよ」
出久は俯いた。この数日間、放課後は彼に近寄らないようにして、隠れて帰宅していた。けれど、見つからずにいたのではなく、泳がされていただけだったのか。
そうして今、逃げ道を塞がれ、無茶な要求をされている。
悪鬼のようなオーラを纏った彼を直視できない。心臓がばくばくと鳴り、身体が震える。
「なんで?しかもここはリビングじゃないか……こんなところでやるの?冗談だよね」
怖さを堪えて抗議すると、射るような眼で睨まれた。
「ああ?俺がやるっつったらやんだよ。さっさと脱げや!」
勝己の掌が爆ぜる。
この顔は本気だ。思い通りにするまで帰してくれないつもりだろう。ならさっさと済ませたほうがいい。
今だけだ。気が済めば解放してくれる。
本当にそうか?自分はまた彼の気が済めばと期待している。済むわけないと知っているのに。でも、他にどんな術があるというのか。
ゲームみたいにリセットしたくても、現実は出来やしない。
震える手でズボンを脱いで、足元に落とす。ちらっと勝己を仰ぐ。
「全部っつったろ」
ため息をつき、全裸になってテーブルに手をついた。両足の内側を蹴られ、脚を開くよう促される。
「ほぐしてきてんだろうな」
「してないよ。してくるわけないだろ」
もう君とは、と言いかけて、無駄に怒らせ無い方がいいと口を噤む。
「どうやるのか、忘れちゃったよ」
「クソが……」
舌打ちして勝己は衣服を脱いだ。
明るい光の中に鍛えられた身体が現れる。
堂々とした伸びやかさ。何処かの彫像のような、均整のとれた完璧な肢体。
憧れざるを得ない身体に圧倒される。貧弱な自分との体格の違いが悔しい。自分もこんな体格なら、好きにさせたりしないのに。
テーブルが軋む。上に置いてある果物籠が揺れて、林檎が転がり落ちた。
離れようとしても離してくれない。離れられない。
このままじゃ駄目なのに。入り組んで歪んで、絡まってしまった僕らの関係。間違ってると理解してるのに、深みに嵌ってしまって身動きが取れない。身体が溺れて心も道連れだ。
「距離を置こうとしてんだろ。てめえの望み通りにはさせねえ」
「距離を」置こうとしてるのは君じゃないか
「置こうとしただろうが!だが、てめえは来やがった。抵抗しもしねえで家に入ってきやがったくせに、文句言ってんじゃねえよ。てめえは迷ってんだろ。わかんだよ。てめえは俺のもんだ。何度言やあわかんだ」
「俺のものってなんなんだよ。だったら、僕は君にとって具体的になんなんだ」
出久は問うた。離れようとしても離してくれない根拠が、具体的にあるというのだろうか。
「ああ?」
「友達じゃないよね。子分なのか?家来なのか?ひょっとして奴隷とか思ってる?僕は君のじゃない。君は僕のことなんてなんとも思ってないだろ」
気のせいだっただろうか。
一瞬傷ついたような表情が、彼の顔に過ぎった気がした。
けれども、すぐに酷薄な笑いに打ち消される
「てめえなんざ、俺の、俺の玩具だ。ただの虫けらだ……」
まるで自分に言い聞かせるように彼は呟く。
「玩具…なんだ。ただ気持ちいいからなんだね。変わらないんだね、君は何も」
近づいたようでも、途方もなく離れている。空と海を分つように、どこまでも交わらない水平線に僕らは立っている。
「変わらねえのは、てめえだろうが!」勝己は怒鳴る。
「僕だって意思があるんだ。玩具になれって?僕は君の玩具じゃない」
「…ちげえわ、クソが」
ソファの上に引き倒され、仰向けにされて押さえつけられた。
「ちょっ、かっちゃん」
「クソデクのくせに、生意気だっつってんだ」
耳元に口を寄せて、せせら笑いながら勝己は囁く。
「何されるかわかってやがんのに、のこのついて来やがって。気持ちいいからセックスするだあ?それだけなのはてめえだろ」
「違うよ!」
「表情でわかんだよ。気持ちいいんだろうが。生意気な口聞いてるくせに、ざまあねえよな」
「したいわけじゃない……」
「はっ!嘘吐きやがれ。だったら死ぬ気で抵抗しろよ。やらねえくせに違うってのかよ」
噛み付くようにキスをされる。口内が乱暴に荒らされて苦しい。
痛みに混じる快感。
離れては触れる唇。
全身が快楽を貪ろうとする。
自分の感覚がままならない。
「デク、デク、てめえが思い通りになんのは。やってる時だけかよ。クソが。てめえは俺のなんなんだ」
勝己はデクの額に額をくっつける。温もりが伝わるけれど、近すぎて表情はわからない。
「一度だけで気が済むはずだったのに、なんで俺はてめえなんかに。なんでてめえは変わんねえままで、俺ばっかりが汚れていくんだ!虫ケラのくせに。んなこたあ、あっちゃいけねえんだ!」
勝己の叫び。助けを求める叫びだ。
分かりたくないのにわかってしまう。抵抗しようとする力が抜けてゆく。
僕は何を考えている。助けたいとでも思っているのか。この状況で。
無意識に背中にそっと腕を回していた。
自分から遠ざけたくせに、近づいてくる。近づいていくと遠ざけようとする。
矛盾している。けれども僕もそうだ。近づいたら傷つけられるのに遠ざけられない。
「てめえ、舐めてんのか。どこまでも気に食わねえ」
折られそうなほど強く腕を掴まれた。
「思い通りにならねえなら、だったらてめえを殺しゃあいいか。なあデク」
「何を、言ってるんだ?」
「手に入ってるのに手に入らない。キリがない果てがない。なら殺すしかねえ。そんな映画があったよなあ」
子供の頃に見たフランス映画のことだろうか。題名は覚えていないけれど。
「あれは恋人同士だったよね。僕らの関係とは違う」
「俺らの関係はなんだ?ああ?」
逆に問うてくる勝己の両手が首をさする。長い指が優しく撫でる。親指で喉仏を撫でて柔らかく押す。
ゴクリと喉を鳴らす。
「本気なわけないよね。ヒーローを目指す君がするわけない」
「どうだろうなあ、デク」
勝己は貼り付けたような笑みを浮かべた。
勝己がするわけない。当たり前だ。
でも、彼の紅の瞳の色が揺れる。水の中で揺らめく魚の尾鰭ように。怖い。怖くてたまらない。
勝己はふっと笑う。
「てめえは俺のもんだ。てめえが認めようがなかろうが関係ねえ」
熱い息が言葉とともに、首筋に吹きかけられる。

誰かに呼ばれたような気がして目を覚ました。
よく知っている声だった。胸が痛くなるような声だった。
幾度も繰り返された交わりに疲労した身体を、ソファに横たえる。
衣服はなんとか身につけたけれど、流石にすぐには歩けない。帰りたくてもまだ帰れない。
吹き抜けの高い窓から、青い空が見える。
窓枠で長方形に区画された空。まるで檻の中のようだ。
硝子の壁に閉じ込められて出られない。水槽の中の回遊する魚のようだ。
意識がとろとろと遠のきそうになる中、誰かの手が髪に触れているのを感じた。
ごつごつした指が髪に差し込まれ、さらさらと優しい手つきで梳く。
頭の側に勝己が座っている気配はする。けれど、彼のわけがない。
きっともう夢を見ているのだ。
意識が深く深く沈んでゆく。
さらさらと、さらさらと優しい手が髪を梳く。


Chapter ・D


「見終わったし、二階に上がるか」
伸びをしてかっちゃんが言った。
「え、ここで終わりなの」
「ああ?見りゃわかんだろーが」
「でも、あの人どうなったの?わかんないよ」
「んなこた、どうでもいいんだ。サスペンスじゃねえっつってんだろ」
「そうだけど。面白かった?」
「面白くねえよ。でも何言いたいのかはわかる」
「えー、じゃあ、教えて。かっちゃん。最後しか見てないけれど。恋人なのになんであんなことしたの」
悪い人間ではないのに、普通の人なのに、愛する人を手にかけるなんて理解できない。
かっちゃんはこちらに顔を向けた。じっと見つめてくる。
「当たり前だろ。こいつのもんだったんだから」
静かな声でかっちゃんは答えた。
「え、だったら、なんで、殺したりするの」
「こいつのもんだってことを忘れたりするからだ」
「好きだったのに?その気持ちはどこに行ってしまったの」
「そのままあんだよ。消えてねえからこそあいつはやったんだ」
「そんなの、怖いね」
底知れない何か、そんなものに囚われることがあるのだろうか。
「この人の気持ちがわかるの?」
「ああ、まあな」
「かっちゃんもそうなるかも知れないの?」
座面についた手にかっちゃんの手が重ねられた。
「馬鹿かてめえは。わかるってだけだ。そんなことにはならねえ。なるわけねえだーが」
指を組む様にしてぎゅっと手を掴まれる。
「絶対にな」
そう言って、かっちゃんは青いソーダ水を飲み干した。

映画のエンディングで流れたのは爽やかな弦楽器の旋律。
劇中でヒロインがピアノで辿々しく引いたメロディと同じ曲。
映画の意味はわからなかったのに曲は覚えている。明るくはなく、物悲しくもない。
草原を吹き渡る口笛のような、耳に残って離れない音楽。
夏の午後にかっちゃんと一緒に聞いた。
こんな綺麗な曲を僕は他に聞いたことがない。

それは泡沫だったのかも知れない
泡の影に垣間見えた底知れない未来 
弾けては消え舌を刺す泡の粒のように
青く揺蕩うソーダ
空を切り抜く窓硝子
水底のような瑠璃色の空
冷えたグラスと掌の温もり


Chapter・5


ぶうんと何かが振動している
つぷつぷと泡が弾ける音がする
えらから酸素を取り込む
鰭を動かして水をかく
口を開け水とともに何かの粒を吸い込む
プランクトンではないが食べられるものらしい
濫立する鮮やかな緑の水草の向こうに一匹の魚が見え隠れする
赤い立派な尾鰭を持った雄だ
彼は悠然と泳いで水草に隠れてしまう
このところ彼ばかりをよく見かける
危険な大きな魚もザリガニも見かけない
こつんと口が何かに当たった
透明な何かが前にある
氷だろうか
このあたりの川にはやけに氷が多い。
しかも天を覆うのではなく川の中に垂直に張っている
尾鰭を振って進路を変えて海藻の中に入る
彼がいた
彼はぱくぱくと口を開けて身体をつついてくる
争うためではない
遊んでいるのだ
腹を、鰭を、鰓を身体中をつついてくる
こっちも軽くつつきかえす
口をくっつけてくる
離れては再びくっつける
水草が揺らめいている
つぷつぷと泡が弾けて天に昇ってゆく

 

END